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表現 を分析 す るね らい
襲 噂
目次 :1 中国文学 (小説) の特質
2
日本文学 (小説)の特質3
テーマ主義克服 のために3.1
表現の分析3.2
「酸味 」 の読 み取 り私 は中国 における日本語教育、特 に 「日本文学作 品読解」授業 の指導方法 について、以前、取 り上 げてみた。 その時、「読解」授業 の従来の問題点 を検 討 した。
中国での 「読解」授業 は日本語 を
2
年間学習 し、 日本語 の基礎 を身 につ け た学生 を対 象 としている。教材 は、『キャラメル工場か ら』、『蟹工船』、『舞姫』、『こころ』、 『鼻』な どの ような作 品が よ く使用 されている。 その指導方法 とし ては、逐語訳 を進 めなが ら、文法知識 を確認 し、作 品の思想性、社会性 を分 析 し、理解す ることである。 日本語 の精読授業の継続、 または道徳教育、思 想教育 の素材 として扱われてい るようだ。 これでは言葉 を美 と真実 を追求す
る文学教育 としての立場 は実現 されない。
その ような授業 を改善す るには、 まず中国文学 (小説)の特質 と日本文学 (小説)の特質 の違 いを理解す る必要が ある と思 う。 中国の文学作 品 は、社会 の激動す る様相 を意識的 に取 り上 げ、文学 を思想表示の手段 として役 に立た せ る考 え方が ある。人々 もその ような文学作 品の道徳的要素 に拘泥 し、 そ こ か ら心 を強 く揺 さぶ る力 を汲み取 り、社会的 な意味、いわ ばテーマ を見 出そ
うとす る
。
それ にひ きか え、 日本 の文学作品は、人間の内面 の機微 を深 くとらえてお
り、繊細 な表現 によって、「もののあわれ」とい う独特 な情趣 を漂 わせ、人々 に一種 の しみ じみ とした静かな感動 を与 える. したが って、 日本 の文学作品 の読 みを指導す る際 には、従来 の 「読解」のや り方 にのっ とって、言葉、文 法、 テーマ を並行 的 に取上 げ、授業 を進 め るのは望 まし くない。 日本文学の 特質 に注 目して、 そ こに描 かれて い る表現 の技巧 を正確 に読 み取 る ことに よって、作品の豊かな世界 を理解す るように配慮 しなければな らない と思 う。
ここで は中国文学 の特質 と日本文学 の特質 の違 いを見定 めなが ら、 日本文 学作品 を教 える ときの よ りよい方法 を見つ けたい。
1
中国 文 学 (小 説 ) の特 質中国文学、特 に小説の起源 について、『漢書
』
「芸文志」では、「小説家老流、蓋 出於稗官」1)
(
「小説 を作 る人 々 は、多分、稗官 を継承 しているのである」)
、 と語 られている。初期 中国の小説 の作者 は、歴史官 を兼 ねてい ることが多い。小説が歴史家 の余技 とされ、歴史上 の事件が小説の素材 として用 い られ るこ とが多かった。中国の歴史書 はスケールが大 き く、筋が面 白い。登場人物 の 内面的葛藤 よ り、彼 らの劇的な運命 を歴史 の激動、社会様相 と絡 めて構成 し てい る特徴 がある。この ような特徴 を、中国小説 もその まま受 け継 いでいる
。
『春秋左伝』、 『史記』 な どの歴史書 は、小説的な内容 と構成 を持 っている。
『三国史演義』、 『水溶伝』、 『西遊記』等 も、 その系統 に連 な り、同様 な特徴 を 備 えている。中国の古典文学 に高い地位 を占めてい る 『紅楼夢』 は、心理描 写 も優 れている。 しか し読 み手 の胸 を強 く打 ったの は、主人公 をめ ぐる心理 描写 とい うよ り、彼 らの悲惨 な運命 の展開の うちにある とい うべ きだ ろう。
換言すれ ば、『紅楼夢』の魅力が、 またひ とつの大家族 の興亡史 とい うところ にある。
近代 に入 ってか ら、西洋文化 を吸収融合 し、 その文芸 の影響か ら、微妙 な 心理描写 な ども中国の近代小説 に見 られ るようになった。 とはい え、中国人 が小説 を読 む時、筋 の面 白さ と場面の雄大 さを偏愛 す る習慣 は、今 も昔 も変 わ っていない。
表現 を分析す るね らい
237
『資治通鑑』な どの書名 か らも伺 えるように、中国の歴史書 は、政治上 の参 考資料 として、支配階級 に奉仕す る働 きが ある。 この点 は、中国の小説 に も 影響 している。 この伝統的文学思想 は、孔子、孟子 の「仁義道徳」、「性善論」
な どとい う儒学 の精神 を踏 まえて、文学 を道徳 の基準 とし、国の政治 をコン トロールす る手段 として利用 し、発展 されて きた といわれてい る。 吉 田精一 は、 日本で は 「中国古代 の民謡 と思われ る」 ような 「詩経」 について、次の ように述べてい る。
中国で は単 に文学 として見ず、や は り道徳 的、或 は政治的な教訓書 と して見 ていたのであ ります。2)
日本 の中国文学研究者狩野直害が、 『支那文学史』 では、「支那文学 は道徳 政事 の目的 を有 し、実用的な り」3)と評 し、文学 の芸術性 を重視 す る観点か ら、
否定的な見方 を示 した。が、逆 に、政治 との密接 な関係が あるがために、中 国の文学 には、限 られた文壇 の中だ けで通用 し、評価 され るような ものが生
まれ なか った、 とも考 えられ る。
近代 に入 って、 ア‑ ン戦争
( 1 8 4 0 ‑4 2 )
後 の清末 には、厳復 な どによる外 国の思想文学の紹介や官僚批判 の小説 な どが現れて、中国で も古代文学か ら 近代文学への変革 を迎 える準備が進 め られた。 その後起 こった辛亥革命運動( 1 9 1 1. 1 0. 1 0.
武 昌蜂起) と 「五四」運動( 1 9 1 9. 5. 4.
反帝愛国運動) に とも なって、 口語 による新 しい文学革命が主張 され、 いわゆ る 「五四」新文化運 動が提唱 された。文学 は、国家観念 その もの として、登場人物 は英雄的であったが、 「五 四
」
文学で は、初 めて強い 自我意識、 自己主張 に目覚 め、個性 の解放 を唱 え、非 英雄 的な人物 を数多 く登場 させた。 それ について、郁達夫が次 の ように述べ
ている
。
五四運動的最大的成功,第一要算 "個人〟的発現,以前的人,是為君 而存在,為道而存在,為父母而存在,現在 約人才暁得為 自我而存在了(「五 四」運動の最大 の成功 は、第一 は ≠個人〟への発見 である。以前 の人 は、
君主のために存在 し、道 のために存在 し、父母 のた めに存在 す るが、現
在 の人 は初 めて自我 のために存在す ることが分かったのである)0
4)
しか し、 それ にして も、「五四」新文化運動の提案者 は文学 を中国問題 を解 決す る突破 口 とも見た。文学 は依然 として政治 と結 び付 いてい る。 その うち に毛沢東文芸論 に基づ く典型理論が中国 に登場 し、 その普及 によって、文学 が政治 に従属す るもの として一層強調 され、やがて社会主義文学の道筋が形 成 されていった。
中国で主流 となっている文芸論 は、毛沢東の『在延安文芸座談会上的講話』
(
『延安 の文学 ・芸術座談会 にお ける講話』) を基本 とす る ものによる、 といえ る.それ は中国共産党 の整風運動 の一環 として1 9 4 2
年5
月に開かれた座談会 で、毛沢東が行 った 「講話」である。毛沢東 は次の ように述べた。どの階級社会 の どの階級 も、つねに、政治的基準 を第‑ にし、芸術 的 基準 を第二 にす る。 ブル ジ ョア階級 は、 プロレタ リア階級 の文学 ・芸術 作品 について は、 その芸術 的達成が どんなに高 くて も、つねにこれ を排 斥 す る。 プロレタ リア階級 も、過去の時代 の文学 ・芸術作 品については、
なによ りもまず、人民 にたいす る態度が どうであるか、歴史的 に進歩的 意義が あるか どうか を点検 して、 それぞれ異 なった態度 を とらなければ
な らない。5)
こうしてそれ以来、中国で は文芸 としては人民 と社会主義 に必要 な登場人 物 を作 り出 さなければな らない と要求 され る。特定 の登場人物 によって、愛 国主義、集 団主義、社会主義、共産主義的思想、感情、理想、道徳観念 な ど
をあ らわ し、人々 に勇気や進取心、いわゆ る健全 な影響 を与 えるように要求 され る。 それ によれ ば、作品の外側 にある社会関係、階級関係 な どを実際作 品の中に写 し出すのが よい作品であ る。作品 に対 す る評価 もまず この面 での 出来 ばえに注 目し、判断す る。
新 中国成立後、毛沢東文芸思想 に基づいて、共産党指導部 は ≠文芸為政治 服務〟 ("文芸 は政治 に奉仕す る〟)とい うスローガ ンを持 ち出 した。多 くの批 判や 「反右派闘争」 な どを繰 り返 しなが ら、 その歩 みはなお続 いていた。
文化大革命 の時、毛沢東の文芸理論が乱用 され、一時政治闘争 の道具 とし
表現 を分析す るね らい
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ての文学論 もの さばった。文化大革命が終わ って、改革、開放政策が打 ち出 されてか ら、 なお 「四つの基本原則 の堅持」が取上 げ られ、 その第一 は 「マ ルクス主義理論 を堅持」す る とい うもので あ り、"文芸為人民服務 、為社会主 義服務〝 (≠文芸 は人民 に奉仕 し、社会主義 に奉仕す る〟)とい う方向が指 し示 されてい る。四つの近代化建設 に貢献 す る人 たちの姿 をおおい に作品化 し、
それ によって、広 い人民大衆 を励 まし、 いっそ う社会主義 の国作 りに力 を入 れ るように とい うのであ る。 こうして陳学超 のい うように、
長期以来,我国文芸界把塑造典型環境 中的典型性格視為一切芸術創造 的中心,看作唯一的創作規律和衡量一切作品的価値標準 (中国の文学界 では、長 い間、典型環境 にある典型性格 を創造 す る ことをすべての芸術 創造 の中心 と見てお り、 それ を文学創作 の唯一 の規定 とすべての作 品を 評価 す る基準 と考 えて きた)06)
最近 その反動 として、文学 の独立 を唱 える新 しい動 きも現れて きた。 しか し、日本 とは違 って、政治 は中国国民の 日常生活 を直接 に左右 す る面 も強 く、
作品の思想性、社会 的効果 の如何 によって、 その作 品 を評価 す る ことは依然 として根強 く残 っている。当面 の重大 な政治的テーマ を取 り上 げた作品 は、
圧倒 的な人気 を呼 んでいる。 日本 のいわゆる大衆文学、特 に社会派の推理小 説が、中国では比較的人気 を得 ている。 それ は、中国の小説 の これ らの特徴 に似 た ところが あ り、読者か ら比較 的受 け入れ られやすいためか もしれない。
この ような文芸理論 は作 品の内容、作 品 に対 す る理解 を左右 しているだ け ではな く、「語文」 (国語)教育 を行 う目標や教材 の選定 に も影響 を及 ぼ して いる。
語文教学決不単純是伝授語文知識、培養学生語文能力的手段和陣地、
而且也是重要的思想宣伝 陣地。 (国語教育 は決 して単 な る国語知識 を教 え、学生 の国語能力 を養成す るだ けの手段 と場所 で はな く、 また思想宣 伝 の重要 な場所 で もある)
。7)
とい うのである。そ こに選 ばれて きた文章 は、「絶大部分課文都有根強的思想 性 和 芸術 性
」 (
「大 部 分 の文 章 はいず れ も強 い思 想性 と芸術 性 を持 って いる
」)
8)
、と評価 し、芸術性 よ り思想性 を先 に重視 す る。国語授業 の役割 として、「培養学生的社会主義道徳情操、健康 高尚的審美観和愛 国主義精神」(「学生 の 社会 主義道徳情操、健康 的、高 尚な美意識 と愛 国主義精神 を育 て る
」 )
9)
、とい うことが ≪全 日制 中学語文教学大綱≫ (≪全 日制 中学 国語教育大綱≫)の中 に明 確 に書 かれてい る。 なお、思想政治教育是語文徳育的基本 内容 、而思想政治教育的核 心是通過語 文教育過程対 学生進行愛 国主義思想 的感染薫 陶。 ‑・‑愛国主義 同熱愛共 産党、熱愛社会主義是一致的 (思想政治教育 は国語 の道徳教育 の基本的 内容 であ り、思想政治教育 の核心 は国語教育 の過程 を通 して、学生 に愛 国主義思想 の感化薫陶 を行 うのであ る。 ‑‑愛 国主義 は共産党 を愛 し、
社会主義 を愛 す る ことと一致す る ものである)010)
中国 の文芸研究 は長期 間 にわた って、階級闘争 、政治情勢、社会背景 な ど か ら文芸 の現象 を分析 す る ことに慣 れて きた。文学 は常 に政治 と密接 に結 び 付 き、つい には文学 の問題 は政治 の問題 にな り、文芸運動 の本質 はその まま 政治運動 になって しまう。 中国で は文学作 品 に歴史性 や思想性 を求 め ること
はい まも大 き く変 わ らない といえる。
注
1)
『魯迅全集』1
1巻 (学習研究社、1 98 6
年)、23
ページ02)
吉田精一 「古典文学 との関係」、『現代 日本文学史』(桜楓社、1980
年)、236
ペ ージ 。
3
)狩野直菩 『支那文学史』 (みすず書店、1 970
年)、5
ページ.4
)郁達夫 『中国新文学大系 ・散文二集導言』 (黄侯興 「論郭沫若 ̀青春型'的文化 品格」『文学評論』、文学評論雑誌社、1 992
年5
月、5
ページより再引用)0 5)毛沢東 「在延安文芸座談会上的講話」 (
「延安 の文学 ・芸術座談会 における講話
」)
、『毛沢東選集』第三巻 (北京外文出版社、1 97
2再版)、1 22
ページ。6
)陳学超 「典型的迷個与重建」 (「典型の惑いと再建」)
、『文字評論』 (中国社会科 学出版社、19 87
年6
月)、1 2
ページ。7
)馬馳 「論語文教育」、『北方論叢』 (北方論叢編輯部、19 92
年1
月)、3 2
ページ。8)馬馳、同上
、3 2
ページ。9)≪全 日制中学語文教学大綱≫ (馬馳 「論語文教育」
、33
ページより再引用)01 0)
馬馳 「論語文教育」、『北方論叢』、33‑34
ページ。表現 を分析す るね らい
241
2
日本 文 学 (小 説 ) の特 質歴史性 や思想性 な どを重 んず る中国小説 の特徴 に引 き比べて、 日本 の小説 は日記や随筆、しか も女性 の手 による もの、つ ま り女流 日記文学1)とも呼 ばれ るものに大 きな特徴が出てい る。
世界 で も最古 の長編小説 といわれ る 『源氏物語』、 また有名 な 『枕草子』、
『晴輪 日記』、『更級 日記』等の作者 は、 みな女性 である。 それ故、 その時代 の 社会 的な制約 を受 けて、社会 の激 しい動乱 を把握す るようなスケールの大 き い作 品 よ りも、男女の心 の細 やかな動 きを扱 う繊細 な作 品に優 れていた よう だ.一 日中恋人 の来訪 を待 ち焦がれ る女性 の哀れ さ、 あ るいは、秋 の空 ほ ど 変わ りやすい男の心 に対 する女性の悲嘆、 自分の美貌 を早 く失 いた くない女 性 の心情 によ り、 自然 の移 り変わ りごとに感 じた しみ じみ とした情趣 が、女 流文学 のテーマ として取 り上 げ られた。 『源氏物語』について、加藤周一が次 の ように論 じている
。
そ こで は洗練 された感情生活 の叙述が中心 になっていて、人間の激 し い行動や、強い意志や、明瞭 な性格 は、ほ とん どまった くあ らわれない。2)
そのような「しみ じみ とした情趣
」3 )
は、「もののあわれ」とい う美的理念 と して、「平安時代以後、日本文学 の基調 となった」
。4)日本文学の この独特 な美 意識 をあ らわす、「もののあわれ」とい う言葉 は目下 中国訳 も英訳 もない まま、音読 その もので外 国 に紹介 されてい る。 それ にぴ った り当てはまるような訳 語が見つか らないか らであろう。 その後 の幽玄 (中世文学)や寂 び も一 つの 共通点 を持 ってい る。
明治時代、 日本 は政治、経済、科学 の全分野 にわたって、西洋文明の吸収 に努 め、文学の方面で も欧米 の近代文学 を学 び取 ろうと意気込 んだ。多 くの 翻訳文学が誕生 し、それ らによって、欧米 の文学思潮の息吹 きが伝 え られ る
とともに、 日本 の近代文学 の芽生 えが もた らされた。
坪 内近道 は 『小説神髄』の中で、文学 は独 自の 目的があ り、筋立 て よ り、
心理 の写実 に徹 す るべ きだ、 と写実主義 を提唱 し、 日本 の近代文学 の行 方 を
指 し示 した。二葉亭四迷 はその理論 を 『浮雲』 に実作化 した。当時 としては まった く独創的な口語体 を採用 し、主人公 の心理的 な葛藤 を見事 に描写 した
『浮雲』 は、 リア リズムの もっ とも代表的 な小説 とされてい る。
明治末期 には、やがて旧い封建 的な風習や感情 か ら離脱 し、個性 の尊厳、
自我 の至上 を求 め ようとす る自然主義文学 の時代 に入 り、知識人 の内面 に目 を向 けた新 しい登場人物 を描 いている文学が生 まれた。 この時期 の小説 は、
「科学的態度 の欠如 と社会的関心の不足 とがあった」 と指摘 されてい る一方、
島崎藤村 の 『破戒』、 田山花袋 の 『蒲団』 な どによって、「言わず語 らず に定 め られた」 日本 の 自然主義 には 「特 に情趣 的 ・主観 的 ・感傷 的傾 向」5)
(
『現代 日本文学』)が あった、 とその特徴 が示 されてい る。西欧近代 の文学理念 と方法 の影響 を受 けていなが らも、当時 の 日本文学 は、
現実世界 を映す鏡 としての文学 ではな く、 自己内部 の感情 を表す、いわ ゆる 感情 の発露 としての文学 として以前 と変わ りはない。吉 田精一 のい うように、
「意識的 に古典 の影響 をふ り切 り、又 は軽視す るこ とか ら近代文学 は出発 し た
」
が、「この両者 にはや は り関係がつなが っている」。
「日本 の風土、生活、環境 が、 日本人 の感情や感覚 を独 自な ものに して来た ように、 日本 の ことば の特色や、 ことばを通 じての感 じ方、物 の見方な ど」を、「無意識 の うちに」、
近代文学 も 「受 けてい る
」 。6)
大正期 に入 って白樺派 の理想主義 は文壇 に重 きを占めたが、事実のあ りの ままを客観 的 に描 出 しようとす る日本 の 自然主義 は、 その後 の 日本 の文壇 に 大 きな影響 を与 え、私小説 な どの誕生 を促 した と言われている。 畑実が述べ てい るように、 自然主義 は 「現実社会 の矛盾 を リアル に暴露す ることはあっ て も、社会的な拡が りを持 つに至 らず」、「この流れの延長 に私小説、心境小 説が生 じて くることにもなった
」
。7)一方、大正末期 の 日本 には様 々の社会不安 と動揺が見 え、第一次大戦後資 本家 と労働者 との貧富の差 はます ます増大 し、政治運動が起 こった。大正
1 0
年 には雑誌 「種蒔 く人」 を中心 に文学運動がお こった。 それ はマル クス主義 の立場 に立 って、社会革命 の主役 とな るプロレタ リアー トの思想、感情、生
表現 を分析 す るね らい
243
活 を描 きだ し、階級闘争 の武器 としての役割 を果たそ うとす るのだ。労働者 の苦 しい生活 の描写 を中心 とし、労働運動、政治運動 のための啓蒙、量伝 の 文学、いわゆるプロレタ リア文学である。 「種蒔 く人」のあ とで 「文芸戦線」
が中心 になったが、昭和
2
年 に社会民主主義 の立場 にたつ 「文芸戦線派」と、共産主義 の立場 にたつ「戦旗派」に分裂 した。 プロレタ リア文学 もファ ッシ ョ 勢力 の ます ますの台頭 によ り、 まもな く厳 しい弾圧 を受 けて崩壊 した0
1 9
世紀後半 の ヨー ロッパ文学の強い影響 を受 けた大正以 降の 日本文学 は、プロレタ リア文学 とい う新 しい質 を持つ文学運動 を生 み出 したが、根 はお ろ せ ない まま終わ った。「もののあわれ」を中心 にす る日本 の文学理念 は、現代 に も通 じてい る
。
伊藤整 は次 の ように語 った ことがある。
日本 のマルキシズムの芸術理論 は常 に、作家 はいか に生活 してたか と い う点 に落 ちついて来 る。 その場所 で決定 され る。 そうす ると、 日本 の 自然主義以来 の私小説で は全 く抵抗 で きない。両者 は現世 その ものに対 決す る態度 で同 じ地盤 に立 っているのだか ら。 私 は日本 のマル キシズム 文学が、実質 において、生活実践者 の報告であることで、私小説 と同 じ 系統 にあることを発見 した。「いかに生活 した」とい う報告の連続 である。
そ して私 はそ こに も文壇 を見た。 そ こか ら私 は、 日本で は、高 い人間的 感動 は、原則 として、作為 された もの、抽 出 された観念化 された ものか らは来 ない。実践 された生活、常 に事実 として確か め られ るものか ら来 るので はないか、 と考 えるようになった。 そ して、多分近代思想が 日本 に入 って来 てか ら作家 たちに意志 された完全 に解放 された人間像 を作 る
とい うことは、古 い代 の現世放棄者 であった実践的作家たち、長明や西 行や芭蕉の方法 を再現 したので はないか とい う推定 に落 ちついた。8)
伊藤整 は以上 の ような小説 は、「散文芸術 を通 して、与 えられた環境 と気質 の中で最 もよ くエ ゴを確立す る方法 と考 え られ」、「そ うい うもの として 日本 と西洋 との違 い を理解 した
」
。9)曽根博義 の解釈 によれば、「西欧か ら学 んだ近 代 的な個人 の観念 は、日本人 の伝統的 な生命観 と結 びっ けられ、『自我』‑『生 命』 として認識 され ることによって、 はじめて」 日本 の 「もの とな り得たのだ」。10)
また、吉 田精一 は 日本文学 の流 れ と特質 を取 り上 げて、次 の よ うに ま とめ てい る。
日本 の文学 は中国 を除 く今 日の文 明国 の どれ よ りも長 い歴史 を もち、
顕著 な特色 を備 えて い る。 日本 の国民性 は鋭 い直観 と、繊細 な感覚 と、
器 用 な才能 に恵 まれ、細部 の充実 した小味 でデ リケー トな作 品 をつ くる こ とに長所 が あ る。
氏 は 日本文学 の長所 を認 めなが ら、一方 その短所 も続 いて次 の ように指摘 してい る。
日本文 学 は、小型 で、精巧 で、情 緒 的で あ る。一滴 の水 に も宇宙 を と らえる とい う含蓄 を尊 ぶので、和歌 ・俳句 とい った短詩型 をみが き上 げ る こ とに成功 したが、 その反面、論 理 的 ・構成 的 で な く、壮大 さ、激 し さ、 きび しさに欠 ける。11)
注
1
)市谷貞次 『日本文学史概説』 (秀英出版社、1 964
年)、50
ページ。2
)加藤周一 『日本文学史序説』上 (筑摩書房、1 987
年)、8
ページ。3
)新村出編 『広辞苑』 (岩波書店、1 983
年)、2116
ページO4
)角川 『国語辞典』( 1 97 4
年)、1022
ページ。5
)石丸久 ・伊狩章 ・村松定孝編著 「小説 ・評論」、吉田精一監修 『現代 日本文学』(学芸図書株式会社
、1 960
年初版19 63
年三訂版)、3 5
ページ。6
)吉田精一 「古典文学 との関係」
、『現代 日本文学史』(桜楓社、1 9 80
年)、240
ページ 。
7
)贈実 「自然主義」、三好行雄 ・浅井清編 『近代 日本文学小辞典』 (有斐閣、1 981
年)、11 4‑11 5
ページ.8
)伊藤整 「逃亡奴隷 と仮面紳士」、『小説の方法』 (筑摩叢書、1 989
年)、230
ページ 。
9
)伊藤整、同上、234
ページ。1 0)
曽根博義 「解説」、伊藤整 『小説の方法』、267
ページ。ll)
吉田精一 「日本文学 その流れ と特質」、『学芸百科事典』1 4(
旺文社、1 975
年)、1 06
ページ。3
テーマ主義克服のため に上述 の よ うに、 日本 の小説 は、往 々 に して 日常生活 に起 こるご く普通 の小 さな出来事 を取 り上 げて、論理 的 な繋が りを持 た ない もろ もろの場 面 、断片
表現 を分析す るね らい
245
的な描写、会話 な どか らな り、登場人物 の内面的な葛藤、感情 を描 き出す。
荘厳で雄揮 な ものには欠 けるか もしれないが、優 美繊細 な ところを持 ってい る。プロレタ リア文学運動 の影響 を受 けはして も、根 を張 ることはな く、「も ののあわれ」 とい う伝統的な流れ は貫 いている。
ス トー リーの展開、主題 ・思想 を中心 に追 いなが ら、文学作 品 を理解 しよ うとす る中国の学習者 に とっては、 その ような 日本 の小説 を正 し く把握 し、
行 間 に流れてい る情緒 を読 み とり、感動 を覚 えるには大 きな壁が ある。中 日 両国にお ける文学上 の伝統、理論の差異か ら生 じた壁 を乗 り越 えて、「読解」
の授業 をいかに効果的 に行 うかが、私の一 つの課題 であるO そのた めに、両 国の間の相違 を明 らか にす る とともに、 日本 の文学作品 を実例 として分析す る際 には、無理 に主題 を押 しつけることな どは避 けなければな らない0
日本 の文学作品 には表現 の 「含蓄 を尊ぶ」独特 な世界 がある。 その ような 日本 の文学作品 を理解 す るた めには、言葉 を重視 して、 その言葉 の持 ってい る意味 を正確 に分析 していかなけれ ばな らない。作者 の創作動機、 目的、作 品の生 まれた時代、状況 な どを調べて作品の理解 を深 め、主題 に迫 る読 み方 もある。しか し、私たちは作家 を評価 す るので はない。作品 を評価 す るのだ。
貧弱 な主題 に束縛 され るので はない。作品 その ものの豊 かな世界 を楽 しむ こ とが 目的なのだ。
作品その もの をじっ くりと凝視 し、複雑微妙 な言葉 の構成 を丹念 に読 み返 し、作品 を組 み立てている 「含蓄」 を、分析的な手法で批評す ることが必要 だ。多 くの意味 を持 ち、あい まいさをは らんだ表現 を、 さまざ まな形 で効果 的 に分析 していかな くてはな らない。言葉 を換 えれば、読 み手 としては自 ら の創造力 を奮 い立たせて、言葉 の意味 を正確 に探 り当ててい く作業、努力が 求 め られている。
分析 は作品 を要素 に還元す る破壊 的な行為 だ。 しか し、表現 を効果的 に分 析 してい くと、一度 ば らば らにした ものが、 もっ と膨 らみを持 って、総合的 に私たちの前 に現 れ て くる。 細部 か ら全体 へ とい う表現 の具体 的 な分析 に よって、 その作品の よ り完全 で豊かな理解 に達す ることがで きる。
3.1
表 現 の分 析物事 の本質 を認識 す るた めに、私たちは常 に分析 を行 っている。た とえば 科学で は、 ある化合物、溶液、混合物 の組成 を明 らかにするため、各々の成 分 を検 出 しなけれ ばな らない。哲学では、概念 を属性 に分 けて論理 を立てな い と、意味が説明 しに くい。複雑 な物事 を単純 な要素 に分析す る必要が ある。
今世紀 に入 って、文学 の研究、鑑賞で も分析的方法が重視 され るようになっ た。今 日実践 されている文芸批評 では、様々な方法が取 り上 げ られている。
「イメージ論的方法」、「解釈批評 の方法」、「精神分析的方法」等々である。 そ れ らの方法 には、 それぞれ独 自の個性が あるが、 どれ も原文 に対 す る一種 の 綿密 な読 み と詳細 な理解 を行 な う工夫が見 られ る。 原文 を重視 し、つぶ さに 分析 しようとす るこの共通 の分析 的立場 に、私 は注 目したい。
「数学専攻」か ら文学批評家 に転 向 したイギ リスのウイ リアム・エ ンプ ソン は
、1 9 3 0
年、「偉大 な詩 には常 に、明確 に提示 された特殊 な事象か ら一般論へ の拡が りを感 じさせ るもの」が あるため、「すべてのす ぐれた詩 は暖味だ」1)として、初 めて 「暖昧」表現 の文学的効果 を取 り上 げた。
エ ンプソンは
1 9 3 5
年 に出版 した『牧歌 の諸変奏』2)とい う著書で、イギ リス 文学の 「英雄詩」 と 「牧歌」 とい う二つのジャンルの共存 に目を付 け、特 に「牧歌」の描写手法 を取 り上 げ、作品の構造か ら 「暖昧」の理論 を展開 してい る。
エ ンプソンの立場 は、ニ ューク リテ ィシズム (新批評主義)運動 に大 きな 影響 を与 えた。ニ ューク リテ ィシズムに とって、詩 は美 しい言葉である。 詩 は書 き手 の個人 的な感情 を表 してい るように見 えるが、 けっ して感情 を勝手 気債 に流 し、個性 を強調す る もので はない。「その言葉 によって、詩 は認識 を 読者 に与 える」。 それ は「科学や宗教や哲学が与 えるの とは違」つて、「それ は 単 に美 しいだ けの言葉 で はな」く、「それ は詩 によって しか与 えられ ない認識 で\ある
」
。3)私たちは科学 によって、 目で見 ることがで きない ものの存在 や力 を理解 す
表現 を分析 す るね らい
247
る ことがで きる。一方、想像力 に富 む優 れた文学作 品 に よって、私た ちは体 験 で きない ような事実、出来事 に直面 し、 自分 の認識 を新 た にす る ことがで きる。 文学作 品のお もしろみの価値 は感情 的な もので はな く、一種 の認識 的 価値 であ る。 これ はニ ューク リテ ィシズムの重要 な主張 である
。
しか しどの ような認識 を与 えてい るか、 また 「読者 の読 みの創造性 を重視 す る」 といっ て も、 「読 みの悪意性 を規制 す る力が どこか ら くるか とい う問題」4)に は回答 を与 えていない。ニ ュー ク リテ ィシズム は見事 な作品論 を数多 く生産 し続 けたが、 しか し全 体 に適合 す るような もの において、要領 よ くま とめ られてい る もの はない と
いわれてい る。そのためだ ろうか
、「 1 9 5 0
年代 に入 るころにはその衝撃力 を喪 失 し」5)
た。ニ ュー ク リテ ィシズ ム は歴 史 になったが、 その遺 産 は他 の文 学 批評 家 に よって多かれ少 なかれ吸収 されてい る。 しか も作 品 を、 その作者 の生活衷や 時代 背景 か ら切 り離 し、作品 その もの を媒体 にして、読 み手 の主体性 を重視 し、積極 的 に読 む行為 を主張す ることは大 きな意味 を持 つ。彼 らの反対派 は、
ニ ュー ク リテ ィシズム を一種 の文学教育 の手段 と軽蔑 さえしてい る。しか し、
この軽蔑 はあた らない。 ここで はむ しろ、作 品 を客観的 に読 む立場 こそ、今 の文学教育 には有効 なのだ、 と言 うべ きだ ろう。
川崎寿彦 は、 『分析批評入 門』とい う著書 の中で、ニ ュー ク リテ ィシズム運 動 を次の ように高 く評価 してい る。
重大 な成果 は、文学教育 の面 で あげ られた と考 えるべ きで あろ う。 そ してそれ はニ ュー ク リテ ィシズムの もっ とも重要 な本質 の一部 に、「教育 的」 な面が あったか らで\ある。6)
一 方、一定 の詩 的効果 について、 そのはた らき方 を示 す ことが 目的 になっ てい るエ ンプ ソンの 「暖昧」の読 み方が、「読 み過 ぎ」な どとしば しば非難 さ れ る ことが ある
。
それ に対 して も、川崎 は次 の ように弁護 してい る。それ は個 々 の読者 が作 品 その ものか ら受 ける感動 の質 と関係 してい る わ けで あって、一概 に断定 で きない こ とで あ る
。
それ に加 えて、批評家に とっては 「読 みの不足」よ りも 「読 み過 ぎ」の ほ うが望 ましい はずだ。7) 一 つの文学作 品 において、人物 の環境 や事件 の背景 を設定す る と、 その人 物 の振 る舞 い は否応 な く、時代 な どとの深 いかかわ りお よびその人物 な りの 性格 を帯 びて しまう。 もち ろんその作 品が生 まれた歴史状況や背景 な どを調 べ る必要 はある。 しか し、作 品の世界 を無視 して、外的 に現実世界 か らの さ まざ まな読 み を持 ち込 むのは作 品 を読 む ことにはな らない。客観 的な作 品世 界 を理解 す るには、出来上 が った作 品か ら読 み取 るしかない。
桑原武夫 が述べ てい るように、
文学作 品 は、 それ 自体 として独立 した客観 的 な一 つの 「もの」である。
(中略)だか ら、その作 品 を作者 が いかなる状況 で、いか に して書 いたか、
またその苦心 な どを知 る ことは、 もちろん悪 い ことで はないが、 それ ら は作 品享受 のた めに不可欠 な前提条件 で はない。 つ ま り、す ぐれた作 品 は、 そ うい うことを何 も知 らず に、直接 ぶつか ってわか り、 また味 わ え るはず なので ある。8)
文学 を読 む際 に、作品 中の人物 をめ ぐる状況 を、 あ くまで も作 品 に反映 さ れてい る歴史 の事実 として受 け取 るので はない。 その作 品 に描 かれてい る歴 史 に対 す る一 つの感受性 として岨曝 し、味わ うべ きである。
文学 は人 間精神 を活性化 させ る。 作 品 を通 して、読 み手 に問題意識 を抱 か せ、能動的 に考 えさせ る。読 み手 を生 き生 き とさせ る。読 み手 と作 品 とがぶ つか り合わ ない と、作 品 は十分 に読 み取 られ ることが ない。
作 品 は必 ず しもテーマ をかか えて書 かれた もの とは限 らない. 読 み手 に し て も作 品か ら教訓 を汲 み取 るた めに読書 す るので はない。作 品 を媒 介 に して どの ぐらい楽 しめ るか とい う読 み方、換言すれ ば、 自分 の考 えを活性化 させ る読 み方 をすれ ばいい。人 間の精神 を もっ とも自由 にす るように楽 しめばい い。 そ こにはい うまで もな く、読 み手 の想像力や独創性が関わ って くる。作 品か ら教訓や事実、知識 な どを読 み取 って も差 し支 えがない。ただ し、受 け 身的 な読 み方 だ けでな く、 自分 の精神的 な活動 をよ り活発 にし、作 品 ととも に成長 してい くよ うな接 し方が望 まれ るので ある。
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人間精神 を活性化す るために、作 品 には表現 の構造が仕組 まれてい る。作 品の中にはキー となる表現が存在 してい る。 そのキー となる表現 を探 す形で の分析が行 なわれ るべ きだ。謎 ときの ように読 んでい くことだ。表現 を的確 につかみ出せ るか どうかは大事 な ことであ る。表現の構造 によって、現実 を どう反映 してい るか を理解す ることが重要 なのだ。
文学作 品 は表現のため、数多 くの手法 を使 うことがで きる。 その手法の感 知 によって、読 み手 には見 えて くる ものが違 って くる。読 み手 は、作 品の世 界 をその作品固有 の手法 によってつかみ とる。 どの ように生 き生 き と創造 さ
れたか を も感 じ取 る。 作品が持 つ豊かな世界 を、言語 を通 して、思い描 き、
認識す る。
「読解」の授業 を行 う際、学習者 に、作 品その もの に 「直接 ぶつか って」読 む行為 を通 して、 じか に作品の豊かな世界 に接 しさせ、楽 し くかつ面 白い体 験 をさせ るためには、分析批評 の方法か らその成果 を摂取す ることがで きる。
分析批評 の異体的な方法 は批評家 によっていろいろ違 うため、定義す る こ とはきわめて難 しい。 ここで はあ くまで も作品 自体 を取上 げ、 その起源の考 察 を排除 し、作 品の表現 の意味や効果 に集 中 し、作品の広い意味 を理解す る 立場 として受 け入れ る。
川崎寿彦 のい うように、「文学 を読 んで理解 し鑑賞す るとい う行為 が、科学 的かつ総合 的 に追究 され」9)、 「分析 して も分析 して も尽 きる ことのない文学 作 品の、お どろ くべ き生命力 をた しかめるた めの手段」10)として、分析批評 に 立 ち向か う。私 は分析批評 とい う言葉 を使 うことで、川崎の こうい う立場 に 同調 したい。 この ような意味でエ ンプ ソンの 「暖昧」 に関す る分析批評 の方 法 を具体 的 に試 み るのだ。
イギ リス文学 を背景 とす るエ ンプ ソンの理論 を、 その まま日本 の文学作品 に適用で きる とは思 えない。 しか し、作品の重層的イメー ジの発見 に、そ し て、豊か な作品世界 の よ りよい理解 に役立 つに違 いない。「繊細」で、「細部 の充実 した小味でデ リケー トな」 ところが多 く、 「小型で、精巧で、情緒的」
で、「一滴 の水 に も宇宙 を とらえる とい う含蓄 を尊ぶ」日本文学 の特質 を読み
取 るには、 きわ めて適 当な方法 だ と思 う。
注
1
)ウイリアム ・エ ンプソン 『暖味の七つの型』 (岩崎宗治訳、研究社、19 8 5
年)、ⅩⅤ
Ⅰ。2
)ウイリアム ・エンプソン、同上。3
)高橋正雄編 『ニュークリティシズム研究』 (北星堂書店、19 8 0
年)、Ⅴ
ⅠⅠ。4
)富山太佳夫 『方法 としての断片』 (南雲堂、19 85
年)、9 8
ページ。5
)富山大任夫、同上、91ページ。6
)川崎寿彦 『分析批評入門一新版』 (明治図書、19 8 9
年初版)、1 8
ページ.7)
川崎寿彦 「分析批評の方法」、『国文学解釈 と鑑賞』(至文堂、197 6
年1 0
月)、3 3
ペ ー ジ。
8)
桑原武夫 『文学入門』 (岩波書店、19 88
年第6 0
刷)、1 0 5
ページ。9
)川崎寿彦 『分析批評入門一新版』、25 7
ページ。1 0)
川崎寿彦、同上、23
ページO3.2
「嘩 昧 」 の 読 み取 りエ ンプ ソンの「暖昧」理論 について別 の論文1)で書 いてい るが、ここで は「暖 昧」 をいか に読 み取 るか について、具体例 を挙 げて述 べ る。
エ ンプ ソンは 「暖味」表現 と、意味不 明や、語意混乱、晦渋難解等 の表現 との間 に一線 を画 してい る
。
これ について、氏 は 『暖味の七 つの塾』 の最後 の第八章 で、次の ように指摘 してい る。暖味 を もしそれ 自身 の力 にだ け依存 す る工夫 の一種 とみなす とすれ ば、 それ は目的 とされ るべ きもので はない。暖味 は どんな場合 に も、情 況 の もと特定 の必要条件 か ら生起 す る もの、 それ によって正 当化 され る べ きものでな けれ ばな らない。2)
作品分析 は、ただ気 ま ぐれ に不 明確 な表現 の要素 を追求 す るな らば、無意 味 なのだ。 「暖昧」表現 を 「正 当化」す る 「特定 の必要条件」を探究 して はじ
めて、 「興 味 あ り」、 「価値 あ る」3)とい うのであ る。
文学作 品の中 に 「暖昧」が あ る ことに よって、 「唆昧」をはっき りさせ る気 持 ち を読 み手 に引 き起 こす。作 品 に対 して読 み手 の積極 的、能動 的 な姿勢 を 作 り出す。教育 の面 で単 に語桑 を豊富 にす る とか、 い ろい ろな表現 方法 を学 ばせ る とか とい うことだ けで はない。 「能動 的 な読 み」を育 て る重要 な契機 を
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提供 す る ことになる。 教育方法学 の研究 において は、 その作 品の中に含 まれ てい る 「暖昧」 を明確 に取 り出 して指導す る方法 が考 え られな けれ ばな らな
い 。
藤 岡信勝 は、詩 の多義性 を どう読 むか とい う問題 について、工藤直子 の『蟻』
とい う詩 を一例 として分析 した ことが ある
。
そ こで氏 は、指導す る場合 のポ イ ン トにな る詩 の多義性 を具体的 に分析 した。 これ は文学作品 の指導 の際 に おいて は、多義性 とい う言葉 と同 じ意味 を持 つ とい える 「暖昧」
の教育 的 な 意義か ら、「摩昧」表現 をきちん と取 り上 げ る重要 さを示 した といえ る。 ここ で まず 『蟻』 の全文 を掲 げる。蟻
1 ある 日 蟻 は
2 空 をみて びっ くりす る
3 ほ う ! 向 日葵 !
4 蟻 は仕事 をや めて
5 向 日葵 をみ にい くことにす る
6 風 がふ いてい るよ
7 太 陽 よ りも高 く向 日葵 が ゆれ るよ
8 蟻 は きょうは仕事 をや めて
9 向 日葵 をみ にい く
1。 ひ らいた ばか りの
11 向 日葵 のなかで
12 蟻 は一 日中ひか って 坐 ってい る
詩 の最終行 「ひか って」の意味 について、二種類 の読 みが あ る。 一 つ は 「外 か ら見 て光 ってい る、蟻 の体 、汗が光 ってい る
」
「字義的 ・物理的意味」。 それ に対 して もう一 つ は 「蟻 の十分 なる心 の満足、充足、命 の輝 き」とい う「比 境的 ・心理的な意味」。
氏 は前者 を
( A
)、後者 を くB〉
とよぶ。〈 A〉
だ けの読 みな ら 「この詩の 世界 を正当 に味わ う」ことがで きず、「この詩 に対す る解釈 として不十分 であ る」。氏 は( B
)の読 みな ら、詩 の世界 に 「一応」
「到達 している」 と 「首肯」しているが、それ よ り第三 の読 みが成立す るのではないか、と提言 してい る。
つ まり 「蟻 は内面 において輝 いてい るだけでな く、外か ら見て もひか って いる」 とい う 「く
A
〉と くB
〉の両方 を同時 に肯定す る読 みである」4)。 その根 拠 は、( A
)の読 み と くB
)の読 みは対立 しているが、相互排除の存在 で はな い。二 つの読 みを両立 させ る と、「初夏 の陽 を浴びて蟻 はその内面 も外面 もともに 『ひか って』 いるのである」。
氏 は詩全体への味わいを深 めることがで きるこの 「第三 の読 みに最 も大 き な喜 びを感 じる」5)、 と述べてい る。
単純 に一方 を否定 して、他方 を肯定す るような二者択一 の読 みを採用 しな いで、多義性 を包容す る面 を積極的 に取上 げ、作品全体 の よ り深 い理解 に迫 る藤 岡の この分析 は もっ ともだ、と私 は思 う。また この分析 を得たのは、「ひ かって」 とい う一語だ けの多義性 を追究 した結果で はな く、前後 の文脈 を照 らし合 わせ て、語 り手 の視点 による多義性 に辿 り着 いたのではないか と思 う。
「おや、川へ はいっちゃいけないった ら
。
」‑ これ は宮沢賢治作 『オツベル と象』の最後 の一句である。山下宏 は、 「この結 びの一句」 は、「飼 い牛 への主 の ことば」であるが、 そ こに「表現す る二重性‑ 表面的で直接的 な意味 と、背景 に潜 む象徴 的意味」
がある。それ は「飼 い牛 とい う無二 の伴侶への親愛 をこめた」「穏やかな」「呼 びか け としての一面 をもつ と同時 に」、読み手全体 に向か って、「人間の抗争 ・ 矛盾 の世界」か ら 「脱却せ よ、脱却 して、 なにか をせ よ」 とい うような 「辛 味 な警告の言 としての象徴 的
」6 )
な面 も持 っている、 と述 べてい る。氏 は表現 の表面的で直接的な意味段階の読 み取 りのほか に、 その表現 の上 にさ らに重 なっているもうーつの象徴 的な意味 に も注 目してい る。 言葉使 い
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が違 うが、表現 に潜 む豊 かな意味 を読 み取 ろうとす る姿勢 は藤 岡氏 と同 じで はないか。
浜 田正秀 は次 の ように語 ってい る。
どの言葉 に も客観 的で普遍的 な意味 とともに、主観 的で独特 な意味が 含 まれてい るので、生 きた言葉 には、特有 の歪 み とあい まい さ とが宿命 的 に まつわ りついてい る。7)
次 は俳句 を読 む場合 を考 えてみ よう。
月天心 貧 しき町 を 通 りけ り ‑ 輿謝蕪村
月 は空 の中心 にかか ってい る。 貧 しい町 を語 り手 は通 っていた。辞書 を引 いて調べれ ば、 こうい う意味 を読 み取 れ る。 その時町の人 々 は どうなってい るか。語 り手 は どんな気持 ちで この町 を通 っていたのか。意気揚々 と通 って いたのか。 あるいは しょんぼ りと通 っていたのか もしれ ない。 月が真上 にか か る時 は満 月の 日の夜 中の
1 2
時 なので、これ は満 月の 日で あ る。三 日月の 日 で はない。 月が 白々 と照 らしてい る真夜 中 に、静 かで人気 のない町 を歩 いて い る語 り手 は、様 々 な ことを思 い浮かべ るで あろ う。昔 か ら月 は こうなっていて、 自分 は こう歩 いてい る。 来 月 は同 じ月夜 で変 わ らないが、自分 は どこにあるか知 らない。人間 と自然 の対比 になってい る。
あるい はつい先 までお酒 を飲 んで、女 の人 と一緒 にいて、これか ら家 に帰 る。
あ るいは生計 のた めに家 か ら遠 く離れて、夜遅 くまで働 く。家族 の人々 は今 どうなってい るか、 と案 じなが ら村外 れの宿 に とことこと歩 く。読 み手 はい ろい ろな思 い を馳 せ るで\あろ う。
一語一語取 り上 げてみれ ば、何 の奇 もない、平凡 な 日常語 のわずか
1 8
字 の つなが りなのに、 こんな多様 なイメー ジを表現 している。 この うち どの読 み 方が正 しいか どうか は構 わない。 自分 の世界 が作 品の表現 に触発 され て、刺 激 を受 けて、 それ な りの感動 を覚 えれ ばいい。 ここのイメー ジは読 み手 の想 像 に任 され てい る。 また表現 その もの は読 み手 の数 ぐらいの多様性 を持 ち うるので はないか。
篠 田浩一郎 の述 べ て い る よ うに、
文学 とは、極 端 な言 い方 をす れ ば、語 る こ とに よって語 らない何 か を 示 し、語 らない こ とに よって何 か を語 る とい う矛盾 の上 に成 立 す る もの で あ ろ う。8)
篠 田浩一郎 の指摘 して い る この 「矛 盾」 は、 エ ンプ ソンの述 べ て い る 「暖 昧」 と同 じ こ とだ と思 う。作 品 の豊 か さを最 も楽 しむた め に、表 現 を分 析 す るので あ る。表現 の 「矛 盾」、 「暖昧」 に注 目 し、正 確 に分析 す る こ とは、読 み手 の積極 的 な作 品参加 が要求 され る。読 み手 の積極 的 な作 品参加 を通 して、
作 品 を読 む喜 び を味 わ い、作 品世 界 が確 実 に開かれ て くる
。
読 み手 は作 品 と ともに成長 して い くのだ。注
1)襲峰 「井伏鱒二の 『鯉』、『山被魚』の作品分析‑ エ ンプソンの理論 に もとづ いて」、『北海道大学教育学部紀要
』5 6
号( 1 991
年)、73‑97
ページ。2
)ウイリアム ・エ ンプソン 『暖味の七つの型』 (岩崎宗治訳、研究社、1 985
年)、440ページ。
3)ウイリアム ・エ ンプソン、同上、440ページ。
4
)藤岡信勝 「詩の 『多義性』を読 む〈1〉 ‑
『蟻』 (工藤直子)を例 にして‑ 」、『授業づ くりネ ッ トワーク』(学事出版、第