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太 宰 治 「 斜 陽 」 私 感

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(1)

太宰治﹁斜陽﹂私感

はじめに

 ﹁斜陽﹂は﹃新潮﹄に昭和二十二年七月から十月まで連載され︑

新潮社から十二月に刊行された︒刊行されるとたちまちベストセラ

ーになり︑﹁斜陽族﹂なる流行語まで生まれたという︒﹁斜陽﹂によ

って太宰治の文名と人気はいっきに高まり︑いちやく文壇の寵児に

なったが︑その人気絶頂のさなか︑玉川上水に身を投げ︑破滅した

ことで太宰治は偶像化され︑文学的評価は一層たかまった︒

 当時の日本は敗戦による経済的混乱が極度に達し︑日本を占領し

た連合国軍総司令部︑いわゆるGHQが︑戦前の日本の支配構造や

価値体系を解体して︑新生日本の建設と民主主義の導入を強行した

ため︑体制や価値観の激変による混迷も極めていた︒そうした世相

の中に︑新旧時代の激変を象徴するかのような︑没落貴族と自立す

る女性を主人公にした﹁斜陽﹂が︑人ぴとの心をとらえてベストセ

  太宰治﹁斜陽﹂私感︵都築久義︶ ラーになったのも不思議ではなかろう︒ しかし︑今や日本に貴族は存在せず︑女性の自立も当り前の時代だから︑﹁斜陽﹂が描く世界や主題はリアリティもなければ︑格別な目新しさはない︒したがって﹁斜陽﹂で︑いつも問題になる﹁滅び﹂とか﹁道徳革命﹂とかいったキーワードや論点にわたしはあまり関心はない︒わたしがかねて興味があるのは︑太宰治が現行の﹁斜陽﹂を書いて発表した真意や目的がどこにあったかということである︒ ﹁斜陽﹂が描いているのは︑最初の部分はともかく︑単なる大人の男女関係の不始末だ︒それを︿道徳革命﹀だの︿道徳の過渡期の犠牲者﹀だのと正当化しようとした思惑は︑いったいなんだったのか︑そしてその意図は成功したのかー︒現行の﹁斜陽﹂誕生物語を推理してみたいというのが本稿の趣旨であり︑題して﹁斜陽﹂私感である︒

.七

(2)

愛知淑徳大学論集 ー文学部篇ー 第二十五号

︵一︶

 太宰治は昭和二十年七月末︑妻子をともなって青森県金木町に疎

開し︑八月十五日の終戦は生家で迎え︑一年余りを故郷で過ごし︑

二十一年十一月に東京に帰った︒この間︑﹁大日本帝国﹂の解体と民

主国家日本の建設の様子を郷里にあって見るのだが︑直接わが身に

ふりかかってきたのが農地解放だった︒青森県下有数の大地主とし

て経済的豊かさを享受し︑当地の実力者として政財界にも君臨して

来た生家が︑没落する運命に立たされたのである︒

 この頃の生家の実情と太宰の心境は︑井伏鱒二宛の手紙に綴られ

ている︒

フランス革命でも理由はどうであらうと︑ギロチンにかけたや

つは悪人で︑かけられた貴族の美女は善人といふ事に︑後世の

詩人は書いてくれます︒金木の私の生家など︑いまは﹁桜の園﹂

です︒あはれ深い日常です︒私はこれに一票いれるつもりです︒

井伏さんもさうなさい︒

       ︵昭和二十一年一月十五日︶

 ここに出てくる﹁桜の園﹂が︑チエホフの有名な戯曲であること

はいうまでもない︒美しい桜の園のある広大な領地が︑かつてそこ

で働いていた農奴の息子に買いとられるという話だ︒農地開放指令

で地主と小作人の立場が逆転する羽目になった生家の状況が︑彼に

﹁桜の園﹂を想起させたのであろう︒

 井伏鱒二の他にも︑堤重久に︿チエホフを思へ︒﹁桜の園﹂を思ひ

出せ﹀︵一月二十五日︶︑小田獄夫に︿﹁桜の園﹂を忘れる事が出来ま

せん﹀︵一月二十八日︶などという手紙を送っているので︑生家の没

落がいかに悲痛であったかは︑想像するに余りがある︒そして大地

主の子として生れ育った自分は︑︿滅亡の民﹀であるとの心情に駆ら

れて行ったであろうことは︑次の手紙を読めばわかる︒

 井伏鱒二宛に手紙を出した三カ月後︑﹃新潮﹄の編集顧問をしてい

た河盛好蔵にこんな書簡を送っている︒

私は自身を﹁滅亡の民﹂だと思つてゐます︒まけてほろぴて︑

その眩きが︑私たちの文学ぢやないのかしらん︒どうして人は︑

自分を﹁滅亡﹂だと言ひ切れないのかしらん︒︵略︶いままた︑

チエホフの戯曲全集を読み返してゐます︒こんどまた戯曲を書

きます︒気にいつたのが出来たらお送り致します︒

       ︵昭和二十一年四月三十日︶

 それから半年後の二十一年十一月十四日︑疎開先の生家を引揚げ

て東京に帰って来ると︑さっそく新潮社を訪れて︑郷里であたため

てきた新作の構想と抱負を話した︒

 その時の様子を︑入社したばかりの野原一夫は次のように回想し

(3)

ている︒

編集顧問の河盛好蔵氏︑﹃新潮﹄編集長の斉藤十一氏︑出版部長

の佐藤哲夫氏が同席して︑﹃新潮﹄への小説連載と新潮社からの

単行本刊行が正式に依頼された︒旧知の河盛さんに久しぶりに

会って︑太宰さんは嬉しそうだった︒

﹁傑作を書きます︒大傑作を書きます︒小説の大体の構想も出来

ています︒日本の﹃桜の園﹄を書くつもりです︒没落階級の悲

劇です︒もう題名は決めてある︒﹃斜陽﹄︒斜めの陽︒﹃斜陽﹄で

す︒どうです︒いい題名でしょう︒

      ︵﹃回想 太宰治﹄ 新潮社 昭55・5︶

   ︵二︶

 太宰が生家に疎開し︑生家の没落を眼の当りにして︑︿没落階級の

悲劇﹀を小説に書こうと思って東京に帰った頃︑実は身辺に面倒な

問題をかかえていた︒疎開先にまでしきりに手紙を寄こした太田静

子のことである︒彼女は後に﹁斜陽﹂のモデルとして話題になった

女性だ︒野原一夫の前記の著書によれば︑彼女は太宰より四歳若い

大正二年生れで︑滋賀県の由緒ある医者の娘︒地元の高等女学校を

経て東京の実践女学校専門部︵現・実践女子大︶に学び︑学生時代

から文学への憧れがあり︑自らの歌集を刊行したほどであった︒昭

和十三年に父が亡くなると︑一家は上京し︑彼女もその年に会社員

  太宰治﹁斜陽﹂私感︵都築久義︶ と結婚したが︑長続きせず︑離婚して母の元に戻った︒離婚後のつれづれに︑弟の勧めで太宰治を読み︑手紙を出して友だちと訪ねたのは昭和十六年九月である︒しかし︑彼女は昭和十八年十月から︑太宰も二十年七月からそれぞれ疎開してしまったこともあって︑ほとんど交際はとだえていた︒ところが終戦の年の暮に彼女の母が亡くなり︑その寂しさと将来の不安にたえかね︑疎開先の太宰治に相談の手紙をだしたことで︑二人の交際は再開した︒こうしたいきさつがあって︑久しぶりの静子の手紙に太宰が返事を出したのは︑二十一年一月十一日である︒

拝復 いつも思つてゐます︒ナンテ︑へんだけど︑でも︑いつ

も思つてゐました︒正直に言はうと思ひます︒おかあさんが無

くなつたさうで︑お苦しい事と存じます︒︵略︶一ぱんいいひと

として︑ひつそり命がけで生きてゐて下さい︒コヒシイ

       ︵昭和二十一年一月十一日︶

 もし︑この時の太宰の返事が︑母親を亡くしたことへの見舞か励

まし程度であれば︑静子の心を掻き立てることもなく︑単に小説家

と熱心な読者といったありふれた関係で終ったかもしれない︒だが

︿一ぱんいいひととして︑ひつそり命がけで生きてゐて下さい︒コヒ

シイ﹀などと甘い言葉をかければ︑女盛りの女性に恋の火を点けた

としても無理はない︒

.九

(4)

愛知淑徳大学論集 ー文学部篇− 第二十五号

 彼女の恋の炎が燃えさかっていくにつれて︑太宰の方は腰が引け︑

︿これから︑手紙の差出人の名をかへませう︒小田静夫︑どうでせう

か﹀︵二十一年九月頃︑日付不詳︶と言い出す始末で︑やがて︿静夫

君も︑そろそろ御くるしくなつた御様子︑それではなんにもならな

い︒よしませうか︑本当に︒﹀︵二十一年十月頃︑日付不詳︶と書く

に至った︒

 しかし︑本心では︑彼女の積極的な行動に困惑し︑逃げ腰になっ

ていながら︑相変わらず手紙ではそのことをはっきり言えなかった︒

この状況から脱するために東京に帰ってくるとすぐに︿一日も早く

お逢ひしなければと思ひながら︑雑用山積し︑ごぶさたしてしまひ

ました︒﹀︵二十一年十二月 日付不詳︶と静子に手紙を出し︑三鷹

の仕事部屋に来るように誘った︒

 静子が太宰治を訪ねて再会したのは︑二十二年一月六日のことで

ある︒野原一夫によれば︑この時話題になったのが︑以前に彼女が

手紙に書いていた母の思い出の日記である︒︿日記を見せてくれない

か︑と重い口調﹀で言い︑︿こんど書く小説のために︑どうしてもき

みの日記が必要なのだと︑太宰は︑顔の筋ひとつ動かさず︑突きつ

けるように言った﹀という︒太宰のこの懇願に対して︑︿下曽我に来

て下さったら︑日記はお見せしますと︑と静子さんは低い声で答え

た﹀とのことだ︒太宰は静子の日記を借りるために静子の山荘に行

くことにしたが︑これを機に二人の関係を清算したいと考えていた

のは︑次の手紙から察知できる︒ 二〇

  二月の二十日頃に︑そちらへお伺ひいたします︒そちらで

二︑三日あそんで︑それから伊豆長岡温泉へ行き︑二︑三週間

滞在して︑あなたの日記からヒントを得た長篇を書きはじめる      かなつもりでをります︒最も美しい記念の小説を書くつもりでをり

ます︒       ︵昭和二十二年一月︑日付不詳︶

   ︵一三

 ︿最も美しい記念の小説を書くつもり﹀で︑太宰が静子の山荘を

訪ねたのは︑二月十一日だ︒そしてこの山荘で数日間を過ごし︑初

めて二人は結ばれた︒二十六日に伊豆三津浜に向かい︑安田屋旅館

に逗留して︑彼女の︿日記からヒントを得た長篇﹀の執筆を始め︑

三月六日に連載一回分を書き上げた︒題名は最初の構想通り﹁斜陽﹂︒

その第一章と第二章である︒それを﹃新潮﹄の編集者に渡し︑翌日︑

編集者と一緒に同地を発った︒編集者に渡した第一回分は︑内容的

には︑静子の日記そのままで︑なぜか﹃桜の園﹄の構想もイメージ

も消えていた︒

 太宰が静子から借用した日記は︑﹃斜陽日記﹄と題して太宰没後の

昭和二十三年十月︑石狩書房から刊行されたが︑日記といっても毎

日のできごとを綴った日記ではない︒静子が母と二人で下曽我村に

疎開した昭和十八年から︑母が亡くなった二十年十二月初めまでの

(5)

山荘生活の日常を手記風にまとめたものだ︒ただ︑そこには早くに

喪った父のこと︑世話をしてくれている叔父のこと︑兄や二人の弟

のことなども記してあり︑彼女の生い立ちや家族のこともそれを読

めばわかる︒また︑彼女の離婚についても詳しく述べている︒

 刊行された﹃斜陽日記﹄と小説﹁斜陽﹂を読み比べてみると︑類

似の場面や表現が多いこともあって︑鳥居邦朗のような︿活字にさ

れて流布している﹃斜陽日記﹄なるものは︑どう見ても小説﹁斜陽﹂

から逆に仮構されたものとしか思われない﹀︵﹁斜陽﹂﹃作品論太宰治﹄

双文社出版 昭49・6︶という見方もあれば︑逆に千葉宣一のよう

に︑﹁斜陽﹂の方が﹃斜陽日記﹄からの剰窃︵﹃国文学・解釈と鑑賞﹄

昭62.7︶という意見もあるが︑わたしはむしろ︑﹃斜陽日記﹄が小

説﹁斜陽﹂全体で使われていることの少なさに注目したいと思う︒

 そもそも小説﹁斜陽﹂は全八章から成っているが︑﹃斜陽日記﹄の

記述がほぽ全面的に使われているのは︑第一章と第二章だけだと言

っていい︒むろん第三章以後でもわずかに使われていたり︑第五章

の母の死の場面などのように︑そっくりそのままという個所がなく

はない︒しかし︑類似している場面が︑第一章と第二章に集中して

いることは︑この二つを比較すれば一目瞭然であろう︒

 念のために小説﹁斜陽﹂の構成を見ておくと︑第一章と第二章は︑

主人公のかず子と母親が︑終戦後︑叔父の世話で東京の家を引き払

い︑伊豆の山荘暮しを始め︑その日常生活の様子が︑昔の思い出や

家族のことなどを交えながら語られている︒主人公の家柄が華族で

  太宰治﹁斜陽﹂私感︵都築久義︶ あり︑母は︿ほんものの貴婦人の最後のひとり﹀という設定はともかく︑蛇の卵を焼いた話や火事を起こした挿話の他︑主人公の結婚と離婚の経緯も︑﹃斜陽B記﹄にヒントを得ていることは歴然としている︒つまり︑静子への手紙に書いた通りに筆を進めたのである︒ ところが︑第三章以後は︑第五章の母の死の場面を除いて︑﹃斜陽日記﹄とはほとんど無関係の記述ばかりだ︒第三章は出征した弟の直治が帰還したことにからめて︑学生時代の︿不良﹀ぷりや︑小説家上原二郎との関係を述べ︑その頃に書いた﹁夕顔日誌﹂を載せている︒むろん︑実在の弟が出征して帰還したことを除いては︑作者の創作だ︒第四章は直治が文学上の師と仰ぐ上原に対して︑思いを寄せるかず子の三通の手紙から成っていて︑第五章は母の死を機に︿恋と革命﹀のために生きて行くという彼女の決意︒第六章はその決意を実行するために上原を訪ねて結ばれるという筋書きである︒第七章は自殺した直治の遺書︒最後の第八章は上原の子供を妊娠したことを告げ︑一人で生きて行くと決心を述べた上原へのかず子の手紙だ︒ こうして小説﹁斜陽﹂の構成と流れを一瞥すれば︑第三章から大きく変ったことは誰でも気が着く︒明らかに﹃斜陽日記﹄とは別の世界を描いている︒ちなみに︑この日記に太宰のことが出てくるのは︑ベランダの藤棚が倒れた時に︑︿何故か︑私はD先生のことを思ひ出した︒あの方が︑どうかなさつたのではないかしら・・と考へた︒何かしら気になつて仕方がなかつた﹀といった記述が目に着く

二一

(6)

愛知淑徳大学論集 ー文学部篇ー 第二十五号

程度だ︒とすれば︑第三章以後の筋書きと内容は太宰の全く創作だ

といってよい︒

 太宰はなぜ︑ここで小説の流れを変更したのか︒いったいどんな

理由や目的があったのか︒わたしの最も興味があるのはそのことだ︒

おそらくその疑問を解くカギは︑原稿を執筆した時期にあると思わ

れる︒第一回分の第一章と第二章を執筆したのは︑既述のように太

宰が静子を訪問した直後から三月土旬だ︒ 一方︑第三章以後は妻の

津島美知子が︿四月から六月にかけて三鷹の仕事部屋﹀︵﹃太宰治全

集﹄創芸社 後記 昭27・3︶で書いたと証言している︒つまり伊

豆三津浜から帰り︑三鷹の仕事部屋で第三章以後を書き始める間に

なにか変更せざるをえない事情があったと推定するのが自然だ︒そ

してこの間に太田静子から妊娠したことを打明けられたとすれば︑

これこそがその事情に他なるまい︒太宰がその告白を聞いていかに

困惑したかは︑四月二日付の田中英光宛の手紙で︿僕はいま死にた

いくらゐつらく︵つい深入りした女なども出来︑どうしたらいいの

か途方に暮れたりしてゐて︶﹀と書いていることからも想像できる︒

この手紙の日付から見て︑それはまさに︑第三章を書こうとしてい

た矢先であったはずだ︒

 太宰が静子から妊娠のことを打明けられた当時のことを︑野原一

夫は静子の話も交えながら次のように回想している︒

そのとき︑太宰は︑これは私が静子から聞いたことだが︑それ 二二

はよかった︑と言ったという︒おどろいたような表情はすこし

も見せず︑それはよかった︑と言って︑美しく微笑し︑強く抱

きしめてくれたという︒

 静子からそう聞かされたとき︑すこし疑わしいとはじめ私は

思った︒冗談めかしてではあるが︑俺はなんて子早いんだろう︑

我が身を怨むね︑と太宰は私に言ったことがある︒嘘かまこと

か︑一度しかやらなかつたのになあ︑と嘆いてみせもした︒満

更の冗談とも思えなかった︒

 おそらく太宰は︑懐妊をほとんど予期していなかったのでは

あるまいか︒だからいきなり︑それを告げられたとき︑驚き︑

うろたえ︑あるいは内心︑後悔の膀をかんだかもしれない︒だ

が太宰は︑素早く︑そして見事に︑内心の動揺をかくし︑おも

てには出さず︑そして美しく微笑して見せた︒きっとそうだっ

たのであろう︒それは太宰の優しさであり︑いやそれ以上に︑

太宰治の人生に立ち向う心魂の潔さであろう︒

        ︵﹃太宰治 結婚と恋愛﹄新潮社 平元・1︶

   ︵四︶

 太宰治が静子から妊娠を打明けられた時︑︿美しく微笑して見せ

た﹀というのが事実なら︑太宰は心にもなく残酷な事をする人だと

わたしは思う︒なぜなら本心は野原一夫に冗談めかして言った通り

だろうし︑田中英光宛の手紙のように︿死にたいくらゐつらく﹀て︑

(7)

︿どうしたらいいのか途方に暮れたり﹀していたはずだからである︒

 昔は不良文士と呼ばれ︑今また無頼派といわれても︑すでに妻子

ある身であり︑妻に気をつかって手紙は差出人を男性名にしてくれ

と頼むくらいだ︒いくら不良文士や無頼派を売り物にしていても︑

このスキャンダルに平然としていられるほど︑彼は不良文士でも無

頼派でもなかった︒まして静子は別れたいと思っていた女だ︒もは

や︑なにがなんでも手を切らねばならぬ︑と焦ったのは当然だろう︒

 そこでこの窮状を打開するために思いついたのが︑二人の関係を

連載中の﹁斜陽﹂に書き︑しかも︑主人公を自立する強い女性に仕

立てあげることだった︒相手が妻子あることを承知で愛し︑その人

の子供を生むことを望んだのは︑女性の一方的行動であることを強

調し︑一人で生きて行くことを宣言させれば︑自分は責任追及を逃

れることができると考えた︒それに革命ばやりのご時世に合せて﹁道

徳革命﹂などといえば︑もっともらしく聞こえるではないか︑とい

うのがわたしの推理だ︒

 もともと︑第一章と第二章では︑主人公のかず子は︿どこへも行

かずに︑お母さまのお傍にゐて︑かうして地下足袋をはいて︑お母

さまにおいしい野菜をあげたいと︑そればつかり考へてゐる﹀よう

な女性として描かれている︒むろん︿私にはこの頃︑こんな生活が︑

とてもたまらなくなる事がある﹀とはいうものの︑︿恋︑と書いたら︑

あと︑書けなくなつた﹀というような︑いかにも深窓の令嬢︑貴族

の娘として登場する︒しかし︑静子の妊娠を知った後に執筆したと

  太宰治﹁斜陽﹂私感︵都築久義︶ 推定される第四章になると︑

私のこの相談は︑これまでの﹁女大学﹂の立場から見ると︑非

常にずるくて︑けがらはしくて︑悪質の犯罪でさへあるかも知

れませんが︵略︶私は︑いま︑お母さまや弟に︑はつきり宣言

したいのです︒私が前から︑或るお方に恋をしてゐて︑私は将

来︑そのお方の愛人として暮すつもりだといふことを︑はつき

り言つてしまひたいのです︒

 と言う女性に変えてしまったのはどう考えても不自然ではないか︒

もとより太宰は﹁斜陽﹂の構想については︑最初は︿日本の﹁桜の

園﹂を書く﹀と言い︑続いて︿最も美しい記念の小説﹀を書くと言

っていただけで︑彼がどのような女性を主人公にしようと考えてい

たかは断言できないが︑少くとも書き始めた当初は︑妻子ある人の

子を生む女性は想定していなかったと思う︒

 いずれにしても静子が︑妊娠したという現実は︑二人の関係をい

っそう悪化させた︒当たり前のことながら︑静子は太宰に責任を求

め︑太宰はそれから必死に逃げようとしたのである︒五月二十四日︑

弟の通を連れて太宰を訪ねた時︑太宰がそのことを態度ではっきり

示したことを︑同席した野原一夫は次のように書いている︒

私は終始ふたりと行動を共にした︒その翌日も︑ふたりから離

二三

(8)

愛知淑徳大学論集 −文学部篇ー 第二十五号

れなかった︒静子と二人きりになるのを避けていた太宰から︑

そうしてくれとたのまれたからである︒︵略︶なんの相談も出来

ないままに︑静子は太宰と別れ︑下曽我に帰った︒そして︑そ

れ以後二度と太宰と会うことはなかった︒なぜ太宰は︑ああも

冷淡に静子を突き放したのだろうか︒

      ︵﹃太宰治 結婚と恋愛﹄前出︶

   ︵五︶

静子と弟の二人でやって来られて︑いっそう窮地に陥った太宰は︑

ついに決定的なメッセージを第八章に書き︑﹁斜陽﹂の幕をとじる︒

  私にははじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする

気持ありませんでした︒私のひとすじの恋の冒険の成就だけが

問題でした︒さうして︑私のその思ひが完成せられて︑もうい

までは私の胸のうちは︑森の中の沼のやうに静かでございます︒

私は勝つたと思つてゐます︵略︶私生児と︑その母︒古い道徳

とどこまでも争ひ︑太陽のやうに生きるつもりです︒どうか︑

あなたも︑あなたの闘ひを続けて下さいまし︒

 この手紙からは︑どうか俺の人格とか責任とかをあてにしてくれ

るな︑おまえ一人で生きて行ってくれ︑と哀願する太宰治の姿が鮮

明に見えてくる︒太田静子は太宰との出会いと別れを﹃あはれわが 二四

歌﹄︵ジープ社 昭25・11︶という題にまとめたが︑﹁あはれ﹂なの

はむしろ太宰の方ではないか︒︿恋の冒険の成就﹀だの︑お前は︿勝

つた﹀のだとおだてあげて︑俺の︿人格とか責任とかをあてにする

気持﹀を持つな︑と必死に逃げている太宰の方こそ︑﹁あはれわが歌﹂

に見える︒

 太宰が必死になって静子から逃げようとしたにもかかわらず︑子

供が十一月十二日に生まれるとすぐに︑下の弟の通が太宰治を訪ね︑

子供の命名と認知を迫った︒続いて上の弟の武がやって来て養育費

を要求した︒太宰が静子に﹁斜陽﹂の中で送ったメッセージは効き

目が無かったのである︒

 ﹁はじめに﹂で述べたように︑かず子の行為は︑今ふうに言えば

不倫の恋であり︑あげくの果てに未婚の母になったというだけのこ

とだ︒それをいかにも立派な意味ありげに言ったのが﹁道徳革命﹂

という言葉に過ぎない︒

 そのことは管見では東郷克美が﹁﹃斜陽﹄をめぐつて﹂︵﹃国文学﹄

昭54・7︶の三好行雄らとの共同討議で︑かず子の言う︿道徳革命﹀

は︿空虚に感じられる﹀とつとに語っているのが目にとまったが︑︿成

立過程的に見て出産の事実を道徳革命に結びつけてこじつけてる﹀

という見解は︑全く同感だ︒

 単に不倫の子を生んだにすぎないという事実に対して︑︿道徳革

命﹀という大義名分を思いついたのはさすがといえぱさすがだが︑

責任を静子に押しつけようとする太宰の本心も透けて見える︒

(9)

 ﹁斜陽﹂の最後のかず子の手紙について︑相馬正一が︑﹃評伝 太

宰治︵第三部︶﹄︵筑摩書房 昭60・7︶の中で︑︿第八章は主人公か

ず子の道徳革命であると同時に︑裏を返せば静子に対する決別の辞

でもあったのである﹀と書いているのはその通りだが︑第八章は︿決

別の辞﹀というよりも︑自分の責任を追及してくれるなという太宰

の哀願のメッセージの意味の方が強いと思う︒いや︑第八章だけで

なく︑現行の﹁斜陽﹂自体がそのために書かれたというのがわたし

の推定だ︒

   むすび

 ﹁斜陽﹂を再読してしきりに想起されたのは︑島崎藤村の﹁新生﹂

である︒周知のように﹁新生﹂は︑妻を亡くしてやもめ暮しをして

いる藤村のもとへ︑作家として尊敬している姪が家事手伝いにやつ

て来るが︑やがて二人は結ばれて妊娠する︒ところが藤村はその善

後策もせずにフランスへ逃避行し︑三年後に帰国すると再び関係が

出来︑その窮地を打開するために︑自ら二人の関係の顛末を告白し

たのである︒

 この﹁新生﹂に対して芥川龍之介が︑︿ルツソオの繊悔録さへ英雄

的な嘘に充ち満ちてゐた︒殊に﹁新生﹂に至つては︑1彼は﹁新

生﹂の主人公ほど老猫な偽善に出会つたことはなかつた﹀と︑﹁或阿

呆の一生﹂で評したことはあまりにも有名である︒

 藤村は自らの不徳を自己弁護しながら︑繊悔しているかの如く﹁新

  太宰治﹁斜陽﹂私感︵都築久義︶ 生﹂を書いたので︑芥川から︿老檜な偽善﹀だと指摘された︒太宰も自らの不徳を自己弁護しながら﹁斜陽﹂を書いたが︑そこには繊悔の姿勢はなく︑開き直っているのが藤村とはちがう︑芥川なら太宰の﹁斜陽﹂をなんと評するだろうか︒芥川を真似して︑﹁斜陽﹂の作者ほど残酷な狡滑に出会ったことはないと非難するつもりはないが︑太宰の言う﹁道徳革命﹂を肯定する気も問題にする気もわたしにはない︒ 考えてみれば︑戦後GHQは︑戦前の日本の価値体系をことごとく破壊したが︑男女平等という観念から姦通罪は無くしたものの︑男女のモラルには手をつけなかった︒だからこそ︿革命﹀ばやりの世相に乗じて︿道徳革命﹀の旗をふりかざしたのは︑いかにも斬新に見えたが︑所詮は自己弁護や駆け引きの手段でしかなかったことが露見してしまえば︑かえって︑醜悪である︒道徳はもともと個人の良心の問題であって︑革命によって変えられるものでも︑変えるべきものでもなかろう︒太宰治も﹁斜陽﹂によって自己弁護したり画策をしなければ︑優しくもあれば潔よくもあったとわたしは思う︒

二五

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