長崎大学留学生センター紀要 第
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年53
戦前戦中期における文部省直轄学校の
「 特設予科」制度について
一長崎高等商業学校 を事例 として 一
嶋津 拓
キーワー ド:
留学生教育、特設予科、対支文化事業、長崎高等商業学校
は じめに
近代 日本 における外国人留学生の受 け入れは、1 8 81 年 に福沢諭吉が朝鮮か らの留学生を受け入れたのを晴矢 とする。その後、1 8 96 年 には 日清戦争 に敗 れた清国が官費留学生1 3 名を日本 に派遣 した。 この靖国留学生は嘉納治五郎 が受 け入れ、嘉納は1 9 0 2 年 に宏文学院 ( 弘文学院)を設立 し、留学生教育 を 本格化 した。
靖国か らの留学生は 日露戦争が終結 した1 90 5 年頃には私費留学生を含めて 1 万人近い留学生が 日本で学んでいた とい う。
1このような状況に対 して、留 学生のための教育課程 も数多 く生まれ、私立学校では、早稲 田大学が清国留 学生部、明治大学が付属経緯学堂、法政大学が法政速成科 を設置 している。
この時期、靖国政府は留学生の送 り出 しに熱心だった。また、 日本の私立 学校 も靖国留学生の受 け入れ に積極的だった。 しか し、 日本政府 は留学生の 受け入れ に必ず しも積極的だったわけではない。た しかに日本政府 は 1 8 9 2 年 に 「 外国人留学生規程 」 を、1 901 年 には 「 文部省直轄学校外 国人特別入学規 程 」 を制定 し、留学生を受 け入れ るための制度整備 に努めてはいたが、後述 する 「 特約五校」制度 も靖国政府か らの要請で始まったことか らも明 らかな
とお り、多分 に受身的だった。
その 日本政府が留学生の受 け入れ に本格的 に取 り組む よ うになったのは、
いわゆる 「 対支文化事業」を1 92 3 年 に開始 してか らである。同年制定 された
「 対支文化事業特別会計法」 に基づ き、留学生 に対する奨学金の支給や留学
生予備教育機関の整備 に国の資金が投入 され るよ うにな り、 この制度は1 9 45
年の終戦時まで続いた。本稿 においては、 「 対支文化事業 」 の一環 として文部
省直轄学校 に設置 された留学生予備教育機関、すなわち 「 特設予科」におけ
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戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 についてる留学生教育の制度 を、同科設置校のひ とつである長崎高等商業学校 を事例 として考察 してみたい。
1 .特設予科設置以前の長崎高等商業学校における留学生受け入れ
1‑ 1 第 1 期 ( 靖国留学生の受 け入れ)
長崎高等商業学校 ( 以下、 「 長崎高商」 と言 う)は、東京 ・神戸 につ ぐ第三 の官立商業学校 として 、1 9 0 5 年 3 月 2 8 日に設立 された。設立当初は修業年限
3 年の本科のみを設置 し、同年 9 月 1 日、第 1 期生 として 1 1 3 名を迎え入れた。
長崎高商は、地理的あるいは歴史的 に日本でも特異な位置 にある長崎 に置 かれた高等商業学校であることを反映 してか、「 海外発展、特 に清、韓、南洋 方面 に雄飛活躍すべ き人材 を緊急 に養成する
」 2ことを目的 としていた。 この ため、早 くか ら朝鮮半島や大陸‑の修学旅行を実施 している。また、 これ ら の地域か らの留学生の受け入れ にも熱心で、開校翌年の 1 9 0 6 年 3 月 には 「 外 国人特別入学規程細則」を制定 している。その内容は次の とお りである。
第一条 外国人 にして本校 に於て一般学則の規程 に依 らず所定の学科 目中一 科 目若は数科 目の教授 を受 けんことを願 出る者あるときは本則 に拠
り之れが許否を定む
第二条 第一条の出願者は願書 に外務省在外公館若は本邦所在の外国公館の 紹介状及履歴書を添付 し学校長 に差出すべ し
第三条 第一条の出願者の学力は試験 に依 り之を検定す。此の場合 に於ては 入学試験料 を徴収せず。経歴 により日本帝国中学校卒業以上の学力 あ りと認むることを得 る者 に対 しては前項の入学試験 を省略す 第四条 本細則 に拠 り入学の許可を得たる者は保証人を要せず
3この 「 外 国人特別入学規程細則」 に基づ き、長崎高商は 1 9 0 7 年 に 「 韓国人 一人、晴国人五人
」 4を受け入れた。また 、1 9 0 8 年 には 「 韓国人一人、清国人 七人
」 5、1 9 0 9 年 には 「 清国人十一人
」 6、1 91 0 年には 「 清国人十五人
」 7、1 9 1 1 年 には 「 清国人四人
」 8を受 け入れている。
9ただし、彼 らは正規の学生 として受 け入れ られたのではないようだ。「 外国
人特別入学規程細則」の第一条 に、 「 外国人にして本校 に於て一般学則の規程
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に依 らず所定の学科 目中一科 目若は数科 目の教授 を受けんこと 」 を希望す る 者 とあるよ うに、彼 らは今 日で言 うところの科 目等履修生 として長崎高商 に 留学 した ようである。そのためもあってか、彼 らは卒業時に日本人学生の場 合 と異な り、 「 卒業証書」ではな く 「 畢業証書」 を授与 されている。
101 91 1 年 に 「 清国人四人 」 を受 け入れた後、長崎高商の留学生受 け入れ には 1 0 年 ほどの空 白期間がある。 これは辛亥革命の発生 による靖国の崩壊が大 き な要因 として考 えられ る。 日本全体で見ても1 9 0 5 年境には 1 万人近 くいた靖 国留学生が辛亥革命の起 きた1 91 1 年 には2 千人程度まで減少 している。
llここまでの時期を長崎高商 における留学生受け入れの第 1 期 とす るな らば、
この第 1 期は留学生教育 に関す る制度が未整備の時代だった と言 うことがで きるだろ う。 この時代、留学生 に対す る日本語教育や予備教育のための特別 の制度は長崎高商 に存在 しなかった。
ただし、 このことは日本の高等商業学校全体で留学生受入制度が未整備だっ た ことを意味するものではない。長崎高商の開校 と同 じ 1 9 0 5 年 には山口高等 商業学校が設立 されているが、その 2 年後 に同校は、いわゆる 「 特約五校」
のひ とつ に指定 され、留学生教育専門機関を設置 している。
この 「 特約五校」 制度は靖国政府の要請 によって始まったものである。靖国 は留学生の海外派遣 によって 自国の近代化を成 し遂 げよ うとしていたが、 日 本政府 も日本の官立学校も靖国留学生の受け入れに必ず しも積極的ではなかっ た。そ こで清国政府は 日本政府 と交渉 し、 日本の官立学校が靖国の留学生を 受け入れ るのに必要な経費の一部を同国政府が負担す ることを条件 に、文部 省直轄学校 5 校 ( 第一高等学校、東京高等工業学校、東京高等師範学校、千 葉医学専門学校、山口高等商業学校) に清国留学生の定員枠 を設 けることと なった。1 90 7 年、 日本政府 と靖国政府は下記の協定を締結 している。
一、 明治四十一年以降、十五年間、毎年、第一高等学校 に六十五名、東衷高 等師範学校 に二十五名、東京高等工業学校 に四十名、山口高等商業学校 に二十五名、千葉医学専門学校 に十名、合計百六十五名の靖国留学生の 入学を許可す。靖国はその為め学生一名に対 し二百円乃至二百五十円の 割合 にて、 ( 公使館の手を経て)当該学校 にその教育費を納む。 ( 中略)
‑、 各校の競争入学試験 に及第せる者が、 この官費生 として採用 さる ゝもの
にして、学生の教育費 ( 補助費) と学費 とは、一名一年分平均 日本金六
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戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 について百五十円 とす。
12この 「 特約五校」 制度 によって、山口高等商業学校は 1 9 0 8 年 4 月 に留学生特 設予科 を設置 し、毎年2 5名の靖国留学生を受 け入れ ることになった。留学生 はこの留学生特設予科 に 1 年間在籍 した後、本科 に編入 されて 日本人学生 と 一緒 に学び、 3 年間で卒業するシステムになっていた。
しか し、山口高等商業学校 における留学生受け入れは結果 として失敗 に終 わる。それは 1 9 1 1 年、修学旅行 における待遇をめ ぐって留学生 と学校の間に 対立が生 じ 、81 名の留学生が同盟退学する事件が発生 したか らである。
13この 事件を契機 として、山口高等商業学校は 「 特約五校」制度か らはずれ、同校 では留学生特設予科 も廃止 された。
ただ し、他の 4 校 においては中華民国成立後 も 「 特約五校」制度が存続 し た。 この制度は 「 留学生 に過度の受験競争 を強いなが ら、科挙廃止後の中国 におけるエ リー ト養成 に重要な役割を果た して
」 14いった とい う。
この 「 特約五校」制度は 1 5 年間の有期計画であったが、その終了を待たず、
1 9 2 0 年 に中国政府は当該官立学校 4 校 に対する補助金の支給 を中止 した。 こ のため、残余期間は 日本政府が中国政府 に代わって補助金を負担す ることに なったが、ち ょうどそのころか ら日本政府は留学生受入制度の整備 を本格的 に検討するようになる。そ して、長崎高商 もその対象 となるのである。
1‑2 第 2 期 ( 準備教育科の設置)
1 9 2 2 年、長崎高商は約 1 0 年ぶ りに留学生を受け入れた。同年 4 月、長崎高 商は 「 支那人五人
」 15に入学許可を出している。 この 「 支那人五人」の長崎高 商入学前 における学歴や 日本語学習歴は不明だが、今回は正規の学生 として 受け入れた らしく、長崎高商は彼 らに高度の 日本語能力を要求 した。 しか し、
当該 5 名の 日本語能力はそのレベル に達 していなかった ようで、長崎高商は 彼 らに課外で 日本語教育を施 した。また英語の補習 も行ったよ うである。
しか し、 この課外教育は充分な成果 を挙 げることができなかった。そ こで
長崎高商は 1 9 2 2 年 1 1 月 に 「 外国人特別入学規程細則」を改正 し、留学生のた
めの 「 準備教育科」を開設 した。 これは 5 か月間 ( 1 1 月〜翌年 3 月)、 の予備
教育課程で、修了すれば無試験で本科 の第 1 学年 に入学できた。準備教育科
の入学希望者 には中学校 ・商業学校卒業程度の学科 目試験が課せ られた。毎
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年 57週の授業時間数は、 「 国語 」2 0 時間、 「 英語 」1 2 時間、 「 体操 」 3 時間の合計 3 5 時間だった。 この 「 準備教育科は長崎高商 における中国人留学生の予備教育 機関の濫 鯵
」 16とされている。
1 9 2 3 年 1 月、長崎高商は準備教育科 に 6 名の留学生を受け入れた。
17しかし、
5 か月間の修業年限では予備教育課程 として不充分であると認識 されたため か、開設 2年後の 1 9 2 5 年 には修業年限が 1 年間 (4月〜翌年 3 月) に延長 さ れている。
この準備教育科は長崎高商が初めて設 けた留学生教育専門機関だった。 「 特 約五校」制度の対象校 を別 にすれば、 この時代 に全国の官立学校の中で留学 生教育専門機関を設置 していたのは長崎高商 と広島高等師範学校だけであ り、
その意味では先駆的だった と言える。ただ し、 この準備教育科は長崎高商が 自らの判断 に基づいて設置 したものであ り、 日本政府の留学生受入政策の一 環 として設けられたものではない。すなわち、後 に外務省が言 うところの 「 私 的経営 による施設
」 18として設置 された留学生教育専門機関だったのである。
2. 文部省直轄学校における特設予科の設置
2‑1 留学生政策 に関す る動 き
従来、 日本政府は留学生の受 け入れ にあま り積極的ではなかった。 しか し、
1 9 1 5 年の 「 対華二十一か条要求」 に起 因す る中国の反 日感情の高ま りの中で、
また欧米諸国が中国に対す る文化事業を拡大する中で 、1 9 1 0 年代の後半頃か ら日本政府 も、外交政策のひ とつ として中国人留学生の受入拡大 と留学生教 育の振興 に取 り組む よ うになる。
1 9 1 8 年 6 月、外務省は 「 支那人本邦留学情況改善案」 と題す る政策提言 を まとめている。 この提言において外務省は、 「 東洋の大局 に鑑み帝国の将来 に 稽‑ 日支提携を図る
」 19ことが緊要であ り、その目的か ら 「日支両国々民大多 数の相互諒解感情融和
」 20を実現する必要があるとした。そ して、 この 「 了解 及感情の融和を実現せむが為 には一般支那人をして 日本語 に通ぜ しめ 日本の 文化及実力を諒解せ しむること
」 21が必要であ り、その 「 実行手段
」 22として
「 留学生の待遇
」 23が重要であるとした。
この 「 留学生の待遇」 を図るための政策のひ とつ として、外務省 は 「 支那
人教育の為 にす る健全なる学校の発達補助」を挙げている。そ して次の措置
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戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 についてを講ず るべ きだ とした。
「 特 に注意すべ きは支那留学生の本邦到着後第一着歩 として入学すべ き日本 語研究を目的 とす る予備学校 を完備せ しむることな り。支那人留学生の成績 が其 日本語の智識 と重大なる関係 あるは云ふ迄 もな く又此等留学生の本邦滞 在の初期 に方 りて充分の監督 を受け真面 目に修学の慣習を作 らしむるは本邦 留学生一般成績の上進上特 に注意すべ き要点な り。 この目的の為 に速 に執 る べき手段次の如 し。
一.在神田区東亜高等予備学校の如き種類の学校 を発達せ しめ若は設立する こと
二 .支那人の 日本語修得の便宜 を講 じ相当学校 には補助金を与ふ ること
」 24また、いわゆる 「 特約五校」制度については、「 支那政府の官費生
」 25は 「日 本人学生の支払ひ居る授業料其他の経費以外所謂補助費
」 26を所属校 に支払っ ているが、 このよ うな制度が 「 支那人 に少なか らざる悪感 を与‑つ ゝあるの 実情なるに就ては 日支国交の大義 に考‑て之を撤廃するの方法を講ずること 肝要な り
」 27とした。そして、実際に 「 特約五校」制度は、前述のとお り 1 9 2 0 年か ら日本政府が中国政府 に代わって補助金を支給す る制度 に変更 された。
日本政府は 「 留学生の待遇」を改善するための施策 にも取 り組んだ01 91 8 年 に設立 された 「日華学会」は、1 91 1 年創設の 「 留学生同情会」を前身 とす
る民間団体であるが、 この 日華学会が中国人留学生のための寄宿舎 を運営す るにあた り、その運営費 1 5 万円を文部省が助成するようになった。 これは 「 留 学生教育のために政府が行った最初の民間‑の助成
」 28とされている。
1 91 0 年代後半か らは帝国議会 においても留学生問題が しばしば取 り上げら れている。その背後 には東亜高等予備学校の校長だった松本亀次郎の働 きか けがあったのであるが、1 91 8 年の第4 0 回議会では高橋万苦が松本の要請 を受 けて 「 支那人教育の施設 に関する建議案」を上程 している。同案は修正 を施 した上で可決 された。また、1 9 21 年の第4 4 回議会 には同じく松本の起草 によ る 「 支那共和国留学生教育に関する請願」が提出されたのに対 し、 「 支那共和 国留学生教育 に関する建議」 として可決 された。
このような段階を経て、1 9 2 3 年 3 月30 日、 「 対支文化事業特別会計法」が公
布 された。 これは義和団事件の賠償金等を原資 として、「 対支文化事業助長の
長崎大学留学生センター紀要 第1
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年59 為特別会計を設置 し其の歳入を以て其の歳出に克つ
」 29( 第 1 条) ことを企図
したもので、 「 支那国に於て行ふべき教育、学芸、衛生、救他其の他文化の助 長に関する事業
」 30および 「 帝国に在留する支那国人民 に対 して行ふべき前号 に掲 ぐる事業 と同種の事業
」 31ならびに 「 帝国に於て行ふべき支那国に関する 学術研究の事業
」 32を助成するとされた。
この 「 対支文化事業特別会計法 」 に基づ く 「 対支文化事業」の一環 として、
日本政府は中国政府が選定する留学生3 20 名に対 して毎年一人あた り 7 0 円以内 の学費 を助成することになった。また、1 92 6 年度か らは各学校が推薦す る留 学生5 0 名 ( 後 に 8 0 名に増員) に対 して学費7 0 円以内を支給す る選抜留学生制 度 も開始 された。
2‑2 特設予科の開設
日本政府 による 「 対支文化事業」の開始は、すでに準備教育科 を開設 して 留学生 に対する予備教育を行っていた長崎高商にとって、その運営経費の一 部を国庫か ら助成 してもらう絶好の機会 と映 った ようである。具体的な年月 日は不明だが、同校は1 92 3‑1 92 4 年頃、外務省の対支文化事務局 に対 して、
準備教育科‑の補助金支給 を申請 した。
しか し、国庫負担 によって留学生予備教育を充実 しよ うと考 えた学校は長 崎高商だけではない。外務省 には、かって 「 特約五校 」 だった東京高等師範 学校や山口高等商業学校か らも同様の申請が寄せ られていた。
33また、長崎高 商 と同じく 「 私的経営 」 による留学生教育専門機関を設置 していた広島高等 師範学校 も文部省 を経由して補助金の支給 を申請 した。
前述の とお り、かねてより外務省 は 「 一般支那人をして 日本語 に通ぜ しめ
日本の文化及実力を諒解せ しむ」ために留学生教育 を拡充する必要があると
していた。また、その目的か ら 「 予備教育機関の一層の充実改善を図るを最
急務な り
」 34と考え、文部省 と共同で 「 東亜高等予備学校の改善方考究
」 35し
ていたが、 「 何分短期間内に同校の改善のみを以て初期の目的を達することは
困難
」 36とい う状況にあった。 このため、外務省は文部省直轄学校か らの補助
金支給 申請 とい う新たな動 きを受けて、当該 「 直轄学校附設の予備教育施設
に対する補給申請 に付ても予算の範囲内に於ては相当助成方考慮」3 7 すること
とし、文部省が 「 特約五校」制度の名残 として1 9 20 年か ら予算措置 を講 じて
きた 「 第一高等学校及東京高等工業学校の特設予科 と併立 して右二校以外の
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戦前戦 中期 における文部省直轄学校の 「特設予科」制度 について二三直轄学校 にも当分学校職員の私的施設 として予備教育機関を附設 し得る 」
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か否かを研究するよ う文部省 に要請 した。
この外務省か らの要請を受けて文部省は、1 9 2 5 年2 月1 4 日付で 「 直轄学校 に 於 ける支那人予備教育施設計画案」をま とめた。その内容は次の とお りであ
る。
一. 目的 直轄学校 に於て外務省の委託 に依 り当該学校 に入学せむ とす る者 の為特別予科 を設 くること
一.入学資格 中学校高等女学校卒業者 と同等以上の学力を有する と認めた る者 とすること
一.設置学校 東京高等師範学校、広島高等師範学校、長崎高等商業学校、
明治専門学校
一.修業年限 修業年限は一年 とす ること
一.学科及毎週教授時数 当該学校長 に於て適当に之を定むること 一.学級編制 特別学級 を編制す ること ( 二十五人以内)
一.経費 外務省 よりの補助金一校弐千円宛及授業料等 を以て之に充つ るこ と
一.授業料等 授業料等は之を徴収すること 一.経営者 学校直接の施設 とすること
39この 「 直轄学校 に於 ける支那人予備教育施設計画案」 を外務省 も了解 した ことで、最終的 には上記の 「 計画案」 に記載 されている 4 校 を含む官立学校 7 校 に公設の留学生予備教育機関である 「 特設予科 」 が設置 されることになっ た。その設置対象校は、「 特約五校 」 でもあった第一高等学校 ・東京高等工業 学校 ・東京高等師範学校
40の在京 3 校、 「 私的経営」 による留学生教育専門機 関をすでに設置 していた長崎高商 と広島高等師範学校、そ して新たに明治専 門学校 と 「 女子の予備教育
」 41を行 う機関 として選定 された奈良女子高等師範 学校の合計 7 校である。高等商業学校で特設予科が設置 されたのは長崎高商 だけだった。
42また、修業年限については、他校の特設予科が 1 年であったのに対 し、長
崎高商の場合は1 92 6 年 1 0 月か ら 1 年半 に延長 し、 2 学年制 とした。第 1 学年
は 1 0 月〜翌年 3 月の半年間、第 2 学年は 4 月か ら翌年 3 月までの 1 年間であ
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る。 このため、長崎高商特設予科では とくに 「 国語」教育の面で他校 に見 ら れない独 自の教育方針が とられた。なお、のちに明治専門学校 も長崎高商 に な らって修業年限を
1年半 に延長 している。
2‑3 特設予科の性格
特設予科設置校の選定 にあたって、文部省は主導的な役割や積極的な調整 業務 を果た さなかった。 このため、高等師範学校の場合は 2 校 に特設予科が 設置 されたのに対 し、高等学校や高等商業学校の場合は 1 校ずつ にしか設置 されない とい う不均衡 さが生 じた。そ して、 この不均衡 さゆえに、文部省が ま とめた前記の 「 直轄学校 に於 ける支那人予備教育施設計画案」では、特設 予科は 「 当該学校 に入学せむ とす る」留学生のための予備教育機関 と位置づ けられていたものの、実際には各校の特設予科で 「 他の学校 に入学志望す る 生徒
」 43が続出す る結果 となった。
1 9 2 6 年 2 月 5 日に文部省が特設予科設置校の校長を集めて開催 した第 1 回 特設予科会議 においては、 この間題が最初 に扱われた。
44しかし、そ こでは各 校の思惑が交錯 した。高等学校で唯一特設予科が設置 された第一高等学校の 校長が 「 他の学校か らの志望生徒 をも入学せ しむると云ふ ことは出来ない こ と
」 45であるとしたのに対 し、高等師範学校側は 「 予科修了者は何処の学校 に も入学できるもの と思ふて居 りま した」 とした上で、 「( 筆者註 :全国に存在 する)高等師範は只二校のみなるを以て広 く各学校 に入学せ しむる様致 し度
し 」
46と希望 した。
この間題 に関 して、高等商業学校で唯一特設予科が設置 された長崎高商の 校長は、 「 自校 にては自校の本科 に入学せ しむることを承知の上にて入学せ し め居れ り
」 47としたが、同時に、 「 昨年の秋、高等商業学校長会議 に於て私の 方か ら中華民国人の予科修了者を無試験 にて各高等商業学校 に入学の出来 る 様諮 って見ました処が、教官会議 に於て結局協議 に副ふ様 にしたい といふ こ
とにな りま した
」 48とも述べている。
この間題は、最終的に 「 高等学校 は高等学校、工業は工業、商業は商業 と 同種の学校間に於て転学を認むることと限定
」 49する方向で調整することになっ た。第 1 回特設会議の終了後、文部省は各校 に対 して次のように通知 している。
一.特設予科 とは第一高等学校、東京高等工業学校、東京高等師範学校、広
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戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 について島高等師範学校、奈良女子高等師範学校、長崎高等商業学校及明治専門学 校 に於て支那国留学生の学力補充の為設置せ る予科 を謂ふ
二 .特設予科終了者は当該学校の本科 ( 学校令 に基 く其の校の予科 を有する ものに在 りては其予科)に無試験 を以て進学せ しむること。但 し特別の 事情 に依 り他の学校 に入学を希望 し当該希望学校 に於て之を入学せ しむ るも差支無 きときは左の区別 に従ひ予科附設の学校長 と協議の上之を本 科 ( 学校令 に基 く其の校の予科 を有するものに在 りては其の予科) に入 学せ しむるを得 ること
ィ.同種の学校 に於ては無試験 を以て入学せ しむ ロ.異種の学校 に於ては試験検定を経て入学せ しむ
≡.第一高等学校特設予科修了者 にして高等学校 に入学を希望す る者 に付て は従前の例 に依 り之を配当す
50こ うして、長崎高商特設予科の修了者は、同校本科のみな らず他 の高等商 業学校の本科 にも無試験で入学できることになった。
51しかしなが ら、実際に 他校‑進学する者は少なかった。1 9 2 5 年か ら 1 9 33 年までの長崎高商特設予科 修了者の人数 と進学先は 【 表 1 】の とお りであるが、同科の修了者はそのほ
とん どが長崎高商の本科 に進学 している。
【 表 1 】長崎高商特設予科修了者の人数お よび進学先 ( 単位 :人)
年 度 修了者数 進 学. 先
1 9 2 5 1 3 長崎高商 1 2 、神戸高商 1 1 9 2 6 8 長崎高商 8
1 9 2 7 十 長崎高商 6 、神戸高商 1
1 9 2 8 8 長崎高商 7 、東京商大専門部 1 1 9 2 9 1 3 長崎高商 1 3
1 9 3 0 1 0 長崎高商 1 0
1 9 31 1 長崎高商 1
1 9 3 2 4 長崎高商 4
1 9 3 3 6 長崎高商 6
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年3. 長崎高商特設予科 の制度 および留学生
6 3
3‑1 制度
長崎高商は外務省 よ り特設予科設置校 に認定 された ことを受 け、 「 中華民 国 留学生特設予科規程」 を制定 している。
52その内容は修業年限を 1 年半 に延長 した際 に若干変更 されてい るが 、1 9 26 年 1 0 月 の時点では次 の とお りである。
第 1 条 特設予科 は本校所定 の全学科 目を履修せ ん とす る者 に必要なる準備 教育 を施す を以て 目的 とす
第 2 条 特設予科 の定員 を五十名 とす
第 3条 特設予科 に入学 を許すべ き者 は品行方正志操輩 固身体健全なる男子 にして 中学校卒業者商業学校卒業者及之 と同等以上 の学力を有す る 者 とす
第 4 条 特設予科 に入学 を許すべ き者 の学力検定試験 は中学校及商業学校卒 業の程度 に依 り其学科 目中に就 き之 を行ふ
第 5 条 特設予科 の修業年 限は一年六 ケ月 とし之 を二学年 に別つ
第 6 条 特設予科第‑学年 の学年 は十月十一 日に始 り翌年三月三十一 日に終 る。第二学年 の学年 は四月一 日に始 り翌年三月三十一 日に終 る 第 7 条 特設予科第一学年 に入学せ しむべ き時期 は学年 の始 め とす 第 8 条 特設予科 の学科課程及教授時数左 の如 し
第一学期 第一学期 第二学期
学科課程 ■ 時 学科課程 時 学科課程 時
国 読方、訳解、作文、 1 4 読方、訳解、作文、 1 4 読方、訳解、作文、 1 4
三≡F]lEコ
文法、会話、書取 文法、会話、書取 文法、会話、書取
莱 読方、訳解、作文、 l l 読方、訳解、作文、 1 2 読方、訳解、作文、 1 2 請 文法、会話、書取 文法、会話、書取 文法、会話、書取
数 学 算術 2 算術 3 算術 3
6 4
戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 について也
哩 人文地理 2
磨 史 世界近世史 2 体
操 体操、教練 3 体操、教練 3 体操、教練 3
第 9 条 第一学年 に於 ては特 に国語 の熟達 を計 るもの とす
第 1 0 条 前条 の課程 を修 了 した る者 には修 了証書 を授与 し本科 に編入す。学 科成績 中未修 了の学科 目有 る者 は前条 の資格 を認 めず。但 し本人 の 希望 によ り本科 の学科 目を聴講せ しむ ることを得
第 1 1 条 特設予科入学の許可 を得 たる者 に対 しては第四款第五条及第六条 を 通用す
53この規程 に基づ き、従来 の 「 準備教育科 」 は廃止 され、新た に 「 特設予科」
が設置 された。長崎高商では この特設予科 を 1 9 3 2 年 に 「 満州国
」 54が 「 建 国」
され るまで 「 中華民 国留学生特設予科」 と称 していた。
特設予科 の定員 は上記 の よ うに 5 0 名 とされた。 これ は前述 の とお り 1 92 6 年 2 月 に開催 された第 1 回特設予科会議 において、長崎高商特設予科 の修 了者 は他 の高等商業学校 の本科 にも無試験 で進学できるよ うになったために、そ の 「 転学せ しむ る といふ前提 の下 に拡張計画
」 55を立てた結果である。ただ し、
【 表 2】 の とお り、長崎高商特設予科 の入学者が実際 に 5 0 名 に連す ることは なかった。
【 表 2 】長崎高商特設予科 の志願者数 ・受験者数 ・入学者数 ( 単位 :人)
年 度 25 2 6 2 7 2 8 29‑ 3 0 3 1 3 2 3 3 3 4 3 5
志願者数 1 9 3 2 1 4 2 3 2 3 2 7 1 0 4 4 1 . 5 3 5
受験者数 1 7 2 7 1 2 2 3 2 2 2 5 9 4 4 1 3 2 7
入学者数 1 7 21 1 0 1 7 1 7 1 5 5 4 4 1 2 1 4
長崎大学留学生センター紀要 第
1 5
号2 0 0 7
年6 5 3‑2 人学資格お よび入学試験
前述の 「 中華民国留学生特設予科規程」 に記載 されているとお り、長崎高 商の 「 特設予科 に入学を許すべ き者は品行方正志操肇固身体健全なる男子 に して中学校卒業者商業学校卒業者及之 と同等以上の学力を有す る者」 とされ ていた。また、その入学試験は 「 中学校及商業学校卒業の程度 に依 り共学科 目中に就 き之を行ふ」 と規定 されていた。試験科 目は 1 9 3 4 年度の場合だ と、
「 英語 ( 英文 日訳、 日文英訳)、数学 ( 算術、代数)、 日語 ( 読方、訳解、作 文、文法)
」 56である。
東京都港区の三康図書館 に長崎高商特設予科の 1 9 3 6 年度入学試験問題が残 されている。その 「 国語科」の試験問題は次の とお りである。
一.読方及び意義 を間ふ。
日和 名前 久振 一入 本 当 無駄 物語 相手 見舞 案内 二.漢訳すべ し。
( イ) 知恵があっても身体が健康でな くては、 この劇 しない世の中に 活動す ることは、 とてもできません。
( ロ) あなたがい らっ しゃ るな ら、わた しも一緒 に行きませ う。
三.片仮名の箇所 に適当なる漢字を充て よ。
偉人が天下に名を成 したのは、すべてクシン ( 二字) とドリョク ( 二字) とをツイヤ ( 一字)し、オ ドロ ( 一字) くべきペンキョ‑ ( 二字)とシュー ヨー ( 二字) とをツ ( 一字)んだ為で、ヤクゲン ( 二字)す れは ヒジョー
( 二字)なタンレン ( 二字) をへ ( 一字)たケツク ヮ ( 二字)である。
四.第二間 ( イ)の中より動詞形容詞 を摘出し、その活用の状を示せ。
五.左の文章を品詞 に分類すべ し。
孔子 には弟子多 し。而 してその最 も勝れたる者は七十二人な り。
六.作文 題 『 余の母校』 ( 別紙 に記すべ し)
57この試験の合格点は不明である。また、往時 と今 日では日本語 の実体や基 本語嚢そのものが変わってきているので、上記の 「 国語科」試験問題を今 日
の基準で判断することは慎むべ きだが 、1 9 8 4 年か ら実施 されている 「日本語
能力試験」の出題基準 にあえて照 らし合わせ るな らば、 この試験問題の文字
と語嚢は
2級 レベル ( 中級 レベル) 、文型や文法項 目は
3級 ( 初級後半 レベル)
6 6
戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 についてか ら 2 級 レベル と言 うことができる。長崎高商は特設予科入学時の 日本語能 力 として、少な くとも中級 に準 じるレベルを留学生 に求めていた と言 えるだ ろ う。
58長崎高商特設予科の 1 9 3 4 年度入学試験は、国内 2 都市 ( 東京 ・長崎) と海 外 5 都市 ( 奉天 ・大連 ・新京 ・漢 口 ・天津)の合計 7 都市で実施 された。
59長 崎高商 に特設予科が設置 された 1 92 6 年の試験実施地は東京 と長崎の国内 2 都市 だけだったが、翌年の 1 92 7 年か らは海外でも入学試験 を実施するようにな り、
漠 口と天津が試験実施地 となった。また 、1 9 2 8 年か らは大連でも入学試験 を 実施するよ うにな り 、1 93 4 年の段階では、海外 における試験実施地 は既述の
とお り 5 都市 に拡大 された。
海外で入学試験 を実施 していた ことは、他校の特設予科 には見 られない、
長崎高商の特色である。 これは長崎 とい う土地の歴史的お よび地理的な利点 を生か した措置 とも考 えられるが、長崎高商 にはも うひ とつ有利な点があっ た。それは海外 に勤務する卒業生が多かった ことである。 もともと 「 海外発 展、特 に清、韓、南洋方面 に雄飛活躍すべ き人材 を緊急 に養成する」 ことを
目的 として設立 された長崎高商 には、大陸の諸都市 に勤務する卒業生 も多 く、
入学試験の実施 に際 して、それ らの 「日本人卒業生 に立会はじめ監督
」 60を委 託す ることができたのである。
3‑3 長崎高商特設予科の留学生
特設予科の入学者は、文部省 により 「 中学校高等女学校卒業者 と同等以上 の学力を有す ると認めたる者」 と定め られていたが、彼 らが特設予科 に入学 するまでの過程 には、大き く分 けて 2 つのケースがあった。
ひ とつは中国 ( 後 に満州国も)の中等教育機関を卒業後、そのまます ぐに 来 日して特設予科 に入学するケースである。 この場合は、来 日前 に日本語 を 学び、ある程度の 日本語能力を獲得 してお くことが必須なので、 日本語教育 をカ リキュラムに取 り入れている学校の卒業生が有利だった。当時、 この種 の学校 としては、中日学院 ( 天津) と江漢高級 中学 ( 漢 口)があった。
中日学院は 1 9 21 年 に東亜同文会が設立 した天津同文書院を前身 とする学校
で、設立当初か ら日本語教育を実施 していた 。1 9 2 6 年 に運営母体が 日中共同
の中日教育会 に移行 し、校名も中日学院 と改称 された。また、江漢高級 中学
は 1 92 2 年 に漢 口の 日本人租界 に天津同文書院の姉妹校 として設立 された漢 口
長崎大学留学生センター紀要 第
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年67
同文書院を前身 とする学校であるが、やは り 1 9 2 6 年 に運営母体が 日中共同の 東方学会 に移行 し、校名も江漢高級 中学 と改称 されている。
中日学院 も江漢高級 中学 も日本語教育を重視 し、実質的 に日本留学予備教 育機関 としての役割を果た していた。長崎高商が 1 9 2 7 年か ら天津 と漢 口でも 入学試験 を実施す るようになったのは、両校在籍者の便宜 を図ることが 目的 だった とも考 えられる。
も うひ とつのケースは、 中国で中等教育課程 を終 えた後 に来 日し、留学生 用の予備校 に入学 して 1 年ない し 1 年半、 日本語学習や入学試験の受験準備 を行 う場合である。 この種の予備校 としては、嘉納治五郎が 1 90 2 年 に設立 し た宏文学院 ( 弘文学院)をもって晴矢 とす るが、その宏文学院 ( 1 9 0 9 年閉鎖) の教師 として留学生教育 と関わるよ うになった松本亀次郎 によって 1 9 1 4 年 に 設立 された東亜高等予備学校 ( 1 9 25 年か らは 日華学会が運営)が 1 9 2 0‑1 9 3 0 年代 には代表的な存在だった。
61開校直後 ( 1 9 0 7 年 〜1 91 1 年)の長崎高商 に 「 所定の学科 目中一科 目若は数 科 目の教授 を受けんこと 」 を希望 して入学 した留学生は、 日本国内の予備校 で日本語教育 と中等普通教育を受けてから入学する者が多かった。王嵐 ( 2 0 0 4 ) がま とめた 「 長崎高等商業学校留学生名簿
」 62によれば、この時期に長崎高商 に入学 した留学生 ( 不明の者を除 く)は、その約 7 割の者 ( 1 7 名中 1 2 名)が 日本国内の予備校 ( 大阪高等予備学校 ・宏文学院 ・成城学校)を経てか ら長 崎高商 に入学 している。
しか し、特設予科の設置以降は、中国の学校 を卒業 した後す ぐに来 日して 長崎高商特設予科 に入学する者が多 くな り、 これは他校 と比較 した場合の長 崎高商の大 きな特色 となった。た とえば 、1 9 3 0 年お よび 1 93 1 年 における各校 特設予科在籍者中、東亜高等予備学校出身者の占める割合は次の とお りであ
る。
63【 表 3 】特設予科在籍者 に占める東亜高等予備学校出身者の比率 特設予科 1 9 3 0 年 1 9 31 年 東京工業大学 4 8 . 8 9 % 5 9. 6 5 %
第 一 高等学校 4 4 . 4 4 % 2 4.1 4 %
長崎高等商業学校 0 . 0 0 % 25 . 0 0 %
6 8
戦前戦 中期 における文部省直轄学校の 「特設予科」制度 について東京高等師範学校 不 明 8 0 . 9 5 %.
広島高等師範学校 8 4 . 6 2 % 6 1 . 5 3 %‑
長崎高商の場合は、他校 に比べて国内予備校出身者の占める比率が低かっ たのに対 し、中日学院 と江漢高級 中学の出身者の 占める比率が高かった。た とえば 1 9 3 2 年度 に長崎高商の特設予科 に在籍 していた中国人留学生は第 1 学 年
2名、第
2学年
5名の合計
7名だったが、 この うち東亜高等予備学稜の出 身者は 1 名に過 ぎなかったのに対 し、江漢高級中学の卒業生は 2 名、中日学 院の卒業生は 3 名だった。
64このように 「 直接支那 より渡来する者
」 65が多かったことは長崎高商の特色 であるが、 これは、 ( a) 長崎 と中国は地理的 に近 く、定期航路 も開設 されて いた こと、 ( b) それ に対 して、東亜高等予備学校等の留学生予備校が数多 く 存在す る東京 と長崎は地理的に離れていること、 ( C) 長崎は徳川時代か ら日 中貿易の拠点であ り、歴史的に中国 と関係が深い こと、 ( d) 長崎高商が中国 で入学試験を実施 していた こと等を反映 したもの と考 えられ る。
66他校の特設予科が 1 年制であったのに対 し、長崎高商の修業年限は 1 年半 だったが、 これ も 「 当校は直接支那 より渡来する者多 く他の予科 より来 る者 なき
」 67ための措置であった。 日本国内の留学生予備校出身者 と異な り、 「 直 接支那 より渡来す る者」は 日本の教育機関で学ぶのに必要な学習スキルや学 習スタイルの面で不足があると判断 されたのだろ うか。
ただ し、中日学院や江漢高級 中学は 「日語 にカを入れ居る
」 68ことか ら、長 崎高商は両校の出身者を 「 特予二年 に編入
」 69してお り、彼 らの 日本語能力は 日本国内の留学生予備校出身者 と比較 しても遜色なかったようだ。また、学 力の点に関して も、長崎高商特設予科の留学生は 「 天津 中日学院、漠口江漢 中学出身のもの多き為か一般 に良好
」 70であ り、 「 本科 に進学せ るものは相当 の成績 を示 し
」 71ていた とい う。
なお、 「 直接支那 より渡来す る者」が多い とい うことは、 「 長崎 に来て長崎 で卒業 して其の億帰国する様な生徒
」 72も多い とい うことであ り、長崎高商は、
「 希望 としては予科在学中に一度修学旅行 として 日本の他の地方 を見せてや り度 し 」
73として、外務省文化事業部 に旅費の補助 を申請 している。
74【 表 2 】か らも明 らかな とお り、長崎高商特設予科の入学志願者数 ・受験
長崎大学留学生セ ンター紀要 第1
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年6 9
者数 ・入学者数は 1 931 年 に激減 している。 これは長崎高商 に限った ことでは な く、他校の特設予科でも同じだった。その理由は大きく分 けて二つある。
ひ とつは1 92 9 年 に中国政府が海外留学資格 を高級 中学の卒業者 に限定 した こ と、そ しても うひ とつは、1 93 0 年 に中国政府が滞 日留学生 に対 して、 日本政 府の 「 対支文化事業 」 予算 による奨学金の受給 を禁止 した ことである。後者 は中国政府が 日本 との文化事業協定を廃棄 したい とい う立場か ら採 った施策 だった。
751 930 年 1 月の時点で 日本の専門学校以上の学校 に在籍す る中国人留学生は 約1, 800 名だった。 この うち外務省文化事業部から学費の補助を受けていた 「 一 般補給留学生」 ( 学費 として月額7 0 円以下を支給)は 31 2 名、「 選抜留学生」 ( 学 費 として月額3 0 円〜70 円を支給)は62 名、 「 特選留学生
」 76( 学費 として月額 1 0 0 円〜15 0 円を支給)は1 5 名だった。
77すなわち、全中国人留学生の約20%が
「 対支文化事業 」 予算か ら奨学金を受給 していたわけだが、中国政府はその 受給 を禁止 したのである。
長崎高商特設予科の1 9 32 年度入学者数はさらに減少 している。また、1 931 年か ら 1 93 2 年 にかけては 「 満洲事変発生 し官費送金拒絶
」 78のため退学者や休 学者 も続出した。
その一方で、1 932 年 3 月 に満州国が建国された ことで、各校の特設予科 に は満州国派遣留学生が増 えていった。長崎高商 も 1 9 32 年 に 1 名、1 93 3 年 に 1 名、1 93 4 年 に 6 名の満州国留学生を受 け入れている。
79建国当初の満州国では 日本留学予備教育の制度が整備 されていなかった こ とか ら、
80同国派遣留学生は日本国内の留学生予備校で学んだ後 に各校の特設 予科 に入学す るケースが多かった。1 934 年度 に長崎高商特設予科 に在籍 して いた留学生は満州国 8名、中国 7名の合計1 5 名であるが、 この うち満州国 8 名の内訳は、東亜高等予備学校の出身者が 3名、成城学校の出身者が 4名で あ り、 8名中 7名が 日本国内の留学生予備校 に通 った経験 を有 していた。一 方、中国の 7 名の うち 日本国内の留学生予備校 に通 った経験 を持つ者は 2 名
( いずれ も東亜高等予備学校出身) に過 ぎない。
日本政府は、満州国留学生を毎年200 名受け入れる計画を立てた。その受入
校は政府か ら指定 されたが、高等商業教育機関では長崎高商のほか、東京商
科大学、山口高等商業学校、福島高等商業学校が指定 され、その予備教育課
程は長崎高商 と山口高等商業学校 に置かれた。
81
1933 年、長崎高商は特設予
7 0
戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 について科の名称 を従来の 「 中華民国留学生特設予科」か ら 「 留学生特設予科」 に改 めている。また、かって 「 特約五校」 に指定 されていた山口高等商業学校 も 1 9 3 3 年 に特設予科 をあ らためて設置 したが、同校 は長崎高商の場合 と異な り、
「 満州国留学生をのみ収容教育する方針
」 82を採用 した 。1 9 3 6 年 9 月の時点で 同校 には 8 2 名の留学生が在籍 していたが、 うち 8 1 名は 「 満洲国留学生
」 83だっ た。
84満州国留学生の増加 により、長崎高商特設予科の在籍者 も 1 9 30 年代の半ば には中国留学生 より満州国留学生の方が多 くなった。た とえば 、1 9 35 年 1 0 月 の時点における長崎高商特設予科の在籍者数は 1 3 名であるが、その内訳は満 州国留学生 7 名、 中国留学生 6 名である。また 、1 9 3 9 年 5 月の時点 における 在籍者数は満州国留学生 5 名、蒙古留学生 1 名、中国留学生 4 名 ( ただ し、
うち 2 名は 「 支那事変のため帰国特別休学 中
」 85とされている)の合計 1 0 名。
1 94 0 年 5 月の時点では満州国留学生 6 名、 中国留学生 4 名 ( ただ し、 うち 2 名は 「 支那事変のため昭和十三年一月 より特別休学中
」 86とされている)だっ た。
3‑4 長崎高商特設予科の修了生
長崎高商特設予科 を 1 9 2 6 年 〜1 9 4 0 年 に修了 した者は合計 1 3 5 名である。
87前 述の とお り、その多 くは長崎高商の本科 に進学 したが、 これは本科 も留学生
にとっては大学進学のための通過点 と認識 されるケースが多かった ことか ら、
他校 に転学するよりも特設予科時代から馴染みのある長崎にそのままとどまっ て大学進学の準備 をする方が良い と考 える留学生が多かったためではないか と考 えられ る。実際、長崎高商本科の留学生は 「 一般 に進 んで大学 に入学す る傾あ りて、直に就職するものは少数に止れ り
」 88とい う状況だったのであ り、
た とえば 、1 9 33 年 3 月 に本科 を卒業予定の留学生は 6 名だったが、その うち 進学希望の者は 4 名いた ( 進学希望先は東京商科大学 ・神戸商業大学 ・京都 帝国大学経済学部)。
長崎高商を卒業 した留学生は、国ごとに同窓会 を 「 各別個 に設立 し、其の 帰属関係 も裁然 と区別 」
89していた。すなわち、中国留学生は 「 中華民国留 日 長崎高等商業学校 同窓会」 を、満州国留学生は 「 満洲国留 日長崎高等商業学 校学生同窓会」 をそれぞれ組織 していた。
90ただ し、 これ らの同窓会が卒業生のネ ッ トワークとして実際にどの程度ま
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年7 1
で機能 していたかは明 らかでない。長崎高商 によると、 「 卒業生 と母校 との連 絡を図る為、同窓会は多数の支部員を有 し、毎年名簿 を送付することにな り 居るも、会費を納付せ ざるに困 り実行上困難を感ず
」 91とい う状態だった とい
う。
なお、長崎高商を卒業 した留学生のその後の経歴 については、王嵐 ( 2 0 0 4 ) が綿密に調査 している。
92しか し、そのほとんどは 1 9 4 5 年以降の経歴が不明で ある。また、読売新聞長崎支局編 ( 1 9 8 5 ) によると、長崎高商で学んだ留学 生は 1 41 名に及ぶが 、1 9 8 5 年の時点で消息が判明していたのは 2 0 名に過ぎなかっ た とい う。
93おわ りに
以上、長崎高商 を事例 として、文部省直轄学校 に設置 された 「 特設予科」
の制度 について考察 してきた。 この考察か らも明 らかな とお り、留学生予備 教育機関 としての特設予科は、試行錯誤 を繰 り返 しなが ら、その制度 を確立
していった と言えるだろ う。長崎高商 もその例外ではない。
それでは、その特設予科の留学生教育 とは具体的 にどのよ うなものだった のか。 この間題 については、稿 をあ らためて論 じたい。
[ 謝辞] この研究を行 うにあたっては、長崎大学大学高度化推進経費 ( 学長 裁量経費)の助成 を受 けた。 ここに記 して感謝を申し上げたい。
( 留学生セ ンター教授)
【 参考資料】
外務省外交史料館保存資料 ( アジア歴史資料セ ンター参考 コー ド)
B O 3 0 3 0 2 7 6 6 0 0、B O 5 0 1 5 4 0 6 4 0 0、BO 5 0 1 5 5 2 0 6 0 0 、B O 5 0 1 5 5 2 6 2 0 0、B O 5 0 1 5 5 2 81 0 0 、
B O 5 0 1 5 5 2 8 6 0 0 、B O 5 0 1 5 5 2 8 7 0 0、B O 5 0 1 5 5 2 8 8 0 0、B O 5 0 1 5 5 2 8 9 0 0、B O 5 0 1 5 5 2 9 0 0 0 、
B O 5 0 1 5 5 2 9 1 0 0 、B O 5 0 1 5 5 2 9 3 0 0 、B O 5 0 1 5 5 2 9 4 0 0、B O 5 0 1 5 5 2 9 5 0 0 、 B O 5 0 1 5 5 2 9 6 0 0 、
B O 5 0 1 6 0 7 0 6 0 0
、B O 5 0 1 6 1 4 2 6 0 0、B O 5 0 1 6 1 4 3 6 0 0
7 2
戦前戦中期 における文部省直轄学校の 「特設予科」制度 について【 参考文献】
王嵐 ( 2 00 4) 『 戦前 日本 の高等商業学校 にお ける中国人留学生 に関す る研 究 』 ( 学文社 )
壇林会編 ( 1 9 7 5 ) 『長崎高等商業学校 ・長崎大学経済学部 7 0 年史』
新 内康子 ( 2 0 0 0 ) 「 国内の 日本語教 育機 関の系譜 ( 4 ) 」 志学館大学編 『志 学館大学文学部研 究紀要』第 1 号
多仁安代 ( 2 0 0 6 ) 『日本語教育 と近代 日本』 ( 岩 田書院)
長崎高等商業学校編 ( 1 93 9) 『長崎高等商業学校一 覧 :昭和十 四年度 』 長崎大学三十五年史刊行委員会編 ( 1 9 8 4 ) 『長崎大学三十五年 史』
日華学会学報部編 ( 1 93 5 ) 『留学生入学試験問題 ( 昭和十一年度特設予科)』
長谷川恒雄 ( 1 9 91 ) 「 戦前 日本 国内の 日本語教 育」木村宗男編 『 講座 日本 語 と日本語教育 1 5 ・日本語教育 の歴 史』 ( 明治書院)
二見剛史 ( 1 97 6 ) 「 戦前 日本 にお ける中国人留学生 の教育 一特設予科制度 の成立 と改編 ‑」 古 田紹欽編 『日本大学精神文化研究所 ・教育制度研究所 紀要 』第 7 集
松本陸樹 ・大石恵 ( 20 0 6) 「 旧制長崎高等商業学校 にお ける教育 と成果 一 明治 ・大正期 を中心 として ‑」 長崎大学経済学会編 『 経営 と経済』第 8 5 巻 第 3 ・4 号
読売新 聞長 崎支局編 ( 1 98 5) 『 長崎高商物語 』
【 註】
1 多仁安代 ( 2 0 0 6 )24 頁 2 擾林会編 ( 1 97 5 )11 頁
3 王嵐 ( 2 0 0 4)1 2 0 頁 より引用
4 長崎高等商業学校編 ( 1 93 9) 5 頁 5 長崎高等商業学校編 ( 1 93 9) 6 頁 6 長崎高等商業学校編 ( 1 93 9) 7 頁 7 長崎高等商業学校編 ( 1 93 9) 8 頁 8 長崎高等商業学校編 ( 1 93 9) 9 頁
9 松本睦樹 ・大石恵 ( 2 00 6 ) によれ ば 、1 91 0 年 〜1 9 1 5 年 と 1 9 2 6 年 に長崎高商
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
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年 73を修了した留学生の進路は次の とお りである。北京政府 4 人、高等商業学 校 1人、商業学校 7人、師範学校 1人、企業 2人、その他 1人、 自家営業 1 人、長崎高商海外貿易科 ( 進学) 2人、死亡 3 人、不明1 3 人。 ( 262 頁) 1 0 これ らの留学生4 4 名の うち、 「 畢業証書」を授与 された者は1 7 名である。
新 内康子 ( 20 00)11 2 頁 11 多仁安代 ( 200 6)3 6 頁
1 2二見剛史 ( 1 97 6)71 頁〜72頁
1 3 この事件の概略については、王嵐 ( 200 4)1 47 頁〜15 3 頁を参照。
1 4二見剛史 ( 1 9 76)73 頁
1 5長崎高等商業学校編 ( 1 9 39)15 頁 1 6王嵐 ( 2004)89 頁
1 7長崎高等商業学校編 ( 1 9 39)1 6 頁
1 8 アジア歴史資料セ ンター ・リファレンスコー ド ( 以下 「 J AC AR」 と表記) B O5 015 5288 00 。なお、本稿は一次資料を引用する際に次の二点を原則 とし
た。 ( a ) 引用文中における旧字体 ・カタカナは、それぞれ新字体 ・ひ らが なに直 した。また、文意を汲んで、適宜句読点を付 した場合や促音表記 に した場合 もある。ただ し、仮名遣いは原文 にしたがった。 ( b) 引用文中に は、今 日か らすると事実でない部分や適切でない表現 も含まれているが、
著作者の主観あるいは認識を反映 している場合もあ りうるので、人物や機 関の名称な ど明確な誤 りを除いては注釈等を施 さなかった。また、誤字 も 訂正 しなかった。
1 9J AC A RBO303 0276 600
20J AC A RBO30 30276600
21J AC ARBO30 30276600
22J AC A RBO 30 3027660 0
23J AC A RBO 30 302 7660 0
2 4J AC A RBO 30 302 76 60 0
25J AC A RBO 30 3 02 76 60 0
26J AC A RBO303 02 76 60 0
27J AC ARBO303 0276 60 0
28長谷川恒雄 ( 1 991)5 3 頁
29J AC ARBO501 6070600
7:4 戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 について
3 0J AC A RBO5 01 6 07 06 00 31J AC A RBO5 01 6 07 06 00 3 2J AC ARBO5 01 6 07 0600
3 3ただ し、結果 としては山口高等商業学校 に特設予科は設置 されなかった。
留学生の同盟退学事件によって 「 特約五校」 制度か らはずれた経緯が影響 し たためとも考えられるが、具体的な理由は不明である。同校 に留学予備教 育機関が再設置 されたのは、1 933年 に満州国留学生のための特設予科を開 設 した時である。
3 4J AC ARBO5 01 55 286 00 35J AC ARBO5 01 55 286 00 3 6J AC ARBO5 01 55286 00 3 7J AC ARBO5 01 55286 00 3 8J AC ARBO5 01 5528600 3 9J AC ARBO5 01 5 528600
4 0いわゆる 「 特約五校」の うち、東京高等師範学校 ・千葉医学専門学校 ・山 口高等商業学校の 3校は1 9 20 年までに留学生予備教育部門を閉鎖 していた。
1 920 年以降は第‑高等学校 と東京高等工業学校の 2校のみが文部省から 「 支 那留学生養成費」の支給 を受 けて留学生予備教育部門を存続 していた。
41J AC ARBO501 55 286 00
4 2 「 対支文化事業」予算からの補助金受給に開し、擾林会編 ( 1 9 75 )は、1 925 年度 「 以降外務省文化事業部 より毎年若干の補助金を受けることとなった 」 ( 48頁) としているが、たとえば1 9 29 年度の場合、長崎高商特設予科の 「 舵 経費」4,750円の うち 「 外務省補助金額」は約72%に相当する3,45 0円を占 めてお り、 とても 「 若干」 とは言 えない。 ( J AC ARBO501 55206 00)
4 3J AC ARBO5 01 5528700
4 4特設予科会議は少な くとも次の 7回開催 されている。第 1回 :19 26年 2月、
第 2回 :19 27 年1 1 月、第 3回 :1 928 年1 0 月、第 4回 :19 3 0 年 2月、第 5回 : 1 93 0 年1 1 月、第 6 回 :1 9 32 年 3月、第 7回 :1 93 3 年 3月。二見剛史 ( 19 76 ) 82 頁〜8 4 頁
45J AC ARBO5 01 5 5287 00
4 6J AC ARBO5 01 5528700
47J AC ARBO5 015 528700
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
1 5
号2 0 0 7
年 /.548J AC A RBO501 55 28 70 0 49J AC ARBO501 55 28 70 0 50J AC A RBO501 55 28600
51 王嵐 ( 20 04) に よれば 、1 9 20 年、 「 民 国政府 は商業人材 を養成す るため に、
官立高商 に進学 した留学生 にすべて官費 を支給す るこ とを駐 日公使館 の留 学生監督処 に命令 した 」 ( 24 0 頁) とい う。
5 2 長崎高等商業学校編 ( 1 9 39)1 9 頁 53J AC ARBO5 01 55 28 90 0
5 4 いわゆる 「 満州国」 については、それが国家 としての実態 を有 していたか 否かの議論があるが、本稿 においては煩雑 さを避 けるために、以下の部分 においては 「 満州国」 を鈎括弧等 に含 めて表記 しない。ただ し、 これ は筆 者が 「 満州 国」 を国家 として認 めてい る ことを意味 しない。
55J AC A RBO5 01 55 28700 56J AC A RBO5 01 55 29500
57 日華学会学報部編 ( 1 935)1 0 頁
58 ただ し、長崎高商特設予科 の入学試験 には 「 英文 日訳」や 「日文英訳」 の 問題 もあるほか、 「 算術」 と 「 代数」 の試験 問題 も日本語 のみで出題 されて いた ことには留意す る必要 があ ろ う。
5 9 試験会場 は次の とお り。長崎 :長崎高商、東京 :東亜高等予備学校、奉天 : 南満 中学堂、大連 :大連商業学堂、新京 :新京商業学校、漠 口 :江漢高級 中学、天津 :中 日学院
60J AC A RBO5 01 55 291 00
611 927 年 の時点で外務省 が 「 対支文化事業」 の一環 として直接的 あるいは間 接的 に補助金 を支給 していた留学生教育専門機関 には、 「 在本邦予備教育機 関」 として長崎高商 を含む特設予科設置校 7 校 と東亜高等予備学校、 「 在支 那予備教育機関」 としては前述の中 日学院 と江漢高級 中学校 の 2 校があった。
( J AC ARBO5 01 55 28 800) 6 2 王嵐 ( 20 0 4)284 頁 〜2 90 頁 6 3 二見剛史 ( 1 976)86 頁 64J AC ARBO 5 01 55 29 400 65J AC ARBO5 01 55 291 0 0
661 930 年 11 月 に開催 された第 5 回特設予科会議 において、外務省文化事業部
76 戦前戦 中期 における文部省直轄学校 の 「特設予科」制度 について
の担 当官は中国で入学試験 を実施す ることの可否を各校 に打診 している。
これに対 して文部省普通学務局長は、 「 支那にて入学試験を施行する様 にせ ば東亜高等予備校は大打撃な りと抑 掩」 したが、外務省の担当官は留学希 望者が 「日本語を支那に於て学修することを前提」 とした場合の可否を各 校 に尋ねた。 これ に対 して、長崎高商教授の長畑桂蔵は次のように述べて いる。 「 本校は漠 口高級中学、天津中日学院、旅順第二中等に委託 して試験 を行ひ居れ り。右各地 に於 ける日本人卒業生 に立会はじめ監督 を行ひづつ あ り。何等の不都合なし。而 し手数は煩雑な り。此以外の地 に於ては実 に 面倒 な りと思ふ。試験は日語、英語位 に致 し居れ り。此以外 に科 目を増 し ては実施困難な り 。 」 ( J AC ARBO5015 52 91 00)
この中国における入学試験の実施問題 については、文部省普通学務局長 が次のように発言 して、各校の裁量に委ねた。「 長崎高商の様な便宜を有す る学校 にては支那 にて委託試験を行ふ もよし。大体其様な心持にて各校の 自由裁量 に願度 。 」 ( J AC ARBO501 5 5291 00)
6 7J AC ARBO5 01 55 2 91 00 6 8J AC ARBO5 01 55 2 91 00 6 9J AC ARB O501 55 291 00 7 0J AC A RBO5 01 55 2 93 00 71J AC A RBO501 55 2 93 00 7 2J AC ARBO5 01 55 289 00 7 3J AC A RBO5 01 55 28900
7 4 「 対支文化事業 」 予算は 「 中国留学生内地旅行に対する補給」にも使用 さ れた。 これは、「 卒業年度に在る留学生にして適当なる指導者引率の下に団 体を組織 し実習見学旅行を為 さむ と欲する者」 ( J AC ARBO5 01 55 293 00 )に対
して旅費 を補助す る制度である。
75二見剛史 ( 1 97 6)88頁
7 6 これは 「 専門教育の課程修了後更に本邦に在 りて学術の蕗奥を究めむ とす る者 にして大学総長及学部長 より推薦せ られたる優秀なる中国人 」 ( J AC AR
BO5 015 5293 0 0)を対象 として、1 924 年から開始 された制度で、対象留学生 には月額1 50円以内の学費が支給 された。
7 7J AC A RBO5 01 55 29000
7 8J AC A RBO5 01 5406400
長崎大学留学生センター紀要 第