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(1)

ー7β −  

701  

紹  介  

ハイマンのマルクス主義観  

辻   唯  之  

1 ハイマンの問題意識  

一切を神の「恩寵の光」のもとに見ようとする中性的宗教的態度と訣別し,一切を「自   然の光」のもとに見ようとする態度を理性的と呼ぶならば,近代に.本質的な特徴は,理性  

である。「恩寵の光」から解き放たれた自然,客観対象としての自然を観察し,そこに働い   ている針鼠関係,因果関係を推測して,自然を成立せしめている、法則を解明する精神,そ   れが迦性なのである。やがて.一理性は人間社会をもその対象とするに.いたる。ノ\イマンによ   れば,しかし,近代の特徴を理性的と把握するだけでは十分でない。理性的精神は,すで   紅ギリシャにある。近代をまさに近代たらしめているものほ,理性を個人的社会的生活の   指標としつつ,この理性のもたらす福祉を至上の価値と見る「理性信仰」(Faithin Reason)  

である。換言すれば,超理性的な権威への礼讃を斥けて,物質的利益の追求を自己目的と   する「社会的合理主義」(SocialRationalism)が,近代人の信念なのである。  

『現代社会k,おける理性と信仰』(Eduard Heimann, Reason and Faithin Modern  

Society〃−Liberalism,Matxism,andDemocracy・,Wesleyan University Press,1961)  

の課題ほ,自由主義体制たると共産主義体制たるとを問わず,近代文明を危機紅おとしい   れたものは上のような「理性信仰」であるということ,及びこの危機を救済するカは近代   文明の棄てて顧みぬ宗教笛精神以外紅はないということを論証することであった。ハイマ   yによれば,自由主義体制は私的利益を合理的に追求する個人を至上とする体制である。  

この個人主義的体制を分析した本番第一部の結論は,「個人主義は個別性を破壊する」  

(ibid・,p・22)となっている。第二部はマルクス主義批判である。マルクス主義は個人主義   的理性を集団主義的理性紅おきかえた紅過ぎず,「理性信仰」の本質的な矛盾を解決して   いないというのが,第二部の結論となっている。自分は第二部を中心紅ハイマンのマルク   ス主義観を紹介しょう、と思う。   

(2)

第42巻 第6号  

−74−  

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皿 マルクス主義の歴史観  

ハイマンほ,マルクス主義理論体系は理性の弁証法と社会の弁証法とから構成されてい   るという。まず,理性の弁証法とは何か,ハイマンはこれな・次の如く説明する。   

理性の進展がやがて人類の進歩であるという,理性紅対する絶対信頼ほ,啓蒙主義に始   まる。理性の直線的進歩という百家全署家の理念を,へ−ゲルは弁証法的発展に・皐る理性   の進歩という理念紅つくりかえた。マルクスの弁証法ほヘーゲルにおける理性の観念的弁   証法を唯物化したものに他ならない。そうして,こ.れらの哲学者を共通して眉くものは,  

前節で述べた「理性信仰」である。いかに・もマルクスほ個人主義的理性の自然調和を信ず   るブルジョア的態度を真理の歪曲と批判している。け・れども,マルクスが資本主義の不   正と無秩序の禍根を,理性そのものではなく,理性を私的利益追求の手段に眩める個人主   義に求めたのは,その「理性イ言仰」の立場からすれば当然である。マルクス主義は,かく  

して:,資本主義体制の害悪を除去すべく理性を個人の次元から袋田の次元へと移し,移す   ことに.よって.最終的な調和がもたらされると説くのである。個人主義的理性から集団主義   的理性への弁証法的発展,これが理性の弁証法である。かように.発展する理性を体験する  

ものは,生産手段を剥奪されているがゆえに悪しき個人主義を超越して集団的,広汎な分   業のもとで労働するがゆえに個人の福祉が全体の福祉に依存することを認識して普遍的な   る労働者階級である。集団的理性ほ労働者階級の中に顕現レている。ここに,集団的理性   は,歴史的紅はまず階級利益という形態をとらざるを得ない。そうして,この「階級利   益」が個々の労働者紅普遍的感覚を酸成させつつ,労働者階級をして体制変革の原動力た  

らしめるのである。労働者階級が自らの血肉となれる集団的理性を自らの手で実現すると   いうのが,ハイマンのいうマルクス主義の社会の弁証法である。以上の考察から見ても,  

「理性の弁証法」と「社会の奔証法」は相即不離である。すなわち,労働者階級が自らの   階級的利益を追求する実践の中からより高次の理性が生まれ育って−くるのである。マルク   ス主義の思想の独自性は,まさにここに・ある。   

歴史的必然に.よって社会主義が,・その最終的完成としての共産主義が芙現する。この政   治形態のもとでは,集団的理性はもはや監われざる轟理として労働者階級の利益の中に自  

らを体現しているのであるから,各人の個別的利益は社会の全体的利益の中に・解消せざる   を得ない。かくして,階級闊争の歴史は終り,社会の統一・が実現する。と同時に・階級社会   に.おける被抑圧階級の抑圧をその機能とする国家はこの機能を失って死滅する。もはや強   

(3)

ハイマンのマルクス主義観   −75−  

703  

制約権力ほ.ない。自由人に.よる自由な共同体,「自由の王国」の実現は必至である。(以上   の議論は,主として,ibid.,pp.9畠〜99,103〜1O7による。)   

ハイマンはマルクス主義の歴史観を以上のよう紅把握する。以下の各節はそのようなマ   ルクス主義の批判である。  

Ⅲ マルキシズムとヒューマニズム  

未だ理性に目覚めていない原始共産社会の自然調和を打ら破り,歴史を発展の軌道龍.乗   せたものは,私有財産である。私有財産の発生とともに、人間の合理的能力も徐々に.開花し   始める。そうして,私有財産の最後の形態である資本主義的技術産業は.それ自らの運動   の申から共産主義社会をつくり出す。すなわち,不断に大規模化する技術産業は,ますま   す集団的な統一管理を必要とするよう紅なる。紅もかかわらず,それは私的紅所有され   ている。一方において産業を週期的に.破壊する経済的危機,他方に.おいて二,大規模な生産   単位の私的所有紅原因する階級分裂と社会不正,かような経済,社会両面からする矛眉は  社会機構を変革せずにはおかない。このように,人類解放の物質的条件としての共有財産   制度は歴史の必然的結果である。「理性の弁証法」とは,上の論述に.関連して言えば,盲  

目的自然的共同体としての原始共産社会が理性的共同体としての共産社会紅帰還する運動   なのである。   

他方たおいて,マルクスの思想における,理性とならぶ中心概念は,疎外,である。そ  うして,この疎外の克服こそがマルクスの生涯をかけた研欝の目標であった。マルクスは,  

疎外の歴史的変遷の過程を以下のように.説明している。   

私有財産の発生ととも正人間的連帯は打ち破られて,人間の人間からの疎外,自己疎外   が始まる。疎外ほ資本主義というその頂点紅向って不断に手甲し進められ,その究極の成果  

として技術産米をつくり出す。この技術産業の私的所有が否定されることは,既に考察し   た。かくして疎外という砂漠の長き放浪を終えた人類は,共有財産を物質的条件に.しつつ  

疎外を克服する。疎外以前には人間の原始的連帯が,疎外以後紅は人間の自己実現と自由   な連帯がある。   

このように.説明するマルクスではあるが,ここで注目しなけれはならないことほ,マル   クス特に青年マルクス自身が,共有財産制度は私有財産制度のもとで人間性を喪失するプ   ロレタリア的実存形式を廃絶せしめる唯一・の制度的装置ではあるが,必ずしも人類を疎外   

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第42巻 第6弓  

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704  

から解放するものでほ.ないと強調してこいることである。すなち,l経済学・哲学草稿」に  おいて,「粗野な共産主義」なるものは人格の否定として.のプロレタリア的実存形式を廃   絶せず,かえってこれを普遍化するものである,私有財産の発展的廃絶こそが人間野本質   の実現,そ・の獲得のために必要である,そして,この発展的廃絶の後に.,自由人紅よる自   由な共同休としての共産主義社会が現出する,とマルクスほ述べているのである。この初   期マルクスの考えは,『資本論.』第1巻27章把おいて,共産主義社会の目標は「生産手段   の共有を基礎とする個人的所有」を実現することである,と明確に規定され直されている   のである。ここに小う,私的所有ならぬ個人的所有と曙,まさに個別甲人間の人間的本質   の獲得,という意味である。マルクスのヒューマニズムとほかようなもの 

が,しかし, マルクス主義者は,初期マルクスの上のような精神的視点を棄て去って,  

琴本の専横からの労働者の解放が人類を】切の束縛から解放すると主張するのである。な   るほど,経済的抑圧のみが抑圧の唯一・の形態であるなら,この主張は正し、い。換言すれば,  

歴史を経済的視点から考察する歴史観がありさえすれば,自由の問題は解決されるという   ことに.なるであろう。これがこ.の主張に対する算−・の疑問である。次に,初期マルクスの  

「粗野な共産主義」批判に.も見られたように.,財産の共有は個人の独立を可能に・する条何   にしか過ぎない。さもなくば,個としての自覚のない原始的な財産共有の種族社会が既に   独立する個人からなる自由な社会組織体であったという事実無根を説くことに.なろう。こ  

れが,マルクス主義の先の主張に対する第二の疑問である。ここに,集団的理性を絶対視  

するマルキシ∵ズムとヒュ−マニズムとしてのマルキシズムとは果して両立し得るものであ  

るかという問題,すななち,共産主義社会はよく人間の自己実現のための制度的装置たり   得るかという問題が提出されるであろう。次節ほこの問題紅対する解答である。   

(以上の議論は,ibid‖,pp,124〜129)  

Ⅳ マルキシ㌧ズムにおける民主主義観と自由   

マルキシズムほ「労働者民主主義」(Workers,Democracy)の基礎を人間の同質的実存   紅求め.る。不断紅繰返されるプロレタリア的生活が,一方においては諸個人の利益を集団  

の利益紅仙致せしめ,他方においてほ階級闘争を根絶して社会の統一・を実現する。ところ  

で,集団的利益は決して個人的利益の単なる集琉ではない。個人的利益を自らの中に解   

(5)

ハイマンのマルクス主義観   ーー 77一   705  

消してしまうより高次の形態である。だから,入間の質的多様性はプロレタリアの階級利   益の前に.否定されなければならない。けだし,歴史の弁証法的発展の哲学的表現が「理性  

の弁証法」であり,その社会学的表現が「社会の弁証法」であり,しかも両者が相即不離   である以上,集団的理性は階級的利益の中に自らを顕現しなければならないからである。  

価値あるものは,人間ではなく集団的理性である。レ−ニ・ンが社会を個々の歯車には如   何なる自由も許きぬ機構として把捉したことはまさしく論理的であった。今や機構の前に   個人の創造的行為は否定される。人間ではなく社会が目的となる。人間的諸目的紅任える   べきであった,手段としての制度的装置が目的に転化するのである。ハイマンの言葉を引   用すれほ,「手段としての集団主義が目的としてのとユ・−マユズムを圧殺してしまった」  

(ibid..,p.136)のであるb このことは,決して歴史的偶然では.ない,マルクス主義歴史   理論の必然的帰結なのである。   

プルジョア民主主義は強者の自由のみを保証する制度である,とマルクス主義は批判す   る。そうして.その批判は正しい。が,そのマルクス主義の掲げる民主主義ほ.,実は個を否   定し全体を至上とする「全体主義的民主主義」(Totalitarian..Democracy)以外の何も   でもないのである。   

マルクスほ,ブルジョア個人主義が封蓮的迷妄との位恥、に.おい七漆得した人間の自由を   社会主義が普遍化するであろう,この偉大なる道産を杜ぐものはわがプロレクリアであ  

る,と確信していた。この確信は,なるほど因果的必然の科学理論によって武装こそされ   ているが;自律的理性の自動的進歩が究極にほ調和をもたらすであろうという,啓蒙運動   以来この方の誤まれる「理性信仰」の一形態でしかない。この意味に.おいて,私的利益   の合理的追求が社会の調和をもたらすとする,ブルジョア個人主義の世界観とマルクス主   義のそれとは同じ近代の伝統の中に位屈しているというぺきであろう。(以上の議論ほ,  

ibidりpp133〜137)   

以上の考察からも明らかなように.,マルク.ス主義紅おいてほ個人の自由は階級的利益の   前に消滅せざるを得ない。に.もかかわらず,自由め王国といい,自由人による自由な連合と   いい,マルクス主義理論に占める自由の位置は極めて藍要である。マルクス主義における   いわゆる「自由」とは,それではそもそもいかなる概念であるか,ハイマンは,ヂュ・−リ  

ングとの論争に.おいてエンゲルスが定義したところの,そしてマルクスもその定義紅賛同   したところの自由の概念からこの問題紅接近する。  

『反プユ→リング論封こおいて£ンゲルスはへ−ゲルを「自由とは必然性の受容以外の何   

(6)

ー 7β −   ′ 算42巻 第6号  

706  

者でもないことを発見した最後の哲学者」であると言った。しかし,絶対理念の弁証法的   発展を説くヘーゲルの精神主義が自然的必然の唯物弁証法と全然異なるものである如く,  

マルクス主義的意味における「必然性の受容」はヘーゲル的では決してない。すなわち,人  

間も動物もともに自然的存在であるが,己れの衝動的生命活動を規定する自然の必然性紅   盲目的な動物に対し,人間は必然性を認識し認識することによってそれを自らの知的財産  

となす。動物ほ必然性を知らぬ。したがって動物は自由でない。人間は必然性を認識するが   ゆえ紅かえってそれを超越する。マルキシズムに.おける人間の自由とはこの意味における  

「必然性の受容」(AcceptanceofNecessity)以外の何者でもないのである。そうして■,受容   せられるべき自然の必然性がその経済的合理性にあることは,マルクス主義が人間の本質   を理性に求めたことからすれは,当然である。まさに人間は「経済的理性の容器」(Vehicle   Ofeconomicreason)である。自由の概念がかようなものであるなら,マルクス主義匿.お  

ける人間の実践的行為も歴史的必然の法則紅.自覚的に従ってこのみ成立するところの科学的   行動主義以上のものではない。道徳的自由行為が入る余地は.ここに」はない。   

以上の議論をマルクスの民主主義観と結びつければ,次のように言いあらわすことがで   きるであろう。   

人間の本質は経済的合理性であり,その完全な開花を見て人間の歴史は終る。この最後    の至福を実現するために㌧人類が経験しなければならぬ最後の政治形態がプロレタリア独   裁である。その任務は,集団的合理性から見て.非合理的なるものを棄てト去ること,言い換  

えれば,多様性を同質性に,自発性を規則性紅,独自性を統一・性紅解消しつつ人間を集団   の鋳型にほめこむことである。このような,マンハイムのいわゆる「■人間の改造」が完了   すれば,それともに国家は自然消滅し自由人による自由な共同体が現われるであろう。そ  

こにおいて.人間は必然性を完全に.認識し受容する。してみれは,自由の王国へ飛躍する人   間は,個別的人間(individualpeI・SOn)ではなくして単なる人(man),階級利益の永続を目   的とする社会機構の中の無名ゐ要員紅しか過ぎない。全体主義的民主主義のもとでの人間   及び人間の自由とは,このようなものであった。(以上の議論は主として,ibid.,Pp.201〜  

204紅よる。)  

Ⅴ 経験的議論  

ハイマンが経験に.即して批判するマルクス主義の諸命題からこれまでの議論紅関連する   

(7)

ハイマンのマルクス主義観  

707   

− 79 −−   

ものをいくつかここで取り上げよう。   

社会主義ほ人間性を宜復するための制度的装潰である。しかも,社会主義は労働者階級   が自らの利益を追求する過程から必然的に生まれてくるものである。マルクス主義が自ら   を称して「科学的社会主義」一と呼ぶゆえんである。したがって二,マルクス主義は,後期  

資本主義社会における労働者階級の共産主義的自覚及び労働者階級による社会の統一を,  

まさに.科学的に.証明しなければならない。   

資本主義社会の発展は.,中間階級を労働者階級へと没落せしめ,増大し真窮化する労働者   階級を少数者の所有する巨大な産業の下で単純労働に従事せしめ,よってもって社会の圧   倒的多数となる労働者の実存形式を−・致せしめる。マルクスはその一・致の申に社会の統一  を求め,その統一・の中紅社会変革の原動力を見で取った。そ・して,マルクスもレ−ニ・ソ  

も,社会の統一・をもたらす労働の単純化を科学技術の進歩に.期持したのである。しかしな   がら,かかる期待が現実の歴史と距たること如何紅遠いかは明瞭である。なるはど機械が   複雑化するにつれて機械の下での労働は単純化する。けれども,その反面,機械に関する労  

働には.高度な技術的熟練,椅密な科学的知識が必要である。ここに新しい職能階層が拾   頭してくる。労働者階級は.単純化するというより複雑紅分化しつつ全体として中間化して  

いくとうのが,後期資本主義社会の階級構造のありさまである。プロレタリアの同質化,  

というマルクス主義の命題ほ当っておらない。(以上の議論はibid..,pp,129〜133)   

次紅「国家の死滅」という命題を経験紅即して検証しでみよう。   

もちろんのこと,世界的規模での国家間の緊張がある現在,共産主義社会に.なお国家が   存続していることをもっでマルクス主義国家観を否定することは.妥当ではない。マルクス  

主義自身も,集団的理性の真理が世界的規模において漕遍的となれる時,国家もまた消滅   すると説くのである。が,果して国家ほ.死滅するか。マルクス主義は永遠の至福としての  

自由の王国の到来を説く。そこでは丁・切の強制権カほ.消滅していなければならない。国家   が死滅することは.マルクス主義理論に・必要不可欠である。   

マルクス主義ほ.,国家は特別の訓練を受けた管理集団すなわち官僚に他ならない,科学   技術の進歩は人民の誰もが計画立案の参加者となり得る程度まで管理の職能を単純化する   であろう,かくしで独裁的な管僚機柄は人民の中紅自然消滅する,と説く。しかしながら,機   械化時代における社会機構は単純化するというより竣雑化し,現在の国家は専門的な管理   者を要請しているというのが現実である。当の共産主義社会は,既に1918年,クェ−バ−  

が予言した如く完全紅管理された官僚的全体主義国家として立ち現われているのである。   

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第42巻 第6号  

ー・βクー・  

708  

あるいはマルクス主義者は・,こ∫の議論紅対し,国家の本質が経済的搾取にある以上,私有   財産を共有化した共産主義社会における官僚はもはや支配階級としての曽僚ではなく,プ  

ロレタアとしての封画立案者に.過ぎないと反駁するであろう。しかし官僚制は.決して所有   関係だけから論じられるものではない。ある集団の他の集団を優越する職能の存続,それ   から生ずる社会的勢力の格差は,必ずや階級分裂の新たなる源泉となろう。ノ\イマンから  

見れば,「国家の死滅」などということは.汐,=.ファーソソの ≒minimun−gOVernment≒の   理念にも劣らぬ幻想なのである。(以上の議論は,主として:,ibid..,Pp.198〜201)  

結  語  

資本ま義社会における人間の疎外を克服し,「人間陛」回復のために典産主義社会を建   叙することがマルクスの目的であった。しかし,実現した社会ほ集団の名に・おシ、て個人の  

自由を圧殺する官僚的全体主義である。このことほ.決して歴史的偶然そはない。人間の本   質を理性とし,その個人主義的形態の,集団主義的形態への止揚を人類の進歩と見るマルク  

ス主義からすれば,このことはまさ紅「歴史的必然」なのである。マルクス主義もプル汐   ヨア個人主義も,−・方が社会的平等を,他方が個人的自由を絶対視する如く人間理性の解   釈適用の仕方に・おいて異なりこそすれ,ともに社会的合理主義であり,「理性信仰」とい  

う共通の地盤の上に立っている。たしかにマルクス主義思想は資本主義の矛眉と不正を鋭   く突いてほいる。そうして,その批判が,近代西欧社会の「改革」を促したことも事実で   ある。が,ブルジョア個人主義がそうであるように,「近代文朋の危機」を救済するカはマ  

ルクス主義にはない。ハイマンのマルクス主義観はかようなものであった。・それでは,ハ   イマンは.,来たるぺき社会はいかにあるべきというのかご「理性信仰」にかえるに何をも  

?ですべきで挙るというのか0この問題をハイマンは本書第三部で展開するのであるが,  

その紹介紅ついてほ別の機会を待ちたい。   

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