青森児障害児教 育史
‑ 青森盲唖学校 の設立 と戦前 における展開 ‑
HistoryoftheEducationforHandicappedChildreninAomoriPrefecture:
EstablishmentandDevelopmentofAomoriSchoolfortheBlindandDumb.
安 藤 房
治*
FusajiAND6
論文要 旨
青森盲唖学校 は,明治末期 か ら昭和初期 にか けて県内で組織 された社会事業 の一 つ として, 献 身的 な盲人 によって創設 された。青森盲唖学校 の前身である盲人教育所 は,盲人保護 に理解 ある一部 の資産家,政治家 の支持,援助 を得 なが ら私立青森盲唖学校 として発展す ることがで きた。盲唖学校 の県立への移管 は,県内での盲唖教育へ の理解 の広が りと,一部 の資産家,政 治家 の運動, さ らには盲学校及 び聾唖学校令 に もとづ く全国的な盲聾学校 の県立移管化 の動 き が後 ろ盾 となって可能 となった。
県立移管後 は,私立校時代 に比較す る と経営面での困難が解消 し,学科や教科 も充実 し,多 数 の卒業生 を世 に出 し,青森 県の県都 に位置す る盲聾唖児教育 の拠点 として発展 を見せ た。
は じめに
筆者 は,青森 県 にお ける障害児教育史研究が ほ とん ど手 つかずの状況 にある ことか ら, これ まで,八戸盲唖学校 の設立 に至 るまでの歴史的背景 を解明 し1), さらに大正期 か ら昭和戦前期 までの青森県 にお ける障害者 の生活実態 を明 らか に し,青森盲唖学校設立 の社会的 ・歴史的背 景 に言及 した2)0
青森県 において は,明治期後半 において資本主義 の発展 に伴 う農業人 口の減少 と都市部への 流入, その結果都市部 で は無業者,浮浪者が増大 した。青森県 における特殊事情 として は相次
ぐ冷害 による凶作 の結果 としての農業生産力 の急激 な低下がそ うした現象 に一層拍車 をか けた。
生 み出 された無業者,浮浪者 の中に生産 の担 い手 となることが困難 な障害者,障害児が存在 し ていた。 た とえば,以下 の ような記述 に もその ことが伺 える。
「本県 に於 ける盲聾唖者其数実 に砂 Lとせず試 み に街頭 に立 た ば便 りな き盲者唖児 を見 る こ と日に幾人 に止 らざるべ く若 し夫れ祭祀時神社仏閣の境 内に人 らんか彼等 ら一群其処 に彼処 に 憐 みを乞ふの状誰 か側 隠の心起 さざる者 あ らんや」 3)
明治末期 よ り昭和初期 にか けて,青森 県内 には社会事業が相次 いで組織 された4)。青森盲唖 学校 の前身である青森盲人教育所 もこれ ら社会事業 の一環 としての 「盲唖保護事業」 の一 つ と して設立 された。創設者西蓮寺幸三郎 は 「盲人 の多数 な るを痛感 し奮然身 を挺 して盲児教育事
*弘前大学教育学部心身障害学科教室
DepartmentofEducationforHandicappedChildren,FacultyofEducation,HirosakiUniversity
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業 に当た らん ことを決意」 5)して,事業 に身 を投 じた。
本稿 で は,青森盲唖学校 の設立お よび戦前 における展開 について論及す る。
1.青森盲人教育所創設 および創設者
西蓮寺 は,茨城 県茨城町 にて1903(明治36)年 に生 まれた。小学校入学前 に失明 し,水戸盲 学校 に入学, その後東京盲学校師範科鍛接科 に進学 し,1924(大正13)年3月,同科 を卒業 し
た61。 同師範部 で青森出身の奈良孝治 と知 り合い,青森市 に盲学校 を建設す る夢 を共有 した7)。 西蓮寺 は師範部卒業後,北海道旭川盲学校教師 として発令 されたが,一年後青森 に奈良 を訪ね
た 。
「(西蓮寺 は)大正十四年八月十八 日,奈良の住 む青森市へや って きました。 しか し,現実 は きび し く, その時,奈良 はすでに病気で死亡 していたのです。奈良の遺族 は涙 の うちに彼 を 迎 えました。協力者 を失 った盲人教師幸三郎 はガ ッカ リしましたが, よしひ とりでふた りぶ んや ろうと決意 をあ らたにし,元気 を出 して,青森市 に盲学校 を開 くために努力 をはじめ ま した。」 8)
1925(大正14)年10月15日,西蓮寺 は青森市内相馬 リン方二階の一室 を借用 し,生徒2名で 指導 を開始 した。 これが青森盲人教育所 の創設である。「最初 の生徒 は二人で した。午前 中は, 点字 と盲人用 そろばんの勉強,午後 は,県庁や市役所へ出か け,県立盲学校設立 の運動 をしま
した。」 9)と,書かれているように,創設時 は午前中に授業 を行 い,午後 は経営のために働 いた。
創設間 もない青森盲人教育所 を山口ちせが訪ねた。山口は,青森 出身の東京 の教師で,「故郷 にいるた くさんの不具な子 の力 になって上 げたい」10)とい う思いで帰郷 していた。
「ちせ さん は, ようや く訪ねあてたその家 の前 に立 って,ち ょっ と息 をのんだ。途 みち尋ね て も容易 に分か らなかったの も道理, それ は学校 といって も名 のみで,普通の小 さな二階家 をその ままあてた ものであった。 ちせ さん は, しば しため らった後,思い きって案内を乞 う た。でて きたのは,二十七,八 の盲 目の青年, それが この家の主で もあ り,ただひ とりの教 師で もある西蓮寺幸三郎 その人であった。招 じられて, ちせ さんが二階 に上がってみる とそ こが教室 にあて られているらし く,ふた りは盲 目, ひ とりは唖 の男 の子が,異様 な叫び声 を あげて騒 いでいた。」11)
山口は,西蓮寺 の仕事 を手伝 うことになった。「それか ら毎 日,ちせ さんは,西蓮寺先生の『盲 教育所』 と名づ けた私塾 にか よった。生徒 の数 はまだ少 なかったが,先生の西蓮寺氏 をはじめ, 子 どもたちはみんな目や口の不 自由な ものばか り, その世話か ら洗濯,食事, はて は便所 の掃 除 まで, いっさい こまか く気 を配 ってや る。 その上で,西蓮寺先生 を相手 に盲唖教育 について の新 しい研究や,新 しい学校建設のプランな どを相談す る」12)とい う生活が始 まった。
1926(大正15)年,「時の本県社会主事補西村謙吾氏 の尽力 によ り青森市浪打今井武一氏経営 にかか る青森同情園の一室 を無料借用移転」13)した。生徒 は12,3名 とな り,初等科,中等科 の 二科がおかれた14)。中等科の修業年限 は四年で,教授 していた科 目は 「職業科で鋪術,灸術, 按摩術, マ ッサージ術 を教 え其の補助科 目として修身,国語,算術,博物,物理,化学」であ
った。初等部 の修業年限 は六年であ り, その教授科 目は 「尋常小学校程度で修身,国語,算術, 国史,地理,理科等」であった15)。
盲人教育所の経営 ・維持 は楽で はな く,西蓮寺 は,盲教育 に対す る啓蒙,理解者 を求 めて「午
前 は授業,午後 は官庁及 び市 内の名士 を訪問 され,盲教育 の必要性 を説かれ, 日々血 み どろの 努力」16)を続 けた。 また,1927(昭和2)年夏 には 「生徒達が盲教育普及 の為 に,夜間大 きな角 燈 ろうをかつ ぎ,市 内をね り歩」17)いた り,町田則文東京盲学校長 の講演会 を行 った りした。市 民 の理解,関心 も徐々 に深 ま り,1927(昭和2)年7月26日には, 日赤青森支部 において,藤 林源右衛 門18),等市 内の有志十余名が参加 し 「青森盲人教育所維持会」 を設立 した。
盲人教育所 は,1927(昭和2)年11月29日に,盲学校 と改称 した。「市 内浦町城戸利策氏 の好 意 によ り同氏附近 に校舎 を新築 し爾来盲人十五人収容 し専心教育 に従事 しつつある」19)状況 と なった。
表1.青森盲学校 の1928(昭和3)年度収支 総収入高
(内訳)
青森盲学校維持会後援費 寄付金
設立者負担金 (西蓮寺氏) 県共済会補助 金
繰越金
1,844円73銭
980円50銭 298円22銭 465円04金芙 100円00重美 97円00重美 総支 出高
(内訳 ) 教員給 小便給 校 医手 当 備 品費 図書費 筆墨費 印刷費 修繕 費 旅費 電灯費 通信費 校舎借家料 薪炭費 雑費
1,844円73重美
96円00重責 180円00重責 60円00銭 79円20銭 32円81銭 4円43銭 46円55妾宅
4円67金芙 37円50銭
18円93銭
4円29銭
266円00金蔓
132円50銭 22円85銭 (「東奥 日報」昭和4年11月29日付,青森 県教育史,
第4巻,641頁 よ り作成。内訳 と総額 の数値が合致 しないが,原資料通 りとした。)
表1は,1928(昭和3)年度 の収支である。
当時の国民 の年収 は800‑1000円程であ り20),学 校 の年間運営費1844円は,個人 の年収 と比較 し て も少額である。 また,1928(昭和3)年度 は, 教員 は西蓮寺 と山口の二名であったが,教員給 96円 (年額) は二教員 に とって はほ とん ど無給 に近かった。 そればか りか,当時生徒で もあ り また書記で もあった根川貞美が 「経営費 として も之 ぞ ときまった もの もな く,唯先生 の放課後 に得 る治療 の報酬 ぐらいの もので した」21)と述 べてお り, また 「創設立者負担金」として465円 04銭 を西蓮寺が負担 していた (表1) ように, 西蓮寺 の収入 を学校運営費 に充てて さえいた。
西蓮寺 は 「開校以来,資金面 と校舎 の問題 で, 苦闘,青森県の盲人教育 のため努力 したが,過 労 のため昭和 四年一〇 月死 去 した」'ZZ)O山口 は
「生徒の募集か ら指導,学校経営の何か らなに まで切 り廻」23)す ことになった。こうした山口の
「姿 を伝 え聞いて, ここにひ とりの同情者が現 れた。青森市出身で,東京盲唖学校 を卒業 した 中島健次郎氏 だった。中島氏 も盲人 であったが, 西蓮寺先生 の残 した仕事, ちせ さんの努力 に深 い理解 を もって力 を貸 して くれ ること」24)にな
り,1929(昭和4)年11月1日付 けで中島が経営の任 にあたることになった。
学校運営 の一端 を経済的 に も支 えていた西蓮寺が死去 した ことによ り,財政状況 は一層悪化 した。盲唖学校経営 を維持するには後援体制 を強化す る以外 にはなかった。すなわち,「藤林源 衛門氏専 ら世話役 とな り非常 の苦心 を払 ひっ ゝあるが経費不足 を来 し前途不安 の状況であるか ら有志者 に対 し毎 月一 口五十銭‑ ケ年 間の義損 を希望 し居 る」25)とい う状 態 であ ったので, 1929(昭和4)年11月27日,青森盲学校維持会 は 「協議 の結果従来の維持会 は十一月分 の集金 を以て‑先づ解散 し,新 たに十二月 よ り一 口五十銭,二 ロ一 円の二種 の会費制度 による会員 を 募 り,盲学校維持後援会 を設 けて後援す る」26)ことになった。盲学校 の経済的な支援 は,このよ うに後援会 を通 しての私的な募金 を中心 とした ものであったが,1928(昭和3)年10月1日に は青森県共済会か ら (2回継続),1929(昭和4)年7月30日には青森市か ら (毎年継続)それ
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ぞれ補助金 の交付があった27)。
安 藤 房 治
2.私立 および県立盲唖学校時代
1)私立青森盲唖学校 の認可
1931(昭和6)年5月10日,北 山一郎28),藤林 ら8名が設立者 とな り,青森盲唖学校 と改称 す る と共 に,設立認可 を文部省 に申請 した。同年8月3日,設立 の認可が得 られ,同年12月8 冒,‑民間人渡辺佐助 の寄贈 により独立校舎 に移転 することがで きた。1934(昭和9)年2月 26日,盲唖学校 は鋸術灸術営業取締規則第‑秦 (内務省令第11号)お よび按摩術営業取締規則 第一条 (内務省令第10号) による指定 を受 け,同年3月卒業生か ら効力 を発 した29)ことによっ て,無試験検定で,鋸術,按摩,マ ッサー ジの免許 を出す ことがで きるようになった。 「之 によ って盲生 の将来が保証 され,生徒 の学習 に も一段 と力が入 り同時 に学校 当局 に も一層の励 み と 努力 の意欲が盛 り上が り,一路 県立移管へ と努力が続 けられ るのであった。」30)
1923(大正12)年 に制定 された盲学校及聾唖学校令 は,道府県に盲学校 と聾唖学校 を設置す る義務 を課 していたが,学校 の設置が困難 な場合設置 を7年間延期す ることを許 していた (同 令附則)O青森 県 も設置延期 の認可 を受 けていたが,期限が迫 り県 として も対応 を迫 られた.県 は,財政難 を理 由に 「なるべ く県立盲唖学校 を設置 した き希望 なる も財源の関係上,私立学校 を以 て代用す る」方針 をとり,文部省 の了承 を得 た31).県の方針 により,「八戸市並 に青森市 の 有志 は各々其立場 か ら代用校 として完備せ ざる学校 の設立計画 を急 ぎ競争 も従 って激甚 を加 え」32)る結果 となった。青森盲唖学校 は,1931(昭和6)年11月15日同校設立者代表で もある北 山青森市長 らの呼びか けで青森盲唖学校昇格記念演奏会 を開催 した。 ここで,北 山 は 「一 日も 早 く県立学校 としたい」 とい う趣 旨の講演 を行 った33)。 この間,八戸盲唖学校か らは再三県議 会への陳情,請願があった‑34)が青森盲唖学校 か らの もの はみ られなか った.青森市長 を中心 と した青森盲唖学校 の県立への移管 の運動,八戸市お よび周辺 の町村 の協力 も含 めた八戸盲唖学 校 の運動 の高 ま りによって,盲唖学校 の県立移管 の機 は熟 して きた。1935(昭和10)年県議会 で,盲唖学校 の現状,県立移管問題 について次 のようなや りとりがあった。
「(清藤唯七)学齢 に達 す る児童 の盲唖者 は二千人 ある と聞 く。東北六県中県立 の盲唖学校 の ないのは青森県だけである。 これ らを県立学校で教育 したい。予算関係で実現 しない とい う が我々の調査で は僅かばか りの費用ですむ ようである。」
「(高辻学務部長)盲唖学校 は法令 の規定 による と昭和4年度以降 は各府県に必ず県立校 を造 らねばな らぬ ことになっている。」「来年度 は県立 に移管せず文部大 臣の認可 を得 るつ もりで あるが,法 の命ず る ところで もあ り,近 い将来 には速やかに実現す る必要がある と思ってい る。」35)
1937(昭和12)午,青森盲唖学校 は,八戸盲唖学校 とともに県立移管 を実現 し,青森県 にお ける盲唖学校教育 の基盤整備が進 んだ。「県立 となれ ば可及的速 やかに内容 の充実,設備 の改善 が行 われ る と共 に県下学齢児童中盲聾唖 の不幸 な児童 を成 るべ く多数収容 しなければな らぬ こ ととな り年々の盲聾唖学齢児童数か ら見て収容定員増加 の要 ある」 ことか ら,県 は定員増 を文 部省 に認可 申請 した‑36)。青森盲唖学校 は,県立移管 によって,当然 なが ら私立学校時代 のよう な経営困難 は解消 された。 た とえば,1938(昭和13)年度 の経常費 は6,034円であ り, その うち 教職員費が4,853円を占める37)な ど,10年前 に見 られたような,教員 の個人的な奉仕 を主体 とし
た収支,荏営 は,県立移管 によって著 し く改善 された。
2)県立盲唖学校 の教育内容
県立 に移管後,盲唖学校 の目的が 「盲人及聾唖者 に普通教育 を施 し其 の生活 に須要 なる知識 技能 を授 け特 に国民道徳 の滴蓑 に努 むるを目的 とす」38)とされた。 この文言 は,1922(大正12) 年制定 ・施行 されていた盲学校及聾唖学校令 の第 1条 の文言 を踏襲 した ものであった‑39)。教育 方針 は 「我 国家族制度 の美風 に則 り学校 を家庭的楽園 と為 し子弟 の愛 と父子 の情 とを滞然一致 せ しむ」 とされ,「教育 に関す る勅語 の御趣 旨を奉戴 し校風 の確立 を基調 とし」,以下 の項 目が 掲 げ られ, 「盲人及聾唖者 に普通教育 を施 す と共 に其 の生活 に須要なる知識技能 を授 く」40)こと
とされた。
一,国家社会 に対 す る認識 を深 め,善良なる公民 の養成 に努 め
‑,感謝信仰の念 を養 い以 て人生観 の確立 を期 し
一,一般的養護 に留意す るは勿論五官の衛生 に注意 し進 んで心身の錬磨体質 の向上 に努 め 一,職業指導 に特 に意 を用い
一,聾唖児童教育 には口話教育 に依 り語嚢 の拡充 日常会話 の習熟 を計 り 一,児童心身諸能力 の発展性 を尊重 し
県立移管後 の教育方針 は,上記 の,教育方針の下 に,朝会で は 「皇居遥拝」が行われ,毎月 一回神社参拝が行われ るな ど,当時の学校教育 の内容 を支配 していた天皇制国家主義教育理念
を反映 した もの となった。
盲部 には初等部 と中等部が設 けられ,中等部 には鍛接科,音楽科お よび別科が置かれ,聾唖 部 には,盲部 と同 じ く初等部 と中等部が設置 され,中等部 に工芸科 と裁縫科が置かれた。盲部 初等部 (修業年限6年)の教科 は,修身,国語,数学,歴史 (5, 6年),地理 (5, 6年), 理科,唱歌,体操,手工,家事手芸及 び裁縫 (4年か ら女のみ)で構成 された。中学部 (修業 年限4年)鍛接科 には,初等部 の教科以外 に英語,医学要項,鋪按実習が加 わった (手工 はな し)。音楽科 には,同 じ く英語,音楽理論,音楽実習が加 わ った。別科 は修業年限2年 で,修 身,国語,数学,唱歌,体操,家事手芸及 び裁縫,医学要項,鍛接実習の教科が課 された。
聾唖部初等部 には,修身,国語,数学,歴史 (5,6年),地理 (5,6年),理科 (4,5, 6年),図書,手工及 び技芸,唱歌及 び体操 の教科が設 けられた。 中学部 (修業年限5年)工芸 科初等部 の教科 に加 えて工芸 (手工及 び技芸 はな し)が置かれた。裁縫科で は初等部科 目の内, 手工及 び技芸がな くな り,裁縫,家事 (女 のみ)が設 けられた41)。
3)生徒数 の推移 と卒業生 の状況
1931(昭和6)年 に認可 を受 けた後 の生徒数 は 「青森 県統計書」 に掲載 されているが,表2 は,私立青森盲唖学校時代 の生徒数の推移 を整理 した ものである。認可 された年 には生徒総数 35名 であったが,県立校 となった1937(昭和12)年 には,53名 に増加 した。
認可後1944年度 までの卒業生の状況 は表3に示 した通 りである。1944年度 までの中等部卒業 者総数 は,盲部が34名,聾唖部 も34名であった。盲部卒業者 の大半 は三療 に従事 し,聾唖部卒 業者 のほ とん どが大工,左官,裁縫,農業等 に職 を得 た42)。
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表2.私立青森盲唖学校時代 の生徒数
安 藤 房 治
おわ りに
盲 部 聾 唖 部 総数 初等部 鋸 按 科中 等 部 初等部 中等部 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 1931 5 3 4 1 4 5 13 9 (昭和6) ・4 ・5 ・2 ・0 0 ・2 ・6 ・7 1932') 6 1 4 4 ll 6 21 ll i(昭和 7) ・3 ・3 ・3 ・2 ・0 ・0 ・6 ・5
(昭和8) ・6 ・1 ・3 ・2 ・0 ・0 ・9 ・3 1934 9 〇 3 4 16 ll 28 20 (昭和9) ・0 ・0 ・3 ・2 ・0 ・1 ・3 ・3 1935 ll 9 5 6 18 12 34 27 (昭和10) ・0 ・0 ・1 ・0 ・2 ・2 ・3 ・2 1937 3 4 0 0 19 14 00 22 18
(「青森県統計書」 よ り作成)
〜)聾唖部初等部生徒数 は原資料 で は学齢外 となってい る が,前後 の年度の生徒数か ら推察 して学齢児数である と 考 えられ るので,学齢児 として集計 した。
表3.認可後 の卒業生
盲 部 聾 唖 部 初等部 中等部 初等部 中等部 1931(昭和6) 3 3
1932(昭和 7) 2 2 1933(昭和8) 4 4 1934(昭和9) 2 2 1935(昭和10) 2 2 1936(昭和11) 3 2 3 2 1937(昭和12) 1 1 1 1 1938(昭和13) 2 2 2 2 1939(昭和14) 2 2 1940(昭和15) 7 7 1941(昭和16) 1 2 1 2 1942(昭和17) 2 3 2 3 1943(昭和18) 4 4 1944(昭和19) 4 3 4 3
(青森県立青森盲学校 ・青森県立青森聾学校 :昭和26 年度学校一覧 よ り作成)
青森盲唖学校 は,明治末期か ら昭和初期 に か けて県内で組織 された社会事業 の一つ とし て,献身的な盲人 によって始 め られた。青森 盲唖学校 の前身である盲人教育所 は,盲人保 護 に理解 ある一部 の資産家,政治家 の支持, 援助 を得 なが ら発展す ることがで きた。盲唖 学校 の県立への移管 は,県内での盲唖教育へ の理解 の広が りと,一部 の資産家,政治家 の 運動, さらには盲学校及 び聾唖学校令 に もと づ く全国的な盲聾学校 の県立移管化 の動 きが 後 ろ盾 となって可能 となった言 える。
県立移管後 は,私立校時代 に比較す る と経 営面で は憂 いがな くな り,学科や教科 も充実 し,多数の卒業生 を世 に出 し,青森県の県都 に位置す る盲聾唖児教育 の拠点 として発展 を 見せた。 しか し,県立移管直後 の 日中全面戦 争への突入,1941年 の太平洋戦争開始 な ど, 日本 は侵略戦争へ と突進す る時代 にあ り,盲 学校教育 もその影響か ら免れ ようもなかった。
「実 に八有余年,壮行会 だ,時局展の見学 だ, 陸軍墓地 の清掃 だ, あるいは武運長久 だ,戟 勝祈願 だ, な どとあ らゆる機会 を とらえて, 各種 の施設 を通 して直覚,直感 によ り時局認 識 に努 めて きた。更 には,陸軍病院 を慰問 し て は,戦病者 に対 しあん ま,マ ッサー ジの奉 仕,又 は理髪 の奉仕 を行 うな ど,結局認識 を 深 め る と共 に奉公 の一端 を捧 げた ものだ」43)
と言われ る状況であった。1945年7月28日の 青森空襲 は,幾多の教材 ・教具,按摩,鋸 な どの器具,機械 と共 に,青森盲学校校舎 を一 夜 に して灰塵 と化 した。幸 い,児童 ・生徒 は 空襲 の十 日前 に帰宅 させていたため,教職員 を含 めて犠牲者 はな く, これ らの教職員,児 童 ・生徒 を通 して,戦前の盲唖学校教育 の遺 産 は大戦後 に継承 され ることとなった。
(注)
1)安藤房治 :青森県障害児教育史 一盲 ・聾教育 の創始 と八戸盲唖学校 の設立 ‑,弘前大学教育学部 紀要,第51号,1984。
2)安藤房治 :戦前青森県 にお ける障害者 の生活実態,弘前大学教育学部紀要,第54号,1985。
3)工藤大成 :県立盲聾唖学校設立 の急務,青森県教育,195号,10貢,19300
4) た とえば,孤児貧児虚弱児保護事業 として は東北育児院 (明治35年),青森 同情 園 (同33年),八 戸保嬰学校 (同35年),保育事業 として は弘前託児 園 (大正3年),青森保育 園 (同10年)C その 他,昭和初期 には農村託児所 の設立 が相次 いだ。
5)青森県庁社会課,青森県社会事業要覧,41頁。 (発行年 は不明であるが,昭和5年 までの記述 があ る ことか ら,発行 は昭和6年頃である と考 えられ る)
6)東京盲学校卒業式,帝国盲教育,第3巻第4号,116貢.
7)「(西蓮寺 は)東京盲学校 の師範部へ進学 しました。 そ こで青森 出身の盲学生奈良孝治 と知 り合 い ました。やがて奈良 は,自分 の信念 を幸三郎 に伝 えました。『青森市 は政治,文化,産業 そ して交 通 の中心地であるが,盲学校がないか ら,盲学校 を建設 し,社会福祉 の発展 に身 をささげること が 自分 の人生 であ り,人生 の目的である。 しか し,残念 な ことに, 自分 は健康 に自信が ないが, 君が力 を貸 して くれ るな らば, この夢 は達成す るんだがなあ』 いつ しか,ふた りは手 を とりあい, その夢 を実現 す るために固い約束 をしてい ました。」 (青森県児童文学研究会 :青森県 を築 いた人 たち,139,140貢,19750 )
8)青森 県児童文学研究会 :青森 県 を築 いた人 たち,140,1975C 「青森県立青森盲 ろう学校 :創立三 十年誌」で は, この間の経緯 について以下 の ように記述 してい る (9頁)。
「北海道旭川 の盲学校 に発令 され赴任 すべ く出発 したのだが,途 中立寄 った青森 に, まだそれ ら しい学校 のない ことを聞 き,旭川の方 を辞任 し,単身此 の地 に引返 え して,借家住 い をしなが ら 青森盲人教育所 の設立 をした」
9)青森 県児童文学研究会 :同書,140頁。
10)成 田繁七 :みちの く聖女物語 一 変 に生 きぬ く四十年 ‑ 盲唖教育 の先達 山 口ちせ先生 を しのんで, 東青教育界 の先覚者刊行委員会,雪の ごと く輝 く,268貢,1969年
ll)同書,270頁。
12)同書,271貢。
13)青森県立青森盲唖学校 :学校一覧,1貢。発行年月不明であ るが,「沿革概 要」に昭和十二年七月
「県立移管祝賀式挙行 す」 までの記載があ ることか ら,県立移管後 に発行 された と思われ る。
14)青森県立盲 ろう学校 :創立三十年誌,9貢,1955。
15)「東奥 日報」昭和4年11月29日付 (青森 県教育史第4巻,641頁)0
16)青森 県立盲 ろう学校 :前掲書,10貢。 この ような啓蒙活動 は,青森盲人教育所 のみな らず行わ れていた。八戸盲人学校 で は 「生徒募集 のために木村 同校教諭 は一 日西郡鯵 ヶ沢 へ二 日五所川原 へ引続弘前,黒石等各地 を巡 り, 日頃本市 を訪れ青森師範学校 で一般 に内容 を説明 し種 々援助 を 求 め る筈」 (『東奥 日報』1927・3 ・1付) とい う状況 であった。
17)同書10貢。
18)藤林源右衛 門(1869‑1956)。当時市会議員,青森銀行取締役 な どをつ とめ,1933年か ら青森商工 会議所会頭 を三期 つ とめた。 (青森 県人名大辞典,1969)
19)『東奥 日報』1928・1 ・19付 (青森県教育史,第 四巻,603頁)。
20)1928(昭和3)年1月当時,政府事業労働者 (罪)の平均年収 が1011円05銭,一般工業労働者 (男) が,829円28銭であった。 (実収賃金 ・日給 に365日を乗 じて算出 した。朝 日新聞社 :日本経済統計 総観,947,950貢,1930)
21)根川貞美 :母校 の生 い立 ち を回顧 して,青森県立青森盲 ろう学校 :創立三十年誌,68貢,1955年。
22)青森県人名大辞典,261頁。
23)成 田繁七 :前掲書,273頁。
24)同書 :273貢。
25)『東奥 日報』1928・1・19(青森県教育史,第 四巻,604貢。)
144 安 藤 房 治
26)青森 県教育史,第 四巻,640頁。
27)青森 県立青森盲唖学校 :前掲書,1頁。
28)北 山一郎 (1870‑1949)。1900(明治30)年 か ら4期 県会議員,衆議院議員 を歴任。1930(昭和5)
年 に青森市長 に当選 (青森 県人名大事典)。青森 盲人教育所創設者西蓮寺 の亡 き後,運営,教育活 動 を継承 した一人 であ る山 口ちせ は,北 山一郎 の選挙演説 において 「盲唖教育 は全 県的 に推進 さ せ ねばな らない」 との主張 を街頭 で耳 に,北 山 に支援 を依頼 した (成 田繁七 :前掲書,274頁。)0
29)青森 県告示第124号,青森 県報 ・昭和8年度,131‑132頁。
30)青森 県立青森盲 ろう学校 :前掲書,13貢。
31) 『東奥 日報』1930・10・27付 (青森 県教育 史,第 四巻,664‑665貢。)
32)同書,665貢。
33)『東奥 日報』1931・ll・17付 (青森 県教育 史,第 四巻,733貢。)
34)八戸盲学校 か らの陳情等 は以下 の通 り。
】 請 願 . 陳 情 請願 .陳情者
】1927(昭2)午 私立八戸盲学校補助金増額請願 八戸盲学校長
1932(昭 7)午 県立代用私立八戸盲唖学校県移管方請願 ・八戸盲唖学校長八戸盲唖学校長青森県町村会長同校維持会長同維持会長外二郡分会長 (青森県議会史 ・自昭和元年至昭和10年, より作成)
35)青森 県議会史 ・自昭和元年至昭和10年,1583‑1584頁。
36)東奥 日報,1937年4月9日付。
37)青森 県立青森盲唖学校 :前掲書,4頁。
38)青森 県立盲唖学校 :青森 県立 青森盲唖学校規則,1貢,1942。 39)盲学校及聾唖学校令第1条 は以下 の通 りであ る。
「盲学校 は盲人 に,聾唖学校 は聾唖者 に普通教育 を施 し其 の生活 に須 要 な る特殊 の知識技能 を授 く るを以 て 目的 とし特 に国民道徳 の面責 に力 むべ きもの とす」
40)青森 県立盲唖学校 :学校一覧,12貢。
41) 同前書,5‑ 8貢。
42)1950(昭和25)年度 までの卒業生 は,盲部 中等部 (盲学校 中学部 )が45名 で あ り,聾唖部 (聾学校 中学部 ) も45名 であ ったが, それ ぞれ の進路 は以下 の よ うで あった。
盲部 (盲学校 ) 聾唖部 (聾学校 ) 自宅 開業 33名
学校教師 3名 弟子入 り 2名 病 院 に勤務 5名
理容 師開業 2名 理容師弟子入 り 2名
大工 3名
左官 2名
裁縫 7名
農業 5名
建具家具 3名
洗濯業 1名
手工業 3名
畳職 1名
其 の他家事手伝 い 16名
(青森 県立青森盲学校 ・青森 県立青森聾学校 :昭和26年度学校一覧,18‑19貢)
43)青森 県立青森盲 ろう学校 :前掲書,16‑17頁。