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「多元主義神学」再考 : ヒックとサマルサの言説 を機縁にして

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巻 68

号 1

ページ 14‑29

発行年 2006‑08‑12

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011230

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「多元主義神学」再考―ヒックと サマルサの言説を機縁にして

ʻ Pluralistic TheologyʼRe-examined:A Focus on Theories of Hick and Samartha  

若 林 裕

Hiroshi Wakabayashi

キーワード

多元主義神学、対話の神学、諸宗教間対話、自宗教内対話

KEY WORDS

pluralistic theology, theology of dialogue, inter-religious dialogue, inner-religious dialogue 

要旨

宗教的多元主義は、さまざまな宗教的実践や理論的、神学的課題を提起してきた。

ジョン・ヒックの「多元主義仮説」は、社会的、政治的実践にもかかわるような仕方 で、諸宗教者の倫理行為喚起を提唱する。この仮説によれば、すべての宗教は「ザ・

リアル」と仮称される究極的実在に対する応答であり、諸宗教伝統間の差異は、文化 的相違に基づくものである。「対話の神学」を実践したスタンレー・サマルサは、最 終的には聖霊の働きに着目し、それはユダヤ・キリスト教伝統の占有物ではなく、あ らゆる宗教伝統内に働くものとして捉え、彼の多元主義神学の着地点とする。諸宗教 伝統が一元的に収斂されるところに、彼らの多元主義神学の特徴が見られる。このよ うな形式による理論の、現実への適応は困難であろうが、諸宗教伝統間の相違を旗印 とした宗教間の対立を避けるため、対話による学びと相互理解の重要性は看過できな い。ただし、それは自宗教の自己再検証と吟味にも繫がることによって、初めて意味 をもつのではないか。とりわけ、宗教内の一部が孕む暴力性が問題となるとき、「自 宗教内対話」の重要性に眼を向けねばならないだろう。それは多元主義神学にとって 緊急の課題ではないだろうか。

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SUMMARY

The theories of religious pluralism  have been raising many practical and theological  questions to us. Among them, John Hickʼ s ʼpluralistic hypothesisʼtries to evoke our ethical acts emphasizing socio-political elements involved. This hypothesis describes that  all religious traditions are culturally conditioned responses to the same ultimate reality  called ʼthe Realʼ. Another theory taking up here is Stanley Samarthaʼ  s ʼtheology of dia-

logueʼ. Samartha was deeply committed to inter-religious dialogues for many years and his theory has concluded by focusing on the works of the Holy Sprit. He says that the  Spirit should not be regarded as the monopolistic possession of the Judeo-Christian tra- 

dition but as other religious traditions as well. It can be said that there is the same kind of features molding every religions tradition into a uniform  pattern in their theories. 

Since each religious tradition has its own concept of belief, actual adaptability of their theories may not be possible. What is important for learning from dialogues at this time  is to lead us to self-reverifications and self-examinations. In this respect, the importance  of inner-religious dialogues should also be recognized by the pluralistic theology in order  to make it impossible to allow spawning violence in religious traditions. 

はじめに

今日の世界を読み解くキーワードのひとつに「宗教」があげられよう。キリスト教 神学においても、諸宗教に関心を向けることは一般的となっている。諸宗教の理解を 解釈学的に吟味する「諸宗教の神学」(theology of religions)も、神学的営みの中で一 定の位置を占めるに至ったと思われる。多元主義神学も、その神学系譜に置かれるも のである。本稿では、その多元主義神学の理論構築面を含む、諸宗教伝統理解のため の実践的関与を果たした二人の神学者を俎上にあげ、そこから浮かび上がる課題と問 題点とを考え直したい。

そのひとりは英国の宗教哲学者で多元主義神学者のジョン・ヒック(John Hick)で ある。彼の多元主義仮説(the Pluralistic Hypothesis)は、この分野に関わる今日の基本 理論となっている。もうひとりは、キリスト教文化圏を出自としないアジア人の神学 者として、スタンレー・サマルサ(Stanley Samartha)を取り上げる。彼は2001年に死 去したインドの神学者で、WCC(世界教会協議会)の働きを中心に諸宗教間対話を実 践してきた。

ヒックとサマルサの両者の間には、背景となるキリスト教伝統や他の諸宗教伝統の

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社会的位置、文化的・環境的条件等に大きな相違が存する。しかし、共に1920年代初 頭に生を享けたこの二人は、二十世紀の変動の時代の中で、それぞれキリスト教と諸 宗教伝統との関わりを自らに課し、独自の仕方でそれを実践的に担ってきたのである。

1.実践の論としてのヒックの多元主義

神学史的に述べれば、ヒックの多元主義神学の営みは1980年代が中心であった 。 具体的な思索の端緒は、移民労働者が多く暮らす英国第二の都市・バーミンガムに、

大学教員として移り住むことによって開かれた。そこでの人種的、文化的、宗教的な 諸問題に実践的関与をする中で、出会った多様な諸宗教伝統と、その諸宗教者たちと の触れ合いが契機となったのである 。このような構築動機からも理解できるように、

多元主義神学とは、単に知的、理論的なものではなく、本来的には諸宗教伝統理解の ための実践行動に供せられることが眼目とされていたものである。

今世紀に入り、2003年9月初旬にバーミンガム大学を会場として、「多信仰会議」

(Multifaith Conference)と称する宗教的多元主義を標榜する国際会議が開催された。

呼びかけ人はヒックら四名の多元主義神学者で、異なる宗教伝統を背景とする35名の 宗教研究者が十六カ国から参集した 。当該会議の席上で、下記の八つの項目が合意 されたという。

①[諸宗教者の]対話は、戦争、暴力、貧困、環境破壊、ジェンダーの不公正、人 権侵害を含む今日の世界の抑圧的諸問題に関わらねばならない。

②[個々の宗教伝統の]絶対真理の主張は、宗教的憎悪および暴力を掻き立てるた めに容易に利用され得る。

③世界の諸宗教が、多様な仕方で究極実在╱真理を概念化することを支持する。

④究極実在╱真理は、人間悟性の領域を完全に超えているものの、世界の諸宗教に おいて、それが多様な仕方で表現されていると理解され得る。

⑤多様な実践と教えを伴う偉大な世界の諸宗教は、最高善(the supreme good)への 真正な道を構成している。

⑥世界の諸宗教は、愛、慈悲、平等、誠実といった多くの本質的な諸価値、そして 自分自身がして欲しいことを、他者にも行うという理想を分かち合っている。

⑦すべての人間は、良心の自由、および自身の信仰を選択する権利をもつ。

⑧互いに信仰を証することは、お互い同士の敬意を促すものであり、改宗を求める ことは、他者の信仰を見下げるものである 。

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これは、『宗教の解釈』において体系化されたヒックの多元主義理論を、一般用語へ と置き換え、現実状況に対する実際的な適用を意図したものといえよう。このような 形で結実した多元主義理論の構築へと至る歩みを、次に概略的に振り返ってみる。

2.理論構築への歩み

ヒックの理論構築の実存的契機は、上述のようにバーミンガムにおける他の諸宗教 伝統との出会いにあった。一方、その神学構築へと至る契機は、その前史として60年 代初めに長老派教会の神学教師籍を、英国から米国に移す際、米国で生じたファンダ メンタリストとの論争があげられよう。そこで彼は処女降誕などを字義通り理解する ことを否定している 。もっともヒックは、宗教伝統にまつわる、そのような類の

「神話そのもの」を、否定ないし破棄したのではない。その後も一貫して彼が主張す るのは、それらの宗教神話および宗教的言説に解釈を施し、その意味理解に努めるこ となのである。

解釈作業を放棄した逐語霊感説による字義通りの理解において、キリスト教伝統の 告知する「救い」は、「キリストのみ」に集約されることになる。このような想定は、

すべての人々を救済しようとする「神の普遍的な救いの意志」に反し、それは「非キ リスト教的でさえある」と彼は断じる 。また諸宗教伝統は、相互に対立的ないし不 変的な固定実体ではなく、これは「生きた運動体」として捉え得る。そのような立場 から、キリスト教の流れを支配してきた「キリストを主体」に据える信仰理解から、

「神を主体」とした理解へと変革すべきことが、提唱されるのである。そこにおいて は、すべての宗教伝統が、救いの有効性を神から得、神と等距離にあるものとされた。

またキリスト教における「キリスト」の存在は、神話的にひとつの方便として理解さ れるべきものであり、キリスト教徒に対する「キリスト」の重要性とは、「献身の表 現」として把握されるべきで、「キリスト」をして神の完全な啓示の存在論的主張と して捉えられるべきではない、と主張した。

このような仕方で、ヒックは神学的規範のパラダイム・シフトを、「キリスト中心 主義」(Christcentrism)ないしは「教会中心主義」(ecclesiocentrism)から、「神中心主 義」(theocentrism)への移行という形式をもって提唱したのである。彼は次のように 述べる。

キリスト教が中心であるという教義を離れて、むしろ中心にあるのは神であって、キリス ト教も含めた……すべての諸宗教がその神の周囲を回転し、奉仕している 。

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この文章表現からも看取されるように、多元主義神学は、「神学のコペルニクス的転 回」だったのである。また、これによって「救い」とは、「自己中心的なものから、

神中心的なもの」として捉えられ、キリスト教を含む諸宗教伝統には、「共通する救 済論的構造」が存するとされた。それらを踏まえて、諸宗教伝統間にある真理要求の 矛盾は、択一的解釈を施されるべきではなく、「ひとつの真理に対する異なる視点」

として解されるべきことが提唱されたのである。

さらに、この理論構築の営みは、非有神論的宗教伝統への射程をより鮮明にし、有 神論および非有神論の双方に対する十分な対応をはかるべく、カント的認識論の枠組 みの援用が図られる。それが『宗教の解釈』において示された<多元主義仮説>の骨 格とされるのである。この仮説に至っては、「神」は神という表現をもってではなく、

人間の主観ないし意識を超越して存する「実在」(Reality)として提示される。それは、

個別宗教伝統においては「父なる神」として、「絶対者」として、「道」として、「空」

として、「阿弥陀如来」等々として捉えられてきたとされる。ヒックは、それを一元 的な形で総称して、「ザ・リアル」(the Real)と命名する。諸宗教伝統とは、このザ・

リアルを媒介とする、どこまでも実在的空間に存するものなのである。

なお、ザ・リアルは上述のように種々の固有名詞を付されて人間に把握され、理解 され、経験される「被経験的実在」なのであるが、これの可想体としての「ザ・リア ルそれ自体」(the Real an sich)が、要請される。カント的な「現象」と「物自体」の 宗教的類比が、ここに適用される。換言すれば、この超越論的識別にしたがって、

ザ・リアルそれ自体の本性は、記述不可能なものとされるのである。これを批判して プランティンガ(Alvin Plantinga)は、「ザ・リアルに対して、われわれ自身の言葉が 一切適用できないというのであれば、ヒックのいうことを理解するのは不可能とな る」 と述べている。また、ドゥコスタ(Gavin DʼCosta)は、多元主義仮説を、「ヒ ックのコペルニクス的転回に続くカント的転回」と述べ、そのザ・リアル概念を「超 越的不可知論」(transcendental agnosticism)と称するのである 。

3.多元主義仮説と宗教的現実

多元主義仮説が、今日の地球的規模における世界の拡大という現実認識によって、

支えられていることは、ヒックの理論構築の実際からも理解できよう。すなわち、宗 教経験を含む人間経験の広がりである。以前ならば、直接的には接触せずに済んでい たキリスト教以外の諸宗教伝統との直接的な遭遇が、その構築契機の基盤となったの である。そしてこの構築作業を通して、自分たちには自明であった「唯一の宗教とし

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てのキリスト教」は、諸宗教伝統の中のひとつとして意味づけられることとなった。

さらには、西欧の「キリスト教世界」(Christendom)を支えるものとして歩んできた 自らの宗教伝統のありように、「キリスト教絶対主義」ないし「キリスト教帝国主義」

といった姿を見出し、そのエスノ・セントリズムに対する自己批判も、生じることに なった。

一方でこの仮説には、自然科学の合理性への近代人の信念、さらには第二次世界大 戦後に、西側社会の全体を覆った世俗化といった事象との並存も念頭に置かれている。

それは、この経験世界に生じる現象に対しての、宗教的解釈を主張するだけにとどま らず、自然主義的解釈に基づく蓋然性の主張をも許容するのである。ヒックは、ウィ トゲンシュタインの「〜として見る」(seeing-as)から発想を受けた「〜として経験す る」(experiencing-as)という意味抽出概念を、彼の批判的実在論の核として提示して いる。これは事柄を、特定の意味あるものとして解釈する認知的選択を指す。つまり、

それは信仰の有無によって、経験に対する解釈作業は宗教的にも、自然主義的にも行 い得るという解釈の両義性を、認めることなのである。宗教的解釈の立場に立つ場合、

この意味抽出装置によって、諸宗教伝統の解釈の差異は、平準化されることになる。

換言すれば、諸宗教伝統の視座は、同じひとつの事柄に対する角度の相違として理解 され、それは「文化」、「環境」などの相違によって起因するもの、といった認識枠の 中へと嵌め込む機能が果たされるのである。

このような解釈作業に基づいて提示される「実在中心性への人間存在変革」として の救いは、諸宗教伝統に応じて様々な形態をもって、認識されることになる。つまり、

「救い╱解放」の道は、「多」として把握されるのである。このような仕方によって、

多様な宗教現象の現実が解明され、「一」なるザ・リアルという実在措定をもって、

宗教というものの本質規定が施される。これが、ヒックの多元主義仮説の要諦といえ るだろう。理論的にそれは、「特殊の普遍化」と「普遍の特殊化」を同時に遂行する ことを試みるものと、言い換えることができるだろう。

この多元主義の「救い」の現実から、さらに諸宗教伝統に共通する倫理的実践への 行為が示唆される。その具体的な根拠として、ヒックは諸宗教伝統に通底する徳目と しての「黄金律」を掲げる。これに基づく多元主義の行為実践喚起の要求は、極めて 顕著である。それは前述の八項目の合意からも理解できるように、具体的な現実の諸 問題に対するベクトル機能が定められるのである。

さて、以上のような多元主義から、諸宗教伝統間の対話実践に基づく相互理解は、

確実に推進されるだろうか。これに基づく限り、現実に存する諸宗教伝統間相互の問 題解決と対話の必然性とは、逆に薄れるのではないだろうか。すなわち、この理論を もってすれば、個々の宗教伝統の特殊性は牙を抜かれ、解釈的措置を施されて位置す

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るからである。それは諸宗教伝統の本質、救い、他の宗教伝統との共存意義といった ところにまで、その存在論的な意味をも含む形での回答が既に与えられているのであ る。

そうであるならば、このような認識をもって、果たして現実に存する多様な宗教伝 統のありようを的確に把握したことになるのだろうか。この理論に全面的に乗ってし まうと、諸宗教伝統間あるいは諸宗教者間に、真の意味での対話が成立し得なくなる のではないか。この理論は、あたかも諸宗教伝統のすべての上に立ち、それらを十分 に見渡せる位置から構築されているような相貌がある。そうであるならば、この地点 に立てる者のみが、この多元主義を体得し得るという「意図せざるエリート主義」

の契機が、そこに潜んでいることも指摘されるべきだろう。また、そこには、「一な る神」とはいわないまでも、何か「一」という究極原理を見出さねば気がすまない

「一神教」的な思い込みが反映しているようにも見られるのである。諸宗教伝統の多 様な現実のありようと照らし合わせたときに、ヒック理論には、相互理解のために必 要な対話が、逆に機能不全となることすら危惧されるのである。

次に、対話をもって、キリスト教と諸宗教伝統の架け橋になるべく心血を注いだサ マルサの「対話の神学」と、その実践に関して考えてみたい。

4.「対話の神学」というサマルサの方法

サマルサは WCC における諸宗教伝統との対話に携わる第一人者として、1968年か ら80年までの間、ジュネーヴを中心に活動した。その後もインド国内の神学校で教鞭 をとる傍ら、最後まで諸宗教伝統との対話に注力した人物だった 。WCC で働き始 めた頃に、彼は次のように述べている。

今日の宗教的多元主義は単に学術的に議論される課題としてあるのではなく、経験的事実 として認められるべきである 。

この状況認識を下に、彼は「世俗主義と宗教」について、まず論じた。その内容を要 約すれば、次のようになるだろう。世俗主義の恩恵によって、われわれは宗教に縛ら れることなく、社会構造の中に存する宗教伝統に起因する問題性と、自由に取り組め るようになった。この点は大きく評価できる。もっとも、世俗主義が問題とした「宗 教」とは、本質的には「偽の宗教性」(false religiousity)だったのを、見誤ってはな らない。われわれの課題は、「真の霊性」(authentic spirituality)を志向することによ

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る、本来の宗教性の回復なのである。これに基づく宗教的真理の探究とは、社会正義 のための闘いと連動する。すなわち、「真理の探究とは、[世俗主義によって一定の成 果を挙げた]正義の闘いを更に継続させることである」 。

さらに彼は、世俗主義が宗教伝統に及ぼす影響が極端に強いのは、西欧の宗教状況 であり、東洋 の信仰状況には必ずしも適応されないともいう。いずれにせよ、洋の 東西に関わらず、世俗主義を超えた望ましい状況を構築するため、諸宗教伝統は、

「人間存在の神秘に対する異なる応答を通して得た、互いの洞察を分かち合い、多宗 教社会の真の共同体構築の模索」を行うべきである、と主張した 。

以上のように、彼の「対話の神学」には、ポスト世俗主義の状況を見通し、時代を 切り拓く意図が内在されていたのである。このような視座に基づき、彼が提唱した諸 宗教伝統の対話を有効に機能させるための具体的な作法をまとめると、次のようにな る 。

① 宗教同士の対話ではない。対話は信仰を有する人々同士の対話である。

② 対話は、「語る」こと以上のものである。それは共に生き、共に働くことであ る。批判的理解と均衡のとれた判断を生み出すためには、相互の信頼関係と率直 さが重要である。

③ 諸宗教間対話によって、ある種のシンクレティズムが導き出されてはならない。

シンクレティズムは、異なる諸宗教同士の無批判的混合物であり、霊的貧困、神 学的混同、倫理的な無気力をもたらすだけである。

④ 諸宗教対話の場を、特定宗教の「宣教の道具」としてはならない。

⑤ 対話は常に、真実で真摯な分かち合いと証しでなければならない。

⑥ 対話は相手の信仰と宗教に対する尊重と誠実さに基づく。

⑦ 対話は人為的な合意、信念の希薄化、偽の和解へと導くものではない。対話は 真理の新たな次元の発見という豊かさへと導くものでなければならない。

⑧ 対話は宗教概念に関する学術的な議論に限定されない。宗教の儀礼や象徴、日 常の宗教経験といった側面も無視されてはならない。

⑨ 対話が最初は特定の人々によって始められるにしても、それが多くの人々の間 に広げられ、相互信頼の構築へと繫がるものでなければならない。

対話を通して、人は自らの信仰における深い次元を見出し、自らの信仰のたた ずまいを振り返るものへと導かれるべきである。

以上からも分かるように、サマルサにとって重要な対話とは、諸宗教伝統間の対話と いうよりも、「諸宗教者間」の実存に基づく他者理解を目論むものが目指された、と

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いえよう。

5.「キリスト」の位置

このような対話実践を積み重ねる中で、サマルサはまず、キリスト論の問題につい ての省察を深めてゆく。そして、キリスト教伝統における「イエス・キリストは神で ある」というキリスト一元論(Christmonism)は見直さねばならない、と主張する。サ マルサによれば、キリストを神として主張することは、他の諸宗教伝統との意味ある 対話や協働の妨げとなり、他宗教の否定以外の結果は生じない。しかも、これは聖書 の指し示す元々の「キリスト」の位置ではないという。彼は「コリントの信徒への手 紙一」の15章28節の聖句などを例示して、聖書の示すキリスト教は本来的には「神中 心」 であり、この神の働きの射程は、宗教伝統の境を越えてすべての人々に及んで いると述べるのである。また、このような視点から、キリストの「唯一性」(unique- ness)という表現に対して彼は、極端なまでに神経質となっている。たとえば多元主 義神学者のポール・ニッター(Paul F.Knitter)が、この「唯一性」という言葉は、解 釈を施すことをもって理解可能な表現である、と述べることに対して、それは「唯一 性」という言葉を「捉え違えている」として拒否する 。

彼によれば、どこまでも「神のみ」が事柄の核心であり、すべての宗教伝統とこの 神は関わっている、と理解すべきなのである。なお、彼のいう「神中心」には、キリ スト教伝統の特殊性を否定する意図はない。彼はキリスト教固有の三位一体論といっ た教義の特殊性の容認を試みる。もっとも、そこにおける「聖霊の発出」に関しては、

「フィリオクエ」というニカイア・コンスタンティノポリス信条に基づくカトリック 的理解ではなく、「聖霊は父から発出して子からは出ない」とする東方教会の主張を 採用している 。

また、中心とされる「神」と、個々の宗教伝統が示 し て き た「神」や「神々」、

「仏」といった存在との関わりについて、彼はヒックのようなカント的識別方法は採 らない。彼はそこに、「ニルグナ・ブラフマン」と「サグナ・ブラフマン」という二 種の形で本性理解されるシャンカラ哲学のブラフマン理解に、その範を見ることがで きる、と述べている 。ヒックとサマルサの間の、この点における相違のみならず、

彼らの宗教的多元主義に関する態度についての根本的な姿勢の相違は、前者が多元主 義仮説をもって既に答えを出しており、後者は対話実践を積み重ねるなかで、さらな る探求継続を求めているところにあった。

サマルサは個々の宗教伝統にコミットする人間の、他の宗教伝統に対するあり方を

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次のように表現している。

ある特定の宗教は、ある人々にとっては決定的である。あるいは、ある人々にとってはそ の特定の宗教が決定的であると言い換えられよう。しかし、ある宗教がすべての人々にと って決定的であるというような主張は、決して絶対化できない 。

このような見解は一見して、相対主義のようにも見える。ただし、彼自身は相対主義 そのものに対して、極めて批判的である。彼はその点について次のように述べている。

相対主義とは、[一つの宗教の]立場を堅持させずに、真正な基盤を有する宗教生活を貶 めるものである。それは神学的混乱と霊的貧困とをもたらす。さらには対話を不要なもの にさえしてしまう。もし、すべての宗教が同じ仕方で真であるならば、対話の必然性はど こにあるのか [一つの宗教の]絶対性主張は、真理の相互理解に寄与し得ないもので ある、しかし、[一つの宗教の]特定な宗教的応答が、真理の何らかの部分を映し出し、

すなわち真理を分有し、人々をそれへと導いている限り、それは正当なものであろう。こ こで重要なことは、[一つの宗教の]どちらか一方を偽とすることではなく、それぞれの

[真理に対する]固有の宗教的応答として、捉えることである 。

すなわち、サマルサによれば、宗教的真理が諸宗教伝統において分有されていること を前提とするのである。この確信の下に、自らの依って立つ信仰の基盤を鮮明にしつ つ、他の諸宗教理解に努めるというところに、彼の「対話の神学」の方向があった。

6.「霊」の働きという帰結

上述のようなサマルサの対話実践の歩みが、最終的に行き着いたのは、「神中心」

よりもむしろ、「聖霊」の働きを中心として据える地点であった 。

聖霊について語ることは、神について語ることであり、神の霊へと開かれることである。

これは、三位一体の一位のみについてではなく、父、子、聖霊という三位一体の信仰全体 について語ることなのである。キリスト教信仰の構成要素は、キリスト教神学によって、

極めて繊細に折り合わされているが、この聖霊こそが、父と子とを結び合わせ、かつ区別 するものとして捉えられる 。

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そして、「人と人、人と物、被造物のすべてを神へと結び付けるものが、聖霊の力」

であると強調する 。さらに、この聖霊の働きは、ユダヤ・キリスト教伝統の教義の 中だけに閉じ込めてはならない、「聖霊は未受洗者および制度的教会の壁を越えて諸 共同体にも現存し、働いている」と言い 、紐帯としての聖霊の働きの射程を大きく 拡げるのである。それに基づき、キリスト教徒に対しては次のように呼びかける。

今日のキリスト者たちは聖霊の働きを、グローバル世界において、異なる宗教的・思想 的立場の人々が共々に生きることを切望する神の、関係上の約束として見極めるように 召されているのである 。

この聖霊の果実を求めることは、諸宗教伝統が共々に倫理的実践を果たすことにとど まらず、互いがそれぞれの宗教伝統に存する内面的霊性(inwardness)を認め合う方向 に拓かれてゆくことであるとする。また、彼は次のように述べている。

われわれが隣人たちと共に生きるために、今日必要な神学とは、硬直したものであっては ならず、それはキリストの霊において、開かれた融通のきくものが求められるのである 。

サマルサは、今日の世界においてキリスト教徒と他の宗教者が互いに理解し、共存、

協働するためには、「新たな神学的枠組み」、「新たな方法論」、「新たな認識方法」が 必要であると述べるが 、その問題意識をもって行われた神学的思索の着地点は、こ のようにして「聖霊」が主眼となったのである。彼の最初の「神中心」の主張は、多 元主義仮説へと行き着くまでのヒック理論と類似していた。しかし、その後の聖霊論 の展開は、ドゥコスタの包摂主義における聖霊の言説 をも髣髴させられよう。サマ ルサの多元主義神学的な「対話の神学」は、最終的には「聖霊包摂主義」において決 着を見た、と言い得るかもしれない。なお、サマルサの述べる「聖霊」について付言 すれば、その発出については、東方教会の主張に沿っていると述べたが、厳密な意味 でキリスト教の三位一体論における第三位格を意味しているのではない。それはむし ろ、諸宗教伝統が自らの内に存すると理解している「霊」 であり、この「霊」に事 柄が集約されてゆくというのが、彼の理論的帰結なのである。この「霊」を「アート マン」 として、捉えるとするならば、それはシャンカラ哲学の梵我一如の概念を援 用することをもって説明 できるだろう。

以上のように、宗教的真理の分有を確信した彼の対話の前提は、結果として「聖 霊」を重視することによって、一元論的な理解へと行き着くのである。

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7. 理論と対話の再考

ヒックそしてサマルサの多元主義神学を見てきた。両者は共に、自らの宗教的実存 を賭して、諸宗教伝統間の相互理解のための神学的思索を積み重ねてきた。その結果、

ヒックはカント的枠組みを援用しつつ、「多元主義仮説」という理論構築を果たした。

一方のサマルサは、「すべての宗教伝統に働く聖霊の重視」を方向性として示した。

双方の使用する形式、用語、方法論などは、外見上の異なりはあるものの、帰結する ところは同様といえよう。すなわち、諸宗教伝統に通底する普遍的な本質抽出といっ た仕方で、ヒックが「ザ・リアル」に、またサマルサが「聖霊」へと、共々に一元論 的に収斂させるのである。宗教伝統の多様性を認める「多元」主義の決着が、「一元」

的に絞り込まれるところに、矛盾はないだろうか。また両者は共に、諸宗教伝統間も しくは諸宗教者間の「対話」という方法を重視するが、そこにおける「対話」が、現 実の宗教実態から大幅に乖離すること、もしくは現状追認のみに止まることが危惧さ れる。

冷戦時代の終焉以降、宗教の動向に関する世界の耳目は鋭敏となった。その傾向は とくに2001年の9・11の事件を契機に加速されている。その中で、諸宗教伝統間のい っそうの相互理解を希求する声も大きい。果たして、このような形の宗教的多元主義 が、この状況に対して十分な応答と示唆とを与え得るものだろうか。今日、諸宗教伝 統間の「対話」の有効性に対する懐疑的見解 も一方に存することを忘れてはならな いだろう。

いみじくも「対話」が、諸宗教伝統間の相互理解のみならず、人類の平和構築のた めの努力であるとするなら、その方向性はまず、自らの「内」へと向けるべきではな いだろうか。すなわち、いわゆる「原理主義」 をも生み出す自宗教伝統内の「宗教 内対話」という課題が火急の課題としてあげられよう。諸宗教伝統間の対話は、その 延長上に、そして同時進行としてあるべきものと捉えるのが現実に即するだろう。そ うであるならば、諸宗教伝統間対話に託される課題は、具体的な個別問題への参与の 言明や一致の確認である前に、それを通して相互批判による個々の宗教伝統変革への 契機の醸成ではないだろうか。そのために、まず必要なことは、自らの信仰的立場を 棚上げせずに、自分たちの変革のために、謙虚に他の宗教伝統から学ぶということが 肝要となってくるだろう。このことに関するカブ(John B. Cobb, Jr.)の見解を案内し ておきたい。

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神学的な挑戦は、もうひとつの選択、特に信仰の選択を明確にする。それは、もう一度、

キリスト教信仰が現実にイエス・キリストへの信仰であることを明確にすることを要求す る。われわれが示さなければならないことは、イエス・キリストに対する信仰とは、継承 された教理や姿勢を頑なに防御することにあるのではない。また、何らかの中立的な立場 に立って、その展望からわれわれがすべての大宗教伝統の長所を判断する素振りをするこ とでもない。

われわれが信仰を欠く限り、われわれは自らの安全を確かめることを試みるだろう。その ことを、われわれの相対的な財産を絶対化することによって、また中立性と客観性を主張 するといった方法によって行うかもしれない。しかし、われわれが信仰をもっているなら ば、われわれは自らの安全を確認する努力を放棄するだろう。そして、その代わりにキリ ストを信頼するのではないだろうか。そのことが意味するのは、われわれは他の人々が信 じる事柄に対して防御的にならずに傾聴することができ、彼らがキリスト否定する場合に すら、彼らから学ぶことができるということである。より深くキリストを信頼すればする ほど、われわれは他の源泉からの知恵を、より広く受容できるであろう。さらにわれわれ 自身が受け取った精神の伝統に関しても、その他のものの限界や歪みについても、より確 かに批判的になり得るだろう 。

二十年も前の文章であるが、ここに記されていることは今も通用する見解であると思 われる。なお、このように他の宗教伝統から「学び」、知恵を受容する具体的方法に ついてカブは、仏教徒との対話を例示して「移り越し」(passing over)、「立ち返り」

(turning over)という仕方をもって示している。すなわち、自らの先入観をもっての 仏教理解とせずに、仏教自身の立場に立って、その自己理解を的確に捉え、それをも ってキリスト教に提示し、それを摂取して行くという方法である 。

キリスト者の立場から他の諸宗教伝統が存在する意味を、伝統的神学の地平で探究 するディノイア(J.A.DiNoia)は、多元的な宗教現象を「神の摂理」の中にあるもの と理解すべきである、という。彼は、従来の包摂主義や多元主義がいうような諸宗教 伝統に「共通する救済」へ頓着せずに、まずは互いの固有性を尊重しあうことを勧め る。どうしても、他の諸宗教伝統の「救い」にこだわるのならば、キリスト教の立場 からは、煉獄の教理(the doctrine of purgatory)の再構築が必要であると述べる 。 つまり、この世の信仰を超えた救いの契機がさらにあるはずだ、ということである。

これは、たとえば、彼の師にあたるリンドベック(George.A.Lindbeck)の「教会の 外には救いが存在しないのと同様に、呪いも存在しない」 という見解とも相即する であろう。いずれにせよ、ディノイアの意見も、「自らの宗教伝統の有する宗教的救 済方法を一旦、棚上げしない限り、他の宗教伝統との相互理解には到り得ない」とい

(15)

う立場に立つ宗教的多元主義への批判である。

カブやディノイアなどの意見を踏まえた上で、考えさせられるのは、本稿で記した ようなヒックやサマルサ的な多元主義神学のありように関する再検討である。すなわ ち、諸宗教伝統すべてを射程において、「多」に対する「一」を想定し、普遍的な神 学範疇にそれを置くということは無理ではないだろうか。むしろ諸宗教伝統同士が、

互いの現状のありようを、他宗教伝統を学ぶ中で、相互批判的に検証することこそが 肝要だろう。「諸宗教間対話」ならびに「諸宗教の神学」に期待されることの究極は、

あくまでも自己検証と自己変革のための理解であり、自己変容も伴う学び合いなので ある。

1 諸宗教の神学について、カトリック神学者の高柳俊一は次のように説明する。「<諸宗教の神学>のよ り正確な名称は<非キリスト教的(キリスト教以外の)複数宗教に関する組織神学による考察>を内容 としているから、ドイツ語では Theologie der nichtchristlichen Religionenと呼ばれる」『カール・ラーナ ーの研究』南窓社、1993年、120頁。

2 宗教的多元主義に関するヒックの代表著作である『宗教の解釈』は、1989年に出された。An Interpreta- tion of Religion: Human Responses to Transcendent (London: Macmillan and New  Haven: Yale Univ.

Press). ちなみに2004年には第二版が出たが、「第二版の序文」が追加されただけで、内容的には大きな 変化はない。

3 この経緯に関しては、いくつものヒックの著書に記されているが、An  Autobiography, (Oxford: One- world, 2002)が詳しい。とくに Ch.14-16を参照。

4 当該会議については、参加者の一人であった間瀬啓允の投稿記事「宗教多元主義の原理採択」(中外日 報、2003年9月27日)、「他宗教に向かって開かれた神学を―宗教多元主義宗教サミットに参加して」

(キリスト新聞。2003年11月1日)およびヒックのウェブサイトに記された ʼBirmingham  Conference:

September 03ʼを参照。

5 前掲のヒックのウェブサイト ʼeight principlesʼを参照。上述の中外日報の投稿記事では、これに「宗教 間対話と関与は、宗教が互いに関係し合うための道でなくてはならない。必要不可欠なことは、まず宗 教間にある敵意を癒すことである」という文言が付され九項目とされ「宗教多元主義の大原理」と銘打 たれている。

An Autobiography, Ch.11.間瀬啓允訳『宗教多元主義』法蔵館、1990年、19−23頁。

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God and the Universe of Faiths, (London:Macmillan and New York:St.Martinʼs Press,1973), p.122参照。

8 ibid., p.131.

9 Plantinga, Alvin,Warranted Christian Belief, (New York and Oxford Univ. Press, 2000), p.45.

10 G.ドゥコスタ、堀江宗正訳「ジョン・ヒックと宗教多元主義」、間瀬啓允・稲垣久和(編)『宗教多元主 義の探求―ジョン・ヒック考』大明堂、17頁参照。

11 前掲書22頁参照。「意図せざるエリート主義」(unintended elitism)という表現は、ヒックが『宗教の解 釈』において、非実在論者を批判して用いている。An Interpretation of Religion, p.207.

12 サマルサの思想を、ヒックの宗教的多元主義とまったく同列にみる論者がいる。たとえばディノイ ア。ʼPluralistic Theology of Religions:Pluralistic or Non-Pluralistic? ʼin Christian Uniqueness Reconsider- ed, ed. DʼCosta, Gavin,(New York:Orbis, 1990), pp.126‑128.

岸根敏幸も同様(『宗教多元主義とは何か』晃洋書房、2001年89−94頁参照)。しかし彼らが考察対象と しているのは、「十字架と虹」という論文のみである(ヒック、ニッター編、八木誠一・樋口恵訳『キ リスト教の絶対性を超えて』春秋社、1993年、145−180頁所載)。

13 サマルサの生涯は、彼自身が記した半生記、Between Two Cultures, (Geneva: WCC, 1996) pp.2‑29.およ び Konrad Raiser ʻTribute to Dr. Stanley J. Samarthaʼin Current Dialogue No.38December 2001, ed. Hans

  Uckoを参照。

14 ʻReligious Pluralism and the Quest for Human Communityʼin No Man is Alien, ed.Nelson, Robert, (Leiden:

E.J. Brill, 1971), p.129.

15 ibid., p.133.

16 ここでいわれる東洋(East)とは、とくにインドを念頭に置いたものと捉えてよいだろう。

17 ibid., p.137.

18 S. Wesley Ariarajah, ʼSome Glimpses into the Theology of Dr. Stanley Samarthaʼin Current Dialogue No.

38. pp20‑21.

19 サマルサは自らのキリスト理解を Theocentric Christologyと称する。

20 Between Two Cultures, pp.158‑160.

21 ibid., pp.191‑192.

22 ibid.,p,155. サマルサがここで敢えて「ブラフマンの本性を考える方が、カント的識別をするより助けと なる」と記すのは、ヒックの仮説を意識してのことであろう。なお二種のブラフマンとは、シャンカラ が『ウパニシャッド』に記したもので、解脱において経験される超人格的実在が「ニルグナ・ブラフマ ン」であり、種々の属性を有し、日常においては主宰神として経験されるのが「サグナ・ブラフマン」

である。中村元『シャンカラの思想』岩波書店、1989年、420頁以下参照。

23 Samartha, Stanley,Courage for Dialogue, (Geneva:WCC and New York:Orbis, 1981), p.153.

24 ibid., p.152.

25 サマルサの聖霊に関するまとまった記述は、ʼThe Holy Spirit and People of Other Faithsʼ,Between Two

(17)

Cultures, pp.187‑202.

26 ibid., p.201.

27 ibid., p.201参照。

28 ibid.,p.194. サマルサはこの聖書的根拠を使徒言行録10章に求めている。

29 ibid.,p.199.

30 Current Dialogue No.38. p.27参照。

31 Between Two Cultures,p.187.

32 G.ドゥコスタ編、森本あんり訳『キリスト教は他宗教をどう考えるか』教文館、1997年、42−43頁。

33 「霊」という言葉に関しては、鶴岡賀雄「宗教のゆくえ序論」岩波講座10「宗教のゆくえ」岩波書店、

2004年、18−19頁参照。

34 「アートマン」という語は、最古の文献において「呼吸する」の意味で使用され、さらに呼吸において 身体の内外を往来する気息ないし生気の意味を合わせ持つようになったという。日野紹運「アートマン

╱ブラフマン」『事典 哲学の森』講談社、2002年、6頁参照。「霊」がヘブル語やギリシア語同様に

「息」という語からの派生であることは、興味深い。なお、大乗仏教の「仏性」という人間の本性を意 味する概念は、このアートマンからきたもの(7頁参照)。

35 ブラフマン(宇宙原理の梵)とアートマン(個体原理の個我)とは、本来的に同一のものであり、一切 がブラフマンに帰入されるという仕方で。

36 たとえば、藤原聖子「空転する『対話』メタファー」『宗教研究』日本宗教学会、2001年、第75巻、329 号、123−148頁参照。

37 「否定的な態度として暴力行為に依拠することも辞さない宗教的態度」の意味で、この語を使用した。

小川忠『原理主義とは何か』講談社新書、2003年を参照。

38 Cobb, John B.Jr., ʻThe Religionsʼin Christian Theology, ed. Hodgson, Peter C. and King, Robert H., (London:SPCK, 1983), p.319.

39 ジョン・カブ Jr、延原時行訳『対話を超えて』行路社、1985年、4章、5章参照。

40 ʻVarieties of Religious Aims: Beyond Exclusivism, Inclusivism  and Pluralismʼin ed. Marshall, Bruce D., Theology and Dialogue(Indiana:Nortre Dam Press, 1990), pp.267‑269.

41 Lindbeck, George,The Nature of Doctrine, (London:SPCK, 1984), p.34.

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