日本近世初期における渡来朝鮮人の研究: 加賀藩を 中心に
著者 鶴園 裕, 笠井 純一, 中野 節子, 片倉 穣
著者別表示 Tsuruzono Yutaka, Kasai Junichi, Nakano Setsuko, Katakura Minoru
雑誌名 平成2(1990)年度 科学研究費補助金 一般研究(B)
研究成果報告書
ページ 200p.+ Appendix document 22p.
発行年 1991‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/45832
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
渡越した︑と推論されている︒
帽トメ・コレア
一六二三年︵元和九︶︑モルッカ諸島中のアンボイナ島で虐殺事
件が起こり︑その犠牲となってオランダ人に処刑された人びとの
中にトメ・コレア含言弓言吊巴なる者がいた︒おそらく︑彼も
一度日本に渡り︑転じて同地に行き︑この悲運に遭った朝鮮出身
の人物であるうへ閲﹀︒
︑ペドロ・コレア
ペドロ・コレア令ggg吊巴は︑︑ハタビア在住民の洗礼簿一
六三五年九月二日条に︑バタビア移住日本人の娘マリヤの洗礼に
立ち会った堺出身の人物という︒彼もまた︑朝鮮から日本に渡来
し︑なんらかの機会に同地に転住したものと思われるへ鮒﹀︒
⑧マリナ・パック
若くして日本に渡航︒一六○六年︵慶長一二︑ゼスス会の宣教
師によって洗礼を受け︵畜亘呂蚕g巳︑その後︑日本から追放さ
れ︑マニラに行き︑一六三六年︵寛永一三︶五月二五日に六二歳で
昇天した︒朝鮮出身の女性である︵〃︶︒
側朝鮮国人︵姓名不詳︶
長くカンボジアに住んでいた︒のち一六四二年︵寛永一九︶︑ル
ビノに従って日本に潜入したが︑長崎で穴つるしとなった︿鮒︺︒
Ⅲ朝鮮国人︵姓名不詳︶
﹃明実録﹄一六○九年︵万暦三七︑慶長一四︶五月二日条に︑日
本からの呂宋渡航船の中に︑先年︑倭のために虜せられ︑転売さ
れた朝鮮国人がいた︒岩生氏によると︑この年の呂宋渡航船は︑ 前掲挙例の人物中︑トンキンの女通詞として外交畑で活躍したと されるウルスラに関しては︑朝鮮人説と日本人説が唱えられ︑その 出自が分明でない︒朝鮮人説は︑一六三七年一月三一日に平戸でオ ランダ商館長カーレル・ハルチンクがトンキンに渡航するヴィセン ト・ロメインとメルヒオール・ファン︒サントフォールトの両人に 与えた指令中の文言︑ウルスラⅡ朝鮮の出身︑などを典拠とし︑一 方︑日本人説は︑同じく一六三七年正月︑平戸を出帆してトンキン に向かったオランダ船グロル号の航海日誌にみえる︑日本婦人ウル サンS貝扇困←口昌︲雷己などに依拠して唱えられてきた︵Ⅱ︶︒た とえば︑東南アジアの日本町や貿易に精力的に取り組んでこられた 岩生氏は︑最初ウルサンとウルスラは同一人物で︑日本人と解釈さ れたが︑その後︑別の論稿では︑前稿との不一致につき明確な言及 はないが︑ウルスラー朝鮮人︑と解釈を改められ︑ごく最近では︑ 五野井隆史氏がこの問題を專論として取り上げられ︑ウルスラⅡ日 本人説を唱えられている︒
筆者とて確たる根拠があるわけではないか︑あえて大胆な推測が
許されるなら︑ウルスラとウルサンは同一人物であり︑彼女はもと
朝鮮人であり︑日本に連行の後︑ベトナム北部トンキンで活動する
に至ったのであり︑彼女を日本人とするのは︑確かに日本にも住み︑
日本語を理解し得たことと︑日本の地からベトナムに渡航した事情
などに起因した誤伝ではないか︑と推考する︒よって︑前掲渡航朝 末吉孫左衛門・小西長左衛門または安当仁からせすの三者のうち の一であったろう︑という︿閲︶︒
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注 ︵1︶﹃資治通鑑﹄巻一九三︑唐紀九︑太宗貞観五年︵六三一︶十二月
条︒
小稿では︑本文中︑文献史料に記された奴脾を奴隷なる語で
表示した場合があり︑両語を峻別して用いていない︒本来︑身
分的・法的に表現される奴脾と︑階級的概念である奴隷とは判
然と識別して使うべきであろうが︑ここでは︑こうした概念規 さらにその西方にまで及び︑各々の地域で幾多の足跡を遺した︒一 六〜一七世紀初期︑まさにこの時期の東南アジアは︑諸民族の自立 的発展︵民族的諸王朝の形成・発展︶︑西欧勢力の政治的・経済的・ 宗教的進出︑中国や日本などの商人集団の活動等々︑この地域世界 に生きる人びとの運命は︑諸外国勢力の多様な利害・打算と無関係 に論じられない複雑な構図を描いていた︒強制連行された朝鮮人た ちは︑このような東南アジアでさまざまな形でかかわり合いを持っ たのである︒遙かに祖国を想い︑己の境遇に思いを馳せつつ︑東南 アジアでなにを感じ︑この地域の人や文化といかに交流したのであ ろうか︒
本稿は︑諸先学の業續を振り返りながら︑渡航朝鮮人の問題を通
して︑遠く離れた朝鮮と東南アジアの接点を求めるために筆を執っ
たものであるが︑事実関係を整理し︑問題提起をすることに終始し
た︒本題名に﹁覚書﹂を付した所以である︒今後とも︑新史料の発
見を目指すとともに︑論点を深め︑東南アジアで活動した朝鮮人の
思いと行動に迫りたいと考える︒ 定の問題には深入りしないことにした︒
︵2︶唐代の嶺南における人身売買・奴脾転売については︑河原正博
﹃漢民族華南発展史研究﹄︵吉川弘文館︑一九八四︶九三九四︑
九六〜一○三各頁参照︒
︵3︶河原前掲書︑一○一︑四○四各頁︒
︵4︶﹃嶺外代答﹄巻七︑金石門︑生金条︒
︵5︶﹃三国史記﹄巻四四︑張保皐伝︒
︵6︶牧野巽﹁東亜米作諸民族における奴隷制l序説的試論﹂
︵﹃高田先生古稀祝賀論文集・社会学の諸問題﹄有斐閣︑一九
五四︶三一七頁︒
︵7︶﹃朝鮮世宗実録﹄己酉十一年︵一四二九︶十二月乙亥条﹁通信使
朴瑞生︑具可行事件以啓︑⁝⁝一︑倭賊嘗侵略我國︑虜我人民︑
以爲奴脾︑或輔責遠國︑偉不永還︑其父兄子弟︑痛心切歯︑前
未得報讐者︑幾何人乎︑臣等之行︑毎泊舟虚︑被虜之人︑争欲
逃來︑以其主椥鎗堅固未果︑誠可懲也︑日本︑人多食少︑多實
奴蝉︑或窺人子弟責之︑酒酒皆是︵後略ご・
宋希環著・村井章介校注﹃老松堂日本行録﹄︵岩波書店︑一
九八七︶漁舟︑唐人︑四○頁︒その他︑詳細は石原道博﹁倭憲
と朝鮮人俘虜の送還問題㈲﹂︵﹃朝鮮学報﹄九輯︑一九五五︶七
四〜七七頁︑同名論文目︵同誌︑一○輯︑一九五五︶七九頁参照︒
倭憲の時期区分については︑田中健夫﹃倭憲海の歴史﹄︵教
育社︑一九八二︶一〜二四○頁︑同﹁﹁前期倭憲﹂﹁後期倭冠﹂
というよび方について﹂︵﹃対外関係と文化交流﹄思文閣出版︑
一九八二︶三七三〜三七七頁参照︒
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︵岨︶相田前掲論文︑二○六頁︒ョハネス・ラウレス﹃高山右近の生
涯I日本初期基督教史l﹄王ンデルレ書店︑一九四八︶二
二三頁︒
︵別︶榎一雄﹃商人カルレッティ﹄︵大東出版社︑一九八四︶七七︑八
二〜八三各頁︒
︵別︶山口前掲書︑一三頁︒岩生前掲書︵一○七〜二○頁︶には︑バ
タビア在住日本人が関係した奴隷取引価格に関する貴重な資料
が掲載されている︒
︵〃︶シュタイシェン前掲書︑一二七〜一二八頁︒姉崎正治﹃切支丹
伝道の興廃﹄︵同文館︑一九三○︶三一六〜三二一頁︒
︵羽︶各人のうち出典名の注記がないのは︑本稿の他の個所で引用済
み故︑割愛したためである︒
︵別︶近藤守重﹃亜婚港紀略藁﹄上︑地名及往来之事附令條︑寛永
十九年︵一六四二︶午長崎平戸町人別帳︒同人別帳によると︑
夫の川崎や助右衛門も高麗の者であり︑同町の池本小四郎の父
も高麗出身だったという︒
︵閲︶岩生成一﹁モルッカ諸島移住日本人の活動﹂︵﹃台北帝国大学
文政学部史学科研究年報﹄五輯︑一九三八︶一四六〜一四八頁︒
同﹁安南国渡航朝鮮人趙完壁伝について﹂︵﹃朝鮮学報﹄六︑
一九五四︶八頁︒
︵朋︶岩生前掲論文︵一九三八︶一四五〜一四七頁︒
︵︶○○匡三両司四コ︒房○○農四ヶ○吋画くの︒︑の揮○の臺己︑けのユ○mアで○m寸○匡oom
ユのし○m○ず門の村○mユの衿の○○ヨで四コ﹄のユの﹄の︑口︑︒甸匡コユ︑○﹄○二﹃三
勺司○函司のmmOmユの︑こむ司○く粋.○﹄︑の.湾四m岸︑﹄の︑﹃﹄﹄﹄で﹄.︑︑︒ エ﹄︑苛○司粋︑ユ○mで○吋の済む︑Q村の﹃︑○○岸陰画・勺の司哉ので司粋ヨの﹃mmmo︑堅の qの﹄○m宝のコニ︑○吋﹄前○mユの樟勺︑ユ吋のでのユ吋○○蓉粋制澤口○・・・・画四吋○の﹄○言四一 石○○○空ず○雪の国︾宅や︑︒②2琶委
︵湖︶姉崎前掲書︑四四一頁︒
︵的︶﹃明実録・神宗実録﹄巻四五八︑万暦三十七年︵一六○九︶五月
壬午﹁有倭船漂入閏洋小埋者︑舟師追至潭港及仙崎︑獲夷衆二
十七人︑課係日本商夷往販異域︑爲風瓢閣︑其中有朝鮮國人︑
先年爲倭所虜︑而輔責者︑次爲呂宋︑爲西番︑或寶身爲使令︑
或附舟歸國﹂・岩生前掲論文︵一九五四︶七頁︒
︵帥︶朝鮮人説については︑レオン︒パジェス著・吉田小五郎訳﹃日
本切支丹宗門史﹄上巻︵岩波書店︑一九三八︶一七七頁︒岩生前
掲論文︵一九五四︶九頁︒同﹃新版朱印船貿易史の研究﹄︵吉川
弘文館︑一九五八︶四五二頁参照︒日本人説については︑岩生
成一﹁江戸時代初期トンキン在住日本人﹂︵﹃歴史地理﹄五三
キム・ヨンコン
巻六号︑一九二九︶五三〜五六頁︑金永鍵﹃印度支那と日本と
の関係﹄︵冨山房︑一九四三︶五二〜五五︑六五各頁︒五野井隆
史﹁トンキンの日本人女通詞ウルスラについて﹂︵﹃日本歴史﹄
四八六号︑一九八八︑八九〜九二頁︶参照︒研究会では︑ウル
ウルサン︲
サンは地名蔚山と関係があるのではないか︑という指摘を受け
た︒
︵別︶岩生前掲論文︵一九五四二〜一二頁︒
︵躯︶﹃外蕃通書﹄︵﹃近藤正斎全集﹄第一︑国害刊行会︑一九○五︶
︵ママ︶
第一二冊︑安南国警二︑安南国文理侯達書﹁安南國又安虚總大
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