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カシミール・シヴァ派における
神秘体験の諸方法
戸 田
裕 久
はじめに
ヒンドウー教は、ヴェーダ、叙事詩、プラーナに見られ、また現に民衆の問で時代を越えて 尊び親しまれつづけている多くの神々を崇拝する多神教であるとされる.周知のように、シヴァ 教やヴfシュヌ教といった主要なヒンドゥー教派は中世期に、その神話的思想を神学的理論へ
と高めた その過程において、それらはサーンキヤ学派やヴェーダーンタ学派といった正統哲 学諸派の影響を受けていたと思われる シヴァもしくはヴィシュヌを最高神と見なす一神教的 体系が、ヒンドゥー教においても構築されていた ただし一神教的教派であっても、多くの神々
を最高神の現れとして崇拝することに寛容な傾向があり、また、一般民衆に尊卍されている神 話や呪術的伝承を排除することはない それはより多くの人々を自らの教派に導き入れるため である これはひとりヒンドゥー教に顕著な特徴というわけではなく、世界中に広まった世界 宗教のいずれにも見られる傾向である もしもある教派が一一神教的な教条に固執して民間信仰 に不寛容であったならば、その場合にはおそらく一般民衆を惹きつけることは難しいであろう そうして、その教派はもっぱら宗教エリートのみを対象としたものになってしまうことであろ う、たとえば、本稿で扱われることになるトリカ派tTrika)、いわゆるカシミール・シヴァ派
〔Kashlnir Saix ism )が、そうであった.
筆者には一つの疑問がある一トリカ派の伝統は今日まで命脈を保つことがなかったのに、シャ イヴァシッダーンタ派( Saivasiddha nta .)がシヴァ教諸派のうちで主流派の地位をri〒めている のは何故であろうか、と一両派は共にシヴァ派諸聖典(シャイヴァ・アーガマSaivagama、も しくはタントラTantra .iを重んじ、それに基づいて理論体系を築いた しかしながら、周知の ト 通り、トリカ派は一元論的〔不二論的1神学を提唱し、シャイヴァシッダーンタ派は二元論的 神学を主張した=そうして歴史的事実として、前者は消失し後者は繁栄している.このような 両派の運命を決定づけた要因は・ 体何だったのだろうか,
本稿ではトリカ派すなわちいわゆるカシミール・シヴァ派の体系における救済(mok$a, mukti.
に至る方法に関する見解が扱われる、それを二元論的シヴァ派すなわちシャイヴァシッダーン タ派の見解と対照して見てゆくことにしよう、
20 法華文化研究(第41号]
二元論的シヴァ派における思想と実践の概要
シャイヴァシッダーンタ派は伝統的に二元論者(dvaita)と呼ばれているが、正しくは多元 論者と称されるべきである,.この派は複数の原理(tattvani)を立て、不一不二論(dvaitad−
vaita)、あるいは多様性中の同一性〔bhedabheda)という理論を主張する傾向があるからであ る,シャイヴァシッダーンタ派の体系においては、二階層の原理あるいは実{E範疇が設定され ている,すなわち、本源的な三原理(,rattva−traya)と副次的な三i 六原理tSattrilpSat−tattvani .]
とである,
三原理とは、主(patDと家畜c.paS;u)と束縛(paSa)である これらはそれぞれ、最高神 シヴァ(para Siva, parama Siva)、個我(anu、 atman .)、および、個我を物質世界に束縛させる 諸原因または諸条件を指している,これらは個々に独立して実在するものである一個我は、微 細な生得的な汚れ(. anava mala)、業(kanman)、不浄な世界の質料因{maya!といった束縛 要因によって束縛されており、その結果、個我は物質的な肉体を取り、その能力を制限される
エコ
に至る,肉体を取った個我に付着している汚れtl niala 1)を熟させるために、すなわち消費する
(paripaka)ために、個我は幾度も繰り返し物質世界に生まれて、宗教的実践と義務を果たさな しけ
ければならない、物質的なもののみが物質的なものを打ち消すことができるからである シヴァ 神は衆生に汚れを消費させる機会を与えるために、苦難に満ちた物質世界を創造しているので ある、とも説かれている、
ご
シヴァ教のほとんどの教派が、サーンキヤ学派(Samkhya.)における.:十五原理を含む三十
くい
六原理を掲げている・、しかしそれは、シヴァ教徒がサーンキヤの思想を無批判に受け容れてい るということを示しているわけではない、二十五原理の上に創造主たる主宰神を最高原理とし て加えているヨーガ学派に対して、シヴァ教徒が好意的であることは示1唆に富む、シヴァ教徒 はサーンキヤ学派の諸原理の枠組みを包摂した上で、その二十五原理に十一の原理を加えるこ いりとにより、その機械論的あるいは無神論的な二元論を超克しようと試みているのである,シヴァ 教徒は、プルシャ〔puru§a)の上に、十一の原理すなわちSiva−tattva. Sakti−tattva. sadaSiva、
ごヨ
iSvara, Suddhavidya, maya,および5つのkahcuka(kala, niyati, kala, vidya, raga!を設定して いる.この「プルシャ」は、サーンキヤの体系における術語のように、物質世界とは無縁の独 エヘノ
立自存の「純粋精神」を意味するのではない。シヴァ教の三十六原理中のプルシャは、現象世 界に住する単なる「個我」を意味している、
シャイヴァシッダーンタ派によれば、個我(puru$a.)は、マーヤー(maya)と呼ばれる質料 因(upadana)から生じた5つの限定要因(karicuka)による限定を被る一方、プラクリティ
(prakrti)から5元素(pafica−bhtitani)までの二十五原理の転変〔pari口ama)により成る現象
くしり
世界に束縛されている一それゆえ、マーヤーから展開せられた三1 一の原理は、不浄の道もし
カシミール・シヴァ派における神秘体験の諸方法1戸田)
くは不浄の領域(aSuddhadhvan)に属すると言われる。それらとは対照的に、残りの十一の原 理は、清浄の道もしくは清浄の領域(Suddhadhvan)に属するのであり、そこではビンドゥ
(bindu)と名づけられマハーマーヤー(mahamaya)等とも呼ばれる第一原因の神的な状態変 化が起こっている:この変化の最初の段階において、その核となるビンドゥは、最高神シヴァロゆ
がそうであるのと同様に、全ての潜在能力を保持しつつ寂静の中に休息している.それゆえ、
第一の原理はシヴァ・タットヴァ(Siva−tattva)と名づけられているのであるが、ただしそれ ぽいはシヴァ神自身を指すのではない,最高神シヴァは不変であり、他の全ての原理とは切り離さ
れた存在なのである一核となるもの(ビンドゥ)がシヴァに働きかけられると、ビンドゥは神 的な力の発揮される度合いに応じて、Sakti−tattva. sadaSiva、 ISvara, Suddhavidvaというように 変化してゆく 神的な力とは、認識の力( jfianaSakti)、行為の力(kriya6akti)、意志の力 licchaSaktDであり、それらが全能性csarvarthakartrtva)と全知性「sarvajnatva}をもたら
パゴ
すのである.このようにして、シャイヴァシッダーンタ派の体系における三一ト六原理は、不浄
{aSuddha)と清浄(Suddha)という二つの領域に分けられる、さらに、それら三十六原理の全 ては、主(pati)たる最高神シヴァとは切り離された束縛(paSa}の範疇に属している かく
してそこには二重の断絶、すなわち三卜六原理の内部と外部に不連続が起こっている.
三十六原理の理論は、宇宙生成論を説くために用いられるのみならず、宗教的実践の階梯の 一つとしても用いられる=宗教的実践とは、例えば、ヨーガの実修、タントラ的秘儀、H常的 崇拝儀礼である.ヨーガ行者はシヴァの状態に近づこうとして、三十六原理を順次に瞑想対象
として用いる シヴァ教寺院において執り行われる入信の儀式として、師匠は象徴的同化 ll/yasa)の儀礼を営む.師匠は弟子の身体の各部位に触れながら、それらの各部位と三十六原 りけ理の各々とを象徴的に同定する、相応の呪詞(mantra)を一つ一つ唱えてゆく ただし厳密に
は、このような宗教的実践を行なっている者は誰も最高の境地に到達することはほとんどあり えないと言わざるをえない.なぜならば、不浄な諸原理と清浄な諸原理との間に断絶があるか らである、もしも万が一、実践者が最高の境地すなわちシヴァ・タットヴァCSiva−tattva)に 到達しえたとしても、その人はシヴァ神自身になれるわけではなく、シヴァ神と同様の者にな ることができたに過ぎないのである,たとえその人が、あたかも自分がシヴァ神に近づいたか のように思ったとしても、個人と神との問には絶対的な差異がある。これこそが、この派が二 元論的シヴァ教と呼ばれる所以である,
人が自力で自らを救済(mok$a, mukti)へと至らしめることはきわめて困難であるので、神 への信仰に専心することが必要になる一その神シヴァは、自らの創造した者たちを惨禍から救 い出すに足る慈悲深さを具えた者である。実際の宗教の在り方としては、師匠(acarya guru)
はシヴァ神の代理人を務めて、将来の救済を弟子に約束する秘儀的な儀礼を執り行う、新入門 者あるいは一般信徒は、B常的な神への崇拝儀礼(paja)、およびその教派への入信式cdlk§a)
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己三華文イヒ{ilf, . 第41号・けい
のための準備としての浄化儀礼を行なわねばならない.これらの宗教的実践は伝統的な手法や 民間信仰と相容れないものではない,シャイヴァシッダーンタ派の信者たちにとって、日常的 崇拝儀礼といった宗教的行為を行なうことは重要な意義をもつ なぜならば、そのような物理 的行為は、個我にf寸着した物質的な汚れCmala)を消費することに対して効果的に働くからで
いり
ある・ただし、宗教的行為が師匠の能力の高さや師匠に対する弟子または信徒の帰依の熱心さ を前提要件とするのは言うまでもない.
一般民衆は、清浄な神の領域とは懸け離れた不浄な物質匿界に暮らしている・しかしながら、
もしも彼らが熱烈にシヴァ神に祈りを捧げ、日々の生活の中で厳粛に崇拝儀礼を行なったなら ば、彼らも清浄なるものに近づきうる、そしてそのとき、シ・ブァ神は、彼らの帰依(bhaktD に報いて彼らに恩寵(,anugraha)を授け、神に向かって続く階梯をさらに、Eへと登ろうとして いる彼らに手を貸すのである、いやあるいは、神が彼らに恩寵の力を差し向けている(Saktipata)
ゆバゆえに人々は神を信じ始めるという、予定説に倣った解釈をした方が妥当かもしれない,救済 に至る門は、貧富の差や社会的地位や階級にかかわらず、あらゆる人々にむかって開放されて いる、至福を得るために第一に必要とされるものは、信仰、敬度な信1叩である このような考 え方は多くの人々に理解され易いものであろう,加えて、シャイヴァシッダーンタ派における 宗教的実践の方法は、公序良俗または常識に反するほどに異常なものではない その方法はむ
しろ穏健であり、為政者や支配体制が歓迎するような倫理や道徳を奨1励しているほどである 歴史的事実として、シャイヴァシッダーンタ派の教団は、幾つかの王家、すなわち、カラチュ
リ王朝、チャールキヤ王朝、チョーラ工朝などの庇護のト に発展を遂げた・それらの王たちは、
シャイヴァシッダーンタ派の教師を王家の顧問として重用したり、また寺院や僧院といった宗 教施設の建設を支援するなどした その僧院は公益性のある慈善活動の拠点としての役割を果 たしていたらしく、そこでは弱者や貧窮者の世話などがなされていた 神学的な功績がすぐれ た効果を上げたのと相侯って、このような宗教社会学119な環境がシャイヴァシッダーンタ派に 長きにわたる成功をもたらしたのである
一元論的シヴァ派の思想と実践
つ
トリカ派、いわゆるカシミール・シヴァ派は、7シヴァ・スートデ1S〆zYlsれγめを啓示した 伝説上の始祖ヴァスグプタ〔Vasugupta 800−850イド頃1によって創唱された 彼の教えを引き 継いだバッタ・カツラタ(Bhapta Kllata 825−875年頃1やソーマーナンダ〔Somananda 875一 いノト
925年頃)等は、不ニー元論的ladvaita, advaya)神学体系の構築を試みた.彼らはシヴァ教聖 典群cSaivagama)に基づく種々の理論を比較、検討し、総合した.そのような試みの成果の
一
つが、アビナヴァグプタ(Abhinavagupta 950−1020年頃)の著わしたiタントラーローカ)」tTa〃tralo々a)である:tこの書は様々な伝承や理論に言及しつつ、それらの統合を試みる、シ
カシミール・シヴ〒派における神秘体験の諸方法.戸田1
ヴァ教の思想と実践に関する百科全書的な著作である、トリカ派という名称は字義的には「三 つの部分から成るもの」を意味する語(trika)に由来するわけであるが、トリカ派はアーガマ
(Agama聖Pt 1)、スパンダ(Spanda)、プラティヤビジュニャー(Pratyabhijfia}という三つの リパ体系から構成されている.アーガマ(聖典の伝承は、最も権威あるシヴァ教の根本として尊 にい
重されるべきものである.スパンダの体系は、神秘的なヨーガの実践に新たな方法論を提起す ることを目指している、その方法論はパタンジャリ(Patanjali}に帰される正統的なヨーガと は異なるものである,.プラティヤビジュニャー晒認識)の体系は、見かけ上は宗教のあらゆ る面を包括するものであるように見えるが、実際には主知主義に向かう傾向が強い(後述1、
トリカ派が一元論的シヴァ派と見なされる理由は一体何か、その第一の理由はおそらく、個々 の存在は最高神シヴァと本質的に同一である、あるいは、個々の者はシヴァ神に等しい、とい
う教条を掲げる点であろう.トリカ派を含む一元論的シヴァ派によれば、個我はシヴァ神と同 一の本質(svarUpa)および能力(Sakti)を有するという,しかし、神のもつ隠蔽の力〔tiro−
dhana−Sakti .)によって、個我はその真理に気づいていないだけである、個我の本質に対する無 知Cajriana.)こそが束縛の原因あるいは束縛されているという状態なのである.無知すなわち
(.)
不完全な知(apUrna jhaI/a〕は象徴的に「汚れ」lmala)と呼ばれることがあるが、それは決し しいて物質的な物ではない.無知は二つのタイプに分けられる.個人的もしくは体験に関わる無知
〔pauruSa ajnal/a・、および知性に関わる無知cbauddha ajfiana ]との二つである、前者は宗教 的行為すなわち入信儀礼i diksa 〉などを遂行することによって減少しうる一後者は正当な〔す にいなわち一元論的シヴァ派の)聖典や論典を学習することによって減少しうる 無知が覚知へと 転じたとき、束縛は解放へと転ずる 個我の本質を覚知するとは、神性を白己認識すること
i. pratyabhijiia )である.
にい誰もが神性を有することが高らかに宣言されているとはいえ、個々のノ\の間に神性を体験し うる素質に違いがあるという事実に私たちは直面せられるであろう・そのような場合に備えて
トリカ派は、個々人の性向、能力、意志に応じて、神秘体験のための方法もしくは階梯を複数 用意していた.それはすなわち以下に述べる、三ないし四種の手段(upaya方便〕、および六種 の階梯(adhvan)である.
アビナヴァグプタは「タントラーローカニ第1〜5章において、ヨーガの実修によって得ら れる宗教体験をもたらしうる、四種の手段を挙げている.彼は:マーリニーヴでジャヨーソタ にほけラ・タントラ』⑭拓1〆〃1z刀の,θ rαM−ta〃tra)およびヴァスグプタの.シヴァスートラ」に言及さ
れていたE種の手段にanupayaという一種を加えている,111anupaya(字義的には「非手段」
を意味するノは、ヨーガの実修を経ることなく直ちに真実の在り方が体得せられる場合である、
しパたとえば、信頼に足る師匠からの啓発的な示唆によって頓悟する場合がそれである.anupaya じごヨ
はpratyabhijfiaに相当すると思われる,12はambhavopaya(シャンブSambhuすなわちシヴァ
23
24 法華文化研究1第41号1
の手段)とは、非概念的な直観による神秘体験の場合であり、そこではシヴァの意志(iccha)
エニミリの力が重要な要因であるとされている. 3)Saktopaya(シャクティSaktiの手段1とは、シヴァ いコ
教で行なわれているヨーガの六支のうち最上とされている、沈思探求Ctarka}による判断
(niScaya )を伴う瞑想修行c bhax−ana〕による概念(vikalpa}の修練〔saipskara)による自己 らり認識{:svatma−saipvitti)の場合である・「4〕anavopaya l微糸‖i者anuすなわち個我の手段1と
にコレ
は、ヨーガの実修による概念の修練による自己認識の、また別の場合のものである 統覚
(buddhi ,、生体活力〔prana}、肉体cdeha)、その他の外的対象Lbahya といった種々の対象
しノ
を用いた数々の方式がある、最後に挙げた、その他の外的対象には、マンダラ〔mapdala}、祭 壇、祭器、数珠、リンガdihga)、楽器、布、漆喰1もしくはフレスコ1画、偶像、身体などが
え パ
含まれている、これらの物品は、瞑想の対象としてのみならず、むしろ祭儀のための設備・用 具として用いられるべきものであろう
ヅに
六種の階梯($ad−adhx an .,とは、宗教的到達目標へと通じる六種の修行階梯である アビナ ヴァグプタによると、その六つは「表現するもの」と「表現されるもの」とに二分されうる一 前者は時間(kala}に関わる行為Ckriva}の範疇に属し、後者は空間〔deSa)に関わる形態
CmUI−ti)の範疇に属する・「表現するもの」の階梯は二通:)ある.すなわち、,1・i1『素{varI〕a・
ト ノ
の階梯、2・呪詞[.・ll/antra iの階梯、3)語構成単位cpada yの「1}『梯てある これらは最高神に より統べられている神性の階層を象徴的に表わしている 「表現されるもの一の階梯も三通りあ る,i4)形成作用[kala)の階梯、15.原理{tattva)あるいは宇宙を構成する諸範疇の階梯、
t6.世界の諸領域c, bhuvana 」の「皆梯である一これらは最高神から発する宇宙創成開展を表わし ている これら六種の階梯は、我々が神たることを体得する神秘体験を目指して行なう宗教的 実践を漸進的に高めてゆけるように、最高神と個我との問の媒介物を提供しているのである 換言すれば、六種の階梯は、宇宙創成論よりもむしろ、救済論において意義がある一
三十六原理( $attrinpSat−tatrvani )の階梯は、六種の階梯のうちで最も注「1すべきものであ る,というのも、それはヨーガ実修や入信儀礼といった宗教的実践の場で用いられる頻度が高 いからである、一元論的シヴァ派の説く三十六原理は、二元論的シヴァ派の説くそれと、原理 の数は同じであるし、各原理の名称も同様ではあるけれども、まったく別物である シャイヴァ シッダーンタ派の体系においては、シヴァ・タットヴァ(siva−tattva)は最高神シヴァ自身で はなく、核となるもの(ビンドゥbindu)の状態変化の一つにすぎない一トリカ派の体系にお いては、シヴァ・タットヴァはシヴァ神そのものにほかならない そのシヴァ神は、世界を自
らの中に内在させており、その世界におけるあらゆる現象をもたらす本源的な行為者であり究 極的な主体である.シャクティ・タットヴァ(Sakti−tattx a)とは、真の行為者としてのシヴァ いコの活動的な側面であり、シヴァと不可分一体のものである,/シャイヴァシッダーンタ派は、マー ヤー(maya)を不浄な領域(aSuddhadhvan)における開展の質料因(upadana)であると定義
カシミール・シヴ7派にお:ナる神秘.体.験の諸ノ∫法・li田
している・トリカ派は、マーヤーはシヴァの有する諸々の力(Sakti)の一つであり、真実の体
1、19
得を阻む隠蔽c tirodhana )の働きである、と主張する、上述したように、シャイヴァシッダー ンタ派によって提示された諸原理は、その仕組み・成り立ちの違いから、清浄な道筋と不浄な 道筋という二つの領域に分断されている.それに対して、トリカ派は、諸原理の間にはいかな る断絶もない、と考えている。一連の諸原理はシヴァの活動的な力L Sakti ]によりもたらされ るシヴァ日身の顕現{abhasa}なのである それゆえ、その三十六原理は、ヨーガの実修や秘 儀的儀礼などといった、階梯の順序正しさと構造の一貫性を要件としている宗教的実践に非常 に効果的である 解脱を口指している人が、トリカ派の教えに従って宗教的実践を行ない自ら を高めていった場合には、その人は到達目標に容易に近づきうるかもしれない 頂点すなわち シヴァの体得へと至る一連の階梯に断絶がないからである これはシャイヴァシッダーンタ派 の場合とは大いに異なる点である.
六種の階梯の原型は、おそらくアビナヴァグブタによって組織化されるよりはるか以前に、
シヴァ教の初期の典籍にすでに現れている すなわち、7スヴァッチャンダ・タントラ「
〔Si a〔・ビkct〃r!a−ta}ltrCl)、「マーリニーヴィジャヨーッタ・ラタントラJ(,1.f(71i〃々ガの㍗ノtt(trCl,t(Vltl (t)、
ロネートラ・タントラ⊥LWγα一tantra 1等のシヴァ教聖典ISalvagama)に六種の階梯は見ら い りれ、その中でそれらの階梯は入信tdiksalの儀礼に際して用いられている シャイヴァシッ
ダーンタ派も六種の階梯が入信儀礼において役立つと主張してはいるが、細かい点で幾つか、
トリカ派の説く六種の階梯と異なる.すなわち例えば、各々の階梯の構成要素、それらの意味 するところ、各階梯問の関係などの点で相違する 同様に、六種の階梯は、ヴでシュヌ教
VaiSI〕ava)のパーンチャラートラ派IPancaratra・に属する初期の文献、すなわち昨一ト パ ヴァタサンヒターJi S々ttl・rtta.\θη〃z而1のうちの入信儀礼を扱う第19章に、すでに見られる
アビナヴァグプタは汐ントラーローカニの後半の入信儀礼を扱う箇所において、六種の階 梯に関する先人の教えを尊重し、それらをトリカ派の体系に適合させようと試みた 彼によれ ば、入f言あるいは聖別dlksa、は、授戒の入信 / salnaya−diks,i ・iと、最終的救済のための聖別 パ ・nirval〕a−dik$a〕という二つの過程から成る=前者は、信徒にシヴァ教徒としての資格を与える
ために戒律を授ける儀礼をいう一後者は、臨終の時の解脱を保証する浄化の儀礼である それ は、弟子の身体の各部位を六種の階梯・i $ad−adhx a, n :のいずれかの各要素と象徴的に1司定する
{nyasa}という儀礼により成される、汚れの消費である.尊ぶべき師匠〔acarya. gul−u )によっ て入信儀礼が執り行なわれた後には、有能な弟子は前述した諸手段{§alnbhavopaya,§aktopaya,
もしくはal〕av(⊃paya)のうちのいずれかを実践しようと試みてよい 1tiJ様に、入信儀礼を経た 後であれば、一般の信徒は師匠に教えられた方式に従って、自ら六種の階梯を用いて日常的な 崇拝儀礼を行なってもよい,さらにアビナヴァグプタは、神の恩寵(anugraha)の力の垂下
(Saktipata)について詳細に説明している.彼は、儀礼の効能や師匠と弟子の間の秘儀的な関
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26 法華文化研究(第41号}
係の重要性を説得しようとしている,また彼は、シヴァ神および神の代理としての師匠への無 条件絶対の帰依の必要性を強調している。
しかるに、先に述べたように、一元論的シヴァ派の体系においては、汚れ(mala)とは個我 の本性についての無知(ajriana)にほかならず、解脱(mokSa)とはそれを覚知すること(jfiana)
であるとされる。シャイヴァシッダーンタ派が主張するように、汚れが物理的物質であったと したならば、入信儀礼や日常的崇拝儀礼といった物理的行為はその汚れを消費するのに有効で あろうc他方、一元論的シヴァ派においては、日常的儀礼などは解脱のために必要不可欠とい
うわけではなく、副次的なものにすぎず、直証的に自己認識すること、すなわちanupayaこそ が解脱に至る最上の方法と見なされるべきものである。それでは、このような主知主義的な考
え方にもかかわらず、アビナヴァグプタが諸々の儀礼に関してきわめて詳細に説明しているの は何故か,彼は、トリカという新興の宗教集団ないしは宗教運動を創唱し維持し発展させるた めには、通過儀礼や日常的崇拝行為や宗教指導者による統率が重要であるという宗教社会学的 な事柄に気づいていたのだと思われる。アビナヴァグプタは汐ントラーローカ』において、
様々な伝統的教説を新しい一元論の体系に統合しようと努めている、しかしながら、彼の努力 の成果たるその書はあまりに浩溝であったために多くの人々に広く受け容れられるにはいたら なかったようである、.
再認識論(Pratyabhijha)の形而上学的思想
トリカ派の一元論哲学の体系は再認識論において完成を見る、ソーマーナンダ(Somananda.
875−925年頃)は丁シヴァ・ドゥリシュティ」(Si〃drstbにおいてその体系の基本構想を提示 した。ウトパラデーヴァ(Utpaladeva,900 一 9. 50年頃)はそれを再構成して、再認識論の理論 を明確に打ち出した体系的な教本「主宰神再認識論頒」(焉z・αγα♪〆αCv,α612加∂−kayika)およびそ の自註〔Sz1αz,撤)を著わした、アビナヴァグプタ(Abhinavagupta 950 一 1020年頃1はその教 本に対して『主宰神再認識論詳註』(五辺γ砂γ砲α6励元一乙⑰τ 肋〃?αγSl〃τ)と:主宰神再認識論 抄註』(痴α7⑳アα力,α肋切元∂一芒吻αγS∫〃i)という二本の註釈を著わした これらの註釈書における 記述は、:タントラーローカ』よりも一貫性があり、一元論的シヴァ派の概念を明確にしている 点でも成功している。
pratyabhijriaという語は、字義的には「再認識」を意味し、哲学的には再認識論の救済論の 文脈において「自己の本性を再認識すること」を意味する,さらに奥義としては、pratyabhijfia とはシヴァ神が個我となっている自分自身を再認識するということである。というのも、シヴァ ほコ神こそが再認識の真の主体であると考えられているからである。再認識論を主張する者たちは、
精神と物体、あるいは意識あるもの(ajada)と意識をもたないもの(jada>とを区別するとい う常識的な二元論の考え方を否定する.宇宙の万物一切(viSva)は意識あるもので満ち溢れて
カシミール・シヴ丁派における神秘体験の諸方法 戸田ト
いる、正確に言えば、神性ある意識体〔sarpvid)すなわちシヴァ神に包摂されている、と彼ら
パぴ
は主張する、また同様に彼らは、主体〔pramatr、 grahaka)と客体(prameya、 grahya)との区 別を措定するという常識的な二元論の考え方を否定する、万物一切は主体たる者で満ち溢れて いる、と彼らは主張する,というのも、万物は究極的主体(paramartha pramatr)たるシヴァ エロト
神と本質的に同一であるからだという.以上の二つが、再認識論がシヴァ教一元論と位置:付け られる、第二、第三の理由であろう。
再認識論によれば、最高神(prameSvara)シヴァは究極的主体であり、あらゆる行為の真の 行為主体{. sarvakartr .)であり、世界のあらゆる事物を内在させ、あらゆる現象を成立させて いヨエいる、宇宙の万物一り]から成る意識体tviSvan/ayi salpvid )である、それゆえ、シヴァ神は宇
宙の万物一切を超越した者(viSvottirna ]であ1)ながら、宇宙の万物一切と同一なる者〔vis一
い・1
varUpa, viSvat inaka )であると見なされている 現象世界の個物は物質的で意識をもたないも のであるかのように見えるが、真実には一切の事物は宇宙意識たるシヴァの内部に存する意識 存在(cetana)あるいは意識ある主体(ajada pralnatξ)である、これら個物は完成体として永 続する存在であり、通常は寂静なるシヴァにおいて休息しているCviSranta)。シヴァが自らに 意識を向けて反省し、自らの内に休息、し休眠状態にある内在的対象に照準を合わせた時、㍑い パコ換えれば、シヴァが自らの自由意志〔sx ,i tantrya)により志向的意識作用〔vimarSa)の力を行 使した時に、その内在的対象が時間や空間といった限定囚f・を伴った外在的な事物として顕現 ほやTi3bh,isa)するに至る・そしてその場合、その事物はそれが顕現している通りに実在する 同 様に、個々の主体は真実にはシヴァの内に存在するのであり、シウァの力のゆえに限定因J 一を いめ伴って顕現するに至るのだという、
他学派の哲学者たちは宇宙創成論をめぐって想像力を働かせて、世界の質料因や動力因、創 造と帰滅の過程をあれこれ憶測している.そうして彼らは互いに無益な議論を戦わせることに 時間を費やしている.しかるに、再認識論者はこう主張する,実は、この世界には創造(sr§⑪
も帰滅Csarphara)も起こってはいない,シヴァに内在する完成体として永続的に存在するも のが顕現(abhasa. unmesa開目)せられるか隠蔽(tirodhana nime$a閉目)せられるかのい エちの
ずれかが起こっているにすぎないというのが真実の在り方である・このような考え方は、「実在 的顕現(abhasa口説とでも名づけられるべきものであ:)、不ニー元論派ヴェーダーンタ学派 で主張されている幻影(,・mava .)説とはまったく異なるものである.
ここで再び、三十六原理に関する二元論者の理論を振り返ってみよう,それは、シャイヴァ シッダーンタ派の体系に則った宇宙創成論を説明するには有意義であった,しかしながらその 理論は、諸原理の内と外における二重の断絶ゆえに、宗教的実践に用いられるに当たって困難 を来した いま、三十六原理に関する一元論者の理論は、再認識論における実在的顕現説が主 張される限りにおいては、宇宙創成論を説明するためには何の意味ももたない。再認識論によ
27
28 法華文化研究1第41号1
れば、世界に起こっているのは創造ではなく顕現なのであり、また三十六原理のすべてがシヴァ の顕現にほかならないからである、しかしながら現に、三十六原理は再認識論の論書において
も一応考慮に入れられている、その理由として二つ考えられよう.第一に、再認識論の論者は、
シヴァ教聖典{シャイヴァ・アーガマ)に見られる諸原理に関する伝統的教説を尊重し、それ との会通を図ったということ一第二には、上に見たように、三十六原理の階梯は解脱を目指し て宗教的実践を行なうに当たって有益に用いられうる、と彼らが認めていたということによる,
しかしながら、主知主義的な傾向の強いトリカ派の体系においては、入信儀礼やU常的崇拝儀 礼といった物理的行為は解脱のための方法として必要不可欠なものではない、ということは先 に見た通りである
再認識論はあらゆる事柄に関して、楽観的である、その所説によれば、たとえば、シヴァの 有する隠蔽Ctirodhana)の力が錯誤要因(maya )をもたらし、それが真実の在り方を隠蔽し て、無限定的な意識存在に限定性を付与し、その結果、個的主体(maya−pra[1〕atrあるいはmita いい
pramatrと呼ばれる)として、もしくは対象物として顕現するttこのような錯誤のはたらきも また、シヴァ神の恩寵に帰せられる一というのも、シヴァ神はその親切心ゆえに、日常生活に いコおける享受の機会を我々に与えて下さるからであるという.H常経験の成立には⊥体と客体と の区別が必要である その区別はシヴァ神からもたらされるにちがいない ゆえに、H常経験 い が現に成立しているということは、シヴァ神の実在を証明する一証左となりうる このような 想定が過大評価され過度に広く適用された場合には、それは我々を無批判な現状追認へと導い てしまうかもしれない=現状の世界は害悪に満ちているにもかかわらず アビナヴァグプタは 現にこう述べている.真実には、束縛は存在しない、9 ?
結語
シヴァ教は、シヴァ教聖典群(Saivagama)に基づいて一神教的神学を構築したが、対照的 な二つの宗派もしくは思想運動へと分かれた,すなわち、シャイヴァシッダーンタ派
(Saivasiddhanta)の二元論的体系と、トリカ派(Trikaいわゆるカシミール・シヴァ派)の一 元論的体系である一本稿は、両派の体系における救済論に関わる諸見解を扱うと同時に、シャ
イヴァシッダーンタ派が栄えトリカ派が消滅した理由を考察したものであった・歴史的・社会 的諸条件といった外的要因が両派を正反対の運命へと誘ったであろうことは言うまでもないが、
それにはまた、解脱に関する思想と実践という内的要因もあったことに我々は気づいた。
シャイヴァシッダーンタ派はこう主張する.個々の霊魂はシヴァ神から懸け離れた存在であ り、あまりにも無力で汚れているために神に近づくことができない.そこで、解脱を目指す人 はシヴァ神への信仰に専心しなければならない,神は非常に慈悲深いゆえにお救い下さる、と.
また、この派の体系によれば、束縛の原因は個々の霊魂に付着している物質的な汚れなのであ
カシミール・シウァ派における神秘体験の諸方法(戸田㌧ 29
るから、その汚れを消費するために物理的な宗教的実践が有効であるという,これらの見解は 一般民衆に受け容れられ易いものであろうと思われるt 第一の見解は、この世界が如何に害悪
と苦難に満ちているかという現実に即応するものであり、第二の見解は、一般の人々にとって 行ない易いと思われる通過儀礼や日常的儀礼に励むためのよい動機づけとなりうるものである=
このように、シャイヴァシッダーンタ派の思想と実践は、その宗教集団を発展させるには充分 なほどに民衆の心を惹きつけるものであった.
トリカ派はこう主張する 個我はシヴァ神と本質的に同一なのであるが、個我はその真実に 気づいていない そのことについての無知が束縛の原因ないしは束縛の状態にほかならない.
それゆえ、解脱を目指す人はただ自分の本性を自力で認識しさえすればよい、と、このように、
トリカ派の教説は基本的に主知主義的な傾向があり、また自力的救済の精神を尊んでいる・言 い換えれば、その教説は知的エリートもしくは自信過剰の人に相応しいものである、たしかに 1タントラーローカ:などのトリカ派の論書が、三種あるいは四種の手段(1up2>Ja 1)や六種の階 梯{sad−adhvan}といった神秘体験の諸方法を含む、解脱へ向けての数々の方法に言及してい ることは事実である それでもやは1〕、U己再認識Cpratyabhijrta)という方法が最も重要で あると考えられ、儀礼などの方法は副次的なものと見なされている=
たとえアビナヴァグプタが様々な儀礼の方法をトリカ派の体系に採り入れることに尽力した としても、彼のその努力はトリカ派の伝統を延命するほどには報われなかった、超然としたそ の教説が、常識的な感覚をもつ民衆を惹きつけることはなかったのであろう、ただし、トリカ 派の神秘主義がシャークタ派のタントラ的伝統に影響を与えたこともまた事実である.とはい え、このような主知主義的傾向に加えて、上述した再認識派の見解が理想主義的でありすぎる ことが、ノ\々に回心を阻ませたのかもしれない。なぜならば、普通のJv々はこの現実世界にお いて理不尽な諸々の困難事に現に直面せられていたからである.
略号表
GN∫⊃
Jf)κ
∬)τ
IPI1
.XIVT
PH
.sD
∫1)v
sP
.s.S
Gltrl〃1iitha/)ctrCLノ〃θパ〃〔〕f Nradhuraja, ed, by P.N. Pushp. Srmagar,1960.
八!・rzM♪M6wろノzibl〔?k〈2rile(i〔〕f Utpaladeva, ed. by R. ToreUa. Roma,19cl.
Z▽・ara1)r !ひη6/ziノ」iclt・〆〃r〈irSi/lf of Al⊃hinavagupta. ed. by K.A.S.工yer aDd K.C. Pandey,193S,1950,
Jsi・arct♪rats ab/zij/i(21・ivTtiVt〃1{lrsiノノr uf Abhillavagupta, ed. by I I. Kaul.S2sてrl. Srinagar.1938,1941,1949.
.) fc2 1i〃il i]a ottarata〃tra, ed. by I I. Kaul Sastri. Srinagar.1922.
Pγ 1Lw/)ノli:ノノir?ノlt t/の1αof KSemaraja, ed. and tr, by Jaideva Singh, Delhi,1963.
雪〆?・a〔/揮びof Somananda, ed, by I I. Kaul Sastrl, Srinagar,1934,
LSii ad》 s]tiVTtti of k▼tpaladex・a. see SD.
Sail・(i♪ariろノ7硲θ〔〕f Sivagrayogin. ed. by R. Balasubramanian and V,KS,N. Raghavan,
tr. bv S.S. Survanaravana.1 ladras,1982.
S々・(7wオM of Vasugupta, ed. and tr. by Jaideva Singh. Delhi.1979.
30 法華文化研究1第41号)
SSi
TA
T,・.Iv
TP
7 PF
Si,・asiltravii〃αパ↓〃i of K§emarala, see 5S.
T,〃7力τ元/oka of Abhinavagupta, ed. by Mukund Raln Sastri. SI inagar,1918−1938 reprillted by RC, Dwi\edi and Navajivan Rastogi. Delhi.1987,
Ta,7trcllol{aviveka of Ral蝕aka Jayararha. seeτA.
Tattvai.)γαゐ〔烈αof Bhojadeva.
Tattt・aPrale(is ai rtti of Aghora§iva.
注記
〔lI本稿では「シヴァ教聖典6aiva Agamal,」という名称を広く、シヴァ崇拝あるいはシャクティ崇拝をに
関わる聖典群全般に対する総称として用いることにする,すなわちそこには、1{.}のシヴ ア・アーガマ群、18 のルドラ・アーガマ群、64のバイラウーア・アーガマ群、およびシャクテK・タントラ群が含まれる シヴフ・
アーガマ群は二元論的、ルドラ・アーガマ群は不一不二論的、パイラth ア・アーガマ群は一元論的な内容で あり、それゆえ、前二者はシャイヴァシッダーンタ派に属し、第..:の者 はトリカ派に属する、と.考えられて いた また、シャクテで・タシトラ群は女神シャクティを崇拝するシャークタ派で奉じられているもので あ るが、トリカ派によっても尊重されている、
Cf:K.C. Pεmdey.,41)ノiinavagu♪ta.・A} /istθrica!a〃(・/P/ii!θSθ/)hiビa!S 〃〔乙v,2nd ed.. X aranasi.1963. pp.140−143:
Alexis Sandei son, Saivism and the Tantric Tradition , in S.Sutherland et al, eds.. TheτFbノ 〃 ∫Religiθns.
London,1988. pp.668−670:Mark S.G. Dyczkowski、 The Ca〃θ〃o/t tiz ・Saiildsrama〔1〃ti〃1(!Kubjil ii Tantras. qf
〃2ρIIJestcr〃ムJatt/a Traditiθn, New York,1988,しかしながら、このような性格丁 d一けは厳密なものではなく、慣例によるものである.たとえ或る聖典がシ ヴァ・アーガマかルドラ・アーガマに分類されていたとしても、その聖.典中に一元論的記述が少なからず見 受けじ)れるのはよくあることである、また、たとえアビ+th .アグプタのような権威者が或る聖典を一元論者 の方法で解釈したとしても、その聖典自体の趣意は.一:元論的である場合もある
Cf..・Xiexis Sanderson. The Doctrines of the I IAIinlvijayottaratantra . in Teun Goudriaan. ed.. Ritita!rl〃〔∫
SS・)e(・lt!ritirM 2 〃ε〃γ1v Ta〃tl is〃1. New York.1992.
i2 1 yットfi 7・プラカーシャl Tattt aPraA ds a およぴその註釈tl t・tti,によれば、個々の霊魂は5つの 要因によ:1束縛されている=すなわち、anava−inala. karman. maya.清浄なる.世界における質料因としての bindし1.シヴ7の有する隠蔽すなわち阻害の 力r⊂>dha−Saktiの5つである
13 TPI 6:ata eva mavf〕てtlrna[vail n ialarahita[vac ca vidya\idyし・SvaraPrapter ε|Paralnuktitvaln
T/コ1−11:malaparipakasya SaktipatadvArena inok$alietutvat
Cf. Rohan A. Dunuwila, Saiva Sidd/z∂〃taτ1汀θ/θ鱒∵ACθ〃〃・,τrノ}〃 Hincht・Christi(tJi Dialθgtte. DelhL 19Rc 5.
P.132.
{4‥:.{ 六原理に関する諸見解については、∫∫⊃,p.1361 pp.182一工85参i!K.
Cf.・K. Sivaralnan. Sαrz・ど∫〃7↓〃P/i i!osoPノ vical PersPectirρ: A Stitd.x ・o.f tlie FOr}iiariVe CO}iCePt: . P・oろ/θ)rsω1 /
MeごSiO(is qf Sαiv(t Siごi(〃z測α, Yaranasi. 19 73、 PP220−247、
On the theory of principles by the authoritative interpreter AghoraSiva in TPIlsee the reliable study of Jorg GengnageL,11a寸・d, Pitnt5a ujid Sil・ar Di ρc∫i/a!ist∫sclie Traditiθ〃des Sl 7・ais〃llrs iiac!i A9/10〃7∫々1∂r没たvα∫
Tattz・aPrafed.s at・rtti, VViesbaden.1996,
15)二十五原理はイーシュヴァラクリシュナ〔1§varakrsnaiの1サーンキヤ・カーリカー:(. Sd,}lkノリ1α.kdrifed!
に見られる.
カシミール・シelr・ 派におitる神秘体験の諸ノ∫i去 戸田
61諸文献に見られる原理の数については、中村元ニヴニーダーンタ哲学の発展二.東京、1955年1 351−352
頁参照=
7 ・ Tf〕21−22.
:δ) ∫δ〃1々1ハぼ々αノ1 k(722.38.
.Cj・ )シウ1ア教におLtるmily[1の転変・parB)ama・については、Sivaram三1n、 S・lir iSlll i}i Phiiosophicai perst}…M・,
PP.ll5−120参照..
.10)Sivarama11..S(U {・is〃i i〃P/ii!θSθP/ziビai Persノ)ectiVE、 p.552. n.681こよれば、シュリーカンタ {Srlkal〕thac負ryll:
の、ラトナ・トラヤー/?rtt〃(itrcll cl 7日.;こ、 binduの同義語が以.ドのように.挙げられているという、Sabdatau、・am aghoSa vag brahma ku口dalini dhruvaln vidya Saktih para nad〔、 lnahan〕ay烈.
llI ∫」⊃. p.183:asya .=bindos. ca six・adhi与thitatvena Sivatattx avyapadeSah
SP. p,IS5:anye tu ptll:1(.9allaln api sivadv烈rakam]akSananユvadan〔i jnanalnatrayuktena pal a[naunal/ad.i()Srhi[[{lll tattvalp SivElrflrrvEIIII l2. τP and TPIア27−3〔).
131高島淳一タントリズム..」岩波講座東;≡羊1思想第六巻・インド.[L!想2,、所収・東京、1988年・135−137頁
ll.P dikSaについては、 Hel〔・ne Brunl〕e1 −Lachaux, Sf〃〃イ/\〔〃〃blltf♪at/r〃iati , \〔.)L3、 Paris,1977. intl (.)duction:
chaps.1−r)参月てI
l51 H. BrLllmer, .T fi i n[i and KriyA:Re[ati〔m betxveen Theory and PI・actice in the Saivagamas . in/ぞ!f〃r〃ぎa〃ri
S♪e(・〃/atih〃 i/iεr〃 へ・Ta〃tl i.S M. Nexv Yいrk,1992. pp.11−13.P.S. FiUi@zat, The C∩nceDt⊂)f.・leihi・an in Saivasiddh自nta幽. IU 〔・〃t t Zc!.!schyi.ft fRr di.c Ki{nゴc Sttda.sie〃s〃〃〔1 Ar(1〃〆Z㌧ノ}}γb〃tii.tNlビノ1(fノU./θNθ/)ノiiC 38 .199−1.
.16 こ(つような予定論的な見1響はトリカ派の所;}tの影響を .乏 :ナて1Lttると見られる
Cf. Brunnel . SθJ〃asr〃〃/)ノittprzc〆〔〃tati、 vol.3. p.viii:高島淳「カシミー)し・シ市. ・ 派にお:ナるupayaとsakUpata の体系一1宗教研究.「第6〔 )巻第3輯ll986年170頁
「.17 Dunuxvlla、・Srlivfl Sl(/〔ゴ1.lfl〃tf [」一ノlf・θlf」.ζv. PP.35.・1・1.
11t9 , ,この名称は、 J.C. Chatrerjiによる先.駆〔1{」研究書.:κ 1s/z〃ii; S/lc〃「1・rll sノ〃.Srinagar,19]4 :において㍗「〜ヒ的に
用いられたのか最初である
19 Sanders(.)n..1992:n.2S は一不一. 一.J亡 論一 nundualisin を.巻.:味する語の出典を報告している 例え ば、GNP IIbとSl)1Lp.36にSiv自dvaitamという語が見られる S∫)「, p.SSにはSivadvaitapakSal〕、S∠)ltt p.S9
に;まSiVfdx・aya[n、 〃つ11−t Vol.3, p.・↓〔}61こ:まSiVAdX・ayaVad〔lh、 (;.、7) 4n:こ:よiSVar,i dVi, i[ain、 SZう1+t p.361二:こ
ISvaradvaya、・Adahといt 〕語f)L,見られる、等々.
2(レただし、これは.. トリカ」.Trika:という名手有:の語源として.想定さ!Lている幾つかのものの一一つにすきな い.この他に例えば、シ・ f.r Siva.とシャクテ/1Sakti.とナラ :Nara.の.三位一体、バラー Pai・a.最 高の境地、パラーハラー.ParAparE.中間の境地、アパラー ,.Xp ar il.1・・位の境地)というシー、・ 7ティの3 つのレヴェル等々が考えれられる
121)スパンダの体系については、NIarc Dvczkowski l二よる大著を参照
Tize∠)o〔・tr−〃〔・θf i i bratr θ〃, New Y(、1 k.1987:The Sta〃zris rノ〃X ibrati θ〃, Varanasi,1994.
22:−1fτ『T 1.23cd:malam aj[〕a[1a[n icchanti salpsarahkuエ ak自t apa[n
この一節は.s SI−L2.に引[ljされている=See 7.・11.25−26:T...1τ 1.26:aj rl .i naSabdasya ap〔1rl〕ajhanaln ai tha iti
23.一元論の体系においては、apava mala. ma)・iya malaおよびkarma malaとは、ド.iらがシウ1アであること
LこつL、て〔リノ】く:一己,1こ右こ言忍ll昂C[こ:まフウ・ならなL・,
31
32
〔24:
(25)
(26・
(2刀
i去華幽文fヒh汗究 [第41.号一
∬)K3.15−16; ∫1)llp.13. Cf. Sanderson, The Doctrine of)lalinivijayottaratantra , pp287−289.
pauruSa ajrtanaに関する記述はTA 1.41−43:1.48−49にある
また、bauddha ajエtanaについてはT.41.36−37:1,47:L50−5ユに記されている.
Cf. Swami Laksman Jee, Kas/1川ir Sail・is〃)♂Tiw Seビrft SuPreme. Srinagar,1985, p.102,
7二4 ].155−157.
MT2.20−23,高島淳「カシミール.・シヴァ派におけるupayaとSaktipataの体系」59頁、注15参照、=
TA 2,49ab:guror vakyad yuktipracayaracanonmarjanavagat sam自Svasac chastl・a叩prati samuditad vapi
kathitat ・.
(281)そのことはT.4248cdにこう示唆されている、
idam uktam tatha Srimat−SomanandadideSikaih.
T.4 1 L」.48においてジャヤラタ 〔1 Jayaratha 1)はrシヴァ・ド・Jリシュティ‥「Sii・adr.: ti Pから数節を引用し
ている,ソーマーナンダII Somananda )自身は:シヴァ・ドウリシュテcjの中でpratyabhijiaという語 を明確に用いているわけではないが、それに相当する概念をもっていたことは確かなようである一
{291T.43274:nirvikalpe paramar6e Sambhavopayanamani
TA 1.144−146:3.269.
〔301 τヨ4.2−4149;7二4τT5.5.
c31,パタンジャリ I Pataijalりに帰される:ヨーガ スートラ1(1 ogfasi?tra )2.29によれば、ヨーガ の体系は 8つの部門から成るという、すなわち、禁戒c yama 11、勧戒 niyama[、坐法iasalla l、制感L pratyahara i、
調息(.pral]ayamal]、凝念{dharana)、静慮t.dhyana)、三昧{.samadhi iの八支である.
しかし、シヴァ教徒は六支から成る、別のヨーガの体系を採用している その六.支とは、praliiayama,
pratyahara, dhyana, dharana. tarka. samadhiである・
T,44.13−16:TA i−4.15−16.etc. Cf. Navjivan Rastogi. The Yogic Disciplines in the l lonistic Saiva Tantric
Traditions of Kashnnir:Threefold. Fourfoid. and Six−Limbed . in Ritit(il(i〃〔/Sf)eew/ation iJt Eω 6 Tantrisi?i.
New York、1992.
周知のように、このヨーガの六支はrマイトリ・ウパニシャッド:Ql laitri C. Pani.H ad )6.18および「アム
リタビンドゥ 〔もしくはアムリタナーダいウパニシャッドニし4〃rrt〔ibi)it/it L Pait i.saci )第5−6節に見られる。c.32) TA and 7二41. 5.1−7;5,157.
ほ3}T.・!6.3−4a:mapdalam sthal〕diiam patram ak§asutram sapustakam「. lihgaqi tul・alp patab pustam pracima
In[lrtir eva ca //ity ekadaSadha bahyam .(34} Cf. Andi e Padoux, Ifdct T/ze Conce¥)t Of the Pτ勺ア〔/ill Sei(,C・ted Hi〃du Tantras, n , into Enghsh by Jacques Gontier, New York.1990, chap,6 The Sixfold Course , p.330f.:B1 unner, Sθ〃 σX 1〃lblltt・/)addi2ati, voL3, pp. xiii−
xxii.
(351 万」622ab:6、34−35.
(36bタントラ文献におけるvarnaについては、Padoux,τ.愉, chap.5 The Phonematic Emanat{on▼, p.223f.参照,
マントラ(mantra)の呪力については、高島淳「タントリズムにおける言葉の呪力」:岩波講座東洋思想第
七巻・インド思想3:(東京、1989年:1所収、参照.
{37〕〃)FF3.1.1−2. vol.3, PP256−265.
Cf. Chatterji, IYash〃lir S/zaiz・aisnl. pp,62−65;Jaideva Singh..Si (t Sl}tras. T/le Moga of Sztp re in e/dentitv, . Delhi.1979, p.xxii.
(381刀)κ3.1,7cd−8:...tirodhanakari mayabhidhA punabツ
bhede tv ekarase bhate hantayanatmanik§ite/SOnye buddhau Sarire va mayaSaktir vijrmbhate々r
カシミール・シヴァ派における神秘体験の諸方法市田
∫Z)1 3.LS. vol.2, P.234:parameSvarasya mAyaSaktih.
[391Cf. Padoux.16(・. p.331.
i40 /評細については、 Brunner、 Sθ〃lctta〃lb/utpadd12ati. voL3. pp.xvi−xix:Padoux.1遠〔・. p.332:
引田弘道1ヒンドウータントリズムの研究・ :東京、1997年・、439−4!(⊃頁参照
41i:タントラーローカ.1:Tantr(71r,lea i におけるdiksaについては、高島淳氏による優れた研究がある.
Jun Takashima. La dfl , c2 seiθ〃!e Tanlr( i!θfta cf Abノ?i/lavagupta. doctoral disse1・tatiolユ. Paris.199{.):高島
淳一Tantral⊂)kaにおけるdiksa カシミール・シウ.7派におけるイニシエーション儀礼一凍京大学宗教 年報」 I II9δ3年1、13−26頁、ほか多数=
{42) /7⊃1「1.L1, vol.1、 pp.36−38,
143) fJ⊃F L12cl), voL1, p.56:yadi sa na pl akaSate tatha ca jadah na ca jadasya etat yuktam ity uktam napi ajadasya tasmat saipvitprak.i Sa e\a ghat .i diprakA§ah.
∬)τ.−1.5.12,\oL1, p246:tat sakalo }・alll tatt\ab]1〔1tabhAvabhuvanasaipbharab satp\idi viSrti ntal〕 raihA bhavati iti
〔44) If)/x IA.8:tan maya dl Syate drS|(:) yaip sa ity AnUJ§aty api grahyagrahakatabh11/nav arthau bha tal]pllamata1 i
fPτ『L5.L voL1. pp.196−197:avabllasallaln tat pa1 amti r[hapramAta1 i §uddhacinmaye antahsthirax atanコ
tena saha aikatmvam,
45:IPV L5.15−16. voLl, pp.267−268:sarvah i aktlb kar口 tvaSaktih ai{varyatmA samAksipati
PrakaSatma parameSval ah svatm≡、na[!/jhatrekar亡lpatvat ajfieyaln api jfieyikar・:lti yatc.)hi aya[p atmanaLP paran〕r§ati tat〔)viSvanirbharatvat tatha niladitvena cakasti
刀⊃「1.1.5口).vol.1. p.76:x iSvah pral〕la口∨ argab paran〕ar亡hata eka]]prainata sa eva ca asti
fPτT 1.3.7. v oLl. p.1・.12:yac ca I)avalll bhasayati smarat三 va tat vastutab saipvida viS\a呈naS▼ya
t.i d.i tmyavTtti iti viSvamElyalp pClr:ユam eva iti navaip na kiIpcit abhasitam smrta[p va syat
〔46}ff)U4,14. vol2、 P285:vi k. varQpasya bhagavatah .
∬)U3.1.1, x・ol.2. pp2]2−213:viSvapl ameylkaranapratilabdharadvi§\ottinユapramatrpadahrdayangalnika1 a PH. p.54:k. riniarpai amaSivasya pllnah viSv〔.)ttirnaviSvatn〕akaparanlanandalna}raprakaSaikaghanasya
ほ刀vimargaという言『は再認識派の体系において最も重要な術語である..この語は研究者により様々に翻訳さ
れ.てL、る Raffae1e Torella l専:1:による緻密なliif究、 The I.ft・araprat}vabhii)元(}夫drih(i o.ブこ t♪a/ac!cva ivitJi the at(〃zθ〆sτ rtti, Roma.1994,1).xxiv、 fn.32に、それらが列.挙されている
本稿の筆者は、現象学の用語を借用して、この語に 志向的意識作用一i ・intentional acts of consciousness l という訳語を充てたいヒ思う
〔481∬)K1.5.7:cidatmaiva hi devo n〔ahsihiiain icchAvaSad bahih yoglva nirupadAnam arthajatar工〕Prakasayet
∬)τ「1.5.7,voL1, p228:viSvar(ipabhtlsax・aicitrye cidatrrユana eva svatantr}・cl lp kiip na abhyupagamyate
svasamvedanasiddham
Zノつ五1.5.21:kevalarp bhinnasaln、・edyadeSakaianu1−odhatab
jfianasmrtyavasayadi sakramam pratibhasate
刀⊃F1.5.21,volユ, p298:abhasamanasya pal anユar〔hatvat
IDVl,5.12, voL1. p246.
(49) II)IY l、4.8.