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Vol.65 , No.1(2016)054吹田 隆徳「般舟三昧と仏随念の関係について」

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(1)

このように菩薩が般舟三昧の中で無量寿仏に往生の要因を尋ね,無量寿仏がそ の要因として答えているのが仏随念である.すなわち仏随念の目的は往生にある ことになる.漢訳では随念に当たる語を「念」としているが2),蔵訳では rjes su dran pa となっており,この場合が anu-√smṛ である.ところで,〈般舟三昧経〉で は「空三昧を獲得するならば,それこそが仏随念である」3)として,仏随念の三 昧化をおこなっている.それゆえ赤沼の指摘する通り,仏随念は三昧化されては いるが,上述の様に,仏随念の目的は往生にある.そして,般舟三昧の目的は言 うまでもなく見仏にある以上,これを直ちに般舟三昧であると理解するのは早計 であろう.二つが異なる概念であることについては,少なくとも『賢護分』にお いて,般舟三昧と仏随念とを順次に「思惟諸仏現前三昧」4)と「正念諸仏現前三 昧」5)とに訳し分けていることからも支持される.これは漢訳者(闍那崛多)が,こ のようにしてこれら二つの概念を区別していると理解すべきである.このように 両者は異なる概念なのであって,般舟三昧は仏を anu-√smṛ することではない.

般舟三昧と manasi-√kṛ 

次に〈般舟三昧経〉における般舟三昧の説示を検討 し,般舟三昧が仏を manasi-√kṛ(思念する)ことであることを確認する. バドラパーラよ.〈現在の諸仏が現前する〉というこの三昧(=般舟三昧)はどのような ものであるのか.さて,バドラパーラよ.比丘であれ,比丘尼であれ,優婆塞であれ, 優婆夷であっても,戒を円満に保って,その者は一人で閑静な所に行き,座ってから「世 尊,如来,阿羅漢,正等覚なるかの無量寿仏はどの方角に住んで,生活し,滞在して, そして,教えを説いておられるのか」とこのように心を起こしなさい.その者は聞いた とおりの行相で,この仏国土から西の方角に百千俱胝の仏国土を過ぎたスカーヴァティー 世界に,世尊,如来,阿羅漢,正等覚なるかの無量寿仏が,現在,菩薩衆に囲まれ,仕 えられておられる,生活しておられる,滞在しておられる,そして教えを説いておられ る,とこのように思念して,そして,その者は乱れのない心で如来を思念する(yid la byed pa, *manasi-√kṛ)のである6) これを見ると,般舟三昧は仏を manasi-√kṛ することであるとわかる.漢訳では anu-√smṛ と同様に「念」と訳されるが7),蔵訳では yid la byed pa(manasi-√kṛ)と して rjes su dran pa(anu-√smṛ)とは明確に訳し分けている.manasi-√kṛ は大乗経典 での用例を見ると,特に浄土経典において見仏思想と結びついて用いられてお り8),これらの見仏思想と般舟三昧とが同じ系譜上にあることを示唆する.一般に, 記憶の想起を意味する anu-√smṛ に対し,manasi-√kṛ は心を対象に向わせる注意作 用を意味するから9),意味上も異なっている.このように蔵訳に従って原語を論 定した結果,漢訳で「〔仏を〕念ずる」という場合には,般舟三昧(manasi-√kṛ)と 般舟三昧と仏随念の関係について(吹 田) (191)

般舟三昧と仏随念の関係について

吹 田 隆 徳

問題の所在 

般舟三昧(pratyutpanna-buddha-saṃmukhāvasthita-samādhi)と仏随念 (buddhānusmṛti)との関係を初めて検討したのは赤沼(1939, 388–418)である.赤沼 は大乗の特色とも言える三昧思想の変化に注目し,般舟三昧は般若空思想によっ て仏随念が三昧化したものであるとする.Harrison(1978)もこれを踏まえて同様 の見解を示しているが,議論としては赤沼(1939, 388–418)に尽くされていると いってよい.彼らの見解では,般舟三昧と仏随念の関係は思想上の展開にあるこ とになろう.〈般舟三昧経〉は一部を除いて原典が散逸しているため,用語の正確 な原語特定が難しい.漢訳資料によると,般舟三昧とは「〔仏を〕念ずる」ことで あり,先学はこれを anu-√smṛ(随念する)と解して,般舟三昧の原形を仏随念に見 出してきた.しかし,「念」の原語としては anu-√smṛ の他にも可能性のある語が 考えられるにも拘わらず,今までこの可能性については全く検討されてこなかっ た.その如何によっては般舟三昧の原形の再検討が必要になる.そこで今回は, 〈般舟三昧経〉における仏随念の概念,さらに般舟三昧に用いられる「念」の原語 の論定,という二点からの検討を行い,先行研究を再考する.

仏随念の目的 まず,〈般舟三昧経〉における仏随念がどのような概念であるか

を確認すべく,仏随念の目的を検討する.以下に〈般舟三昧経〉における菩薩と 無量寿仏との対話を引用する.尚,資料は原語を想定しやすい蔵訳を用いる. 菩薩の〈現在の諸仏が現前する〉〔という〕この三昧(=般舟三昧)にとどまって,その 者はかの如来を見てから,「世尊よ.いかなる教えを具えれば,菩薩摩訶薩はこの〔ス カーヴァティー〕世界に生まれることが出来るのでしょうか」と質問する.このように, どのような仏国土であれ,生まれたいと望む時には,如来に〔このように〕質問するの である.このように尋ねられて,世尊,如来なるかの無量寿〔仏〕は,その菩薩に次の ように答える.「善男子よ.仏随念(sangs rgyas rjes su dran pa, *buddhānusmṛti)を修し,

行じ,修習を多く行うならば,この〔私の〕世界に生まれるのである」1)

(190) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月

(2)

このように菩薩が般舟三昧の中で無量寿仏に往生の要因を尋ね,無量寿仏がそ の要因として答えているのが仏随念である.すなわち仏随念の目的は往生にある ことになる.漢訳では随念に当たる語を「念」としているが2),蔵訳では rjes su dran pa となっており,この場合が anu-√smṛ である.ところで,〈般舟三昧経〉で は「空三昧を獲得するならば,それこそが仏随念である」3)として,仏随念の三 昧化をおこなっている.それゆえ赤沼の指摘する通り,仏随念は三昧化されては いるが,上述の様に,仏随念の目的は往生にある.そして,般舟三昧の目的は言 うまでもなく見仏にある以上,これを直ちに般舟三昧であると理解するのは早計 であろう.二つが異なる概念であることについては,少なくとも『賢護分』にお いて,般舟三昧と仏随念とを順次に「思惟諸仏現前三昧」4)と「正念諸仏現前三 昧」5)とに訳し分けていることからも支持される.これは漢訳者(闍那崛多)が,こ のようにしてこれら二つの概念を区別していると理解すべきである.このように 両者は異なる概念なのであって,般舟三昧は仏を anu-√smṛ することではない.

般舟三昧と manasi-√kṛ 

次に〈般舟三昧経〉における般舟三昧の説示を検討 し,般舟三昧が仏を manasi-√kṛ(思念する)ことであることを確認する. バドラパーラよ.〈現在の諸仏が現前する〉というこの三昧(=般舟三昧)はどのような ものであるのか.さて,バドラパーラよ.比丘であれ,比丘尼であれ,優婆塞であれ, 優婆夷であっても,戒を円満に保って,その者は一人で閑静な所に行き,座ってから「世 尊,如来,阿羅漢,正等覚なるかの無量寿仏はどの方角に住んで,生活し,滞在して, そして,教えを説いておられるのか」とこのように心を起こしなさい.その者は聞いた とおりの行相で,この仏国土から西の方角に百千俱胝の仏国土を過ぎたスカーヴァティー 世界に,世尊,如来,阿羅漢,正等覚なるかの無量寿仏が,現在,菩薩衆に囲まれ,仕 えられておられる,生活しておられる,滞在しておられる,そして教えを説いておられ る,とこのように思念して,そして,その者は乱れのない心で如来を思念する(yid la byed pa, *manasi-√kṛ)のである6) これを見ると,般舟三昧は仏を manasi-√kṛ することであるとわかる.漢訳では anu-√smṛ と同様に「念」と訳されるが7),蔵訳では yid la byed pa(manasi-√kṛ)と して rjes su dran pa(anu-√smṛ)とは明確に訳し分けている.manasi-√kṛ は大乗経典 での用例を見ると,特に浄土経典において見仏思想と結びついて用いられてお り8),これらの見仏思想と般舟三昧とが同じ系譜上にあることを示唆する.一般に, 記憶の想起を意味する anu-√smṛ に対し,manasi-√kṛ は心を対象に向わせる注意作 用を意味するから9),意味上も異なっている.このように蔵訳に従って原語を論 定した結果,漢訳で「〔仏を〕念ずる」という場合には,般舟三昧(manasi-√kṛ)と 般舟三昧と仏随念の関係について(吹 田) (191)

般舟三昧と仏随念の関係について

吹 田 隆 徳

問題の所在 

般舟三昧(pratyutpanna-buddha-saṃmukhāvasthita-samādhi)と仏随念 (buddhānusmṛti)との関係を初めて検討したのは赤沼(1939, 388–418)である.赤沼 は大乗の特色とも言える三昧思想の変化に注目し,般舟三昧は般若空思想によっ て仏随念が三昧化したものであるとする.Harrison(1978)もこれを踏まえて同様 の見解を示しているが,議論としては赤沼(1939, 388–418)に尽くされていると いってよい.彼らの見解では,般舟三昧と仏随念の関係は思想上の展開にあるこ とになろう.〈般舟三昧経〉は一部を除いて原典が散逸しているため,用語の正確 な原語特定が難しい.漢訳資料によると,般舟三昧とは「〔仏を〕念ずる」ことで あり,先学はこれを anu-√smṛ(随念する)と解して,般舟三昧の原形を仏随念に見 出してきた.しかし,「念」の原語としては anu-√smṛ の他にも可能性のある語が 考えられるにも拘わらず,今までこの可能性については全く検討されてこなかっ た.その如何によっては般舟三昧の原形の再検討が必要になる.そこで今回は, 〈般舟三昧経〉における仏随念の概念,さらに般舟三昧に用いられる「念」の原語 の論定,という二点からの検討を行い,先行研究を再考する.

仏随念の目的 まず,〈般舟三昧経〉における仏随念がどのような概念であるか

を確認すべく,仏随念の目的を検討する.以下に〈般舟三昧経〉における菩薩と 無量寿仏との対話を引用する.尚,資料は原語を想定しやすい蔵訳を用いる. 菩薩の〈現在の諸仏が現前する〉〔という〕この三昧(=般舟三昧)にとどまって,その 者はかの如来を見てから,「世尊よ.いかなる教えを具えれば,菩薩摩訶薩はこの〔ス カーヴァティー〕世界に生まれることが出来るのでしょうか」と質問する.このように, どのような仏国土であれ,生まれたいと望む時には,如来に〔このように〕質問するの である.このように尋ねられて,世尊,如来なるかの無量寿〔仏〕は,その菩薩に次の ように答える.「善男子よ.仏随念(sangs rgyas rjes su dran pa, *buddhānusmṛti)を修し,

行じ,修習を多く行うならば,この〔私の〕世界に生まれるのである」1)

(190) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月

(3)

なるのである.したがって両者の関係は,先行研究で言うような思想上の展開で はなく,このような修行上の関係にある.それゆえ,今後は仏随念に代わる般舟 三昧の原形の可能性を検討していかなくてはならない12) 1)PraS([3E] [3F]: 30, 22–31, 7).尚,[ ]内の英数字は PraS の章立てと対応する.    2)『三巻本』(T13, 905b9–b13):見仏已従問.当持何等法生阿弥陀仏国.爾時阿弥陀仏. 語是菩薩言.欲来生我国者.常念我数数.常当守念.莫有休息.如是得来生我国.『賢護 分』は正念(T13, 876b8)とする.   3)PraS([3F]: 31, 29–31).   4)『賢護分』 (T13, 875b24–b25).   5)『賢護分』(T13, 876b19–b20).   6)PraS([3A]: 26, 8– 24).他の用例としては PraS([3B]: 27, 13–23; [3H]: 33, 4–8; [3I]: 34, 4–9; [3J]: 34, 26–35, 4; [8A]: 68, 3–9)を参照.   7)『三巻本』(T13, 905a5–a10):何因致現在諸仏悉在前立 三昧.如是颰陀和.其有比丘比丘尼,優婆塞優婆夷.持戒完具.独一処止.心念西方阿 弥陀仏今現在.随所聞当念.去是間千億万仏刹.其国名須摩提.在衆菩薩中央説経.一 切常念阿弥陀仏.   8)〈阿弥陀経〉の臨終見仏(S. Sukh, 89, 4–11),〈無量寿経〉の 臨終見仏と夢中見仏(L. Sukh, 42, 9–43, 13)に見られる.   9)藤田(1970, 561)を 参照.しかし色井(1978, 153)によると,manasi-√kṛ が念と訳される場合には観念という 概念が当てはまるという.般舟三昧の場合もこれに準じて理解すべきであろう.    10)PraS([3E]: 30, 12–20).   11)PraS([3D]: 29, 3–23).   12)これについて は別稿にて臨終見仏(来迎)説との関わりにおいて論じる予定である.    〈略号〉 『一巻本』:支婁迦讖訳『般舟三昧経』(T. vol. 13, no. 417). 『賢護分』:闍那崛多訳『大 方等大集経賢護分』(T. vol. 13, no. 416). 『三巻本』:支婁迦讖訳『般舟三昧経』(T. vol. 13, no. 418). 『抜陂経』:失訳『抜陂菩薩経』(T. vol. 13, no. 419). L. Sukh:

Sukhāvatīvyūha. Ed. Atsuuji Ashikaga. Kyoto: Librairie Hōzōkan, 1965. PraS: The Tibetan Text of the Pratyutpanna-Buddha-Saṃmukhāvasthita-Samādhi-Sūtra. Ed. Paul Harrison. Studia

Philologica Buddhica Monograph Series I. Tokyo: Reiyukai Library, 1978. S. Sukh: The Larger

and Smaller Sukhāvatīvyūha Sūtras: Edited with Introductory Remarks and Word Indexes to the Two Sūtras. Ed. Kotatsu Fujita, 81–94. Kyoto: Hozokan, 2011. 

〈参考文献〉

赤沼智善(1939)1981『仏教経典史論』法蔵館. 色井秀譲 1978『浄土念仏源流考』百華苑. 藤田宏達 1970『原始浄土思想の研究』岩波書店.

Harrison, Paul. 1978. “Buddhānusmṛti in the Pratyutpanna-Buddha-Saṃmukhāvasthita-Samādhi-Sūtra.” Journal of Indian Philosophy 6: 35–57.

〈キーワード〉 般舟三昧,仏随念,念仏,三昧,見仏 (佛教大学大学院) 般舟三昧と仏随念の関係について(吹 田) (193) 仏随念(anu-√smṛ)との二通りがあることが確認できる.

般舟三昧と仏随念の関係 

最後に般舟三昧と仏随念の関係について,これらの 概念が修行上の関係にあることを確認しておく.まず〈般舟三昧経〉には, バドラパーラよ.このように菩薩が〈現在の諸仏が現前する〉というこの三昧(=般舟 三昧)を具えると,その〔菩薩〕は,この世界にいながら世尊,如来,阿羅漢,正等覚 なる,かの無量寿仏に〔ついて〕聞くのである.その〔菩薩〕はその如来の名前と容姿 と功徳とだけを聞いて,乱れることのない心で世尊,如来,阿羅漢,正等覚なる,かの 無量寿仏を正しく随念(*anu-√smṛ)する10) とあり,これによれば般舟三昧を具えることで,仏の名前などを聞くだけで仏随 念が可能になるという.これは換言すれば,般舟三昧がなければ仏の名前などを 聞いたとしても,他方仏は随念できないということである.以下に引用する比喩 は般舟三昧と仏随念との関係を,anu-√smṛ の持つ性質から明らかにする. つまり,バドラパーラよ.例えば,ある男がラージャグリハの大きな城下町に住んでい たのだが,ヴァイシャーリーの町にスマナーというある遊女がいると聞いた.二番目の 男の方は,アームラパーリーというある遊女がいると聞いた.三番目の男の方は,ウト パラヴァルナーという,かつての遊女がいると聞いた.彼ら〔男〕はそれら〔遊女のこ と〕を聞いて,それぞれがそれぞれ〔の遊女〕に愛着したのだが,これらの男達はそれ ら遊女達を見たこともなく,ただ名前と容姿と美貌とだけを聞いて,愛欲の心を起こし たのである.彼らは何度もその〔遊女〕を思念し(*manasi-√kṛ)ている間に眠りに落ち ると,…夢に見たのである.彼らは目覚めてから,〔夢の中で〕見た,聞いた,知った, 知覚した通りに,夢での経験を思い返す(*anu-√smṛ)11) この比喩を見ると,対象(遊女)を manasi-√kṛ することで夢に見て,夢から覚 めてから anu-√smṛ するとなっている.先にも述べたように,anu-√smṛ は想起を意 味し,記憶を前提とした行為である.それゆえ,記憶に存在しないことは聞いた としても anu-√smṛ できない.ところが,この比喩で注目すべきことは,たとえ見 知らぬ対象であっても,夢で具現化された結果として anu-√smṛ が可能になってい る点にある.この比喩では,ヴァイシャーリーという遠方にいる遊女達が他方仏 である.そして,夢が般舟三昧であり,思い返す行為が随念である.これを照ら し合わせると,般舟三昧で他方仏が具現化されることによって,未だ見ぬ仏であっ ても仏随念を可能にするという構造が導き出される.以上の考察に基づけば,先 に引用した一節の「般舟三昧を具えると…随念するようになる」という文言の意 味もよく理解できる.つまり,般舟三昧というのは,他方仏の随念に先立つ記憶 を構築すべく行われるものであり,その後に他方仏を対象とした仏随念が可能に (192) 般舟三昧と仏随念の関係について(吹 田) ─ 333 ─

(4)

なるのである.したがって両者の関係は,先行研究で言うような思想上の展開で はなく,このような修行上の関係にある.それゆえ,今後は仏随念に代わる般舟 三昧の原形の可能性を検討していかなくてはならない12) 1)PraS([3E] [3F]: 30, 22–31, 7).尚,[ ]内の英数字は PraS の章立てと対応する.    2)『三巻本』(T13, 905b9–b13):見仏已従問.当持何等法生阿弥陀仏国.爾時阿弥陀仏. 語是菩薩言.欲来生我国者.常念我数数.常当守念.莫有休息.如是得来生我国.『賢護 分』は正念(T13, 876b8)とする.   3)PraS([3F]: 31, 29–31).   4)『賢護分』 (T13, 875b24–b25).   5)『賢護分』(T13, 876b19–b20).   6)PraS([3A]: 26, 8– 24).他の用例としては PraS([3B]: 27, 13–23; [3H]: 33, 4–8; [3I]: 34, 4–9; [3J]: 34, 26–35, 4; [8A]: 68, 3–9)を参照.   7)『三巻本』(T13, 905a5–a10):何因致現在諸仏悉在前立 三昧.如是颰陀和.其有比丘比丘尼,優婆塞優婆夷.持戒完具.独一処止.心念西方阿 弥陀仏今現在.随所聞当念.去是間千億万仏刹.其国名須摩提.在衆菩薩中央説経.一 切常念阿弥陀仏.   8)〈阿弥陀経〉の臨終見仏(S. Sukh, 89, 4–11),〈無量寿経〉の 臨終見仏と夢中見仏(L. Sukh, 42, 9–43, 13)に見られる.   9)藤田(1970, 561)を 参照.しかし色井(1978, 153)によると,manasi-√kṛ が念と訳される場合には観念という 概念が当てはまるという.般舟三昧の場合もこれに準じて理解すべきであろう.    10)PraS([3E]: 30, 12–20).   11)PraS([3D]: 29, 3–23).   12)これについて は別稿にて臨終見仏(来迎)説との関わりにおいて論じる予定である.    〈略号〉 『一巻本』:支婁迦讖訳『般舟三昧経』(T. vol. 13, no. 417). 『賢護分』:闍那崛多訳『大 方等大集経賢護分』(T. vol. 13, no. 416). 『三巻本』:支婁迦讖訳『般舟三昧経』(T. vol. 13, no. 418). 『抜陂経』:失訳『抜陂菩薩経』(T. vol. 13, no. 419). L. Sukh:

Sukhāvatīvyūha. Ed. Atsuuji Ashikaga. Kyoto: Librairie Hōzōkan, 1965. PraS: The Tibetan Text of the Pratyutpanna-Buddha-Saṃmukhāvasthita-Samādhi-Sūtra. Ed. Paul Harrison. Studia

Philologica Buddhica Monograph Series I. Tokyo: Reiyukai Library, 1978. S. Sukh: The Larger

and Smaller Sukhāvatīvyūha Sūtras: Edited with Introductory Remarks and Word Indexes to the Two Sūtras. Ed. Kotatsu Fujita, 81–94. Kyoto: Hozokan, 2011. 

〈参考文献〉

赤沼智善(1939)1981『仏教経典史論』法蔵館. 色井秀譲 1978『浄土念仏源流考』百華苑. 藤田宏達 1970『原始浄土思想の研究』岩波書店.

Harrison, Paul. 1978. “Buddhānusmṛti in the Pratyutpanna-Buddha-Saṃmukhāvasthita-Samādhi-Sūtra.” Journal of Indian Philosophy 6: 35–57.

〈キーワード〉 般舟三昧,仏随念,念仏,三昧,見仏 (佛教大学大学院) 般舟三昧と仏随念の関係について(吹 田) (193) 仏随念(anu-√smṛ)との二通りがあることが確認できる.

般舟三昧と仏随念の関係 

最後に般舟三昧と仏随念の関係について,これらの 概念が修行上の関係にあることを確認しておく.まず〈般舟三昧経〉には, バドラパーラよ.このように菩薩が〈現在の諸仏が現前する〉というこの三昧(=般舟 三昧)を具えると,その〔菩薩〕は,この世界にいながら世尊,如来,阿羅漢,正等覚 なる,かの無量寿仏に〔ついて〕聞くのである.その〔菩薩〕はその如来の名前と容姿 と功徳とだけを聞いて,乱れることのない心で世尊,如来,阿羅漢,正等覚なる,かの 無量寿仏を正しく随念(*anu-√smṛ)する10) とあり,これによれば般舟三昧を具えることで,仏の名前などを聞くだけで仏随 念が可能になるという.これは換言すれば,般舟三昧がなければ仏の名前などを 聞いたとしても,他方仏は随念できないということである.以下に引用する比喩 は般舟三昧と仏随念との関係を,anu-√smṛ の持つ性質から明らかにする. つまり,バドラパーラよ.例えば,ある男がラージャグリハの大きな城下町に住んでい たのだが,ヴァイシャーリーの町にスマナーというある遊女がいると聞いた.二番目の 男の方は,アームラパーリーというある遊女がいると聞いた.三番目の男の方は,ウト パラヴァルナーという,かつての遊女がいると聞いた.彼ら〔男〕はそれら〔遊女のこ と〕を聞いて,それぞれがそれぞれ〔の遊女〕に愛着したのだが,これらの男達はそれ ら遊女達を見たこともなく,ただ名前と容姿と美貌とだけを聞いて,愛欲の心を起こし たのである.彼らは何度もその〔遊女〕を思念し(*manasi-√kṛ)ている間に眠りに落ち ると,…夢に見たのである.彼らは目覚めてから,〔夢の中で〕見た,聞いた,知った, 知覚した通りに,夢での経験を思い返す(*anu-√smṛ)11) この比喩を見ると,対象(遊女)を manasi-√kṛ することで夢に見て,夢から覚 めてから anu-√smṛ するとなっている.先にも述べたように,anu-√smṛ は想起を意 味し,記憶を前提とした行為である.それゆえ,記憶に存在しないことは聞いた としても anu-√smṛ できない.ところが,この比喩で注目すべきことは,たとえ見 知らぬ対象であっても,夢で具現化された結果として anu-√smṛ が可能になってい る点にある.この比喩では,ヴァイシャーリーという遠方にいる遊女達が他方仏 である.そして,夢が般舟三昧であり,思い返す行為が随念である.これを照ら し合わせると,般舟三昧で他方仏が具現化されることによって,未だ見ぬ仏であっ ても仏随念を可能にするという構造が導き出される.以上の考察に基づけば,先 に引用した一節の「般舟三昧を具えると…随念するようになる」という文言の意 味もよく理解できる.つまり,般舟三昧というのは,他方仏の随念に先立つ記憶 を構築すべく行われるものであり,その後に他方仏を対象とした仏随念が可能に (192) 般舟三昧と仏随念の関係について(吹 田) ─ 332 ─

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