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幕末と明治初期の外国貿易商社と横浜商人

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研究ノート

幕 末 と 明 治 初 期 の 外 国 貿 易 商 社 と 横 浜 商 人

ーー出ーンズ商会研究のためのノート

目次

はじめに

1開港と居留地貿易の始まり

2幕末と明治初期の外国貿易

3外国貿易商社の活動

4横浜商人の活動

おわりに

あとがき

は じ め に 山 本 通

30

簗の天六示に袋で創業されたコ←ズ商会の櫟毒が最誓なって発見され・英国リヴァプール大学のピータi.叫アイヴィス教授のもとで整理されつつあることは︑すでに鈴套徳教授によって紹介されて

(2)

境・この作業に呼応する形で鈴木教授がコ←ズ商会の歴史に関して日本で入手できる資料を発掘する作業

をすすめておられる・このような作萎基礎にして︑〒ンズ商会の歴史の具体的な姿が次第に明.りかにされ

葉・明治初期における外国貿易の大部分は外国商社によ.て担われたのであるか.り︑外国遵の経営の事

態について明らかにすることは日本経済史の研究にと.ても重要であり︑石井寛治氏の優れた研究などはその

ような観点からなされているのだけれども︑研究全般の進展は︑現存の灰資料の少なさによ.て極端に制限

されて渚・実際・この時期の外国商社の商用甚・簡・帳簿類でこれまでに発掘されたものとしては︑ケインブ

リッジ大学図壮︒館所蔵のジャLアイン・マセソン文昼[︑→づド大学ベイカ歯君n館所蔵の→ド商会蚤口

があるにすぎ麗・このような状況の中では︑コ←ズ蕎の発見は}﹂の上ない朗報である︑とい.凡よ.つ︒し

かし﹁葉と明治初期の外国貿易商社と横浜商人﹂についてのこれまでの研究の質的なレヴ︑ルはけ.して低

いわけではない・したがって・わが国におけるこれまでの研究成果を簸してお≦しとは︑史料を読む視占{や

留意点を難しておくために必要な作業である.以下の文章は︑筆者のそのよ・つな意味での(問羅理のための)

自分自身のためのノートである︒

注(‑)鈴木芳徳ヨ←ズ商会(︒§Φ.・象ρ)関隻書についてL﹃商経論叢﹄第δ巻篁口茎九九四年)

(2)LA.(︑石)

(3)関東大震災と第次世異戦による破壊のため︑呆国内には外国貿易商社についての灰史料はほとんど残存し

(3)

303幕 末 と明 治初 期 の外 園 貿 易 商社 と横 浜 商 人

ていない︒棄と明治初期のイずス系貿易商社についての史料と研究史については・杉山伸也7ギリス商社研究

醐動向と課題L横浜居留地研究Aム編﹃横浜居留地の諸相﹄九八九狂所収を参昭州.(以ド︑﹃震居留地の諸相﹄と略

(4)充九四生︑.月︑.汀に禦川恣rで行われた研究会で︑発表者である横浜開港資料館の護多喜夫氏が配布さ

1 開 港 と 居 留 地 貿 易 の 始 ま り

冗世紀における欧米諸国の東τソァ進出の動機は︑政治的というよりは経済的なものであった・ホーアに

よれば︑欧米人の間には占くか・り(おそ・り‑マルヲポ凸の時代から)︑中国や日本との貿易に従事することが富

豪になれるチャンスを与える︑という信仰が寝総.西欧諸国の事ジアへの進出の直接の契機は・インド.中国間貿易に天世紀後半期にヨーロッパ商人が進出したことである︒インド・中国間貿易で活動したイギリス商人は︑天世梨以後大々的にアヘン貿易に従事するようになり︑イずスからインドへの墾品輸

出︑インドか︑り中国へのアヘン輸出︑中国々リイギ呉への茶輸出という︑いわゆる三角貿易の重要な機能の

一端を担つよ,つになった︒事ジアでのイギリス商人の活動が盛んになるにつれ・イギリス東インド会社(天8年に創汎眠)の貿易独占権にたいする批判が高まり︑一八ご.奮同社の貿易独占権畿会法によって廃止され︑ご︑∵.年には同社の貿易活動が停止毒bれた︒これは畠貿易義の時代の鯖けを画する諸事件の;であった︒}﹂れ以後さりに多あイギリス商人が東暫易に進出した︒たとえばジャーデイン・マセソン商会

(以ドJ.M.商会と略起墜八三.軍にマカオで設骸された(門年に本店をホンコンに骸尼)・

イギリスをはじめとする欧米諸国の商人の歯貿易への進出は︑アヘン撃以後・加速化した・アヘン繋

(4)

終結後の南京条約(入四.年)によって清国は広州福州・アモイ.蜜︑波.上海の五港を開き︑公行を廃止し︑

香港をイギリスに割譲した︒四四年には米合衆国とフランスが︑イギリスと同等の条件の条約を清国政府との

間繕んだ・以後イギリスは畠市場の肩の拡大を清国にたいして求めるが︑アロよ勺事件天五六Lハ︒)

を[実に・太平天国の乱(天塞六四)に苦しむ清国を武力攻撃した︒天五八年に清国政府がイギリス.

フランス・︒シア.合衆国との間に結んだ天津条約によって︑清国は関・︑南京︑天津をふくむ二港を新た

に開港し・外国公使の北轟在と︑外国人の内地旅行の畠を認めた.▼︑れ以後}︑れ︑bの開港地には識人居

留地が発達し・ここで独特の居留地文化が発展した︒天六〇年頃までに︑尋アント商会やフスボウン商会が中

国貿易での活動を開始し・のちに中国貿易における‑・M商会の最大9フイバルになるスワイア商会は︑

天六七年に上海霧所を創設して・中国瘍に進出短.このような巨大商社のみではな‑︑中国に本店を

持たずに日本で創業した中小商社の創始者たち︑たとえ憾マスをフバるフレデリック.コーンズも︑中

国において貿易商としての是期間の修行を経験していたのである︒

中国の開港を毒したのはイぢスであったが︑日本の開港を毒したのはアメ男A口衆国であ.た︒天

五三年に轡に来航したペーの要求に押されて幕府は日米和親条約を結んだが︑A口衆国側の当初の目的は対

日貿易の開始ではなく・むしろ太平洋航路の中間寄港地と︑捕鯨船の食料.燃料補給地の穫であ.た︒しか

しひとたび日本の鎖国が解かれると︑欧米諸国の貿易商人たちは呆との通商条約の締結をだσつべく政府を突

き上げた・合衆国の初代駐日領事ハリスは︑イギリスの脅威を利用して老中堀里睦との交渉に入.た︒天

五八年に日米修好通商条約が締結され︑神奈川(横浜)良崎・箱館.新潟.兵庫の開港と江戸.大坂の開市が

規定された・これに続いてオランダ・・シア・イギリス・フランスが相次いで講と修好通商条約を籍し

(5)

幕 末 と明 治 初期 の外 国 貿 易商 社 と横 浜 商 人 XO5

(安政の五力国条約)︑各開港場に外国人居留地が建設されることになった︒

ところで当時の幕府官僚の中には︑自由貿易を展開してその利益を富国強兵の礎にしようとする積極的開港

論と︑﹁邪宗伝染﹂防止のために開港の規模を最小限度にとどめようとする消極的開港論があった︒開港場に神

奈川を加えたのは積極的開港論者の海防掛︑岩瀬忠震であり︑開港場を神奈川から横浜に変更したのは・五八

年四月に大老に就任して岩瀬を追放した消極的開港論者︑井伊直弼であった︒

当時横浜は東海道から遠く隔た.た貧しい農漁村にすぎなかった︒神奈川は東海道の宿場町であり・江戸に

近いため︑ここに外国人居留地を建設することは︑幕府にとっての重人な脅威になりえた︒そこで井伊は・横

浜という寒村に外国人を閉じ込めようとしたのである︒外国領事たちとの交渉をペンディングにしたままで・

幕府は︑ここに港湾施設を建設し︑街路を通し︑三井ほかの江.戸の問屋に支店をつくらせ︑行政司法機構を整

備し︑遊女町まで建設して︑横浜を開港場と認めさせるための既成事実をつくった︒英米の領事達はこれに抗

議したが︑外国商人達は競って横浜に居住したので︑領事たちも横浜を開港場と認めざるをえなくなった︒横

浜が開港場と認められたのち︑横浜居留地の周囲には運河が建設され︑その出島化が完成した︒また・居留外

国人の遊歩区域は開港場⁝○里(約四〇キロ)四方に限定され︑貿易の形態は居留地貿易制度が規定されたが︑

一八五八年の天津条約と異なり︑商業目的の国内旅行は禁止された︒これらは︑外国商人の日本国内での活動

に制限を加え︑内商(日本人大規模問屋商人)が成長していくための前提のひとつとなっ(池︒

他方︑交渉に当たった幕府役人の側にもいくつかの重大な失敗があった︒五力国との修好通商条約は自由貿

易の原理に基づいていたが︑領事裁判権(居留地における治外法権)︑協定関税(関税自ト権の欠如)︑片務的最恵国

待遇などの条項を含む不平等条約であった︒石井孝氏によると︑﹁このように不平等条約の根幹をなす条項がす

(6)

らすらと通ってしまったのは︑国際法に対する(交渉に当たった)幕府側の役人たちの無知の悲しさ﹂であった︒

維新政府にとっては︑条約改正は外交の最人の課題であ.た︒条約改正は最終的には天九四年の日英通商航

海条約に基づい三八九九年に実施されることになったが︑関税自主権の回復は不+分であり︑一九=年に

なってはじめて日本は完全な関税自主権を得たのであった︒

(1)=oρ}.̀§§§αq§§§eO琳⇔N︒︒︒︒︒︒ωαqΦΦ

NIa.

(2)

(3).M貿.︑分

(石)

綿}しb1

貿︑o綿.一フ

年代に取51品目と取引相孟域の拡大を達成した︒中国では最初に天四〇年代初めに広東に代理店が開設された

.年一フ

(竃}9=§軋轄N・

〇︒ΦoodΦω一蔓ωω2O98ωOO︒・)

(4)i︒・σqp.自αΦω7ωΦ︒︒ω

︒︒ω9o9ao︒・.§o.OゆqO§

ood︒︒Φωω"δ︒︒

(5)r.犀(

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(7)

(6).石

(7)... ..章

2

幕 末 と 明 治 初 期 の 外 国 貿 易

幕 末 と明 冶初 期 の外 国 貿 易商 社 と横 浜 商人 307

ここでは︑当該時期の外国貿易の数量的変化や貿易品目について︑従来の諸研究の成果に基づいてまとめて

おこう︒まず貿易の輸出入の総額については︑﹃英国領事報告﹄や﹃日本貿易精覧﹄の統計数字を批判的に検討

された杉山伸也氏の推計がもっとも信頼できよう︒[図一]はその輸出人額の変化を折れ線グラフであらわした

ものであるが︑貿易額全体は一八六〇年から九〇年まで着実な増加傾向を示し︑九〇年代に急増している︒貿

易収支の動向は︑一八六五年までは出超︑六八ー八一年は(六八および七六年を除いて)入超・八ニー九三年は(八

七および九〇年を除いて)出超であった︒

幕末と明治初期の時期は運輸革命と通信革命の時期であり︑全世界的な規模で貿易が拡大していた︒アジア

方面の貿易に関していえば︑まず蒸気船の出現全八四〇年代)とともに︑紅海を利用したスエズ陸上ルートが

開発された︒またスエズ運河の完成(↓八六九年)がアジアへの航海をさらに容易にした︒蒸気船による東アジ

ア航路の開設も積極的に行われ︑イギリスのP&0(℃Φ三器三黛餌巳9冨葺山一)汽船会社は一八四五年にセイ

ロンから中国までの定期航路を開いたが︑一八六四年にはヒ海・横浜間の蒸気船の定期航路を開いた︒翌六五

年には︑同じL海.横浜航路にフランスの帝国郵船会社が進出し︑六七年にはアメリカ合衆国の太平洋郵船会

社がサンフランシスコ.横浜.香港を結ぶ定期航路を開設した︒そのほかブルー●ファネル・カースル・グレ

ンなどの海運会社も︑六〇・七〇年代に東アジア航路に参入﹂混︒

凹 一一

(8)

日 本 の 貿 易,1860‑95年 図1

百万円

地 金)

地 金)

出 所:杉 山 伸 也 「国 際 環 境 」193ペ ー ジ

有線電信は一八四〇年代から急速に発達し︑一八五

一年のドウヴァー海峡横断海底電線の施設や一八六六

年の大西洋横断の電信業務の確立によって︑世界的規

模での通信手段として成長していった︒一八七一年に

はヨーロッパからの海底電線がシンガポール経由で長

崎まで到達し︑一八七三年になると横浜とロンドンと

の連絡がわずか四日間で可能となった︒一八六五‑六

八年当時はロンドンからの郵便が横浜につくのにニカ

月を要したのだから︑海底電線の開通は遠隔地間の取

引の条件を一変させたのであった︒

日本の輸出入貿易が拡大してくると︑ヨーロッパ系

銀行がつぎつぎに支店を日本で開設するようになっ

た︒その最初のものはセントラル・バンク横浜支店で

あり︑その開設は一八六三年に行われた︒つづいて

マーカンタイル・バンク(一八五︑︑︑年にボンベイで設立)

とコマーシャル・バンク(一八四五年にボンベイで設立)

が同年中に横浜支店を開設し︑これに当時東洋最強の

植民地銀行であったオリエンタル・バンク(一八四二年

(9)

幕末 と明 治 初 期 の外 国 貿 易 商 社 と横 浜 商人 309

)

(オウヴ.レンド・亨〒恐慌)のあおりを璽りって経営不振に陥り横浜支店を閉鎖したが︑同年には香港上海

銀行(一八六五年に香港で設立)が︑六七年にはフランス系のコントワール・デスコントが・七二年にはドイッ

チェ.バンクが横浜支店を開設した︒幕末期に日本に支店を設壷した外国銀行は一〇行であり︑九九年の条約

改正までに日本に進出した外国銀行は.︑.一一行にト.った︒これら外国銀行の支店開設は︑中小規模の外国商社の

活動に人きな便宜をき・貿易拡大のための要因の;となった・

つぎに輸出入の口㎜目の変化についてまとめよう︒[表1︼は︑↓八五九年から九五年までを数年ごとに区分

し︑それぞれの時期の日本の全輸出の中で主要輸出品のそれぞれが占める割合をあらわしたものである︒また[表2]は︑同じ時期の主要輸入︒淵のそれぞれが全輸入の中で占める割合をあらわしたもので為・これらの表

を見てまず明瞭となるのは︑幕末.維新期の日本の貿易構造が︑生糸・茶のような工業原料・食料品を輸出し︑

綿製口mや毛織物を輸入する後進国型のそれであったことである︒一八九〇年代には綿花の輸入が増加し︑この

時期に日本が[業化を本格的に開始したことも︑これらの表からみてとれる︒

葉.維新期の最大の輸出口⁝は生糸であ.た︒天六二.年ごろまで生糸輸出が発展を続けたのは・日本産の

生糸が国際的な基準にてりして良質であ.たばかりでなく︑ヨ占ッパで蚕の病気(微粒r病)が長年にわたっ

て流行してアジア生糸への依存が高まったにもかかわ匙︑中国で天六〇年頃から太美国軍の勢いがいよ

いよ増し︑L海において貿易が停止されるなどの事態が生じたためであった︒しかし一八六四年以後ヒO年代

虫﹂うまで︑生糸輸出は伸び悩む︒}しの原因を.石井孝氏はつぎの三点にまとめている︒第一に・蚕卵紙の輸出

が解禁され︑その隆盛が生糸生産を圧迫したこと︒第・一に︑生糸価格の騰貴︑および生糸の粗製乱造︒第三に・

(10)

1859‑63

s4‐s7 68‑70

71‑75

・it 81‑85 86‑90 9‑95

1859‑fi3

64‑67 68‑70 71‑75 76‑80 81‑85

:・ ・1 91‑95

注;

[表1]日 本 の 主 要 輸 出 品(金 額)の 割 合(単 位%)(一 は 不 明)

水 産 物

082 0131

‑246 2296 6226 3196 7125 683

生糸 蚕卵紙 絹製品

7sOO sslOO

3820‑一

338 373‑‑

38p‑̲

3504 36010

石 炭 そ の 他

0311 0

11‑一

34 32‑

43…

6526 6526

[表2]日 本 の主要輸入 品(金 額)の 割合(単 位%)(一 は不 明) 米

030101453

砂 糖 Q

3 9 10 10 15 11 11

石 油 綿 花 綿 製 品

0031 0045 0316 1235 4'136 6L33

6424 51614

「金 属 製 品 」 の 中 に は 、 金 属 と機 械 も 含 ま れ る 。

(

た胆

O

毛織物 金 属製 品 武器・汽船

27176 2859

112 2161

1781 1193 9142

7134

太平天国の乱が終わり︑ヨーロッパの製糸業

も立ち直って︑中国とヨーロッパ産の生糸が

市場に復帰したこと︑である︒このように苦

境に立った日本の製糸業を救ったのが︑アメ

リカにおける絹織物工業の発展であり︑一八

七〇年代後半期からアメリカ向け輸出が急増

した︒一八七一年から七五年までの年平均の

日本の生糸総輸出額は約六.一三万円であった

が︑一八八六年から九〇年までの年平均のぞ

れは︑一〇六〇万円に急増した︒

蚕卵紙の輸出は︑一八六四年に幕府の輸出

禁止政策が解かれて以来急増し︑ヒ三年頃ま

では日本の重要輸出品であった︒蚕卵紙の輸

出はヨーロッパの養蚕業の回復に寄与した

が︑技術開発の結果微粒子病も克服されたた

めに︑七〇年頃から価格が低落し︑八〇年以

後は蚕卵紙は輸出品としての意味を失って

(11)

幕末と明治初期の外国貿易商社 と横浜商人

311

茶は幕末か・り明治中期まで︑生糸につぐ重要な輸出品であった︒輸出先は大正期にいたるまで・八〇%以上

(肺アメリカA口衆国向けであ.た.A口衆国の大衆の間では︑緑茶に砂糖や‑ルクをいれて飲むことが月付われてい

た . コ 八 八 丁 曙 年 平 均 で 禺 生 憲 の 七 九 % が 輸 出 に 向 け ・b れ ︑ λ 六 八 ⊥ 九 8 輩 均 で 輸 出 茶 の 八

五%は緑茶であ.たL︒しかし明治中期以後︑輸出における茶の相対的重要性は急速に減少し・大正期には輸出

口㎜としての意味を失っていった︒当時の合衆国の嗜好飲料消費の八〇%以ヒはコーヒーで・残りのδ%弱の

シェアを紅茶︑ココアおよび緑茶が争っていたが︑相対的に高価格で品質の劣る日本茶は競争に破れていった

のであった︒

輸出水産物は昆布︑あわび︑ク一フゲ︑フカひれなどであって︑渡辺福三郎(石炭屋)のような売込商がこれらを扱.たが︑多‑は中国人商人の手で中国︑香港に輸出さ鶏.石炭輸出はアジア貿易の拡大にともなう船舶

用燃料需要の増人に牽引されて︑発展した︒日本の輸出炭の人部分は高島︑三池・筑豊の三炭鉱で産出され・

輸出先は︑上海︑香港︑シンガポールにほぼ限定され(畑︒

他方︑葉.維新期の輸入口⁝の大半は繊維製品によ︒て占められていた︒繊維製品のうち・綿糸輸入は天

六七年に急増し︑その後も絶対馨増やし三八八八年にデクに達した(二︑六六万円)のち漸減し・冗〇

二年以後は異性を失.た︒綿織物の中では︑も.とも大衆的な生金巾の輸入が中心的であった・毒物も輸入においては︑天六六年頃まで呉呂が首位を占めていたが︑その後は大衆的な葛綿交織物が増加してい匙・

外国艦船の輸入は︑幕府によ.三八六.年七月に許可され︑一八占年まで任六・隻の艦船が輸人され

た︒六六年か︑り六八年までの輸入が特に多く︑こ璽.輩間で七四隻が輸入された︒武器輸入の中心は小銃で・

イギリス領事の墾口分だけでも︑天六五年か・り七〇年までの間に約五〇万工の小銃が輸入された・小銃の多

(12)

くはアメリカ合衆国産で︑南北戦争終了(一八六五年)とともに中国市場に出回ったものが︑日本に流れ込んで

(16)

輸出入品について最後に︑[春]および[表2﹂には現れないが︑.奪間ほど9しく短期間において重要

な意味を持った商品に夏してお▼しう︒;は︑開港当初における金貨小判)の輸出(流出)である︒開港時

における金銀比価は一対五二七であり︑これは当時の金銀の国際比廼対五に較べて著しく低か.た︒}︑

の差を利用して外国人商人たちは巨利をむさぼろうとし︑金貨入手に狂奔した︒金貨流出は天六〇年の金銀

価の比価是正を目的とする幣制改革によって食い止められるよ・つにな.たが︑}﹂の間に流出した金貨は6万

両余りと見ら翫・もうひとつは︑天六三年と六四年における日本か・りの原綿輸出の存在であり︑とくに六

四年において原綿輸出額は全輸出額の.6%に達した︒しかしこれは南北撃によ.てA口衆国か.りの原綿輸入

が途絶えたために・イギリス商人が世界各国か︑り原綿を買いあさ・たために起}﹂った特殊現象であり︑六衆

後 半 期 か ら は 日 本 か ら の 原 綿 笛 は 完 全 に 途 絶 勉 . こ の . 膏 に 現 れ る 現 象 も ︑ 呆 の 貿 易 が 国 際 情 勢 に 大

きく左右された状況を如実に示している︒

幕末・明治期における貿易は︑ほとんどが外国商人(中国人を含む)によ.て担われた︒外国商人が国際取引

.・り}し}﹂

山信也氏によると・外商取扱い比率は一八八〇年において輸出の八四%︑輸入の九三%︑また天九〇年にお

いては輸出の八九%・輸入の七五%を占めて転姻︒そののこりが直輸出入であるが︑第三節でふれるよ・つな﹁商

権回復﹂運動の紆余曲折をへて︑内商取扱い比率は一八八〇年以後増加していった︒

(13)

幕末と明治初期の外国貿易商社 と横浜商人 313

(‑ ) 下 繭 鰭 羅 難 輯 嘱 鰻 嫁 繰 有 造 編 ﹃開 港 と 維 新 ﹄ (日 本 経 済 史 二) 岩 波 書 竺 九 八 九 蓋

(2)L(3)δ(4)

(,パ 附雑 鱗 雛 蘇 慮 趣 撫 霧 難 響 騰 耽

難 婁 無 藤 識 鐸 郷 ボ 鞭 榔 藤 講 %録 ・.・ 一.. ︒.ー ー ー ー 庸黙 難 撒 礎 勲 灘 灘 灘 難

(8)五 鱗 纏 艦 矯 灘 欝 鍬 い繧 耀 麟 よ 藩 八

(9)1

(m )晦 踊 鷲 鱒 概 鷺 撃 馨 郷 醸 縷 綿 編 ﹃横 浜 商 人 と そ の 時 薯 隣 誓 充

(H)吉良芳恵﹁大谷嘉兵衛﹂︑廣浜商人とその時岱所収﹄七五去八ページ・(12)

(14)

(31)伊東泉美橿浜居留地の園人商館L︑﹃横浜居留地の諸想所収.渡辺福..郎については︑西川武臣﹁渡辺福.郎﹂

(14)..1

(蛎)石井孝・前掲書二六下六四ぺ}︒杉山伸也国際環境L︑冗九ページ︒

総 鞘 麟 嶺 鉱 懇 財 慰 総 ポ 九 九 ⊥ ・ ・ → ジ ・ 杉 山 伸 也 m国 際 環 竺 八

t

(18)1

(91)L

3 外 国 貿 易 商 社 の 活 動

東アジアで窃していた外商は・中国開輩削に行われていたインド.中国間のいわゆる﹁努貿易﹂に起

源を持つジャLアイン・マセソン商会︑デン茜会などの昊外商と︑中国および日本備港以降天五︒︑

六︒年代に奮してきたグラバ商会や亨乍商会などの中小外商の二難に分け︑りれる.}しの分類によれ

ばコ←ズ商会は後者のグ牛プに辱る︒﹁幕末開港﹂とともに大小の外商が横浜や長崎に進出したが︑その

数は次第に増加していった・天七・年において呆の開港場で活躍する(中国人商社をのぞく)外商数は.五

六社で燦その数は天九・年において一五九であつ(混.大部分の外商は通常.≦年の契約にもとつく共

同出資形態をとり・商会の経営については出資者であるパーナふ責任を負い︑各パートナーは出資金の割

合に応じて利益および損失の配分を受けた︒

葉と明治期の日本における外国商社の活動については︑これまでのと}︑ろ例外的にしか解.ていない.ま

(15)

315幕 末 と明治 初 期 の外 国 貿 易 商社 と横 浜 商人

ず石井寛次氏は(経議賠と薫臼籍をA凸む)ジャLアイン・マセソン文書を利用して昊商社の典型ともいうべきJ.M.商会の日本での活動を可能な限り解明総.また杉山伸也氏は長崎に拠点をおいたグラヴァ商会

の活動を明︑bかにしたが︑その研究の主要な史料は同じジャLアイン・マセソン文書であつ(麺・これはグラヴァ商会と﹂.M.商会との取引関係が深かっただけで磐︑前寡後者の代理店としての業務をこなしていたか.り︑}﹂の史料によってグフヴァ古会の活動が解るという藩があったからである・杉山氏はグラヴ.商会を中小藁ムの典型とみなしてい施︑代理箋肇その活動の券を占めるとい憲味では・当社

は中小商社の典型とは言えないだろ・つ.しかしいずれにせよ︑その窃の実態が詳しく解明されている欧米外商は︑ツ﹂れらのほかにはない︒コ←ズ商会は中小商会の典型と見なせるから・〒ンズ文書の発見は外国商社研究の進展のための朗報皇口.乞が︑〒ンズ文書は史料として完全なものとは言えない・これには饗帳簿類が含まれておらず︑一六八七年四月以降の時期の書簡類を含むのみだからである︒つぎに欧米系外国商社の活動を︑石井寛次氏や斎肇喜夫氏の研究をたよりに概観してお}﹂う・石井寛次氏は︑J.M.商会が横浜に進出した穴尭年から八八年頃までの同社の活動を・天六六鑑心慌頃までの巨大商社独占体制の時期︑天七四藍までの中小商社躍進の時期(‑・M商会の取引縮小期)・それ以後の外国

貿易の新展開の時期に区分して論じているが︑この時期区分は欧米系外国商社の窃全般についても・おおむ

ね当てはまるように思われる︒

まず第扇について︒天六三年以震浜に外国銀行が支店を開設するようになるまで・商社はおもに現銀輸送によって墓調達をしたのであり︑大きな取引套しえるのは︑巨額の洋銀を嚢した船を姿と横浜に送り込む実力を持︒た昊商社にほとんど限られて痘.この間︑日本に進出した中小の外商は昊商社に金

(16)

融面で依存せざるをえなかった︒これが︑昊商社独占体製誘理由である︒(8)

開港当初・J●M商会は高須屋などの日本商人への前貸を介して︑生糸の大規模な産地買付を行.た︒同

様の産地買付のための前貸は︑茶の取引においてスース・→力嵩会が大谷嘉兵衛に対して大規模に行.て

いたことが知られてい馳・この形能心の取引は開港当初においては︑コ←ズ商会を含む多くの外商によ.て

広範に行われていたようでみ劉・しかし産地㎜持のための前貸は次第に行われ努なり︑‑.M.商会でも生

糸については六四霞りで行われ誉なった.それは前貸方式が失敗するケ支が多なる}︑とにも鰭が︑

むしろ日本国内で売込問屋を中軸とする生糸や製茶の流通騰が六四年頃までに形成されたためであ.た︒

さてJ.M商会などの昊商社の輸出入取引は︑天六六年恐慌をさかいにして急激に停滞に向かい︑か

わって中小外商の窃が盛んになって菱.この時期が第.覇である︒ワ︑の}﹂との背景には︑日本かりの輸出

品の首位を占めていた生糸の輸出が(第・節で述べたような理由で)伸び悩み︑利潤率が低下したΨ﹂とがあるが︑

巨大商社はこの時期になって中小規模の商社との競争に破れていった.たとえ亨.M商会は六六年恐慌以

後・生糸と茶を中国で(香港本店で)仕入れるようになるが︑商・㎜取引の利潤の減少を補つために六︒年代末か

ら讐多角化に着手し・船舶業︑精糖業︑製糸業︑鉄道・鉱山業︑綿紡墾︑銀行業などに進出し︑財閥化し

て聴・

中小規模外商の東アジア貿易への参加を容易にしたのは︑前述9︑とき定期航路の開設と銀行の進出であ

り二八七一年に電信によって東アジアが欧米市場に直結されるまでは︑中小規模の外商が入り込む余地が多

分に警れていた・﹄・M商会のような昊商会は代理店シス♂アムをと.たので︑市場変化の激しい生糸や

茶の取引において敏速に対応すること難しく︑また輸入品の場A口にも需要動向に券に適応する}しとができ

(17)

317幕 末 と明 治 初期 の外 国 貿 易 商 社 と横 浜 商 人

ず︑黎的に機能し藤.たのにたいし︑中小の商社は市況に敏感に反応して︑こつこつと売上を伸ばしてい

くことができたのである︒

しかし︑中小規模の商会の破肇はきわめて高かった︒たとえばコ八六五年と天七〇年の(横浜在住の)

商会数を比較してみると︑六五年の商会数は五茜会︑七〇年には六六商会で・そのうち⊥ハ五年にも存在していたものは露かに 九商Aバ︑六亭七・年に新たに撃されたのは四七商会で︑破産率はじつに六三%の高さに達しているL︒燵で素取裂行.た外商についての纏多喜夫氏の研究も・六山ハ年恐慌以後さまざまの

国籍の中小商禁興亡轟り返した婁を明らかにした.[表3u昼八六八年から六九年にかけての輩間の

商社別の素輸出高とその募比を︑[表4uは天△年から八二年にかけてのそれらをあらわしたものである︒たとえば前者においては我がコ←ズ社は全輸出額の約七・四%姦い・全商社4・璽位に位置しているが︑後者では全輸出額の約○・一%のみを扱い︑全商社中の三六位に転落した︒

天七五ないし七七年以後が︑外国貿易の新展開の時期である︒‑・M商会の貿叢引額はこのころか︑b再び増加し︑日本における最大鑑の貿易商社としての地位を回復した.しかしその華の内容は以前とは大きく異な.ていた︒まず取引︒湘目と取引相手が多様化した︒生糸と茶はアメリカ向け輸出が増大し・皇勘定

取引は減少し︑委託販売.斐取引が増加した︒輸入においても︑隻にもとづ手数料取引の形での繊維製︑㎜や鉄鋼.機械の輸余増大した︒すなわち‑・M商会の纂は︑手数料取得をあざす斐取引に転換したのである︒また売込商.引取商への﹄.M.商会の金融は七八年以後急増し・八三年頃に減少し(姻・しかしなが︑りJ.M.商会のよ.つに昊商会が復活するのは︑ご画外的な現象であった・蕪氏によれば・生糸輸出に関しては︑λ六六年恐慌以後の中小商社の競争と淘汰ののち︑明塗・年(天ヒ圭ごろの輸出が上向

(18)

[表3] 商'社 別 生 糸 輸 出 高{2ト68/69(B) 単 位 二Bale(俵)

[表4]商 社 別 生 糸 輸 出 高{8}‑81/82(G) 単 位:Bale(俵)

『 ユ μL」‑u、 協ヘ ノ

Firms. 輸出高 百分比 Firms. 輸 出 同百分比

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 1Z l3 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37

Gilman&Co.

Aspinail,Corner&Co.

Texter&Co.

Aymonin&Co.

Hecht,Lilienthal&Co.

Ravel,Blanc&Co.

Bavier&Co.

Wilkin&Robison Strachan&Thomas Jardine,Matheson&Co.

Eccard&Raud VincentComi

Macpherson&Marshall Reiss&Co.

Valmale,Schoene&Milsom Siber&Brennwatd Kniffler&Co.

A.Barnard

(BassoonSons&Co.}

Shaw,Winstanley&Co.

W.M.VanderTak

(NetherlandsTradingSociety) Hudson,Malcolm&Co.

HooperBros.

A.Heard&Co.

Ziegler&Co.

Findlay,Richardson&Co.

Smith,Archer&Co.

R.B.Scotland Gutschow&Co.

Ross,Barber&Co.

H.C.Morf&Co.

Walsh,Hall&Co.

Smith,Baker&Co.

Leggatt&Co.

Petrocochino&Co.

J.A.Sitwell Schultze,Reis&Co.

JohnHughes

1,314 1,123 1,110 1,071 851 846 691 644 493

×72 439 428 426 ssa 347 319 305 3G5

243 234

228 215 211 195 17a 159 159 i5a l34 125 123 iza 11.6 101 1ao 99 93

B.7 7.4 7.4 7.1 5.7 5.6 4.6 4.2 32 3.1

2.9 2.8 2.8 2.5 2.3 2.1 2.0 2.O l.s 1.5 1.5 1.4 1.4 1.3 1.1 1.O l.Q 1.0 0.8 p.8 0.8 0.8 a.7 U.6 0.6 4.6 0.s

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39

Bavier&Co.

Soyeki5hokwai DoshinKwaisha Siber&Brennwald Sieber‑‑Wrier Walsh,Hall&Co.

Jardine,Matheson&Lo.

Schoene&Mottii Wilkie&Robison China&japan'TradingCo.

Mourilyan,Heimann&Co.

W.M.Strachan&Co.

Reiss&Co.

JohnMiddleton Ludwig&Co.

Thomas&Co.

KingdonSchwabe&Co.

PaulHeinemann&Cn.

Hecht,Lilienthal&Co.

Frazar&Co.

Fraser,Farley&Co.

Mitsui FusoShokwai Moilison,Fraser&Co.

NipponShokwai P.Dourille

Ziegler&Co.

H.Ahrens&Co.

Ed.WNitta!

A.J.Macpherson&」.Bisset Dell'Oro&Co.

Kaitsusha W.Sagel

F.VivantiBros.(asAgents) Smith,Baker&Co.

Comes&Co.

Anzai B.Gillett

Findlay,Richardson&Co.

3,652 2,553 1,938 1,622 1,428 1,109 1,051 961 706 675 670 589 441 427 400 392 387 370 334 298 243 199 169 1B1 144 130 127 89 85 77 68 63 58 4a 40 25 23 18 12

16.7 11.7 8.9 7.4 6.5 5.0 4.8 4.4 3.2 3.1 3.0 2.7 2.0 1.9 1.8 1.8 1.7 1.6 1.5 1.3 1.1 0.9 0.7 0.7 0.6 0.5 0.5 U.4 d.3 0.3 0.3 0.2 a.2 0.i Q.1 0.1 Q.l o.0 0.0

38 Davison,Davies&Co. 92 0.6

Total 21,774 ioo.a

39 」.M.Jaquemot 7fi 0.5

40 E.Seyd&Co. 57 0.3

41 N.P.Kingdon 49 0.3

42 F.W.White 37 0.2

43 DeConingh,Vernede&Co. 36 0.2

44 Allmand&Co. 17 0.1

45 Stephenson,Dallas&Co. 8 o.o

46 FavreBrandt&Co. 6 a.a

47 Sundries 57 p.3

Total 14,984 iao.a

共 に 〔出典 〕 斎 藤 多 喜 夫

「外 商側 か ら見 た明 治 前 期 の横 浜 生 糸 貿 易 」

『横 浜 開 港 資 料館 紀 要 』 第6号(1988年3月)

(19)

319幕 末 と明 治初 期 の外 国 貿 易 商 社 と横 浜 商 人

!国籍の商社であり︑}﹂れと並んで新興の昊商社と日本の直輸出商社が進出してきたのであつ(認・

注(‑)杉山伸也﹁イギリス商社研究史の動向と課題﹂︑﹃横浜醤地の諸想所収・六六ぺ←・また護多奏氏は外国商社を︑香港や上海に本店をお・\商社の横饗店と︑横浜で撃されここに本店をお茜社に分け・前蓼中国系商社

齢 鑓 難 騒 系贈 鋸 講 蕪 海 蝶 論 藍 麹 刷鎧 藷 繕

.ワ﹂.

響 難 饗 す る 方 が 分 類 の 作 業 上 容 易 で あ ろ う が ︑ 中 国 系 商 社 . 日 本 系 商 社 と い う 命 名 自 禁 ︑ 誤 蟹 招 き

(2 )

あ 鍾 簿 禦 繕 鑓 雲 づ 纂 が 四 真 フ ラ ン ス 籍 が ︑與 米 A ︒ 衆 国 籍 が .. ・ ..︑ ⁝ ダ 籍 が 二 二 で

1211!9ε 蕊z息54邑

杉山伸也函際環境L︑天四ぺ歩︒なお天九〇年における中国人商社数蔓〇五であった・

.一五

.二

...︑!

同︑四七蓋四︑八︑ハペ歩︒上口良芳恵﹁大嘉兵衛﹂︑居浜商人とその時代﹄所収・λr二ぺ﹁ジ・石井寛次︑﹃近代日本﹄︑五七ページ.護多受﹁外商側からみた明治前期の横浜生糸貿易﹂﹃横浜開港資料館紀

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