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文禄・慶長の役と佐賀県立名護屋城博物館

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

文禄・慶長の役と佐賀県立名護屋城博物館

著者 西谷 正

雑誌名 高円史学

巻 9

ページ 54‑58

発行年 1993‑10‑01

その他のタイトル The Battle of Bunroku・Keicho (文禄・慶長) and Saga Prefectural Nagoya Castle Museum

URL http://hdl.handle.net/10105/8700

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文禄・慶長の役と佐賀県立名護屋城博物館

西     谷

いまから四百年余り前の近世初期︑文禄冗年︵一五九二︶

に始まった文禄・慶長の役は七年間の戦争の末に終結した

︵〜一五九八︶︒朝鮮半島側では壬辰・丁酉倭乱と呼ばれて

いるこの戦役は︑いうまでもなく豊臣秀吉が唐入りつまり

中国・明の支配を意図して︑まず︑朝鮮に軍勢を進めた侵

略戦争であった︒その後︑三百十年余り経った近代に︑日

本帝国主義はふたたび朝鮮を侵略して植民地化し︑さらに

中国大陸東北部へとその矛先を進めた︒近世以降における

日本列島と朝鮮半島の問には︑このような二つの不幸な出

来事があり︑日本は朝鮮に多大の迷惑をかけた︒その点に

関して︑現代に生きる私たちには︑そのような侵略戦争の 実態を明らかにし︑その反省の上に立って︑両地域間の相 互理解を深め︑新しい友好と平和な関係を構築していくこ とが求められている︒

さて︑文禄・慶長の役に関する考古学上の遺跡は︑朝鮮

半島の南岸地域と北部九州の沿岸部にいまなおよく残って

いる︒前者はいわゆる倭城であり︑そして︑後者は九州本

土の肥前名護屋城を拠点に︑壱岐の武末城・対馬の清水山

城を前進基地として︑それぞれ築かれた城郭遺跡群である︒

そのうち︑最大規模を有し︑保存状態が良好な上に︑史跡

整櫨がもっとも進んでいるのが︑佐賀県東松浦郡の鎮西町

を中心として︑一部が呼子町と玄海町にまたがる名護屋城

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跡ならびに陣跡である︒

肥前名護屋城と一口でいっても︑その内容は複雑である︒

一九七七年︵昭和五二︶に︑佐賀県教育委員会によって実

施された分布調査の成果などを参考にすると︑ここは︑名

護屋城の本城跡と陣跡そして城下町跡からなっている︒本

城跡は︑本丸を中心に二の丸・三の丸・東出丸・遊撃丸・

山里丸等々からなり︑その面積はおよそ一七ヘクタールを

測る︒陣跡は︑本城を取り巻くように半径三キロはどの範

囲に点在し︑その数はおよそ百二十個所に及ぶといわれる︒

そのうち︑遺構が確認され︑かつ遺存状況の良好な本城跡

約一七ヘクタールと陣跡二三個所約五三ヘクタールが︑文

物でいう国宝に当たる国の特別史跡に指定されている︒城

下町については︑﹃徳川実紀﹄に狩野光信が措いて徳川五

代将軍綱吉に献納されたと記載される︑﹁肥前名護屋城図

屏風﹂に詳細に描写されている︒それによると︑雄壮な本

城や点在する陣屋をはじめ︑数々の町屋と︑その辺りを行

き交う人びとの姿などが︑克明に描き出されている︒ このような壮大な一大パノラマからうかがえる肥前名護 屋の城郭都市は︑イエズス会の宣教師であったルイス・フ ロイスの記録によると︑わずか数個月で建設されたという︒ そして︑ここには︑朝鮮への侵略拠点として︑武将や町人 を含めて人口十万人を越える大都会が形成され︑一時的と はいえさながら首都の機能を果したとさえいわれる︒

さて︑そのような名護屋に対して︑一九七六年︵昭和五

一︶から文化庁指導のもと︑佐賀県教育委員会によって特

別史跡﹁名護屋城跡並びに陣跡﹂の保存整備事業が始まっ

た︒この事業は︑まず︑発掘調査を行った上で︑検出遺構

を保存するとともに︑それを露出もしくは復元的に野外展

示してその内容を紹介したり︑さらに公園として環境整備

して現代に活用していこうとするものである︒これまでに

保存整備が実施された主要なものを挙げると︑本城跡では

大手門・椀手口・山里丸の一部・遊撃丸などがあり︑陣跡

では豊臣秀保・堀秀治・加藤義明などの諸将の陣がある︒

いっぽう︑発掘調査の結果︑いくつかの重要な事実が明ら

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かになった︒たとえば大手門の虎口部分が︑七年間という

短い存続期間であったにも拘らず︑数回にわたって改築を

受けていることがわかった︒また︑堀秀治陣跡では日本最

古級の能舞台やその楽屋の遺構がみつかり︑留守番衆であっ

たとはいえ︑戦争の拠点基地でありながら能を楽しんだと

いう︑戦国武将の文化の一面をのぞかせてくれる︒

保存整備事業は︑その後も順調に進展し︑十年を経過し

たころから︑文禄の役開戦後︑四百年目に近づいていた︒

そこで︑保存整備事業の本格化あるいは総合化の拠点づく

りが急務として日程にのぼるようになった︒もちろんそれ

は︑文禄・慶長の役を再評価して祝賀するものではなく︑

また︑豊臣秀吉という野心家を朗彰するものでもないが︑

近代の日韓併合などとも二重写しになって誤解を招きかね

ないため︑その計画は慎重に進められた︒幸い佐賀県教育

委員会の努力によって︑その趣旨が関係者の間で理解され︑

また︑協力を得て︑本年四月一目に佐賀県立名護屋城博物

館が発足する運びとなり︑十月三〇日に展示室などが一般 公開されることになった︒その際︑筆者が初代の館長に就 任したわけである︒

筆者は︑朝鮮半島を中心とした東アジア考古学を専攻し

ているが︑数多くの研究テーマのうち︑まず︑東アジア史

の視点から見た日朝交流史の研究は重要な部分を占めてい

る︒これまでの研究を通じて学んだことの一つは︑現代史

の直視と将来における平和で友好的な日朝関係の構築にあ

ると考えている︒その点でいえば︑文禄・慶長の役や名護

屋城はまさにキーワードに包括されるとともに︑佐賀県教

育委員会による名護屋城博物館への取り組みは︑筆者の考

えと完全に一致するのであり︑そのような博物館への館長

就任は︑筆者の研究の当然の帰結とも矛盾しないものであ

る︒つぎに︑最近の筆者の関心事の一つは︑日本における

車・近世考古学にあり︑また︑朝鮮半島についても高麗・

朝鮮両王朝の考古学を講義で取り上げるなどの実践を通じ

て︑その体系化を企図している︒この点でも︑名護屋城や

朝鮮半島の倭城は︑筆者にとって大変に興味深いものであ

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り︑関心を払い続けてきた問題である︒

さて︑佐賀県立名護屋城博物館は︑何といっても特別史

跡﹁名護屋城跡並びに陣跡﹂の一隅にあって︑博物館と遺

跡 が

一 体

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︑ 文

字 通

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跡 博

物 館

ある︒そこで︑博物館の主要な事業は︑遺跡調査・博物館

展示はもちろんであるが︑さらに学術・文化の国際的な交

流推進にあり︑博物館はその中核施設となるわけである︒

遺跡調査は︑いうまでもなく保存整備事業の前提となる

発掘調査が主な業務であるが︑そのためにも中・近世城郭

など関係資料の収集・調査・研究が伴うものである︒博物

館展示における最大の特色は︑常設展示が﹁日本列島と朝

鮮半島との交流史﹂を主題としている点である︒万とある

日本の大小各種の博物館の中で︑このようなテーマ展示は

ここが唯一である︒そこでは︑さらに﹁名護屋城以前﹂

﹁歴史の中の名護屋城﹂﹁名護屋城以後﹂﹁特別史跡∧名護

屋城跡並びに陣跡∨﹂の四つの部分に分かれる︒前三者で

は︑日本列島と朝鮮半島の問に展開した永い交流の歴史を︑ 旧石器時代から現代にわたって取り扱う︒つまり︑文禄・ 慶長の役を︑友好的な永い交流史の中で︑四百年余り前に 起った不幸な出来事として位置づけ︑その反省の上に立っ て︑新しい平和で友好的な関係を築いていこうとする立場 を明確にしている︒そして後者では︑保存整備事業の経過 や現状を紹介し︑社会教育の場としての遺跡の積極的な活 用を期している︒このような常設展示室はおよそ九八四平 方メートルの広さであるが︑さらに二三六平方メートルの 企画展示室をもっている︒前者では︑どうしてもレプリカ を多用せざるをえないのに対して︑後者では︑実物の優れ た文物を展示することになっている︒そこで開館時には︑ 記念特別展として﹁李朝の美﹂を掲げ︑朝鮮王朝時代の陶 磁器・絵画・木工芸などの優品を展示し︑李朝の優れた文 化を紹介した︒なお︑これらの博物館展示には︑交流史や 文禄・慶長の役に関する基礎的な資料の収集・調査・研究 が不可欠であり︑博物館のもう一つの活動範囲に当たる︒

国際交流の拠点としての博物館では︑五百席のホールを

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併設していることも大きな特色である︒これは︑東京国立

博物館と西日本最大規模の福岡市博物館がともに三百席な

いしはそれ以下ということと比較しても︑いかにその点に

も力点を置いているかがわかってもらえよう︒やはり︑開

館時には︑ホールで日韓伝統舞踊の共演と日韓文化交流フォ

ーラムが開催されたが︑こんご各種の交流事業が行われる

場として期待していただけよう︒

さて︑博物館では将来の課題も少なくない︒まず︑遺跡

調査に関しては︑本城や多数の陣を支え︑一時的とはいえ

国際的な大都市の賑わいを見せた城下町の調査はまったく

手がついていない︒西屋町など現在もなお︑ところどころ

に往時の面影を残しており︑前述の肥前名護屋城図屏風に

照らして城下町の本格的な調査に一日も早く着手せねばな

らない︒つぎに︑博物館そのものも︑単なる展示やそのた

めの質料収集や調査・研究にとどまらず︑中・近世考古学

とりわけ城郭史︑そして︑日朝交流史などに関する調査・

研究ならびに資料に関する総合的なセンターへと発展させ たいものである︒さらに︑各種の国際交流推進という点で は︑町民レベルの芸術・文化のみならず︑たとえば︑国際 的な学会の誘致など高度な学術分野の交流まで発展させた いと願うのは博物館として逸脱するものであろうか︒

以上のように述べきたってここにいたるとき︑佐賀県立

名護屋城博物館が︑文禄・慶長の役を記念したり︑また︑

侵略戦争を引き起こした豊臣秀吉を顕彰したりするもので

は断じてないことは︑いわずもがなのことである︒重ねて

いえば︑名護屋城博物館は︑従軍僧恵念の﹃朝鮮日々記﹄

が書き記すように︑日本軍が朝鮮の民衆に対して行った種々

の蛮行をはじめ︑戦争へ直接・間接に徴発された日本の武

将や民衆の被害など︑悲惨で無意味な戦争の反省に立ち︑

日本と朝鮮の永い友好的な交流の歴史にかんがみて︑さら

なる友好と平和を希求するための歴史教育の場であること

を強調しておきたい︒

︵九州大学文学部︶

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