經 營 に 於 け る 關 係 論 的 思 惟 の 問 題
︵ 一
︶
渡 瀬 浩
( 目
次
) . 一
︑ 序 言
二︑線殊社会学的研究に於ける社会概念の検討
A 経済の本質と社会関係
月 請社会科学共通の基礎知識としての附係の概念
C 行動の社会的構造
D 人襟的関係
E 経済社会と社会経済
F 経営学と社会学の関係の問題
三︑経営に於ける組織論的思考の批判 A 若干の社会学的術語 e ; 結 合 経 済 と 個 別 経 済
C 問題の形式社会学的解釈
D 組 紹 諭 と 社 会 学 ( 以 下 次 号 予 定 )
E 経営自主体の理論
四︑経営に於ける総人間関係の分析
A 二種の袋団1組紹
E . 経 営 団 体 と 人 間 柴 田
C 経営空間の問題
経営に於ける関係論的思惟の問題
一五一経時凸と経済
主
一 ︑ 序
4
一 一 員
我々は本稿に於いて﹁経営社会学﹂という名称を使用していない︒しかも所謂経営社会学と呼ばれているいくつか の試みに関心を持ち︑それらを批判せんとした︒その際︑先づ経営と(社会)経済とを経済行為の連関という︑上り 一般的な概念の下に包摂し得るとして︑更には共に単に経済と呼ぶととが出来るものとして!とのとと学界普遍の己
とであるが l
問題を経済の社会学的研究として設定し︑ととの真相に迫るべく努力して見たわけである︒との乙とは 一つの新らしい社会科学が方法論的に可能なりや否やの問題であるロ特に経営現象に於ける実践的要求の激しい乙と
を知りクふも︑社会科学に於ける純化と休系化という至上命令に背くわけにはゆかないのであるロ
ととろが一般に社会科学︑就中経済学と社会学の性格内容に関する異見の存在は︑問題に対する最終的結論はとも
角として︑そのプロスベク T
すら従え難いのである︒特に区えたる社会学の立場により各人各様の観方がある︒綜合
社会学的立場は先づ斥けるとしても︑︐﹁関係社会学或いは結合社会学﹂乃至﹁ヴイ 1
ゼ日高田社会学﹂という視点に
止り︑{北野熊喜男﹁経済社会学﹂ l 大阪市立大学経済研究所編﹁経済学小辞典﹂昭和二六年︑二一二ー一二三頁所牧)社会学
界最近に於ける業績が︑との問題解明に際して充分に参照されて居ないのが現状であると思ろ︒
結合社会学は所謂社会関係と云われるものの中︑結合のみをその固有の対象として取上げた︒かくて︑その場合に
於ける円
2 5 5 ]
としての関係自体が諸社会科学の共通の基礎知識と考えられる時(高田保馬﹁社会科学通論﹂昭和二五
年第十六章)我々はとの概念を以て︑我々に課せられたる E の
2 2 2 w
ロ ︒ 円
3 を解く鎚であると信やるのである︒従っ
て本稿の内容は終始︑との概念の解明検討に費されている︒少くもそれを中心としている︒﹁何等かの方面より見ら れざる関係はない﹂のであるから関係自体を直ちに経済関係の色に彩られているものとして把挺する乙とが第一の仕 事になった︒経済的合意︑経済的行為連関としていはど経済のレッテルをはる乙とによって先の残余概念の一部を吸
牧するという道行きをとるロ
経済に対する社会のアプリオリを主張したのは例へばグムパル
T
であったが︑逆に経済の本質たる有償的物財獲得
の非社会性︑社会現象以前たる乙とを見抜く直観は之を継承し︑傷付けざる様︑苦心したつもりである︒と同時に社 会学的領域に於ける﹁結合の上位﹂という観方は之を回避した︒怪済的行為述閉止しての経済︑経済行為の総休とし ての経済が経済学の対象であるとすれば極済行為は
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の方途として行為に限を向ける乙とが必要である乙とは申すまでもな
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との中間に当該社会科学的対象の休系を確定する乙とは︑例へば︒ハ 1
ソγ ズの﹁程
験の体系﹂
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の桔想に見らる
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如く必要なのでは左かろうか︒(吋・ 2
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忠印)たどかよるものが個々の社会科学にとって﹁共通基礎﹂であるならば︑それは例へば経済学に H
とって先科学的のものに過ぎないのではなかろうかという疑問があるが︑我々は之に答へる乙とが出来友い口唯︑︒ハ 1 ソ γ
ズのσ
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の構想の持ク合苔には心惹かれるものがある口
バ
I ソンズの経験の体系は科学的研究の記述と分析のために桔成された﹁経験的には相互関連的な存在する現象﹂で︑一方その 研究の結呆が有意義であって︑単なる自明のものたらざるよラに︑充分に包括的︑組合的で多極である如く︑地方に︑そとに含
まれる問題が支配可能で︑制限されている単純な現象の一体であることそ要する
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勿 論 か
Lるものを限定 するプロセスについては呉論があるが︑今は之にふれない︒
要するに此の論文は経営の社会学的研究がいかにして可能かという主題に関する一つの族索であるが︑叉同時に高 田社会学に対する一︑二の点に夕︑いての卑見を挿入するといろ結果になっている︒市して所見の叙述に於いていくク かの古門向︒ロを用いているロ人際的関係︑総人間関係︑団結たど︑勿論通用の術語とたクているものもあるが︑之に 我々の角度から見た一つの内容を持たせた︒︺
ω 円旬︒ロの使用はレヴイの云える如く必やしも理由のないととではない︒
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五クの図示も又便宜に基づき︑正確を欠くと思う口
終りに︑参照したる文献に・クき非礼の一一一口辞が多い口猪突する沼悲のたわ一一日︑切に先学の御寛恕を乞うもの寸ある︒
経告に於ける関係論的思惟の問題
五
経 営 と 経 済
一 主 四 一
4︑ 特 殊 社 会 学 的 研 究 に 於 け る 社 会 概 念 の 検 討 ( A ) 社会学が正しい意味の一つの社会科学となるために︑いかに激しい努力精進が続けられて来たかというとと は社会学史の示す通りであるが︑高田保馬博士の結合社会学の立場はその累積的苦闘に於ける一大モニユメシ
T であ る︒ととろが乙の社会の概念を例えぽ経済の概念と関係させ︑経済社会学︑経営社会学等が唱えられるとき︑右に述 べた社会学史に於ける特に今世紀初頭以来の業績が少くも完全に吸牧し尽くされているとは思はれない様な結果に立 ち至るのを見せつけられるととは実に遺憾なととである︒学史的逆コースとさえ思われると云うのは当らないであろ
うか︒社会学プロパ 1
の研究にたづさわる人々︑或いは所前社会学的研究を進めつ
tA
ある者にとって反省を促すもの ありという乙とは間違っていたいと思われる︒乙
tA
に一クの具体的な研究例を採り上げて乙の問題を考えて見ょうと
する所以であるロ
向井利昌助教授によれば一般に﹁経済は社会という根本地盤の上に存するの﹂から経済体制や組識の研究は﹁経済
生活 κ 関する社会﹂
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の研究左前提とする白他方又﹁経済
団体は経済に於ける有組織集団である︒﹂(三四頁)﹁経済圏は経済に於ける社会閤である﹂(三六頁}といわれるが︑乙の
﹁経済に於ける有組織集団﹂﹁経済に於ける社会圏﹂を﹁経済生活に関する社会﹂と解すれば(集団︑問︑連結は皆社
会であるから i
二 七
頁 i
)
結局︑経済体制や経済組織と﹁経済生活に関する社会﹂とは同じものであるのか︑又は具な ったものであるのか︒若し後者であれば如何に異なったものであるのか︒之が先づ問題となる︒而してかえる疑問に
対して根本的に答えようとすれば氏の基本の立場である﹁経済は社会を根本の地盤曹とする﹂という考え方及び﹁経済
生活に関する社会﹂という表現の実質的内容につき更に検討しなければならない口
同助教授も一式える如く経済の本質を生産関係として把握する立場は生産という行為とその基礎前提たる社会関係と
・を介析的に取扱クていない(二四頁}といラ乙とになり︑だからとの宋令祈の状態から一経済と社会を理論的に引き離す
という仕事︑即ち八刀析のメスを入れる乙とが必要である︒之は高田博士のマルクス批判から北野熊喜男教授へ︑更に
向井助教授へ引継がれた態度であると思う︒唯︑斯くて﹁社会人の生産は常に何らかの社会関係をまちて実現してお り︑窮局に於いて社会関係が基礎である︒﹂(二四頁)とか︑更に﹁経済的行為は社会的行為の一クである以上︑常に何 らかの社会関係を前提とし︑之に基づいて存立する﹂(二三頁)そして﹁経済関係とは経済に於ける社会関係である﹂
(二三頁)﹁経済的行為とは経済に於ける社会的行為である﹂(一一一ニ頁
νという規定が行われるとき︑その社会乃至社会的 ということは厳符に云クて何を指しているのであるうか︒乙の場合の﹁社会﹂が﹁結合関係﹂といろ近代社会学の対象と する社会であれば︑﹁経済は社会を根本地盤とする﹂のだから︑各独自の文化佃似たる経済と社会
(U
結 合
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( 8
・ ω
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於ける
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問 者 立 問 伊 丹 3
という乙とが結呆するのではたかろうか口(﹁結合の上位﹂という乙とにクいては後述)
この点について附言すべきは高田博士の社会学史観(第三史観)は﹁史観は社会変動の根本理論である﹂(高田保烏﹁第三史観
の 批
評 に
答 う
﹂
l 社会科学評論廿五焦所牧 l 九五頁)から︑経済の基底としての社会はむしろ形式社会学的のもの︑更には特殊
社会科学的ならざるものになっているという批判(新明正道﹁社会学に対する私の立場﹂ l 社会学評論四集所牧 l 九三頁)もあ
りうるし︑叉高田博士自らも﹁純粋関係﹂という言葉を使用されている︑自﹁純粋関係﹂については後で触れる︒
助教授に於ける経済の基底的なものとしての社会は︑従クて︑結合関係であるとは思われない︒乙
に﹁経済関係﹂ t λ
といわるもムものにクいて考えて見ょう︒之が氏に於いては経済学と社会学のニクの領域にまたがるものとされている ようであるが︑果してそうであるか口経済の本質が非社会的のものであるからと一去って
ω ﹁経済が経済行為の一定の
連関より成る﹂という向井助教授自身も認めている規定(一一一ニ頁)に於ける﹁連関﹂ということを全く無視してよいと
い う わ け で は な い
︒ い わ ん や 本 質 は 社 会 以 前 の も の で あ ク て も
︑ 経 済 は
﹁ 社 会 を ま ち て 発 生 し
︑ 社 会 の 上 に 存 続 す る﹂のである︒乙の問題にクいては﹁経済が行為の面に存立している﹂(二四頁)という経済概念に関する行為中心主 誌の同執は一両的であるロ行為と関係は表裏一体であり︑経済の行為中心的観方はあくまでも﹁便宜﹂仰の問題であ る︒従クて経済を経済たらしむるその本質ではなくとも﹁社会科学一般の共通基礎としての意味無色の関係自体﹂で あクて︑﹁経済という規定を加うるときにはじめて託済的の意味をもクもの﹂(高田・通論・一入入
l 一入九頁︺を経済概
れ自に於ける凶係論的思惟の向山
一 五
五
経 営 と 経 済
一 五
六 念の中に於いて見夫はたい乙とは大切な乙とである口﹁便宜﹂の問題であるというのは連関乃至体系としての経済主
理解するに当って経済行為より入るのが効果的であるという理解(︿
o g z z
ロ )
方法論的個人主義!の問題である︒ l
所前経済社会学と云われるものは純粋経済学の補完部分としてのみ考えられるべきもので︑それ自体独立した科学で
はないと考えらる L 所以である ω ︒
( B )
乙 L
K 向井助教授の立坊を基礎づけていると考えらる
λ
高田博士の経済社会学観にクいて述べて見度い︒高 田博士に於いては根本的には経済社会学(一般的に云えば特殊社会学)というものは承認されない乙と前述の如くで ある︒帰納法が独立の科学をつくらぬと同様に社会学的方法も又新らしき独立の科学をクくるととはない︒(ジシメ
ル)所謂特殊社会学の領域は作用せらる L
現象の説明乃至理解
( 2
8 ロ
血 与
民自己目︒ロ)として之を対象とする社 口 g
会科学の入り込む口だから﹁経済から来る社会の規定﹂は社会学(の補完部令)であり︑﹁社会から来る経済の規定﹂
は経済学(の補完部分)である︒要するに斯く解する限り︑﹁経済社会学﹂というものは厳将に一氏クて考えられ難い︒
右は﹁改訂︑社会学の根本問題﹂及び﹁社会学大意﹂に於ける説明であるが︑唯︑との部令に於いて若干の不明たる 筒所があるよう
K
見受けられる︒その一は特殊社会学の学問的性格を考えるとき社会学を平民科学と見て︑との立場
から論ぜられると同時に︹高田・根本問題二 O 四頁)又﹁形式社会学の立場に立クと立たざるとにかふわらや﹂(高田・大
意二ハ頁)とも一五われる︑﹁経済社会学の素抗﹂に於いては特殊社会科学としての社会学の立場に拠り︑綜合社会学
的立場に依らねと一氏われるが向︑形式社会学は博士自身︑例えばア 1
ベルと共に認めて訟られる如く︑厳斡た意味の 特殊社会科学としての社会学の名に依いしないのであるが
ω ︑経済社会学の性格につき考察する場合に︑特にすぐれ
て平民科学としての結合社会学の立場が守られていたいのは何故であろうか︒唯︑いくクかの社会学の性格︑立場と の関連に於いて可能注経済社会学の姿を拍くに止っているとのみ観るべきであるうか︒そのこは経済社会学というも のを前述の如く窮局的には認めないが︑強いてか
t A る名称を用うるときには︑それは﹁認済学の補完部介﹂(一角田・根
木 問
題 二
O 六頁)でもあるし︑叉﹁岡有の社会学の一分野の研究﹂(高田・大志一六頁)ともたると説かれている点であ
る︒﹁作用せらる
t A
側﹂に何れをおくかによクて呉なるのであろうが︑しかも同じく﹁経済社会学﹂という名称を与え るというととは︑それが余りにも広すぎる内容に汎たる乙とになるのではないか︒乙の点は﹁素描﹂によれば経済社 会学は経済と社会の相互作用の中で社会を中心として︑従って﹁経済に制約され︑経済を制約してゆく限りの社会結
合の考察﹂(一三九頁)即ち社会に主点をおく考方が採用されている(一四一頁)社会に重点在置くというのは制約する
場合も︑される場合もありうるのであるから︑故近の著書(﹁根本問題﹂や﹁大意﹂)に於けるが如く﹁制約される﹂
場合丈を対象とするのに較べると遥かに広い内容が持たせられている︒以上要するに高田博士に於ける経済社会学は
﹁形式社会学的たものを合めた特殊社会科学としての社会学的た社会に重点をおいた︑そのような社会との関連に於 げる経済を考察することを以て目的とする﹂しかもそれは厳絡に云クて独立の科学ではたいというのである︒
実質的内本立抜きにした以上の論議は︑今や他の方面から裏付けされねばたらない︒﹁社会科学通論として正面か
E ︑叉社会学方法論として側同から﹂(序文)も読まるべき博士の近作﹁社会科学通論﹂(昭和二五年)の特に第五部社
会科学の傾向と結論︑第十六ヰ諸社会科学の共通基礎は﹁日本社・会科学の混乱の中にも︑自ら進むべき前路の料ける 白光を哲一見せしめる﹂(序文)実り山立た内容を持ク口特に特殊社会学的思惟の拠るべき前提を教える口以下︑我えの
理解し得た限りに於いて服介並に検討を加え度い︒
先づ博士によれば﹁関係自体にそのま
結合八刃離的︑従クて←本当の意味の社会的意味があるというわけではない﹂
‑ A(一入入頁)従クて関係自体は無色で﹁経済的﹂関係︑﹁社会
H結合的﹂関係と怠つてはじめて各唱えの色彩を帯び︑意
味内容が加わる︒更に︑本来そのようた意味内容のたい関係自体は相互行動︑相互関係として社会諾科学にとクて共
通の基礎知識をたすものである(一八九 l
一 九
O
頁)乙のとと
L
﹁経済は経済行為の総体である﹂﹁而して総体とは目
的手段の関係による行動の組織﹂﹁その綜合されている姿﹂(高田・新前一 l
四頁)であるということふ合せ考えると
﹁程済学は(非社会的
U非結合的)関係にある経済行為を研究対匁とする﹂というととになる︒屡え述べた如く経済 の本質は﹁総体﹂の中にではたく﹁行為﹂の中にあるとしても︑前者が﹁社会科学一般の共通の基礎知識﹂であると すれば経済学は行為中心に﹁止って﹂はたらぬことになる︒之は前に述べた通りであるがの少くも経済学と社会学の
経蛍に於ける関係論的思惟の問削
一 五
七
経 蛍 と 経 済
一 五
八 関係の問題及び特殊社会学の問題を採り上げるとき忘るべからざることである︒
かくて﹁社会は或る色彩をもク関係そのものであるから︑関係に設も羽緑をもっといえる口社会学が関係をその学 問的関係枠即ち軸とするということはわかる︒けれどもそれが関係に対して他の社会諸学と同様なる並列の関係に立
ち︑それの首位を占めるものでない乙とも明らかである﹂(高田・通論一入九頁)というととになる︒勿論︑同じ筒所に
於いて博士は﹁内容的に見て社会が基礎をたすという乙とは云える﹂﹁社会が椛造の上に於いて基礎的役目を営むと いう乙とはわかる﹂﹁経済構造︑経済組織︑生産関係といえるものは社会組織比結合分離
ω 関係の総体を前提とせやノ
しては形成されやノ︑又考えられ難い﹂(一入九頁)と云われ︑乙れは前に述べてある乙とえ両立し難い.見解であるとも
見え︑我えの立場から云えば重要な点であるが︑このことについては次に取扱い皮いと忠う︒
(し)高田博士が社会科学一般の共通的な基礎知識としての﹁関係﹂と社会学問有
ω 対象としての﹁結合﹂を峻別
されている点は我えの目下の研究に於いて見るとき軍要注企て.どあるから︑乙の問題を一見に詳細に考察したければな
ら ぬ
博士に於ける乙の問題は前述の如く主として社会科学の方法論として︑又二次的には社会学のそれとして説かれて ︒
いるが︑後者は要するに﹁結合社会学の立場﹂に於いて説かれているのでもわかる如く︑主として特殊社会科学とし ての社会学に独自の対象を考えんとの意図の下に考えられたのであって︑従って﹁関係﹂一般の考察という点には︑
重点が泣かれていない︒我々は今の研究方針から見て乙の問題を積極的に究明じなければたら友いと忠う︒博士に於 いても﹁関係を本来怠味無色であるというのは︑之をグルドの複数心理的というが如ぐ︑相互作用可能態︑交渉用意
態として︑結合八刀離の意味から離れて見られうるという前提に立つ﹂(通論一九 O
瓦)ので︑か
L る関係一般が﹁すべ
ての社会諸科学にとって共通の基礎知識をなす﹂という場合に︑乙の﹁関係﹂の宍質的内容はいかなるものであろう か︒即ち各社会科学に於いて︑いかにとの知識がオリヱシTされるのであろうかという問いに川合えるのが我々の仕事
で あ
る 口
博士は﹁理論社会科学が其出発に先立ち︑基礎として有せねばたらぬ前提的知識﹂として①理解又は相互作用①行 動枯造①関係集積の知識を挙げられる
O (
一七六頁)との内︑①は所謂ウェ 1 パ 1
の理解といわる
L
もの︑社会科学方
法論の問題であるととは周知の如くである小山口①はパ1ソ γ ズ ( 叶 巳
8 2 T h w
吋
ω
0 5
)
の批判を通じて述べられている口
即ちパ1ソシズに於いては行動の社会的桔造に論及するとと余りに乏しいと︒単一の主体にクいて認めらるもふ行動出 浩に限ら
L T
﹁多数の主体が相互間の行動即ち相互作用により相結ぼれ︑相離る
L ととる﹂(一入三頁)換言せば﹁相理
解し︑相協働する社会生活﹂(一七八一片)という点がとり上げらるふ︒結局﹁個人に於ける目的手段の錯綜と︑主体問
に於ける仕事の錯綜と︑之に対応する主休問に於ける享楽の錯綜から成立するととろの名状し難きほど複雑なる行動
の社会的柏造﹂(一入三 l 一八四瓦﹀という乙曹とになる︒とのように単一主体の行動桔造ではなく︑むしろスミスからデ
ユルケムに及ぶ介業理論に関係する多数主体問の﹁社会的行動﹂に考察の中心があるのであクて︑要するにと
ω ① は
﹁行動の述絡又は連関﹂(一入四瓦)を意味する∞︒故後の①は社会学の対象としての結合関係に非ざる関係又は社会
関 係 を 取 扱 う 口 .
我えは以上の中①と①の連総を見る︒それら‑は①の認識論の問題ではなく︑対象の性質の問題である︒しかも行動と
関係はいうまでもか仏く別個のもので︑関係は行動の可能であり︑行動とは別佃に﹁存在するもの﹂である乙とにはちがい
たいが︑博士の如く行動の連関を取上げてパ1ソ
γ ズに於ける行勃椛造の非社会性を批判してしまった後︑しかも向
①の関係を挙げる必要は何故であろうか︒之は先日札も述べた如く社会本質に関する行動連関説を批判して︑結合社会 学の合告を民間せんとの意図である︒しかし行動述関説が行動の意識的危もの︑反省されたものに限定される欠点
(高田・大志二二瓦)については行為 l 行動!作用にクいての前提的解釈(高田・通論一七入頁)によクて既に触れてある
と乙ろで唯例﹁あるものとしての事象の流れ﹂(高田・通論一入七一ろの中︑関係を内包目︒︒ご
o p
円 ︒
口 ︒
︒ と
し て
持 た
ね ば
ならぬ社会学︑しかも社会学に於いてはか
L る関係止対象としての結合関係を区別するという考えによって①一と①が
一応別個に取扱われていると解する外はない︒か L る注立が忘れられざる限り︑換言せば社会科学一般の基礎知識とし
て行動 l 関係の梢造的︑相制的関連を見失はね限りは︑①の問題と①の内存は主たらざるを待たいのではたかろうか︒
経 世
臼 に
於 け
る 関
係 論
的 思
惟 の
問 題
↓ 五
九
﹁ 関
係 ﹂
は ︒
ハ
1 ソシズ広於ける行動の概念(一主体内の行動連関)とは﹁相たらんで﹂(高田・通論一七六瓦)列挙する
を要するであろうが︑﹁行動の社会的連関﹂(多数主体問の行動述関)というととろまで拡大してしまえば︑とりたて
L との﹁社会関係﹂と﹁相並ぶ﹂知識にする必要はか仏いのでは注いか
b社会科学一般に関する関係は意味無色である
が︑と同時に単なる﹁行動又は作用というのも意味仰い色である﹂(一品目・通論一八八五)
以上観来れば︑社会科学一般の共通問題としての﹁行為
l
関係﹂というと去が浮ぴ上る︒何故︑我えはかふる思考
過程を獲得せんと努力するものであか︒次によって明らかであろう︒
とのようた社会科学一般の共通知識としての﹁行為!関係﹂のうち︑先づ関係にアクセン・?を置いて述べよろ︒関
係が経済の色に染められるとき︑それは﹁経済関係﹂﹁経済的相互行為の可能能にひいては関係の総休としての﹁経 済構造﹂更に﹁経済組織﹂といわるふものに速友る︒市してか
L る経済関係︑経済構造︑経済組織と云わる
L ものは
経済的作用乃至行為と相互制約的のもの︑五ひに表哀をたすものであるととは前述の如くで︑経済団体︑経済組織の
範醇に於いて経営を考えんとする我々にとクては︑関係概念を町内凶目︒ぇ
Z P
ロのゆとする必要があり︑且クそれが R
可能たのである︒関係自体は社会学の独占物ではないとする主張の反面が有する積極的意義を経済に即して考えると
き右の如き考方が生れるのである︒今之を図示すれば次の如く友るであろう口
而して此処に至るまでの博士のモチーフは前述の如く関係の中の結合関係丈
が社会学の対象であるという乙とを一一一日わんとするにあって︑かくて︑﹁関係自
体﹂という概念がとり出されているのである︒そしてその結果︑上来我えが観 て来たととろに侠れば経済学と社会学は関係自体について並列的地位を粍得す るという意味に於いて互いに対等の立場に位置する乙とになり︑上の図ーはこ の乙とを示す︒又純粋社会学はまさに結合社会学
u 結合的関係の社会科学にな
るととによクて始めて平民件学になるというのはこのと
v ど
で あ
る ︒
我々は高田博士の純粋社会学としての結合社会学の基礎付けに関する説明に
( 図
1)経 蛍 と 経 済
一 六
O
B
経
会
社会学
十
LAぷ
ι
治
係
関A
経済学
C
D
於けるいはど副産物として生れた関係自体の概念を︑むしろ積極的に用うるととに工クて経済学に於ける行為中心的 思考の立義と限界に触れ︑克に経営の領域まで︑之を拡大理解し工うとするものである︒然らば経営の社会学的考察と して普通に取上げらる
L
ものは以上の理論措図に於いて奈辺に定位するものであるから更に論歩を進めて之を説く口 一方社会学は関係の中の結合関係のみを対象とする︒他方程済学も社会科学の共通的知識としての関係自体の上に 築かれる︒之は経済学及び社会学の領域確認(勿論之は社会科学通論の問題に関連する)に上り︑今まで説明して来 たような両者の述給︑関係伏置が結論されていると去に伴うものである︑更に﹁内芥的に見て﹂﹁枯造の上に於いて﹂
﹁社会は経済の基礎をたす︑即ち経済(経済的関係)は社会(結合関係)を前提とせ十して形成され十︑又考えられ 難い﹂のであるロ空気の如く全人類︑一切の関係を包括する生的共同社会(円︒げ
g ω m O B 巴 ロ
ω の E
止 ︒
品 ︒
同 庁
σ g ω m m y EE ロ ω の E
注 目 ︒
F23
門 広 一
Eω) 仰を認めて﹁結合の上位﹂を主張する博士の立場からそれは当然のととであろう Q
乙 の
﹁ 内
容﹂乃至﹁梢迭﹂に即しての右の説明を考慮に入れて先の図を変存すれば蓋し次の工一つになるであろう︒勿論︑描写 に過ぎないから命題の含む生命を傷付けているかも知れない︒
そして之は単に﹁社会はある色彩を持つ関係そのものであるから︑関係に故も親
緑を持クといえる﹂(高田・通論一入九一只)というのに止らや︑﹁結合の上位﹂という
大前提の認識を示すものである︒
結合社会学の主張と結合の上位という立場は共に社会の本質に関する問題であり
結合社会学が明確に説かれてからも(大正入年﹁社会学原理﹂の出版)次に結合の上位
が休系的に主張されてからは(大正十五年﹁社会関係の研究﹂出版)前者も質的段階的
に変化していった仰のであり︑かくてとの両者を一応独立の休系として見ることも
可能である︒即ち大道教授のいう結合社会学作於ける第一︑一一期と第三︑四期を劃
するものは﹁結合の上位﹂という立場を裏付ける理由が社会の本質は結合を以て不 可欠の要素とするのであクて︑外雌を以て不可欠の要素としないという社会の植成
( 図 2)
街│??│??
学│ 関 ; 係 結 l
社三 去 、
,係
関^ : I ‑ ' ミ
経
学
経色に於ける関係論的思惟の問問
一 ‑'‑
/
、
経 営 と 経 済
一 ‑
ノ、‑ ' ‑ ‑
上の重要さに関する第一の理由に加うるに結合そのものは介離そのものに先行するというその成立そのととに於ける 基礎性に関する第二の理由が添加されたというので仰との乙とは結合の上宇という立場を主張する根拠に関する︒勿 論︑結合社会学そのものは右の如き若干のニユアシスありというもの
L
その第一期より第四期広至るまで一貫した内 容を有するもので︑特に第四期に於ける最大の特徴は
g i o
仲 間
} と
ω ︒丘巳の医別に於いて頂点に達している例︒結合 社会学の立場が社会学の理論的体系に於ける純化の問題であるに対して︑結合の上位というのは︑工り広い一棋の哲 学的領域に属すると見られないであろうか︑それは経験的事実去の終合を期する一クの直観そのものであると云えな
い巧あろうか︒一クのイデオロギー的紅︑科学休系に直接の関係のない立場からの批判(治水幾太郎﹁自然法と有機体説 L l 社会哲学社会科学評論第一瞬・昭和入年・所牧)ーその内容は別として
l ω
存在を考えるとき之は無理た解釈ではないと
思われる︒
かくて言えるととは結合社会学の内容と結合の上位のそれはいはど次元に於ける主兵ありというと止である︒結合 の上仇という基本的︑前提的立場の基礎の上に結合社会学という社会学体系が考えられるととは︑後者の合蓄の教え
るととろである向︒今まで述べたととを図示すれば前掲の図
2
は上の如く苦改む るのが真相に近いと思ばる
L 口
図 3
に於いて経済(経営)の社会学的考察というのは経済と社会の平面に於け
る斜線
( μ )
が一不す左右の境界を取扱うのであって︑立体的左上下関係を問うの
ではない︒然らざれば一つの社会学主義に陥るからである︒先に﹁結合の上位﹂
については触れないと一一一日ったのは此の意味である白
( 図 3)
( D )
斯くて次のようなととが雪える筈である口﹁行動
l
関係﹂というのは元 来意味無色であるから経済の領域では純粋の経済的行動
l 関係というものが︑なけ
ればならたい︒ととろで此処に於いて︑﹁関係自体﹂というものを今一度とり出し
て見ょう︒博士の﹁関係自体﹂というのは関係のすべてが結合に非らやとする態度︑即ち社会現象の特徴と云わる
1 A
.ものから社会の特徴又は本質を区別するという考方に由来する(註日参照てそこで前にも問題を提出した如く関係自 体とはい小なる内容のものであるか︒即ち之を今や︑主題としてそれに対する解答を用意したければならない口結合
外一離の意味から離れて見られる複数心理的︑相互作用可能態︑交渉用意態と云われるが(高田・通論一九 O 頁)若し結
合の上位というものと併せ考えるとすれば︑その関係自体というものは結合の色に染まクてしまい(図
3 に於いて上
下の境界主はやしてしまえば)遂に関係自体
H
結合(関係)となるではないか︒だから︑むしろ﹁何らかの方面よ り見られさる関係はあり符たい﹂刊というのが正しいと忠われる︒勿論乙れは図
3
に於いて平面的に広がる経済︑社 会︑教育︑法作(図は一応経済と社会に二分していふ丈であるが︑文化佃似の数と共に更に多くの何唱え関係というも.
のが存在するととは云うまでもない)等の関係にクいて云えることである口関係自体は直ちに経済︑社会︑法律︑政 治等によって彩られて︑それらの関係になるにしても︑否それだからこそそれらの何れとも結び付く可能性あるもの
として関係自体という無色のものが梢恕される道理である︒
従クて関係自体を考える乙とに︑むしろ積極的意義を見出そうとすれば︑それは以上の如く︑人際的関係
l
人間関 係という用語は適当ではないーでなければならない︒要するに
u
人際的見一係というのは一方以上述べたのでもわかる通
り結合の上位という次元主離れる(それを否定するのではない)乙とによクて︑他方
5 2 w g E
の如く内的結合の分子 が夫はれた極限の姿という思考過程
l 共同関係︑利益関係(承認︑権力︑争闘関係)に接するものという考え︑乃至す
ペての人間的関係の柿造中に此の様に置かれるという考えーからではなく︑むしろ上述の如く純理論的態度によって
把握された﹁関係自体﹂の内容を示すものである︒従クて結国対に於いて物的関係
3 2
U ︿ O
岳 山
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l 広
︿古
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門E H ) に近 いとも思われるが︑必十しも然らや口何故なれば奴穀関係や皆殺し戦争と彼がいう場合に博士の指摘されるが如く︑
そ乙'に要素と定塑の混同が見られ︑しかも我えのいう人際的関係というものは何よりも要素であるからである︒たど
5 2
口止は刊士と兵なり︑物的関係というものを認めているという意味に於いて︑彼の所前社会外的関係の内容主 E
我えは以上の如く解釈する余地ありと思うのである例︒
終討に於ける凶係論的忠惟の問凶
経 営 と 経 済
一 六
四
一両国持士の﹁純粋関係﹂というのは﹁社会関係そのもの﹂(高田保馬﹁生琵力の自己運動﹂ l 終消論議三六巻荒昔︑昭和入年︑
一 一
一 一
一 頁
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換 一
一 一
一 口
一 切
ば﹁結合のト一位﹂という考方に支へられてゐるところの人問視によるものという意味に於いて﹁純粋の﹂人間関係というものが
一広われている︒三円山識﹂﹁イデオロギー﹂﹁精神的内界﹂﹁利出一一こを弛れて見るという点では﹁物質的関係﹂と云えるであろうが
叉との表現は誤解を招く︒何れにしてもこの純粋関係とい号考方が﹁関係自体﹂の中に入り込んでいるのではないかというのが
我々の疑問とするところである口何となれば︑関係自体はタルドの複数心開的というが如きものである(高田・通論一九 O
頁 )
といわれるが︑しかし之すら結合的対人制値的相互作用たる性格を持っていると見られるからえ高田・結合社会学の立場一九頁)
むしろ純粋関係の更に基底としての﹁人口の量的質的組立﹂ l 第三史観ーにまで遡ることが出来ないであろうか︒(高田・生産
力の自己注動三三頁及﹁階級及第三史観﹂大正一四年・特に第五章参照)
分間はいうまでもなく︑結合の以前にすら存在する原諸突としての﹁間柄﹂﹁相互制約そのもの﹂を盟論的に取上げらる
L中野
教授の構想については又稿を改めて触れねばと思う︒
中野浩一﹁結合と分雌﹂ l 社会科学評論四集所牧!同﹁社会学要請﹂昭和二四年参照
抗 述 の 如 く 高 田 博 士 に 於 い て は 形 式 的 に は 社 会 ( 関 係
﹀ と 経 済 ( 関 係
﹀ を 並 列 的 の も の と 考 え
︑ し か も 椛 造 的
︑ 内 容 的 に は 社 会 の 基 底 性 を 認 め る と い う と と に な っ て い る
︒ 我 々 の 木 杭 の 主 題 に 関 す る 限 り
︑ し か し な が ら
︑ 右 の 後 の 部 介 を 省 み た い
︒ 而 し て と の 場 合 の 社 会 と は 結 合 と い う も の で
︑ 社 会 学 は す ぐ れ て 特 殊 社 会 科 学 的 の も の で あ っ
v
た の で あ る が
︑ と の 点 に ク き 最 初 の 訊 問 に 彼 ク て 向 井 助 教 授 に 於 け る 社 会 の 内 容 如 何 口
向井助教授の社会概念は高田同士の﹁社会関係とは応酬の相互用意である﹂という如定をそのま
L採用する(向井氏前拍論文二
三頁)ととろがこの応酬の相互用芯とは所部結合社会学の立場であり︑その良少限度に於いてさえ﹁相手を敵とも忠はず︑和友
とも忠はず︑ある程度の親しみが﹂持つが︑近く寄せつけぬという態度を予想し︑従つ℃一定の関係な予想されたるもの﹂(高田
・根本問題一四頁)即ち或る屈の結合である(同ト二五瓦)従ってジンメルやウエ 1 バ 1 のいう社会的なもの
L普遍者ではない
との点について︑なるほど母子の閃係︑浅い友人関係の如く続出関係を前提とせぬ社会関係もあるが(高田・通論一八九瓦)逆
に社会関係を含まない経済関係というものは考えられないか︑デパートの売子が我々に対して単なる向品の引渡しをする者とし
て現はれる場合の関係の如きを一聞に附いてどのことを一一一口う葛は出来ないかロ本論の筋に直接の関係はないが附言しておき度いロ 同助教授は﹁特殊社会学としての経済社会学﹂を考え︑それは﹁社会経済﹂と区別された﹁経済社会﹂﹁経済に於 ける社会﹂﹁経済生話に関する社会﹂を専問的に取扱うもので︑乙の﹁経済社会﹂とは﹁経済を規定し︑之をば拘束 し︑或いは発民せしめる社会の全休的柿造﹂であるといわれる例︒しかも根本的には既述の如く﹁経済は社会の上に
存する﹂のであるから経済体制や経済組織と経済社会を同一のもの︑・或いは具志クたもの何れに解釈しても社会の制
約位︑少くも経済の被制約性が前提的に考えられている︒勿論具体的には︑即ち個々の場合にはそのような関係が認
められるし︑そのことを論やる乙とは自由であるが︑一般に経済が枯造的に社会の上に存立すると解するとすれば'︑
之までの高田博士の所説を照介して来た場合に明らかな如く︑か
t A る社会とは関係そのものと見られていると一式わね
ばならない口
( E
)
更に乙の﹁経済社会﹂と一氏われるものにクいて立入って研究せんとすれば︑向井氏がその理論的発展の上に
位すると思われる北野教授の所見をとり上げる必要がある︒北野教授も経済の本質は﹁物質的手段調達話勤﹂で之り 社会的というととはその本質の中に入らぬとする︒乙の点︑既述の高田博士の所論と全く同一であり︑正しいのであ
る︒しかしその実現は﹁社会関係をを通じて﹂﹁人際的に﹂行われる仰そのようた社会関係的伝経済が﹁社会経済﹂で
あるのに対して﹁経済的行為の︑人際的実現在可能ならしめる社会関係﹂﹁物質的手段調達に於いて立入る社会関係﹂
を﹁経済的なる社会関係﹂又は﹁怪済に於ける社会関係﹂簡単に云クて﹁経済社会﹂という(北野・前掲喜四 Oi
四 ・
一 一
良 )
それは又経済括勤が﹁人々の結合すなはち社会を基礎とし﹂﹁人々の相交渉する中に実現される﹂から﹁経済の社会
的梢成﹂(三九瓦)という認識を根本基盤とするもの
如くである︒而して経済社会学はかく規定された﹁淫済社会﹂ t λ
を研究対朱とし︑それは﹁特殊的社会科学としての社会学の一部門として︑あくまで専門科学の道左京
J
む
﹂ (
七 二
一 氏
) 蓋し︑社会学は一般に社会関係︑進んではその複合的持続化としての社会組織︑或いは組織休の性質︑諸形態︑並に
その変動の諸法則を探究し︑﹂経済社会学の対象たる﹁経済社会乃至げは済関係は特殊なる社会関係である﹂からでる
純白に於ける関係論的思慌の問問
一 六
五
経 営 と 経 済
一 六
六
る ︒
( 四
二 一
良 )
結局︑北野教授の経済社会学は﹁経済活動日経済的行為の行はる
L
人際的関係を取扱う特殊社会学であると﹂とい
う乙とになる口占んも単なる関係ではたく﹁結合﹂という文字も使われているが︑ハ三九頁)例えば高田博士の経済社会
学観を批判する筒所に於いては﹁経済に於いて人々の立入る結合又は関係﹂︹五五頁)とも一式われ︑必十しも明確な区
別がされていない︒斯く見てくると︑北野教授の説かれる経済関係乃至経済社会は単に経済行為の総体としての経済 そのもの︑教授のいう﹁経済の社会的措成﹂在意味するという乙とに我々によれば解し得られるのである︒乙の解釈
が正しいとすれば︑経済学は経済行為の学ではなく︑正に経済行為の総体︑﹁経済の社会的拙成﹂の学であるから︑社会
学の一部門としての特殊社会学たる経済社会学が経済学に完全に吸収し尽くされるという結果に立ち至る︒それは
﹁経済活動の実現そのもの﹂(四一頁)と﹁それを可能ならしめる社会関係﹂とが後者の関係概念が既述の諾社会科学
の共通基礎としての関係一般であるが故に︑互いに区別し難くたクたこと︑少くも後者の研究のために独立の科学が成
立し得ざるためである︒結局︑﹁経済社会﹂と﹁社会経済﹂のこつがその意図にも拘らや︑逆に重なり合クてしまクた が故である︒それは単に考察の主点の相違という乙とになっている口前述の如き高田博士の説明による綜合社会学と はいえねにしても︑広い意味の社会との関連に於ける経済の考察という乙とになクて︑決して独立の科学(特殊社会 学という意味)とは左ら左いのであり︑乙の点について北野教授の高田博士の批判はコ少くもそれを破砕するに足る 積極的立論に欠くという意味で必やしも充分なものではないと忠われる︒唯一両田博士の経済社会学に於ける社会概念 の広きに過ぎる乙とはその勤学的興味の故であるという北野教授の批判は当っているとしなければならない︒
今まで北野教授の所説について述べて来た乙とは向井助教授に於いても一氏えるのである口即ちその﹁経済社会レと
いう場合の社会とは結局︑関係一般﹁関係自体﹂ということになるのである︒だからこそそのような社会を基底に句お
いて経済が考えられ︑﹁経済は社会の上に存する﹂と言える乙とになる︒経済と社会をこの様に取扱えば︑経済社会 の考察という乙とは前の図
1 に於ける
A
B の関連ではなく︑
C
D の問題になり︑しかもそれは
A の内部・に関するもの
だクたのである︒之は経済学の領域に過ぎない
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勿論︑図によクても明らかな如く社会は経済と共に関係を共通基礎
に持つが故に︑而して社会は関係と円以も親緑を持つが故に︑その上うな研究が社会学的色彩を帯びる可能性は充分認 められるととろであり︑叉それは当然ではある︒とのことはしかし経済学と社会学の関連の問題を真向から取扱った ととにならねのである︒お上そか
E
ふる主題の考究に当って必要注乙とは高田博士も云われる如く︑関連する社会科学
!と 1 A
では経済学の性質を正しく把握しておくということである口 ( F
﹀ 乙
L
に本節に述べたととの結論をまとめて沿き度一い︒要するに向井助教授が北野教授と共に使用される﹁経 済社会﹂というものは関係との関連に於ける程済(行為
1 話勤)であクて︑それは一一一口実の正しい意味の経済以外のも
のではない︑(勿論﹁社会経済﹂の対概念として之を云うときは主点の相具ずというねらいはわかるふけれども)少くも
社会学固有の対象たる結合関係との述絡を集中的に問う乙とを可能友らしめる概念ではないのである︒従クて経済社 会学と云クても独立の科学を指向しているものではなく︑特に形式社会学的なものを意味する社会学的研究に相当す
ると見なければならない︒ア 1
ベルも観る如く︑ジシメルの吋
RB
はむしろ社会現ゑに於ける普遍的たものである
か ら
伊 ︒
4
ん も か
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る社会学的研究自体を否定するととはむしろ狭量に過ぎるであろうが︑我々にとっては︑より厳密 注規定の上
ι 二つの学問の交渉を見てゆき度いと思うのである口高田博士の考想の中にも既に述べたよう忙純粋社会
学の対象としての結合概念が特殊研究(勤学的展開も含めて)の実際に当クてはいはど稀釈されてジジメル︑ワエ
1
パ 1
的たものになクていた乃至接近していた乙とを我えは見出した'︒要之︑我々の学問的希望は所謂経済社会学的な
研究を北野教授の一一一一口われる如く﹁経済学と社会学との自覚的分立徹底の方向に﹂(北野︑前掲喜七二一良)進め度いので
あるから︑純粋社会学としての結合社会学の成果を吸収して︑而して経済学との関連の問題に迫らんとするも
ω であ
ズ る ︒
註 )
1 向井利回目﹁経済体制論の一課題﹂(国民経済雑誌入五巻四号︑昭和二十七年四月号所牧
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巻 末
完 私
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経済をして経済たらしむるものはこの総体ではない戸高田保烏﹁経済学新諮・第一巻﹂昭和十五年︑二一良)以下﹁高田・新
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1 パ ー に よ れ ば 経 済 行 為 ( 三 江 田 島 各
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経蛍に於ける関係論的思惟の問題
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高田博士のいラ終消行為の対日然的のもの︑対人的なものの区別に当るの (
であらう︒勿論ウエ 1 パ 1 の社会学の陀絡については必らずしも全面的には賛成し難い︒(高田保馬﹁結合社会学の立場﹂ l 社会学研究ニ巻第一集所牧 l 参照以下コ両国・結合社会学﹂と尋称す︒
3 高田保烏﹁社会科学通論﹂昭和二五年︑一入七頁︑以下﹁高田・通論 L
と 翠
称 ナ
︒
4 一両国保烏﹁改訂︑社会学の根本問題﹂昭和二四年︑二 O 一 l 二 O 六頁︑以下﹁高田・根本問問﹂と昇称す D 両国保馬﹁社
会学大意﹂昭和二五年︑一五 l 一六頁︑以下﹁高田・大意﹂と界称すロ
5 高田保烏﹁経済社会学の素描﹂(﹁国家と階級﹂昭和九年︑所牧)一四二瓦︑以下﹁高田・素拍﹂と界称す
D6 例ヘば高田・結合社会学一九頁︑
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7 組織的社会学というのは本質学としての社会学を中心として之に事宍学としての社会学?伴はしめたものである D ー単な
る事実丈では個性化的考察になるであらう(一両国保烏寸経済学方法論﹂昭和二四年二三頁
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i 事象学叉は宍在学(河内比
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としての社会学には事宍学
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の 二
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前者は経験的普通乃至経験的法則を求め後者は本質的普一回乃至木質的法則を求めるもので︑事宍学に土る経験的普遍は経
験︑帰納の路囲に終始するが︑それが木質学により即ち木質観照による事象の本質的連絡の先験的知識によって裏付けられ
て一間の必然性を持つに至り︑かくて社会学の体系が出来ト一る(高田保馬司社会関係の研究﹂大正十五年︑九九瓦以下)勿
論之は社会学について一広われたものであるが為参考︒
8 ﹁周知﹂の問題ではあるが︑特にアメリカに於いては︑之は内詩的に余り研究されていないとア 1 ベルはいう
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9 多数主体問に於ける行動の社会的連関の一一回は労働の連関であり︑分業の問問もこ
Lにある︒スミス︑デユルケムの古典
的作品といラのは﹀合
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∞這である︒向︑松島静雄﹁労働社会学の梢想と課題﹂(尾高邦雄編﹁労働社会学﹂ J
昭和二七年︑所牧)参照
m 高田保目的﹁経済学原理﹂昭和二四年第一版第五刷二一良参照
日高田﹁社会関係の研究﹂一四五一具
也大道安次郎﹁高田社会学﹂昭和二入年︑七四 l
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大 道
﹁ 一
両 国
社 会
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一
O 一 l 一 O
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向かふる考への萌芽はすでは﹁社会関係の研究﹂一一一六 l 一二七五にあらわれている
日社会を結合と見る立場には次の如き含苔ありという(一品目︑大窓一一一一 l l 二主頁)
( a )
之は社会関係のすべてが社会の形成に対して一様に窓義をもっという見方をとらぬ︒
( b
) それは社会現象の特徴とい
わ る
L
ものから社会の特徴叉は本質を区別するロ此木質は形相の古味ではなく︑社会という詰突に於いてに新らた出来て
いるもの︑いはど人々の集りという創治的綜合の成果をさすロ
( C )
社会を集団というが如き茸硬なる部分だけのものと見
ず︑共全幅に於いて把捉する︒
而 し
て 本
文 に
一 一
一 一
口 っ
た こ
と は
主 と
し て
前 二
者 を
指 す
D
M 高田寸社会関係の研究﹂一二六頁
口前払君︑二ニ六頁以下
日向井利凸﹁全体社会の基礎枯浩﹂(国民経済雑誌入二義克号昭和二五年一一月号所牧)三六瓦 η 北野熊喜男﹁続出社会の構造分析﹂昭和二二年︑四一一良
却 時
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︑ 経 営 に 於 け る 組 織 論 的 思 考 の 批 判
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現実の所前経済的関係と一式わるえものには︑前節の説明によっても明らかた如く︑純粋の経済的関係と厳密
に解釈した場合の社会関係が合まれるのが普通である口勿論との外に宗教関係︑法律関係等も混在しているが︑それ
経営に於ける関係論的思惟の問題
一 六
九
終 営 と 経 済
一 七 O
ちを一応捨象する口右の構図を︑今までは主として社会閤を念頭において︑従クて経済体制(国民経済)にクいて者 えて来たが︑それは当然︑団体従って経済団体︑組織についても言える筈である︒
社会には集団的たものと︑然らざるもの︑比取的に云えば積分的なものと微八守的なものが考えられる口前者は一
体的観念の存するもので集団(四円︒己
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の 23pm 円23B33!有組織集団(︒円
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