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教師夏目金之助の研究(十二)

神経衰弱という病歴の意味

森 下 恭 光

緒言

 夏目金之助が教職に就いていた期間は,明治二十六年(1893年)の東京高等師範学校に 始まり,明治四十年(1907年)の第一高等学校,東京帝国大学辞職に至るまで約15年間に 及ぶ。決して長い在職期間とは言えないが,彼の約50年の人生において占める割合は約3 割に相当する。その約3割に相当する年月の間に,明治二十七年(1894年)から明治二十 八年(1895年)に及ぶ約1年間,明治三十四年(1901年)から明治三十七年(1904年)に 及ぶ約3年間はいわゆる神経衰弱により精神的苦悩を経験している。

 本論ではその神経衰弱が,彼の教職生活にどのように影を落としているかを諸資料によ って明らかにして行くことにより,それが彼の教師としての姿勢の特質にいかなる影響を 与えているかについて明らかにすることを試みる。

 神経衰弱という呼称は,夏目自身もしばしば用いているが,医学上の専門用語というよ りは俗称として用いていることが多い。そこで,まず,神経衰弱という用語を医学の専門 家の所説によって確認しておくことにする。

 「漱石の病跡』の著者千谷七郎によれば,「神経衰弱という呼称それ自体には医学的に 明瞭な定義はあるにはあるが,通俗的に用いられている意味はそれとは異なって,今日の

ノイロ ゼ

神経症のようなもので,その定義はかなり暖昧」( )であるとする。精神神経科の医師で ある千谷によれば,夏目の病名は,内因性欝病と診断されてよいものであるという。(2)

そのように診断されることを提示しながら,千谷は,「内因性欝病と診断することは,狂 気と診断することでもないし,また漱石の人格の価値を少しも傷つけることにはならない」

{3)と言い添えている。

 ところで,夏目にいわゆる神経衰弱の兆候が初めて表われたのは何時頃であると見られ るか。桶谷秀昭は,その著書『夏目漱石論』において,夏目が明治二十三年八月九日に正 岡子規に宛てた書簡に見られる夏目の厭世観にその発端を認めている。ω長文の書簡の 中で,「此頃は何となく浮世がいやになりどう考えても考え直してもいやで立ち切れず去 りとて自殺する程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分あるせいならんか『ファウス ト』が自ら毒薬を調合しながら口の辺まで持ち行きて遂に飲み得なんだという『ゲーテ』

の作を思い出して自ら苦笑い被致候」(5)と述懐し,さらにつづけて「定業五十年の旅路 をまだ半分も通りこさず既に息鵡き候段貴君の手前はつかしく吾ながら情なき奴と思えど これもmisanthropic病なれば是非もなし」(6)と記す。

(2)

 この書簡については唐木順三も厭世観を初期に表出したものとして注目している。{7)

 この年,夏目は第一高等中学校を卒業し,九月に東京帝国大学英文科に入学する。厭世 観を抱き始めている夏目が,当初の志望であった建築科を英文科に変更することになった のは夏目の友人米山保三郎の教唆によるところが大きかった。この間の事情を伝えるのは,

夏目による『落第』である。「名士の中学時代」として「中学文芸』に掲載された回想の 中で,夏目は「君は建築をやると云うが,今の日本の有様では君の思って居る様な美術的 の建築をして後代に遺すなどと云うことは迎も不可能な話だ,それよりも文学をやれ,文 学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き大作も出来るじゃないか。と米山はこ う云うのである。」と回想している。(8}米山の教唆に方向を与えられ,大学に進学し,英 文学を専攻することになった夏目ではあるが,厭世観は克服され,解消された訳ではない。

それを伝えるのは明治24年,つまり翌年の十一月十一日に正岡子規に宛てた書簡にある次 の文面である。

 「僕前年も厭世主義今年もまだ厭世主義なり嘗て思う様世に立つには世を容る・の量あ るか世に容れられるの才なかるべからず御存の如く僕は世を容る・の量なく世に容れら る・の才にも乏しけれどどうかこうか食う位の才はあるなり」。{9)

 こ・に見られるように厭世観は依然として解消されない段階ではあるが,専攻する英文 学については一応の自負心を示していることが認められる。その意味において,英文学専 攻という選択について後悔は抱いていないと言えよう。とはいえ,英文学を専攻して学問 の対象を英文学に限定することになっても,学習内容は多岐にわたり,その間の事情を夏 目はその著書『文学論』の序において次のように述懐している。「在学三年の間は物にな らざる羅旬語に苦しめられ,物にならざる狗逸語に窮し,同じく物にならざる佛語さえ,

うろ覚えに覚えて,肝心の専門の書は殆んど読む逞もなきうちに,既に文学士と成り上り たる時は,此光栄ある肩書を頂戴しながら,心中は甚だ寂真の感を催うしたり。」°°)

 以上によって見られる彼の厭世観はやがて神経衰弱へと進行して行くことになる。

 3年間の大学生活を終え,夏目は東京高等師範学校の英語教授嘱託となる。明治26年

(1893年)十月二十七日に,狩野亨吉へ宛てて書簡を送り,「生義兼て御出京中は種々御配 慮を煩わし候庭其後高等師範学校英語教授の嘱託を受け去る十九日より出講仕居候えば乍

{箪御安意可被下候」q1)と就職の報告をしている。当時,東京高等師範学校の校長は嘉納 治五郎であり,夏目は,就職時における嘉納治五郎とのやりとりを『私の個人主義』の中        きょういくしゃ

で紹介した上で,当時の心境を述懐している。「教育者として偉くなり得るような資格は 私に最初から欠けていたのですから,私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方

       わうちゃく       よ

はあまり正直過ぎて困ると云った位ですから,或はもっと横着を極めていても宜かったの       ふむきかも知れません。然し何うあっても私には不向な所だとしか思われませんでした。」( 2)と

いうのがそれである。嘉納が夏目に対して示した注文とは,教師としてある以上,生徒に とって模範になる存在であって欲しいとの主旨のいわば挨拶程度の意味を持たせたもので あった。それに対し夏目は,自分が人の模範になれるような存在でないことを認識してい る以上,その注文には応じ兼ねるとの返事をしたことが,夏目によって「私の個人主義」

の中で明かされている。

 そのような経緯はあるにせよ,とも角東京高等師範学校の教師となった夏目にとって,

(3)

英語を教授することについては特別な負荷を感じることはなかった。したがって,教場で 生徒に接する場面では語学教師として自己を意識する限りにおいては煩悶する素因は無い はずであった。それにもかかわらず,彼自身は,苦悩の日々を重ねて行く。夏目を義父と した松岡譲の著書『漱石・人とその文学』によれば,その最大の理由は,彼が三年間学ん だ英文学の意義をとらえ切れず,「英文学に欺かれたような不安にかられるのである。正 直一徹な漱石が,いかにこの深い泥沼に足をとらえて悩みぬいたか,想像に余りあるもの があろう。」(13)という程にそれは深刻なものであった。しかも,嘉納の前で自分は教育者 であるための資質に欠ける存在であると明言している夏目であって見れば教育を楽しむ心 境には遠く,苦痛が増幅して行く日々であったことは容易に想像される。

 先に夏目の神経衰弱を精神神経科医師である千谷七郎は内因性欝病であると診断してい ることを紹介したが,その千谷は,その内因性欝病の発病の第一回を夏目が東京高等師範 学校で懊悩したこの時期に当てている。千谷によれば,「それは明治二十七年の夏頃から やや昂じて翌二十八年の初夏の頃までの約一ヵ年つづいたと思われる。」(14)という。その ように推測する資料として千谷は,夏目が明治二十七年(1894年)九月四日付で正岡子規 に宛てた書簡をあげている。そこには「元来小生の漂泊は此三四年来沸騰せる脳漿を冷却 して尺寸の勉強心を振興せん爲のみに御座候」(「s)の文面が見られる。

 夏目はその苦悩から脱却する方法として参禅を決意する。その際,夏目を鎌倉の円覚寺 に住する禅僧釈宗活を紹介したのは友人の菅虎雄である。菅によれば,「卒業後1,2年 の夏,鎌倉へ参禅したのは,私が釈宗活氏に紹介したのである。」〔16)と回想していること により明らかである。また,石川悌二は,「漱石は煩悩の炎に苦悩したあげく,明治二十 七年の十二月下旬から翌年一月七日まで,菅虎雄の紹介で鎌倉円覚寺の塔中帰源院に入り,

釈宗演のもとで打坐して,『父母未生以前の面目』という公案を与えられた」(17)とこの間 の経過を明らかにしている。

 しかし,結果としては,この参禅は不成功に終わっている。明治二十八年(1895年)一 月十日付で齋藤阿具に宛てた書簡に,「小子去冬より鎌倉の籾伽窟に参禅の為め帰源院と 申す処に止宿致し旬日の間折脚錨裏の粥にて飯袋を養ひ漸く一昨日下山の上帰京仕候五百 生の野狐禅遂に本来の面目を揆出し来らず御欄笑可被下候」〔ls}とあることによって,そ の成果が不調に終わったことを告げている。

 ここにあげた事実を見るだけでも夏目がその苦悩から自分自身を解放しようとした強い 意志を推測することができる。しかし,同時に短時日で,それも参禅という方法でそれを 敢行したことについては,焦燥感,切迫感を感じさせるだけで,有効な方法であったと考

えることはできない。

 千谷は,「私は,日頃よく患者或はその身内の人から,参禅でもさせたらという相談を 受けることがある。そんな時大抵,病気がよくなったら,どうぞ御考え下さい。」U9)とい うことにしているという。医師の立場から見てもこの試みは成功の見込みが立ちにくいも のであったわけである。

 このような精神状態にありながら,夏目は東京高等師範学校での教師生活をどのように 過ごしていたのであろうか。その状況を客観的に知り得る資料は乏しいが,少なくとも勤 務する者として不都合な事態を引き起こしたことは報じられていない。また,生徒の反応

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についても知り得る資料が乏しい。結局,東京高等師範学校における夏目の教師としての 実像は不明確なま・であるといわざるを得ない。

 やがて,夏目はわずか1年在職しただけで,東京高等師範学校を辞し,愛媛県尋常中学 校教諭として松山に赴任する。夏目の突然の辞職と松山行きについては解明されていない

ことが多い。しかし,夏目に最も近い門下生の一人であった小宮豊隆によれば,「夏目自 身の口から,自分は何もかも捨てる気で松山に行ったのだと,言って聞かされている。」

(2°) という。

 小宮は,松山行きの原因を失恋に求める説も,漱石自身が否定していることも紹介して いる。松山行きの理由,原因が何であるかは結局,不明なま・であるということである。

 小宮の言う,本人からそう言っているというのも本人が常に正確に言うとは限らないと いう前提に立てば確証とは言えないからである。

 明治二十八年(1895年)四月,夏目は愛媛県尋常中学校教諭として松山に赴任する。そ の仲介をしたのは菅虎雄で,当時愛媛県の書記官をしていた淺田知定から人選を頼まれて いたことによる。(21)月給は80円という破格(校長の月給より多い)の待遇であった。こ の年の四月九日付の狩野亨吉宛のハガキに,「迂生去る七日発今九日午後二時頃当市へ着 仕候」(22)と報告し,同じ狩野宛に五月十日付の書簡には,「当地着以来教員及び生徒間と       ママの折合もよろしく只煩鎖なるに少々閉口致候のみ」{23)と書き送っていることにより平穏

な生活が続いていることを推測させる。

 小宮豊隆によれば,夏目の松山での教師生活は「漱石は一般からも尊敬されていたし,

生徒を可愛がってもいたと想像しても,よさそうに思われる。」(24>と記しているが,それ は五月二十八日付で正岡子規に宛てた書簡に,「教員生徒間の折悪もよろしく好都合に御 座候東都の一瓢生を捉えて大先生の如く取扱ふ事返すべ恐縮の至に御座候」(25)と記して いることによっても首肯してよいことである。その印象は,その後も大きく変わることは なく,七月二十六日付で齋藤阿具へ宛てた書簡にも「当中学校は存外美少年の寡なき処其 代り美人があるかと思うと矢張り挑底に御座候何しろ学校も平穏にて生徒も大人しく授業

も受け居候小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候」〔26、と記している。

 夏目の書簡を見る限り,東京在住時に彼を苦しめていた精神的苦悩は松山に来て影を見 せていない。千谷も,「大体この頃には第一回の病気は過ぎたと思われる。」(27)との見立 てを示している。

 この間において夏目に生徒として接した立場から見た時,夏目はどのように印象されて いたのであろうか。

 夏目に英語を教わったという眞鍋嘉一郎は,夏目の英語教育法が独特でしかも極めて卓 越したものであったことを称讃した上で,夏目は「他の教師とはちがい,教授には充分余 力を余している事がわかったため,生徒は全く先生に敬服して了い私なぞは大惚れに惚れ て了った。而して生徒間にも,あんない・先生が松山なぞへ来たのは,道後の温泉がある 故保養芳々教鞭をとるに過ぎまいなぞと云われていた。」〔28}と回想している。

 同じ中学で夏目の授業を受けた松根東洋城(本名,豊次郎)は次のように回想する。

 「一体に此方が忠実で真而目であれば,どこまでも真面目な態度で接せられた。而して その真面目な厳粛なもの・底には,必ず温i青の満ち溢れているのが感ぜられた。決して高

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圧的ではない。飽くまで感化的であった。」(29)というのである。

 松山における教師生活が平穏に経過したのは,東京脱出時に夏目を悩ませていた神経衰 弱がおさまって来たということに最大の理由があると考えられる。それに加えて,年来の 親友である正岡子規が生れ故郷の地である松山に帰って来て彼の下宿に同居するようにな ったことも夏目の精神状態に良好な作用を及ぼしたであろうことが推測される。

 八月二十七日に帰郷した正岡子規は直ちに夏目の下宿先に入り同居を始め,俳句の運座 を始めた。かねてより子規の刺戟により俳句に親しんで来た夏目もこれに加わり,句作に 精進することになったのであるが,この時期の夏目にとってそれは歓迎すべき日常であっ

たと考えられる。(3°

 しかし,正岡は十月十九日に松山を出発し上京してしまう。その後に夏目は正岡に書簡 に送っている。十一月七日付に下谷区上根岸町に住む正岡に送った書簡がそれである。書 中に次のような文面が見られる。「此頃愛媛県には少々愛想が尽き申候故どこかへ巣を替 えんと存候今迄は随分義理と思い辛抱致し候えども只今では口さえあれば直ぐ動く積りに 御座候貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」(3Dという内容から推測 されるのは,夏目はこの時既に松山という土地に興味を失ない,他へ移動したいとの欲求 が生じているということである。しかし,それは松山という土地に対する嫌悪感や人間関 係から来る不快感が露出したものではない。明らかに東京脱出の際の状況と違うことは確 認しておいてよいことである。

 この年の十二月,夏目は上京し,十二月二十八日,貴族院書記官長中根重一の娘(長女)

鏡子(19歳)と見合いをする。(結婚式を挙げたのは翌年六月九日である。)

 夏目の松山を動きたいとの意志は次第に明確になり,結局,菅虎雄の肝入りで熊本に所 在する第五高等学校へと転ずることとなる。

 愛媛県尋常中学校に別れを告げたのは四月九日であった。

 第五高等学校講師に就任した夏目は菅虎雄の家に同居後,熊本市内光琳寺町に一戸を構 える。六月九日,自宅で結婚式をあげる。翌月の七月九日,教授に任ぜられる。辞令は枢 密院議長黒田清隆名で出されている。明治三十年(1897年)六月,実父直克没。七月妻を 連れて上京し,約2ヶ月滞在し,病床の子規を見舞い,円覚寺を訪ねた。明治三十一年

(1898年)七日,妻鏡子のヒステリーが昂じ,井川渕に投身自殺を企てる事件が起こり悩 まされる。(32)書簡集を調べても夏目はこの件には一切触れていない。しかし,例年に比 べ発信数が10通ときわめて少ないのは,この件と無関係であるとは考えにくい。前年は長 文の書簡も含めて18通発信している。しかし,このばあいの苦悩は,彼自身の問題という より配偶者という家族にかかわる問題から発するもので,夏目自身が神経衰弱に陥ってい たと考えるのは適当でない。

 妻のヒステリーは十一月にかけてつづくので,この年の後半は,苦悩に満ちたものとな った。私信であるにしても,妻のヒステリーについて書くことを控えていた夏目も,後年

『道草』において,妻のヒステリーに苦悩する主人公健三を描いていることによっても,

      ヒ ス テ リ      おか

その深刻さを推測することができる。夏目はそれを「自分の細君が敏私的里の発作に冒さ

(6)

れた時の苦しい心持」(33)と表現している。

 明治三十二年(1899年)五月三十一日,長女筆子誕生。夏目はこれを殊の外喜び,「頻 に抱いたりかかえたりして暮した」(31)のだそうである。

 六月,英語主任となる。明治三十三年(1900年)四月,北千反畑に転居。前記内坪井町 の住居には約1年8ヶ月居住したことになり,転居の多い夏目にとっては快適な住居であ ったことが推測される。四月二十四日,教頭心得となる。そして翌月の五月十二日,英語 研究のため満2年間英国留学を命ぜられる。

 以上に見て来た夏目の熊本における教師生活は,一見平凡に推移しているように見える。

また,内面生活においても,妻のヒステリーから派生する問題を除けば,彼本来の抱懐す る課題との格闘とでもいうべきものは顕著には存在しなかったと見ることができる。

 ただ,小宮によれば,「特に漱石の熊本時代は,自分の生活建築の基礎を,積み上げて は崩し,積み上げては崩しする,悲壮な苦闘の連続であったように見える。」(35)とも見ら

れる。

 この間に夏目に学生として接した者達にはどのような教師として印象されたのであろう か。次にあげる2者の回想によりそれを確認する。まず,高等学校3年時に1年間,英語 の指導を受けた速水滉は「一体に先生の其時の感じとしては,六ヶ敷い厳格な態度で,快 活な処が少なかったように思う。生徒が下読みを怠ったりすると可なり手厳しくやりこめ られたと覚えている。中略。併し厳格とは云っても温味のある一風変った感じがあった。」

(36) と回想している。

 次にあげるのは内丸最一郎である。彼によれば,「熊本で先生に教わっていた時代の私 は,何しろ二部で英語が不得意な方であったため,英語のうまい寺田寅彦君なぞと違い,

厳格な先生の講義ぶりを只管怖がっていた。中略。ところがそれにも係らず,其頃私が家 の事情で,学費が途絶えたことを他の教授から聞かれた時,先生は或る方を通じて,自分 に大学卒業迄学費を出してやろうと云われた事がある。中略。先生の受持の英語がそう出 来もしない,赤の他人の私に,眞実金を出して下さろうというのは,余程親切な心がなけ れば出来ない事である。」(37)と感激させる程の処遇をされたというのである。

 以上に紹介した2者の回想は,いわば象徴的事例といってよいもので,これ等の他に,

小宮は夏日の第五高等学校における学生への対応で誠実な教師であったことを示す事例を

数例あげている。CSS)

 さて,イギリスに留学した夏目は,明治三十三年十月二十八日にロンドンに到着するが,

十一月にはUniversity CollegeでP rof.Kerの講義を聴講し始め,十二月まで継続しつs,

シェークスピア研究家Dr.Craigの個人教授を受け,翌明治三十四年(1901年)十月頃まで 通っている。

 留学期間における神経衰弱の徴候は,明治三十四年七月一日付の日記に見られると千谷 は指摘する。日記には次のような記述がある。「近頃非常二不愉快ナリクダラヌ事ガ気ニ カ・ル神経病カト怪マル」(39)ここで夏目は自己を分析して自身の神経病を予想している。

日記を見る限りでは,この内容に類するものは他になく,日記自体,留学中は同年十一月 十三日付けを最後に記述がない。これより前,明治三十四年一月二十七日に夏目の二女恒 子が誕生している。

(7)

 ロンドンで孤独な留学生活を強いられている夏目をより苦しめたのは留守家族とくに妻 からの音信の少ないことであった。同年二月二十日付の妻鏡子に宛てた手紙は如実にそれ を示している。「国を出てから半年許りになる少々厭気になって帰り度なった御前の手紙 は二本来た許りだ。中略。御前は子供を産んだろう子供も御前も丈夫かな少々そこが心配 だから手紙のくるのを待って居るが何とも云ってこない。中略。段々日が立つと国の事を 色々思うおれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい是丈は奇特と云って褒めて貰わ なければならぬ」(4°}このように切実な気持を込めた書簡を送っても妻からの手紙は来な い。三月九日付の書簡には「其後国から便があるかと思っても一向ない。中略。御前は産 をしたのか子供は男か女か両方共丈夫なのかどうもさっぱり分らん遠国に居ると中々心配 なものだ自分で書けなければ中根の御父さんか誰かに書て貰ふが好い」(41)とまで書いて,

音信を待つ心情を率直に吐露している。

 しかし,この時点では,夏目の精神は未だ健全さを保っている。それが,先にあげた日 記の書かれた時点になると,そこには精神の均衡が失われ始めていることがうかがわれる。

 この後夏目が妻鏡子から手紙を受け取ったことが確認されるのは五月八日付で鏡子へ宛 てた書簡で,そこには妻からの便りを大変喜ぶ内容を認めることができるもの・・,その次 に夏目が妻に書簡を送ったのは,先に引用した日記を記した七月一日から1ヶ月を経過し た八月十日付のはがきによるものである。ここでは「其許よりは一向書信無之或は公使館 辺に滞停致し居るやと存候」。( 2}相変らず音信のないことに不満を抱く心情が表出されて いる。そして,九月二十六日付の妻宛ての書簡には「八月末御差出の書状拝見致候小供も 其許も少々御病気のよしの処もはや御全快のよし結構に候小生も不相変に候」(43)とある ことにより,音信の遅れが病気によるものと分かり一応の理解をした様子がうかがわれる。

しかし,妻鏡子の筆不精は急に解決する問題ではなく,持続的に夏目の神経を刺激しつづ けるものであったことが想像される。

 この時期,留学の目的である英語研究はどのように実行されていたのであろうか。『文 学論』の序文に当時を語る次の箇所がある。「余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を 行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以 て血を洗うが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あって,

此世に生れ,発達し,頽廃するかを極めんと誓えり。余は社会的に文学は如何なる必要あ って,存在し,隆興し,衰滅するかを究めんと誓えり。中略。此一念を起してより六七ヶ 月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。而も報告 書の不充分なる為め文部省より謎責を受けたるの時期なり」。(44)ここには夏目が英語研究

をどのような形で進めていたか,そしてその作業が如何に多大な精力注入を必要とするも のであったかが集約する形で語られている。そのような夏目にとって留学生活は複雑な要 素を含みながら,「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。」( 5)と回想せざ るを得ないものであった。夏目が『文学論』執筆の準備作業に当てた時期とは,具体的に は明治三十五年(1902年)で,二月頃から始まったこの作業は,集中的に進められ,九月 には極度の緊張と疲労の持続から強度の神経衰弱に悩む。千谷によれば欝病が募るという ことになる。夏目が序に言う「文部省よりの遣責」とは,白紙の報告書を提出したとも伝 えられることにより,発狂の噂が立ったことを指す。〔46)

(8)

 精神的苦悩を解消できないま・夏目が帰国したのは,明治三十六年(1903年)一月二十 三日であった。帰国後の夏目は第五高等学校に復帰せず,四月より第一高等学校,東京帝 国大学両校の講師となる。

 新しい職場の印象を夏目は,五月二十一日付の菅虎雄に宛てた書簡で次のように伝えて いる。「小生は存外閑暇にて学校へ出て駄弁を弄し居候大学の講義わからぬ由にて大分不 評判。中略。第一高は遙かにのんきに候熊本より責任なく愉快に候大学の方は此学期に試 験をして見て其模様次第にて考案を立て考案次第にては小生は辞任を申出る覚悟に候もし 左様なれば小生の目的通の研究をなす積に候。」〔47)

 ここに記されている内容からは,夏目が神経衰弱を病み,それが強度のものであるとい うことはうかがえない。一見,平穏無事な日常を報告しているように見える。強いてあげ るならば,大学での不評判について,場合によっては辞任を申し出る覚悟があると告げて いる点が過剰な反応の表われと見ることはできよう。しかし,約1ヵ月後の六月十四日付 の書簡で夏目は菅に「高等学校ハスキダ大学ハヤメル積ダ。中略。僕ハ高等学校へ行ッテ 駄弁ヲ弄シテ月給ヲモラッテ居ル夫デモ中々良教師ダト独リテ思ッテル大学ノ講義モ大得 意ダガワカラナイソウダ,アンナ講義ヲツ ケルノハ生徒二気ノ毒ダ,トイッテ生徒二得 ノ行ク様ナ1ハ教エルノガイヤダ」(4S)と書き送っているが,ここに見られるのは前回の ものに比べ,自己主張が前面に出て,攻撃的でさえある。さらに,七月三日付の菅宛の書 簡には,「僕大学ヲヤメル積デ学長ノ所へ行ッテー応卑見ヲ開陳シタガ学長大気炎ヲ以テ 僕ヲ萎縮セシメタソコデ僕唯々諾々トシテ退クマコトニ器量ノワルイ話シヂャナイカ」(49)

と書き送り,大学を辞職することを実際に学長に申し出たことを明らかにしている。この ことは,彼が自己の主張を内面的課題として内攻させる段階ではなく,外へ向けてそれを 発動させる段階にあったことをうかがわせるものである。

 書簡では顕現しない夏目の内面は,帰朝直後から異常性を示していたことが妻の鏡子に よって語られている。それは身内のみが知り得ることである分,第三者にとっては意外な ものである。『漱石の思ひ出』の中で回想している次の出来事は当時における夏目の行動 に見られる異常性を伝えるものである。要約すると次のようなことである。

 ある時,居間の火鉢の縁に五厘銭が置かれているのを見た夏目は火鉢の向側に坐ってい た長女の筆子をいきなり叩いた。泣くわが子を見た鏡子はその理由を聞くと,夏目はロン ドン留学中に自分が受けたいやがらせと同様のことをしたので,自分に対するいやがらせ をわが子がしたと考え制裁したという,全く不可解な異常な出来事があったということで ある。この出来事は夏目が帰朝して暫くの問居住した矢来中の丸にある妻の実家で起きた

ことであると鏡子は回想する。(5°)

 鏡子によれば,七月になって状況がますます深刻になって来たこと・,自身が妊娠中で 悪阻に苦しんでいる時期にも重なっていたので,諸事情を考慮の末,一時別居することに し,千駄木の住居より,父母の住居のある矢来町へ移る。この別居は約2ヵ月で終わり,

九月には再び千駄木で家族揃って生活することになる。そして,十月末には三女の栄子が 誕生する。

(9)

 この時期の夏目から講義を受けた者達の印象はどうであったか。夏目の講義を東京帝国 大学で学生として受けた松浦一は,当時の夏目を次のように回想している。

 「夏目先生が洋行から帰って,初めて大学に出られたのは,自分が未だ一年の時の第三 学期(明治三十六年)からであった。中略。小泉先生(八雲・筆者註)の後を受けて,ロ イド先生及び高師の教授の上田敏先生と共に,夏目先生が任命されると聞いた時,吾々の 仲間では夏目先生という人は大学在学中からでも英国の小説を沢山読まれた人だ,又漢詩 の古詩なども作られる,それから子規の友人で俳句を作られるなど・いう噂をしたり聞い たりする位のもので先生の真価に就いては殆んど聞知する者が無かったろうと思われた。

中略。其時分の先生の顔付きは晩年よりはずっと痩せて居られたが,都会趣味と俳人趣味 と一つに混り,一癖ある鋭い様子は後年と大した異りがなかった。」(51)とその風貌に接し た印象を述べている。講義内容については,その特色ある内容に驚異し,敬服したとも述 べている。そして,夏目のシェイクスピアに関する講義は大好評で大教室が満席になった とも伝えている。また,学生に対する態度は「毫も隔てを置かず,親切で気軽であった。」(52)

というのであるが,その大学での夏目の様子も「年月の経つに連れて,先生の態度がだん だん鋭くなって行ったようであった。」〔53、と,その変化を指摘している。

 第一高等学校の一年時から夏目に学生として接した野上臼川(本名,豊一郎)の回想は 松浦のそれとは異なり,個人的接触があった分,より具体的である。高等学校一年に接し た頃の夏目を野上は「其頃の先生の様子は一体に高襟で,高いダブルカラーに,磨き立て のキッドの,尖の細い踵高な奴を用いて,歩きぶりから一種のリズムを持って居られた。」

(51) 外観からすると気障とも取られかねない夏目であったが学生の嘲笑に会うことはなく,

野上はそれを「先生は所謂こはもてである。」(55〕と評している。明治三十八年に大学に進 学し夏目の講義を受けることになった野上は,当時の夏目を「其頃の先生は生理的に険悪 を極めた時代で,大神経衰弱の絶頂であった。而して教室に於ける態度も,如何にも苦る しそうであった。青い顔で,物を云う前にはき出すような「エーッ』と云う長大息をされ,

食指を嘗めては机の上に字様なものを書く癖があった。」㈱と回想しているが,このよう な教室での夏目の様子は個人的接触のない他の学生にもその異常は伝わったはずである。

 以上見たことによれば,夏目は帰朝後の:神経衰弱の症状が最も激しい時期にも教師とし ての職責は十分に果していたということが言える。それは夏目の公的生活部分における姿 を象徴していたとも言える。それに対して,私的生活部分としての家庭内における姿は時 には悲惨な様相を呈していたことが,妻鏡子によって語られる内容で明らかである。つま

り,公私の場面による二面性を見せているのである。

結 言

 今回の論考で明らかにし得たことは,夏目を教師時代に限定しても4年余りにわたって 苦しめたいわゆる神経衰弱といわれる病気の症状がいかなるものであったかということで ある。それはまず,夏目自身に自覚症状としていかなる形でとらえられていたかというこ とである程度明らかにすることができた。

 次に,神経衰弱に苦しむ夏目は他者の目にいかにとらえられていたかということでは,

彼の勤務した学校の中で,愛媛尋常中学校,熊本第五高等学校,第一高等学校,東京帝国

(10)

大学の生徒,学生の夏目に対する印象を基に浮彫にすることを試みた。そして,夏目にと って最も身近な家族,とくに妻鏡子との関係で外部者には見えない夏目の症状を探ること

を試みた。

 結論的に言い得るのは,神経衰弱に苦しむ時期にあっても,教師としての夏目は十分に その職責を果たしていたということである。しかし,教場における夏目の印象とは異なり,

家庭内における夏日の精神面,行動面での異常性は,夏目の人間性の複雑さを物語るもの である。そして,それが同一人物の中で起きていた現象であったことを考えると,内面に おける葛藤とそれに費やされた精神的エネルギーは想像以上のものがあったはずで,それ が彼の教師としての姿に特色を与えていたと考えられる。

(注)

1.千谷七郎,漱石の病跡一病気と作品から一,勤草書房,1967年,P.25.

2.同上書,P.24.

3.同上書,P.25.

4.樋谷秀昭,夏目漱石論,河出書房新社,昭和五十三年,P.7.

5.夏目漱石,書簡,漱石全集第二十七巻所収,岩波書店,1980年,P.18.

6.同上書,P.18.

7.唐木順三,夏目漱石,修道社,昭和三十一年,P.13.

8.夏目漱石,落第,漱石全集第三十四巻所収,岩波書店,1980年,P.74.

9.夏目漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.39.

10.夏目漱石,文学論,漱石全集第十八巻所収,岩波書店,1979年,PP.8〜9.

11.夏目漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.48.

12.夏目漱石,私の個人主義,漱石全集第二十一巻所収,岩波書店,1979年,P.136.

13.松岡譲,漱石・人とその文学,潮文閣,昭和17年,P.91.

14.千谷七郎,前掲書,P.25.

15.夏目漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.54.

16.菅虎雄,学生時代其三,文豪夏目漱石,春陽堂,大正十年,P23.

17.石川悌二,夏目漱石一その実像と虚像一,明治書院,昭和53年,P.93.

18.夏目漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.57.

19.千谷七郎,前掲書,P.32.

20.小宮豊隆,夏目漱石,岩波書店,昭和24年,P.269.

21.荒正人,夏目漱石,五月書房,昭和32年,P.26.

22.夏目漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.58.

23.同前書,P.58.

24.小宮豊隆,前掲書,P.287.

25.夏日漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.59.

26.同上書,P.62.

27.千谷七郎,前掲書,R32.

28.眞鍋嘉一郎,松山時代其一,文豪夏目漱石所収,春陽堂,大正十年,P.29.

(11)

29.松根東洋城,松山時代其二,前掲文豪夏目漱石所収,PP.33〜34.

30.荒正人,前掲書,P.27.

31.夏目漱石,書簡,前掲漱石全集第二十七巻所収,PP.64〜65.

32.小宮豊隆,前掲書,P.336.

33.夏目漱石,道草,漱石全集第十三巻所収,岩波書店,1979年,PP.59〜60. PP.173〜

 175にも描写あり.

34.小宮豊隆,前掲書,P.334.

35.同前書,PP.345〜6.

36.速水滉,熊本時代其一,前掲文豪夏日漱石所収,PP.36〜7.

37.内丸最一郎,熊本時代其二,同前書所収,PP.38〜9.

38.小宮豊隆,前掲書,P.308.

39.夏目漱石,日記,漱石全集第二十四巻所収,岩波書店,1979年,P.55.

40.夏目漱石,書簡,前掲漱石全集第二十七巻所収,P.147.

41.同前書,P.149.

42.同前書,P.154.

43.同前書,P.158.

44.夏目漱石,文学論,前掲全集第十八巻所収,P.10.

45.同前書,P.13.

46.荒正人,前掲書,P.38.

47.夏目漱石,書簡,前掲全集第二十七巻所収,P.185.

48.同前書,P.186.

49.同前書,P.189.

50.夏目鏡子述,松岡譲筆録,漱石の思い出,文芸春秋社,1994年,PP.119〜121.

51.松浦一,大学教授時代其二,前掲文豪夏目漱石所収,P.51.

52.同前書,P.61.

53.同前書,P.63.

54.野上臼川,大学教授時代其三,同前文豪夏目漱石所収,P.68.

55.同前書,P.69.

56.同前書,PP.71〜72.

追記 引用文中の旧漢字,旧仮名は新漢字,新仮名に改めたことをことわっておきたい。

参照

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