「島袋源七」研究四九 〈はじめに〉
島 しま袋 ぶくろ源 げん七 しちは、昭和初期から戦後期の初めにかけて在京の琉球研究の中核を担ってきた研究者のひとりである。沖縄県は戦前において唯一高等教育機関を持たない県であり、また沖縄戦で壊滅的な破壊を受けた県でもあることから、現在の琉球研究(「沖縄学」)は沖縄県にある大学、およびその附属機関を中心に展開しているものの、一九七二年の「日本復帰」前後期までは、在京の琉球研究者(伊 い波 は普 ふ猷 ゆう、東 ひがし恩 おん納 な
寛 かん惇 じゅん、仲 なか原 はら善 ぜん忠 ちゅう等)が中心を担っていたといってよい。島袋源七(以下、源七とする)も、まさにその中心のひとりであった。源七が集めた資料は、源七の死後、琉球大学附属図書館入り「島袋源七文庫」として、琉球研究の基本資料のひとつとして活用されている。
源七は、沖縄本島国 くに頭 がみ地域の民間伝承
仰を記した『山原の土俗』 ・ 信 やんばる (昭和二十八)に急逝するまで立正中学 三四年(昭和九)に立正中学校(旧制)の教諭となって、一九五三年 七年(昭和二)に上京し、立正大学専門部(高等師範部)に学び一九 でいた。しかし、迂闊にも源七が沖縄県立師範学校を出た後、一九二 歌謡を研究する上で欠くことができない貴重な研究として親しく読ん ている。筆者も神歌を捉えながら祭祀を記述しているこの書を、琉球 四)刊とともに、沖縄本島地域の勝れた民俗誌として高い評価を受け 説話』一九二二年(大正十一)刊、『シマの話』一九二五年(大正十 て刊行され、同じ爐辺叢書の一冊として出された佐喜真興英の『南島 さきまこうえい 土俗』は一九二九年(昭和四)に郷土研究社から爐辺叢書の一冊とし (序文、折口信夫)の著者として夙に知られた研究者である。『山原の
球研究者には知られていない論文を学内誌に三本程発表し、そのうち を知らなかった。そこで(立正大学)学内の資料を調べてみると、琉 等学校の教諭であったこと ・ 高
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ある「沖縄学」研究者の足跡―
「島袋源七」研究島 村 幸 一
立正大学大学院紀要 三十号五〇の一本「南島に於ける墳墓と氏神の起源」は、早い時期の琉球の墳墓研究および葬儀習俗を記した研究であり、聖地とされる「御嶽」にも及んだ琉球村落の研究として先駆的な論文であることを知った。また、源七の葬儀は、石橋湛山学校長を葬儀委員長とする「学校葬」で執り行われたことも分かった。これらを知った驚きが、本稿を執筆する動機である。
本稿は、知られていない源七の論文を含めた源七の研究の足跡を追おうとするものである。源七の足跡を辿ることは、琉球研究を指導し援助した柳田国男と琉球研究の伴走者であった折口信夫を中心として展開した、戦前および戦後初期期の琉球研究の歩みの一端をみることでもある。また、戦後の琉球研究の立ち上がりをみる上で重要な沖縄文化協会の動向を知ることでもある。源七の戦後の研究活動は、沖縄文化協会の活動と共にあったといってよい。以下本稿は『山原の土俗』を、折口信夫との出会い、折口の序文の意味、琉球歌謡研究の視点から論じていく。さらに、知られていない立正大学専門部(高等師範部)歴史地理学会での研究活動を含めた戦前期の源七の足跡、戦後期の沖縄文化協会を中心としする源七の研究活動の足跡を追って、源七の研究の歩みを通観していく。最後に付録として、「島袋源七年譜」を付す。「年譜」は不完全であろうが、管見の限り調べたものを載せた。 〈『山原の土俗』〉
一、折口信夫との出会い
『山原の土俗』の「凡例」には、
「大正十四年九月三日」の日付が記されている。本の刊行は、「昭和四年二月十日」だから三年半程のずれがある。『おきなわ』第三十三号(おきなわ社、一九五三年十二月)に載った島袋愛子(源七の奥方、歌人)の折口信夫への追悼文「折口先生のことなど」によれば、「大正十四年(一九二五)の夏休み」に『山原の土俗』の原稿をひっさげて夫婦ともども上京した際、折口宅を訪れ「激励の言葉を戴いて、神田の旅館に帰つた」という。しかしその後、本はなかなか刊行されず、源七夫婦は一九二七年(昭和二)に東京に移り住む。源七が「肺炎で一ト月程寝た事があつた」後、折口に逢った時、折口から「『山原の土俗』が遺稿になると思つたよ」といわれたことが記されている。『山原の土俗』がそれから間もなくして出版されたことから、愛子は「かげに先生の御力があつた様に思い、何か先生のおもいやりみたいなものを感じて胸の熱くなるのを覚えた」と記している。実際のところは不明だが、源七の折口を敬愛する思いは強く、長男の大学進学に際しても折口が教える國學院大學に入れることを強く主張したという。
源七と折口信夫との出会いは、柳田国男の沖縄調査に刺激され沖縄を訪問した折口が、最初に沖縄を訪れた一九二一年の夏である。源七
「島袋源七」研究五一 は、一八九七年(明治三十)に沖縄県国 くに頭 がみ郡今 な帰 き仁 じん村 そん勢 せ理 り客 きやくに生まれる。一九一七年(大正六)三月に沖縄県立師範学校を卒業し、沖縄県の尋常小学校(北玉、辺野喜、喜如嘉、稲嶺)に勤務する。折口が沖縄を訪れた時は、源七は二十四歳、折口は三十四歳であった。源七は、その頃は大宜味村喜 き如 じょ嘉 かの小学校に夫婦ともども勤務していた (1)。折口を国頭(沖縄本島北部地域)に案内することに至った経緯は、「視学だつたか、師範学校長だつたからか折口先生の案内役を頼まれたのがそもそも」だったという。源七はそのころまでは「県の教育研究部等に土俗の研究「火の神考」等を出して入賞し」ていたという(「折口先生のことなど」)。ただ、源七は国頭を訪れた折口を最初から案内したのではなく、当初は辺 へん土 と名 なの小学校の教員であった宮城聰(国頭村奥間出身)が案内したことが分かっている。宮城の「琉球で知った折口信夫 (2)」によれば、「たしか明日から夏の休暇といふ日」に校長から折口の名刺を示され「お前案内して上げよ」と命じられたという。宮城は折口を一日目と二日目に案内し、三日目から「たま〳〵来てゐた隣校の一教員が、自分は郷土研究に興味を持つて勉強してゐるから、是非案内に代らして欲しいと願ひ出たことで、私は辞退することになつた」と記している。「隣校の一教員が」源七である。
源七は折口を「大宜味、久志の両村から国頭の安田、安波、奥、辺土、宜名間と、本島北端のあのけわしい国頭の山越しの村々を、口承、伝説をさぐり、ノロを尋ね、根神屋を訪うて歩き廻つた」とある。そ の時、折口が東京の「鈴木金太郎」に送った「絵はがき」(大正十年八月三日)に、「柳田先生の、おあるきにならなんだ国頭郡のはづれ、国頭村を一週間がゝりであるいて居ました」と書いている (3)。折口は柳田が歩かなかった塩屋より先の国頭地域(後述)を、源七に案内されて歩いたのである。源七の案内が三日目からということになれば、折口を五日間程案内したということになるか。折口が源七の初七日に詠んだという追悼歌「島袋源七君をかなしむ たそがれの宜名真のはまの波の音 聞ゆらむかと耳をすますも」は、源七に案内されて宜 ぎ名 な間 まを訪れた際、山越えの坂道からはるか下の集落を臨んだことを思い出して詠んだ歌だと愛子は記している。折口の「沖縄採訪手帖」(大正十年七
・ 八月)
には「○月の中の人」に「島袋源七」の名がでる (4)。他にも「○をかみ」「○そね」他四箇所の記事が「島袋氏」の情報であるという記述がある。「島袋氏」は源七だろうか。さらに、「沖縄採訪手帖」(大正十年七
・ 八月)には「喜如嘉臼太鼓」
「田嘉里屋嘉比臼太鼓」の歌詞(琉歌)が相当量載るが、これはそっくり『山原の土俗』に入っている。臼太鼓歌は、間違いなく源七が集めた資料から写したのではないか。そうであるならば、これが折口と源七との交流を示す具体的な資料を示すばかりではなく、『山原の土俗』の一部が折口と出会った一九二一年の夏には書かれ始めていたことを物語ってもいる。
なお、折口はその後、沖縄を二度訪れている。三度目は源七が上京した後の一九三五年(昭和十)であるが、二度目は最初の沖縄訪問の
立正大学大学院紀要 三十号五二二年後であった。この時、源七は折口を案内できなかったようである。それについて愛子は「合憎その年の夏休みは私が病気で一ト月も入院していたので、島袋は先生のお供をして離島めぐりの出来ないのを大変残念がつていた」と記している。
また、源七と柳田国男とのかかわりについては、詳細が不明である。柳田は折口と同じく、一九二一年(大正十)の一月に沖縄を訪れ沖縄本島北部地域を名護を起点として、県の視学官であった島袋源一郎の案内で兼次(今帰仁村)、塩屋(大宜味村)、瀬高(名護市)に泊まり、本部町伊豆味、今帰仁村今帰仁城、今泊、仲宗根、運天、名護市屋我地島、奥武島、大宜味村塩屋、大保、東村平良、有銘、名護市天仁屋、安部、汀間、瀬高、大浦と廻って、名護に戻っている (5)。源七が、当時どの小学校に勤務していたかは分からないが、喜如嘉小学校に勤務していたのであれば、源七のいる喜如嘉までは柳田は行っていない。このことから柳田に会う機会がなかったか。柳田の沖縄旅行の日記
・ 覚
え書きにあたる『南島見聞記』にも、源七の名がみあたらない。『山原の土俗』の「凡例」の最後には、「私の研究について直接間接に御指導下された折口先生や伊波先生並びに発行に際し色々御世話下された柳田先生に深く感謝します」と記されているが、この記述からすると柳田とは出版にかかわって繋がりができたように感じられる。柳田とは東京に移り住むまでは、直接の面識はなかったのか。ただし、上京する一年前の一九二六年九月に源七は「沖縄の伝説(二篇)」を『民族』 第一巻六号に書いている。『民族』は柳田が主宰した雑誌である。源七が『山原の土俗』の原稿を携えて上京した折に柳田に会っているとすれば、この時点で柳田に会っていることになる。「沖縄の伝説(二篇)」が載る経緯にはそれも考えられるが、なお不明である。二、折口の序文 『
山原の土俗』には序文として折口の「続琉球神道記」が載るが、「続琉球神道記」の冒頭は「この本を中に立てて、著者島袋源七さんを思う時、言うべからざる懐かしみを感じる。それは言うまでもなく、何人も私以上には、感じる事はあるまいと思う。(途中省略)沖縄流の礼儀や、表出に理会の乏しい私が、ああした山原の更に山原とも言うべき村々を、わりにしくじりなく歩き廻って、ある点まで目的を達する事の出来たのは、全くこの島袋さんのお蔭でと言うてもよい程である。この機会にまず、その御礼を述べておく事が、私の沖縄研究に対するわずかな同情者の人々に対する義務でもある」と記され、源七に対して篤い謝辞が述べられている (6)。そして、「第一回の旅行の後、国頭の印象を中心として、書いた旧稿が、「続琉球神道記」で」あり、これを『山原の土俗』の序文にすることについては「源七さんの採訪書を世間に披露するに当たって、その複雑な内容を組織立てる簡単な案内書が、どなたにも入用な事と信ずる」と考えて、これを役に立てようとしたと記している。ここで折口が「続琉球神道記」を「旧稿」とす
「島袋源七」研究五三 るのは、これが折口の最初の沖縄旅行から二年経った一九二三年に『世界聖典全集外纂』改造社の中に「琉球の宗教」として発表したものを、「続琉球神道記」と改題して『山原の土俗』の序文にしたことによる (7)。ここで興味深いのは、『山原の土俗』が出版されたその年に「琉球の宗教」と題される論文が収録された『古代研究 民俗学篇』第一冊(大岡山書店、一九二九年四月)がでたことである。それに収められた「琉球の宗教」は、『世界聖典全集外纂』に入った「琉球の宗教」に大きく加筆したもので、この加筆は二年後(一九二三年)の二度目の沖縄旅行の成果が反映している (8)。折口が『山原の土俗』の序文になぜ「旧稿」を使い、「新稿」を使わなかったのか。『古代研究 民俗学篇』第一冊は『山原の土俗』がでた二ヶ月後の出版であるが、『山原の土俗』刊行までに「新稿」が間に合わなかったのがその理由か。しかしそうではなく、加筆された「新稿」をみると多くが二度目の沖縄旅行の成果である八重山で採訪した記事が記されていることが分かる (9)。このことから折口は、あえて「旧稿」を序文に使ったのではないかと推測される。すなわち、引用した序文の冒頭にあったように「複雑な内容を組織立てる簡単な案内書」として「旧稿」を使ったのである。「続琉球神道記」の冒頭部分には、次の一節が記されている。
私は更にその翌々年、東京大震災の起こった数日前まで一月程も、沖縄から宮古
重山の島々を巡った。そうしてその得た実感が、 ・ 八 吾々の生活の古典に極めて、親しい形が多かった。 事が多かった。その点において、沖縄本島の伝承するところは、 双方の間に、ある補いを仲に立てて考えなければならないような 代の型を写している点もあった。殊に信仰方面においては、日琉 初以前の姿にさえ遠いものがあるかと思えば、また極めて我が近 しながら、南方の先島一体の民間伝承はあるいはあまりに我が国 さきじま 次第に私の古代研究の裏書きになってきている事を感じた。しか
ここには、折口が感受した沖縄本島と先島と呼ばれる宮古
・ 八重山 の「民間伝承」の違いが記されている。折口が八重山で得た「民間伝承」は、まれびと論や新たな常世論を生み出していくにしても、「南方の先 さき島 じま一体の民間伝承はあるいはあまりに我が国初以前の姿にさえ遠いものがあるかと思えば、また極めて我が近代の型を写している点も」あり、一方「沖縄本島の伝承するところは、吾々の生活の古典に極めて、親しい形が多かった」ものと考えている。しかも、「沖縄なかんずく国頭ほど、その民間伝承の宗教的基礎を、頑固に維持している地方」であり、「山原」は「沖縄旧文明の維持者なるやんばらあの住んでいる地方」であるとも述べている。「やんばらあ」とは、「(首里那覇人が)旧日本人の祖先が鈴鹿足柄の向こうに屯している住民に感じたごとき、恐れとさげすみとを込めて、称え出した言葉に違いなかろう」とも書いている。折口はこの「やんばらあ」(山原人)の名を付した『山原の
立正大学大学院紀要 三十号五四土俗』と題される源七の書に、あえて先島で得た採訪の成果が載らない「旧稿」を「続琉球神道記」と改題して寄せたのではないか。「続琉球神道記」は、古琉球の末期に那覇に滞在して書かれた袋中良定の『琉球神道記』を確実に意識している。折口は、「沖縄本島の伝承する」「吾々の生活の古典に極めて、親しい形」を「琉球神道」と考えていたと推測する。これに先島の旅の成果によって形成された「まれびと論」がどのようにかかわって、「折口学」があるのか、興味深い問題である。『山原の土俗』に寄せられた折口の序文は、そのような意味でも重要である。
三、琉球歌謡研究の書としての『山原の土俗』
『山原の土俗』の「凡例」のひとつは、
「先ず原形の祭事を想像するの資料にもと思い、同一の儀式については、数種の形式をありのままに記載しておきました」と書かれている。これは『山原の土俗』の主要な記事になっている「一 海神祭」や「二 シヌグ」の記述について、いったものと考えられる。源七は沖縄本島北部地域各村落で行われている「海神祭」や「シヌグ」を、幾つも採訪し記述している。比嘉政夫が『山原の土俗』の民俗記述ついて「綿密かつ体系的な分析により提示された問題意識 )(1
(」が示されているとしたのは、このような記述のあり方を指していると思われる。
前述したように『山原の土俗』には、多くの神歌が採録されている。 「海神祭」「シヌグ」等の祭祀でそれらが謡われているからであるが、これが琉球歌謡研究において重要な資料になっている。例えば、国頭村辺土名で謡われる船造りの〈生産叙事〉歌「ウンジャミのクェーナ」(「一 海神祭」)は、ウンジャミ(海神祭)の「当日アシアゲの庭において神人がクェーナを歌いつつ舞う」とクェーナ(神歌)が祭りの場で謡われる様子が記されているが、この記述からこのクェーナは祭場で神遊びをする「神人」が身に着ける神衣装(絹衣裳)と玉(がなは)の由来を謡った神歌であり、「神人」を称え迎える神歌としてあることが分かる )((
(。この場合、神女が聖なる山に入り勝れた木を選び出して製材し、女達によって浜に引き出して船を造り上げることを謡う船の〈生産叙事〉は、「神人」の神衣装と玉を無事にもたらす勝れた船を根拠付ける表現になっている。源七は「ウンジャミのクェーナ」は「舟を新たに造った時にも歌う」とも記しているが、それはまさしく造られた船をその建造の始め(神話的始原)に遡って謡うことで、もの(船)そのものを称える表現であることが分かるのである。
同様な例は、『山原の土俗』に採録されている「羽地村川上」、「国頭村辺土名」、「大宜味村」で謡われる三首の「家造りのオモイ」(「一二 家造りの時」)にもいえる。源七はこの神歌は「家屋を新たに建てた時、神人はその家に来て家の幸福繁栄を祈る。部落に依っては屋根の葺き終えぬ時に、屋根に登ってオモイを歌いつつ廻る処もあるが、又処に依っては葺き上げた晩、家の外を七廻り、屋部を七廻り、オモイ
「島袋源七」研究五五 を歌いつつ、廻る。(途中省略)なおその家の主人夫婦の生まれ年を始めに唱えてオモイを述べるのが例である」と、謡う場とその様子を記している。「家造りのオモイ」はいわゆる家の完成時に謡う新築儀礼歌であるが、これも船造りを謡う〈生産叙事〉歌同様、家材になる木の聖なる由来と家造りの過程を具体的に謡いあげる叙事的歌謡である。すなわち、「生産過程」を謡うのはこれを労働歌として捉えるような「生産過程」を誤りなく正確に伝えることではなく、言霊による予祝歌として謡うことでもないのである )(1
(。家造りの〈生産叙事〉歌の場合は、源七が記すように「その家の主人夫婦の生まれ年」が唱えられ、その家の主人夫婦を称え新築した家を家の主に捧げるかたちをとる。これは船の〈生産叙事〉歌とは異なるが、家造りの〈生産叙事〉は家の聖なる由来を表現し新築した家を誉め称える詞章であり、それを家の主に捧げたウタである。『山原の土俗』に記される沖縄本島北部地域の祭祀とその祭祀で謡われる神歌の叙述は、琉球歌謡の大きな特徴である〈生産叙事〉という表現形式を抽出できる資料を提供してくれる。
この外、『山原の土俗』に入る大宜味村喜如嘉の「シバサシ」で謡われる国土創世を謡った「シバサシのオモイ」も注目される。「シバサシのオモイ」は「神人が、全部神アシアゲに集まって祈願をなし、屋内において円陣を作り、オモイを歌って踊りつつ巡る」とするものだが、「シバサシ」は旧暦八月にある行事で、この行事の直前にある「ヨーカビ」は〈妖怪火〉〈妖怪日〉とも解釈されて「妖火や人霊が現れたり、 怪音や泣き声が聞こえたりする」日とされる。「当日は農具や家具のすべてに俗称シバという草を結び、家の四隅や豚小屋、古木の下や門に尾花を結んで」「妖怪魔物除 よけ」にする。すなわち、「シバサシ」は一年の変わり目が夏にある琉球において、まさに円環する時間の結節点、接続点ともいうべき時期に妖怪が跋扈する〈混沌〉が訪れる。これに〈秩序〉を与えるために、神人が神アシアゲ(祭場に建てた柱と屋根だけの建築物)に集まり、「シバサシのオモイ」を謡うのだと考えられる。神話がウタとして存在すること自体が文学の初源を考える上で極めて重要な事例であるが、喜如嘉という村落の時間的な危機を回復するのが、神人が謡う国土創世を内容とする「シバサシのオモイ」なのである。「シバサシのオモイ」は、神話が存在する意味、その働きを考えさせる具体的な事例を我々に提供してくれる。 『山
原の土俗』には、前任者の死去に伴う新たな神人の就任儀礼である「アラサンサラ(又はカンサガ)」で謡われる神歌、また亡くなった神人を送る葬送歌などを採録している。これらの神歌は、他の民俗誌にはほとんど採録がなく極めて貴重である。『山原の土俗』には、長詩形の神歌が二十五首も採録されている。また、前述したように「ウシデーク」で謡われる「喜如嘉臼太鼓」「田嘉里屋嘉比臼太鼓」、津堅島の「収納奉行歌」等の歌詞が採録されている。これは、琉歌といわれる短詩形の俗謡歌である。これも今日では、貴重な採録になっている。他に「長者の大主」といわれる村芝居の幕開けで演じられる芸能の「長
立正大学大学院紀要 三十号五六者」といわれる翁の口上の「文言」も採録されており、琉球文学研究においても『山原の土俗』は極めて重要な研究書である。
〈源七の上京と戦前期の研究の足跡〉
一九二七年(昭和二)、折口に触発された源七は妻愛子(小学校教諭)を伴って上京する。源七、三十歳の年である。「沖縄学の父」といわれる伊波普猷が、沖縄を訪れた柳田に強く勧められて一九二五年に上京したのと同じように、源七も伊波のあとを追うようにして上京する。そして、源七はその年の六月二十九日、東京朝日新聞社談話室で行われた南島談話会の第一回例会に参加している。会は「比嘉春潮伊波普猷氏等の琉球語挨拶、柳田氏の此会に対する希望のお話があつてから、琉球の「出産」に関して」が話し合われたという。その会の様子はその年の『アサヒグラフ』七月十三日号に写真入りで紹介されているという。第一回の参加メンバーは、柳田国男、金田一京助、岡村千秋、伊波普猷、富名越義珍、比嘉春潮、金城朝永、仲宗根源和、源七等。比嘉春潮と金城朝永とが幹事役に命じられる。南島談話会は、元々柳田が沖縄を訪れたのを契機として一九二二年四月に発足した会であった。しかし、柳田の国際連盟委任統治委員就任と相俟って、その活動は断続的なものでそれほど活発ではなかったが、一九二七年になり「在京沖縄人を中心とする新しい機関として」生まれかわる。「南島談話会」は、その後「昭和八年頃には名称を南島文化協会と改称し、 柳田の手を離れること」になり、源七が戦後活躍することになる「沖縄文化協会の実質的な母胎となった」という )(1
(。『旅と伝説 南島談話第一号』第四年十号(三元社、一九三一年十月)に載る「南島談話会会則」をみると「一、本会は薩南諸島
・ 琉球諸島
・ 先島列島出身の郷土
研究家を主員とし、その他客員とす」とあり、「同人」は「伊波普猷、宮良当壮、島袋盛敏、島袋源七、比嘉春潮、金城朝永、岩切登、岩倉市郎」である。「同人」はいずれも在京の「薩南諸島
球諸島 ・ 琉
から上京し、「伊波普猷に師事し、南島言語の研究を始めた (1) 刊)等を出した喜界島出身の岩倉市郎も源七が上京した同じ年に大阪 (三省堂、一九四三年刊)、『喜界島方言集』(中央公論社、一九四一年 金城朝永は翌年の一九二四年の上京である。また、『喜界島昔話集』 考えられる。会の幹事役を命じられた比嘉春潮は、一九二三年の上京、 の時期に相次いで沖縄から「沖縄学」を担う研究家が上京したことが して、出発したのである。このような機運が生まれたひとつには、こ 列島出身の郷土研究家」である。確かに、「南島談話会」は新たな会と 島 ・ 先
(」。さらに、戦後に活躍する仲原善忠も鹿児島県立第一師範教諭を辞めて私立成城第二中学校教諭になって上京するのは、金城が上京したのと同じ一九二四年である。源七の上京した年には、後に活躍する沖縄研究者が揃っていたのである。源七はこの年の九月に沖縄の新聞『沖縄朝日新聞』に「沖縄の墳墓と氏神の起源」を十三回以上(十四回からは新聞が残っていなく、未確認)に亘って連載する。この論文は、後述する「南島