• 検索結果がありません。

戦前戦中期における文部省直轄学校 「特設予科」の留学生教育について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "戦前戦中期における文部省直轄学校 「特設予科」の留学生教育について"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

長崎大学留学生センター紀要 15 2007 /'''9

戦前戦中期における文部省直轄学校

「 特設予科」の留学生教育について

一長崎高等商業学校 の場合 一

嶋津 拓

キーワー ド : 留学生教育、特設予科、対支文化事業、長崎高等商業学校

は じめに

筆者はさきに戦前戦 中期 における文部省直轄学校の 「特設予科」制度 につ いて、長崎高等商業学校 (以下、 「長崎高商」 と言 う)を事例 として考察 した が、本稿 においては、その具体的な留学生教育の内容 を分析する。

ただ し、教育内容の分析 を開始する前 に、長崎高商特設予科の修業年限が 1934年 に短縮 された経緯 を見ておきたい。それは、 この修業年限の変更 をめ ぐる一連の動 きと、長崎高商が考 える留学生教育の在 り方 とが深 く関わって いるか らである。

1.修業年限の短縮

長崎高商特設予科の修業年限は1年半で、 これは他校の特設予科 には見 ら れない長崎高商の特徴だった。 この長崎高商の事例 を参考 として、のちに明 治専門学校 も修業年限を1年か ら1年半 に延長 したが、長崎高商 も明治専門 学校 も1934年 にはこれを1年 に短縮 している。長崎高商が修業年限を1年 に 短縮 した理由について、同校の 『三十年史』 には次のように記載 されている。

中華民国留学生は、其後母国の教育部が出国留学生規則 を制定 し、高級 卓 学又は之 と同等以上の学校卒業者 に限 り日本留学の資格 を認めることゝした ため、高級 中学卒業者の渡来 を増加 し、又新興満洲国よりの入学者 も、多 く は高級 中学卒業者であるので、昭和九年一月二十 日現行の如 く学科 目を改正

し、修業年限を1ヶ年 に改めた。」 1

(2)

しか し、修業年限を1年 に短縮す ることは、長崎高商が 自ら主体的に判断 したことではな く、 「外圧」 に由来す るものだった。その 「外圧」は外務省 ・ 文部省 ・東亜高等予備学校の関係者か ら加 えられた。長崎高商の関係者、 こ

とに特設予科主事の長畑桂蔵は修業年限の短縮 に最後まで抵抗 したのである が、結局の ところ抗 しきれなかった。

長崎高商 に対 して最初 に 「外圧」がかかったのは、193011月 に東京で開 催 された第5回特設予科会議の席上 においてである。 この第5回特設予科会 議では、前年の1929年 に中国政府が高級 中学の卒業生 にのみ 日本留学を認め るようになった ことを受けて、特設予科 とい う制度や修業年限の問題が議論 された。 この会議 において外務省 と文部省の担当官は、中国において 「留学 するに於ては学修期間長きに過 ぐるを以て留学期間短縮の便宜」 2を求める声 が強 くなっていることに配慮 し、長崎高商の長畑 に対 して修業年限の短縮 を 求めた。 これに対 して長畑は、 「学力の点に就ては初級、高級の差は少許な り、

日語 さ‑出来れば大差なかるべ し」 3としつつ も、修業年限の短縮 については、

支那 に於て 日語が盛 となれば考‑ る必要 もあるが、果た して支那高級 中学 の 日語が如何なる程度なるか判然せ ざる以上考‑様 もな し。只 日語が長崎高 商の半 ヶ年程度 に達 し居るとせば考慮の余地あ り」 4として、現在は修業年限 の短縮 を検討す る時期ではない と応酬 した。また、文部省の普通学務局長 よ り、 「長崎高商 に於ては目語 さ‑相当に出来 るな らば本科 に編入 しうるや。東 亜 (筆者註 :東亜高等予備学校)其他 にて 日語 をや ったものを入 るる余地 あ るか、それ とも長崎高商の予科 を出た者でな くては本科 には入れぬ方針なる 」 5と問われたのに対 し、「予科では本科 に入学後必要なる学科を教ふる故他 校 より無条件入学は少 し困る。現在のや り方が本科入学後有効 に表 はれ居 る 故」 と回答 し、長崎高商特設予科 における現行の教育システムに自信 を見せ

た。長畑が修業年限の短縮 に難色を示 したのに対 し、文部省普通学務局長は、

如何 にしても日語教授の為 に一年半 を要す と云ふな ら可 し。学力補習の為 に一年半を要す るとせば矢張 り問題な り。支那側 にては高級六年の卒業なる 故矢張 り本科二年 に入れて呉れ と云ふな らん」 6と述べている。

長畑は修業年限を短縮す る ぐらいであれば、現行の特設予科 とい う制度そ のものを廃止すべ きであ り、その上で修業年限の短縮 とい う 「問題 を議す る 方都合 よし」 7と反論 した。これに対 しては文部省普通学務局長が、 「廃止は出 来ぬ。 日語練習の為、初級 中学卒業生の為 に」 8と述べているが、 これを受け

(3)

長崎大学留学生センター紀要 15 2007 81

て長畑は、「特設予科ある以上は夫夫 目的ある故年限短縮は問題な り」 9と発言 し、修業年限の短縮 にあらためて抵抗 した。

こ うして第5回特設予科会議 を乗 り切 った長畑だったが、修業年限の短縮 に関す る問題は、19333月 に開催 された第7回特設予科会議でも取 り上 げ られた。 この会議 には東亜高等予備学校学監の三輪 田輪三が 「留学生教育私 案」 と題する意見書 を提出 している。 この意見書の中で三輪 田は、明治以降 の留学生予備教育の歴史を振 り返 りつつ、現状を次のようにま とめている。

支那留学生の特設教育は約三十年前靖国政府 より本邦政府 に其養成 を依託 せ られ、 (‑)支那本国の中等学校 を卒業せ るもの、 (‑)清国政府は留学生 一人に付年額二百円を提供する事、 (‑)一高、東京高師、千葉医尊、東京高 工、明治専門 (ママ)の五校 にて特別教育をなす こと (所謂特約五校)の約束 の下 に其教養を創始 した り。其後支那 に於ては国体の変更、政治の変遷等あ りて学制は数々変更せ られ、靖国政府 当時の留学生費 も提供せ ざるに至 り、

我政府 にて之が善後策 を講 じた り。而 して我国に於ても学制の変更あ り。特 約五校の内、千葉医寺、東京高工は大学 に昇格 し、其他種々の変遷 を経て、

現在の特設予科 (七校)を設置 した り。

従来留学生の資格 は支那の中等学校卒業なる漠然たるものな りしため、支 那の学制の変更するに従ひ、或は旧制中学 (四年)、初級 中学 (三年)の卒業 者等皆有資格者な りLが、昭和四年 に至 り南京政府は高級 中学或は専門学校 卒業者 を以て海外留学の資格 と定めた り。 され ど我国に於て支那の政情常な らざる故 を以て依然従来の中等学校卒業者を収容す る特設予科の制 を改正せ ず、現在 に到れ り。

され ど支那の教育制度漸 く定ま り教育の進展棺 に見るべ きものあるに於て は、留学生の素質 も向上を告 ぐるは当然の情勢 にして、昭和四年以来支那の 大学卒業者、高等 中学、専門学校卒業者は留学生の大多数 を占むるに至 り、

今 日の状況を以て推移せば本邦 に於ては留学生の大多数の利便 を省ず留学資 格 を有せ ざる少数者の為 に特設予科 を設置す るの奇観 を呈す るに到 る」 10

このような認識に基づいて、三輪田は会議の場 において次のように提案 した。

高級 中学以上の出身者が多 くなれば、従来の特設予科 を多少変更する要あ

(4)

るべ し。なん となれば此制度は高級 中学以下のものを日当 としたるものなる を以てな り。支那 に於 ける高級 中学を十分調査 し、其卒業生の成績が書 けれ ば特設予科 も変更の必要あるべ し。明治専門、長崎高商の特設予科は‑ ヶ年 半なるが一年 にされては如何。又高級 中学が真に価値あるものなれば入学試 験 も日本語のみ にて専門学校の一年生 に入学許可せ られた し。旧制のもの及 初級 中学出身者は予科 に収容すべ きな り。」ll

この提案を長崎高商の長畑は、 「現在の処 にては入学志願者 に三段階ある故 現在の制度が最適当な りと考ふ」 12との理由から拒否 した。また、三輪田が 「

日学院、江漢高級中学の卒業生なれば本科 に入学せ しめられたし」 13と提言 し たのに対 し、長畑は 「特設予科の課程中には普通科のみならず商業科もあり」 14

として、 これ も拒否 した。

しか し、翌年の1934年に長崎高商は特設予科の修業年限を1年 に短縮 してい る。 これはおそ らく、外務省 ・文部省 ・東亜高等予備学校か らの 「外圧」 に 長崎高商 としても抗 しきれな くなった結果であろ う。

長崎高商が修業年限の短縮 に反対 したのは、留学生予備教育 とい うものの 在 り方、そ して、その留学生予備教育の一環 としての 日本語教育の在 り方 に 対す る考え方が、外務省 ・文部省 と長崎高商の間で異なっていた ことも、そ の理由のひ とつだった。 この間題 については、第4節であらためて論 じたい。

2.長崎高商特設予科の教官

長崎高商特設予科 には、1930年度の場合、 「教授六名、助教授三名、講師五 名及外人教師二名」 15の合計16名が勤務 していた。いずれも本科 との兼任であ る。彼 らの特設予科担 当分の給与は 「対支文イヒ事業」予算か ら補填 されてい た。擾林会編 (1975)によれば、長崎高商は特設予科専任の教官 (国語」2 名、 「英語 1名)を雇用 したこともあったようだが、 これ らの教官はいずれ

も短期間で退職 してお り、16長崎高商特設予科の授業は基本的に本科の教官が 兼任 して受 け持 っていた。

特設予科教官の中心的な存在だったのは長畑桂蔵である。長畑は19199 25日か ら1944331日までの約25年間、長崎高商に在籍 した。17本科 にお

ける担当科 目は 「支那語、東洋史」 18だったが、特設予科の主事を兼務 し、東 京で毎年開催 され る特設予科会議 にも長崎高商を代表 して出席 している。

(5)

長崎大学留学生センター紀要 15 2007 83

この長畑桂蔵は早 くか ら 「対支文化的政策」の必要性 を唱えていた。また、

日本の 「対支文化的政策」が欧米諸国のそれ と比べて立ち遅れていることを 嘆いてもいた。彼は19212月 に長崎高商が発行 した 『学友会雑誌』に 「日 支親善 と国民的理解の急務」 と題する論文を寄せているが、そこには次のよ

うに記 されている。

「日支両国が共 に東亜 に位置 し僅かに一衣帯水の而 も種族 と文化を同じくし 共存共栄の特種的関係あ りて親善なるべ き幾多の必要性 を有 しなが ら事毎 に 相背馳 し又 より敦睦なるべ き可能性 を具‑なが ら愈々相拝絡す る如 きは誠 に 東洋平和の障得 にして 日支の不幸是れ より大なるなし。 (中略)

吾人は 日支経済的連携及び対支文化的政策の急務 を賛す ると共 に百尺竿頭 一歩 を進めて両国民相互の理解 をして今一層徹底的な らしむる国民的大運動

の必要を高唱 して止まざる者な り。 (中略)

欧米諸国の対支外交が常に優越なる地歩 を収むる所以のものは固より幾多 の理 由の存するな らんも彼等が絶 えず時代思想の帰趨 に着 目し国民心理の妙 諦を把握するの敏なるに負ふ所ある決 して少 しとせず と云ふ。又以て他山の 石 とすべ し」 19

このように考 えていた長畑が、 「対支文化事業」の一環 として長崎高商 に特 設予科が設置 された時、その責任者 となったのは当然でもあったろ う。彼は 本科では 「支那語、東洋史」を担 当していたが、特設予科では 「国語」を担 当し、また、特設予科主事 として同料金体のカ リキュラム編成 に重要な役割 を果た した。その長畑は、19302月 に開催 された第4回特設予科会議の席 上において、長崎高商特設予科の留学生 と彼 らに対す る教育お よび生活指導 の現状 について次の ように述べている。

大正十一年 より支那学生 に対 し予備教育 を実施 し居 りLが、十四年 より現 在の一年半の特設予科 とせ り (最初一年の計画な りLも同年十月 より入学生 の便利を考慮 し六 ケ月を延長せ り)。成績は良好 にして本科入学後 も同様な り。

日本人経営の学校出身者は 日本語 も熟練 し居 るを以て学科の成績 も良好な り。従て、入学当初は支那本国学校の出身者 も居 ることゝて学力不揃なれ ど も一年半の後 には大体学力も向上 し、 中には平均 甲の成績 をあげたる学生 も

(6)

あ り。従来 よりは進歩の跡歴然たるものあ り。

学科 中英文の和訳は支那学生の最 も苦心す る所 にして一般成績 に徴 し此の 点は梢劣れ り。

高等商業学校の特設予科なるが故 に本科編入後の ことを考慮 し、法制、経 済、法学通論等 をも教授 し居れ り。学習の態度は極めて真面 目な り。

健康状態は一般 に良好な り。現在普通体操一時間、教練二時間を課 し居れ り。彼等の遊戯 は主 に蹴球 と寵球なるが著 しく熟練 し、本科生 に挑戦す る等 頗 る元気な り。近来は選手のみな らず素人組 も活動 し居れ り。土地柄 として 海 にも山にも近 き故、登山、海水浴の便利あ り。之を利用 して暑暇は悔水浴 をな さしめ且九月末の試験準備 をな さしむる方針 を採 りたる結果、昨年の暑 暇には帰国者少数な りき。

斯 る状態なるが故 に出席状態 も宜 しく第二学年 に付て調査す るに八百八十 六時間中欠席の最 も少 きは八時間、最 も多 きは百二十八時間なるが、之は暑 暇に帰国し学資調達の為帰校が後れたる結果 にして敢 えて怠慢 と云ふ訳 にあ らず。同 じく第一学年 に於て授業時間数三百九十一時間に付て調査するに欠 席時数倭 に一時間 と云ふ精勤者あ り。只、家庭の事情 に依 り無届の全欠席者 あれ ども之は論外な り。只、遺憾 に思ふ ことは長崎を通過する支那学生が其 都度呼出又は訪問をなす為時々己むを得ず欠席することな り。

指導監督は生徒主事其の任 に当 り、一切無差別待遇 とせ り。彼等は差別待 遇を好まず。此の点に付ては曽て当時の岡田文相、幣原外相 にも報告 し置 き た り。

学資の問題は学習上至大の関係あ り。彼等の悩みは欠費な り。此の点 に関 し何等かの方法を講ずれば彼等の学習は更 に向上すべ し。本科生 には補給の 制度あ り。特設予科 にも此の恩典 を拡張せ られんことを望む (此の点は誤解 に付坪上部長 (筆者註 :外務省文化事業部長) より説明す る所あ りた り)。又 現今の選抜学生数 を増加 し彼等 をして安んじて学業 に就か しむる様考慮せ ら れんことを希望す。

授業料の遅延する者あれ ども怠納者な し。

寄宿舎 に彼等 を収容する余裕なきを以て素人下宿 に入れ 日本人の家庭 を知 らしむる様 にせ り。土地柄 として下宿 も善意の待遇 をな し居れるが、北方支 那人は髄銘食なるが故 に南方人の如 く米食 に慣れ難 き不便あ り。

彼等の団体 としては 「中華民国長崎同窓会 あ り。極めて円満な り0

(7)

長崎大学留学生センター紀要 15 2007 85 当校特設予科入学志願者の少 き理 由は概 して商業志願者少 きと土地が辺 僻 なる為な り。東京商科大学 に入学を希望する者は可也あれ ども支那 にては此 等卒業者 を使ふ所少 し。現在長崎高等商業学校 に在学する学生の如きも多 く は商業家の子弟な り。 自己経営の為同校 に遊学す ると云ふ状態な り」 20

3.カ リキュラム

特設予科の開設 にあた り、外務省 も文部省 もカ リキュラム編成上の指針 を 示 さなかった。 このため、特設予科設置各校 は自校の事情や教育方針 に合わ せてカ リキュラムを編成することにな り、その内容は学校 によって大き く異 なっていた。長崎高商の 「中華民国留学生特設予科規程」 21に規定 されている カ リキュラムを他校の特設予科 と比較す るな らば、次の点を長崎高商の特徴

として挙 げることができる。

第一の特徴は、 「英語の授業時間数が多いことである。22長崎高商は第 1 学年で毎週11時間、第2学年で毎週12時間 と全授業時間の約1/3を英語教育 に 充当していたのに対 し、広島高等師範学校は7時間、第一高等学校 と明治専 門学校は6時間、東京高等師範学校は5時間、奈良女子高等師範学校は4 間 と、 「英語」の授業時間数は長崎高商の約半分またはそれ以下だった。

二番 目の特徴 としては、 「国語」の授業時間数が多い ことが挙げられる。長 崎高商特設予科は第1学年で毎週11時間、第2学年で毎週12時間を 「国語」

の教育に充ててお り、奈良女子高等師範学校 (毎週16時間を 「国語」に充当) についで 「国語」の授業時間数が多い。 これは長崎高商 と奈良女子高等師範 学校の場合は 「日本語科の中に他学科を含めて教授 し居 る」 23とい う特殊なカ リキュラムを採用 していたか らでもあるが、他校の週あた り 「国語」授業時 間数 を見てみると、広島高等師範学校は10時間、明治専門学校は第 1学年11 時間、第2学年 9時間、東京高等師範学校は 8時間、第一高等学校は 6時間 であ り、いずれ も長崎高商 より少ない。

三番 目の特徴は、特設予科の開設当初、「修身」の時間がなかったことであ 。193011月 に開催 された第5回特設予科会議 において、長崎高商特設予 科主事の長畑桂蔵 も 「特設予科 には修身を置かず」 24と述べている。 しか し、

1932年度か らは長崎高商 も 「修身」の時間を設 けた らしい。19333月 に開 催 された第7回特設予科会議で長畑は、 「我校 にては修身に於て学校の事情、

九州の歴史、 日本の歴史、風俗習慣人情、冠婚葬祭な どを講ず。留学生は大

(8)

に喜んでをる。校長は学問の専き事を話す。其結果は善き様な り」 25と述べて いる。

前述の とお り、長崎高商は1934年度 に修業年限を1年 に短縮 した。その際 に 「修身」はカ リキュラムか ら再び姿を消す ことになるが、26 国語と 「 語」を重視する姿勢は変わ らなかった。27前者には毎週19時間、後者 には毎週

9時間が充て られている。

特設予科のカ リキュラムが学校 によって大 きく異なっていたことは、外務 省関係者の眼 には奇異 に映 った ようだ。同省文化事業部は1932 3月 に 「

国留学生予備教育機関に於 ける学科 目其の他 に関す る調査」を行っているが、

その調査報告書 には次のよ うに記 されている。28

「(筆者註 :特設予科設置各校では)修身、国語 (日本語)、英語、数学、歴 史、地理、物理、化学、博物、図画、音楽、体操等殆 ど各科 に亘 り既修学科 の基礎の上に本科入学の準備 としての教育 を施す と共 に日本語学習 にカを注 ぎ居 るを見る。即ち各校共 日本語科 に各週六時間 (一高)乃至十八時間 ( 良女高師)を配当し居れ り。 (中略)奈良女高師、長崎高商の如 く日本語科の 中に他学科 を含めて教授 し居 るものあるは注意すべき事な りとす。 (中略)敬 科書は特殊の学科を除き出来得るだけ多 く使用 され居 るが、 (‑)多数の教科 書中一つ として二校以上に使用 され居 るものなきこと、 (二)修身科 に於て教 科書を使用 し居 るは奈良女高師一校のみなる事、 (≡) 日本語科 に於て普通の 国語読本の外小説、随筆、論説等の単行本を採用 し居 ること、 (四)同じく日 本語科の教科書 として他学科の夫れを使用 し居ること、 (五)同一学科 に於て 一方小学校の教科書 を用ふ るものあると共 に他方相当難解な りと恩はるる教 科書を使用 し居 ること、 (六)同種の学校 にて或る学科 につきて総合的教科書 を用ふる学校ある一方、分科的に教科書を使用 し居 ること、 (七)歴史地理科 に於ては全 く之れを課 さざる学校 あ り、又課するにしても日本 に関するもの に重 きを置 くもの と然 らざるもの とあること等なるも類似予備教育機関が斯

くの如 く多様 の状態 に置かれ居 るは注 目すべ き事な りとす」 29

官立学校特設予科のカ リキュラムや使用教科書がこのように 「多様の状態 にあるの と比較 して、外務省文化事業部は東亜高等予備学校および成城学校 中華学生部の状況を次のよ うに評価する。

(9)

長崎大学留学生センター紀要 第15号 2007 β7

「(1)東亜高等予備学校、(2)成城学校 中華学生部の予科及 日語高等専修科 は諸種の学校 に入学 し得 る為の予備教育機関 として設立せ られたるものにし て、主 として 日本語 を教授 し特定の学校 に入学す る為の準備教育 を施 さるる ものな り。且つ此の両校は支那留学生教育 に長 き歴史を有 し居れるが故支那 学界 にも相当に知 られ居 るが故 に彼地 より来 る学生 中一般高等専門学校 に入 学せん とする者は、東亜 に、軍事方面の諸学校 に入学せん とす る者は成城 に 足 を止むるもの大多数 に上 り居れ り。両校は此の特殊の状態 に鑑み留学の教 養 に種種なる研究を重ね東亜、成城共多数の 日語教科書を出版 し居 り。其の

中支那 に於 ける日語教科書 として採用 されたるもの少なか らず。」 30

外務省は東亜高等予備学校や成城学校 を、 とくに東亜高等予備学校 を留学 生予備教育機関 として高 く評価 していた。 このため、同校の代表者を1927 以降、特設予科会議 に参加 させてもいる。東亜高等予備学校の代表者が特設 予科会議 に参加するよ うになった理 由 としては、酒井順一郎 (2004)が指摘 するように、 「中国人留学生予備教育の最大手であった東亜高等予備学校は特 設予科各校に多 くの学生を入学 させてお り教育方法や中国国内事情 に明るかっ たであろ う」 31ことも考えられるが、それ以上に官立学校特設予科の 「多様の 状態」 にある教育内容、 とりわけ日本語教育の在 り方 に対す る外務省の不信 感が大きかったか らではないか と思われる。外務省は、 「予科終了者にして高 等専門諸学校又は各特設予科 に入学せんとする者を収容」 32する東亜高等予備 学校の教育内容 を特設予科設置各校が参考 にすることを期待 していたよ うだ。

とくに日本語教育の面でそれを期待 していた ようだが、 これ については次節 で触れたい。

4.日本語教育

特設予科で行 う 「国語」教育の内容や到達 目標 について、文部省や外務省 が各校 に具体的な指針 を示す ことはなかった。 しか し、 「対支文化事業」の一 環 としての留学生教育は、 「一般支那人をして 日本語 に通ぜ しめ 日本の文化及 実力を諒解せ しむる」 33ことの必要性を唱えた 「支那人本邦留学情況改善案

(19186月 に外務省が作成) と題す る政策提言書か ら出発 していることか らも明らかな とお り、 「日本語普及」を大きな目的 としていた。また、留学生 予備教育の観点か らも、 「留学生をして比較的短時 日の間に於て 日本語 に習熟

(10)

せ しむることは彼等の学習 にとりては最 も必要なることな り」 34と認識 されて いた。 このため、特設予科 における留学生教育 に関 して、 「日本語教育 に重点 を置 くべきであると外務省は主任者会議において各学校に繰 り返 し強調」 35した。

特設予科設置各校 も 「国語」教育の重要性 は認識 していた。た とえば、長 崎高商の 「中華民国留学生特設予科規程」 には 「学科課程 の項 に 「第一学 年 に於ては特 に国語の熟達 を計 るもの とす」 36と記載 されている。また、同校 特設予科主事の長畑桂蔵は、19323月 に開催 された第6回特設予科会議の 席上 において、 「教育上、本校は特予 に於て 日本語の教授 を十分 に学習せ しめ

ることに努力居れ り」 37と述べている。

ただ し、長崎高商 における 「日本語 の教授」の方法お よび内容は、奈良女 子高等師範学校 を除 く他校 の特設予科 が行 っていた 「日本語の教授 の方法 や内容 と大 き く異なる。それは、長崎高商 における 「日本語の教授が 「日 本語科 の中に他学科 を含めて教授 し居 るもの」 38であ り、 「国語 の中に商事要 項、法律通論」 39を取 り入れた教育方法 を採用 していたか らである。

この よ うな教育方法 を長崎高商が採用 したのは、同校特設予科主事の長畑 桂蔵が 「学科 に関連 して 日語 を教‑」 40ることを重視 していたか らである。む ろん長崎高商で も、 「学科 に関連 して 日語 を教‑」る前段階 としては 「国語」

そのものの教育 を行 っているのであるが、その次の段階では 「日本語科 の中 に他学科 を含 めて教授」 していた。また、 これには当時の高等商業学校 にお ける授業のスタイル も影響 してい るもの と思われ るが、長畑は 日本語 による 講義 を 日本語で 「ノー ト」できるスキルの養成 を重視 していた。彼 は1933

3月 に開催 された第7回特設予科会議で次の よ うに述べている。

「(筆者註 :留学生は) 「ノー ト」 を取 るに困難 し本邦学生 より 「ノー ト」 を 借 りて 「ブランク」 を埋 めをれ り。我校 にては特 に聞き方 に注意 し書取 を大 にや らせてゐる。か くて‑ ヶ年やれば本科 に入 りて 「ノー ト」 を取 ることを 得。 自分 は一週三時間受持てるが毎時半分聞き方半分は書取な り」 41

長畑が、外務省や文部省か ら長崎高商特設予科 に加 えられた、修業年限の 短縮 (1年半‑ 1年) を求める 「外圧」 に抵抗 したのも、 日本語 による講義 を日本語で 「ノー ト」できるスキルは1年の修業年限では養成できない と考 えていたか らである。193011月 に開催 された第5回特設予科会議 において、

(11)

長崎大学留学生センター紀要 15 2007 89 外務省文化事業部長が修業年 限の短縮 を求める立場か ら、 「日語 の為 に一年間 の特設予科 を設 くることは結構 な り。而 し学科 を重複 して教ふ る点は無駄 と 考‑ るな らん」 42と発言 したのに対 し、長畑 は、

「 (

筆者註 :日本語で) 「ノー ト」が とれぬか ら学科 を重複せ しむ ることも致方 な し」 43と反論 している。44

長畑 の考 え方 は、今 日の感覚で言 えば 「日本語教育」 とい うよ りも 日本語 による 「イマージ ョン教育」の考 え方 に近い と言 えるか もしれない。長崎高 商特設予科 の留学生 は 「日本語 を学ぶ」 とい うよ りも、専門学科 を学ぶ 中で

日本語のスキル を身に付 けることを求め られていた とす ることができるだろ う。

この よ うな教育方法 は、長崎高商 の留学生教育 にお ける特色 のひ とつ だっ た。陳莫 (2003)によれば、他校 の特設予科では、 「一般的な語学力のマスタ を目指 して文法、会話、作文、読解 な どの方面か ら日本語 の教育 を実施」 45 るケースが多かった とい う。

ただ し、 「一般的な語学力のマスタ」だけでは不充分 と考 える学校 も存在 し た らしい。陳臭 (2003)は、明治専 門学校 が1930年 に修業年 限の延長 (1

‑ 1年半) を決定 したのは、 「長崎高商の方式か ら一定の啓示 を受 けたのでは ないか」 46と推察 してい る。

この よ うに長崎高商は、 「学科 に関連 して 日語 を教‑」 る教育方法 を採用 し ていたのであるが、その 「国語」教育で使用 された教科書は、19323月付 の

中国留学生予備教育機 関 に於 ける学科 目其 の他 に関す る調査」 によれ ば、

次の とお りである。47

11931年度 にお ける長崎高商特設予科 の使用教科書 (国語)

1年次 (読方方面)

斎藤清衛著 第二読本 第三

落合直文 .金子元 臣著 中等 国語読本 巻三 鳩 山 .河 田著 最新法制経済教科書

吉田良三著 簡易商業簿記教科書

武 田英一 .森富次郎著 新選商事要項 (文法、作文及会話方面)

吉 田禰平 .小 山左文二著 新編 日本文典

2年次 斎藤清衛著(読方方面) 第二読本 第三

(12)

武 田英一著 最新商事要項

吉 田良三著 簡易商業簿記教科書 (文法、作文及会話方面)

堀越 .浅井著 日本文法精義

ここで注 目すべ きことは、 「学科 に関連 して 日語 を教‑」 る前の段階の教科 書 として、すなわち 「日語」そのものの教育 を行 う段階の教科書 として、本 来は 日本の中学校で使用す るために編 まれた国語教科書が使われていること である。 これは長崎高商 に限 らず、他校の特設予科で も同様だった。 もとも とは中学校や高等女学校の 日本人生徒 のために (すなわち 日本語 を母語 とす る生徒 のために)編集 された国語教科書が、 日本語 の非母語話者である留学 生 に対す る 「国語」教育で も使用 されていたのである。

日本 の外 国人留学生受 け入れは19世紀末 まで遡 ることができる。 このため、

対支文化事業」 による特設予科制度が始まった1920年代の中頃までには、

留学生 を受 け入れた実績 を有す る高等教育機関や留学予備教育機関を中心 に、

その 日本語教育の方法や内容がかな りの程度まで整備 されてきている。また、

日本語 を母語 としない学習者のための 日本語教材 も初級 レベルか ら上級 レベ ルまで数多 く出版 されてきた。東亜高等予備学校 を設立 した松本亀次郎が中 心 となって編纂 した 『日本語教科書』はその代表的な教材である。

しか し、特設予科設置7校 は、留学生 に対する 「国語」教育を実施す るに あたって、その よ うな蓄積 をほ とん ど顧みなかった。その理 由は必ず しも明 らかではないが、特設予科設置各校 は、 日本語 を母語 とす る生徒 のために編 まれた教科書 を、 日本語 を母語 としない留学生のための 「国語」教育で も使 用 しつづ けるのである。

特設予科設置校が留学生 に対す る 日本語教育の約30年 に及ぶ歴史や蓄積 を 一顧 だにしない ことに対 して、外務省 は業 を煮や した よ うである。前述 の よ うに、同省 は東亜高等予備学校 の教育成果 を高 く評価 し、192711月開催の 2回会議か ら同校 の代表者 を特設予科会議 に参加 させて もいるが、外務省 19302月開催の第5回会議や19333月開催の第7回会議 の場 において、

東亜高等予備学校 の 日本語教員 を して特設予科関係者 を前 に同校 の 日本語教 授法 を講義 させて もいる。

東亜高等予備学校 の関係者か らすれば、特設予科 の 「国語」教育 は留学生

(13)

長崎大学留学生センター紀要 第15 2007 91

に対する日本語教育 として良質のもの とは言 えなかった。た とえば、長崎高 商の長畑桂蔵は、既述の とお り、 日本語 による講義 を日本語で 「ノー ト」で きるスキルの養成を重視 していたが、彼がその方法 として、 「自分は一週三時 間受持てるが毎時半分聞き方半分は書取な りと発言 したのに対 し、東亜高 等予備学校の 日本語教員は、 「書取 と会話 にて一時間取るは不 自然な り (然 し 速成には己むを得ず)、読本 に関連 して書き方をやる」 48べきだと進言 している。

酒井順一郎 (2004)は、特設予科会議の場 において 「東亜高等予備学校 の 日本語教授法の講義があったほ どであるか ら各校 とも日本語教育 に煮詰まっ ていた といえるだろ う」 49としている。 しか し、果た してそ うだったろ うか。

また、酒井順一郎 (2004)が指摘す るよ うに、特設予科設置校は留学予備教 育のノウハ ウを 「東亜高等予備学校のよ うな予備教育専門の学校 ほ ど持 って いなかった」 50のであるが、そのようなノウハウに対 して無知だった とも考え

られない。

特設予科の教育内容に業を煮や した外務省は、19305月、 「財団法人 日華 学会 の経営に係 る東亜高等予備学校編纂の別紙教科書は中国学生の準備教育 に関する多年の経験 と研究の結果 に依 り中国留学生準備教育上有益なる資料 と認むるを以て東京工業大学外六校附設の特設予科 に対 して教授上の参考 と して寄贈すること」 51とした。その中には松本亀次郎の 『日本語教科書』も含 まれてお り、 これ らの教科書を受贈 した長崎高商は、 「右の図書は本校 中華民 国留学生の指導教養上最 も好適 にして有益なる資料」 52であると外務省‑の礼 状 に認めているが、 これ らの教科書が実際に長崎高商の特設予科で使用 され た形跡は見当た らない。同校はあいかわ らず 日本語母語話者のために編纂 さ れた国語教科書を使用 しつづけた し、また、 「学科 に関連 して 日語 を教‑」 方法 もやめなかった。 さらに、東亜高等予備学校の 日本語教員か らその教育 方法 を 「不 自然」 と指摘 された長畑桂蔵 も、 自己の方法を変 えなかった。少 な くとも長崎高商 に限って言 えば、東亜高等予備学校の 日本語教育 に代表 さ れるような方法を承知 していたし、「日本語教育 に煮詰まっていた」わけでも なかった と言 えるだろ う。ただ、 自校 の方法 を最善のもの と信 じていたので はなかったか。実際、長畑は自校の教育成果 について、留学生の 「日本語 は 中々立派なものな り。又書 くことも上手 にして修学旅行53な どの報告の如きは 日本学生 よりも上手な者あ り。斯 る状況 にして生徒の成績 は 日々良好 に向ひ っ ゝある様 に恩ふ」 54と評価 している。

(14)

長崎高商は1935年度 において も、 「本科入学後、筆記学科 目の比較的多 き本 校 としては其 の要求 に応ずべ き準備 として常 に書取 の練習 を励行 し其 の習熟 を計」 55ること、また 「国語 の学科 目中に公民及び商業大意等 を設 け本科入学 の準備知識 を教授す る と共 に傍 ら商業学 ・経済学乃至法律学等 の用語 を広 く 知得せ しむ る」 56ことを重視 している。

長崎高商は、 この よ うな教育方法 ・教育 内容を特設予科 が廃止 され るまで 維持 しつづ けた よ うである。同校 の 『昭和十七年度教授要 目』 ( 2】 を参 照)が長崎市立 山の長崎歴史文化博物館 に残 されてい るが、それ を見 る と、

特設予科 の廃止が 目前 に迫 った1942年度 において も、長崎高商 は従来 の教育 方法 を変 えていない。

2】長崎高商 「昭和十七年度教授要 目」 (国語)

科 目名 時数 概要 教科書 .内容 教授

国語 (

‑)

1 修身

.人種、民族、 国民 新太郎 二. 日本 国民 の特性

三. 日本 の国体

四.皇室 と日本 の文化 五.世界 と亜細亜

国語 (二) 2 教科書夏 目軟石著 『坊 ちゃん』 塵谷哩著 『新訂漢文精選階梯』 (坐)

国語 (三) 1

.文法

教科書

八波則吉著 『現代 中等 日本文法』

二.作文

各種文体 に亘 る課題作文 の添 削批評

国語 (四) 2 教科書五課嵐力編 『純正 国語読本』巻七 講読 をな しつ ゝ適宜 に書取 をなす

国語 (五) 2 商業大意 教科書

波多野鼎著 『序論 経済学入門』

(15)

長崎大学留学生センター紀要 15 2007 93

第三章 全体的生産機構 第四章 金融機構

第五章 国際経済機構 第六章 景気変動 の機構 第七章 経済統制 の機構

国語 (六) 2 経済大意 教科書 本位 田祥男著 『新体制下の経済』

第一部 新体制一般 第二部 産業 の新体制 第三部 消費 の新体制 第四部 物価 問題

第五部 新 らしき経済倫理

国語 (七) 1 法律大意 口述筆記を与 え、且、法律学 に用ふ る平易なる術語国家及び法 に関す る概略の理解 三 を解説す

国語 (八) 2 簿記 口述及 プ リン トを使用 次の要 目を適宜敷宿 して説明をな し又例題

の記帳練習 をな さしむ

1.簿記の意義、2.簿記の目的、3.簿記の 清次郎 効用、4.簿記の種類、5.財産、6.資本、

7.取引、8.帳簿、9.例題記帳、10..決算

国語 (九) 1 地理 教科書 伏 見義 夫

拙著 「貿易上より見たる長崎とその将来」を用ひ て先ず長崎市及長崎県の事情を授け、以て地理 学の本質を理解せしめ、然る後、日本地理の一般 事情を口述して日満支伽 塵軸勺関係を会得せしむ

国語 (十) 1 歴史 教科書中村孝也著 『中等昭和新国史』(上級用) 堀 部 国体の明徴を期し、国民文化を体系的を瑚 監説して 靖 雄

この 『昭和十七年度教授要 目』 を見て も明 らかな とお り、長崎高商特設予 科の 「国語」教育では、 「日本語 を学ぶとい うよ りも、専門学科 を学ぶ 中で

日本語 のスキル を身 に付 けることを留学生 に求めていた と言 うことができる。

(16)

その方法は東亜高等予備学校の 日本語教育 に代表 されるような留学生予備教 育の本流 とは異質のものだったが、長崎高商がこのような方法を採用 したの は、同校が東亜高等予備学校の教育方法を知 らなかったか らでもなければ、

「日本語教育 に煮詰まっていた」か らでもなかっただろ う。ただ、 自校の方 法を最善のもの と信 じていたか らではなかったか と思われる。

おわ りに

長崎高商の特設予科は1945年の終戦直前まで留学生を受 け入れていた よ う である。 しか し、その時期の状況 については、詳細が不明である。

長崎高商は1944年 に長崎経済専門学校 と改称 した後、1949年の学制改革 に よって新設 された長崎大学 に統合 されて、同大学の経済学部 となった。その 長崎大学 に留学生教育専門機関が設立 されたのは1986年のことである。同年、

長崎大学は学内措置 として (すなわち 「私的経営による施設」 57として)外国 人留学生指導セ ンターを設置 した。同セ ンターは1996年 に文部省令 に基づ く 留学生セ ンターに改組 されている。

この長崎大学留学生センターは、制度の上でも教育方法 ・教育内容の上で も、長崎高商特設予科 とは直接的な連続性 を有 さない。ただ し、長崎大学の 留学生セ ンターも他の国立大学留学生セ ンター と同様、制度や教育内容の面 で、戦後の 日本 における留学生教育、 とりわけ留学生 に対する日本語教育の 上で先駆的な役割 を果た した国際学友会 日本語学校 (現在の 日本学生支援機 構東京 日本語教育セ ンター)や東京外 国語大学附属 日本語学校 (現在の東京 外国語大学留学生 日本語教育センター)の系譜 に連なっている。そして、国 際学友会 日本語学校や東京外国語大学附属 日本語学校 における留学生教育 ・

日本語教育の中心的な位置 にいたのが、長崎高商の海外貿易科 を1936年 に卒 業 した鈴木忍 (1914‑1979)であったことを勘案するな らば、鈴木が長崎高 商在学中に同校特設予科 をどのよ うに見ていたのかは全 く不明だが、あるい は何 らかの間接的な影響が今 日の長崎大学留学生セ ンターにも及んでいると 考えることは可能かもしれない。

[謝辞] この研究を行 うにあたっては長崎大学大学高度化推進経費 (学長裁 量経費)の助成を受けた。 ここに記 して感謝を申し上 げたい。

(留学生セ ンター教授)

(17)

長崎大学留学生センター紀要 第15 2007 95

参考資料】

外務省外交史料館保存資料 (アジア歴史資料セ ンター参考 コー ド)

BO5015519400、BO5015528900、BO5015529000、BO5015529100BO5015529300 BO5015529400、BO5015800000、BO5016037000

参考文献】

・ 壌林会編 (1975)長崎高等商業学校 ・長崎大学経済学部70年史』

・ 酒井順一郎 (2004)中国人留 日学生予備教育の展開一対支文化事業 と特 設予科 ‑」2004年 日本語教育国際研究大会実行委員会編 『2004年 日本語教 育国際研究大会予稿集発表 2』

・ 陳莫 (2003)特設予科 における中国人留学生受 け入れ に関する考察 一明 治専門学校を中心 として‑」九州大学大学院人間環境学府発達 ・社会シス テム専攻教育学 コース編 『飛梅論集』第3

・ 長崎高等商業学校編 (1935)長崎高等商業学校三十年史』

・ 長崎高等商業学校編 (1942)『昭和十七年度教授要 目』

・ 長畑桂蔵 (1921)「日支親善 と国民的理解の急務」長崎高等商業学校学友 会編 『学友会雑誌』第30

註】

1長崎高等商業学校編 (1935)199〜200

2 アジア歴史資料セ ンター ・リファレンスコー ド (以下 JACAR」と表記) BO5015529100。なお、本稿は一次資料を引用する際に次の二点を原則 とし た。(a)引用文中における旧字体 ・カタカナは、それぞれ新字体 ・ひ らが なに直 した。また、文意を汲んで、適宜句読点を付 した場合や促音表記 に した場合 もある。ただし、仮名遣いは原文 にしたがった。(b)引用文中に は、今 日か らすると事実でない部分や適切でない表現 も含まれているが、

著作者の主観あるいは認識を反映 している場合 もあ りうるので、人物や機 関の名称など明確な誤 りを除いては注釈等を施 さなかった。また、誤字 も

(18)

訂正 しなかった。

3 JACARBO5015529100 4 JACARBO5015529100 5 JACARBO5015529100 6 JACARBO5015529100 7 JACARBO5015529100 8 JACARBO5015529100 9 JACARBO5015529100 10JACARBO5015529400 llJACARBO5015529400 12JACARBO5015529400 13JACARBO5015529400 14JACARBO5015529400 15JACARBO5015529300 16擾林会編 (1975)343 17壇林会編 (1975)341 18擾林会編 (1975)341

19長畑桂蔵 (1921)12〜15 20JACARBO5015529000

21JACARBO5015528900

22長崎高商の長畑桂蔵は留学生の英語能力 について、 「大体 に於て英語 に困 め り。特 に英文和訳に於て然 り。 こは日語 に不 自由なる為なるべ し(JACAR BO5015529400)と述べている。

23JACARBO5015529300 24JACARBO5015529100 25JACARBO5015529400

261942年度 は 「修身」が 「国語」 の中で扱われている。 【2】 を参照。

27 1年制 に移行 した後の週当た り授業時間数は、 「国語」19時間、 「英語9 時間、 「数学」3時間、 「体育」3時間の合計34時間である。

281929年 に東京高等工業学校 は東京工業大学に昇格 した。 このため、 この調 査の時点で同大学の特設予科 は 「新制即ち高等学校高等科理科 に準ず る課 程 を採用 し、修業年限三箇年 として毎年二十三名宛 を収容す る(JACAR

参照

関連したドキュメント

常時 測定 ※1 可能な状態において常に測定 ※1 することを意味しており,点 検時等の測定 ※1 不能な期間を除く。.

作品研究についてであるが、小林の死後の一時期、特に彼が文筆活動の主な拠点としていた雑誌『新

一貫教育ならではの ビッグブラ ザーシステム 。大学生が学生 コーチとして高等部や中学部の

モノづくり,特に機械を設計して製作するためには時

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に

具体的な取組の 状況とその効果 に対する評価.