鎌 倉 幕 府 の 東 国 経 営
‑その仏教史的一断面1
一小稿の課題
自らの政権基盤を東国社会に求めることから始まった鎌倉幕府が'そ
の施策を政治・経済は言うに及ばず、宗教面にも公的権力の担い手とし
て施したであろうことは'いとも容易に推測される。言うなれば'幕府
と東国社会との間には'それに個有な政治・経済・宗教における三位i
体的な関係の歴史が存したに相違ないのである。小稿はそのなかで'慕
府と東国社会との仏教史的な関わりを、少し‑愚考するものである。
私は小稿に先立ち、不備ながらも'幕府の宗教政策の基調は'公家政権(‑)の天台宗を中核とした「顕密主義」に対して'独自の臨済禅および真言
密教を核とする「禅密主義」に求めるべきであることを、鶴岡八幡宮別
当職の補任状況や幕府と延暦寺山門派との関わり'あるいは幕府と園城
城寺寺門派との法交'幕閣の参禅のあり様などに徴して述べたことがあ一ワニる。また'その幕府の宗教政策も実は'幕府史の「将軍専制政治」1
「北条執権政治」1「得宗専制政治」に適応しっつ'「禅密主義の生成
期」1「禅密主義の成立期」1「禅密主義の展開・終末期」というよう13}二、三階梯を辿ったであろうことも指摘したことがある。 佐々木
その意味では'小稿は基本的にはそうした視角のなかの連続した基礎
的作業に他ならないo幕府と東国社会とのより直接的・具体的な仏教史
的関わりは'前の≡階梯に従うなら、第二‑第三階梯の「禅密主義の成
立・展開・終末期」に求められる。言葉をかえていえば'「禅密主義」
の生成のスタートを切った幕府が東国社会との仏教史的関係を持ち始め
るのは'北条義時の世に補任された。「蝦夷管領」たる津軽安東氏の頃
である。そして'その最も濃密な関係を両者が切り結ぶのは'「廻国伝
説」に象徴される北条時頼の時である。この時頼廻国伝承が'幕府の「禅密主義」の成立・展開と密接不可分に関わっているだろうことは推
測に難‑ない。
従って'逆からいえば'東国社会における幕政前期は'血なまぐさい
源義経・平泉藤原氏一族の追討に象徴される奥州という地に対して'慕
閣が鎮魂の心操を向け'ある種'神秘なる念を抱懐していたと思われる。
その意味で'この期は東国社会が幕府と直接的な仏教史的交渉を未だ持
たず、古代的世界の延長上の時期であったといえよう。そこには'天台
宗を中心にしたというよ‑は'天台宗一色に彩られた古代東国的な仏教l・T)世界が展開していたと思われる。
では'このように幕府前期の時期には'天台宗的世界の支配的であっ
た東国社会が'その中後期において'幕府との関わりの中で'その仏教
史的営みをどのように‑り拡げていたのであろうか。これこそが'小稿
の目指す課題に他ならない。
が'幾重にも重畳する歴史断層の中から'中世的断面をとり出して'
それを寸分も違わず復原することはtかなり難しい。加えて'当該分野
の史料は'後人の手になる編纂物であることが多‑'その分だけ'どう
してもその史料的価値が低下することも否めない。それゆえ'勢い'莱
国社会自身が多‑語らない部分については'幕府の側の宗教世界から逆
照射するしか残された道はない。小稿もその都度'この基本的視角によ
りながら行論することになろう。
幾多の史料的制約と限界を承知しながらも'小稿は'第一に﹃津軽一
統志﹄の措き伝える古代と中世の宗教の実相を少し‑探り'第二には中
世東国社会の仏教史的事実を'当該地域の「自治体史」がどのように叙
述して今日に伝えているかを伺い'可能な限り'その叙述を通して中世
的仏教世界の原風景に迫ってみたい。そして'最後に'鎌倉幕府の宗教(.r))政策が反映されたと思われる﹃住心院文書﹄について言及Ltもって幕
府の仏教史的な東国経営のありよう'あるいは東国社会の中世仏教史的
世界を垣間見ることにしたい。 二﹃津軽一統志﹄に見る宗教世界
ここでは﹃津軽1耗志﹄を素材にして'古代・中世の北奥地域におけ
る宗教的実相を探ることを直接の課題とするのであるが'古代と中世期
の特質を逆に浮き彫りにするためにも'近世期を一括した統計整理を'﹃津軽一統志﹄首巻の「神社仏閣」の項目に施して'図表化して示せ
ば'次の(A)および(B)表のようになる。
(A)<﹃津軽一統志﹄に見る神社>
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<﹃津軽一統志﹄に見る寺院>1
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松 住 宝 隆 栄 雲 :行 . 明 . 生 道仏 追仏 仏道 仏追 ; 仏㌻ 道 J 仏道 .㌻:
右 右 右 右 右 萱 右 右 右
越 岡 代 田 別 ;り め 所 田 崎 田 田 出 道
右の表(A)に見るように'北奥津軽の神社数は五九社'また(B)が表
示するように'寺院数は二二四寺を数え'両者総和の宗教施設はまさに
二百に及ぼんとしていた。この約二百に及ぶ寺社のうち'圧倒的な量を
誇るのは'当然のことながら'近世期のそれである。
それでは'この(A)と(B)のなかで僅少な古代・中世寺社から'果た して何が導き出せるのであろうか。古きその寺社群の語る古代・中世期
の北奥宗教の世界とは'どのようなものであったであろうか。
まず'表(A)を眺めてみることにしようっ創建年代別にみると、五九
の神社のうちへ付の勝軍地蔵堂'制の東照大神宮'皿の神明社および個
から鋤に至る二四社は近世に属するものであり'その意味でいえば'神
社の約過半数は古代・中世期に建立されたことになる。この過半数を倭
に超える三五杜もの神社を'その別当別ないしは宗派別に分類してみる
と'仰の勝軍地蔵堂を除‑心〜制は真言宗に属し'㈲
〜
制は天台宗'それ以外の㈲〜脚は神職に属している。神社の別当が各々'真言宗・天台
l示および神職に所属していたこと自体'北奥地域の神仏習合を余すとこ
ろな‑説示するものであるが'実はこうした習合的事実以上に'この衷
心は重要な史実を秘めているように思われるO
すなわち'皿の八幡太神社から朗の日照田薬師如来堂に至るl九社は'
殆ど延暦十一・十二・大同二年の期間(七九二年〜八〇七年)にtかの
坂上田村麻呂によって建立されているのである。田村麻呂が延暦十(七
九一)年'征夷大将軍大伴弟麻呂の下に征東副使として蝦夷征討に向か
い'同十六年に自ら征夷大将軍に補任されたこと'さらには大同二(八
〇七)年'胆沢の地に築城してここに鎮守府を移した一連の蝦夷平定の
事績に徴すれば'延暦十一年から大同二年に集中しているその神社建立
年時も首肯されよう。
この坂上田村麻呂による神社道立ないしは田村に仮託した神社建立は、
年代的にも仝‑符合してお‑'この点'﹃津軽一統志﹄の本項は怪しむ
に足らない。