中国農村社会経済構造の変容分析
その他のタイトル Analysis of Struture's Change in Chinese Rural Community (2) : A Socio‑economic Approach
著者 石田 浩
雑誌名 關西大學經済論集
巻 36
号 1
ページ 31‑57
発行年 1986‑05‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/14681
論 文
中国農村社会経済構造の変容分析
石 田 浩
序章 中国農村社会経済構造研究の意義と課題(本誌,第35巻第5号) 第16章福建省屡門市禾山郷察塘村の調査事例(『台湾史研究』第5号) 第17章福建省泉州市東海郷灯星村の調査事例(本誌,第35巻第5号) 第2章吉林省龍井県銅仏郷銅心村の調査事例
第1節銅心村の概況 第 2節銅心村の歴史的展開 第 3節大棚育苗工廠の設立と発展 第4章 結 語
第 3章遼寧省藩陽市楊士郷寧官村の調査事例 第1節寧官村の概況
第 2節寧官村の歴史的展開
第 3節三中全会以後の農村経済の変貌 第4節 結 語
第2章 吉 林 省 龍 井 県 銅 仏 郷 銅 心 村 の 調 査 事 例
第1節 銅 心 村 の 概 況
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本調査村は延吉市滞在の折,東京経済大学の村上勝彦氏と知り合い,村上氏よ り延辺大学に留学されていた早稲田大学の大村益夫氏を紹介して戴き,大村御 夫妻が延辺農学院に多くの友人を知っておられたことから,筆者に延辺農学院 で簡単な講演をし,研究者と交流してみてはどうかとお世話下さり,その結果,
7月6日に銅心村を訪問することが出来た。それゆえ,今回の訪問調査において 31
32 闊西大學「艇清論集」第36巻第1号 (1986年5月)
も日本の研究者だけではなく,延辺農学院校長の朴景漢氏を初め多くの中国側 の研究者のお世話になった。また,筆者の銅心村訪問には延辺農学院の朴昌ー氏 がお供して下さり,何かとお世話になった。記してこれらの方々に感謝したい。
銅仏郷は延吉市より車で西へ小1時間程走り,公路沿いより少し入った所に 位置する。銅仏郷の由来はここに銅仏寺があったことに基づく。銅心村はその 中の1村で, 1982年の生産責任制(大包干制)開始時, 6戸の村民が土地を分 配し経営を個別化することに反対して, 「龍井県銅仏郷科学技術普及協会大棚 育苗工廠」なる農業共同経営組織を作り,育苗の請負耕作等を始めた。このよ うな共同化は訪問調査した村の中では初めての事例であり,個別化された農業 経営を補うために,今後ますます中国農村の到るところに普及すると思われ る。そこで,銅心村の歴史的展開を紹介すると同時に,この大棚育苗工廠の経 営内容を分析し,今後の中国農村における農業共同経営の参考に供したい。
銅心村は, 1984年末の戸数が 184戸,人口が 750人, 1戸当たり家族数 4.1 人,労働力が 448人(総人口の59.7%)で あ る % 耕 地 面 積 は125埴(前とも書く。 1 埴は1ha, 15畝)あり, 1戸当たりの耕地面積が11.9畝となり, 1年1作の東北 農村にしては少ない。耕地は水田が51埴(40.8彩),旱田74埴(59.2彩)で,旱田の 多くは水利条件の悪い山地である。 旱田には疏菜10埴,玉米(トウモロコシ) 25 埴,大豆35埴を栽培している。 1埴当たりの各収量は水稲 8,825斤(畝産588.3 斤, 1斤は0.5kg), 玉米 9,000斤(畝産600斤), 大豆 4,000斤(畝産266.7斤)で,糧 食の総生産量は97万4,000斤である丸村の総収入は 77万9,000元位で,農業収 入が47万9,000元(61.5%), 工業収入10万元位(12.8%), 副業収入20万元位(25.7
%)であり叫農業収入の比重が非常に高い村であることが分かる。副業の内容
1)これは筆者が聞き取った数値であり,調査後送って戴いた第2‑:1表の数値とは若千異 なっている。
2) 「中国経済年鑑1985」1985年, p.lll‑16によれば, 1984年度の各農作物の全国平均畝 産は,水稲が716斤,玉米528斤, 大豆177斤であるので, 銅心村の水稲は全国平均よ
り低いが,玉米・大豆の畑作は高いことがわかる。
3)この数値も聞き取りによるものであり,第2‑1表と比較すると副業収入は約 20万元で
中国農村社会経済構造の変容分析(石田) 33
が養豚・養鶏・ 養鴨・疏菜作り・疏菜用種子作り等であるので,農業関係の収 入が 67万9,000元となり, 総収入の 87.2彩を占めるため, 純農村地帯である
と言える。
第2節 銅 心 村 の 歴 史 的 展 開
銅仏郷は, 1945年の日中戦争勝利とともに解放され, 1947年には,土地改革 が実施される。土地改革時の郷の階級構成は地主が 4彩,富農 6%,中農 15 鍬 貧 農72彩,その他(雑業戸) 3彩で,土地は 3,000埴あり, 多くは植林地で ある。土地の 50%,すなわち 1,500埴を地主・富農が所有しており, 貧農の 所有地は 100埴以下であったと言う。土地分配は「中国土地法大綱」に基づき 老若男女に関係なく人口数で土地を割り分配したとのことであるが,村幹部は 具体的な数値を覚えておらず,土地改革の実態は不明確である。
1954年に初級合作社化が行なわれ, 1956年末 1957年初にかけて高級合作社 化が行なわれる。銅仏郷には11の高級合作社が成立し,旧・銅仏村には銅仏高 級合作社と銅山高級合作社の2つが成立する。 1958年の人民公社化では銅仏人 民公社が成立し,旧・銅仏村の2つの高級合作社は銅仏生産大隊と銅山生産大 隊となり,1962年に整社運動の時,旧・銅仏生産大隊は銅仏生産大隊と銅心生産 大隊とに分離され,この時に初めて現在の村と同じ規模の銅心生産大隊が成立 する。 1982年には銅山生産大隊は銅山生産大隊と銅光生産大隊とに分離する。
1982年3月に銅仏人民公社は「政社分離」により,銅仏郷人民政府,銅仏郷 党委員会,銅仏郷経済管理委員会に分離し,経済管理委員会は経済の管理,経
同じであるが,農業収入については2倍 の 差 が あ る 。 序 章 「 中 国 農 村 社 会 経 済 構 造 研 究の意義と課題」で述べたように筆者の訪問に対して銅心村の準備は悪く,筆者の質 問にたいするデークについては梢案室より持ってきた資料をめくって応答してくれた
・カもその時の計算が間違ったのかもしれない。例えば,牧業収入と農業収入を加える 時,牧業収入の桁数を1桁多くして47万9,000元になったとも考えられる。 ただ, 第
2̲;1表には工業収入という項が入っていない。
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34 闊西大學『純清論集」第36巻第1号 (1986年5月)
済条件の改善,農業技術•生産技術の指導を行なう。銅心生産大隊は「政社分 離」により,銅心村民委員会,銅心村党支部委員会に分離し,かっての6つの 生産隊は村民小組となり,村民委員会の下部組織となる。土地は基本採算単位 である村民小組に所有されている。
農業生産責任制は 1980年春に包工到労(人)が開始される。当時,銅心生産 大隊には耕地が約 120埴あり,その内訳は水田が 56埴,旱田 64埴で,旱田に はやはり大豆・玉米・疏菜を栽培していた。包エ到労の方法は第1生産隊を例 にとれば,次のようである。耕地を労働力と人口で半々に分け,その結果1労 働力につき 5大畝(1大畝は1.5畝,すなわち7.5畝), 1人につき1.5 2大畝(2.25
3畝)を請負地として分配する。水田では男 1人当たり 3大畝(4.5畝)足ら ず,女1人当たり 2大畝(3畝)足らずを請負うことになった。 3年間の産量を 平均した定産量のノルマを果たせば,男には 350 400エ分,女には 250 300 工分が与えられ,ノルマを超えれば,その超過分は個人と集団とで4対 6の割 合で分けるといったやり方である丸
1982年には銅心村に各戸経営制の大包干制が導入されるが,銅心村第1小組 では 1983年春に実施される。第1小組は戸数が 54戸,人口が 218人あり,人 口割りで土地が分配され, 水田は1人当たり 0.75大畝(1.125畝),旱田は 1.2
.大畝(1.8畝)が分配される。例えば,村幹部のA氏は5人家族で水田4大畝(6 畝),旱田 6大畝(9畝), 自留地である疏菜地 0.8大畝(1.2畝)の計 16.2畝(1.08 ha)を耕作しており, 華北・華中・華南に比較すれば1戸当たりの分配地は大
きいが, 1年1作であることを考えれば大きいとも言えない。 B氏も 5人家族 であるが,都市に戸口(戸籍)を持つ者が2人おり, 農村籍の者は3人となる。
それゆえ土地分配の対象者は 3人である。 B氏の分配地は水田 3大畝(4.5畝) で,この土地は標準よりも悪い土地なので1人当たり1大畝となっている。旱 田は3.6大畝(5.4畝)で,分配地の合計が 9.9畝となる。
4)銅心村で行なわれている「包エ到労」はそ.の内容からいって「包工到労」と言うより も「包産到労」と言った方が正しいようである。
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中国農村社会経済構造の変容分析(石田) 36
大包干制は村に対して一定の提留金を上納すれば,残りの収益は全て個人の 砂となる方法である。銅心村では 1983年と 1984年は1人当たりにつき 90元 が村に納められた。その内訳は 1人当たり農業税が 16元,公益金・公積金が
・
s元.管理費 15元.それに水利局に水利費が1畝につき4元(1人につき7 8 元になる),_その他は敬老費・道路修理・当兵費(人民解放軍に入っている家族への 援助)等である。 この中の管理費は毎年変化するので. 村への上納金1人当た り90元は固定しているのではない。請負地に関しては 15年間変わることはな いが,今後将来に出産・結婚・死亡等で家族構成が変化する可能性があり.こ れに対しては5年後に調整する予定で.そのために流動地として水田 1埴と旱 田2埴があり,この流動地で調整する。
工業においては.村営企業として油料加工廠,木工廠,鉄工廠があり,これ らの村営企業も大包干制が実施されている。請負いのエ人(労働者)はそれぞれ 8人・ 1人・ 2人と少なく,銅心村の企業はあまり大きな企業でないことが理 解出来る。それゆえ,既述したごとく村の総収入に占める工業収入の割合が低 い。村への上納金である請負金は合計 3万元で,残りの収入は全て各企業で処 分出来る。
三中全会以降の発展については, 1978年の総収入が 21万2,000元で.その内 訳は農業が 10万6,000元(5096), 牧業 7,200元(3.496), 副業 7万3,000元(34.3
%), 工業・その他が 2万5,800元(12.2彩)である5)。既述した 198舷Fの数値と 比較すると. 6年間で総収入が 2.3倍になり,基本的には工業の伸びよりも農 業の伸びに支えられていることになり,筆者が訪問した他の村に比ぺると工業 の比率そのものが低い。農業の発展を計ろうと思えば,品種の改良・肥料の増 投・水利条件の改善・農業機械の導入ということを考えねばならず,かなりの
5)聞き取りであるこの数値と第2‑1表 と 比 較 す る と , 農 業 ・ 牧 業 ・ 副 業 の 収 入 は 同 じ で あるが, 工業・その他の2万5,800元については見られず, や は り 表 中 の そ の 他 に は 工業収入を含めていないようである。とするならば工業収入は約1万3,900元となり,
銅心村の工業収入の低さが理解出来る。
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36 闊西大學「経清論集」第36巻第1号 (1986年5月)
農業建設投資を必要とする。そこで,多くの農村では農村工業を興すことで農 村経済の発展を計っていることから,銅心村においても今後の工業化の展開に 村の将来が掛かっていると思われる丸
第3節大棚育苗工廠の設立と発展
1983年春に大包干制が実施される時,村民の金泰勲氏は他の村民に呼びかけ て,土地を個別に分配するのではなくして共有して農業経営をしようと提案し た。その提案に応じた農家は6戸で,労働力は男女各6人の計12人であった。
まず,各農家が共同出資して7大畝地(10.5畝)に 18のハウス(1ハウスの面積は 340mりを建設し, その 80彩を田植機械用の稲の育苗に当て, その苗を販売す ることにした。そして, 稲の育苗後には読菜を植えることにした。ハウスの 20彩には暁菜を温室栽培をする。各農家の分配地を持ち寄ると, 水田は 35大 畝(52.5畝, 3.5ha), 旱田は 40大畝(60畝, 4ha)になり, 旱田は他人に転包(又貸 し)している。`その代償として毎年1埴につき 600斤の大豆を得ている。 この 転包の合同(契約)は 5年間で, 合同に当たり村は一切関与していないとのこと である。この点は他の村とは異なってし ヽる 。大棚育苗工廠設立時の設備は,
ハンドトラクター 2台(現在1台を売却して,車を購入),田植機 4条植え 3台, 播種機1台,発芽機2台,出荷室(兼発芽室)5室,ハウス 18室となっている。
龍井県は延辺朝鮮族自治州に属し,吉林省の東部,朝鮮人民民主主義共和国 に接するところに位置し,冬期には農業が出来ない1年1作地帯である。それ ゅぇ,ハウスを建設することにより,土地の高度利用が可能となつている。村 6)銅心村の1戸当たり平均耕地面積は11.9畝 (0.79ha)と非常に少なく, しかも東北 農村であるため1年1作しか作物が出来ない。農村経済を発展させるためには土地利 用率を高めると同時に土地生産力も高めねばならない。そのためには農業の基盤整備 等に資金を投下しなければならず,現状ではその資金も十分ではないようである。資 金があれば回収の速い工業 I~投資するのが中国農村において一般的であり,その工業
もまだ発展していないのが,この村の現状である。
7)転包をするとき多くの村では村民委員会に報告し,一応その許可を得ることになって おり,その意図は大きな地代の発生を極力抑えることにある。
第2‑1表銅心村の各年度経済統計(単位;斤・元) 年度戸数人口糧食総産量農業収入林業収入1牧業収入副業収入
店他 ~5 人畠戻
1971 83.02万474,786 99,776 49, 192 2,213 1972 90.53万364,674 97,794 8,902 58,363 10,816 1973 185 840 76.33万590,242 133,947 1, 177 10,969 38,735 8,618 132 I 1974 187 843 99.49万481,887 105,778 938 11, 772 20,305 8,906 1975 189 854 108.65万740,410 164,274 87 6,643 49,867 10,692 130 1976 189 899 121. 82万649,132 131,456 10,652 25,747 9,714 90 1977 219 1,015 96.03万481,895 118,581 16,409 51, 576 10,848 1978 222 1,037 76.54万346,517 106,344 829 7,244 73,499 11,947 109 1980 196 835 102,535 8,084 11. 705 14,982 63 1981 194 894 110,600 3,219 22,062 12,104 83 1982 201 904 132,991 4,342 24,169 3,938 76 1983 201 907 164,030 4,500 4,000 6,000 9,010 198 1984 202 896 242,635 23,501 200,947 12,000 260 I丑回海H#鼎熙苓苺悔S冷塙9芍︵士王︶
出典)銅心村の提供による。
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38 闊西大學「経清論集」第36巻第1号 (1986年5月) 第2‑2表大包干制実施前と現在との農業機械・役畜の所有状況
実 施 前 現 在
\
穂 類噌 霰
l所 有 状 況噌 数
1 所 有 状 況 解放型トラック 1 集 団 1 不明大型トラクター 1 集 団 1 個人に承包
ハンドトラクター 5 集 団 約20 個人に払い下げ,個人 黄 牛 約45 集 団 約80 個人に払い下げ,個人
馬 約40 個人
出典)聞き取りによる。
民から聞いたハウスの利用は次のようである。
4月中旬 5月下旬
7月頃 10・11月頃
8月
9月中旬
1月
2月中旬
4月中旬
稲の育苗(4050埴分の苗)。
苗の売却,苗と田植えの請負いのセットで1埴につき
380元。
キュウリ・トマト・トウガラシを植える。
キュウリ・トマト・トウガラシの販売。
ホウレンソウを植える。
青菜・トウガラシ・ニンニクを植える。
キュウリを植える。
キュウリが 15cm位になると, ガラス温室(3室, 6 分地, 0.6畝)に移植。
各疏菜を収穫(収入4,000元以上),稲の育苗。
以上のような方法でハウスをフルに利用し, 1983年の収入が 4万8,000元,
1984年が5万2,000元であり, 1985年には6万3,000元を予定している。労働時間
は,男が1日8.5時間労働,女が男より 1時間少ない 7.5時間で,その理由は 女には家事があり,朝 30分遅く仕事につき,夕方 30分早く仕事を終えるとい うことになっている。このような点や筆者が家庭訪問して見たことと合わせて 考えると朝鮮族の男は日本の男と同様,かなり威張っている。 1年間平均する と,男は 300日,女は 200日労働しており, 1983年の男の収入は2,500元,女
中国農村社会経済構造の変容分析(石田) 39 は 1,600元となる。人口 1人当たりにすると平均 1,000元で, 1労働力当たり 平均すると 2,000元の収入となる。 1984年には男が2,750元,女が 1,800元で,
1人当たり平均1,200元, 1労働力当たり2,300元弱の収入になる。 1985年には 1労働力当たり 3,000元以上にする予定であるとのことである。 1農家平均労 働力が2人であることから, 1985年の農家収入は 6,000元以上となる。万元戸 まではいかないにしても, 銅仏郷全体の1人当たり収入が 700元で叫 1農家 平均収入が 2,800元(700元X4人)であることや, また第2‑1表に見られるごと く1984年の銅心村の1人当たり収入が260元, 1農家平均収入が1040元(260元X 4)であることと比較すると,かなりの高収入を得ていることが理解出来よう。
指導者の金泰勲氏に大棚育苗工廠の発展の根拠を質問したところ,次のよう な応答が返ってきた。
(1) 大棚育苗工廠は各方面の技術を備えている。例えば,育苗や薩菜栽培技 術,機械の操作,車の運転等。
(2) 大棚育苗工廠への参加農家は 1戸を除き全てが親戚関係であり,スムー ズに運営出来る。 1戸は両親がおらず, 1人で生活している者である。
(3) 大棚育苗工廠が年々発展しており,収入が伸びているので将来に希望が 持て,参加農家に意欲がある。
現在,大棚育苗工廠に参加したいという農家は多いが, 6戸以上に増やすつ もりはなく,今後は農業以外に第 2 次•第 3 次産業に手を出していくとのこと である。
第4節 結 語
大包干制実施以後,大棚育苗工廠のような農業共同経営が生まれ,発展して
8)銅仏郷全体の1人当たりの収入は聞き取りでは 700元とのことで,これは全国平均の 355.3元と比較すれば約2倍弱であるが,第2‑1表の銅心村の 260元とはあまりにも格 差がありすぎる。中華人民共和国国家統計局「天子1984年国民経済和社会笈展的統汁 公振」『人民日振」 1985年3月10日。
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40 ・ 闊西大學「継清論集」第36巻第1・I} (1986年5月)
いることには非常に興味が持たれるが,一般農家の経済状況はどうであろう か。
1976年の水稲 1大畝当たり平均収量が 600斤で, 1984年が 1,150斤,そして 現在が 1,200斤(畝当たり800斤)と土昇しており, 現在の収量を大米(玄米)に換 算すると(換算率75彩)反当たり 450kgとなり,寒冷地にしては高収量である。
しかし,第2‑1表を見るかぎり冷害等の影響もあり,大包干制実施前の数値で あるが毎年の収量は安定じていない。また,村全体の農業収入は 1983年から 徐々に伸び, 1984年にはかなりの伸びを示しており, 1人当たりの収入も 1983 年以降上昇してはいるが,全国平均 355.3元に比較すると9)'まだまだ少ない。
1984年以降の目立った数値として副業収入の伸びが見られる。恐らく,大包干 制実施による直接的成果は副業収入の伸びであり,これは農業経営が個別化さ れることにより, 労働力の配分がうまく行なえるようになり, また「以糧為 綱」という穀作中心主義から農業経営が自由化され,各種の副業が可能になっ たためであると考えられる。
大包干制実施により第2‑2表に見られるごとく農業機械や役畜は増加してい る。ところが,その所有形態には大きな変化が見られる。すなわち,これまで集 団で所有していた農業機械等は個人に払い下げられ,その多くが個人所有とな っている。かつてハンドトラクター5台が集団所有されていたが個人に売却さ れ,現在では個人のハンドトラクーが 20台となっている。大型トラククー(肢 輪トラクター)は1台あったが.これは個人に承包(請負い)させ,年間 3,000元納 めれば個人が自由に使用出来る。修理等は個人負担で,請負者はトラクターを・
農業には使用せず運輸業を営んでいる。それゆえ,ハンドトラクターを所有し ていない農家は役畜を購入し,役畜で耕転・杷地・拉地・運輸等を行なってい る。以前には黄牛が 45頭位であったが,現在では 80頭となり,全てが個人所 有となっている。また馬は 0頭であったが,現在では 40頭となり,馬も黄牛
9)前掲「芙チ1984年国民経洛和社会笈展的統汁公振」
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中国農村社会経済構造の変容分析(石田)
と同様全て個人のものである。
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銅心村においては農業生産責任制が農業生産力の発展に如何に結びついてい るのか,最近の統計資料を入手出来なかったし,農民の応答の中にもその点が 見られなかったこともあって非常に曖昧である。多くの農村では生産責任制が 直接農業生産力の発展につながるというよりも,これまでの集団労働に対して 家族労働力の配分がスムーズにいき,すなわち,耕種農業だけでなく養鶏・養 豚・養鴨・養魚等の副業や郷鎮企業,運輸業・建築業等の個人企業へ労働力を 配分することが出来るようになり,その結果これらの副業・工業が発展し,同 時に農家経済も豊かになったと考えられる。 ところが,第2‑l表で見てきたご とく銅心村の農業・副業・工業の収入比率において,農業収入の比率が非常に 高く, 副業や工業がまだ充分に発展しておらず, その結果1人当たり収入も 260元と全国平均をかなり下回っている。 このような傾向に対して大棚育苗工 廠のように親戚関係を利用して農業生産を個別化することなく,農業生産を伸
ばしているのは象徴的であり,貧困村における 1つのモデルともなりうる。
第 3章 遼 寧 省 藩 陽 市 楊 士 郷 寧 官 村 の 調 査 事 例
第1節 寧 官 村 の 概 況
遼寧大学経済管理学院の招きで6月8日から22日までの2週間,藩陽に滞在 した。筆者の遼寧大学訪問は経済管理学院の研究者との交流と藩陽付近の農村 調査をすることにあった。遼寧大学では経済管理学院の研究者と 3回座談会を もち,日本の農業経済事情を報告するとともに,現在の中国農村が抱える諸問 題について討論をし,多くの点について教示して戴いた。経済管理学院の研究 者諸氏に本誌を借りてお礼を申し上げたい。
遼寧大学が筆者に按配してくれた農村は,藩陽市の西南に位置する近郊農村 地帯で,遼寧大学より車で約30 40分のところにある千洪区楊士郷寧官村であ った。調査は1日半で, 6月18日の午前中と20日とであった。農村訪問には経 41
42 闊西大學「綬清論集」第36巻第1号 (1986年5月)
済管理学院の張金氏がお供して下さり,聞き取りの場には楊士郷人民政府外事 秘書の洪泉涛氏が2日間,村長の劉樹海氏が1日目に,党支部書記の王延森氏 (65オ)と土地改革・農業合作化時の指導者であった老幹部が2日目に参加して 下さった。村長の劉氏は若くて有能な指導者であるようであるが,村の歴史的 なことについては全く何も知っていないので,氏からはもっぱら三中全会以 後の政策を中心にして聞くこととなっ・た。また, 書記の王氏も村の歴史的な ことにはあまり記憶がはっきりしておらず, 結局 82オの老幹部を呼んで下さ った。老幹部の記憶も曖昧なところが多く,考えるにこの村は村としての歴史 的発展過程について整理していないようである。村長が筆者にくれた「全村炊 解放前ー1984年至現在基本情況」も丁寧に読んでいくと実に大雑把である。例 えば解放前の階級構成と土地所有関係は数字上では旨く整合されているが,不 在地主の土地等を聞いていくと全くデタラメで,土地所有はすべて村内だけに 整理され,実態としての地主・小作関係がわからない。すなわち,一応階級的 なことには触れているのであるが,それは過去においてよく見られたように非 常に一般化したもので,この村の歴史的具体性が伝わってこない。このような ことで自分達の親達が味わった歴史的苦しみや階級的支配を後世に伝えていく ことが出来るのか疑問に思えた。その頃の苦しみを体験したであろう村幹部も あまり記憶になく,歴史の流れとはこのようなものであるのかと考えさせられ た。国民党や郷紳地主の収奪について今でも多く語られるが,その内容があま りにもパクーン化されたもので,何か空々しさを感じるのは筆者だけであろう か。また,村の生産力的発展についても全く資料がなく,彼等の記憶にさえ明 確に残っていない1)。 これは筆者が外国人であるため教えることが出来ないと すれば,経済的開放と政治的開放の差はまだ大きいように思える。たとえ,そ うではないとしても歴史から一体何を汲み取り,歴史の教訓にしていくのだろ うか。この村の現状は何か現実追従的で,まさしく現在が発展しておればそれ 1)調査が一応終わった段階で,筆者は寧官村の統計資料を要求し,宿舎の南京大学に送
って戴いたのが第3‑3表である。
中国農村社会経済構造の変容分析(石田) 43 でよいのではないかと考えているような気がした。まえおきが長くなったが,
調査した多くの村の中でこの村は特にそのように感じた。その意味において限 界を感じる調査であった。
寧官村は戸数が 901戸,人口が 3,300人と非常に大きな村落である。 1戸当 たり平均家族数は 3.7人となり,他地域に比較して小家族である。労働力は,
1,650人(50彩)2)で,半労働力(16オ未満)はない。耕地面積は,水田が4,977畝, 疏菜地 710畝の計 5,687畝で, 1戸当たり平均 6.・3畝となる。これは東北農村 にしては少なく,華北農村とあまり変わらない。村餅企業(村営企業)は 28あり,
その労働力は 1,600人で,全村の労働力が 1,650人であることから,農業労働 力は 50人となる。 この点については後述する。主な村営企業として建築材料 廠, この中に碍瓦廠(レンガ工場, 1981年設立), 水泥板廠(コンクリート・ブロック 工場, 1980年設立)があり,その他に暖気片廠(スチーム用ラジェーター工場, 1980年設 立),服務姑(サービス・ステーション,飯店・商店),飲料廠(ソーダー水・炭酸酒製造 工場, 1983年設立)等の企業がある。寧官村には解放前から寧官屯小学校があり,
約60人位の生徒がいた。 1982年に学校の建物は平房(平屋)から楼房(階上のある 建物)に建て替えられた。現在,教師は公餅(県が給与を支払う)教師が13人,民餅
(村が給与を支払う)教師が 11人の計24人で,民塀教師の平均給与は 80元とかな り高い。生徒は 370人であり,中学は楊士郷にある藩陽第5中学に行く。
以上が寧官村の概況である。
第2節 寧 官 村 の 歴 史 的 展 開
解放前の寧官村は市王郷に属し, 寧官屯と呼ばれていた。寧官村より得た
「全村炊解放前ー1984年至現在基本情況」と聞き取りに基づいて土地改革時 の階級構成を示したのが第3‑1表である。この資料の数値には不在地主(村外地
2)労働力が人口のちょうど半分の 1,650人との応答であったが,この数値はあまりにも きれがよすぎる。農村での応答は一般に数値の後に「多」(余)とか「左右」(位)が ついてくるものである。
43
44 闊西大學「純清論集」第36巻第1号 (1986年5月)
主)が入っておらず, 村内だけの階級関係を表しており, 村内の地主・富農が 土地の大部分を所有しているように数値が操作されている3)。 聞き取りによれ ば不在地主は5 6戸で,藩陽市内に多く,約 1,000余大畝(1大畝は1.5畝,す なわち1,500畝となる)の土地を所有していた。 ということは本村の地主・富農の
土地は約 3,500畝ということになる。そして不在の最大地主は約 400大畝所有
ということであったが,不在地主について順番に聞いていくーと,最大地主地は 500余 600大畝であり,次の地主が 200余大畝, 3番目の地主が 100余大畝,
そして最小地主が 30大畝とのことであった。第3‑1表の( )の数値は聞き取 りによって整理したものである。これらの地主がどのようにして土地を集積し ていったのか,この点につき質問をすると全く答えることが出来ず,小作料の 形態についても覚えていず,地主の収奪の内容が不明で,村幹部の言うところ の階級的支配については真実味が感じられなかった丸
そこで階級規定をどのようにしたのかについて質問した。地主は土地が 100 第3‑1表解放前の階級構成と土地所有 (単位;畝)
~
実戸 数 数I 96 人 口 実土 地 面 積数│ 彩
1戸当たり土地所有,実 数 1 取聞きり地 主農} 18 (5) 2. 0 } 108 } 5 009 (1,050) 16.2 } (210) 150望
富 (13) 5.2 '(2,451) 38.0 278.3 (189. 2) 75
中 農 32 ・12.9 192 864 (864) 13.4 27.0 (27.0) 30
下層中農} 198 (28) 11. 3
} 1,188} (595) 9. 2 } 3. 0 (3. 0) 30
貧 農 (170) 68.5 595 4.5
7.5 計 I 248 199. 91 1. 4881 6. 468 (4. 968)1 76. 8 1 2a. 1 (20. oil
出典) 「全村A解放前ー1984年至現在基本情況j(1984年)と聞き取りに基づく。
( )は聞き取りにより修正。
3)地主・富農・中農・貧農の1戸当たり平均家族数が全て6人となっており,数値が操 作されていると考えるのも当然であろう。
4)中国は広大な国であり,地域により農業条件も違えば土地所有形態も異なり,当然そ こにおける階級関係も異なっている。それゆえ,土地改革や農業集団化の在り方も異 なってくると考えるのであるが,その応答はあまりにもパターン化されたものであっ た。
中国農村社会経済構造の変容分析(石田) 45
大畝以上を所有し,労働力がなく地租を得ている家と言う。富農の最も多い所 有地は大体 50大畝位で, 30%以上を搾取している農家を言う。富裕中農の最 多所有地は約 20大畝で,富裕中農であることの規定は搾取率が 20%以上であ る。中農でも最多所有地が 20大畝位であり,下層中農も最多所有地 20大畝位 であるが,所有地の割に労働力の多い農家である。貧農は大体3 5大畝所有 の農家である。これを第3‑1表と比較すると必ずしも一致しない。しかし,地 主・富農の土地集積度は同じ畑作である華北農村と異なっている氏
寧官村の解放は 1948年11月で, すぐに農会が成立し, 土地改革が始まる。
当時,土地改革運動において訴苦大会が5回程開かれ,村の地主・富農を呼び つけ批判したが,不在地主は呼んでいない。多くの村においてはこれが一般的 なようである6)。1950年1月に土地を正式に分配した。分配方法は地主・富農 の所有地の中で彼等の耕作地として,一部の土地を残して土地全部を没収し,
貧農に 1人当たり平均 2.8大畝(4.2畝)となるように不足分を分配した7)。元幹 部の老農は7人家族で土地を 10大畝所有していたので, 9.6大畝を分配され たとのことである。 しかし, 第3‑2表に見られるように, 当時の寧官村の人 口が 1,587人,耕地 6,468畝であることから単純計算しても 1人当たり 4.08 畝しかならず, 計算が合わない。また, 地主・富農の農具・馬・大車も没収
・し,家屋については富農の不用な家屋は没収,地主の家屋は完全没収した。こ
5)華北農村では自作農が一般に 60 70形で, この村のように地主・富農が村の土地の 77.4形も所有していることはない。拙著「中国農村社会経済構造の研究』 1986年,第
8章の「解放前の華南農村の一性格」を参照されたい。
6)鎮に住んでいる地主は鎮での訴苦大会において批判され,悪覇地主でないかぎり村の 大会へは引きずり出されていないようである。特に,解放後の「中国土地改革法」で は地主から没収するのは農村に所有している土地・財産であり,都市で商工業を営ん でいる場合,その財産は没収の対象とはならなかった。ここでの土地改革は「中国土 地法大綱」段階の土地改革であるので定かではないが。
7) 「士地法大綱」段階での土地改革では土地は全部没収して,その後均等に分配してい るのであるが,応答ではそうではなかった。天野元之助「中国の土地改革J1962年を 参照のこと。
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