太原の妓女の詩と欧陽詹
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(2) . 人文科学 ・社会科学編)第五十 一巻 第二号 平成十三年二月 北海道教育大学紀要 (. 太原 の妓女 の詩と欧陽鱈. 鎌田正博士八十寿記念漢文学論集』大 『 臨終詩の成立とその展開」 ( 拙稿 「 中 国中 世 の哀傷文学』 研文出版 、 一九九 八 修館 書店 、 一九九 一。 そ の後 、 『 に収録) にお いて、唐代 の臨終詩を取 り上げ た ことがある。 そ の際 に、太原. 唐詩紀事』巻三五) 全唐詩』巻八〇二、『 『 寄欧陽篇」と題する詩 ( の妓女の 「 には臨終詩 の要素 はあ るも のの、検討 の対象 からは除外 した。 その理由 に つ いては拙稿 の注 で、以下 のように述 べてお いた。 ^ 1}. 七 八九ー ?← が太原 の妓女 と都 での再会を約 して この詩 には、欧陽倍 ( 筆を折 別れた のち、妓女 の思 いは つの って病 み、愛情 の証 の詩を作 って 「 って逝 」 った と いう 作 詩 の背 景 に ま つわ る 逸 話 が あ る 。 と こ ろ が 箇が 形 見 ^ 2Y. の函を開 くと 「一たび働 し て卒」 したとあるなど 、逸話自体 に創作的色彩 が濃 いので取り上げ な か った。 詠欧陽行周事弁序」 が、 こと の経緯を述 しかしなが ら、そ の後 、孟簡 の 「 べ、 詩 に 詠 じ て いる こ と を 知 った 。 そ こ で 、 改 め て 関 連 す る 種 々 の資 料 を 検. 詩」が制作され るに至 った背景 に ついて考 えてみるこ 討 し、太 原 の妓女 の 「. と に し た い。. 二. 後. 藤. 秋. 正. 全唐詩』所載 の当 該作 品 の題辞 と太原 の妓 女 の詩を まず叙述 の都合上 、 『 引 いてお こう 。. 欧陽鱈遊太原 、悦 一妓 、約至都相迎。別後妓 思之疾甚。乃刃誓作詩 、寄 危、絶筆而逝。詩 一首 。. 欧陽鰭 太原 に遊 び 、 一妓 を悦び 、都 に至 り て相 い迎 えん ことを約す 。. 別後 妓 之を 思 いて疾む こと甚 し。乃ち誓を刃り詩を作り て、鱈に寄 せ、 筆を絶ち て逝く。詩 一首 。. 目従 別後減容光. 半ば 是れ郎を思 い半ば郎を恨 む. 別後. 容光を減 じて目従 り 半是思郎半恨郎. 旧来 の雲誓 の様を識 らんと欲 せば われ. 欲識 旧来雲誓様. 為奴開取綾金箱 奴の為に開取せよ綾金の箱. 容 光 」 はす が た か た ち の 美 し さ で あ 詩 中 に 特 に難 解 な 語 は な い。 た だ 、 「. 1 3.
(3) . 正 秋 藤 後. 端座 して為す無 し. たして 「 情 に殉 じた」妓女 の 「 崇高 な品格」を生き生きと反映 した 「 絶命詩」. 前者 は比較的穏当 な指摘 と考 え られ るが、後者 が言 うよ うに、 この詩 が果. 撃而複雑的感情。宮生動地 反映 了古代下層婦女的悲惨命 運和崇高品格 。. 端座而無為 野鷺 たり君 の容光. り、徐幹 「 室 思」詩 に、. 努髭君容光. で あ る か ど う か に つ い て は 、 検 討 を 要 す る で あ ろ う 。 さ ら に 、 沈 立 東 ・葛 汝. 桐主編 『 歴代婦女詩詞 鑑賞 辞典』 ( 中 国 婦女出版社 、 一九 九 二。 この項 の執. 下了綿綿 無絶期的思念和終身的遺憾 。在短短的四句詩裏 、作者那如泣如訴 、. 読完 這首詩 、 一個古代痴情女 子的形象躍然紙上 。 ー ー別離 、無疑給地留. とあ るのを 踏ま え て いる。 「 雲誓」 は雲 のよ う に高 く結 いあげ たもとど り で. 我我 と して. 筆 は 陳 新 栄 ) は 、 い っそ う 踏 み こ ん で次 のよ う に 言 う 。. 雲誓. あ って、曹植 「 洛神賦」 に、. 雲誓我我 聯嫡 たり. 低層婦女的血和涙。ー ー作者難与欧陽相識相恋、最終還是没有逃脱那個社. 惰眉聯娼 惰眉. と 見 え る のを 典 拠 と す る で あ ろ う 。 ま た 、 「 奴 」 は 妓 女 の自 称 。 「 綾 金 の箱 」. 会帯給地的被玩弄被撫棄的命運、以致憂惨思念成疾、含恨而亡。. 愛恨交加的心声淋溜 尽致地表達 了出来 。 ・ ー・ 這首絶筆詩 、飽薫了生活在 最 は 、 金 糸 で飾 った 、 も し く は 美 し い彫 刻 を 施 し た は こ 。 妓 女 の愛 用 の品 で あ. この発言 は、社会 の最下層 に位置す ると認識され て いた妓女 の苦痛を特 に. ( 3Y. と を 覚 え て い て 、 以 前 のも と ど り の様 子 を 知 り た いと 思 う のな ら ば 、 私 の愛. 強調 して いるが、彼女 が恨 みを含 ん で病死す る前 の 「 絶筆詩」 であ ると認 め. る 。 転 ・結 句 は 、 痩 せ 衰 え た 私 の命 は 長 く は な い の で 、 も し あ な た が 私 の こ. 用 の箱を手 にと って開け、中 に収められ て いる遺髪を見 て私 のことを思 い出. て いる 点 は 前 二者 と 共 通 し て いる 。. 中 などを経 て、元和 四年 ( 八〇九) には諌議大夫 となり、六年 には 「 大 乗本. 県 の東北) の人。進 士科 、 ついで宏辞 〔 詞〕科 に登第 、倉部員外 郎、司封郎. 異同がある。 ひとまず後者 によれば 、孟簡 、字 は幾道 は、平昌 ( 山東省臨邑. 孟簡 の伝 は 『 新唐 書』巻百六十 と 『 旧唐書』 巻百六十三 にあ って、若干 の. た だ し 、 これ に は妓 女 の 「 詩 」 は 見 ら れ な い。. 三三 の 「 詠欧 陽行周事井序」 ( 『 全唐詩』 巻四七三) であ ると考 えられ る。. 欧陽鰭と太原 の妓女 にま つわ る逸 話が初 め て見え る資料 は、孟簡 ( ?i 八. 三. し て ほ し い、と いう の で あ る 。こ の詩 は 近 年 の注 釈 書 類 に も 収 録 さ れ て いる 。. 管見 に入 ったも のを いく つか挙げれば 、まず蘇者聡 選注 『 古代婦女詩 一百首』 ( 岳麓書社、 一九 八四) は、次 のよう に述 べて いる。. 此詩反映古代妓女熱烈追求愛情而不可得的痛苦。末両句永訣之言至為沈 痛。. ま た 、張 明葉 編著 『 中 国 歴代 婦女 詩 詞選』 ( 遼寧 教育 出 版社 、 一九 八九) は 、 以 下 のよ う に述 べ て いる 。. 這是 一首殉情的絶命詩 、其中有思、有怨 、更有強烈的愛 、葱蓄着 十分真. 2 3.
(4) . 太原の妓女の詩と欧陽鰭. さら には収賄事件 が発覚 した ことが原因 であ る。 しかし、翌長慶元年 ( 八二. る。と ころが十五年 に穆宗が即位す ると、吉州司馬員外 置同正員 に姫調され る。褒 州刺 史在任中 に、彼 の意 に従わな か った部 下を 土嚢 で圧殺 した こと、. 使を経 て、十四年 には、改めて太子賓客を授 けられ 、東都洛陽 に分司し て い. も官位 は順調 に進 み、戸部侍郎 、裏州 ( 湖北省嚢奨市 )刺史 ・山南東道節度. ( 新 江省 紹 興市)刺史 となり、御史中 丞 ・新東観察 使を兼 ね て いる。 そ の後. 年 には金紫 光禄大夫を加 えられ、さら に絵事中 とな った。そ の翌年 には越州. 生心地観経」を漢 訳 して いる。 ついで常州 ( 江蘇省常州市)刺史 となり、八. 詠 有底江小吏 。相死、類於此。暇 日偶作詩 、以継之 云。. 蔽也。大 凡以断割 、不為園色所渦。豆若是乎。古楽府詩有華山畿 、玉台新. 也 。河南穆玄道訪 予、常歎息其事 。鳴呼 、鍾愛於男女 、素期致 死 、夫亦 不. 誓於生。生為之働怨、渉旬而生亦没。則韓退之作何蕃書、所謂欧陽危生者. 勢其雲誓 、謂侍児 日、所歓応訪我 、当以誓 為既。甲至得之 、以乗空 帰 、授. 克如約、過期 。命 甲遣乗 、密往迎妓。妓因積望成疾 、不可為也。先 死之夕 、. 目所視、不可不畏 、辞烏 、請待 至都而来迎。許之。乃去 。生覚 以窪連 、不. 之 、留賞累月、以為燕姉之楽 、尽在是突 。既而南較 、妓請同行 。生 日、十. 基惑。初抵太原 、居大将軍宴。席上有妓 。北方之尤者。 屡目於生 。生感悦. すぐ. ず 。初 め て太原 に抵 り 、大将軍 の宴 に居 る。席上 に妓有 り。北方 の尤れた. いた. 声色を識 らず 。弦 に盤仕す るに及び 、未だ洞房 の織腰 の基惑を為 すを 知 ら. し い か な 。単 貧 に 生 ま れ 、名 に荷 う を 以 て の故 に 、心 に勤 倹 を 専 ら に し て 、. 久 しく して、倦 みて太原 に瀦び 、帝 京 に選り来 って、官 に霊台 に卒す 。悲. 旨 は切直 なり。会 たま東方 の軍興り、府県未だ慰薦す るに暇あ らず 。之を. 卯 の歳、曾ね て書を相府 に献 じ、大事を論ず るに、風韻 は清雅 にして、詞. り。大学 の禄を食 み、成均 の教 えを助 け、庸績 有り。我 が唐 の目ひ死の年 己. 間越 の英 、惟れ欧陽生。文を能くす るを以 て擢第 し、髪 に始 め て 一命あ. 一) には大赦 に遇 って、睦州 ( 新江省淳安県)刺史 に量移され、再び常州刺 ( 4). 史 と な って 、三 年 に は 太 子 賓 客 分 司 に復 した 。こ の年 の十 二月 に卒 し て いる 。. 『 旧唐書』 は孟簡 の性格 に ついて、次 のように言 って いる。. つね. 以 て前輩 の風有りと為す 。然 るに. 性は俊抜 にして義を尚び 、早歳 に交友 し て先 に没 せし者 は、其 の孤. 簡性俊抜尚義 、早歳交友先没者、視其孤 、毎厚於周愉 、議者以為有前輩 風。然溺於浮図之教 、為儒曹所詣。 簡 を視れば 、毎 に周位 に厚 し、議す る者 浮図 の教えに溺れ、儒曹 の詰 る所と為 る。. おも. ろ者 なり。屡しば 生に目くば せす。生 之 に感悦 し、留 め賞す る こと累月 、. 以えらく燕嫡 の楽 しみを為す は、尽く是 こに在 りと。既 にして南 較 せんと し 、妓. これ によれば 、彼 は仏教 に過度 に傾倒 して いたも のの、知友 の遺族 の困窮 ぶ り を 無 視 で き な いと いう 仁 義 に篤 い 一面 を も って いた よ う だ 。 彼 が な ぜ 欧. ず 、烏れより辞 せん、請 う都 に至り て来迎す るを待 てと。之を許す 。乃ち つい. よ. なにがし. 同 行 せ ん こと を 請 う 。 生 日 く 、 十 目 の視 る 所 は 、 畏 れ ざ る べ か ら. 陽鰭の事跡 に関心を 抱 いた のかに ついては、 「 詠欧 陽行周事井序」 に説 明 が. 去 る。生 覚 に蓬連 た ろを以 て、克 く約 の如く せず して、期を 過 ぐ 。甲 に. 積望 に因り て疾を成 し、. 為 す べ か らざ る な り 。 死 に先 だ っ の夕 べ、 其 の雲 誓 を 勢 り 、 侍 児 に 謂 い て. ^ 5). あ る 。 長 文 だ が 、 ま ず こ の序 文 か ら 見 て みよ う 。. . 間越之英 、惟 欧陽生 。以能文擢第、髪始 一命 。食大学之禄 、助成均之教 、. 日 く 、歓 ぶ 所 応 に 我 を 訪 ぬ べ し 、 当 に誓 を 以 て脱 と 為 す べし と 。 甲 至 り て. 命 じて乗を遣 り、密 かに往きて妓を迎 えしむ。妓 有庸績突 。我唐貞元年 己卯歳 、曾献書相府 、論大事 、風韻清雅、詞旨切直 。. 之を得、乗を以 て空 しく帰 り、誓を生 に授 く。生之 が為 に働怨 し、旬を渉. ひと. 会東方軍興、府県未暇慰薦 。久之 、倦済太原 、還来帝京 、卒官霊台。悲夫 。. て生も亦没す。則 ち韓退之 の何蕃 の書を作 るは、所謂. 欧陽鱈生 な る者 な. へ. 生於単 貧 、以同名故 、心専勤 倹、不識声色。及薮垂仕、未知洞房繊腰之為.
(5) . . 後 藤 秋 正. り。河南 の穆玄道 蔽われず 。大 凡 断. おおよそ. 予を訪 ね、常 に其 の事 を歎息す。鳴呼、鍾愛 の男女 に. 於 けるや、素より死 に致 るを期す ること 、夫れ 亦. いて、ほぼ事実 に基づ いて いる。. ここで、欧陽億の伝記資料 に ついて見 てお こう。欧陽熔の死後 に書 かれた. 八0○) から翌年 の冬 の間 に書 かれた も ので最も早 いも のは、貞 元十 六年 (. 1 欧陽篇世 居間越 、目鱈己上 、皆為 関越官 、至州佐県令者 、累 累有烏 。 ・. 割す るを 以 て、麗色 の沼わす 所とは為 らず 。豊 に是 の若 くならん や。古楽. 己卯」 は、徳宗 の貞 元十 五年 ( 七九九)。相 簡単 に説 明を加え てお こう。 「. ・ ム フ上初 、故宰相常衰為福建諸州観察使 、治其地。衰以文辞進 、有名於時 、. 韓愈 の 「 欧陽傭哀辞」 であろう。 この中 から伝記的 な事柄を述 べた部分 のみ. 『 上鄭相 公書」 ( 欧 陽行 周文 集』 宰 相 の役 所) に献 じた書 と いう のは 、 「 府 (. ー・ 鰭千時独秀出 、衰加敬愛 、諸生皆推 服。 間越之 又作大宮 、臨葎其民。・. 府詩 に華 山畿有 り、玉台新詠 に底江 の小吏 有り。相 い死す る こと、此れ に. 巻 八)を指す のであ ろう。 この宰相 は、前年 の七月 に中 書侍郎 ・同中書門下. 人挙進 士鎌 借始 。建中 ・貞 元間 、余就食江南 、未接 人事 、往往 闇危名間巷. . 東 方 の軍」 とは 、 七四六ー 八 二0) を指 す 。 「 平 章事 に任 じられ た鄭余慶 (. 八年春 、遂与篇文辞 同考試登第 、始相識 。目 ー・ 間。鰭之称於江南 也久 。・. 類 たり。暇 日 偶たま詩を作 り、以 て之を継 ぐと云う。. 河南省開封市) で起 こ った混乱 などを指 宣武節度使 の後任を めぐ って沫州 (. ・ :危之事業文章 、李朝既為之伝 、故作哀辞 、以僻余哀 、以伝 千後 、以遺 其. 果上 。観其心 、有益於余 、将忘其身之賎而為之也。鴫呼 、鰭今其死突 。 1・. 師 、鱈為国 子 監 四門助 教 、将 率 其徒 伏 閣下 、挙 余為博 士 。会 監 有獄 、 不. ::・ 十 五年 冬 、余 以 徐 州従 事朝 正 千京 後 鰭帰 間中 、 余 或 在 京 師 他 処 。 ・. 塵挨 紫 晒 の春. して いる。 「 県斎有懐」詩 に、 霊台」 は、学宮。国子監を指す 。韓愈 の 「. 塵珠紫 順春 風雨 霊台 の夜. 風雨霊台夜. 父母而解其悲哀、以卒篤志云。. 楽 府詩 集』 巻 四十 六 に引 く 『 古 今楽 録』 に見 え て い 歌 から派生 した歌曲 。 『 ^ 6) る。南徐州 の 「一土子」 と、雲陽 の旅舎 で見初 めた年 十八 ・九 の女 子と の悲. 山畿」 は、劉宋 の少帝 ( 在位四 二ニー 四 二四) の頃 に作 られ た、呉歌 ・慎悩. 華 指す 。韓愈 は こ の中 に、四門助教 であ った欧陽億の言葉 を引 いて いる。 「. 中 ・直り冗の間 、 余. え、諸生. 建諸州観察使 と為り 、其 の地を治 む。衰 文辞を 以 て進 み、名 時 に有 り、. 令 に至 り し者 、累累 と して荒れ有 り。 :::今上 の初 め、故 の宰相常衰. 欧 陽危は世 よ閤越 に居 る、鰭より 己上、皆な閲越 の官 と為 り、州佐 ・県. 恋 に基 づ く も の で あ り 、 病 死 し た 「一土 子 」 の あ と を 追 って自 殺 し た 女 子 の. 貞 元〕 八年春 、 の名を 間巷 の間 に聞けり。鰭の江南 に称 せら るるや久 し。 〔. 大 学生 同蕃伝」 を と言 う。 「 何 審書」 とは 、貞元 十五年 に書 かれた韓 愈 の 「. 古詩為焦仲 卿妻作」 とし 歌 であ る。 「 底江 の小吏」 は、 『 玉台新詠』 巻 一に 「. 遂 に鰭の文辞 と考試を 同 じく し て登第 し、始 め て相 い識 る。目後 箇 間中. 敬愛を 加. 徐州従事を. 下 に伏 せしめ、余を挙げ て博士と為 さんとす 。会 たま監 に獄有 り、上 るを. 或 いは京師 と他処 と に在 り。 ー :十五年冬 、余. 江 南 に 就 食 し 、 未 だ 人 事 に 接 せ ざ るも 、 往 往 に し て鱈. 皆な推服す 。閥越 の人 の進 士 に挙げ らるるは鱈よ り始ま る。建. ー・ 鱈 時 に独り秀出 し、蓑 又大官 と作 り、其 の民 に臨荏 む。 ・. 福. 焦仲 卿妻 」 とし て載 せられ る楽府 。周 楽 府 詩集』 巻 七十 三 には 「 て載 せ、 『. に帰 り、余. の ぞ. 華 山畿」 の説話と同様 、 知 のように、底江府 の小吏 と妻劉 氏 の悲劇を歌 う。 「. 以 て京師 に朝 正す るに、傭は国子監四門助教為 り、将 に其 の徒を率 いて閣. な. こ の作 品 に お い ても 、 死 後 に 二 人 は 合 葬 さ れ る 。. さ て、孟簡 の序文 に述 べられ る欧陽危の事跡 は、太原 の妓 女と の顛末を除.
(6) . 太原の妓女の詩と欧陽儒. 事業 と文章 と、李馴 既に之 が為 に伝 あり、故 に哀辞を作り て、以 て余 の. る を 忘 れ て之 を 為 さ ん と す る な り 。 鳴 呼 、 傭 ::・債 の 今 其 れ死 せり 。 ・. 果 た さ ず 。 其 の心 を 観 る に 、 余 を 益 せ ん と す る 有 り て 、 将 に 其 の身 の膜 な. 意 し ておき た い。なお、韓愈 の言 って いる、欧陽鱈以前 に間の地 が科挙登第. 死 因 、 あ る いは 死 に 至 った 事 情 に つ いて は ま った く 触 れ て いな い こ と にも 留. そ れ ほ ど の時 間 は 経 って いな い こと に な る 。 さ ら に 、 こ の哀 辞 が 、 欧 陽 篇 の. う と し た と き に は 、 欧 陽 鱈 は 太 原 か ら 戻 って国 子 監 四 門 助 教 と な って か ら 、. 唐振言』巻 も に科挙 に登第す る。同年 の進 士に ついては、後周 ・王定保撰 『. 七八三) が欧陽鰭を見出 した のち、彼 は貞元 八年、韓 愈と. であ る李翻 ( 七七 ニー 八四 一)が書 いたと いう 「 伝」 は、現存 して いな い。. 海古籍出版社 、 一九八六)など に指摘され て いる。また 、貞元十 四年 の進 士. に ついては、す でに 『 登科記考』 や馬其艇 ・馬茂元 『 韓 昌繋文集 校注』 ( 上. おく. 者を出 し て いな いと いう記述 は、神龍 二年 ( 七〇六) に登第 した蒔令之 と貞. 哀 し みを 僻 べ、以 て後 に伝 え 、以 て其 の父 母 に遣 り て其 の悲 哀 を 解 き 、 以 て鰭の志を卒 くさんとす と云う。. 」 とあ るほ かに、 一の広文 の条 に、 「 貞 元八年 、欧陽鱈第三人 、李観第 五人。. 故 四門助教欧 ついで、欧陽鱈の伝記資料 とし て注 目され る のは、李蛤孫 「. 元七年 ( 七九 一) に 登 第 し た 林 藻 の例 が あ る こと か ら 誤 り で あ る 。 こ の こ と. 李 経 、催 翠 、王 涯 、鷹 宿 ら が いた こと が 知 ら れ る 。ま た 、 こ の哀 辞 に よ れ ば 、. 陽鱈文 集序」 ( 『 全唐文』 巻 五 四 四) であ る。李胎孫 の名 は新 ・旧 『 唐書 』、. 常蓑 ( 七 二九. 進 士 登 第 後 に 欧 陽 篇 は い った ん 間中 に 帰 った と 言 う 。 そ の こ と は 彼 に 、 登 第. 登科 記考』 など には見え てお らず 、 この 「 『 元 和姓纂』、 『 文集序」 と会 昌 五. 「 文集 序」 の前半 部 分 は、 「 欧 陽鰭哀辞」 よ りも詳 細 だ が内容 は ほぼ重 な 四部叢刊) によ って、後半部分を引 いてお こう。 この る。 『 欧陽行周文集』 (. 館学 士 に充 てられ、出 でて福建都 団練観察処置使兼 御史中 丞と為 る。. 蛤孫 は、貞元 の時、官 は葬州刺史 、累擢 せられ て諌議大夫 に至 り、宏文. 都団練観察処置使兼御史中丞。. 姶孫、貞 元時 、官募州刺史 、累擢至諌議大夫、充宏文館学士 、出為福建. 萎州都督府 記」 のみが 『 年 ( 八四五) に書 かれた 「 全唐文 』 に収 録 され て い 全唐文』 の小伝は彼 に ついて次 のよう に言う。 る。 『. 『 泉州刺史席公宴邑中赴挙秀才於東湖亭序」 ( 欧陽行周文 の翌年に書かれた 「 集 』 巻 九 ) が あ る こ と か ら も 明 ら か で あ る 。 た だ し 、韓 愈 は 欧 陽 鱈 が 太 原 に. 赴 いた ことには 一切触れな い。 しかし、彼が郷里 から再び北上 して、国子監 太原旅 四門助教 に任官す る以前 に太原 に赴 いた ことも事実 である。彼 には 「. 『 初発太原途中寄太原 懐呈蒔十八侍御斉十二奉礼」 ( 欧陽行周文集』巻二)、「 、「 、「 同) 陪太原鄭行軍中丞 同) 所思」 ( 和厳長官秋日登太原龍興寺閣野望」 ( 同)、 「 同、巻 奉 和太原鄭中 丞登龍 興寺閣」 ( 登粉上閣 、‐ ::・ 弧書即事上答」 ( 同) など 一 三 「 太原和厳 長官 八月十五日夜西山童 子上方 翫月寄厳中丞少 ヂ」 ( 初 発太原途中寄 太原所 思」 に ついては の詩 があ るから であ る。 このうち、 「 度使 ( 治所 は河南省太原市) の李説が病気 になると行軍司馬 の彼 が代わ って. 文章 は 『 唐詩紀事』 の欧陽鱈の条 の出典 ともな って いる。. のち に触れ た い。鄭行軍中 丞とは、鄭億 のこと。貞元十 二 ・三年頃 、河東節 軍政を総 べ、李説 の死後 には節度使 とな って いる。また、厳長官 とは、厳綬. 原 のヂと御史大夫などを兼 ね て いた。 したが って貞元十五年冬、国 子監 四門. ず鄭傭 の後任 の行軍司馬となり、そ の後 、鄭億が死 ぬと、検校 工部尚書 に太. 君於外家之門。大和中 、予為福建団練副使日、其 子価自南安抵 福 州、進 君. 宜其司当代文柄 、以変 風雅、 一命而卒 、天其絶邪。:::予沖幼 之歳 、即拝. 君之文新無所襲 、才未嘗困。精於理、故言多周詳 、切於情 、故叙事重複 。. 旧唐書』 巻百 四十六 の本伝 によれば 、厳綬 はま ( 七四六ー 八二二) のこと。 『. 助教 であ った欧陽鰭が学生を引 き連れ て閣下 に伏 し、韓愈を博士 に推薦 しよ. 5 3.
(7) . . 後 藤 秋 正. 使欧陽氏之文遂絶其所伝也。為題其序亦以卒後嗣之願云。. 有文 、又早死。大中 六年 、予 又為観察 使、令訪其喬 、因獲 其孫 日潔、不可. 之旧文共十編首尾凡若干首 、泣拝請序。予諾 、其命突 。而詞覚 未就。価微. 福建観察使 。語及鱈、必流沸 。. 為傭哀辞 、自書 以遺 翠。初 、徐晦挙進士不中 、鰭数称之 、明年高 第 、仕為. 子監四門助教 、率其徒伏閣下、挙愈博 士。卒 、年 四十余 。荏 掌実之甚 、愈. 故 に言は多く周詳す 、情 に切なり、故 に叙事 は重複す 。宜 しく其れ当代 の. も 、肯 て北 に富 せず 。常衰 の宰相を 罷め て観察使 と為 るに及ん で、始め て. 欧陽億 字 は行周 、泉州晋江 の人。其 の先 は皆な本州 の州佐 ・県令 と為 る。間越 は地 肥衛 にして、山泉 ・禽魚有 り、能 く文書 ・吏事 に通ず と難. 未 だ嘗 て困 しまず 。理 に精 なり 、 其れ絶 てるか。. 君 の文 は新 た にして襲 う所 無く 、才 文柄を司り、以 て風雅を変ず べき に、 一命ありて卒す 、天. 県郷 の秀 民 の文辞を能くす る者を択び 、与 に賓主 の釣礼 を為 し、観漉 ・饗. 梢 く相 い勧 仕す 。初 め、. ・ ::・ 予 沖幼 の歳 、即ち君を外家 の門 に拝す。大 和 ( 八 二七ー 八三五)中 、. まみ. 移耀 し、故 に其 の俗. 集 には必ず与 にす 、里人. 鱈 父 母 に事 え て孝 に、朋友 と与 にして信義 あり。其 の文章 は切深 にし て、回復す るに明揺 あり。愈 と友善 たり。 鰭 先 に国子監四門助教 と為り、. つか. 竜虎 の樗と称す 。関人 の進士 に第す るは、鱈より始ま る。. ・磯翠 ・王涯 ・鷹宿 ・嘆承宣 と聯なり第す るは、皆な天下 の選なり 、時 に. とも. 予 福建団練副使 と為り し日、其 の子 の価 南安 より福州 に抵り、君 の旧. 傭 羅山甫 と同 に播湖 に隠れ、往き て衰 に見 ゆ、衰 之を奇 とす 。辞 して. うべな. 文共 に十編 ・首 尾凡 そ若干首 を進 め、泣拝 して序を請 う。予 の諾 うは、其 観 察 使 と 為 り 、 其 の喬 を 訪 ね し め 、. すこ. 帰 らんとす るに、舟を 活 べて飲鏡す 。進士 に挙げ られ 、韓愈 ・李観 ・李縫. 又. な. れ命なり。而 るに詞 は覚 に未 だ就 らず。価 微 しく文有 るも 、又 早 に死 せり。大中 六年 ( 八 五 二)、 予. 以 て後嗣 の願 いを卒げ んと. 因り て其 の孫 の潔と日うを獲 たり 、欧陽氏 の文を し て遂 に其 の伝わ る所を 絶 えしむ る べからず 。為 に其 の序を題 して亦 云 う。. 其 の徒を率 いて閣下 に伏 し、愈を博士 に挙げ んとす 。卒す るに、年 四十余。. 桜 掌 之を実す る こと甚 し、愈 鱈の哀辞を 為り、自 ら書 し て以 て撃に遣 る。初 め、徐晦 は進 士 に挙げ らるるも中 た らず 、箇 数 しば之を称 え、明. この序文も欧陽賃の死 に至 る経緯 に ついて、李酷孫 が欧陽鱈の子 の価 に聞 い て いた かも し れ な い の に も か か わ ら ず 、 あ る いは そ の 「 後 嗣」 た ち に配慮. 傭に及 べば 、必ず流沸す 。 年. 好 んで小説を採振す るが故なり。. 宋 祁〕 の載 す る所 の事述 は 、哀辞 より出づ る外 の者 有 るは、蓋 し宋 子京 〔. 李習之 〔 李鞭〕 の債の伝を作 るは、欧 公云 う、己 に逸す と、而 る に新史. 子京好採振小説故也。. 李習之 作篇伝 、欧 公云 、己迄 、而新史所載事述 、有出 於哀辞外 者 、蓋宋. かれ る陳景雲 の注 が、韓愈 「 欧陽傭哀辞」 に ついて、. 韓愈全集校注』 ( 四川大学出版社、 一九九六)に引 屈守元 ・常思春主編 『. 高第 し、仕 えて福建観察使 と為 る。語. し た た め か 、 ま った く 触 れ て いな い 。 ま た 、 欧 陽 傭 は 、 正 史 に お い て は 、. 旧唐書』 に伝 はなく、 『 『 新唐書』 巻 二百三 に以下 のよ う に見 え て いる。 欧陽鰭字行周 、泉州晋江人 。其先皆為本州州佐 ・県令。 間越地肥街 、有 山泉禽魚、難能通文書吏事 、不肯北宙。及常衰罷宰相為観察使 、始択県郷 秀民能文辞者 、与為賓主鈎礼 、観涛饗集必与、里人形耀 、故其俗梢相勧仕。 初 、危与羅山甫同隠橋湖 、往見衰 、衰奇之 。辞帰 、没舟 飲鏡 。挙進士 、与 韓 愈 ・李観 ・李経 ・荏掌 ・王涯 ・鷹宿 ・嘆承宣聯第 、皆 天下選 、時称竜虎 樗。間人第進士、自修始。 鱈事父母孝、与 朋友信義 。其文章切深 、回復明繕 。与愈友善 。鰭先為国.
(8) . 太原の妓女の詩と欧陽鰭. つい. な. ったが同 じく彼 の 「 題哀辞 後」、及び 孟簡 の序文 の範囲を ほとんど出 て いな. 新唐書』 の記述 が 、韓愈 の哀辞 と、引用 はしな か と指摘 して いるよう に、 『. 本達京師週 本より京師 に達 して選ると. 滴涙眼双昏 涙を滴 らせ て眼 は双 つながら昏 し. 驚離腸千結 離れ に驚 いて腸 は千結 し. わか. 坐作東西分 坐 に東西 の分 かれを作す. いか 、 む し ろ よ り 簡 潔 にな って いる こ と が 理 解 さ れ よ う 。. 宿約始爺阻 宿約 始 め て添阻 し. 賀期相追撃 賀び て相 い追撃す るを期す. 古詩 為焦仲 卿妻 作」 を継 承 して作 ったと述 べて いる作 華 山畿」 と 「 され、 「. 彼憂既纏綿 彼 の憂 い既 に纏綿 たり. 次 にかなり の長篇 であ るが、 ここで孟簡 が欧陽億と太原 の妓女 の死 に触発 品 を 読 ん で お こう 。. 中誠無間言 中誠 間言無 し. 生死不変易 生死 にも変易せず. 結念誓青山 結念 して青山を誓 う. 定情非 一詞 情を定 むる こと 一詞 に非ず. 即日相交歓 相 い交 歓 し. 夫君意蕩湊 夫君 意 蕩涜す. 流光注夫君 流光 夫 君に注ぎ. 座上転横波 座上 横波を転ず. 神艶照行雲 神艶 行雲を照らし. 太原有佳人 太原 に佳人有り. 駆馬次太原 馬を駆り て太原 に次 る. 有客西北逐 客有り西北 に逐 り. 遅遅蓄悲酸 遅遅として悲酸を蓄 う. 使者週復命 使者 廻り て復命 し. 願言慰窮泉 願わくば 言 に窮泉を慰 めん. 封来贈君子 封 じ来 って君子に贈 る. 深誠祈為伝 深誠 為 に伝わ らん ことを祈 る. 技涙取遺寄 涙を救 いて遺寄を取り. 侍児因復前 侍児 因り て復 た前 む. 所歓使者来 歓ぶ所 の使者来 り. 為我遺所歓 我が為 に歓ぶ所 に遣 らんとす. 柔情託侍児 柔情 侍児 に託 し. 勢刀断其根 勢 刀も て其 の根を断 つ. 繊手目整理 繊手も て自 ら整 理し. 危費如玉蝉 危費 は玉蝉 の如 し. 高誓若黄畷 高誓 は黄耀 の若く. 此為大学徒 此れ大学 の徒為 り. 篇生喜言旋 鱈生 言 に旋 るを喜び. はし. 彼属北府官 彼 北府 の官 に属す. 倒履走迎門 履 を倒 にして走 りて門 に迎 う. ひと. 中夜欲相従 中夜 相 い従わ んと欲す るも. 長脆聴未畢 長脆 して聴く こと未 だ畢わ らざ るに. すず. 厳城限軍門 厳城 軍門 に限 らる. 驚傷沸漣漣 驚き傷 み て沸漣漣たり. ぬぐ. 白 日欲同居 白日 同 に居らんと欲す るも. 不飲亦不食 飲まず亦食らわず. 即日. 君畏仁人間 君は仁人 の間るを畏 る. 哀心百千端 哀心 百千端. つ く 、. 忽如瞳頭水 忽ち瞳頭 の水 の如く. 7 3.
(9) . 正. 秋 藤 後. 清爽旦 日残 清爽. 襟情 一夕空 襟情 旦日 に残わ る. 一夕 に空 し .. 哀哉浩然気 哀 し いかな浩然 の気 潰散帰化 元 潰散 して化元 に帰す. つい. 阻難無 し. 短生難別離 短生 別離す と難も 長夜無阻難 長夜. 健路圏福州 、観 察使草蟻戦不勝 、棄城遁 、賊 入之 、焚 室底 、殺 人如薮 。. 戦 いて勝たず 、城を棄 てて遁げ 、賊. 過崇文館校書郎黄 瑛家 、令日、此儒者 、滅矩弗焚 。. 健路 して福州を囲 む、観察使章軸. 之 に入 る、室底を焚 き、人を殺す こと薮 の如 し。崇文館 校書郎黄瑛 の家を. この記事 から、黄瑛 が福州 の人 であ った こと ( 『 全唐 文』 の小伝 は、 間県. 過ぐ るに、令 して日く 、此れ儒者なり、煩を滅 して焚 かざ れと。. 両剣遂腕蝿 両剣 遂 に腕蝿たり. の人 と す る ) と 、 崇 文 館 校 書 郎 で あ った こ と 、 さ ら に は 「 儒 者 」 と し て尊 崇. 双魂 終 に会合 し. 丈夫早通脱 丈夫 は早 に通脱なり. さ れ て いた こ と が わ か る 。 た だ し 、 『 登 科 記 考 』 巻 二十 四 に よ れ ば 、 彼 が 進. 双魂終会合. 巧笑安能干 巧笑も安 んぞ能 く干さん. 士 に登第 した のは、昭宗 の大順 二年 ( 八九 一) の こと で あ る 。 彼 に は 詩 は 残. いずく. つと. 防身本苦節 身を防 るは本より苦節. 沈 迷 す る こと 莫 か れ. 一たび去 き て何 に由り てか還 らん. 伝」 と 「 唐文拾遺』 巻三十三 に、 「 観察使検校 司徒兼御史大 王郎中伝」 が、 『. らな いが、 「 欧陽行周伝」 のほか、同 じく 『 全唐文』 巻 八百十 七 に、「 林孝 子. ゆ. 一去何由還 後生. 至都 、当相迎耳。即綴泣 而別。俳贈之詩日。. っ1づ. 畢 関試 、薄遊 太原 、於楽籍中 、因有 所悦 、情甚 相得 。 及帰 、乃与 之 盟日 、. 欧陽篇字行周 、泉州晋江人。弱冠能属文 、天縦浩汗 。貞 元年 、登進 士第。. て 引 かれ る も のと は 若 干 の異 同 が あ る が 、 こ こ は 『 太 平 広 記』か ら引 用す る。. ( 7}. も のと、 『 太平広記』巻 二百 七十四 、情感 の部 に、 『 関川名 士伝』 を出 典と し. さ て、黄瑛 の 「 全唐 文』 に見え る 欧陽行周伝」を 見 よう。 この文章 は、 『. 夫陳巌墓誌」 が収録され て いる。. 後生莫 沈迷. 沈迷喪其真 沈迷すれば 其 の真を喪わ ん. この詩 が欧陽篤 「 初発太原途中寄太原所思」 詩を 発想 の契機 とし て いる こ と は 間 違 いな か ろ う 。. 四 次 に見逃 してはならな いのは、黄 撲 の 「 『 全唐文』巻 八 一七) 欧陽行周伝」 (. あり 、同 じく巻六十、芸 文志 四 には、 『 霧居 士』 な る著述 「 十巻」 が著録 さ. 関川名士伝 一巻」 が著録され て、 「 芸文志 二に 「 字紹 山、大 順中進 士第 。 」と. 乃ち之 と盟 いて日く 、都 に至り て、当 に相 い迎う べき のみと。即ち泣を濯. の中 に、因 り て悦 ぶ所有り 、情. 汗 なり。貞 元 の年 、進 士 の第 に登 る。関試を畢 えて、太 原 に薄遊 し、楽籍. 欧陽鰭 字 は行周 、泉州晋江 の人。弱冠 にして能く文を属 り、天縦 ・浩. れ るほか、同 じく 『 新唐書』巻 二百 二十 五下 、黄 巣伝 に、乾符 六年 ( 八七八)、. ぎ て別る。俳ち之 に詩を贈り て日く 、. であ る。黄 撲 の単独 の伝 は新 ・旧 『 唐 書』 にはな く 、 『 新唐 書』 巻 五十 八 、. 黄巣 の軍が広州 に侵攻す る途次 のこととし て、次 のような記事 が見え るのみ. 駆馬漸覚遠. 馬を 駆り て漸 く遠 きを覚 ゆ. なみだ. 甚 だ相 い得 たり。帰 らん とす る に及び 、. であ る 。.
(10) . 詩と欧陽蝕. 巳 に見えず. 週頭長路塵 頭を 廻らす長路 の塵 高城己不見 高城. 見 、 一た び 働 し て卒 す 。故 に 孟 簡. 詩 を 賦 し て之 を 果 す 。序 に 日 く 、:::. ので省略す る。さ て、 この 「 欧陽行周伝」 にお いて注意 しておきた い点が い. 詠欧陽行周事井序」 が引 用され て いるが、す でに見た このあと に孟簡 の 「. 去意既未甘 去 るも のの意 は既 に未だ甘 んぜず. く つかあ る 。 第 一に 、 冒 頭 に引 いた の で省 略 し た が 、 太 原 の妓 女 の詩 が こ こ. 況復城中 人 況 や復た城中 の人を や. 居情諒多辛 居 るも のの情 は諒 に辛き こと多 からん. に初 め て登場す る こと であ る。第 二に、妓女 と欧陽鰭の死 の経緯 に ついて、. 東北 の晋. 五原東北晋 五原. 其 れ死 せん。 ・ ::・. 孟簡 の序文 では、妓女 に ついて 「 死に先 だ っの夕 べ」 に、雲誓を 切 って侍児. に 託 し た 、 と の み あ った のが 、 黄 撲 の伝 に お いて は 「 吾. 千里西南秦 千里 西南の秦 一層 門を出 でず. 」 とあ って、死 のごく直前 に詩を 書 いた かのよ う に誇張 が 筆を 絶ち て逝く。. 一層不出門 親車無停輪 親車. なされ て いる。また、欧陽鰭に ついても、孟簡 の序文 では 「 生. 輪を停む る無 し. 流体与繋鞄 流棒と繋 鞄と. 」 とあ って、遺髪を 見 た欧陽鱈が、 それ から十 怨 し、旬 を渉 て生も亦 没す 。. 関川名 士伝』 を撰す る に際 して 孟簡 の序 に詩が見 えな か った以上、黄撲が 『. それ では誰が太原 の妓 の詩を創作 した のであろうか。推測 の域を出 な いが、. 」 と す る な ど 、臨 終 の描 写 が い っそ う 劇 的 に な って いる 。 て卒 す 。. 日 を 経 て 亡 く な った と す る の に 、 黄 瑛 の伝 で は 、 「 其 の詩 を 見 、 一た び 働 し. 之 が為 に働. 早晩期相親 早晩 相 い親 しむ ことを期せんや. 8) (. 初 発太原 前述 したよう にここに引 かれ る詩 は、 『 欧陽行周文集』巻 二に、 「 途 中 寄 太 原 所 思 」 と し て見 え る も の であ り 、 一部 これ に よ って改 め た 。 こ の. 詩 が、そ の後 の展開 の重要 な契機 とな って いること は間違 いな い。 「 欧陽行 周伝」 の後半を見 て いこう。. 資料 とした文献 の作者 か、あ る いは黄撲自身が これを創作 したと考 えざ るを. 唐代 の欧陽鱈に関す る資料と して、最後 に苑櫨 の 『 雲渓友議』 巻上 、南 海. 得 な い の であ る。. 刃而厘之 、顧謂女弟 日、吾其死突 。荷欧陽生使至 、可以是為信。又遺之詩. 雲渓友議』を編 んだ蒐癒に ついては、 『 非 の条を 見 てお こう。ただ し、 『 新唐. 尋除国子四門助教、住京。籍中者思之 不己。経年得疾且甚 。乃危粧引誓 、 日、・ 11。絶筆而逝。及億使至 、女弟 如言。径持帰京 、具白其事 。鱈啓函. 威通 の時 、自 ら五雲渓 人 と称す 。 ) とある のが知 られ. 」 威 通時 、自称 五 雲渓 人。. 蒲嫡雲渓友議三巻 書』巻 五十 九、芸 文志 三 に、 「 施療 の雲渓友議 三巻 (. ::・ 間之、又見其詩 、 一働而卒。故孟簡賦詩実之。序 日。・ 尋 いで国子四門助数 に除せられ、京 に住ま る。籍中 の者 之を思 いて己. るのみであ って執筆時期 は明確 でなく、黄瑛 の伝 が撰 せられ る以前 の著作 で ^ 9). まず。年を経 て疾を得 て且 つ甚 だ し。乃ち危粧 して誓を引き、刃り て之を. 挙は、か つて進 士 の章涛 なる者が南海 から携 え てきた超氏を妾 と し て いた. 八 二七ー 八三五)初 めの進士 であ る房千 里 、字 は鵠 成都 に いた、大和 (. こ- つ。. あ る可能性もあ る。 『 雲渓友議』 に載 せられ る話柄 のあらま しを 紹介 してお 言 の如くにす。径ち に持ち. 。筆 :1・ 之 に詩 を 遺 り て 日 く 、 ・. 其れ死 せん。高くも欧陽生 の使 い. 厘 にし、顧 みて女弟 に謂 いて日く、吾. 至 らば 、 是 れ を 以 て信 と 為 す べ し と 。 又 つ. を絶ち て逝く。傭の使 いの至 るに及び 、女弟 つぶさ. て京 に帰 り、具 に其 の事を白 ぐ 。鰭 函を啓き て之 を閲 し、又 其 の詩を.
(11) . . 後 藤 秋 正. 人を遣 って訪 ね ると超氏 は章涛 のも のにな って いた。 これを報ず る許運 の. 遇 い、妾 に 「 情 意 」 を 伝 え る こと を 依 頼 し た 。 と こ ろ が 、 許 運 が 到 着 し て. 裏州ま で来 たとき に、番 鴇 ( 広東省広州市) に赴 こうと して いた許 運 と出. が 、 都 に 戻 る 際 に 超 氏 と い った ん 別 れ 、 「 中 秋 」 に会 う こ と を 約 束 し た 。. 能薦韓愈之賢、而不能以胎親憂為念、殆有所蔽而然也。如楽津北楼絶句与. 短 、節詞以解人之疑与。鳴呼 、 鋳熊義 何蕃之不従 乱、而不能割愛於 一婦人 、. 所謂高城 己不見、況復城中 人者 、乃其人也。登 退之 以同棲之故、而固護其. 将 死 、 割 箸 付 女 奴 以 授 篇 。 億 一見 大 働 、 亦 卒 。 集 中 載 初 発 太 原 寄 所 思 詩 、. ほとん. 聞唱涼州詩 、皆賦情 不薄 、有 以知其享年之不長也。. 0) ( 1. 詩 を 読 んだ 房 千 里 は 、 「 幾 有 欧陽 四 門 億太 原之 喪 。」 ( 幾 ど 欧陽 四 門 鱈 の. 其 の書を読 みて、其 の慈孝 に於け るや最も隆 んな るを知 ると。 又日く、危. 欧陽篇哀詞を作り、其 の父母 に事 え て至孝 な るを言う。又日く、. この 一文 には原注 があ って、 「 欧陽太 原亡姫之事 、孟簡尚 書己有序詩 述之. 朝夕 の父 母 の養を舎 てて京師 に来 る、其 の心 将 に以 て得 て帰り、父母 の. 韓退之. 己 に序詩有 り て之を述 ぶ。) と指. 太 原 の喪 のご と き 有 り 。) と いう 情 況 で あ った 。. 突。 」( 欧陽 の太 原亡姫 の事 は、孟簡 尚書. 栄 と為さんとす る有 るなりと。関川名 士伝 の載す るを観 るに及 ん では、危. す. 摘 し て いる。 この記述 からすれば 、威通時期 ( 八六○! 八七四) に活動 した. 太原 の妓 に溺れ 、未だ迎帰す るに及ばず して、京師 の行有り。既 に期を想. 卒す。集中 に初 め て太原を発 して思. あらた. 施療が 『 雲渓友議』 を編 んだ時 には、す でに欧陽傭と太原 の妓女 と の逸話 は. ち て妓 の病革 ま る、将 に死せんとし て、誓を割き女 奴 に付 し て以 て鰭に授. 一たび 見 て大 いに働 し、亦. 巳 に見えず 、況 や復 た城中 の人を や、. 同棲 の故を以 て、固より其 の短を護り、. 高城. う所 に寄す る詩 を載す 、所謂. く、 鰭. 広 く 知 ら れ て いた の で あ ろ う 。. 五. とは、乃ち其 の人なり。登 に退之 いつく ‐. を義 と し、而 し て愛 しみを 一婦人 に割く能わざ らん や、能く韓愈 の賢を薦. 詞を飾 り て以 て人 の疑 いを解 かんや。鳴呼 、鰭 能く何審 の乱 に従 わざ る. 王定 保 『 唐振言』、王議 『 唐 語林』 など にも 散見す る。 しか し、 これ らは欧. め、而 し て親 に憂 いを胎すを 以 て念と為す能わざ らん や、殆ど蔽わ るる所. さ て、欧陽傭の事跡 は これま で見 てきた資料 以外 にも 、李肇 『 唐国史補』、 陽倦の進士登第 にま つわ る逸話を取り上げ るに過ぎ な い。太原 の妓女 と の逸. 有 り て然 るなり。楽津北楼絶句と涼州を唱うを聞 く詩 の如き は、皆な情を. のこ. 話 がも っぱ ら取 り上げ られ るよう にな るのは、宋 ・明代 の詩話類 に至 ってか. 賦 し て薄 からず 、以 て其 の享年 の長 からざ る有るを知 るなり。. . ら であ る。. 葛立方 は、正義 感 と孝行 で聞 こえた欧陽鰭の判断力 の欠如を嘆 き 、 い っぽ. まず 、尤麦 (: 二七ー --九四) の 『 全唐 詩 話』巻 二は、 「 途中寄太原 所思」詩 と太原 の妓女 の 「 詩」 を引 き、孟簡 の序文 にも言及す るが 、文章 は. う ではそ のひた むきさを惜 しん で いるが、彼もまた欧陽篇 の死 は太原 の妓女. . 黄瑛 の 「 欧 陽行 周伝」 と ほぼ同様 であ る。さ ら に、葛立方 ( ?ー 一一六四). に起因す ると信 じて いた のであ る。そ の後も 、欧陽鱈と太 原 の妓 の逸 話は記 した役割も大き か った であろう。. 録 され続 け てゆく。逸話が伝播 してゆくうえで、計有功 『 唐詩紀事』 の果た. 韻語陽秋』巻十九は、次 のよう に言う。 の 『 韓退之作欧陽篤哀詞、言其事父母至孝 。又日、読其書 、知其於慈孝 最隆 。 又日、傭舎朝夕父 母之養 而来京師 、其 心将 以有得而帰 、為父母栄也 。及観 閲川名士伝載 、篇溺太原之妓 、未及迎帰 、而有京師之行。既想期而妓病革 、. 0 4.
(12) . 太原の妓女の詩と欧陽鰭. 注. の余り時を おかず に亡くな ったとす る ことにも根拠 がな い。 このような逸話. 彼女 の真作 であるとは考 えられな いし、欧陽鱈が妓女 の遺髪を見 て、悲 しみ. 絶 命 詩 」 は 、 これ ま で 見 て き た 通 り 、 事 実 で あ る 。し か し 、妓 女 の いわ ゆ る 「. で妓 女 と 出 会 った こ と は 事 実 で あ り 、 ま た 、 彼 が 四 十 代 で亡 く な った こ と も. め て考 えみるならば 、欧陽傭がまだ任官 して いな い時期 に太原 に行き、そ こ. ても しば しば見 られ た こと に違 いな い。 これを欧陽篤と太原 の妓女 に当 ては. 文経論叢」三 一ー三、人文科学篇 一六、 一九九 ー」 ( 弘前大学人文学部 「. 唐代 作家 疑年録◎ー 欧陽鱈 ・郭元振 ・陸 羽 なければ ならな い。植木久行 「. 二 〇 三 の本 伝 に記 さ れ て いる 。 し た が って 、 こ の生 年 に つ い て は 訂 正 さ れ. 年 四十像」 で卒 した ことは 『 新唐書』 巻 の間と考 えられる。また、彼が 「. れな いと ころから、欧陽鱈が没 した のは、貞 元 : ハ年 から同 一七年冬ま で. とには言 及す るも のの、同 一七年冬 に韓愈 が四門博 士とな った こと には触. 七 六八ー 八 二四) の 「 欧 陽生哀辞」 よ う に、彼 と同年 の進 士 であ る韓 愈 ( には、貞 元 一五年 ( 七九九) の冬 に欧陽鱈が韓愈を国子博 士に推挽 した こ. 欧 陽 鱈 の生 没 年 に つ いて 、 仮 に こ のよ う に 記 し た が 、 本 論 中 でも 触 れ る. 初 発太原途中寄太原所 思」 にあり 、これが孟簡 が発生す る発端 は欧陽鱈の 「. 六) で は 、 こ の点 に 関 し て詳 細 な 検 討 が な さ れ て いる 。 ま た 、 いち いち 明. 1. の手 によ って 一篇 の物語 に仕立 てられ、さら に、黄撲 かまたは黄瑛 に先立 つ. 示 しな か ったが、植木論文 は多く の資料を博捜 して いて参考 にな る点 が多. 文人が妓女と親交を結び 、それが不幸 な結末 に終わ る ことは、唐代 にお い. 何者 か の手 によ って太原 の妓 の詩 が創作され て付加されたと いう のが真相 で. く 、 多 大 の学 恩 を 蒙 った 。. . あ ろ う 。 そ の際 に 手 が か り と な った 詩 が あ った こと を 、 明 の楊 慎 (一四 八 八. 『 唐詩紀事』巻 三五、欧陽篤の条 には、次 のように言う。. 。或 日、 鱈遊太原 、悦 一妓。将 別 、約至都 1:・ 途中寄太原所思詩云、・. 2. 」( 唐 人 の詩 句 、雷同を厭わざ るは、絶句 「 唐人詩 句 、不厭雷 同 、絶句 尤多。. 唐詩 不厭 同」 の条 には、 升 篭詩 話』巻 五 、 「 ー 一五五九) が指摘 し て いる。 『 元模 「 鴬鴬伝」 所引 。 尤も多 し。 )と述 べたあと で、次 のよ うな雀鴬鴬 の詩 (. 相迎 、故有早晩期相親之句。妓 思之不己、得疾且甚。乃刃誓蔵之 、謂女 。絶筆而逝 。及鱈至 、如其 ー・ 弟 日、欧陽生至、可以為信。 又作詩 日、 ・. 消痩 容光を減 じて目従 り. に遊 び 、 一妓 を 悦 ぶ 。 将 に 別 れ ん と し て 、 都 に至 り て相 い迎 え ん こ と を. 寄詩」 として見 える)を引 いて いる。 『 全唐詩』巻八〇〇には 「. 言示之 。鱈啓函 、 一働而卒。 目従消痩減容光. 万転 千 週 林より下るに擁 し. 約す 、故 に 「 早晩相 い親しま ん ことを期す」 の句有り。妓. 。或 ひと日 く 、 危 太 原 ::・ 「 途 中 太 原 の所 思 に寄 す る 詩 」 に 云 う 、 ・. 万転千週備下駄. 傍人 の為 に差 じて起 たぎ るにあ らず. 函を. 3 後 に引く資料 からも明 らかなよう に、太原 の妓女 は、 いわゆ る官妓 、ま. 啓 き 、 一た び 働 し て卒 す 。. 筆を 絶 ち て逝 く。 鱈 の至 る に及び 、其 の言 の如く之 を 示す 。 億. 日く 、欧陽生 の至 らば 、以 て信と為す べしと。又詩を作り て日く 、ー も. 己まず 、疾を得 て且 つ甚だ し。乃ち誓を刃りて之を蔵 し、女 弟 に謂 いて. 之 を思 いて. 不為傍 人差不起. 因郎慌悼却義郎 郎 に因り て憶惇 し却 って郎 に差ず 詠 こ の詩 は 妓 女 の恋 心 を 詠 じ た も の で あ る が 、 あ る いは こ の詩 と 孟 簡 の 「. 〔二 0 ○ ○ ・ 一 ・ 一二 稿 〕. 欧陽行周事」詩とが結び ついて、太原 の妓女 の詩 が創作 され る基礎とな った も のであ ろう。. 上) 」 長安 の歌妓 ( たは営妓だ ったと考 えられ る。これ に ついて石田幹之助 「.
(13) . . 後 藤 秋 正. ( 『 増訂 て いる 。. 長 安 の春』 平 凡社東 洋文 庫 九 一、 一九 六 七) は次 のよ う に述 べ. 次 に官妓 とも申す べきも のがありま した。州郡 や藩鎮 の街内 に置 かれ 、. 楽府詩 集』 に引く説話 は、 『 『 太平広記』 巻 一六 一、感 応 一、南 徐士 人. 学恩を蒙 った。 6. のでありま して、営妓 と云ふ のも この類 のも のであります がそれは軍営. 君既為儀死. 華山畿. 独り活く るも誰 が為 にか施さん. 君. 華 山 の畿. 既に儀 の為 に死す. 官 の承諾許可を 必要 とした ことは当然 であります 。. ありま した。ただ官妓 が身を退 いて民庶 に嫁 せんとす る時 には、地方長. ば長官 の考 へ次第 で自由 に籍を解 いて之 に贈 る ことなど は習見 のこと で. または流 行 した要因 は何 であるか。それを探り出す と、次 の五 つを 数え る. からば 、説話がどう して歌曲 にまと いついた か。換言す れば 、歌曲 が発生. 始 め、東晋及び 宋初 に発生 した歌曲 に、説話がまと い ついて いる。ー :し. 三 〇頁 、 「 呉歌 にま つわ る説 話」 は、 「 呉歌 のうち 、最古 の 『 子夜 歌』 を. 償 の為 に開け. ま た 、斎藤 茂 『 妓 女 と中 国文 人』 ( 東 方 選書 三 五 、 二〇 〇 0)、第 一章. こ と が で き る 。 す な わ ち 、 一つは 、 歌 辞 が 本 で説 話 の生 ま れ た も の 。 二 つ. 一. の条 に 、撰 者 未 詳 の 『 系 蒙 』を 出 典 と し て引 かれ る 一文 と ほ ぼ 同 じ で あ る 。. に置 かれ た こと から この名を得たも のと思はれます 。 これらは之 に主 た. 独活為誰施. 歓 若 し憐れまるる時あらば. 次 に歌 詞を掲げ ておく。. る文武 の地方長官 が勝手 に処 理す ることを得たも のでありま して長官が. 歓若 見憐時. 刺史 や節度使 の如き地方長官 の公私 の宴会 など に侍す るのを職 としたも. 任期満ち て郷 に帰 る時 、また甲地を去 って乙地 に転ず る時 など 、随意 に. 棺木為俊開 棺木. われ. そ のうち の尤物を 選ん で行を共 にす ることも出来ま した し、隣郡 から請. ま た、増 田清 秀 『 楽 府 の歴史 的研 究』 ( 創 文社 、 一九七 五)第 六章. 「 妓 女 の起 こり」中 の 「 営妓」 の項 は、 「 営妓 と土大夫 の ロマン スの 一例」. は、有名人 の女性関係。三 つは、逆臣 の行動。四 つは、王室 の噂。五 つは、. なんじ. 求があれば之を貸 し与 へる ことは勿論 、縁あ って之を欲す るも のがあれ. と し て、 『 関川 名 士 伝』 か ら欧 陽 鰭と太 原 の妓 女 の逸 話 を 引 いて いる。. 前 掲 諸 田論 文 は 、 『 太 平 広 記』 に引 かれ る こ の故 事 に ついて、 「『 欧陽. いる 。. 民 間 のあ る情 死事 件 であ る。 」 と述 べ、 「 華 山畿 」 を第 五 の項 に分 類 し て 7. 本書 からも多大 の学恩を蒙 った。. 4 横山伊勢雄 「 苦吟派の詩ー孟郊試論ー」 ( 大塚漢文学会 「 漢文学会会報」 四 一、 一九八三) には、孟簡 に言及す る部分があ る。 孟簡 は孟郊 の従叔 に. ( 暦』故事 は、二 つの部分 に大 別 できる。 一つは晩唐 の黄 瑛が記した部分 で. あり、今 一つは、中唐 の孟簡 によ る部分 である。:ー 黄 瑛所記部 は誤 聞 や. あ た る。. こ の点 に関 して、諸 田龍美 「『 欧 陽鱈』 事件 から見た 『 鴬鴬 伝』 の新 解. 5. 8 詩 の読 みに ついては前掲 『 妓女と中 国文 人』を参照 した。なお同書 は大 意 も 付 し て いる 。. ただ し、 こ の 『 新唐 書』 芸 文志 の記述 に ついて、 『 四庫 全書 総 目提 要』. 巻 一四0、小説家類 一の 尋貫 渓友議』 の条 は、次 のよ う に述 べて いる。 始末 未 詳 。唐書 芸 文志 註称 為 威 通 時 人 。而書中 李 渉贈 盗詩 一条 、称. 9. 脚色を含 み、信悪性 に疑問が残 る。 」 と指摘す る。. 釈ー 中 唐 の 『 尤物 論』 を 巡 ってー 」 ( 日本中国学 会 報」 四九集 、 一九九 「 七) は、 「 孟簡 は欧陽篤に先立 つこと 一年 、貞 元 七年 に科挙 に及第 し、同 年 の進 士 には閥出身 の林藻 が いた。欧陽鱈とは同郷 の知 己 であ った この林 藻を介 し て、孟簡 は欧 陽鰭を知 った のであ ろう。だとす れば 欧陽箇 の死去 は孟簡 にと って、十年来 の友 人を失 った ことを意味 した。従 って、彼 は衷 心 か ら 、 こ れ を 悼 ん だ の で あ る 。」 と 指 摘 し て い る 。 本 論 文 か ら も 多 大 の. 2 4.
(14) . 太原の妓女の詩と欧陽鰭. 乾符 己丑歳客於書川 、親見李博士手蹟 。考乾符 元年為甲午 、六年為 己亥、 次年庚子改元広 明、中 間無己丑。己丑実為威 通十年 。疑書中或誤威通為 乾符、否則 誤己亥 為己丑。然総之僧宗時 人突。 始末 未 だ詳 ら かならず。唐書芸文志 の註 に称 して威通 の時 の人と為 す 。而 るに書中 の李 渉贈盗詩 の 一条 に、乾符 己丑 の歳 誓川 に客 たり 、 親 しく李博士 の手蹟を 見 る、と称す 。考う るに乾符元年 は甲午為 り、六 年は己亥為り、次年 の庚子 広明 と改元 し、中間 に己丑無 し。 己丑は実 は威通十年為 り。疑 うらくは書中或 いは威通を誤りて乾符 と為す か、否 らざれば則ち己亥を誤り て己丑と為す のみ。然らば之を総ず るに倍宗 の 時 の人 な ら ん 。. 八八 八) に没 して い 八七三) に即位 し、文徳 元年 ( 傭宗 は威通 一四年 ( る。. 0 1:」 と言うが、 『 全唐詩』 巻 八〇 運寄 房秀才詩 日、 ・ 『 雲渓友議』 は 「 1 寄情」詩 と して載 せ、題下注 に 「一作許揮代 作」 と言 〇には 「 超氏」 の 「 許揮研究』 ( 貴州 人民出版社 、 一九 う。また こ の詩 に ついては、李立朴 『 九四) に考証があ る。 1 ただ し、 「 万 里東北晋」 に作 り、妓女 途中寄 太原所思」 詩 の第七句を 「 1 為 奴開取鍍金箱」 に作る。 の詩 の結句を 、 「 、 2 聞 楽 津店 北波」 ( 『 欧 陽行 周 文集』 巻 二) と 、五律 「 1 それ ぞ れ 七絶 「 同)を指す 。とも に別れた女性を想 う内容 とな って 郷舎 唱涼州有所思」 ( いる。. 、 3 直斎 1 欧陽傭 の死 に ついては本稿 で取 り上げた資料 のほかにも 陳振 孫 『 四 四庫 全書総目提 要』 巻 一五 0、余嘉 錫 『 書録解題』 巻 一六をは じめ、 『. 四庫全書総目提要補正』巻四四 庫提要弁護』巻二○、胡玉糟撰 ・王欣夫 『 な ど に多 く の指 摘 が な さ れ て いる 。 し か し 、 いず れ も 太 原 の妓 女 の詩 に は 論 及 し な い。. 嫌.
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