◎論説日本語と中国語
語 彙 学 研 究 の 新 局 面
ハ り語義の韻律調和理論と現代語彙学思想王沢鵬
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伝統的構造主義と語彙学の研究
言葉は人類の社会的実践や文化的生活と密接で切っても
切れない関係が有り︑そのことによって昔の言葉の研究は
混沌とした状態に置かれることになった︒そうした研究の
中にはもちろん多くの深くて正確な知見があったが︑言葉
ではないこととの有機的なつながりも多く︑それは見方を
変えれぼ混清であり科学とはいえない面を持つものであっ
た︒そしてそれがとりもなおさず︑いわゆる伝統的な言葉
と文字の学問なのである︒中国の伝統的な言葉と文字の学
は発展を続けて清代の隆盛期から近現代に至り輝かしい頂
点に達した︒そこへ西洋の言語学が堅牢な船に破壊力を 持った砲を備えて現れ︑これらの今に至るまで光輝を放っ
てはいるが︑言葉と文字の学の現代科学の上で意義を持つ
とは言えないかもしれない成果を無残に打ち砕いてしまっ
たのである︒
周知の通り︑言語学における構造主義学説は言語研究の
多くの面に大きな影響を与えた︒ソシュールを代表として
切り開かれた現代の言語学は︑語音の体系と文法の体系を
言語研究の主要な対象とした︒語彙体系の研究は逆に︑中
国内外の言葉と文字の学の伝統をまるごと覆して︑言語研
究の外に排除されることとなった︒そうではあるが︑構造
主義の言語理論は依然として語彙研究に影響を及ぼしてい
る︒例えば語彙学の根本問題である分節の問題がある︒す
なわち︑構造主義言語学の言葉が線をなして表現を作ると
語彙学研究 の新局 面
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する理論が語彙研究において一種の機械による手術のよう
な操作方式として存在していることである︒このような影
響の下で︑漢語の語彙は︑言葉が時間の流れの順序におい
て緊密に関連しあうかあるいは単独であるかの言語構造形
式を持つものと見られることになった︒前者としては例え
ば複合語︑成語︑欧後語(しゃれことば)などであり︑単
音節語のようなものが後者である︒構造主義的な考え方の
指し示すところにより︑我々の言語学は形式を偏重する道
を行くことになった︒語彙の研究も当然それを免れること
は難く︑このことによって我々は語彙の単位を認識し処理
する際に︑考えるに値するいくつかの間題に行き当たっ
た︒例えば︑単音節語はもはや語彙研究において重視され
ることはないということである︒﹃説文解字﹄の優れた伝
統は地を払って姿を消してしまい現代の字典は辞典になっ
たかのようであり︑多少とも字典としての意義を失った︒
しかしながら︑字典はただの標音のための道具ではな
く︑ある漢字が単語を構成する例を挙げるだけのものでも
ない︒漢字自身が具え持つ意味を︑字典は明らかにすると
ころがなくてはならない︒それなのに︑わが国の字典や辞
書は往々にしてこうした非常に価値のあるものをないがし
ろにしてきている︒例えば︑﹁習﹂の解釈である︒﹃現代漢
語詞典﹄の解釈では︑一番目の語義項として﹁学習︑復
習︑練習﹂を言う︒このような解釈では︑﹁習﹂の意味を 説くことは全くできない︒﹁学習︑復習︑練習﹂のなかの
﹁習﹂はどんな意味があるかを問うということになれば︑
現代の字典や辞典は我々に答案を示しようもないものが少
なくない︒このような情況は疑いもなく我々が言葉や語彙
を感得するうえで︑ある種の壁を作り隔靴掻痒の思いをさ
せるものであり︑欠陥を持つものであると言わざるをえな
い︒﹃説文解字﹄の伝統にそむいた字典や辞典のこうした
編纂も︑現代の言語学の観念に立ってのことと見られる
が︑その科学性︑実用性は疑ってみるべき点が確かにあ
る︒
伝統的な構造主義語彙学が漢語の単語や言葉を分析する
ときに出会うことになるもう一つの際立った問題は︑いわ
ゆる離合詞の問題である︒我々が言語表現に対して分節を
行うとき︑緊密に関連しあって分割不能な言葉の構造体を
単語と見ることは一般的になにほども問題にならないが︑
離合詞のようなその構造体を二つに分けることができる単
語は厄介な問題になる︒一般的な認識によれば︑一個の単
語は本来緊密につながっている構造体であるはずなのに︑
今ここに︑あるときは分離しあるときは結合するという情
況が出現している︑どうすればよいか︒我々の言語学者
は︑天才のように﹁離合詞﹂という述語を創り出した︒結
合すれば単語であり分離したときは語句とするのである
が︑こうした言い方は実際のところ大変無様な姿に見え
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る︒いわゆる離合詞は︑少なからぬものが本来﹁述賓﹂﹁述補﹂構造を持つもので︑その語法形式上の意味は語彙
形式の意味を超えるに至るまでのものがあるのだが︑現在
の我々はそれらを一個一個の単語と見ざるをえず︑そうは
いっても分離したときはまた単語でなくなる︒これは一種
の矛盾である︒そのような成分が複雑である﹁述賓﹂﹁述
補﹂構造を持つ慣用語句を︑我々は離合式慣用語と呼ぶこ
ともできるだろう︒﹁吃飯﹂(喫飯・ご飯を食べる)という
単語は︑﹁他罪打鉄吃飯﹂(彼は鍛治をして"喫飯"(生活
する)︑﹁我椚教書吃飯﹂(私たちは教師をして"喫飯"(生
活する)というような言い方の中では︑緊密に結合してい
る︒しかし︑その結合を分けて使うこともごく簡単にでき
るのであって︑﹁他吃打鉄這口飯﹂(彼は鍛治をするという
生活をしている)︑﹁我椚吃教書這碗飯﹂(私たちは教師を
職業としている)のように言う︒現代の言語学の理論に基
づけば︑﹁吃飯﹂は一個の単語であって︑その主要な根拠
は語義の特徴にあり︑その語義は普通には生活するとか生
きる(﹃現代漢語詞典﹄)という意味を指す︒離合式の慣用
語はこの種の特徴をも多く具え持つのである︒我々の辞書
は字面どおりでない単語や慣用語を単語や慣用語として辞
典に収録するのをことさら好むということがあり︑字面通
りの意味を持つ単語や慣用語を一般的な自由語句として辞
典の外に置く︒これも実際のところ全く間違いだと言うわ けにはいかないが︑同様な語句が性質の異なる二つの種類
に分けられることは︑結局人に不合理な感覚を与えること
もありうるだろう︒このような形式と意味の上の矛盾は︑
語句の認定に調整不可能な矛盾を生むことになり︑現下の
漢語語彙研究や辞典編纂においてすこぶるやっかいな問題
となっているのである︒
理論面の乏しさと研究上の視野の狭さそして方法の古さ
から︑漢語の研究はその発展が今日に至って︑にわかに言
葉と文字の関係が見極められないというぼけた認識がいく
つか現れることになった︒まことに百年前のソシュールに
その不幸を言い当てられたことになる︒こういった認識は
漢字の機能の面に度を越して際立っている︒ただ文字の上
からだけで︑漢語の語彙を二字格︑三字格︑四字格︑五字
格およびさらに多い字格と単純に分類し︑あるいは二字格
を漢語語彙の典型的な格式と見なして︑単音節語である多
くの漢字の典型性を持つ機能を見ない︒またあるいは﹁喝
涼水﹂(何でもかまわない)というような"三字格"を単
純に単語とし﹁喝西北風﹂(食べるものが何もない)を"四字格"の慣用語とするのであるが︑このようなやりか
たは﹁吃飯﹂を単語とし﹁妙冷飯﹂(話をむしかえす)を
"慣用語"と見るのと同様な問題に触れることになる︒こ
のような言葉の実際の姿を見ないで書面語彙の字数の多少
を重く見るような︑言葉において第二義的な存在である文
語彙学研究 の新局面
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字を言葉そのものの上に置こうとするような︑漢字の語彙
に対する影響を一面的に過大視するやりかたは︑語彙教育
を改善推進するためにさしたる価値を持たないように思わ
れる︒﹁言語学の対象は書き言葉と話しQ11II葉Q結合ではな
く︑後者によって単独に構成されるものである︒しかし︑
書き言葉はそれが口頭で話される言葉と緊密に混じりあっ
ているから︑結果として言語学の対象を構成する主要な役
割を奪い取ってしまう︒人々はついには︑音声符号の代表
物を符号自体と同様に重要だとあるいはもっと重要だと見
るようになる︒これはあたかも人々が一人の人を認識する
ためには彼の相貌を見るよりも彼の写真を見るほうがいい
ハ と思うようなものだ﹂︒このようなソシュールの言葉は今
にいたるまで︑ぼけた頭を目覚めさせるものがある︒
構造主義言語学の思想は語彙学の研究の上に深い烙印を
押していて︑その表れとしてこのほかに語句構造の分析を
重視することがある︒その結果︑語彙の構造的分析が語彙
学の各種の著作の内容として欠くべからざる部分となり︑
さらには諺という語彙とはちがう語句単位についても構造
的分析が行われる事態を招来し︑諺をも語彙研究の視野の
中に引き入れるまでになった︒そして︑単語や語句に含ま
れる豊富で多彩な語義的︑社会的︑政治的︑生活的︑風俗
的︑文化的︑歴史的︑民族的︑地理的などの内容について
は︑我々は往々にしてこれを避けて語らず︑そうでないと してもトンボが水をかすめるように一刷毛なでてすまし︑
こうした言語外の要素が語彙学の科学性を海のものとも山
のものともつかぬものにしてしまうと恐れているかのよう
である︒しかし︑こうしたことが原因となり︑本来生き生
きとした言葉が我々の語彙学研究の中では大変干からびた
ものに変質してしまい︑研究の範囲もとっかえひっかえし
てもやはりありきたりを出ることなく︑新局面を開くこと
は甚だしく難しい︒
言葉の中の語彙という単位は︑人々の意識の中の外界世
界や概念世界とつながっている︑つまり言葉の指し示すも
のは言葉や言語表現の外にある︒しかも指し示しをする言
葉の表現形式は往々にして二音節の流れによる形式ではな
い︒語彙の単位が指し示そうとする大量のことは︑それを
表して言葉が流れる形式は往々にして長くなる︒例えば﹁天安門﹂︑﹁故宮博物館﹂︑﹁中国人民政治協商会議﹂︑﹁全
国人民代表大会﹂︑﹁対転螺旋漿﹂(双発プロペラ)︑﹁超大
規模集成電路計算機﹂(超大規模集積回路計算機)︑﹁信息
高速道路﹂(情報ハイウェイ)︑﹁膳漢控棍子﹂(一種の漢方
薬草﹁虎杖﹂(イタドリ)の別名)などのようにである︒
こういう種類の語彙単位を﹁言葉による建築の材料の
ム 単位﹂と見なすことは比較的適当なことで︑そうした言葉
は一つのレンガ︑一つの瓦と同様に建築物の中へ取り入れ
られて行き︑その性質と機能からは﹁独立して運用できる
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