中国における社会人大学院教育の構造
はじめに
近年高等教育の拡大に伴い、大学院教育の拡大も各国で政策的に進められてきた。その一環 として社会人の大学院教育も図られたが、その狙いは国によって違っている。例えば国際競争 力の強化、社会的需要の変化への対応、大学の経営の維持などさまざまな目的から社会人大学 院教育が展開されているが、その発展実態と構造も当然ながら大きく異なっている。日本にお いて社会人大学院教育を発展させるため、2003 年度に専門職大学院が制度化された。その実 態として、周知のように社会人入学生が増えたものの、大きな展開にはいたらなかった。一方 中国においては、1990 年代はじめごろから「専門職学位」プログラムが実験・実施され、大き く拡大した。では中国の社会人大学院教育はどのように発展し、その実態はどうなっているの だろうか。
この論文は、中国の社会人大学院教育はどのようなプロセスで発展し、またどのような構造 になっているのかを検討することが主な狙いである。これを通して社会人大学院教育発展のメ カニズムの解明に寄与し、また日本の社会人大学院教育にインプリケーションを与えるのでは ないかと考える。
The Structure of Graduate-School Adults Education in China 黄 梅 英*
Huang Meiying
中国の大学院教育は 80 年代から社会人教育が始まり、また 90 年代の始めごろから「専 門職学位」プログラムが次々と導入されたことで、大学院教育の構造を大きく変えた。
その社会人大学院教育の発展プロセスと構造を検討するのがこの論文の目的である。こ こでの分析を通して、中国の大学院教育における社会人教育を展開するロジックは 80 年代には高度な職業人の養成のあり方に、また社会的ニーズの対応にあり、90 年代には 市場原理の導入と社会人の個人的ニーズの対応へと転換したことを示した。また市場メ カニズムと大学院教育の質の保障という二つのベクトルによる結果、「アカデミック学 位」プログラムに公費学生と自費学生の共存、そして「専門職学位」プログラムに取得 資格の異なる学生層の共存、という社会人大学院教育の重層構造をもっていることを明 らかにした。
キーワード 中国 社会人 大学院教育 構造 専門職学位 要 約
* 総合人間科学部 現代社会学科
1. 中国における大学院教育拡大の背景と構図 1) 中国の大学院教育機関と学生の構成
中国で大学院レベルの教育を行っているのは高等教育機関と科学研究機関である。前者の高 等教育機関は主に大学であるが、一部の「学院」(単科大学)も含まれる。後者の科学研究機 関では中国科学院、中国社会科学院、およびさまざまな研究所を指す。2007 年の時点で 479 の高等教育機関と 316 の科学研究機関に大学院教育を行っている。
研究機関の主な任務は研究であるため、大学院教育の規模は高等教育機関と比べてきわめて 小さい。その在学者数は「文化大革命」直後の 1978 年に大学の約 15% に相当するが、1987 年 のそれは 13%、2006 年には5%へと変わった。それは「文革」後の大学復興と高等教育の拡 大によって大学院教育の学生収容数が大幅に増加したことで、科学研究機関の在学者数が増え たものの、その比率はさらに相対的に低くなった1)。また、博士課程と修士課程の割合を比較 すると、(年度によって多少異なる)高等教育機関は約2:8、科学研究機関は約4:6で、
科学研究機関に博士課程の学生の割合がより多くなっているが、新入生全体の募集規模をみれ ば、博士課程は 5.08 万人でしかないのに対して、修士課程は 36.06 万人も達して(2007 年の時 点)、博士課程の学生は、修士課程の 7 分の1の程度であるため、中国の大学院教育は主に高 等教育機関によって行われているといってもよい。
また、いわゆる「重点大学」(名門大学)とされている高等教育機関、また規模のより大きい、
歴史の長い科学研究機関に「研究生院」という大学院組織を持っているが、一般の高等教育機 関および科学研究機関は「研究生処」、あるいは「研究生部」という大学院教育を担当する部 署をもうけている。したがって、統計上大学院教育について、「大学院」(原語:研究生院)、「一 般高等教育機関」(原語 : 一般院校)、「科学研究機関」(原語:科研機構)という三つの分類も 使われている。この分類で大学院生の募集規模を見ると、(2002 年の時点で修士課程と博士課 程を含めて)それぞれ 11.10 万人、7.86 万人、1.12 万人で、それぞれ 56%、39%、5.6% を占め ている2)。つまり、学生の半数以上は「大学院」という組織で大学院教育を受けている3)。 さらに、表 1 に示したように、中国の大学院生のうち社会人が博士課程に 7 割、修士課程に 5 割も占めている。中国の社会人大学院教育は学部の社会人教育と異なり、成人教育機関を別
表1 中国の大学院入学者に占める職業経験者の比率
注:教育部高校学生司編 『1996 〜 2002 年 全国研究生招生統計年鑑』
北京航空航天大学出版社のデータにより算出
博士課程 修士課程
新 入 生
合 計 職 業
経 験 者 職 業 経 験
者 の 比 率 新 入 生
合 計 職 業
経 験 者 職 業 経 験 者 の 比 率 1996 年 12590 8835 70.17 45796 24250 52.95 1997 年 12654 9008 71.19 49267 24667 50.07 1998 年 14932 10837 72.58 55174 29230 52.98 1999 年 19704 14159 71.86 68728 35315 51.38 2000 年 25081 18362 73.21 95710 50335 52.59 2001 年 32055 24206 75.51 130033 67020 51.54 2002 年 38077 28567 75.02 162698 82869 50.93
に設けるのではなく、従来の大学、あるいは科学研究機関の中で、大学新卒と一緒に教育を受 けさせることになっているのが特徴である4)。その社会人たちは大学を卒業した後に、何らか の仕事や社会生活を経験してから、大学院の教育を受けることになるが、仕事の傍らで勉学す るのではなく、そのほとんどは職場を離れて、フルタイムで、勉強・研究に専念するのである。
社会人学生といえば、日本では通常仕事をしながら大学を通っているというイメージが強いた め、それと区別して、彼らを職業経験のある学生と呼ぶのが厳密的であろう。
では、なぜ中国の大学院教育に職業経験のある学生がより多く占めているのか。これを解明 するために、まず中国の大学院教育拡大の背景と構図を考察する。
2)中国における大学院教育拡大の背景
中国の大学院教育はどのように発展したのか。ここでまず、その社会的背景を概観する。
図1の棒グラフに示したように、中国の大学院教育の発展は「文化大革命」終結後の 1978 年から始まったといってもよいだろう。「文革」前の 1966 年の大学院在学者数は 0.34 万にしか
1200000
1000000
800000
600000
200000 400000
200000
0
1 9 4 9 1 9 5 1 1 9 5 3 1 9 5 5 1 9 5 7 1 9 5 9 1 9 6 1 1 9 6 3 1 9 6 5 1 9 7 8 1 9 8 0 1 9 8 2 1 9 8 4 1 9 8 6 1 9 8 8 1 9 9 0 1 9 9 2 1 9 9 4 1 9 9 6 1 9 9 8 2 0 0 0 2 0 0 2 2 0 0 4 2 0 0 6
1 9 4 9 1 9 5 1 1 9 5 3 1 9 5 5 1 9 5 7 1 9 5 9 1 9 6 1 1 9 6 3 1 9 6 5 1 9 7 8 1 9 8 0 1 9 8 2 1 9 8 4 1 9 8 6 1 9 8 8 1 9 9 0 1 9 9 2 1 9 9 4 1 9 9 6 1 9 9 8 2 0 0 0 2 0 0 2 2 0 0 4 2 0 0 6
注:『教育成就 統計資料』1949〜1983、1986〜1990 人民教育出版社、『中国教育統計年鑑』人民教育出版社 各年の データにより作成
合計 350000
400000 450000
専門類型別の在学者数の推移(人)
200000 250000 300000 350000
哲学 経済学 法学
教育学 文学 歴史学
理学 工学 農学
医学 軍事学 管理学
100000 150000 200000
0 50000
1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006
図1 中国における大学院教育の在学者数の推移(人)
注:『教育成就 統計資料』1949 〜 1983、1986 〜 1990 人民教育出版社、『中国教育統計年鑑』
人民教育出版社 各年のデータにより作成
なかったが、「文革」後の 1917 年から規模拡大を見せた。周知のように、十年間の「文化大 革命」期間で経済のみならず、教育の分野にも特に大きな被害を受けた。その時期に教育機関 の機能が停止されたため、若者はまともな教育が受けられず、高等教育を受ける機会も失われ た。したがって、その間、社会に必要な人材・専門家を養成することができず、「文革世代」
という特定の年齢層の人材不足、いわゆる「人材断層」状態が生じた。文革終結後、経済の復 興と同時に、人材養成のための教育復興・拡大が図られた。大学院教育の展開もその一環とし て行われた。大学院生の募集は 1978 年に回復し、1981 年に中国の学位制度も確立されたので ある。
また、図に示したように、2000 年以後大学院教育の急激な拡大を遂げた。それは 1998 年の 高等教育大拡大政策によるものであった。1990 年代の末に経済危機に陥っている中で、高等 教育の入学定員を増やすことで、授業料という家計からの教育投資を増やし、社会全体の消費 を促すという認識から、高等教育の拡大が政策的に打ち出された。その経済的な観点から出発 した高等教育の拡大政策の下で、まず学部教育の規模が大きく拡大し、1999 年から 2003 年ま で 5 年間での新入生増加率の平均は 24.1% であった。まさに高等教育の大拡大時期であって、
このような大幅の拡大は世界高等教育歴史の中でも稀といえよう。大学院教育の拡大もその流 れの中で、(同じ 5 年間)平均年増加率が 23% を越えた速いスピードで進められた。
3)理工系重視・実学を重視する大学院教育の構図
図 1 の折れ線グラフで示した専門類型別在学者数の推移は(1982 年からの)新しい専門分 類に基づいて、作成したものである。図からわかるように、中国の大学院教育の中で理工系の 在学者数は多く、特に工学系の学生数は断然トップの位置を占めている。それは新しい中国が 設立された以後、農業社会から工業社会への国策がとられたことによるものである。理工系の 重要な位置つけは発展途上国に共通している要因に由来するが、当時世界の冷戦状態の中で、
工業、とくに重工業を戦略的な位置におく必要があると当時の中国政府は判断したわけで、こ のような社会的課題に対応して、計画経済の下で、学生募集計画が作られたという中国の特別 の背景もあったのである。また図に示したように、学生数の 2 位の座にあったのは理学、3 位 は医学であるが、1990 年代終わりごろに経済学が 3 位になり、そして 2001 年にマネジメント
(管理学)が経済学から分離して新しいカテゴリーとなったことで、その後マネジメントが 3 位に上昇した。そこから中国の経済的・社会的状況の変化も読み取ることができるが、応用的
・ 実用的な専門分野を重視する構図が変わってないといえよう。
2.80 年代にスタートした社会人大学院教育のロジック
上記のような大学院教育発展の社会的背景と発展構図の中で、社会人に対する教育はどのよ うな観点で展開されたのか。
1)人材養成のあり方
大学院教育に応用科学重視・実学重視という構図は、職業経験者の募集に関する政策的意図 からももの語っている。
臨床医学や社会科学など実践的性格の強い領域において、専門的職業経験、あるいは社会経
験のある社会人を入学させるのが望ましいという意見は早くも 80 年代のはじめごろに、すで に教育関係者の間に出された。1983 年 9 月に教育部が通達した「1984 年大学院修士課程の学 生募集に関する通知」の中で、「社会科学や自然科学の中の応用性の高い学科において、具体 的な仕事経験を持ち、特に専門的な実際経験を持つ在職者の中から修士課程の入学生を選抜す ることは教育の質を高めるために有利に働くだろう」と書かれていた。中国の指導者たちの間 では学問のための学問ではなく、活用のための学問でなければならないという認識が根強く広 がっていた。研究者・高度な専門職業人を育成するには職業経験を持つことは学ぶ側の学生に とっても、教える側の教員にとってもメリットがあるし、社会科学を専門とする者は社会に出 たことがないのは空論に落ちる危険性もありうると考えられていた。すなわち、社会経験・専 門的職業経験のある社会人を入学させることは、より優れた教育の効果をもたらし、人材養成 の目的を達成することが主なねらいであった。
こうして、中国の大学院教育に、特に社会経験や専門的実務経験があった方が人材育成の上 で必要であると思われる専門分野において、職業経験者の入学が政策的に推進されてきた。
図2は専門類型別の修士課程の入学者に占める職業経験者の比率を示すものである。図から わかるように、5 割以上入学しているのはいずれも医学と人文・社会科学系である。
2)個人的ニーズより社会的ニーズを重視する政策
さらに言えば、職業経験者への大学院教育の提供は社会人側の個人的ニーズに応えるもので あるというより、むしろ社会的(あるいは国家の)人材の要請に応えるためのものであるとい えよう。それを端的に表したのは、新規大卒の大学院入試合格者に対して、先に就職するよう
0 10 20 30 40 50 60 70 80 90
���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年 ���� 年
哲学 経済学 法学 教育学 文学 歴史学
理学 工学 農学 医学 軍事学 管理学
図2 修士課程に職業経験を持つ入学者数の比率
注:中国教育部高校学生司・中国高等教育高校招生研究会編『普通高等学校招生工作年鑑』
人民教育出版社 各年、中国教育部高校学生司編『1996 − 2002 年全国研究生招生統計年鑑』
北京航空航天大学出版社のデータにより算出・作成
な奨励政策が実施されたことである。
大学院入学生の質を維持し、高いレベルの専門的人材の育成を促すために、1987 年に国家 教育委員会は新規大卒が大学院生として採用された後に、入学資格を保留し、まず専門に相応 する実際の業務部門に配属させ、1 〜 3 年間の仕事を経験することで、人間的にも鍛えられ、
仕事の能力も高めた後に大学院に入学することを奨励するよう、各機関に指示した。その年で 80 の募集機関、500 名余りの学生が入学資格を保留する道を選んだ。
それは実務経験を積んでから大学院に入学するよう指導しているに他ならない。入手した データに限って見れば、このような奨励政策に応じて、すなわち、入学資格を保留し、仕事の 経験を経てから正式に入学したものは 1997 年 600 人、1998 年 436 人、1999 年 1136 人であっ た5)ことで、この奨励政策は一定の実施効果が得られたことがいえるが、何より社会人入学 させる政策的意図をうかがうことができよう。
また、「委託養成学生」という枠を用意して、職業組織から委託された社会人学生を育成す る取り組みも 1987 年から始まった。
このような人材養成の方針から、職業経験者の就学形態は大学新卒と同様、全日制がとられ、
また大学新卒と一緒に勉強・研究に専念することになったわけである。実際にフルタイム就学 形態によって、教育の質が保障され、大学新卒と一緒に勉学することを通してお互いに刺激し あって、教育の効果も高められたのである。
また、社会的ニーズに応えるものであるゆえに、職業経験者の大学院教育は大学新卒と同様、
無償教育のみならず、生活補助も提供されていた。表2−1にまとめたように、1985 年に実施 された大学院生の生活補助費の支給基準において、新規大卒より有利な条件が提供され、彼ら の放棄した所得分のほとんどは生活補助から補われていた。その生活補助制度が 1992 年に奨 学金制度に切り替えられたが、その制度において、表2−2に示した大学院生の普通奨学金基 準に関しても、職業経験者への配慮が伺える。
上述のように、この時期に大学院教育の人材像、また社会的ニーズに応えるために、中国の
生活補助(月額)
博士課程 修士課程
大学新卒 76 58
(正式な)職業
経験のある者 基礎賃金と職務賃金及 び勤務年数手当ての合 計額
基礎賃金と職務賃金の 和の 90%と及び勤務年 数手当ての合計額
書籍補助(年間額)
博士課程 修士課程
*一律 100 60
表2−1 大学院生の生活補助費の支給基準(1985 年施行)
注:教育部編『中国教育年鑑』1992 年による。
普通奨学金(月額)
博士課程 修士課程
仕事経験なし 90 70
2年以上仕事経験あり 100 80
4年以上仕事経験あり 110 90
優秀奨学金(年間額)
博士課程 修士課程
*一律 200 150
選抜比率 上限 15% 上限 10%
書籍補助(年間額)
博士課程 修士課程
*一律 100 60
表2−2 大学院生の奨学金の支給基準(1992 年施行)
単位 : 元 単位 : 元
社会人大学院教育は政策的に進められ、大きく展開されたのである。
3.市場原理の導入と社会人大学院教育の変化
周知のように、中国において、90 年代のはじめごろから「社会主義市場経済体制」を確立 したことで、本格的な経済の市場化が進められてきた。こういった社会的背景のもとで、教育 の領域においても市場メカニズムが導入されてきた。高等教育において、国立大学のほかに
(日本の私立大学に相当する)「民弁大学」を承認するようになった。また長い間に中国の大学 は無償教育が行われていたが、1992 年から一部の国立大学において実験的に授業料の徴収を 実施し、97 年からほとんどの国立大学は学部生に対して、授業料を徴収するようになった。
しかし、大学院教育に関しては、学部教育と状況が少し違って、より複雑となっている。
1) 「アカデミック学位」プログラムの二重構造
まず、大学院生の採用に従来の「国家計画学生」、また 1987 年から社会人入学させるために 増設した「委託養成学生」という枠の他に、新たに「自費学生」を加えた。その「計画定員」
内の学生に対して依然として授業料を徴収しない。そして「委託養成学生」に委託する企業や 研究機関など組織から(そのうちの一部を学生が支払う)徴収するが、「自費学生」には完全 に学生自身から授業料を徴収するようになった。1990 年代初期から大学院教育の拡大部分の 大半はこの「自費学生」によるのである。入試の成績によって、自費と公費に分かれ、自費学 生は「国家計画学生」入試の成績に及ばなかった人々である。また、「自費学生」の授業料が 少しずつ上がり、大学によっても大きな開きが出てきた。すなわち、これまでの大学院教育を 受ける学生の身分を多様化し、市場メカニズムを部分的に導入したのである。同じ大学院教育 を受けているのに授業料を支払わない、しかも生活補助も受けている学生と、多額の授業料を 支払わなければならない学生が同時にいるという状況が生じた。
2)「専門職学位」プログラムの設置
また、1990 年代に入ってから大学院教育の伝統的なコースと異なる「専門職学位」プログ ラム(日本でいう「専門職大学院」に相当するようなコース)が実験的に稼働された。MBA からスタートしたこれらの「専門職学位」プログラムは最初から授業料を徴収し、またその対 象はほとんど職業経験者である。当初の就学形態はフルタイムしかなかった。2000 年まで「専 門職学位」課程の入学生数は累計 10.60 万人に達した。「専門職学位」プログラムはアメリカ のプロフェッションナル・スクールから学んだものであるが、中国の応用的・実用的学問を重 視する考え方と見事に合致したため、スピード速く展開したのである。
それまでに応用的・実用的な高度な職業人の育成には「職業経験者」を入学させ、学生構成 を調整することによって実現するための取り組みであったが、それ以後は教育内容にかかわる
「専門職学位」プログラムの導入により進化した形で進めていくことになった。
中国に現在実験・実施されている「専門職学位」プログラムを表3にまとめた。設置されたコー スの専攻名と設置時期をみれば、中国の経済的・社会的発展の必要性に応じて開設されたこと が伺える。例えば「教育修士」、「農業推進修士」などはまさしく中国の実情に応じて作られた ものと考えられる。農村地域の教員不足、また教員の質を高めなければならないという状況か
ら、在職教員の質を向上させる「教員修士」プログラムを用意し、また農業が遅れたままの状 態で工業化が押し進められてきた結果、産業構造の問題が深刻になっているため、「農業推進 修士」という教育プログラムも設けられたのである。
2)パートタイムコースの設置による社会人の個人的ニーズへの対応
長い間、中国の社会人大学院教育はほとんどフルタイムのコースによるのであったが、1998 年に初めて「専門職学位」プログラムを中心に在職者のためのパートタイムコースを設けるよ うになった。これまでに仕事から離れられないという理由で大学院での勉強を断念せざるを得 ない社会人に新たな希望を与えた。パートタイムであるために、修学年限は通常のフルタイム コースより 1 年間長く設定されている。そのコースを終了する際に学位が獲得できるが、フル タイムの学生と違って、修士・博士課程を卒業するという学歴が入手できないことになってい る。
表4は大学院教育にパートタイムコース近年の入学状況を専門類型別にまとめたものであ る。入学者が増え続けることから、パートタイムの社会人学習ニーズの大きさをもの語ってい る。また表に示したように、博士課程と比べて、修士課程の入学者が多い。さらに専門類型別 に見ると、工学がどちらの課程においても最も多いが、博士課程に医学の入学者がより多いの に対して、修士課程にはマネジメント、教育、法律の入学者がより多いのである。そこから高 度な職業人養成に対する職業現場のニーズを伺うこともできる。
表3 中国における「専門職学位」課程の実施状況
専門職学位名 設置時期 2006 年までの学生募集数
(累積)
工業・商業管理修士(MBA) 1990 約 14 万人(EMBA を含む)
建築学士 1992 約 1 万人(学士・修士を含む)
建築修士 1992
法律修士 1995 約 5 万
教育修士 1996 約 5 万
エンジニア(エンジニアリング)修士 1997 約 20 万
臨床医修士 1998 約 6 万人(修士・博士を含む)
臨床医博士 1998
獣医修士 1999 約 0.23 万人(修士・博士を含む)
獣医博士 1999
農業推進修士 1999 約 1.8 万
公共管理修士(MPA) 1999 約 2.6 万
口腔医修士(SMM) 2000 約 0.29 万人(修士・博士を含む)
口腔医博士(SMD) 2000
公共衛生修士(MPH) 2001 約 0.27 万 高級管理者工業・商業管理修士(EMBA) 2002
軍事修士 2002 約 0.23 万
会計修士(MPA) 2004 約 0.38 万
体育修士 2005 約 0.06 万
芸術修士(MFA) 2005 約 0.1 万
風景園林修士 2005 約 0.05 万
中国語国際教育修士(MTCSOL) 2007
翻訳・通訳修士(MTI) 2007
「専門職学位」のパートタイムコースの設置によって、入学者数が大きく増加した。2006 年 に大学院(修士・博士課程を含む)フルタイムコースに入学した 381,567 人のうち 39,425 人は「専 門職学位」プログラムに入学したもので、その大多数は修士課程である。しかし、その年の大 学院パートタイムコースの入学者は 119,245 人にも上り、その大多数は「専門職学位」プログ ラムである。それらを合わせて、修士レベルに限ってみれば、「アカデミック学位」対「専門 職学位」プログラムの入学者比率は現在2:1に近づいていると推測できる。
このように、「専門職学位」パートタイムコースの開設によって、21 世紀に入ってから中国 大学院教育の構造を大きく変化させた。長い間に研究者養成と高度な職業人養成を明確に区別 せず、曖昧になっている状況が根本的に変えられ、「アカデミック学位」と「専門職学位」と いう二元構造が出来上がった。
また、「 専門職学位 」 のほとんどは公的資金ではなく、社会人から徴収された授業料で運営 されているため、市場メカニズムで卒業者を受け入れ側のニーズ、そして教育を受ける側の学
博士課程
2002 年 2003 年 2004 年 2005 年 2006 年
合計 1635 1687 1880 1953 2368
哲学 11 2 15 24 39
経済学 17 10 19 105 17
法学 39 41 6 65 108
教育学 32 10 66 46 19
文学 81 53 20 81 110
歴史学 7 5 7 12 28
理学 161 152 101 175 161
工学 621 715 526 550 831
農学 88 61 81 158 117
医学 485 518 759 471 750
軍事学
管理学 93 120 280 266 188
修士課程
2002 年 2003 年 2004 年 2005 年 2006 年
合計 51984 58060 76219 99700 106877
哲学 226 179 213 420 792
経済学 703 792 1197 2737 3970
法学 3682 4270 4864 6452 8230
教育学 4143 4789 9480 12046 12836
文学 1240 1487 1942 2625 4555
歴史学 149 127 156 885 478
理学 1785 865 1873 2624 2820
工学 23509 24644 34634 43879 42419
農学 3359 3092 3400 3937 5125
医学 4609 4304 4156 4155 4930
軍事学 30
管理学 8579 13511 14376 19940 20692
表4 大学院教育におけるパートタイムコースの入学者数
注:教育部編『中国教育統計年鑑』各年のデータにより作成。
生個人的ニーズに対応せざるを得なくなった。
「専門職学位」コースの授業料は実に驚くほど高い水準となっている。例えば MBA コース の授業料は、年間 2 万元以上のところが多く(学部生の授業料は大体年間 4 千元− 5 千元で)、
また 5 万元、7 万元と、人気の高い大学ほど授業料が高くなっており、中では例え E-MBA コー ス6)に 2 年間合計で 25 万元、しかも一括で納めなければならないところもある。社会人学生 の多くは自身で高額な学費を払うことになるにもかかわらず、MBA コースの入学者数はまだ 増え続けているのが現状である。
現在の段階では社会人の個人的ニーズに応えるような制度設計がすでに始まった。
4.社会人のための大学院入試制度
中国において、大学院教育関連の入試は「アカデミック学位」であろう、「専門職学位」で あろう、どちらの課程でも二段式を用いて、「×××統一試験」や「×××共同試験」と呼ば れている一次試験と各募集機関の試験や面接などの二次選抜が設けられている。
表5は中国大学院教育のモデルを教育対象、試験形式、教育内容、学習形態別に示したもの である。その中の試験形式に推薦入試以外、いずれも社会人と関係している。
1)「アカデミック学位」プログラムの入試
伝統的な「アカデミックな学位」プログラムの「大学院全国統一試験」は毎年の 1 月に行わ れる。その統一試験には大学新卒であれ、社会人であれ、資格のあるものがすべて入試に参加 できる。その一次試験と後に各募集機関が行われる二次試験に合格すれば、上述のように、す べてフルタイム(全日制)の学生になるのである。
また、その統一試験と同時進行の「単独試験」も設けられている。それは在職者の中に専門 的業務の優れた者、また研究業績があり、専門家の推薦のある者を対象に、各募集機関の出題 で実施された試験で、募集数が限られている。その入試で選抜されたものの中には一部在職し ながら教育を受けるものもいるが、夜、週末、あるいは集中講義といった就学形態をとった場 合、フルタイムより長く、3 年で卒業することになる。
表5 中国大学院教育のモデル
「アカデミック学位」プログラム 「 専門職学位 」 プログラム 同等の学力での学位申請 教育対象 ・大学新規卒業生
・職業経験者
(他の社会人も含む)
職業経験者 在職者 ・大学院入学試験を受けてない者
・学士学位取得後二年以上の職業 経験を有する者
試験形式 ・全国大学院入学統一試験
・単独試験
・推薦入試(大卒者数の3%以内)
「専門職学位」
専門別の全国共 同入試
「専門職学位」の 全 国 共 同 入 試
(「GCT」)
・外国語能力共同試験
・学科総合能力共同試験
(試験時期) (1月) (1月) (10月) (5月)
教育内容 伝統的なアカデミックなもの 専門的職業に特化したもの 伝統的なアカデミックなもの 学習形態 フルタイム フルタイム パートタイム ・大学院教育課程の「研修班」*
・その他
*大学院の正規の課程の教育内容に類似しているものの、入試を必要とせず、またコース修了証書しか発行 しない在職者のためのパートタイムコースである。
その「単独試験」の他に、1980 年代に大学院入試に年齢制限が厳しい状況の中で職業経験 者に 37 歳まで緩める政策も採られた。こうした入試条件や選抜方法などの配慮政策が次々打 ち出されたことによって、職業経験者の入学が増え、1987 年に修士課程の職業経験者はすで に半数を超えるまで拡大されたのである。
2)「専門職学位」プログラムの入試
「専門職学位」プログラムの一次入試は次の二種類に分かれる。
その一つは 1 月に行われる「専門職学位」プログラムの共同試験で、その試験は「MBA 共 同試験」(原語:MBA 聯考)、「法律修士共同試験」(原語:法律碩士聯考、)などと呼ばれて いる各専門別の全国共同試験である。その入試に参加する条件の一つは職業経験を持つことで ある(専門によって職業経験年数に対する要求は異なっている)。また、法律修士に関しては
「アカデミック学位」の法学修士課程と違って、学部の専門分野は法学以外の者であることが 条件とされている。それは研究者養成ではなく、実務に従事する高度な職業人として、学際的 専門や幅広い基礎知識などを有することが望ましいと考えられるためである。こういった専門 分野ごとの一次試験を経て、その後の各機関の二次試験もパスした者がフルタイムの学生とな る。
もう一つは 10 月に行われる「在職修士学位課程入学全国共同試験」(原語 : 在職攻読碩士学 位全国聯考)で、いわば「専門職学位」プログラムのパートタイムコースの全国統一試験であ る。それは大学院修士課程の入学資格試験(GCT)であり、在職者の大学院入学のために 2001 年からスタートしたものである。
その入試に職業経験を持つことが参加できる条件の一つとなっている。二次試験に参加でき るかどうかは各募集機関が確定する採用成績基準によるが、この GCT 入試成績の有効期限は 2 年となっている。つまり、この試験の成績は 2 年間以内に募集機関の二次試験の応募に利用 できる。
3)同等学力で学位申請のための試験
社会人大学院教育の発展に伴い、「同等学力での学位申請制度」も早くから議題となった。
80 年代後半から在職者の学位申請が実験的に試行され、87 年に 133 の大学院教育機関に試行 可能となった。実験を経て 91 年 3 月に、「国務院学位委員会の大学院卒業と同等な学力を有す る在職者の修士・博士学位の授与に関する暫定規定」及び施行細則が公布された。それから同 等学力の資格で修士学位・博士学位の申請者が増え続け、2007 年に二つの試験を受ける応募 者は延べ 11 万 3 千人を超えた。
その同等学力で申請する学位の質を保証のため、申請者に「外国語能力の全国共同試験」を 行うことが 1994 年に決定され、その後「学科総合能力の全国共同試験」も導入するようになっ た。その同等学力で学位申請する者に対する「外国語能力全国共同試験」(原語 : 外語水平全 国聯考)と「学科総合能力全国共同試験」(学科総合水平全国聯考)は毎年の 5 月に行われて いる。
このような共同試験は学位の質を保証するための措置として実施されたものである。同等の 学力で学位を申請する際に、大学院教育の非正規の課程「研修班」などでの学習終了証明書が 必要条件とされているが、学位論文が主な審査対象にすることは質の保障に困難であると判断
されている。社会人の学位取得に論文代筆や盗作などの問題も生じたことがあるため、そういっ た問題を防ぐためにも「学科総合能力」、「外国語能力」に関する共同試験が必要であるとされ ている。
4)大学院教育の質保障と試験
上記のように、中国の大学院入試にはなんらかの形での統一試験や共同試験が行われている ことは特徴である。それは教育の質を保障し、大学院教育の健全な発展を図る重要な措置とし て実施されている。
これまでみてきたように、中国の大学院教育には「アカデミック学位」プログラムと「専門職 学位」プログラムという二元的構造が形成されている。しかもそれぞれに二重構造ももってい る。すなわち、「アカデミック学位」プログラム「公費の学生」と「自費の学生」が共存する という二層構造に加え、「専門職学位」プログラムに資格取得の異なる学生層、すなわち学歴・
学位取得可能な学生と学位のみ取得可能な学生が存在するという二層構造も形成されている。
「自費学生」は「公費学生」と比べて入学成績が劣っているにしても、多額な学費を負わせ られるのが公平とはいいがたい。それは市場メカニズムの導入による過度的な構造と考えられ る。近年、一部の大学は「公費学生」と 「 自費学生 」 の区別をなくすような試みも行われた。
他方、「専門職学位」プログラムについて、入試形式の違いに加え、就学形態の違いによっ て取得する資格の差が生じている。パートタイムという就学形態であるゆえに、修学年限は長 く設定され、制度上フルタイムコースとほぼ同様な教育カリキュラムを用いるにもかかわら ず、卒業学歴を発行しないのは合理性に欠けると指摘されている。また、一般的にフルタイム の学生は転職動機が強いといわれている。それに対してパートタイムコースの入学者のほとん どは仕事に完全に離れることのできないような職場の中堅要員であるため、転職が動機として 入学したものが多くないと推測できよう。このことを考えれば、この二層構造に疑問を持たざ るを得ない。しかし、実際にパートタイムコースの具体的な教育の過程はまだ標準化されてな い、また評価の厳密さも欠けているという現状にあるため、この構造を変えるには、現在の学 年制がまだ中心である状況から脱出し、完全な単位制の実施そして教育プログラム、教育の過 程の標準化が求められる。
図 3 は現在中国における大学院教育の重層構造のイメージ図であるが、二つのプログラムの 上での二層構造は主に入口での学業成績や就学形態によるものであるが、質保障の格差を示唆 しているのではないかと考えられる。すなわち、入学際の学力の高い者、あるいはフルタイム という就学形態で教育の質を保障できると見なす。他方、入学際の学力の劣った者、あるいは 学業への集中が、難しいパートタイムという就学形態で、教育プログラムの進み方が標準化さ
図3 中国における大学院教育の重層構造(イメージ図)
入試の成績による
授業料支払いの方法 アカデミック学位
公費 アカデミック学位
自費 入試種類と就学形態による
取得資格の相違 専門職学位(フルタイム)
卒業学歴と学位 専門職学位(パートタイム)
学位のみ
質保障に有利 質保障に不利
れてないことから質の保障には相対的に不利であるという図式が映されている。上述のよう に、中国の大学院教育の質の保障に入試の役割が大きい。それは本質にかかわる教育プログラ ムの編制や評価の運用など、他のシステムによる質の保障がまだうまく機能していないことも 意味している。
この重層構造は市場メカニズムの導入と質に対する保障の懸念から形成されたものと思われ る。「アカデミック学位」プログラムのそれには、市場化の流れがより大きな要因であるのに 対して、「専門職学位」プログラムの場合では、質の保障の力学がより大きく働いたと考えら れる。したがって、高等教育の市場化が成熟すれば、また教育の質に最も関連のある教育内容 や教育過程などの評価システムが機能すれば、この構造が変化することは十分ありうると考え る。
結び
中国における社会人大学院教育は高度な職業人の養成のあり方、また社会的ニーズへの対応 という観点から、80 年代に政策的に導入され、展開された。しかし、90 年代に入ってから市 場原理の導入と社会人の個人的ニーズの対応へと転換した。こうして高度な職業人養成のため、
職業経験を持つ社会人を入学させる政策に加え、「専門職学位」プログラムの導入が進められ てきた。しかし、その「専門職学位」プログラムはどのように編制され、どのように実施され ているのかを検討することが重要である。というのは、「専門職学位」プログラムの拡大によっ てもたらされた大学院教育の構造変化は、社会発展のニーズによりよく機能的に対応できるよ うになり、また高等教育の発展にも新たな展望を示した。しかし、実態としての重層構造は市 場メカニズムと大学院教育の質保障という二つのベクトルによる結果とはいえ、合理性にかけ るものといわざるを得ない。その構造をさらに解明するにも教育プログラムに関する分析が今 後必要とされる。また社会人大学院生は卒業した後にどのように職場で評価され、彼らの高額 な教育投資はリターンとしてどの程度期待できるのかについても、今後の課題として検討した いと考える。
注
1)『中国教育成就 統計資料 1949 − 1983』人民教育出版社、『中国教育統計年鑑』1987 年、2006 年 人民 教育出版社 データによる)
2)中国教育部高校学生司編『1996 − 2002 年全国研究生招生統計年鑑』北京航空航天大学出版社のデータによ り算出。
3)ここでは、特定の機関を指す以外に、まとめて「大学院教育」という用語を用いる。)
4)黄 梅英「中国における生涯学習の社会的需要の構造と支援システム」『大学研究』第 33 号 筑波大学 大学研究センター 81 − 96 頁 2005
5)教育部編『中国教育年鑑』1998 年、1999 年、2000 年 人民教育出版社による)
6)E-MBA コースは、大学(本科コース)卒業、8年あるいは8年以上の仕事の経験(そのうち、4年あるい は4年以上の管理の仕事経験)をもつ大企業の現職上層管理者を対象とするコースである。
天野郁夫『大学改革の社会学』玉川大学出版部 2006 年
『IDE 現代の高等教育』No.502 IDE 大学協会誌 2008 年
金子 元久「社会人大学院の展望」『リクルート カレッジ』No.151 2008 年 教育部編『中国高等教育年鑑』各年 人民教育出版社
教育部編『中国教育統計年鑑』各年 人民教育出版社
教育部編 『教育成就 統計資料』1949 〜 1983、1986 〜 1990 人民教育出版社
中国教育部高校学生司・中国高等教育高校招生研究会編『普通高等学校招生工作年鑑』人民教育出版社 各年 中国教育部高校学生司編 『1996 − 2002 年全国研究生招生統計年鑑』 北京航空航天大学出版社
『プロフェッショナル化と大学』高等教育研究 第 7 集 玉川大学出版部 2004 年 参考資料・文献