ゼミ資料 この essay は, わたしの seminar において, しばしば取り上げられてきた議論の論旨を, 紙面の制約の中で, ごく簡単に次の3部にまとめたものである. Ⅰ. 存在を認知するために必要な姿勢 Ⅱ. 存在は, 関係場の中に浮かび上がる Ⅲ. 存在性の在処 ありか と幸福 学会の準会員である学生諸君に, この論文集を配布するに際し, 君たちに向かって書かれ たものがあれば, よりいっそう手に取っていただけるのではないか, あるいは, つたない内 容に抗議なども出て, 各所で君たちの議論の的になれば, 猶いっそう結構ではないかなどと 考え, 敢えて, 駄文を掲載することとした次第である. 内容についての疑問・質問は, [email protected] でお待ちしている. 丸山 博道 Hiromichi MARUYAMA
Ⅰ. 存在を認知するために必要な姿勢
われわれの周りには, さまざまな人やもののけはいがしている. たしかに, 多くの場合, それはけはいに過ぎない. その証拠に, われわれはそれらの詳細を明確に述べることができ ない. 比較的鮮明に記憶に残っているものがあるとしても, それは, たまさか自分たちの関 心を惹いたものに過ぎない. したがって, われわれの意識の中に作り出されている世界とい うものは, まことに偶発的な姿を呈したもののようである. だが, しかし, それはさらにたちの悪いものかもしれない. もしかすると, それは少しも 偶発的などということではなく, もっと周到に準備されたある種の思惑によって統制されて いる可能性がある. たとえば, けさ電車の中で出会ったはずの人びとのうちで, 君は自分好 みの若い女性だけを記憶に留めて, 妙にうきうきした気分でいたかもしれない. たしかに, それは心地のよいものであって, それを実現することは, 毎日の無意識の日課になっていて も少しも怪しむにたりない. しかし, こうした世界を作り出すその思惑は, 一方で, わたし のような醜い老人を, 無きもののごとく扱わないともかぎらない. 本人は楽しかろうが, 無 きものの如く扱われた当の存在は, まず幸福ではあるまい. 君にはそれが骨身に沁みて分か るだろう. 君もまたそうした扱いを受けたことが, きっとあるからだ. そこにこそ, 非偶発的で非思惑的な世界をいかに意識のうちに立ち上げるかという問題が関係場と存在
−生態論的精神性のすすめ− Field and Beingなぜ殊更に問われねばならないのか, そのわけがある. しかし, 重要なことは, 過たれた存 在の救済であって, その痛みを与えたことによる倫理的非難ではない. 実際, その非難自体 が過たれた存在を救済するわけではないし, 救済のためには, 認知循環の機序から言って, 再度, 誤りを犯す可能性もあるのであって, 倫理的非難は存在救済への道を永遠に閉ざす危 険性すらある. むしろ必要なことは, 存在の痛みを感じるという行為を, 見つめるという行 為の中に常駐させているということである. 存在は, われわれの思惑とは独立である. しかし, われわれは経験的に身体化した図式を 以って, これを理解する以外に方法はない. 時には図式を脱身体的に借用するような飛躍さ え行わねばならないが, これこそ, 身体に拘束されたわれわれの認識の限界を知らしめる事 態である. たとえば, 電子というものは, 粒子でもなく波動でもない何かである. しかし, われわれには, 粒子とか, 波動とかという経験図式以外に持ち合わせがないので, こうした 図式をやり繰りして, その姿を描こうとしているわけである. 外部にものを見る場合に使用される図式のうちで, 最も基本的なものが, 存在する (何が, 何処に, どのように) というものである. そうした図式を用いて, 「書類が, 彼の机の上に, 山のように積まれて, いた」 とか, 「澄夫は, 琴を前にして, 借りてきた猫のように座って, いた」 と いうように状況を把握するのである. そして, 「どのように」 においては, 他者との関係に おいて, その存在が呈する諸状態が, 多かれ少なかれ比喩的な図式 (運動感覚イメージ・スキー マ/身体感覚的な述語スキーマ) の中で把握されることになる. 把握とは, 各図式が問い掛けてくる項目要素に観測値を入れることで, 生じてくる身体感 覚 (意味微分の全体) である. われわれの成し得る最大のことは, 手持ちの図式を可能な限 り動員して, 最善の近似を得ることである. ここで, 慎むべきは, 思惑的把握であり, 心が けるべきは, 思惑の専行を抑制して, 存在の外的な姿を, 各種の図式の指し示す諸関係に基 づいて吟味することである. それは要するに, その存在と他者との外的関係性を克明に把握 するということである. これ以外にわれわれは存在を把握する方法を持たない. それゆえ, こうした制約的な方法によって, 絶対的真理を一足飛びに把握できるなどと考えてはならな い. この把握が困難であるがゆえに, それだけ, 独創的な図式の適用が, 賞賛されることに なるのである. 身体化された図式の適用によって, 比喩的に事態を把握すること, それが人間の認知の姿 である. このとき図式的適合が実現すると, 分かった!という終局的心理を惹き起こす. そ れは, 図式を構成するすべての要件が満たされると, 当面, 新たな疑問を生成する機序, す なわち, 新たな図式の適用の試み, が作動しないからである. これは一種の満腹状態に喩え ることができる. とすると, 分かった!という事態は, 人間の精神活動の 「終わりの括り」 ということになるが, それは存在の側から言えば, まったく根拠のない事態である. 把握す る側が満足してしまったことによって, その存在は 「あらぬもの」 として存在せしめられる ことになってしまう.
満ち足りた快さの背後に, 存在の悲痛が隠される. この悲痛な存在の救済に向かうには, 新たな図式の適用が試されねばならない. 存在は, 他の図式に, より以上に適合したり, 多 重的に適合したりするかも知れないからである. われわれは, 思惑を以って, 認知の連鎖を 断ち切ってはいけない. 断ち切りそうになる思いを, 存在の救済のために繋いで行かねばな らない. それはおのれの権力性に抗する行為なのだ. そして, おのれの権力性に抗するほど に, 存在が立ち上がってくる. なぜなら, 身体化された図式が適合するということは, その 把握が身体的に為されるということであって, その対象は, やがて全面的共感的に存在する ようになるからである. 存在への共感が, いかにその存在感を強く立ち上げることであろうか. いったん共感を覚 えた存在は, それを目撃するだけで心地のよいものである. それゆえ, われわれは通いなれ た道の景観の中にさえ, 新たな発見をすることがあるのだ・・・?この一見矛盾した事態も, わ れわれが毎日, 目撃する対象を決めて歩いているということに思い当たれば, たちまち了解 されるだろう. 慣例となった目撃行動が, 何らかの理由で掻き乱されると, 思いもかけない ものを目撃して, こんなところに, こんなものがあったのかと感じ入ることになるわけだ. 同じ景観で辟易するということが, もしあるならば, それは同じ図式の適用を頑なに続けよ うとするおのれの権力性によって, 自由な眼差しが妨げられているということである. 存在 の悲痛は, おのれの権力性に発して, やがておのれを害するようになるのだ. それゆえ, われわれは, たえず新たな発見に向かわねばならない. われわれは, 存在が発 する微かなけはいにも, 鋭敏に共鳴する観測器として, 自己を形成せねばならない. それに は, 多くの図式・概念の鋳型・類型を仕込むだけではまったくだめで, おのれの権力性に抗 する反権力の姿勢を鍛えることが必要である. 外界はわれわれの思惑と独立に存在している ということを, 外界を把握するための第一の図式とせねばならない. わたしはこの図式を, 外界の独立性のスキーマ と呼んでいるが, 太古の人々が 神 と呼んで怖れたものは, まさにこの 外界の独立性 であったのではなかろうかと思っている. 外界とは人間の浅は かな思惑では, 理解し得ぬものであって, 誤って捉えれば, 災いを招くものなのだ. 外界は独立であるがゆえに, その把握は, われわれの比喩を超えて, すなわちわれわれの 経験や身体性を超えて, 外界の姿に沿った理解を心がけねばならない. わたしはこうした図 式を 外界の整合性のスキーマ と呼んでいるが, このスキーマに従うならば, 外界に矛盾 を見ることは許されない. 矛盾のように見えるものがあるとすれば, それは把握のために用 いている人間の論理に矛盾があるのである. ここでも自己の権力性と厳しく対決しなければ ならない. しかし, 比喩的把握に飢えているわれわれには, これは非常に苦しい道程である. ものごとが把握される前の, あの孤独で, 悶々とした作業は, 権力の権化である若者には耐 え難いものかもしれない. 神ともいうべき絶対 が, 己の精神活動を律していないならば, この作業は決して完遂することはできないだろう. われわれはあの 絶対 に差し招かれる 霊感を覚えるべきである.
もし安直な比喩の中に, ものごとの説明を求める傾向があるとすれば, それは己の身体に 魂を売り飛ばした姿であると言えよう. しかし, この地上では, そうした説明がもてはやさ れ, そうした説明を心がける書物や教師が善しとされている. こうした考えは, 読者や学生 のニーズを直視することを強調する人々の中で, 広く受け容れられている. 読者や学生のニ ーズが真実に向かい得るようにするには, 今は, 妥協して, 読者や学生の権力性を受け容れ ておかなければ, 二度と振り向こうともしない元も子もない次元に, かれらを連れ去ってし まうというのだ. わたしはこの論に100% 組しようとは思わないが, ストイックに真実を求 める自己の姿を, 他者に押しつけるのは, いかにも権力的行為であることを認める. 本来, われわれが世界の存在性を立ち上げようとするのは, 己の権力性から世界を救済するためで あったわけだから, 教育であれ, 啓蒙であれ, 他者に真実を強要しては元も子もない. われ われに必要なものは, 彼らの了解を得るまで, かれらを根気強く真実の前に誘うという姿勢 である. わたしはこうした姿勢を 了解性のスキーマ と呼んでいる. このスキーマは, 真 実といえども, 強要されてはならないと叫んでいるのだ. 存在を把握するための姿勢と, そ の姿を伝達しようとする姿勢との間には, おのずからなる違いがあるが, その両者に通底す るものは, 自己の権力性に対する, 反権力の姿勢である.
Ⅱ. 存在は, 関係場の中に浮かび上がる
認知された存在を記述するということは, 認知のために使用された図式に対応する述語ス キーマ (構文) を用いて, その諸項目に, 観測値 (データ) を代入して行く作業である. そ の結果, 存在は文章で記述され, 文章の中に存在が浮かび上がる. 文章とは, 各文の主格や 目的格 (ノード) が述語スキーマによってリンクされ, そうしたノードが他の文中に代名詞 として引用されているような, 一連の関係場であるとみなすことができる. したがって, 存 在とは, ノードの関係場の中に, 浮かび上がる何かなのである. 豊かな存在感は, 豊かな関 係場によって与えられる. ところで, 君たちに, 自己紹介文を書かせたら, 3行しか書けなかった人がいた. 「君は3 行の人かい?」 と言ったものだ. われわれは人を見るための図式をもっと増やさねばならな いし, 自我の権力性に抗して, 己が領土に他者の眼差しが注がれるのを認めねばならない. 実際, 自己の概念を十分に持つことなしに, 実現すべき自己像を構築することはできない. そこにはむろん職業選択の問題も含まれている. 就職後, 短期間にその職を放棄してしまう 者が, 就職者の約1/3もいることを考えると, 自己の分析作業に取り組むことの重要性が分 かるであろう. 人を理解するために, 最小限為されねばならない観測は, どのような状況において, (それ をいかに認識し) いかに反応・行動してきたかということである. われわれは, そうした全 方位的な記録を見ることによって, この人は, こういう状況で, こう反応し, こう行動する 人なのだということを知るのである. したがって, 全方位的にノードを用意して, 例えば,[親・家族・親戚・友人・知人・職場の仲間・地域社会の仲間等々との交流], [学習・創作・ 研究活動], [職業・アルバイト・ボランティア活動], [食事・健康・スポーツ・野外活動], [生い立ち・夢・理想], さらには, [歴史・社会・思想・宗教], ・・・等々の多くのノードを 用意して, それらと自己との関係を丹念に記述すれば, それはかなり効果的に, 自己の存在 を立ち上げてくれることであろう. こうした包括的な記録の中から, 浮かび上がってくるも のとは, ある状況において, ある反応を惹き起こすことになるところの, その人固有の認知 の姿であり, 魂の叫びであり, 欲求であり, 能力である. 自己紹介文とは, 本来, そうした 作業を自己に施した結果の要約でなければならない. 実は, Adorno という哲学者が, 「否定弁証法」 という書物の中で, 次のように語っている. 「(個物の核心は, あの極度なまでに個体化された, あらゆる図式を拒否する芸術作品に比べ ることができる. そうした対象の, 個別化の極みの中に普遍の契機が再発見される. それは, 自分でも気づかぬまま, ある類型を分有している.) こうした普遍の契機は, 抽象という方法 によらなくても, 諸概念を布置関係の中に配置することで見出される. この布置関係のもと では, 分類的やり方にとってはどうでもいいもの, 厄介者にすぎない対象の特質が, 照らし 出される. このことをよく示すモデルは, 言語の働きである. 言語は, 幾つかの概念をある 事物のまわりに集めて互いに関連づけ, その関係を通じてそれらに客観性を与える. 概念が その内部でとうに切り捨ててしまったもの, 概念がそれでありたいと思いながら, 到達でき ないこの 「概念以上のもの」 は, ただ布置関係によって外から表すしかない. 認識されるべ き事物のまわりにさまざまな概念が集められると, それによって, これらの概念は, 潜在的 に事物の内面を規定することになり, 思考が必然的に自分の内から排除したものを, 思考し つつ獲得することになる.」 やはり, かれも, 存在 (個物) の核心, その存在のありよう, すなわち存在性は, その周 囲に集められた諸概念の布置関係 (constellation・星座・配置) の中に見出されるが, その 方法こそ, 概念の抽象的操作が切り捨ててしまったものをすくい取る方法なのだと言ってい る. 概念とは, 典型的な図式であって, それを権力的に適用して切り出した存在性とは, 思惑 的なものに過ぎないであろう. それに反し, その周囲との諸関係を克明に記述するというこ とは, 己の権力性を抑えながら, 多様でミクロな述語スキーマを用いて, 丹念に存在性を紡 ぎだして行く作業である. それだけ存在に即した姿を, 諸ノードとの関係の中に浮かび上が らせることができるのである. われわれは, 近代の思想・概念の中に浸りこんでいる. 例えば, 「人権」, 「自由」, 「平等」,・・・ などという言葉を聞かない日はないほどである. しかし, それだけ, それらの言葉は, 無意 味に空しく通り過ぎて行く. 個々の人間をつぶさに観測し, その諸関係を記述し, その存在 性を立ち上げ, その尊厳に触れた結果として, はじめて擁護すべき 「彼らの人権」 が存在す るはずなのだ. 「人権」 という概念が, 「彼らの本来の人権」 を規定するならば, その擁護と
は, 抑圧の別称にもなりかねないものだ. もし, 21世紀の道徳ということが問われるならば, それは, 「存在を, この眼で観測し, 克明に記述し, その存在性を立ち上げることだ」 と答え たい. 前世紀ほど, 多くの存在が疎外された時代はなかったからである. 疎外とは, 存在が, その生態論的な調和関係から追い出され, その本来の存在性を喪失することである. しかし, 生態論的な調和関係などという比喩に簡単に頷いてはいけない. その比喩を身体化するため には, われわれは原始の森を友とする必要があるのだ. だが, よしんば, そのようなものが 無いとしても, 豊かな里山はある, そこには豊かな種が, 小さなbiotopeを構成し, 相互依 存の関係場の中に, 生き物を棲まわせているのを見ることができる. 存在が, 関係場の中に浮かび上がるのは, その存在が, その周囲のノードとの間に, その 本性にしたがって, それぞれの関係性を構築して, その中に棲み込んでいるからだと考える こともできる. これは, 相互作用の形態が, その存在の本質を規定しているということであ る. それゆえ, 君が世界とどのような関係にあるのかということを調べれば, 君という存在 が浮かび上がってくるという理屈なのだ. このために, 君という存在を調べるのに, 君の真 実の日記に勝る記録はない.
Ⅲ. 存在性の在処
あ り かと幸福
「存在とは, その周囲のノードとの間に, その本性にしたがって, それぞれの関係性を構 築して, その中に棲み込んでいるものである」 という主張は, 「存在の存在性は, その周囲の ノードとの関係性から浮かび上がる」 という経験法則の十分条件であると同時に, 存在主体 としてのわれわれ自身の直接的経験でもある. 関係の消滅によって, 存在感の希薄化を感じ なかった者はいないであろうし, 関係の強化によって, 幸福を感じなかった者もいないはず である. ここで, 幸福感とは存在感の別称である. ある倫理学者は, 幸福とは 「 おもうさまなること と非常に近接した概念」 だと言ってい るが, これまでの議論によると, そうではない. 幸福感は存在感の中にあり, 存在感は構築 された関係性の中にあるのだ. おもうさまなること を願うことは, 絶対の権力を目指すこ とである. 権力的であることは, 存在の真実に対して眼を塞ぐことであって, それでは, 世 界との良好な関係を構築することはできない. 存在の真実を見つめるために, 自己の権力性 に対して反権力の姿勢を保つことは, 絶対の必要条件であり, 幸福への絶対必要条件でもあ るのだ. しかし, それだけでは幸福にはなれない. 良好な関係性を構築するには, 他者に対 して, 共に関係を構築する ( / 相手の存在性を保障する / 相手を生かそうとする / 相手を 愛する) 能力が必要となるからだ. 例えば, あるノードとの間に新しい関係を構築しようと することは, その関係が, それによってお互いがより生かされるということと同時に, 双方 が既に構築している関係場と矛盾しないことが必要であって, 相手の背後にある諸関係に配 慮するという複眼的な知が必要である. もし, そこに強引な関係を構築するならば, その影響は, 関係場全体に及び, 関与する全ノードの存在性を疎外することになるのだ. そして, そのとき関係性の中に温められていた幸福は崩れ去ってしまう. その絶望が terrorism を引 き起こす. Hegel は, 幸福を宗教哲学の中で論じているが, 彼の考察によると, 仏教, ユダヤ教, ロ ーマの宗教いずれにおいても, 幸福とは, 神との合一 に帰着される. この結論は, おも うさまなること に比べれば, はるかに周到なものかもしれない. 確かに, 全人類の自我が 全宇宙と共にあることは, 確かな幸福のための必要十分条件であろうと思われるからだ, し かし, いまや人々の心の中に神が活きているとは言えないし, 救済されるべき対象は, 地球 規模に及んでいて, 神による全個の salvation などという途方も無いことを言ってみても何 も始まらない. したがって, 崩れ去った広範な幸福を, 個の信仰の対象である神によって復 活することは絶望的である. われわれが望み得るのは, 絶対の幸福などではなく, 存在感に伴うこの地上の幸福感を, より確かなものにすることである. そのためにどうしたら良いのかと問われるならば, その 答えは, 少なくとも言葉の上では, 明らかである. 存在感の起源たる関係場を確かなものに すること, それである. 確かな関係場とは, 一定の相互依存の中で, すべての存在がそれ本 来の存在性を発揮しているような系の関係場, すなわち円熟した生態系の関係場である. そ うした調和の中から, terrorismや癌は, 決して生じては来ない. 自己の権力性を抑えて, 他者の存在性を立ち上げる行為, 疎外された存在を救済する行為, それが新しい時代の理念 とならなければならないのだ. そして, 実際, そうした理念が, それとは気づかれないまま, ゆっくりではあるが, 次第 に市民権を獲得してきているのである. そうした事例は, 1970年代の末に北欧で始まった deep ecology 活動や, 北米において熱心に議論されてきた環境活動の理念の中に散見するこ とができる. しかしそうした理念は, 地球環境の救済に焦点が当てられたものであって, 人 間社会の救済の理念としては, あまり意識されることはなかった. しかし最近になって, 産 業カウンセリングの世界などでは, 疎外された個の救済が, それが属する関係場 (職場) の 活性化に結びつという確信が広く定着しつつあると報告されている. したがって, やがて広 く深く理解される日も来るであろうが, それまでは, 政治・経済・科学技術・教育, 等々の 諸権力との間に, さまざまな闘争が引き起こされることになるのは必至であろう. 近代の諸 理念が, 教会権力と封建権力によって疎外された人間を解放するために必要であったように, これら近代の諸権力によって疎外された全生命を解放するためには, われわれはそれにふさ わしい 「関係場と存在を見据えた新しい理念」 の確立を必要としているのである. わたしは, こうした調和的関係性の中に存在を見て行こうとする知を, 生態論的精神性: Ecological Spirituality と呼びたいと思う. それは 「存在の存在性は, それが周囲のノー ドとの間に構築した関係性によって規定される」 という事実から当為を汲み取って, 実践し ようとする精神性である. 「事実は, 当為を指し示す vector として存在する」 とは, Gestalt
心理学の中心的人物 Köhler の主張であった. たとえば, この基本事実から, 「生命は 円熟した生態系 において幸福である」 という系 が導かれるが, この系から 「生態系の円熟を図るべし」 という当為を汲み取って, それを実 践して行こうというわけである. これは, むろん自然環境の保全活動の中心課題でもあるが, それはまた, 産業カウンセリングの中で, 組織の活性化のために活用することもできるし, 自我拡大 (成熟) の指導原理にすることもできるのである. また, この基本事実を直接用いて, 「存在の在り方を把握するに当たっては, その周囲の関 係 WEB を総体として把握すべし」 という当為を導いて, 新しい科学の根底に据えることも 可能であろう. そのような科学は, 生態学からその方法論を受け継ぎながら, その対象を広 く人間社会に拡大して行くこともできるのである. 関係性を総体として把握しようとする時, そこに文科・理科の境は存在しないということは, 明らかであろう. 20世紀後半になって, 多くの重篤な疎外を生み出して来た諸権力が, いま, 各所で立退き 要求を受けている. まさに存在の復興・Renaissance が求められているのだ. そしてその復 興は関係性の復興でもあるのだ. 君たちが歴史的に為すべきことは, 生態論的精神性に発す る知の実践に何らかの形で参画することでなければならない. わたしのseminar では, 「自己という存在」 の存在性を明らかにして, その究極的な叫び を明らかにしようとする作業が, 各自の日記に基づいて行われている. その叫びは, 必ずそ の本質において実現されねばならないが, その実現は, 当然, 個々が多重的に属すことにな る各種の biotope (家庭・職場・地域社会・等々) の同時的な活性化の中に模索されねばな らない. こうした seminar 活動は, 一種の career counseling とも言えるが, わたし自身は, 生態論的精神性の啓蒙活動として実践したいと念じている.
推薦図書
1. David Kinsley, 1995, Ecology and Religion−Ecological Spirituality in Cross-Cultural Perspective, Prentice Hall, ISBN0-13-138512-7
ここに, 「生態論的精神性」 という言葉が見られる. 環太平洋の縄文文化に, 相互依存 の本質を学ぶことができるかもしれない.
2 . Arne Naess, (Translated and revised by David Rothenberg), 1990, Ecology, Community and Lifestyle−Outline of an Ecosophy, Cambridge, ISBN 0-521-34873-0 A. Naessという哲学者は, deep ecology 活動の創始者であるとともに, ガンジーの研究 者でもあった. 非暴力と反権力の精神性, 地域社会へのまなざしが随所に現れている.