インドにおける仏教伽藍の形成
塚 本
啓 祥
伽 藍 構 成 の 特 性
①
伽
藍 溝 成 の
二要
素
インドにおける仏教遺蹟の考古学的な調査研究は︑A・カニンガ
ユ ロ
ム︑J・バージェス︑J・H・マーシャルらによって進められて来
たが︑かれらの成果を基礎とした仏教伽藍の綜合的研究は︑近年漸
く伽藍構造の史的発追を概観することを可能ならしめた︒その主な
る ドぴ
研 究として︑P・ブラウン︑S・ダット︑V・デヘジア︑Dーミト ラおよび長尾雅人・高田修両博士のそれを挙げることができる︒ グオ
これらの研究は︑ω一伽藍が礼拝の対象を祠る堂塔と︑僧衆が唇
住する僧房との二つの基本的構成要素からなること︑②この区分は
インド以来︑仏地と僧地を区分する伽藍構成の原則を継承している
こと︑㈲ごの二つの構成要素は成立の過程を異にしたことを明ら
か にした︒
インドにおける仏教伽藍の形成︵塚本︶
②仏塔の起原
因みに︑まず礼拝対象の原初形態として仏塔︵巴三p︶を挙げるこ
とができる︒サンスクリット語のω日℃智︵勺巴一芸旦︶主はVgtab− ︵as
む︶より派生し︑堆積・土や陳瓦の堆積を意味し︑漢訳仏典でぱ翠
堵波・窄親婆・塔婆・塔などと音写し︑廟・塚・方墳・円塚などと
意訳された︒また菩三田はスリランカーfJ d2Higiiba ︵dagoba︶とし
て知られるが︑これはパー=x N. E C︶ dhatu−gabbha ︵Slct. dhtttu−garbha;
胎中に遺骨三含む構造︶に由来する︒ 暮王︶ρは︑ 本来は墳墓的性格のも
ので︑その起原は仏教以前に溺り︑仏塔は︑仏滅後にマガダ王アジ 利塔および瓶塔・灰塔を建立して供養したことにはじまる︒しかし︑ 9 ャータサットゥをはじめとする王族らが仏舎利の配分をうけ︑八舎
塔の建立は仏陀の存世中にもすでに行われたものの如ノ\アナータ 功ピンディカ長者が釈尊の髪爪塔を建立したこと︑パセーナディ王が
ヵ−シャパ︵迦葉︶仏の塔を建立して供養したことが伝えられる︒こ
四
法華文化研究︵創刊号︶
れ は ア シ
畑 ョーカ王が過去仏コーナHガマナ︵拘那含︶の塔を修築して 供
養したという碑銘によっても推論しうる︒
インドにおける仏塔の建立と供養の流行は︑アショーカ王の事業
に負うところ大であった︒伝説によれば︑王は仏滅時に建立された 八
⑭ 塔中の七塔を開いて︑仏舎利を更に分配し︑全インドに八万四千
の 法 塔を建立したという.︑現存仏塔の中で︑クシナガラ︵パ已竺三σQハで ra︶︑ヴァイシャーリー︵<︵二沿=︶︑バー−KX rx L ︵Bhiu−hut︶︑サーンチ
− ︵safici︶︑アマラーヴァティー︵﹀︼ピ≦呂〆︑↑二﹁︶︑ソーハHラー︵乙たc巳P昌︶
などの諸塔は︑王の建立または︑増広に由来すると推定されている︒
しかし︑サ−ルナート︵裟﹃旨↑5の法塔︵初転法輪の地︶やボード・ガ
ヤー︵Bodh−Gay.i︶の大塔︵成道の地︶など舎利を含まない塔も現存し ている︒ 起塔供養された者に︑釈尊の・人滅に先立って遷化した二大弟子︑
舎利弗と目健連や︑アショーカ工時代の伝道師らがあり︑かれらの
舎利がソーナ−リ︵㏄三冶三︑ サトダーラ︵子芸三智巳︑ ボー︒シブル
⑬ た事実によって︑その事情の一班を推定しうる︒ 飼 (Ilhc︶jpur︶︑アンデール︵>z戸三ξ︶︑サーンチーの塔に台祀されてい
摩『
詞 僧 砥律﹄によれば︑舎利ある・・︑のをit: .s..︶名づけ︑舎利なき
ものを枝提と呼んでいるが︑外形が類似しているので︑両者の区別
は一定でない.サンスクリット語の︹三二︑智︵一︑itli cetiya︶は∨巳︵積
む︑集む︶より派生し︑積聚を意味する︒漢訳仏典では︑支提・制底 四二 ⑰
.制多などと音写し︑塔廟・霊廟・廟などと意訳されている.︑後 世 に
・。ご﹂︶辞が信仰の対象としてctLitya中に導入された時︑これを caitya−svrliEL ︵祠堂・支提堂︶または巴巳身ギ憤己る︵支提窟︶と呼んでいる︒
③僧院の起原
最 初 期 の 仏
教出家老は遊行・乞食を生活の基調としたため︑かれ
らの住所は都邑の近郊で瞑想に適する静かな場所に選﹇疋された.︑ま
た︑雨期の出家者の一時的定住地として均ぐぽ祭︵八P\三↑三住処︶と
習創∋二︵︿tl−l/ KLm i園︶かあった︑ これらには出家者の居住のため
の 小 屋
があり︑一人または小グループの出家者によって居住された︒
[L/・日二は﹁住処﹂を意味し︑初期の段階においては︑単なる雨の避 難 所 であって︑雨安居が終︹︑たのちは︑荒廃するにまかせられた︒
これに対してiuflml1︐は︑本来は﹁歓喜﹂を意味する語であるが︑
それから転じて﹁歓喜を与える場所﹂すなわち︑町や市の中︑ある
い は
郊外にある楽園︑果樹園︑花国の意味に用いられた︑これが所
有者によって永続的に僧伽に寄進されて︑宗教上の集会・瞑相心・法
に関する討誌の場所となった時︑それはエふ三夷ロ劉笥︼さ二僧伽藍︑僧園︶
と名づけられた︒そして︑均笥∋二の所有か個人から僧伽に移され 過たのち−h︶︑寄進者はその財三ぽを日弗元的に管理し︑維持したc
流動寸ろ欝三汀者の一時的定住地としてのヲ1 ;1やヨ︐勾亘二は︑発
達した僧伽における団休生活を維持する場所として︑狭きに失して
不 十 分 であった︒︐Jのために出家者の集会の場所としての会堂︵声弓︑
atthana−siLliL︶や︑それに付属する公共の施設が必要となった︒しか
し一方では︑Eramaにおけるかような施設の拡充は︑逆に出家者
の 定 住
化と住処の僧院化を促進することになった︒
lepa ︵S︐ kt. Iayana僧院︶はべご︵隠れる︶から派生し︑本来は苦行者
や出家者によって隠れ場に用いられた岩窟や山窟を意味した︒遊行
中の一時的宿泊所︑雨期の一時的休息所である限り︑l︒i︶aは個人の 39
住処︑すなわち特定の出家者の住処であった︒ ﹃小品臥坐具鍵度﹄
によれば︑ 五種の臥坐処︵切e1︶﹇LS︸LlllLH1¢na︶を挙げる︒ 五種とは︑
vihEra ︵精舎︶︐ addhayoga ︵平覆屋︶︑℃斜㏄翻O辞︵殿楼︶︐ hlLlllmiya ︵楼房︶
ぬ巳る︵窟院︶であり︑ この中で≦﹈田日とσq三莇は永く用いられた
が︑他の三種は廃れたようである︒
く巨冒智︵八ぐ︷−∨却︶は︑ 本来は安居の住処のための個人的住処で
あったが︑やがて公共の施設へ発展した時︑房室︵1︶arlvcLla︶がその
中に造られた︒さらに︑そこには共同生活の必要上︑種々の施設が
整備され︑後の時代にく巨習^Fは︑出家者の住する大建築群︑組織 ⑳
化された僧院を意味することになる︒丙己旨︵八Vguh︶は︑本来は隠 れ
場を意味し︑初期の頃には自然の洞窟またはこれに多少の人工を
加えたものが用いられたが︑デッカン高原やアフガーニスターンな
どでは︑人工的に開馨せられた.︑窟院は信仰の対象である塔を安置
した支提窟︵︹門三言昧巳色を中心に房室や会堂を含む居住窟︵己︐
インドにおける仏教伽藍の形成︵塚本︶
hE
ra−guha︶から構成された︒
④僧院における仏塔の受容
さて︑初期の教団においては仏塔の建立と供養はもっぱら在家
の 信 者 にまかせられ︑出家者の関与すべきことではないと規定せら れた︒しかし︑仏塔の建立と供養の功徳が推奨されて流行するに及 結びつくに至った経過について︑高田博士は三つの場合を想定して 鋤 んで︑出家者も仏塔を受容したものと考えられるが︑仏塔と僧院が いる︒すなわち︑
ω
僧
院 の す で に 存
するところに仏塔の造立された場合︑これは
実際に行われたであろうが︑遺蹟によって実証することは困難
へ である
②
仏
塔
のある傍らに僧院の造営された場合︑クシナガラの浬葉
塔︑サールナ −トのアショーカ法塔︑カウシャービーのゴーシ
タ・アーラーマ︵︵;hOSitiLl︐iL≡a︶の古塔などがある︒また︑ピプ ラフワー︵﹇iPlび:二;︐il︶塔︑ヴァイシャーリー塔︑パールフト塔に
は︑傍らに僧院が建立された証跡がない︒
㈲ 仏塔と僧院が同時に計画的に造営された場合︑ほとんどの仏 教
遺蹟はこの範蒔に含まれる︑
がそれである.︑
そこで︑僧伽組織の展開と出家生活の変遷を跡づけるために︑以
四三
法華文化研究︵創刊号︶
下 に 仏 塔
(エヨ﹀ρ︶︑僧院︵<三勾﹃門↑︶︑祠堂︵n巳qρ−σ︒子じの構造的発展 に つ
いて︑包括的考察を試みよう︒
lI Sxz ︵Stapa︶
① 四種の仏塔
仏 塔 に 四 種 の 範
時を区分できる︒すなわち︑ω舎利塔︵沿﹃﹁三・P
・伶;二.︶︑②資具塔三笥﹁二︑hogika−s.︶︑③記念塔︵uddegil︷a−s°︶︑3奉献塔
(PUjlL︐g︶がそれである.︑ωは仏陀・仏弟子・地方の長老の遺骨を安 リヤー.ナンダンガリー︵Laul︐i﹈v︑iL−Nan︹langarh︶塔A︑ソーナ−リ第 鈎 置するために建立された塔である︒例えば︑ピプラフワー塔︑ラウ
1・
凶 二塔︑アンデール第一・11 ・三塔︑サトダーラ第二塔︑ボージ プール第四・七塔︑サーンチー第↓・二・三塔︑ガンタシャーラー
(○=日H9沿言︶塔﹇︑ナーガ−ルジュナコーンダ︵ズ剖σq腎言コ己︵9︺江勾︶の
⑳ ㊥ 泊
大 塔と第六塔︑
g 別 グディヴァーダ︵Gu︵一一く勘牛ρ︶塔︑ ソーパーラー塔︑
ガ ンダーラのカニシュカ大塔︻︑タクシラの諸塔︹︑ マーニキアーラ
(TNTa
nikiElla︶ g大塔などでは︑舎利が発見されるか︑あるいは舎利
を安置されたと考うべき証拠を残している︒②は仏陀が用いたと信
じられた衣鉢を安置するために建立された塔で︑ ﹃大唐西域記﹄に
数多く記されている︒③は仏陀の事蹟を記念して建立された塔で︑
『法
顕伝﹄﹃大唐西域記﹄に指摘される︒ωは仏蹟の巡礼者が善根
功徳を目的として奉献した小型の塔で︑ボード・ガヤー︑サヘート 四四
(aS
eh
th︶︑サーンチH︑タフト・イ︿ ︿ sv ︵Taklit−i−Baliai︶ブトカ
rlx ︵Butkara︶︑クノシラなどに数多く見出される︑
奉 献 塔 はその壁寵に仏像や神像を安置したが︑煉瓦や石の借造的
塔では︑内部に仏像・神像・写経・陀羅尼などを蔵しているu ﹃南
海 寄 帰内法伝﹄に︑
造二泥制底一及拓二模泥像↓或印二絹紙一随レ処供資︒或積為レ聚以レ
垣裏〃之即成二仏塔↓或置二空野一任二其鎖散↓西方法俗莫レ不二以レ
此為予業.︒又復凡造二形像及以制底↓ 金銀銅鉄泥漆或石︒或聚二
沙雪↓当昌作レ之時中安二二種舎利↓ ↓謂大師身骨︒二謂縁起法
頚︒
とあって︑舎利塔に身舎利︵大師の身骨︶と法舎利︵縁起法頭︶の二種を
区
別している︒その縁起法項とは︑
諸 法従レ縁起 如来説三疋因一
彼法因縁尽 是大沙門説
であると義浄は述べているが︑サールナートの奉献塔に縁起法頒を
刻した石仮が安置されてあった事実によって︑その一班を知ること
が できる・三ペラトナ ;−リの仏塔では陀羅尼が内警れてい這・
◎ 仏塔構造の発艮
仏塔が仏減後まもない頃に現われたことは殆ど疑われないが︑最 初 期 の 仏 塔
の構造については︑如何なる資料も持ちあわせない︒し
かし︑もしヴ一ノイシャーリーで発掘された仏塔︒が︑リッチャヴィ族
によって建立されたと伝えられる塔︵仏舎刊八分塔の一︶に比定される
ならば︑最初期の仏塔は低い塚で積み上げた泥土の層から構成ごれ
たであろう︒従ってその形態は︑仏敦以前の百型︑すなわち土葬の
塚 に如何なる改良もほどこされていないことを示す.︑塔内の泥土の
層は kanl^a︐r g薄い層と粘土の塊りに区分されていた︒塔の直径
fit 7・62mで︑ 四方に突出部があり︑ これは南インドのクリシrlナ
ー川流域の仏塔にみられる突出部︵自.州Fぎ︶の原型とみられる︒周囲
に は 如何なる基壇︵nicdhi︶も発見されなかったこの塔は四回増広
された証跡を残し︑ 38×23×5cM gas瓦で増広された最初の部分
は︑アショーカの時代に帰せられ︑この増広にも四箇の突出部が構
築されていた.︒
ア シ
ーカ王がコーナHガマナ仏の塔を修築して供養したことョ
を銘刻した石柱は︑現在ネパールのニガーリー・サーガル︵Z品口二
S.i gar︶にあるが︑比定されるべき塔は発見されていない︒サーンチ
ー第一塔とサールナートのダルマラージカー塔の核をなす部分は
ア シ
ョーカの建立になろと考えられろ.︑前者は泥の漆喰で接台され
た煉瓦で構築され︑ チュナール砂岩の盤蓋を冠し︑基壇の直径は
18.29mあった︒後者にはテラス付の基壇︵前者︑Cに小さい︶の上に煉 瓦 造りの半球体のドーム︵直径一﹂・cω一三があり︑その上に方形の欄
楯と盤蓋があった︒ここに見出される新しい要素は︑基壇の導入で
インドにおける仏教伽藍の形戎︵塚太・︶ あって︑これは多くの場所で囲続の行道として用いられた︒
同時代の仏塔の中で︑ピプラフワー−塔は︑中身のつまった煉瓦積
み であって︑前一二世紀頃の・ズ字で銘71された壷が収納ごれ︑舎利が
へ15まれていた.︒
シ ュ ン
ガ 王
朝とシャータヴァーハナ王朝の時代に︑バールフト︑
サ−ンチー︑ アンデール︑ ソ −ナーリ︑ 苧トダーラ︑ アマラーヴ
ァ
ティー︑︒ハッティ︒フロー−.N ︵BhtLttil︶lnyOhl︶︑ ジャッガッヤペータ
(Ja
gga yyapっta︶ Q諸塔が.建立された.︑中でもサーンチー第一塔︵挿
図l︶はもっとも・.ユく保存されている.︑ この塔は︑ 前二世紀にハン
マー打ちした薄い石板によって︑アショーカの煉瓦の塔を包んだも
の である︒上部を平らにした覆鉢︵・三εの上に︑方形の欄楯︵・︒っ三◎︶
を置き︑その内部の平頭三︹↑∋三〇︶の中心に建てられた柱軸︵﹀︐・2Ltit;i︶
の 上に︑三つの盤蓋︵chatritvali︶を冠している︒覆鉢の周囲には囲 緩 の た め の 基壇︵llle︷=二︶を設けて欄楯をめぐらし︑南側に手すりの
ある二箇の階段︵S. Ol︶1≡口︶が取り付けられている︒原型の二倍に増広
されたこの塔は︑直径ωΦひ︒︒三高さ︵盤蓋を含んで︶宗・昏O∋ある︒覆鉢
の 表 面 は 漆
喰をぬり︑基壇.の周囲には囲続のために石で舗装した第
二 の 廻廊︵ヌ勾へ三書︼ご︑一︑き三をめぐらし︑その外周を石の欄楯によ
って囲んでいる︒瀾楯は支柱︵z斤ニコニ︑=○を111本の閂︵る3で連結し︑
閂の端は支柱の軸受けの中にほぞ継ぎにされている︒さらに欄楯の
上 部 に は
笠木︵USIIlra︶を冠している︒茎礎面の欄楯は︑四分円に区
四 五
法 華 文 化 研 究
(創 刊号︶
分され︑四方に設けられたL字型の欄楯の突出部によって入口を形
成している︒
なげし 前一世紀頃に︑入口に薄浮彫りをほどこした門︵torana︶が建造さ れた︒門は曲線状の三本の台輪︵長押︶と︑それを支える二本の角柱 からなり︑最上の台輪には法輪・夜叉二二宝が置かれている︒
前 二 世 紀 に建立されたサーンチ−第二塔には門がなく︑入口は四
分円の欄楯とL字型の欄楯から形成される︒しかし第三塔には︑三
世 紀
に唯一の門が建造されている︒
バールフト塔は基礎面に欄楯と門をもち︑石造の最古の例であり︑
欄楯・門ともに薄浮彫がほどこされている︒
ア マラーヴァティー︑パッティプロール︑ジャッガッヤペータ︑
ガ ンタシャーラー︑ナーガールジュナコーンダなどクリーシュナH
川流域の諸塔は︑基壇の四方それぞれにアーヤカと名つくる長方形
の突出部を備え︑その頂に五本の石柱の列︵昌・・H・勾と・^竺︑一︑一︑牡︶がある︒
基 壇 上
へ登る階段を欠いているのは︑それが廻廊として用いられな
か
ったことを推定せしめる︒石の欄楯は備えているが︑サーンチー 型
の門を欠き︑ある場合には欄楯の分円を直角に拡張して入口を形
成している︒ナ−ガールジュナコーンダの塔︵挿図二︶は欄楯をもた
ず︑煉瓦または石の表面を張った歩廊を有し︑基壇へは周囲の階段
の層によって近づくことができる︒
塔は一度建立されると破壊されることはなかったが︑時の経過と ことによって修復された︒マニキアーラ︑タクシラ︑サールナート︑ ともに破損した︒それで︑これらの塔はより大きな外皮で包みこむ 四六
サHンチー︑ヴァイシャーリ−︑ラトナギリなどの諸塔には数回の
増 広 が 認 められる︒
最
初期の塔は中身をつめて建立されたが︑後代の塔は土または砕
石 によって中核を満した︒しかし︑この方法は大規模の塔では不安
定であったので︑効果的な方法がとられた︒例えば︑房室のような こしぎ や
壁 の 羅 網 が 建
造され︑内部は土で満された︒あるいは車輪の載︑輻︑
枠をもった構造が建設され︑最後のものがドームの表面を形成した
(例えば︑ナーガールジュナコーンダ︑ガンタシャーラー︑アッル
ールの塔︶︒またより大きな構造では︑放射状の輻は︑円状と輻射
状の壁で強化され︑空間には土またはコンクリートと土の相互の層
で満された︵グントゥル地方のべーグガンジャム塔︑ナーガールジ
ir ナ
コーンダの三塔︶︒
クシャーナ時代以降︑塔建築の構造には変化が認められた.︑まず
初期の例にみられる比較的低い基壇は筒状に延長され︑覆鉢は基壇
の中に沈む傾向を示した︵ギリヤックの塔︶︒また︑基壇はしばし
ば︑仏像や神像を安置するための突き出された壁︵紐を含んだ.後期
には︑特にガンダーラでは︑韮壇︵基品︶は減少するニラスの中に建
造され︑テラスの外見は荘厳された︒盤蓋は数を増して︑全体とし
て円堆形をなした︵ナーガパッティナム︑クルキハル︑ジャウリア
ン出土の小塔︶︒平頭は逆ピラミヅド階段状に変形した︒歩廊はは
じめは基壇のための基礎として導入され︑円または方形であったが︑
時 の 経
過とともに変化を示し︑四面のそれぞれに1つまたは多数の
突出部を付加した︵ラトナギリ塔︶︒さらにそれは高くなり︵ラゥ
リヤー・ナンダンガリー塔︶︑ アンドラでは柱壁の間の塑造物また
は
羽目板によって︑ガンダーラでは柱壁によって分離された壁寵中
の 彫刻によって︑荘厳された︵ローリヤン・タンガイ出⊥の小塔︶︒
以上の如く︑最初期の覆鉢状の塔は基礎・基壇・盤蓋に改良を加
えられて︑丈の高い装飾的な塔へと変形した︒
三 僧 院
(ぐihara︶
① 初期の僧院
勧 田 最初期の僧院としては︑ラージャグリハ︵王gukl︶ S VeluvanErgma
(竹 林園︶とJlvakitraina︐ヴ一ノイシャーリ︵毘舎離城︶の﹀目き3︶巴ぞ巴奉︑
40 パータリプトラ︵華氏城︶の﹈︿巳∧︸ε品日日2カウシャーンビー︵拘膝 姻 >niithapiodikassa Ar;ama ︵砥樹:tEFk独園︑砥園精舎︶︑ カピラヴァスト I oo 弥城︶の9さ巴日品=峯︑シラーヴァスティー︵舎衛城︶の﹈o夢≦巳言
ウ
(迦毘羅城︶の2品﹁^三声田笥己讐などが知られる︒しかし︑これらの 大 部 分 は 木
や竹のような腐敗しやすい脆い構造であったので︑その
ほとんどが廃嘘となるか︑後期の大きなプラン中に組み込まれて修
復され︑その原型を推定することに困難である..しかし︑ラージギ
インドにおける仏教伽藍の形成︵塚本︶ ール︵Rit jgii︐王舎城︶のジーヴァカ園︵﹂プ︑akiunrax︐atia︶ g考古学的発
掘は︑現存する最古の僧院フラン︵挿図三︶を明らかにした︒出土の 赤 色 土 器 から︑その第一期は仏陀時代またはその直後の建造になる
と推定された︒僧院は四棟の長楕円形の建造物から構成され︑房室
に用いられたものの如くである︒中でも︑その主要部分は三方に壁
をめぐらし︑長楕円形の建造物を左右に配列し︑その中間は中庭と
なっている︒
マウルヤ時代またはそれ以前に湖る僧院で︑そのプランを明らか
にしうる追蹟は︑右のジーヴァカ園以外には現在まで発見されてい
ない︒例えば︑カウシャーンビーのゴーシタ園︵挿図四︶は︑前六世
紀 から後六世紀に至る建築活動の一六の継続的な位相を示している
が︑初期のプランは明らかでない︒従って︑われわれが知りうる石
積または煉瓦積された野外の僧院遺構は︑前一世紀後半より以降の
時代に属する.︑これに対して︑窟院は大部分が掘整当時の形態を現 在 に
伝えているので︑次のシュンガ時代または初期アンドラ時代
(前 二 世 紀ー後一世紀︶以降の僧院プランの発達過程を︑系統的に跡づけ
ることができる︒
② 居 住 窟 の発達 仏 教
の出家者が洞窟を居庄の目的で使用することは︑すでに仏陀
時代ににじめられたものの如く︑初期の伝承にIndraいa.ila︐guhrt ︵︷E
四七
法華文化研究︵創刊号︶
釈 窟 ご
⊃冷三︶︷︹壱s三〇品zプ劉︵ヒ葉窟ご勺一三さ一二罪二吉劉︵田叩波羅二︑この名が知ら れ て いる︒しかし︑これらの窟院は自然の洞窟またはこれに多.少の 人
工を加えた簡素なものであった︒従って︑窟院としての人工的閉
馨 は マウルヤ時代のアシコ一ーカ王の治世にはじまるとみなされる︒
爾 来 几そ一千年にわたって︑窟院はビハ−ル︑オリッ+︑アンドラ︑
マ
⑬ ハーラーシュトラ︑サウラーシュトラの諸州で間馨を続行された︒
ディクシットの詞査によれば︑これらの石窟の総数は一二〇●を超
え︑その七五%が仏教に所属するという︑.そして︑ 1つの支提窟と
数箇の居住窟が一群となって形成されている︒
さて︑初期の仏教窟院における居住窟は︑単一またぱ数箇の房室
が 不
規則に配列されていた︒しかし︑前二世紀には小規模の標準的
なプランが成立していた︒すなわち︑長方形または方形の広間︵ハ已コ︶
の 入口を除く三面に︑小さな房室を配置したものであろ..アジャン
ター︵.XjfLntfi︶第十五窟A︵挿図九︶は︑方形の小さな広間の二.面に︑
一箇
ず つ の房室を開盤し︑各房室にば寝台の用に供すろ岩盤が残さ れていろ︒ナ−・N. −x ︵N:lsik︶第十九窟︵挿因六︶は︑一辺ふNベコ﹀の方形 の 広 間 の 三 面 に
二箇ずつの房室を配置し︑小規模のチャイトヤ型の
アーチが各房室の入口の上にあり︑これらのアーチは構造的な同干
(<
c︵三〇︶を模して掘馨されている.︑また︑二つの格子造りの窓ンニ
つ の 入
口が︑二本の柱をもつ狭い正面廊へ開かれていろ︒バ−−ジャ
ー︵一芸ど笥︶第十九窟︵挿図七︶は︑ 一辺〇一︒︒三の方形の広間の二面に︑
四 八 二箇ずつの.房室を配し︑正面廊の右時二に♪︒こ.つに一㌦冤を設けているo
房室の入口には︑ナーシク第十九口と同様に川干を伴った小さなチ
ャイトヤ型のアーチをもち︑装節はチャイトヤの正面構造を模して 掘 馨されている..壁柱は線を画した鐘状の柱頭︑逆ビラt・・ッド階段
状のかむり板と小像を冠している︑また︑アジャンタi第十二窟
(挿図八︶は︑方形の広間の三面に︑ 四箇すつの房室を配した単純・な
プランであり︑正面廊はない.︒
べードサー︵Bedsfi︶窟︵挿図九︶は︑前方後円の広間の壁面に十1
箇の房室を掘馨している.︑広間はO°75x5°﹄O∋あり︑天井は初期の
前 方後円形支提窟の身廊と同様に︑筒状の九天井をなしている︒正 面 は 現 在 は完土な崩壊の状態にあって︑康型を推定しえない︒
初期︵前二ー後二世紀︶の居住奮には︑後期︵.二世紀以降︶の﹇店住窟の特
徴ある様式をなす二要素が︑た駆的た︑形で導人されていろのを指摘
しうる︑第一の要素は列柱でA:?っ/︑コーンダーネー︵﹁∧三三言っ︶第
二窟へ挿図一﹁︑︶では︑方形の広間の一.一面に沿って︑十五本の石柱の
脚部を残している..列柱は房室の入口のある壁から凡そ一メートル はり
の 場 所 に位置し︑平天井ゆ︑巳明らかに木造建築の模倣で︑大きな梁は
ぶニつ ンず
天 井をかけ︑その主問はより小さな垂木ごよって区分される︒ピタ ル
コーラー︵一.一︷^F=二三3︶第四窟も同薩のプランで開馨されているが︑
房室の天井は︑他の窟院のように平天井でなくしてアーチをなして
いる︒次に第二の要素は石柱をもった正而廊であってナ−シクの
第三窟︵挿図l四︶や第十窟︵wa図11︶にその代表的な例を見出すこと
て
が できる
居住窟の開整は︑三世紀以降も継続して行われたが︑しばらくは
特筆すべき展開はなかった︑しかし︑グプタ後期以後︵五ー八世紀︶に
居住窟が主として開馨されたが︑その理由として︑高田博士は︑仏 ⑭ 再び窟院の開墾が盛況を極めた︑この時期には支提窟が減少して︑
塔の崇拝に対して仏像崇拝が優位を占めたことを指摘している︒つ
まり居住窟が支提窟に代って伽藍的性格を帯びることになり︑その
ために建築的にはプランの整備︑木造的構造の要素が稀薄となり︑
全
体として柱・正面・内部の装飾に意匠をこらすようになったとい
う︒
五 世 紀
(または六世紀︶に開馨されたアジャンター第一窟︵挿図一
二︶は︑広間に列柱を設けて廻廊となし︑三面には房室を配してい
るが︑奥壁中央の房室は改造されて控え間となし︑その奥にさらに
祠
堂を閉馨して︑その中央に仏像を安置している︒広間の正面は二
つ の窓と三つの入口によって列柱のあろ正面廊に通じ︑その中央に
は 玄関を設けている.︑アウランガ︿ −ド ︵.Nurangal︑︹己︶第七窟︵挿図 一三︶は︑広間の中央に仏堂を配して︑その周囲を行道となし︑広間
の
三面に房室を開墜している︒また三つの入口によって列柱のある
正 窟挿図一四︶のように︑ 再掘によってフランを拡大した例Nuあるが︑ 6 面廊に通じている︐また︑屠巨窟の発達に伴って︑ナーシク第三
インドにおける仏教伽藍の形成︵塚本︶
アジャンター第六窟は二階︑エローラー︵ElloriL︶の第十一窟と第十 二 窟 は
三階の構造となっている︒
以 上 の 方 形
プランからかなり変化した居住窟の例を挙げることが
できる︒ジrlンナル︵jUTIIIELI︶のレーヌヤドAr ︵Lcnyadri︶丘には︑
相互に連絡した房室の連続からなるいくつかの居住窟︵挿図一五︶を
見出す︒そして︑このあるものは房室の列の上に列を含むようにし
て共同寝室となっている.︑またジュンナルのマンエ︑ーディ︵三智=︐
modi︶丘のビーマ・シャンカル︵ヨる三宕つ力hankai︐︶窟︵挿図=ハ︶は︑
列 柱
のある正面廊から︑三箇の房室へ︑それぞれの入口を通して導
か
れる︒これはナーシク第三窟の原形プランを推測する手掛りを与
て むえるものである
③後期の僧院
地 上 に建造された僧院では︑時代の経過とともに︑高い壁によっ
て囲まれた二階またはそれ以上の階層をもつ構造が流行するように
なった︒これは︑中央の中庭を囲んで房室をもつ方形プランで︑開
放的な中庭は︑時には列柱に囲まれた広間︵ヨ︹ご喜〆巳ρ︶を配置する例
(ナ
−ガールジュナコーンダハ挿図二﹀︶もあるが︑またナーランダー
の僧院︵挿図一七︶は︑中庭の周囲に列柱を置いて廻廊となし︑さら
にその外側に房室の列を配し︑房室それぞれには壁寵が作られてい
る︒そして︑正面の門に面した房室の一つを祠堂となしている︐僧
四九
法華文化研究︵創刊号︶
院 の
入口には二つの突き出た塔門状の構ごを採用して正面玄関とな
し︑その奥に後部玄関を配している.︑中庭の一隈には井戸を掘繋し︑
覆蔽された排水溝が廻廊と房室の下を外壁の外へ通じている︒
タクシラのジャウリアン︵Jaulii︐ n︶僧院︵挿図↓八︶も同様の構造で
あるが︑廻廊には列柱はなく︑中庭の一隈に浴室を設けている︒周
囲に配置された房室にはそれぞれ壁寵があり︑房室の一部および階
段 に は 窓 が
つけられている︒さらに僧院の付帯施設として︑会堂・
食堂・台所・貯蔵室・流し場・便所が設けられている︒かようにし
て後期の僧院プランは︑多数の修道僧の団体生活に必要な施設を整
備すると同時に︑個人の私生活を守り︑瞑想に適せしめた︒また︑
房室によって太陽熱や雨を遮蔽する反面︑開放された中庭によって
光と風を与えることができた︒パハプル︵Tahapur︶のソーマプラ・
マ ハーヴィハーラ︵f om ipu ra−ma.11ヲ・三田日︶はN切O∋四方あり︑方形プ
ランの僧院としては最大のものである︒
四 rL︷of ︵Ccaitya−grha︶
① 祠堂の発生と展開
祠堂︵tN提堂︶はプランの形式によって︑ω円形︑②前方後円形︑
③ 方 形 の 三 種 に分類される︒
まず円形プラン祠堂として︑バイラート︵IWぷzirrlt︶のビージャク・
キー・パハーIK k − ︵Bijalc−ki−pahftdi︶丘で発掘された遺構︵挿図l九︶ 刻 ーカ石柱︑↓︑ウルヤ期の技呈にょって磨かれた石の傘蓋の断片︑銘 を挙げろことができる︑︑ここで発/1されたチrtナ−ル砂岩のアショ 五〇
された煉瓦によって︑この祠堂の建立はアショーカに帰せられて
いる︒円形構造は内部で︒︒﹄︒︒∋あり︑多分二十七の八角形の木柱と 互 い 違 い に 煉
瓦積みの羽目板で作られた壁がある︒その周囲には円
形 の 廻廊があって︑円形の外壁によって囲まれており︵幅N・い︒一ヨ︶︑
内陣の入口は廻廊へ突出して広くなっている︒円形の外壁は︑後に
さらに長方形の壁によって囲まれたが︑入口の外側の広問は集会に
用いられたものの如くである︒発掘者によれば︑屋根はタイルで覆
われ︑廻廊の傾斜した屋根は1端は外壁に︑他端は石柱上の台輪
に の せられていたという︒
次 に 前
方後円形プランによる祠堂の原初的な例として︑サーンチ
−の第四十祠堂︵挿図二二を指摘することができる︒ これは石造の
柱脚の上に建立され︑二基の階段によって近づくことができる︒前
方後円形の内壁と︑内壁が前方後円形で外側が長方形をした外壁の
基 礎 の みを残して︑他のすべての部分を焼失したが︑シrtンガ期に
注脚の上に柱のある広間が建立された︒
シ ルカップ︵Sirkap︶の前方後円形寺院二世祀︑挿図二〇︶において
は︑円形の内陣と長方形の身廊の間には隔呈が保存され︑正面の玄
関から内陣と身廊の周囲に56ずる側廊が設けられ︑側廊の外壁には
多分窓があけられた︒ナ−ガールジュナコーング︵挿図二︶では︑祠
堂 は 前
方後円形または長方形の基壇の上に建立され︑外壁は正面の
隈 にある凹形のくぼみを除けば︑平らで石膏で覆われている︒床は 石または煉瓦で舗装されるか︑打ち口められた煉瓦の砂利のコンク
リートから成り立っていて︑後陣には塔または仏像が安置されてい
る︒しかし︑これらの祠堂のいずれも上部構造を残さない︒
バラモンの神を奉祀するテール︵↓︒ニジ烹戸一︑胃ぽ↑﹃智の○︒︒白︑日︑pピ註 地方︶とチェージェー−.ts Trx ︵Cheje.rla; .Andhra Praclefli o CTuntur地方︶
の 祠
堂は︑祠堂の上部構造についての推定を与えしめる︒すなわち︑
前
方後円プランの祠堂は︑丸屋根を︸1︑ち︑背後は半円で︑入口の上
の アーチ型モティーフと︑垂直の壁と曲線の屋根の接合点に︑三つ
一組
の
繰り形を伴った切妻のある正面廊を有している︒チェージェ
ーラ祠堂では平天非を︑テール祠堂では丸天井が用いられている︒
次に方形プランの祠堂の例として︑サ−ンチーの第十八祠堂︵挿図
一二︶を挙げることができる︒ これはシrlンガ期の前方後円形身廊 の 基 礎 上 に建立されている︒七世紀に基礎の上に壁によって背後と
両側を囲んだ後陣が建造され︑身廊には両側と前面に列柱を設け︑
側廊は壁によって囲まれ正面廊の玄関または後部の室へは階段に
よって近づくことができる︒この祠堂内では︑後陣の床が一段と高 だきくなっており︑十−十1世紀に豊富に彫られた扉の抱が付加せられ
ている︒
インドにおける仏教伽藍の形成︵塚本︶
② 支 提 窟
の原型と発展
ビ ハール州のバラーバル︵コρ﹁巳︶︹二︐︶丘にはアショーカによって 近くのA r−ガ!ルジrl二︵zコ芸ユニ三︶丘には彼の孫ダシャラタによ
って︑邪命外道に計七箇の窟院が寄進されて現存している︒これら
は開塞年代の明らかな最古の窟院であるが︑バラーバル丘のスダー マー︵︒cF己p己勾︶窟とローマサ・リ rN. ︵LOM﹇Sa Rishi︶窟︵挿図二二︶と
は︑仏教支提窟の原型とみるべき要素を含んでいる︒窟院プランは︑
長方形の前室と円形の奥室を連結したもので︑前室の側面にある入
口から通ずろことができ︑岩の表面に並行して開墾されている︒ス
ダーマー窟の入口は無装飾であるが︑ローマサリシ窟の入口には チ
ャイトヤ型アーチを刻み︑西インドの仏教窟院にみられるチャイ
トヤ型窓の原型とみなされる︒
これは木造祠堂の切妻正面を忠実に模写したもので︑木造建築を
石 窟 に
再現する手法は室内の掘墾にもみられる︒内壁や天井はマウ
ル ヤ
時代の特色を表わす磨きがかけられている︒スダーマー窟では︑
奥室の屋根が藁葺の構造を模して前室内に突き出し︑その外壁には
浅い線が描かれ︑木造の張り板の模写を推定せしめる︒またナ−
ガ:ルジrl二の一窟では︑前室と奥室の間の隔壁を取り除いたプラ
ンをもち︑仏教の前方後円形祠堂の先駆的形態をとどめている︒
さて︑仏教窟院にみられる最初期の支提窟は︑コーンディヴテー
(I〈
ondivte︶とグントゥパッリ︵9三↑三邑三にみられるが︑それは岩
五一
法華文化研究︵創刊号︶
の 表 面 に
垂直に開馨され︑長方形の前室と円形の奥室を連結し︑奥
室 に は 仏
塔を安置したプランである︒これらは前述のスダーマー窟
にもっとも近似している.︑しかし︑ コ:ンディヴテー窟︵挿図二三︶
はドーム型の天井をもつ奥室と︑平天井をもつ前室を結合している
が︑グントゥパッリ窟︵挿図l 1 ge︶はドーム型の天井に︑木材と竹材
の 骨
組を模倣して掘墾した緯と経の垂木の網状組織をもち︑前面に
ヤ ヘ ヤ
狭 い 正
面廊または玄関を伴って張り出したひさしを有している︒玄
関には広い入口とチャイトヤ型のアーチを掘盤している︒次に︑ジ
ュ ン ナ ル のトゥルジャ︵﹃﹇三を窟︵挿図二五︶は円形の支提窟で︑直径 は 凡そ○・忘∋あり︑その周囲に十二本の八角形の柱があり︑その周 囲 は
廻廊となっている︒支提窟の正面は完全に崩壊していン\その
原型を推定しえない︒仏塔上の天井はドーム型をなし︑廻廊の半分
アーチをなした天非がそれに付.随し︑環状の列柱は僅かに内部へ傾 斜し/︑いる︒
前 方後円形プランの支提窟の最古の形態は︑バージャー窟︵挿図二
六︶に見出されるoこの窟の大きさは凡そ17・98 × 8・23mで︑列柱に
よって身廊と側廊が区分され︑半円形の後陣に仏塔が安置されてい
ろ︑正面のチャイー︑二︑型ア:チの下記二︑現在ゴ完全に露天となっ
ている.︑これは本来は内三︸へのフハロを・三つホ︐.コの隔壁があった・こ・の
と推定され︑アーチの正面にあけられた多くの小こい穴がそれを確
証する︒身廊の丸天井は︑その起原となる木造のリブを保存し︑側
五二 廊 の 天 井 は 半 分
アーチとなっている︒柱は八角形で木造建築を模写
して掘馨されたことを示している︒これと同時代で同じプラン形
式をもつ支提窟として︑コーンダーネーge︵ ︵20.12 ×8・23m︶︑ピタル
コ e︳ラーの第三窟と第八窟︑アジャンター第十窟︵挿図二七︶がある
が︑アジャンターのそれは︑この時期uN大で 28.96 × 12・50mある︒
次 の 重
要な発達の要素をもつ支提窟として︑アジャンター第九窟
(挿図二八︶を挙げることができる︒これは13・72×7.01m Q長方形の 窟 であるが︑内部は前力後円形プランに従い︑列柱によって身廊と 平 天
井をもつ側廊を区分し︑後陣に仏塔を安置している︒正面は完
全に石造であり︑1つの入口と二つの窓があけられている︒正面に
は 小
規模のアHチ︑欄干︑階段のある凸催の列を彫刻している︒次
に︑ナーシク第十八窟︵挿図lI九︶は前方後円形の窟でΦぺm×べ・O﹂∋の
大きさがある.︑他の形式はアジャンタr第九窟と同様であるが︑側 廊 は 半 分
アーチの天井をもち︑列柱は階段状の礎石におかれた壷
(ghata︶状の基礎をもっている︒左の側廊に沿う柱は柱頭をもたな
いが︑右のそれは幅の狭い矩形のブロックをもっている︒︐Jの不均
衡ゆ︑t︑窟の開塞が時期的に二種の段階を経たことを示している.︑こ
9/らと同じ時期に属するご︒のとしてジュンナルのブッド・レーナ
ニ﹈三三﹁・︵︑三F︶窟ハン﹂︑アウランガパード榊弟四窟があろ.
次 に ベードサー窟︵挿図三〇︶mo 13.72×6°40m Q前方後円形一フラン
で︑窟の内部よりも広い正面廊を設け︑1I本の柱がある︒一つの入
口と二つの格子窓が開けられている..また正而廊の両側にそれぞれ 二 箇 の 房 室
がある︒側廊は半分アーチの天井で︑列柱は基礎も柱頭
もない八角形である︒正面廊の柱は7°019︼ゴに已し︑優雅な柱身が階
段状の礎石におかれた壷状の胆礎ヒに立ち︑鐘状の柱頭の上に逆ピ
ラミッド階段状のかむり板をのせ︑その上に馬・象・牛と乗者の彫
刻を冠している︒カ−ルラー︵﹂ρヨ︐言︶窟︵挿図三一︶はべードサ−窟の
プランを精巧にしたもので︑石の隔壁が正面廊を取り囲んでいる︒
窟はこの時期最大のもので 37︒0 × 13°72mあ=︑丸天井は身廊上一合
02m g高さに位置し︑木造のリブを模した彫刻を残している︒側廊
は 平 天 井
であり︑柱は十分な発達を示している.レーヌヤドリ第六
窟︵挿図三二︶は︑カールラーと同時代または少し後で︑前方後円形の
窟に少し狭い正面廊を付している︒正面廊の外側の壁の正面には︑
欄 干と盲のチャイトヤ窓を付している︑一アーチはここではその機能
的目的を失い︑単なる伝統的なモティーフとなっている.︑側廊は半
分
アーチをなした天井をもち︑カールラーよりも初期の掘嚢である
の に
対して︑正面廊と内部の柱に発迂の第三相に属する転倒した鐘
状の柱頭を有する︒
カンへー=H. ︵Kai.rheri︶ ︷X ︵tit図lll三︶は︑前方後円形のプランで︑列
柱によって身廊と側廊を区分して後陣に仏塔を安置する︒柱は正
面 にも二本おかれ︑三つの入口を・ご︑つ隔壁によって正而廊を区別す
る︒またさらに︑1つの入口と二つの窓をもつ隔壁によってより広
インドにおける仏教伽藍の形成︵塚本︶
い中庭を設け︑一つの入口をもつ正面が設けられている︒前方後円
形支提窟の最後のプランは︑几そ七世紀に開塞されたエローラー第
十窟︵挿図三四︶に見ることができる︑列柱によって身廊と廻廊を区 分し︑三つの入口をもつ隔壁によって正面廊に通じている︒身廊の
後陣には仏塔と仏像を安置する︒正面廊は︑ 一段低くなった中庭を
三 面 で囲み︑正面廊と中庭の境界には列柱を配している.一また正面 廊
から両側にそれぞれ四箇の房室を開墾している︒
方 形 プランの支提窟として︑ジュンナルのシヴネーxts ︵Shiくner︶
第四十八窟︵挿図三五︶がある︒大きさはOムO×①μ05で︑二本の柱と
I1
本 の 半 柱
によって身廊から区別された玄関があり︑身廊の後陣に
仏
塔を安置している︒窟内は平天井をもち︑柱には転倒した壷状柱
頭を冠している︒クダー︵Kudt−t︶第六窟︵挿図三六︶はt 8.84M四方の 正 方 形 の 広間と︑それへ通ずる正面廊があり︑その奥の支提堂へ導
く玄関がある︒支提堂は凡そ㊦μO×ふ零ヨの長方形で︑上の平らな
盤
蓋をもつ仏塔を安置している︑
ω ﹀° CunniTigltan︸: fhe Bhlt.sa 1oPes︐ ︸v Batttt︷.hist. AlミmミミeこIs ef
ctここミ\ミlia︐ London 1854.
②
J°Bξgess: Report unthe Anti^Fuitiesこ二く官三らξ貸竺︶︹=︿achh︐
」ミミミ・覧ミ琉三︑5 \二es︑こn Jミdi・eII︐ l.ondun 1876; Report
on the Anti︵luitics inthe B三三ρ︼三>urallgiFbiL︷=︶ひけ口戸.ひ﹂ゾニ︑\・
II I
, London 1878; 1︿eport of the BLiddhist Cavc 1einples and rhcir
五三