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農を耕す : 御前崎の農業の過去・今・将来

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(1)

著者 大竹 駿太朗, 梅田 舞子, 茂庭 可奈子, 仲村 実祐 雑誌名 御前崎市・浜岡佐倉. ‑ (フィールドワーク実習調

査報告書 ; 平成24年度)

ページ 61‑92

発行年 2012‑12

出版者 静岡大学人文社会科学部社会学科文化人類学コース

URL http://hdl.handle.net/10297/7048

(2)

農を耕す

御前崎の農業の過去・今・将来

大 竹 駿 太 朗 、 梅 田 舞 子 、 茂 庭 可 奈 子 、 仲 村 実 祐

はじめに

1

浜岡の農業

1 . 1

浜岡の農作物

1 . 2

浜岡の農業の歴史

1 . 3

原子力発電所建設予定地の農家

1 . 4 

現在の農業

2

茶産業

2 .   1

御前崎の茶産業の概要

2 .   1 .   1

御前崎市

l

日浜岡地区の茶産業

2 . 1 . 2

梅の木の下の茶園

2 . 2

御前崎の茶産業の今

2 . 2 . 1

つゆひかり

2 . 2 . 2 r

つゆひかり』の普及活動

2 . 2 .

東日本大震災の影響

2 . 3

茶産業の未来

3

イチゴ産業

3 .   1 

イチゴを栽培する日々

3 .   1 .   1 

御前崎でイチゴを作ること

3 .   1 . 2  

収支を合わせる難しさ

3 . 2  

観光農園と高設栽培の開始

3 . 2 . 1  

御前崎でのイチゴ栽培

はじめに

3 . 2 . 2  

イチゴを使用した商品

3 . 3  

農園の大規模な運営

3 . 3 . 1  

研修生の受け入れ

3 . 3 . 2  

イチゴへの気持ち

3 . 4  

次世代の農家さん

3 . 4 . 1  

御前崎で農業を始めること

3 . 4 . 2  

研修から独立まで

3 . 5  

課題とこれから

農業の新たな可能性『農産物直売所』

4 . 1  

農産物直売所とは

4 . 2  

ミナクル市御前崎庖

4 . 2 . 1  

庖舗の概観

4 . 2 . 2  

設立の経緯

4 . 2 . 3  

経営規模とシステム

4 . 2 . 4  

出荷している農家の声

4 . 3  

直売所の課題と将来の指針

4 . 3 . 1  

現在の課題

4 . 3 . 2  

ミナクル市御前崎庖の今後

4 . 3 . 3  

農産物直売所の展望 おわりに

参考文献・参考資料・参考

H P

現在、日本には数多くの産業が存在している。これらの産業は、農業や漁業などの第一 次産業、製造業や工業などを含む第二次産業、そして第一次産業や第三次産業に含まれな い産業、たとえばサービス業などの第三次産業の

3

種類に大別される。明治以前、日本国 民のほとんどは農業すなわち第一次産業に従事していたが、明治維新をきっかけに工業な ど、第二次産業が大きな発展を始める。そして、高度経済成長を経るにつれて、新しい産 業としての第三次産業が大きくなっていった。

現代において、第二次産業と第三次産業はそれぞれの発展を続けている。しかしその一 方で、第一次産業は衰退の一途をたどっているといえる。農業などの従事者の減少および

(3)

高齢化、安価な外国産の商品による圧力などによって、日本の農業の縮小は確実に進んで いる。収穫量や価格の変動によって、収入が安定しないことなどが、農業従事者の減少の 大きな要因である。大規模農業を営む農家はもとより、地域のなかで生産および出荷を行 っている、比較的小さな農家への圧迫は厳しいものといえるだろう。農業は、作物の単価 が安く、農家の収入があまり安定しないこともあり、最近では農業だけで生計を立てる専 業農家はめっぽう減り、兼業しながら農業に励む農家が増えている。作る作物に携わる時 期によってある季節だけ働いたり、夜は農業以外の仕事に従事していたり、夫が農業をし て妻がパートに出るなど、兼業のやり方も多様化している。

数多い産業の中で生き残る上で、農業は今大きな問題に直面しているといえる。ここで はその一例として、静岡県御前崎市浜岡地区の農業を取り上げる。お茶やイチゴの生産が 有名で、特有の砂地を活かした農業を幅広く行っている浜岡地区は、海と山に固まれた農 業に適した環境を持つため、古くから盛んに農業が行われていた。しかし原子力発電所建 設の話が持ち上がってから、中部電力関係の職業に就く人が増えてきた一方で、農業従事 者は減りつつあるO 独特の地形、原子力発電所の建設、さらには平成

23

(2011)

3

1 1

日の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、浜岡原子力発電所も大きな 影響をうけた。これらの事象は、浜岡地区の農業にとって大きな変化の要因ともいえる。

この論文では、この地区の農業をみることによって、地域農業の課題を導くとともに、そ の展望についても考察することを目的とする。

私たちは浜岡地区で

1

週間のフィールドワークを行い、インタビューを中心としたデー タ収集をした。それによって得られた成果と考察をまとめることで報告書とする。

まず、この地域の農業を、歴史を中心に幅広く見ていき、次に、この地域の特産と言え る茶産業、およびイチゴ産業に着目する。そうして浜岡地区の農業についての現状と課題 をまとめたうえで、地域農業の展望について考察してし、く。

1

浜岡の農業

浜岡地区は、南部の池新田と佐倉、北部の比木、朝比奈、新野といった

5つの地区に分

けることができる。南部は海が近く砂地がメインになっており、北部は山の方が近くなっ ている。原子力発電所建設にともなって開発される前は一面が農地だった浜岡地区でも、

現在では農業従事者は減少し、とくに専業で農業をする人は少なくなった。下の表は農業 の経営体数をまとめたものだが、農業を主にしている農家を第一種兼業農家、農業が副業 的な農家を第三種兼業農家とよぶ。

(4)

1

浜岡地区の農業経営体数

専業農家 第一種兼業農家 第二種兼業農家

池新田

70  86 

71 

佐倉

23  22  32 

比木

1 8   45  132 

朝比奈

27  84  1 1 6  

新野

24  35  75 

合計

162  272  426 

出典:~2005 年農林業センサス』

表から見ても、第一種と第二種を合わせた兼業農家が専業農家をはるかに上回っている ことがわかる。全国的に専業農家が減っていることの縮図といえるだろう。

地域農業を捉えるためにまずは浜岡地区の農業の歴史と現状について詳しく述べたいと 思う。浜岡地区はこの地区でどんな作物が生産されているか、過去との違いなどを、この 地区で農家を営む人々に聴いた話を中心にまとめてし、く。収入や安定の問題を抱える農業 が、生き残るための工夫などの話も紹介しよう。

1 . 1

浜岡の農作物

現在浜岡地区で栽培される作物について、自身も農家を営む

T

さん

( 5 0

歳男性)に話を聞 いた。浜岡地区では茶、イチゴ、メロンの他にも長ネギ、玉ネギ、落花生、芽キャベツ、

メロン、スナックエンドウ、ジャガイモ、 トマト、レタス、サツマイモなどを生産してい る農家がいる。特に長ネギは、あまり知られていないがこの地区では生産者の多い作物で あり、これには浜岡地区が、砂地でネギの管理がしやすい環境にあるということが理由と してあげられる。

T

さん自身は芽キャベツの生産に力を入れていて、東京や大阪といった都 市に出荷している。

この地区の風土は海や山に固まれ温暖で、作物が育ちやすい半面、マイナス面としては 風が強いことが挙げられた。風で飛ばされた砂による害もあるため、その対策も重要にな ってくる。生産した野菜は

JA

のような契約先に出荷したり、直売所で売ることもあるとの ことだった。できた農作物をそのまま出荷するのでなく、たとえば収穫した茶葉を製茶し て出荷したり、サツマイモを切り干しイモなどの製品に加工してから出荷するなど、加工 も請け負っている農家もいると、 T さんは語った。

次に、浜岡地区の農業の特色について、専業農家を営んでいる

H

さん

( 6 9

歳女性)に話を

f

司った。彼女の家は祖父の代から茶を栽培する農家だった。しかし、浜岡地区での茶栽培 が廃れるとともに、茶の栽培から、ネーブ、ルやはっさくといったかんきつ類の栽培にシフ トしていった。かんきつ類の栽培もまた、浜岡の砂地に適したもののうちの

1

つであるそ

(5)

うだ。

H

さんの家の畑も見せてもらったのだが、畑の周りを背の高い木々で囲んでいるのが特 徴として見られた。これについて彼女に尋ねたところ、作物を風や砂の害から防ぐための 対策の

1

っとして、こうして畑の周りを、風に強く背の高い木で囲むのだそうだ。この防 風林も浜岡地区の農業の特色の

1

っと言えるが、浜岡地区の農業の衰退につれて、本格的 な防風林のある畑をもっ農家も減っているようである。また、こうした林を必要としない、

ビニールハウスによる農作物の栽培も行われるようになった。実際、

H

さんの息子も、現 在ビニールハウスで花の生産と出荷を営んでいるという。

浜岡の特有な地形を生かした農業が盛んに行われる一方で¥機械の発展や、ビニールハ ウスの登場によって、気候や地形に関係なく、幅広い作物の生産も可能になりつつある。

古くから農業を営んでいる農家は、後継者の問題に直面して農業を断念せざるを得ないこ ともあるが、最近になってから農業を始める人々は、作物の管理が比較的簡単な、機械を 多く用いた農業や、ビニールハウス栽培を手掛けることも多いとし、う。

現在では全国に見られる傾向と同様に、浜岡地区でも専業農家は減少している。やはり 安定のなさや収入の減少が理由としてあげられるが、兼業をしながら農業を営む人が増え た。農業の方が副業的な人も少なくない。

1 . 2

浜岡の農業の歴史 原子力発電所建設まで

次に、浜岡の農業の歴史について見てし、く。ここでは、浜岡の農業の歴史の大きなター ニングポイントとして、浜岡原子力発電所の建設と、平成

2 3 ( 2 0 1 1 )

3

1 1

日の東日 本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故の

2

つを挙げたい。前者はもちろん、浜岡地 区の特徴とも言える存在であり、それの建設が地域の産業になんらかの影響を与えたこと は疑いようがない。後者は直接浜岡地区に影響を与えたものではないが、世間の関心を原 子力発電所そのものに向けさせ、またその認識を改めさせたきっかけでもある。この事故 が、「原発のある地域」としての浜岡地区にも、なんらかの影響を与えたのではないかとい

う仮説のもと、取り上げるべきポイントの

1

っとする。

まず、浜岡原子力発電所が建設される前の浜岡の農業はどのようなものだったか見てい く。昭和

42 ( 1 9 6 7 )

年に浜岡原子力発電所建設の話が持ち上がり着工されるより以前、浜岡 地区は茶の栽培を中心とした農業地域で、あった。後の節で述べることになるが特に浜岡の 佐倉地区で生産された佐倉茶は大きな規模を持っていた。池新田地区や合戸地区では大玉 スイカの生産が盛んに行われていた。スイカの苗

1

株につき

1

つの実を育て、他は切って しまうことによって、栄養価を多く蓄えた大玉のスイカができる。これも、浜岡地区で多 く生産されていたものだった。また、昭和

3 0

年代には全国的に梅酒ブームが訪れ、それに 伴って梅の栽培もさかんに行われた。ナツミカンも、当時から栽培されていた作物の

1

である。

浜岡原子力発電所の建設が決定すると、多くの農地が宅地に転用され、中部電力関係の

(6)

人々のための住宅が建てられた。また、土地にかかる税が年々上がっていったこともあり、

農地として使っていた土地を手放す人も増え、売られたが買い手のない土地は、そのまま 空き地として残ることになった。

また、茶の栽培は表退し、かわりにサツマイモやサトイモなどのイモ類や、ネーブルや はっさく、それからあまなつなど、かんきつ類の栽培が行われるようになった。そして技 術の発展とともに機械やビニールハウスが導入され、栽培できる作物も増えたといえる。

1 . 3

原子力発電所建設予定地の農家

農業が盛んに行われていた浜岡に原子力発電所を建設する話が持ち上がる。結果として これは着工までこぎつけるわけだが、浜同の住民のなかには原子力発電所の用地に、自身 の住む場所が含まれる住民もいた。原子力発電所の用地には

10

戸ほどの家があり。住んで いた土地を離れるにあたって、農家をやめた人もいた。

中部電力の側としては、これらの人々や農地を手放した人々には、農業をやめて中部電 力関連で働いてほしいという思いもあったようだが、お年寄りと子供が多く、なおかっ農 家をやめても働きに出るということは子どもを見ることができなくなるという考えが強く

あり、反発を示した住民もいたらしい。当時、中部電力関連の従業員は、昼も夜もなく働 いている大変な印象を持たれていたようである。

当時、発電所用地に住んでいた農家のうちの

1

軒である

N

さん夫妻

( 8 2

歳男性、

78

歳 女 性)に話を聞くことができた。この夫妻の当時の生活は、原子力発電所の建設にともなって 新たな問題に直面した農家のうちの一例であるので紹介したい。

夫妻は現在の原子力発電所の守衛所のある場所のあたりに住み百姓をしていたそうで、

みかんや茶、タバコ、スイカの栽培を行っていた。中でもタバコの売れ行きがよく、主要 な収入源にしていたとし寸。昭和

43

(1968)年に原子力発電所建設にあたって引っ越しが決 まった。引っ越し先は一帯が山で、中部電力側がブノレドーザーでおこしたものだった。ブ ルドーザーでおこしただけで、処理しきれていない木々や岩はそのまま残されていたとい う。多額の補償はされたものの、家を建て、子どもを養いながら、移転先での農業が軌道 に乗るまで生活を送るには不十分に思える額だ、ったという。もっとも一度に金がかかるの は家を建てることで、これをなんと夫妻は自分たちで、行ったという。

また、農業用の土地も開墾しなくてはならなかった。開墾の傍らで奥さんが毎日拾い集 めた木の枝を業者に売って稼ぎにしていたという。開墾 4年目あたりから茶の栽培を再開 した。その一方で麦や落花生の栽培も行い、収穫物を売りに出していた。主とするお茶の 収穫量が増えてくると、重量のある生茶葉を売却先に持って行くのが大変になり、家で製 茶を始めることを決意した。遠い土地まで歩いて茶葉を運ぶということは、当人の負担も さることながら、夜遅くに帰ってくる親を待つ子どもにも負担を強いていたようで、なる べく家で仕事ができるようにしたとのことだ、った。

(7)

1 . 4

現在の農業

現在の浜岡では、先に述べたように、お茶、イチゴ、それからメロンを中心として、ネ ギやイモ類、かんきつ類などの栽培が行われている。技術の発展とともにあらわれた、ビ ニールハウスによる花や野菜の栽培を行っている農家もある。

これは浜岡地区に限った話ではないが、現代の農業は、栽培して出荷するだけでは生き 残るには不十分といえる環境になってきている。現代において重要となっているのは、い かに商品として売るか、ということである。作物を栽培および収穫しただけではほかとの 差別化が図れず、特に売れる「商品jは作ることができない。そこで、出荷する「商品」に一 工夫を加える必要が出てくるのである。それはたとえば、作物をキャラクターのついたフ ィルムでラッピングするとか、目立つ、ンールを

1

枚貼るとか、そういった工夫で作物の売 れ行きは変わってくる。

作物自体を加工してしまうという方法もある。たとえば浜岡では、サツマイモが盛んに 栽培されているが、この収穫したサツマイモを、ただのサツマイモとして出荷するのでは なく、切り干しイモに加工してから出荷する。作物としてのサツマイモに、多くの家庭で は作られることのない切り干しイモという「商品」としての付加価値をつけることができる のである。そうして生産された干し切りイモは、今や御前崎市で大きく売り出される商品

1

つとなっている。

ただ作るだけでなく工夫や加工を施す、また新品種の開発など浜間におけるお茶やイチ ゴといった、既に大規模に販売されている作物も、そういった成果によるところが大きい。

以下では浜岡で栽培される茶、イチゴそれぞれについて、さまざまな歴史や現状を見てい く。(大竹駿太朗)

2

茶産業

静岡県では、多くの地域で茶栽培が行われている。大きなくくりの中では静岡で作られ る茶は静岡茶と呼ばれるが、その中を細かく見ていくと、菊川茶、掛川茶、川根茶など、

栽培している土地の名を冠した茶が多く存在する。御前崎市の農業の基幹となっているの も茶産業である。いわば強豪ひしめく激戦区である静岡県の茶産業の中で、御前崎の茶産 業はどのような特徴を持っているのかを述べてし、く。また一方で茶産業を含めた農業は環 境の変化、産業構造の変化、機械化、海外との競争などの社会の変化や技術革新に常に翻 弄されてきた。現在ではベットボトル茶の普及、時間的・経済的に余裕がない現代人の生 活などにより、日本人のお茶を飲む文化が廃れつつあり、茶産業は苦境に立たされている。

その中で茶産業は変化する社会にどのように対応していくのかを、御前崎市の茶産業を通 して考える。

2 .   1

御前崎の茶産業の概要

(8)

御前崎市は静岡県の中でも特に温暖な地域である。

1

月の平均気温は

6 .7

度、年平均気温

16.4

度、降水量は年間

2 0 6 3 . 4ミリで、温暖多雨な気候である。そのため茶、園芸作物

の栽培に適し、それらが主幹産業となっている。そのような気候の特徴から、県内でも l、

2

を争う早場地帯であり、一般より

1 0日ほど早い 4

1 0日から 1 5日にかけて一番茶が摘

まれる。平成

1 9( 2 0 0 7 )

年の茶産出額は御前崎市全体で

2 1

億円であり、静岡県内で見ると第

8

位である。茶園面積は平成

2 1( 2 0 0 9 )

年に

6 5 0

ヘクタールで、静岡県内で見ると

1 2

番目と 広い方ではなし、(~静岡県茶業の現状(お茶白書)

  l J 2 0 1 2

静岡県経済産業部農林業局茶業農産課)。御前 崎市、特に旧浜岡町の茶業を詳しく見てし、く。

2 .   1 .   1

旧浜岡町の茶産業の歴史

ここでは御前崎市旧浜岡地区の茶産業の歴史について述べる。この項では主に『小笠茶 業史~ (小笠茶業史編纂委員会

1 9 8 3 )

を参考にしている。

御前崎市旧浜岡地区では江戸時代から自家用、あるいは副業的に茶栽培は行われていた ようだが、本格的に地域産業として栽培が開始されるのは明治に入ってからである。物々 交換の時代から貨幣経済になり、茶は換金作物の主力となった。もっとも、その頃は手摘 み手探みの時代であり、能率も品質も低かった。そのうち徐々に手探み技術が進歩し、品 質が改善されたので茶は非常に高価に販売された。明治

1 7 ( 1 9 4 2 )

年には佐野城東郡(現在の 掛川市・森町・袋井市・菊川市・御前崎市)に茶業組合が創立され、組織的な技術指導が行われる とともに、茶園の増加が図られた。しかし、手摘み手探みできる量は限られており、生葉 の加工が茶園の増加に追い付いていなかった。

明治

3 0 ( 1 9 5 5 )

年、手探み作業を行える機械が開発された。とはいっても、今のものより ずっと簡単な構造で、品質も手探みに比べると劣り、全ての工程の半分くらいしか行えな かった。加えて機械自体が高価だったため、零細規模農家では導入は難しく、大正中期ま で手探みの時代は続いた。それでも茶園の増加傾向は続いており、大量の茶葉を加工する ために、昭和初期には機械製茶に移行していった。小規模農家は合同で製茶工場を設立す ることもあったが、一般には零細農家が製茶工場に生葉を売るようになっていった。これ により、生葉を生産する茶農家と、製茶を行う工場とに分業化も進んでいった。大正後半 からは生産の増加に需要が伴わず、茶業は不振に陥った。昭和に入ってもその傾向は続き、

世界恐慌の影響も加わってさらに茶業は深刻な状況だった。太平洋戦争が始まると茶園は 主要食糧作物の栽培を強制され、肥料や燃料などの欠乏、労力不足なども相まって茶の生 産は激減した。戦後の昭和

2 0

年代には輸出が再開され、生産も向上した。戦争によって打 撃を受けて復興が遅れていた紅茶産地の代わりに、紅茶の生産・輸出も行っていた。昭和

3 0

年代になると、高度経済成長時代になり、農村労働力は農外産業に移動した。同時に輸 出も停滞し、茶業は再び不況となった。浜岡には茶に代わる主幹作物はなく、茶業の不振 は地域の重大危機として受け止められた。昭和

3 5 ( 1 9 6 0 )

年、浜岡町茶業振興会が設立され た。浜岡町茶業振興会は茶園の老朽化、生産性の低さを改善して茶業の振興を図るために、

(9)

茶園の改植を推進し品種茶に活路を求めた。最初、生産者は改植に懐疑的だったが、「やぶ きたJが消費地で好評になると、積極的に改植するようになった。その頃大型製茶機械も全 面的に普及した。昭和

49 ( 1 9 7 4 )

年になると茶園の面積は増加し、品種茶の面積も

5 0

パーセ ント程になった。海岸地帯では栽培放棄による茶園の荒廃が進んでいたが、他地域での老 朽不良茶園の淘汰や茶園の再開発で全体的には増加していた。昭和

50

年代に入ると、改植 や新植が進み品種茶園面積は

7 0

パーセントを超えるようになった。

2 . 1 . 2

梅の木の下の茶園

『小笠茶業史』によると、「かつて池新田・佐倉の茶には梅の香があると流通市場の一部 からも認められていた。池新田の焼塚坪(やけづこ)は梅林が広がり、梅の花の咲く頃は、花 見客で、賑わったこともあった。佐倉地区にも梅と茶樹の混植園があった。この梅の木が被 覆がわりになったのは明らかだが、梅の若葉には芳香を秘めているからその移り香か、特 殊な香りがある茶がある茶があったのか、何れにもせよ梅の香で有名な時代があった。現 在ではその梅の木もすっかり姿を消しているJ(小笠茶業史編纂委員会

1 9 8 3:  2 0 5 )

とある。この 佐倉地区にあった梅と茶樹の混植園のことをここでは「梅の木の下の茶園」と呼ぶことにす る。「梅の木の下の茶園」について、今回のフィールドワークでインタビューした内容に基 づき述べていきたい。

「梅の木の下の茶園」は終戦頃まで佐倉地区に存在していたとしづ。梅と茶を混植するこ とのメリットは

3

つある。

1

つ目は茶と梅の両者を収穫し、収入源にできたことである。特 に昭和

3 7 ( 1 9 6 2 )

年に酒税法が改正され、家庭での梅酒造りが認められると、梅酒ブームが起 こり、梅が高値で売れたそうである。

2

つ自は梅の木は自然の遮光栽培に役立つということ である。通常、茶栽培における遮光といえば、古くはよしずや稲わら、こも、むしろなど、

近年では黒色の化繊織布やネットで茶樹を覆うことをいう。梅の木はそれらの代わりに茶 樹を覆い、日光から茶樹を守る働きをする。強い日光が当たると茶はタンニンが強くなり 渋くなってしまう。逆に日光に当たらないことで茶はアミノ酸が増え甘くなる。当時の生 産者たちがタンニンやアミノ酸について知っていたわけではないだろうが、自然を生かし たこのような工夫が行われていたのには驚く。

3

つ目は梅の木は自然の霜よけにもなってい たということである。霜よけも遮光と同様に、普通は稲わらを広げてかけたり、むしろや こもをかぶせたり、化繊織布を利用するが、梅の木はそれらの代わりとなっている。霜は ちょうど茶摘みの頃に発生するが、茶摘みの時期の茶樹は特に霜に弱い。霜が発生してし まうと、茶摘みが遅くなるだけではなく、茶葉の品質も落ちてしまう。茶栽培には霜よけ の工夫が不可欠である。梅の木は茶樹を覆うように生えていたため、天然の霜よけの役割 を果たしていた。

この佐倉の茶は淡白な味で、上品な甘さがあり、前述の通り梅のような香りがあること が特徴である。この梅のような香りを「佐倉香Jと呼んで、いたとしづ。加えて茶園面積も小 さかったので手摘み手探みを遅くまでやっていたとしづ。機械化が進む中で手摘み手探み

(10)

は珍しく、貴重だとされた。これらの特徴から、明治末期、あるいは大正初期から佐倉の 茶は注目され、東京などで、人気だった。

しかし、そんな佐倉の茶に変化が訪れる。 lつ目の変化は機械化の影響である。効率化が 進み、機械で、の茶摘みが主流になってくると、梅の木は邪魔になったので切られてしまっ た。また防霜ファンの取り付けで梅の木の防霜効果が期待されなくなっただけでなく、他 地域での防霜ファンの取り付けは茶摘みの時期の平準化をもたらした。佐倉も含めた浜岡 の茶の特徴で、あった早期収穫という利点がなくなってしまったのである。茶園の規模も拡 大しつつあり、小規模茶農家が多かった佐倉の茶樹も徐々に姿を消していった。

2

つ目は消 費地の噌好の変化である。深蒸し茶が人気となり、「やぶきたJが普及した。深蒸し茶はき れいな緑色の水色で、香りは弱くなるが味が濃厚となる。昭和

40

年代以降、都市部で深蒸

し茶が好まれたのは、都市部の水質が悪化し、カルキに負けない味の濃い茶を求めたから だとし、う。佐倉のような砂地では味の濃い茶ができない。このような変化から、佐倉で茶 産業は徐々に衰退していった。

2 . 2

御前崎の茶産業の今

現在静岡県で栽培されている品種は「やぶきたj

90

パーセントを占めている。御前崎市 でも「やぶきたJが主流である。昭和28 (1953)年に農林水産省が茶の品種登録を始めてから

6 0

種類以上の品種が登録されてきたが、その中で普及している品種はごく一部である。こ れはいったん植えつけると数十年はそのまま生産を続ける茶の特徴で、簡単に新品種への 改植ができないのである。最も一般に普及している品種茶「やぶきたjは日本の広い範囲で 栽培することができ、高収量・高品質で収益性に富んでいる。栽培もしやすい。そのよう

な理由から「やぶきた」は幅広く普及した。しかし、「やぶきた

J

は優れた品種であるが、全 国的に「やぶきた」に偏向しているため、摘採時期が集中すること、気象災害・病害虫によ る一斉被害のリスクが高いこと、各産地の特色の消滅など、多くの問題も抱えている。そ んな中静岡県内の各地で「やぶきたjからの脱却を図るために様々な取り組みが行われてい る。御前崎市では「つゆひかり」という品種の栽培・普及を推進している。御前崎市の「つゆ ひかり」の取り組みを紹介する。

2 . 2 . 1

御前崎市の『つゆひかり』

「つゆひかり」は県茶業試験場で平成

12( 2 0 0 0 )

年に開発された新しい品種で、摘採期は「や ぶきた」より

2

日ほど早く、御前崎の温暖な気候を生かすことができるのが特徴である。苦 味や渋味が少なく、爽やかな香りで、特に水色はきれいな緑色をしている。「やぶきた」一 辺倒の解消を目指す県茶品種普及協議会が「推進すべき品種」とした

8

品種の内の

l

つであ

「つゆひかり」に取り組むきっかけとなったのは平成

1 3 ( 2 0 0 1 )

年頃から茶の販売が伸び悩 んだことにある。そこで「産地の特徴の出る茶、他にはない茶を作りたし、」という希望から、

(11)

戦略的に何か新しいことに取り組めなし、かと茶商から提案があった。そこで地域特性を生 かせる新しい品種の栽培に取り組むこととなった。半年の審議・協議の結果、初めての人 にも受け入れられやすい味、香り、水色を持ち、加えて早生品種という御前崎の地域性に あった「つゆひかりjに決まった。平成

1 4( 2 0 0 2 )

年から試験栽培を繰り返し、徐々に面積を 広げ、平成

2 4 ( 2 0 1 2 )

年には栽培面積

4 . 9

ヘクタールとなった。平成

1 9( 2 0 0 7 )

年には小売りも 開始され、本格的な販売が始まった。

一方で「つゆひかり」のような新しい品種の栽培に取り組むのはとても勇気のいることだ ったという話も聞いた。生産者は経済的に苦しく、新規に「つゆひかり」の栽培に着手した くてもできない生産者もいる。茶は改横してから

5

年ほど経たないと収穫できず、流通構 造が「やぶきたJを中心として形成されているため、新しい品種に着手しようとしても難し い状況が続いてきた。しかし御前崎では、生産者、茶商、農協、行政によって構成される「御 前崎つゆひかり普及会」のメンバーが中心となってその状況を打破しようと努力を続けて いる。市が「つゆひかりjの苗を助成したり、

PR

活動にカを入れて販路を拡大する努力を行 ったりと、行政、生産者、茶商が一体となって「つゆひかり」に取り組んでいる。「御前崎つ ゆひかり普及会jの連絡会議では、「つゆひかり

J

を含めた茶業の現状や、普及活動の結果の 報告、今後どうしていくかの話し合いがなされた。「つゆひかりjの互評会も行われ、見た

目や香り、水色、滋味を

5

段階で評価して平成

2 4 ( 2 0 1 2 )

年の「つゆひかり

J

の質を確認してい た。次の項では「御前崎つゆひかりjの普及活動について詳しく述べてして。

写真

1

御前崎つゆひかり普及会連絡会議の様子

(12)

写真

2

つゆひかり互評会

2.2.2  r

御前崎つゆひかり』の普及活動

「御前崎つゆひかりjの普及には官民一体となって取り組んでいる。生産者、茶商、農協、

行政によって構成される「御前崎つゆひかり普及会・御前崎市茶業振興評議会」が様々な企 画を立て、認知度の向上を図っている。その普及活動を紹介する。

まず、「つゆひかり

J

の様々な商品がある。その中でも「つゆひかりパウダーJや「つゆひか りティーバッグ」、「つゆひかりベットボトノレ

J

は茶葉を急須で流れて飲まない人にも手にと ってもらえるように工夫された商品だ。幅広い世代に気軽に飲んでもらい、「つゆひかり

J

を知ってもらうことが目的である。また、県内外のイベントなどに参加したり、富士山静 岡空港での

PR

活動を行ったりもしている。

写真

3

つゆひかりの売り場

しかし、最も特徴的な普及の取り組みは「つゆひかり初摘み体験Jと「つゆひかりカフェ」

だろう。「つゆひかり初摘み体験」は平成

21( 2 0 0 9 )

年から始まった取り組みで、「つゆひかりj

の茶園で家族連れなどの参加者が生産者の指導を受けながら手摘みを行うというものであ る。体験が終わった後は「つゆひかりjの試飲や、「つゆひかり

J

を使ったスイーツの試食も 行い、参加者と茶業関係者が交流を深めている。平成

23( 2 0 1 1 )

年には茶園のトレッキング も行うことで、他の同様のイベントと差をつけている。平成

24( 2 0 1 2 )

年の参加者は平成

23(2011)

年の約

2

倍の

47

名で、雨にもかかわらず事前予約した全員が参加し、認知と人気

(13)

のほどが窺える。

I

つゆひかりカフェ」は平成

2 1 ( 2 0 0 9 )

年に実験的に取り組まれ、以降毎年行われているイ ベントである。

4

月下旬から

5

月上旬にかけて、御前崎市内の様々な届舗で開催されている。

各府舗で趣向を凝らした「つゆひかり」の飲み方を提案するとともに、御前崎市の特産品や 茶葉を使った創作スイーツなどを来場者に提供している。

1

年目の平成

2 1( 2 0 0 9 )

年には茶小 売屈を中心に、市内のホテルや専門学校、飲食庄、観光協会など

1 5

ヵ所で開催された。

2

年目の平成

2 2( 2 0 1 0 )

年にはサーフスクール、電器屋などの異業種の参加が増え

1 6

カ所で、

3

年目の平成

2 3 ( 2 0 1 1 )

年には文具屈も含めた

1 8

ヵ所で開催された。

4

年目の平成

2 4( 2 0 1 2 )  

年は春だけではなく夏、冬の年

3

回開催する予定であるとしづ。春の開催時期はちょうど 新茶の時期であり、茶業関係者は忙しいため、接客に力を入れられないことを嘆いていた。

また夏や秋冬は、新茶時期に比べると茶の消費が落ち込む時期である。そのため、春、夏、

冬の

3

回開催することにしたそうだ。夏は「御前崎つゆひかり」の粉末の使用や、アイス、

かき氷、冷茶などのサービスで春のイベントとの差別化を図る。この取り組みは「つゆひか り」の認知度向上と消費拡大を図るだけでなく、御前崎茶の地産地消や観光の振興、異業種 のコラボレーション、茶業関係者と消費者のコミュニケーションなど様々な可能性を秘め ている。「御前崎つゆひかり普及会Jはこのイベントを御前崎の新茶シーズンの恒例行事と して定着させたいとしている。まだ始まったばかりの取り組みでもあり、今後の展開が楽 しみである。

2 . 2 . 3

茶産業と東日本大震災

ここでは平成

2 3( 2 0 1 1 )

年の東日本大震災による影響について述べる。静岡茶の一大消費 地であった東北地方が被災し、首都圏でも自粛ムードが続いたため静岡茶の売り上げは厳

しかった。それに追い打ちをかけるように、福島第一原子力発電所の事故による放射性物 質が茶から検出されるという出来事が起こった。時系列に沿って見ていきたい。

その前に茶に関する放射性物質調査について簡単に述べておく。茶の放射性セシウムの 国の暫定規制値は

1

キログラム当たり

5 0 0

ベクレルと決められている。しかし茶は生葉か ら荒茶に加工する過程で重さが約

5

分の

l

になり、放射性物質も濃縮される。荒茶はさら に乾燥されて製茶となる。飲用する際は、茶葉に湯を注いで、抽出するために、放射性セシ ウム濃度は生葉の

1 0

分の

l

から

2 7

分の

1

程度にまで薄まる。このように茶葉は生茶葉、

荒茶、飲用茶の各段階で放射性物質の濃度が変わるため、どの段階で検査して規制対象に するかは政府内でも意見が割れていたが、

6

2日には生葉に加えて荒茶と製茶に関しても

検査を行うことを決定した。決定までには「国の定める暫定規制値には科学的な根拠がな い」として静岡県の川勝平太知事が反発するなど混乱が広がっていた。

平成

2 3( 2 0 1 1 )

5

1 1日、静岡県に隣接する神奈川県は、「足柄茶」が有名な神奈川県南

足柄市で茶の生葉から 1 キログラム当たり 550~570 ベクレルの放射性セシウムが検出され たと発表した。神奈川県は「すぐに健康被害はないレベルJだとしたが、南足柄市はその年

(14)

の茶の出荷自粛と自主回収を呼び掛けた。

5

1 4

日には静岡県は県内各地の生葉の放射性 物質検査の結果を発表し、いずれも国の暫定規制値を下回ったと発表した。

5

1 8日には

県内産の新茶を全国に発信するキャンペーンが県庁で聞かれた。これは神奈川県の足柄茶 から放射性セシウムが検出された問題で、静岡県内の

JA

グループなどが、県に対して本県 産のお茶の安全性を宣言し、一連の混乱を収束させる対策の実施を要請したことを受け緊 急に企画されたものである。

5

25日には千葉県と群馬県でも国の暫定規制値を超える放

射性セシウムが検出された。

川勝知事は当初茶の生葉と同じ

1

キログラム当たり

500

ベクレルの暫定規制値を荒茶に も適用するとし、う政府方針に反発していたが、平成

2 3 ( 2 0 1 1 )

6

3

日、政府方針にしたが って、二番茶の荒茶の放射性物質検査を実施する考えを明らかにした。

6

9

日、静岡県は 静岡市葵区藁科地区の一番茶の製茶から国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出さ れ、該当する茶を製造した

1

工場に出荷自粛と自主回収を要請したと発表した。

6

14日

には静岡市葵区藁科地区の

5

ヵ所の茶工場が生産した一番茶の製茶からも暫定規制値を超 える放射性セシウムが検出されたと発表した。

6

月初日、フランス政府は御前崎市の事業 所によって輸出された静岡県産茶から

1038

ベクレルという規制値を大幅に超える放射性物 質を検出したと発表した。該当する商品は御前崎市の業者が玄米と荒茶を混ぜた玄米茶で、

県は業者が保管する玄米茶について放射性物質検査を行うこととなった。しかし

6

21日

フランス政府が規制値を超える放射性物質を検出したと発表した静岡県産茶は、玄米茶で はなく別の緑茶だったと発表した。農林水産省とフランス政府との間で連絡に手違いがあ ったとみられる。該当する商品について同様に放射性物質検査を実施することとなった。

そして

6

22日、放射性物質検査の結果、国の暫定規制値を超える 981

ベクレルの放射性 セシウムが検出された。静岡県は該当する茶を生産した静岡市清水区庵原地区の農家に出 荷自粛と自主回収を要請し、業者に対しでもこの農家から仕入れた荒茶などを含む製品に ついて販売自粛と回収を求めた。

放射性物質の問題は、静岡県の茶業に大きな影響をもたらした。「静岡茶」に対する風評 被害は長年の信頼を大きく損なうもので、消費者へのイメージダウンとなり、買い控えに つながる。御前崎市でも

1 2 0 1 2

年になっても放射性物質問題で離れていってしまった客が戻 ってこなしリとしづ。長年の消費低迷に加え今回の風評被害等で茶業はさらに深刻な状態と なったといえる。東京電力が損害賠償を支払うとはいえ、培ってきた信頼やイメージを元 に戻してくれるわけではない。

2 . 3

茶産業の未来

この節では廃れてしまった御前崎市旧浜岡町地区佐倉の茶産業と、現在の御前崎市の茶 産業を見てきた。佐倉の「梅の木の下の茶園」と御前崎市で新たに始まっている取り組みで ある「つゆひかり」、

2

つの共通点は、他の地域にはない特徴を売りにした茶であるという点 である。一方は合理性、効率性を求めた時代の流れから廃れ、もう一方は今現在取り組ま

(15)

れており、渦中にある。画一化され、平準化していく中で消えていった多様性の復活であ るともいえる。フィールドワークの中で何度も「お茶は噌好品だから」という言葉を聞いた。

茶が噌好品であり、消費者それぞれの好みが多様である限り多様性が望まれるのは当然の 流れであり、時代が変化するなら消費者の好みが変化するのも当たり前である。茶は時代 と消費者の好みに合わせて変化してきたものであるといえるだろう。しかし、「梅の木の下 の茶園」が栄えていたときと、今の「つゆひかり」を取り巻く現状はだいぶ異なっている。経 済状況が厳しい中、噌好品である茶は家計から削られ、簡単に手に入り手間の少ないペッ

トボトル茶も普及している。紅茶やコーヒー、ジュースなどの多種多様な飲料もあり、茶 自体の需要が減ってきている。茶の好みだけでなく茶の飲み方、生活の中でのあり方も時 代によって変化するし、多様化しているといってもいいだろう。

茶は人々に暮らしの楽しみや豊かさをもたらしてくれる。「茶業は厳しい状況だ」と多く の人が話していた。しかし「頑張るしかなしリとも語っていた。そこに人々の豊かさを支え る人のプライドや意地が見えた。そのような人達が今までの茶業を支えてきた。「つゆひか り」もそんな努力の中から生まれた取り組みだ。茶農家、茶商、行政、農協それぞれが協力 して、厳しい状況を何とか打破しようとしている。「御前崎つゆひかり」が御前崎市の茶産 業の光になることを願う。

茶業の現在は非常に複雑で大変なことも多いが、茶業に携わる人々や「つゆひかり」、こ れからの茶業に期待を持ちたい。(茂庭可奈子)

3

イチゴ産業

気候が温暖な静岡県では明治の中頃にイチゴが導入された。温暖な気候とイチゴ栽培に 適した土壌がイチゴ栽培の発展に寄与し、それ以降栽培地域は広まり、現在県下にはイチ ゴ農家が数多く存在する。今回フィールドワークを行った御前崎市もイチゴ農業の盛んな 地域であり、産出額は年に約

11 億円(平成 1 8

年度,農業産出額)、市内では茶に次ぐ主要な農産 物となっている。

御前崎の歴史に詳しい

K ( 8 0

代前半男性)さんにお話を伺ったところ、

60

年以上前には、

今回フィールドワークをする上で拠点となった佐倉地区を含めた御前崎で、現在の静岡市 清水地区で当時から栽培されていた石垣イチゴと同系統の品種のイチゴが栽培され始めて いたとしづ。その後は、昭和の終わり頃に、特に池新田地区で栽培規模の全盛を迎えたが、

それ以降は現在まで、農業従事者の高齢化や就農人口の減少に伴いイチゴ農家の戸数や作 付面積も減少するなど、栽培の規模は縮小されてきているそうだ。

調査に当たり、御前崎市でイチゴを栽培している複数の農家さんにインタビューを行い、

主に、イチゴ農業を始めた経緯、イチゴ農業への今の携わり方、今後の予定や希望、御前 崎でのイチゴ栽培の 4点から、具体的な仕事内容や今まで、の経験、思いなどをお聞きした。

本節では、各インフォーマントのイチゴとの具体的な関わり方を記述し、同じく

1つの農

産物を育てていても、様々な思いや立場、それぞ、れ異った日常風景があることを示したい。

(16)

日常を見つめ直すことを、その積み重ねの先にあるイチゴ農業の将来を考える機会とした

3 .  1 

イチゴを重量錯する日々

御前崎市佐倉でイチゴを栽培する

S

さん

( 5 0

代前半男性)は、高校卒業後、父の後を継い で以来 32 年間農業に携わってきた。現在、普段は S さんとその奥さん、 S さんの父の内 2~3 人で作業をしており、休みの日には娘さんが手伝ってくれることもある。

インタビューを受けて頂いた

6

月初旬は苗を作る作業中だった。昨年の

1 0

月に植えた親 木を、増えた状態で今年の

4

月に取り出してあるのだが、その親木からさらに生えたラン ナー僅のこと、土に着床すると芽が出てくる)を、土が入ったポットにピンで固定する。これが

苗作りの作業だ。ポットへの植え付けが終わった秋頃、苗を土壌に植えることになる。

苗作り中の

S

さんの、最近の

1日の流れ方をお聞きした。

イチゴと閉じように

JA

に出荷 する枝豆やホウレンソクなどを収機した後で、イチゴの首に水をやり、その後上述した苗 作りの作業を行う。遡に

1

度はそれに加え農薬の散布を晩までに行う。用意した

1

3500

個のポット全てにランナーを植え付けるまでこの一連の作業を続ける。作業中はラジオを かけたりしながら、虫が付いていないか、病気の気配はないかなど、作物に気を配る。イ チゴの栽培中に避けたいことは苗が病気にかかることで、その予防のため農薬は欠かせな い。農薬は農林水産省で認定された有機農薬を使っているが、これは体に良いためという よりは、今まで 使ってきた化学農薬にはイチゴ、が抗体を持ってしまい効果が薄れてきたた めだ。これは有機農薬を積極的に取り入れる他の農家主んにも当てはまる事情ではないか

という

写真

4

ランナーをピンで止め終わったポット

3 .   1 .  1 

御前崎でイチゴを作ること

御前崎市は比較的温暖な土地だが、イチゴ栽培ではビ、ニーノレハウス等の施設を使い温度 を人工で管理するため、現在の栽培方法では元々気温に左右されない。ただし、冬場は、

遠州の空っ風という言葉があるように、常に風が吹く。これが問題で、風速

1 5 . . . . . . . 2 0

メート ノレの風が当たり前のように吹くせいで、ハウスの形が変形したり、ビニールが破れたりす

(17)

ることもある。天気予報では漠然と

20m

の暴風と表すのではなく、できたらどの程度の風 がどこを通るのか知らせてくれたら助かるけれど、と語る。風でそうなのだから台風の影 響は殊更だ。昨年の台風による被害は深刻で、清水さんのハウスも被害を受けた。他の農 家さんではハウスが倒壊したため、農業を続けることを断念した年配の方もいた。

昨年は福島第一原子力発事故があったが、御前崎市内にも浜岡原発がある。それについ てお聞きすると、「なければない方が、困るわけでもないと思う‑…一。原発の必要性を説い た人は原発で潤う人で、

JA

へだけ出荷する規模でイチゴを栽培している人は、必要ないと 感じてきたんじゃなし、かと思う」、とお答え頂いた。

3 . 1 . 2  

収支を合わせる難しさ

今後のことに関し、後継者についてお聞きすると、

JA

に出荷しても、取り決めで、売れ なかった分のイチゴは全て戻ってくること等もあり、なかなか収支が合わず、自分の子供 にもあまり勧められないという。定年後、いわば道楽としてする分にはいいと思うが、仕 事としては難しいと子供にも話しているそうだ。イチゴ農業全体の後継者問題については、

例えば、

JA

に個人で出荷しでも生活に十分な収益が出るくらいイチゴが売れる必要がある のではないかと考える。「もっと利益が出るようにするには、自分で設定した価格で販売で きればいいなあ、とは、思うけれど。イチゴの相場と消費者の金銭感覚を考えると、難し いことだよねJ。自身の領域は第一次産業、つまり生産するまでなので、工夫をするとすれ ば、イチゴを作るノウハウの向上やコストの削減などではないか、という。

イチゴの栽培はビニールハウスなどの設備とその維持にお金がかかる。以前だと、ビニ ールハウスでは、金属の外枠の中にもう

1つ枠を設け、二重がけにしていたが、今は中抜

けといって、内側の枠を無くして暖房で、温度を保つ方法をするようになり、重油を必要と する設備になった。重油は畑を耕す機械等を動かすためにも必要であり、個人的にタンク で所有している程大量に使う。しかし重油の値上げに伴いイチゴも値上げさせると消費が 伸び悩む。収支を合わせて赤字を避けたい中、重油価格の高騰は問題だ。

イチゴを出荷する時は

JA

で決められた菩の大きさと形の規格に沿ってパック詰めをす るが、それにきちんと合わせて、商品として良いイチゴを作った結果、お金にならないで いるのがジレンマだ。規格通りに椅麗なイチゴを作ろうとすると、一部の締麗なイチゴの 為に他のイチゴの花を摘む必要があり、全体の収穫量が減ってしまう。拳のように大きい イチゴを

2つ売りできないのかなと思うと笑って語る。中には多少の大きさや形の誤差を

気にせずにパック詰めした状態で市場に出回っている商品もある。けれども、自分は自分 で気持よく、商品としていいものをきちんと作っていきたいと思う、と語る。お話をお聞 きし、個人でイチゴを栽培していく難しさ、誠実にイチゴ作りをする事の大変さを感じた。

3 . 2  

観光農園と高設栽培の開始

御前崎市でイチゴを栽培する

M

さん

( 5 0

代前半男性)の家では、父の代から

JA

を介さず個

(18)

人で農業を営んできた。父の時代には一般に

1

戸当たりの農地が少なかったため、換金作 物の中でも少しの面積で利益が出るイチゴやトマト、芋や麦がこの地域で作られていた。

昭和

5 7 ( 1 9 8 2 )

年に父の後を継ぎ農業を始める。平成

6 ( 1 9 9 4 )

年、七つ山地区の人が共同で経 営していたサツマイモの観光農園に、若手として M さんも参加する。この農園は秋限りの 営業だ、ったため、冬場にも運営できる観光農園を作るべく、平成

9 ( 1 9 9 7 )

M

さんは新た にイチゴの栽培を始めた。現在面積にして

150

アールほどのビニールハウスを運営し、イ チゴ狩りも行う。イチゴ狩りと直売で出るイチゴは作物全体の

20

パーセント程で、採れた イチゴは主に出荷する。

以前は東京新宿の青果市場や浜松の市場へ出荷していたが、そうして市場を通す場合、

輸送時間のため出荷後

1週間はイチゴを持たせる必要がある。それには熟さず青いままイ

チゴを摘み取り、出荷しなければいけないが、そうするとお客さんの手に渡る頃には味が 落ちてしまう。そこで、現在は市場を通さず浜松市内の遠鉄ストアと直接契約を結び出荷 している。当日に摘み取りパックに詰めたイチゴを、遠鉄ストアの仲卸しの人が朝に来て 引き取り、翌日の午後には広頭に並ぶ。このため完熟状態で商品を出荷でき、新鮮で、美味 しい状態のイチゴをお客さんに届けられる。ただし、新鮮さを追究するなら直売所で購入 するか、イチゴ狩り体験をするのが一番だ。直売所では

3

種類の中からパックの大きさを 選んでもらい、お客さんの前で収穫箱からイチゴを摘み、パックに詰める。インタビュー は直売所で、行ったが、建物の中が仕切られており、仕切りの一部である窓から出荷するイ チゴのパック詰めをする作業場が見えていた。作業場を案内して頂いた。まず目に入った のは自動でパックの包装セロハンを貼る機械だ。手作業でイチゴ、をパックの中に並べた後、

機械の一部であるレーンの上へ載せると、後は自動的にセロハンが貼られていく。一台で 人件費に換算して

3

人分の仕事をこなし、パック数でいうと

4000

個に、セロハンを貼るこ とができるとしづ。

M

さんが実際に実演して下さったが、機械の外側が透明になっていて 貼られてし、く様子を見ることができるのか、と思った後にはセロハンが貼られた後で、あ っという間だった。そうした機械で、のパック詰め作業を窓を越して見える場所に直売所が あることで、お客さんに、直売所にある収穫箱の中のイチゴはパック詰めされる以前のも の、摘み取ったばかりの新鮮なものだということを伝えることができる。直売では「お使 い物」、つまりお土産やちょっとした贈り物として購入した人が、再度お使い物にとリピー ターとなったり、逆に贈り物を受け取った人が買いに来たりといったことが多く、口コミ でお客さんが来てくれているという。そのため、買ってそのままどこへでも持って行けて、

お客さんが贈り物にしやすいよう、少し高級感が出るように箱と蓋、袋を用意している。

蓋には静岡いちごの文字と御前崎フルーツファームという会社名、ホームページのアドレ スも印刷されている。確かに、改まった気持ちを表したい時には贈り物にさいてきかもし れない。「過剰包装といわれれば確かにそうだけれど、人にあげるときのことを考えたら、

こういうのがあってもいいと思う」、と語り、「お菓子だ、ったら持って行っても他の人と被 ってしまうこともあるかもしれないけれど、イチゴを贈り物にすると、そういうことも少

表 1 浜岡地区の農業経営体数 専業農家 第一種兼業農家 第二種兼業農家 池新田 70  86  71  佐倉 23  22  32  比木 1 8  45  132  朝比奈 27  84  1 1 6  新野 24  35  75  合計 162  272  426  出典: ~2005 年農林業センサス』 表から見ても、第一種と第二種を合わせた兼業農家が専業農家をはるかに上回っている ことがわかる。全国的に専業農家が減っていることの縮図といえるだろう。 地域農業を捉えるためにまずは浜岡地区の農業の歴史

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