幕末明治期におけるわが国通貨主権と外国資本(上)
立 脇 和 夫
目 次
はじめに
I.洋銀(外国銀貨)との対決 1.日米和親条約下の通貨取決め 2.安政の開国と通貨改革 3.万延元年の通貨改革 4.維新政府と新貨条例
5.洋銀と円銀(貿易銀)の対立 6.洋銀・円銀の消滅と条約改正
(以下次号)
Ⅱ.外国銀行洋銀券の排撃
Ⅲ.外国銀行宛小切手への対応 むすび
(はじめに)
一国の通貨(貨幣及び紙幣)の発行権はそ の国の主権に属するものであり,しばしば通
1)
貨主権と呼ばれる。しかるに,わが国の近代 通貨制度は,開港の基礎となった安政の不平 等条約ゆえに,変則的な形で出発を余儀なく
2)
された。安政5カ国条約は,締約5カ国の貨 幣すなわち,外国貨幣が日本の貨幣と同種同 量を以て日本国内で流通することを,明示的 に認めていたからである(例えば,日米修 好通商条約第5条)。また,安政条約は紙幣
(政府紙幣及び銀行紙幣)に関する規定を欠 いでいたため,外国の銀行,商社による紙幣 発行に道を開く結果となったのである。
このため,開港後,幕府及び維新政府は,3)
通貨主権の回復を目ざして,営々と努力を重 ねたが,実質的にこれが完結したのは,改正 条約実施直前の明治30年3月であった。した
がって,安政条約時代は,そのままわが国の 通貨主権の回復過程であったといっても過言 ではあるまい。そうした観点から,本稿は,
わが国政府の外国貨幣(洋銀),外国銀行洋 銀券及び外国銀行宛小切手との対応につい て,その経緯と背景を分析する。
なお,本稿における年月日の表示は,原則 として西暦(太陽暦)で統一した(但し,引 用文は除く)。しかし,必要に応じて日本暦
(明治5年12月までは太陰暦)をカッコ内に 示した。
I.洋銀(外国銀貨)との対決
不平等条約と別称される安政条約は,通貨 面でも多くの問題を内包していた。特に注目 すべき点は外国貨幣の日本国内における流通
及び国内産金銀の自由な輸出を認め,また,
開港後1年間,当局において内外貨幣の交換 を保証した点にある。
このため,幕府及び維新政府当局者はさま ざまな通貨問題の処理に腐心することとなる が,当局者の無知と誤算が問題を錯綜させる 結果となったことは否めない。
1. 日米和親条約下の通貨取決め
安政5ヵ国条約が,幕末開港後の開放経済 体制において,自国貨幣と外国貨幣の自由な 交換を認めたのは当然、のことであるが,外国 貨幣の自国内通用を公然、と認めたのは通貨主 権の部分的放棄であり,不平等条約の一面を 露呈するものであった。
幕末開港当時,東洋における貿易通貨は,
メキシコ・ドル銀貨(墨西寄銀貨,略称墨銀),
米ドル銀貨(弗銀),スペイン銀貨などのい わゆる洋銀であったが,そのなかで支配的地 位 を 占 め て い た の は , 墨 銀 (Mexican Dol1ar)であった。墨銀は, 1535年以来,当 時スペイン領であったメキシコで鋳造された ものである。メキシコは,当時世界第1の銀 産地で, 20世紀の初めまでに鋳造された銀貨 は40億ドルをこえ,メキシコの輸出総額の過 半を占めていた。したがって,その流通範囲 は広く,まさに国際的な決済通貨というべき 存在であった。
洋銀には,その鋳造地,年代によって様々 の種類があるが,その1個の重量は平均して 0.866オンス,銀の含有量は90%内外であり,
この重量を日本の目方に換算すれば約7匁2 分であった(第4表参照)。当時内外貨の 通用は,基本的には,この洋銀とわが国の
い ち ぷ ぎ ん
一分銀との対用であった。
さて,外貨との対応は, 日米和親条約(神 奈川条約))の調印 (1854年3月31日=嘉永7 年3月3日)後,米国艦隊が下回に渡来した
際,米国人が日本での買物代金を支払うこと から始まった。当初,洋銀と一分銀との交換 比率は,暫定的に 1ドル=銭1貫200文とし ていたが,同年6月12'"'"'13日(日本暦5月17 '"'"'18日)下回了仙寺で行なわれた貨幣談判に おいて,幕府は1ドル銀貨を銀16匁,銭1貫 600文と主張し,これを米国側も了解したの であった。)その根拠は,弗銀の平均重量を 7.12匁,品位(千分比,以下同じ)865,従 って純銀6.16匁とし,これを当時わが国の地 銀買上価格10匁につき通用銀26匁 (1両=60 匁として)を基準として換算したものである。
したがって1ドル=16匁はほぼl両の銀相場 60匁の4分のlに当り 1分(15匁)と等し いとされたのである。
しかし, 1856年(安政3年)に着任した米 国初代駐日総領事ハリス(TownsendHarris, 1859年1月公使に昇任)は,この交換比率が 米国側にとってきわめて不利であると考え,
幕府にその是正を迫り,交渉の結果,翌日年 (安政4年)の日米条約(下回条約)では次 の条項が挿入された。
〔日本国米利堅合衆国条約第3条〕
亜米利加人持来る所の貨幣を計算するには,日 本金壱分或は銀壱分を, 日本分銅の正しきを以て 金は金,銀は銀と秤し,亜米利加貨幣の量目を定 め,然して後吹替入費の為六分丈の余分を日本人 に渡すベし(句読点引用者)。
この条項により,洋銀1個を以て一分銀3 個と交換されることとなった。メキシコ・ド ル銀貨の量目は417グレーン (7.195匁),銀 品位861.11であったのに対して,一分銀(古 一分銀jl)1枚の貨量は2.315匁,銀品位982.6 た、ったからである。この同種同量交換規定で は品位の点が考慮、されておらず,また度重な る改鋳によって一分銀の素材価値が,その名
目価値を下回るに至った点が見落されていた ことは重大な失策というほかない。
下回条約に続いて, 日米修好通商条約(安 政条約)の締結交渉が1858年1月25日(安政 4年12月11日)に開始された。通貨条項に関 するハリスの原案は同種同量の方式に従って 米国貨幣化対して日本貨幣と引き替えるこ と,従って下回条約と同様に6%の鋳造費を 認めるとともに日本貨幣の輸出を禁止するこ ととなってい足。ところが同年2月 3日(日 本暦12月20日)日本側が示した提案は次のよ
う に ゲ ス の 予 想 外 の も の で あ っ た 。
第五条,金銀の儀は,商売相聞き候上は,すべて 冗雑の手数は相省き候つもりにつき,別段金銀引 替え候には及ばず,其の国のドルラ立にて直ちに 当方の品物を調え,当方の金銀をもって其の国の 諸物をあがない候儀,互に差し支えこれ無きょう 致すベく、ついては是迄鋳減等の為六分の償を取 り候えども, ドルラル通用の上は,其の儀も相止 め申すベく最
日本側が提示したこの原案に対して,ハリス は次のような感想を述べている。
第5条は通貨に関するもので, 日本人に支払われ る外国貨幣のすべてに対して6%の両替手数料を 日本政府に与え,更に日本貨幣の輸出を禁止する 条項がのせてあった。私が全く驚いたことには,
彼等はその6%を放棄して日本の貨幣の自由な輸 出を許し!,また,凡ての外国貨幣は日本におい て自由に通用すべきことを言明したのである。)
通貨条項に関して,幕府の態度が急変し,
ハリスも驚くほどに大幅な譲歩を行なった理 由は必ずしも明らかでない。これに関して,
岡田俊平教授は, r幕府側の通貨問題におけ る譲歩は,京都開市の件と,外国人の内地自
由旅行の件を拒絶せんがため.の,交渉条件の 意味を含ましめたもののようである。国内の 撰夷論の強硬なることを慮って,政治的闘争 問題への対策のために,経済的利益を犠牲に したかの如く思われる」と推論している。)し かし,その後の新二朱銀の鋳造など幕府の対 応を考えあわせると, rこの条約にたとえ不
利の点があったにしても,それは将来の改鋳 といふ事によって之を補ふべき遠謀もあった ことを看取すべきである」とする遠藤佐々喜 氏の見解も一考に値しよう。)
しかし,好余曲折の末1858年7月29日(安 政 5年 6月19日)に締結された日米修好通商 条約では,次のような通貨条項が設けられた。
〔日米修好通商条約第5条〕
外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用 すべし(金ノ、金,銀ノ、銀と量目を以て比較するを 云)。双方の国人互に物価を償ふに日本と外国との 貨幣を用ゆる妨なし。
日本人外国の貨幣に慣ざれば,開港の後凡一箇年 の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜米利加人 願次第引渡すベし。向後鋳替の為め分割を出すに 及ばず, 日本諸貨幣は(銅銭を除く)輸出する事 を得,並外国の金銀は貨幣に鋳るも鋳ざるも輸出 すベ℃(句読点引用者)0 ,
(第l表)幕末期の貨幣制度
貨 幣 等 価 関 係
金貨(大判,小判等)
小判l枚=1両=4分 一分判l枚 =1分=4未 一分銀l枚 =1分=4朱 銀貨(一分銀,一朱銀等)
‑朱銀l枚 =1朱
通用銀(丁銀,豆枚銀) 銀60匁=1両
銭W(銅銭,鉄銭) 銭貨l枚=1丈 1,000文 =1貫 =1両
(第2表)
幕末期の主要金銀貨
主主ヨ豆a 目 金品位 金 含 有 量 銀品位 銀 含 有 量 金 天保(保字)小判 3.0匁0 千分比567.7 1. 7031匁0 千分比428.6 1.2858匁0
安政(正字)小判 2.40 555.0 1.33200 442.0 1.06080 貨 万 延 小 判 0.88 572.5 0.50380 423.5 0.37268 銀 天保(古)一分銀 2.30 2. 1 0.00483 988.6 2.27378 安政(新)一分銀 2.30 0.6 0.00138 893.5 2.05505 貨 安政(新)二朱銀 3.60 0.4 0.00144 847.6 3.05136 通
用銀 天 保 丁 銀 ・ 豆 板 銀 0.4 260.5 安 政 丁 銀 ・ 豆 板 銀 0.2 135.0 (注)量目は定量,品位は多数実験による品位である。
(出典)大蔵省編[大日本貨幣史j第8巻 87‑‑‑‑88ページ。
2.安政の開国と通貨改革)
安政条約に基づく,箱館 (1869年11月=明 治2年9月,函館と改称),神奈川,長崎の 開港 (1859年7月1日=安政6年6月2日) を前にして,解決すべき最大の通貨問題は,
大きく希離していた内外金銀比価の調整であ った。安政条約は,開港場における貿易取引 を許容していたので,その代金決済に伴う通 貨問題は,船舶の航行に必要な食糧,薪水等 の買付けしか認めていなかった神奈川条約と は,比較にならないほど大きな問題であった。
江戸時代中期まで1対15であった国内金銀 比価は,安永年間南銀銀の鋳造によって1対 11となり,下って文政年間小南銀の鋳造によ って1対8となり,さらに天保年間に入り,
金銀貨の改鋳を行なうや,比価は1対5.3に 低下し,当時欧州におけるそれが1対15半で あるのに比べて,実に3分の1の低位にあっ たからである。)国内の金銀比価 (1 : 5) を 海外の金銀比価 (1 : 15)と調整しないまま,
徳川時代の閉鎖的経済休制から,開放経済休
制へ移行すれば大きな混乱は不可避であっ た。国内の金銀比価を海外のそれにさや寄せ するためには,国内の金価引上げか,銀価引 下げ,あるいはその両者を実行しなければな らない。しかし,金価引上げは物価騰貴を 招来し,銀価引下げは改鋳損失の発生による 幕府の財政負担を避けることはできない。こ のため幕府内において,外国奉行と勘定奉行 の意見が対立するところとなった。すなわち,
海外事情に明るい外国奉行は,専ら外国幣制 との均衡を図る観点に立ち, しかも物価騰貴 を回避するため, r金銀貨を各国同様に改鋳 する場合,金貨は量目減ずるも品位を引上げ,
銀貨は品位を劣らしめるが,量目を増加させ る」ことを主張した。)
これに対して,苦しい財政を貨幣の出目(改 鋳差益)でしのいできた勘定奉行は,強く反 対した。金銀比価を外国と等しくするために 銀価を引き下げれば莫大な改鋳差損の生じる ことは明白であり,幕府の財政基盤を破壊す るものと判断されたからである。これを計数 でみると,当時15匁通用の一分銀を5匁通用
とするとして,洋銀と同位同量に銀貨を改鋳 する場合,一分銀500万両につき331万7982両 余,一朱銀500万両につき353万7376両余,保 字銀500万両につき239万2792両余の損失とな ることを示した。また,金価の引上げは諸物 価の騰貴を招き r御国内之人心惑乱いたし,
如何哉之具変にも可及難計」と反駁した。
貨幣改鋳問題についての外国奉行と勘定奉 行の意見対立は, 1858年12月(安政 5年11月) から半年余に及んだが,度重なる評議を経て,
遂に翌日年6月,新二朱銀 (3.6匁)を鋳造 して洋銀 (7.2匁)との交換に当てるととも に,小判等金貨の縮小改鋳を行なうことで同 意するに至った。ただし,新小判及一分判の 品位を天保小判及び一分判と同一にしたま ま,各々その量目を小さくした(小判は3匁
→2.4匁,一分判は 7分 5厘→6分)のは,
改鋳益の捻出という勘定奉行の主張に則った ものとみられる。この結果, 1859年6月24日
(安政6年5月24日),幕府は新小判,一分 判,新二朱銀(安政二朱銀)の発行,及び外 国貨幣の混用を内容とする幣制改革を発表 し, 6月30日(日本暦6月1日)に実施した。
その概要は次の通りである。
1.新二朱銀は8個を以て金1両に当る。一分銀,
ー朱銀は追て改鋳するまで新二朱銀と混用する。
2.新小判,一分判の鋳造に伴い,保字小判は1 両1分,一分判は1分1朱に通用する。
3.外貨と邦貨とは同種同量を以て交換されるの で,新鋳の小判,一分判,二朱銀は目方の割合に
23)
応じて通用する。
この改革の目玉とみられる新二朱銀は,品 位(銀847.6,金0.4)においては従来の一分 銀(銀988.6,金2.1)に劣るが,その量目は 3匁6分で,一分銀(2匁3分)の1倍半余 であった。新二朱銀の量目を 3匁 6分とした
のは,洋銀の量目が7匁2分であったから,
量目交換の規定により,新二朱銀 2個を以て 洋銀1個と対応させようとしたものである。
改革措置が発表されてから1週間後の7月 1日(日本暦6月2日)に横浜が開港される と,外国商人たちに真新しい銀貨が用意され,
その2個が洋銀1個と交換された。この新銀 貨の量目は一分銀の1倍半であったが,表示 金額は2朱,即ち 1分の半分の貨幣価値し かもたなかった。洋銀の価値は3分の1に切 り下げられ, 日本産品の価格は3倍にはね上 がったのである。このため,港は聞かれでも 商売は全く行なわれなかった。
この事態に対して英国総領事オールコック (Rutherford A1cock)は7月3日(日本暦6 月4日),また,米国領事ドーア (J.W.
Dorり は 翌4日,新二朱銀の発行が貿易にと って重大な障害であるとして,幕府に抗議し た。老中は7月16日(日本暦6月17日),オー ノレコックに返書を送り,わが銀貨は量目の軽 重にかかわらず,極印の力のみで通用するの で,I仮令に云はば,紙或は革を以て造りたる
て
極印の札に等し。是に寄て元来我が国に於而
の み
通用する市巳なり。開港以来金は金と銀は銀 と掛合,量目を較する時は,極印を力とし難 し。是れ紙貨或は札貨を評器に載せ難きかこ とし。故に外国の金銀貨軽重を分析し,其品 位の多きに従ひ,愛に吾国鋳造の諸費に基き,
新に金銀貨を鋳,普く通用の貨とす」),と反 論した。しかし,この主張は1857年(安政4 年)6月,下回条約に基づいて,洋銀と一分 銀との交換比率を決める時にこそ提示される べき論点であった。
1859年7月19月(安政6年6月20日)オー ノレコックは再び、幕府に書を提出し,安政条約 では,内外貨幣の同種同量通用が規定されて いるが,条約締結当時洋銀は一分銀3個に等 しかったのを,幕府が新二朱銀を鋳造して,
外国人との取引には以前の貨幣の使用を禁止 し,洋銀を1分の価値に引き下げた,と論断 した。その結果,外国貿易に,条約で定めら れた税率の外に200%の税率を課すことにな り,外貨の購買力の減少した分だけ, 日本の 産物及び労働の価値を上げることになる。通 貨条項についての明白な規定を含む条約締結 の後,幕府が予め締約諸国と協議することな く,自己の権力を以って,一方的・専断的に 内外貨の比価を改変することは全く不当であ り,一度幕府にかかる権力を認めるならば際 限なし,と論じた。米国公使ノ、リスの態度は
これ以上に強硬であったといわれる。
ここに至って幕府は外交団の主張を入れ,
7月21日(日本暦6月22日),米国公使及び 英国総領事に,新金銀通用に関する談判終了 迄,従来どおり一分銀3個を以て洋銀1個に 交換させる旨を伝えた。翌22日,老中は,当 分の間目方7匁2分の洋銀1個と一分銀3個 と対用すべき旨を関係各方面に令達し,この 日神奈川奉行所でも,当分の間洋銀1個を以 て一分銀3個に当てることになったので,外 国人との取引には一分銀,一朱銀を用い,新 金銀等は用うべからずと,市中に令した。こ
うして,幕府が知恵、をしぼって鋳造した新二 朱銀はわずか20日余で通用停止の止むなきに 至ったのである。
新二朱銀の通用が失敗した一つの理由が石 井教授も指摘しているように,新二朱銀と共 に従来の一分銀が通用していた点にあること は明白である。一分銀が新二朱銀と並存する ことは,新二朱銀がこれより形量の小さい一 分銀の半分の通貨価値しかもたないという矛 盾をきたし,これによって新二朱銀と対用せ る洋銀のみが,その価値を3分の1に切り下 げられたのである。従って,もし新二朱銀を 標準として,一切の銀貨が改鋳され,又はそ の流通価値を改められていたならば,外交団
のこれほど強硬な反対にあうことはなかった ものとみられる。
新二朱銀が失敗したいま一つの理由は外交 技術の面にある。洋銀1個と一分銀3個の交 換比率は,ハリスがねばり強い交渉の結果,
下回条約を基礎に獲得したもので,外国側に とってはいわば既得権とみられていたもので ある。下回条約の通貨条項は安政条約に継承 されているにも拘らず,幕府は新二朱銀を含 む通貨改革に関して,事前通告もなく,突如 洋銀の貨幣価値を切り下げたのであり,外交 団が憤慨するのも無理からぬことであった。
この点を看過ないし軽視したのは,幕府の誤 算という外はない。
新二朱銀問題が惹起した大きな問題点は,
外交団の批難が,幕府の,何ら締約各国と協 議することなく,自己の権力を以って内外通 貨の交換比率を一方的に変更したことを不当 とした点で、ある。これを契機に幕府はその後 における幣制改革の自主性を拘束され,かれ らの同意なしには幣制の改革は事実上不可能 となった。つまり,改革はかれらの指導の下 においてのみ,許容,実施されることとなっ たのである。
3.万延元年の通貨改革
開港初期における貿易は本邦側の出超であ り,外国側は洋銀で代金を支払う立場にあっ たにもかかわらずたちまち一分銀が不足する 事態となった。幕府は民間人に対して,洋銀
1ドルは一分銀3個の割合で通用すべきこと を布告したが,洋銀は一分銀に対して品位が 劣悪であったため,本邦商人が受取らず,外 国人は,条約に基づいて一分銀への法定交換 を幕府に要求したからである。そこで幕府は 運上所をして官営両替を行なわせ,その事務
を三井組に委託したのである。
一分銀が払底した理由はそれだけではなか
った。否,それ以上に大きな理由は,内外の 金銀比価のま距離を利用して大量の金投機が発 生したことにある。前述のように,当時,国 内の金銀比価は1対5であったのに対して,
海外の金銀比価はおよそ1対15であったので 商才にたけた外国商人たちは洋銀4枚を運上 所で一分銀12枚と交換し,この一分銀12枚と 交換に市中で,金の小判3枚を取得し,これ を上海,香港へ輸出して洋銀に交換すること によって,当初の3倍にのぼる洋銀を獲得し たのである。しかし,金貨需要の急増によっ てわが国金貨は高騰し,はじめ一分銀4個を もって入手できた小判はやがて6個ないし 8 個と交換されるに至った。当時の金貨の海外 流出量は明らかでないが,上坂酉三教授は,
当時の「運上所の交換比率から推測すれば,
金貨流出額は約100万ドルに達することとな り,開港初年の横浜輸出額の約7割までは金 貨の輸出であったTと推計している。
開港初年における金貨流出の原因は,通貨 事情に暗い幕府が,内外金銀比価の格差を十 分解消しないまま,内外貨幣の自由交換とそ の自由な輸出を保証したからに外ならない。
金貨の流出は,条約に基づく内外貨幣の交換 保証期間(開国後1年間)の経過と,市中に おける小判の価格上昇によって幾分か沈静化 したものの,公式の国内金銀比価が改善され ない限り,問題の根本的解決は期待しえなか った。圏内における洋銀の流入・氾濫と金貨 の流出に対して,幕府は全く手をこまねいて いた訳ではなかったが問題の根本的な原因を 十分認識していなかったため,その対策は所 詮小手先細工の域を出なかった。それでは,
一休どのような対策が講じられたのであろう か。
開港に先だ、って鋳造した安政二朱銀の流通 失敗によって事態が悪化したため,開港から 2ヵ月を経た1859年8月27日(安政6年7月
29日)ハリスは洋銀の流入増加と一分銀の不 足に対処するため,一分銀と交換された洋銀 で以て新たに一分銀を鋳造することを提案し た。これを受けて幕府は9月(日本暦8月) に新一分銀(安政一分銀)の鋳造を開始した。
但し,品位を古一分銀の988.6から983.6へと 洋銀並みに引き下げた。この結果,新一分銀 は洋銀とわが金貨との交換を促進する媒体と
しての役割を演ずることとなった。
新一分銀の開鋳後も事態は改善されず,同 年12月17日(日本暦11月24日)ハリスは,わ が国の金銀比価の改訂及び洋銀の国内流通を 図るため極印打ちを勧告した。同時にハリス は「米国に於ける試験の結果では,小判1枚 は一分銀12個に相当しているから,日本の金 貨は現在の3倍の価に通用せしむべき」こと を提唱した。ところが,幕府は,金銀比価の 改訂は後回しにして,全く蒲縫策としかいい ようのない洋銀の極印打ちを直ちに採用した のである。
1860年1月20日(安政6年12月28日),幕 府は「外国銀目方七匁以上の分,一分銀三分 通用の積り,銀座極印打ち渡し候間,滞り無 く金銀取り交え通用致すべく候。尤も銀銭所 持の者は銀座へ差出し,極印請い申すベく候J
という触書を出し,提出された洋銀に「改三 分」の 3字を銀座で, r定」の1字を構造役
所で極印し,洋銀1枚を3分としてそのまま 国内流通を認めることとしたのである。これ が「改三分定印銀j といわれるもので現存し ているものはすべてメキシコ銀貨に極印を打 ったものである。この「改三分定」の極印に よっても洋銀の人気は上がらず,却って敬遠 されて無印の洋銀よりも市価が低くなる始末 で,結局, 1860年央(万延元年5月),僅か 半年でこの極印制度は廃止され,それ以降,
「外国銀貨ヲ子う議ニ準シ,時価ヲ以テ通用 セシム」こととしたのである。
こつした一連の銀貨対策にもかかわらず,事 態は少しも好転しないのに加えて,外国使節 団の勧告もあり,幕府は1860年2月(万延元 年1月)l;ようやく金銀比価の改訂にのり出 し,そのための金価格引上げと金貨改鋳を決 定した。新しい金銀貨交換割合は,天保金1 両を新一分銀(安政一分銀)13枚半(従来は
4枚)と定め,新しい金貨の鋳造迄の暫定措 置を同年2月17日(日本暦1月26日)次の通
り布告した。
〔万延元年布告〕
外国互市ニ貨幣の割合不都合ナレパ,貨幣ノ改鋳 ニ及ブマデ、ハ,左ノ通リ通用スベキ旨ヲ令ス。即 チ
保字小判1両 代金3両1分2朱 保宇一分判1個 代 金3分1朱 正字小判1両 代金2両2分3朱 正字一分判1個 代 金2分3朱 以上(句読点引用者YJ
次いで,この割合を基準として,小判,一 分判,大判(十両)の改鋳が行なわれた。改 鋳後の大判,小判,一分判とも天保金に比べ て約 3分の1の大きさに縮小された。これら 新金貨の発行により,金の国際比価への平準 化が実現し,金の海外流出も漸く沈静化へ向 かうこととなった。
また,幕府は, 1860年6月30日(万延元年 5月12日),開港後1年を経過して,安政条 約に基づく内外通貨の交換保証期間が満了し たのに伴い,以後,洋銀を量目の如何,極印 の有無にかかわらず,丁銀の振合に応じて,
時相場によって交換すべき旨布達した。この 布達が出された直後の洋銀相場は1ドルにつ き銀36匁であった。)これは洋銀の公定相場で ある一分銀3.11個 (46.65匁)に比べて, 22.8
%の下落であった。洋銀相場はその後も下
落を続け, 1860年9月には銀30匁まで下落し たが,翌61年から輸入増加に伴う洋銀需要の 増大を反映して上昇し, 1866年(慶応2年) には46.57匁........39.50匁まで回復した。こうし た洋銀相場の堅調を背景に外国勢は,洋銀1
ドノレ=一分銀3.11枚の公定相場の復活を企図 し, 1866年6月25日(慶応2年5月13日)幕 府との間に締結した「改税約書」に下記条項
を織り込むことに成功したのである。
〔改税約書第6条〕
日本と外国との条約中に外国貨幣は日本貨幣と 同種同量の割合を以て通用すべしと取極たる箇条 (例えば日米修好通商条約第5条=引用者)に従 ひ,是迄日本運上所にて墨是寄ドルラルを以て運 上を納むる時は,壱分銀の量目に比較しドルラル 百枚を一分銀三百十一個の割合を以て請取来れり。
然、る慮, 日本政府に於て右仕来を改め総て外国の 貨幣日本の貨幣と引替る事に障りなき様にし,又 日本通用の貨幣を不足なき様にし,交易を便利に せん事を欲するにより,日本金銀吹立所を盛大に せん事を既に決せり。然る上は日本人又は外国人 より差出すべき総て外国金銀貨幣並地金は日本貨 幣に吹替へ,其諸雑費を差引,其質の真位を以て 其為め定めたる場所に於て引替んとす。此慮置を 行ふ為め日本と条約を取結びし各国は其条約に書 載たる貨幣通用に関係せる箇条を改むる事緊要な れば,右箇条を改むる様日本政府より申談し,承 諾の上日本来丁卯年11月中(西洋1868年第1月1
日)より其慮置を取行ベし。
吹替の雑費として取立ベき高の割合は向後双方の 全権協議の上定むベし(句読点引用者ず。
(第3表)
幕末期の洋銀相場
洋銀1ドル当り銀目 1859年(安政6) 11月 30,.....,37.5匁
12月 35"""'36 4月 37.5 1860年(万延元)1月 42
5月 36 6月 45 8月 30 9月 30 1861年(文久元)1月 36,.....,36.75 1862年(文久2) 31. 82,.....,35. 87
63年 ( " 3) 34.49,.....,36.47 64年(元治元) 32.61,.....,39.40 65年(慶応元) 34.63,.....,36.93 66年 ( " 2) 39.50,.....,46.57 67年 ( " 3) 45.19,.....,50.40
(注)1859年11月"'‑'1860年1月は市中相場
(典拠)洞富雄「幕末維新期の外圧と抵抗J1977年 156"'‑'160ページ。
4.維新政府と新貨条例
1866年6月(慶応2年5月)に締結された
「改税約書」第6条(通貨条項)の実施時期 は1868年1月1日(慶応3年11月中?)と定め られていたが,その実行をみないうちに幕府 は崩壊してしまった。しかし,維新政府は,
諸外国に対して条約の順守を言明していたの で, 1868年3月13日(明治元年2月20日?¥
洋銀の国内通用とその交換率を示す次の太政 官布告を発表した。
〔明治元年太政官布告第101号〕
今度御一新之折柄外国之御交際モ追々被為在候儀 ニ付テハ指向為融通洋銀一枚ニ付金三歩之当リヲ 以 テ 無 差 支 交 遺 ヒ 可 致 旨 被 仰 出 候 問 銘 々 無 疑 念
調}
可致通用候事。
1868年(明治元年)には,輸出が急増した ため,洋銀の市中相場は再び下落し,同年5 月(日本暦表示)中平均相場は38匁4厘の最 安値を記録した。洋銀相場は6月(向上)以 降再び騰勢に転じたものの,絶えず変動を繰 り返し,円滑な貿易活動に悪影響を及ぼして いた。
維新政府は,近代的な貨幣制度を確立する ため, 1871年6月(明治4年5月)r新貨条
例」を制定するに当り,洋銀に対抗できる貿 易通貨として一円銀貨(貿易一円銀)の鋳造 を決定した。しかしながら,政府は近代化を 急ぐあまり,当時の先進国の先端を行く英国 の金本位制を採用した結果,東洋地域におい て広く貿易決済に利用されていた墨銀との調 和を欠き,洋銀に対抗して鋳造された貿易一 円銀及び増量貿易銀(両者を合わせて貿易銀 または円銀と総称)も市中で容易に受け入れ られなかった。
維新政府は,近代的貨幣制度の確立を急ぐ ため, 1869年3月(明治2年2月)造幣局(同 年8月造幣寮と改称)を創設し,貨幣の統一 化に乗り出した。当時大蔵参与大隈八太郎(重 信)及び造幣判事久世治作の「貨幣ノ形ハ円 ヲ要シ其価名ノ、十進一位ヲ要ス:rとする主張 が,政府部内で議論の末,採択された。さら に重要な問題は基本となるべき貨幣及び金銀 比価であったが,これについては「新規発行 スヘキ貨幣ノ本位ト為ノレ者ノ、其量目ハ我カ七 匁弐分弐厘五九弐(即英国金量『トロイ』
四百十六『ゲレーン.nヨリ減スルコトナク 其質純銀十分ノ九ノ銀貨ニシテ墨是寄『ド ルラノレJト同品位Tとすることを内定した。
即ち,貿易一円銀を以て本位貨幣とし,その 品位900,重量416グレーンとされたのである。
1869年12月11日(明治2年11月9日),政
府が新貨鋳造案を外国公使,領事等に通告し たのに対して,外交団からは特別の異論は出 されなかったが,オリエンタル・パンク横浜 支庖長ロベノレトソン(John Robertso仏 土 大 蔵卿へ下記のような一書(明治3年4月4日 付)を呈し,銀本位制の採用を勧告した。
日本政府ノ、宜クー「ドルラルJ銀貨ヲ以テ其本位 貨幣ト為スベキカ、.故に金貨ニ於テハ本位ヲ設クル 勿レ。何トナレパ金銀複本位ノ詰Ijハ従来欧州各国 積年ノ経験上ニ於テ実際其非ヲ認メタリ。然、レパ 日本若シ誤リテ複本位ノ制ヲ用フル時ノ九為ニ其 造幣上ノ利益ヲ減ジ公益ヲ損害スルニ至ランコト 必セリ(句読点引用者r
そして,政府もはじめはこの勧告に則う方 針であった。ところが, 1871年4月(明治4 年2月)貨幣制度調査のため渡米中の伊藤博 文より,新貨幣制度においては,断然,金本 位制を採用すべしとする,下記の建議(明治
3年 12月29日付)が提出された。
抑貨幣を鋳造するに当り,其原位を定むる,金銀 何れか基礎となるべき当否は,既に方今文明欧州│
諸国の頑学多年の経歴を以て,金貨を原位と定む るの議略ー轍に帰す。然、れども填地利,和蘭等の 諸国に於て銀貨を以て原位に用ふるは,従来の法 を変革するに多少の妨碍なき能はざるを以てなる べし。今若し新に貨幣を鋳造するの法を創立する 国あらば,必ず金貨を原位と為す疑なかるべし。
是以見れば我国今日新に貨幣を鋳造する宜しく他 邦従来の経歴に基き,或は学者の議論をも折衷し て至当の正理に法るベし。然、れども,銀貨を原位 とせざれば現今全国の損害となるべき実験ある時 は止むを得ざるべし。然らざれば金貨を原位と定 むるに如くなし。金を原位と定むれば銀を助金と 為し,通用払高の定限を定むべし。)
庚午十二月二十九日夜米国に於て 博 文
伊藤博文の建議は,金本位制の採用を強く 推していたが,東洋諸国においては,洋銀を 以て貿易通貨としており,欧米諸国において 金本位制採用の機運が高まりつつあったもの の,実際に金本位制を採用しているのは英国 だけであった。このため,大蔵省では,日本 滞在中のオリエンタル・パンク監査役カーゲ ル (William Cargill)の意見も聞き,重ねて 審議した結果,当分の間金銀両本位とするこ とに決し,下記回答文(明治4年2月30日付) を伊藤博文へ送達した。
ひたすら
東洋多銀少金の土地に於ても,只管論理上の修整 を望み,却て実地顕顕無之とも難中存候より,不 得止銀を本位と論定候次第には候得ども,将来漸 次交通貿易の段盛を推慮いたし候ては,未だ十分 の端摩を不尽様被存,夫是反覆論弁の央,幸ひ貴 書到著,忙手披閲,先千里外所見の暗合を祝し,
且米国学土造幣寮会議の節及び僻都会議「メタリ ツク・システム」量法の公論杯逐次熱読いたし,
折柄大阪造幣開寮の式日に際し候に付,彼のカー ゲ、ル杯も来会に付,同所に於て数日の審議細論を 遂げ,御建議の旨趣参酌折衷の上,当分金銀岡本 位と相定可申積に了局いたし候45)
辛朱明治四年二月三十日
在 米 国 伊 藤 少 輔 殿
渋沢少丞 井上少輔 大限参議
これに伴い,さきに本位貨幣と決めた一円 銀貨はそのままとし,補助貨幣に予定してい た金貨拾円,五円,弐円をも本位貨幣とする こととした。しかし, 1871年4月下旬(明治 4年3月初旬)一足先に米国から帰国した大 蔵省出仕吉田二郎が伊藤博文の意向を休して 金本位制採用を力説したため,政府は再検討 のうえ,遂に金本位制の採用を決意し,同年 5月20日(日本暦4月2日)付で伊藤博文へ