南朝における婚姻関係
矢
野
主
税
目口
第一節 第二節 第三節
穴 び
南朝諸王室と門閥との婚姻関係 次
三朝と南朝の婚姻形態の相違
通塞圏の拡大について
序
私はこの小論において︑南朝時代における婚姻関係について考
え︑それを通して門閥社会の一面を明らかにすることを試みてみた
い︒先ず︑論を進める為の一つの手掛りとして︑南朝における名
門︑済陽江氏の婚姻関係をふり返ってみよう︒
○済済江二二系図
○夷一 1蕃一不
1 湛 一 任心 心柄 一イ 十 十 十 河南楮氏 宋︑寺今長公主︑宋︑臨調公主梁︑ ︵秀之女︶ 十 三三一女 一宋・南平寸心締
瀟氏︵豊平王難女︶
この婚姻略系図についてみるに︑王室との密接な関係が特徴的である︒ただ︑湛の妻は初め河南の楮氏︑後に最北であった︒庚氏の
出身は明らかでないが︑他が晋以来の名門我意であるからには︑頴
川の庚氏と見て間違いないであろう︒これらの婚姻は恐らく東晋末 或は宋初に行われた︒名門間の婚姻といってよいであろう︒その後は王室との婚姻がつづいているが︑それは名門江氏と王室との婚姻︑と考えてよいであろう︒ところが江氏に関して︑次のような記録がある︒○司空檀道済為子三婆︵江︶湛妹︒不許︒義康有命︒又三従︒時人 重其立志︒義康之盛︒人競求自明︒唯湛自疎︒三三外出︒﹂ ︵南史56江夷伝︶○僕射徐勉権重︒唯︵江︶蕎及王規与抗礼︒不為之屈︒勉因蕎門客 裡景為子蘇求昏隠魚女︒不答︒景謹言之︒傍杖景四十︒由此与勉 杵︒勉又為子求碕弟葺及論題女︒二人並拒之︒ ︵南史36江夷伝︶と︒即ち︑三竿︑心土は時の権勢家であったとはいえ︑婚姻を結ぶには家柄が低い︑と考えられたのであろうか︒ このようにみてくると︑門閥社会における婚﹁姻は︑一般的には相似た家族の家の間で行われたであろう︒ただ︑王室は自分達よりも家格の高い家とも婚姻関係を結んだ如くである︒濃墨のような一流貴族も亦︑王室との婚姻を歓迎したのであろう︒ では︑相似た家格の家の間で婚姻を結ぶ︑という一般原則を以て律し切れない︑王室との婚姻関係は︑どのような意味をもつものとして理解すべきであろか︒いまここでは︑まず南朝各王室における婚姻関係について考え︑ついで︑南朝門閥の婚姻関係において︑その晋代に比しての変化をみ︑そこから︑門閥社会の内部における変
化について考えてみたい︒
一
南朝における婚姻関係︵矢野︶
第一節 南朝諸王室と門との婚姻関係
私は嘗て︑南朝諸王室の婚姻関係が︑政権獲得前と︑政権獲得後においては異っていること︑即ち︑政権獲得前は王室諸家の属した
地方土豪的家柄間の婚姻であり︑王朝成立後は中央有力門閥との婚
姻であったことを指摘した ︵拙稿﹁内書南朝の中正制と門閥社会﹂ ︵門
閥社会史所収︶第二章第二節︶︒ということは︑各王室の婚姻関係は︑
王朝の成立と共に変化したのであり︑そのことは︑初め武人政権と
して成立した各王室が︑次第に凹閥の中に入りこんでゆく様子を示
すものと考えておいた︒
前述江氏と王室との関係をみれば︑正にそのようであったらし
い︒ところが︑必ずしもそうといい切れぬ史料もある︒いま︑東海
徐氏についてみよう︒
○東海徐氏略系図
○祥之一−欽之﹂1下之
一一逡之i湛二一
宋︑会稽山公主 ︵武三女︶
一三之一i喬之 十 宋︑富陽公主 ︵武帝女︶ 一宰之一孝嗣一1演 十 十 宋︑康楽公主 ︸斉︑
嶺之
宋︑南陽公主 ︵文帝女︶1女一+ 東一門舎
一
﹁女 十三︑随王誕
へ南至15︑三三之伝︑ 武康公主一瓢 十 斉︑山陰公主
﹁纏﹂i羅
一女 十梁︑元帝 ザ女 十 斉︑江夏王宝玄以下表は主として南史による︒︶これによれば︑この東海徐氏主流派が時の王室と密接に結んでい
ること明らかである︒このことは︑この一門が常に国家権力に附随
憎
して栄えてきたことを示している︒しかし蓬之と会稽宣公主との婚
姻はなお東晋時代に行われているのであって︵回書45︑三三之伝︶︑
初めは︑東晋未の権勢家としての劉裕一家と︑その腹心の徐氏との
婚姻にすぎなかったわけであろう︒然るに︑その権勢家は王室に升
り︑腹心は中央高官となるに及んで︑王室と高級官僚家との婚姻と
いう形をとるに至った︑と考えられ︑しかもこの家が宋から斉にか
けて次々と有力宮僚を出したことは︑自らこの家の中央官僚家とし
ての伝統を確立することとなり︑その社会的地位をも向上せしめた
ことであろう︒
それにもかかわらず︑この略系図には︑これほど王室の婚姻がみられるのに反して︑当時の一流貴族たる王︑謝或はそれに準ずる如
き家々との婚姻がみられない︑という点が注目されるであろう︒と
いうことは︑この東海徐氏が一応中央官僚家としての地位も確立
し︑社会的地位も認められてはいたとしても︑やはり当時の上流貴
族からは勲門として軽視され︑婚姻の相手としては拒絶された︑と
いうことではなかろうか︒ということは︑王室の婚姻の相手は必ず
しも一流の貴族と限ったわけではなく︑勲賞ではあるが有力官僚家
であるものとの婚姻もあったわけである︒従って︑諸王室の婚姻関
係が政権獲得前と後とで大きく変化したという大筋において誤りは
ないとしても︑更にその内容を調査することによって︑王室と門閥
社会との関係について︑以前とは異った点を指摘できるのではない
かと考える︒
この場合︑問題は政権獲得後の婚姻にあるので︑以下政権獲得後の各王室の婚姻関係を示してみよう︒次の表は︑勿論完全なものと
はいい難いが︑大体の傾向を知るにはさしつかえないと考えている
︵巡察の数字は通婚度数を示す︒筆者撰﹁未定稿南北朝百宮世系表﹂ ︵未発
表︶による︒︶︒
○王室冠婚表
氏
名
下
東
娘 太 蘭
東
陳
陳
陳
只 済
者
君 汝
国 丹
高 比
高 (
苑 河
陳
汐 巴
田
三 十
原
虫
莞
郡 郡 郡
県
南 江 南
陽昌
陽三
二
?︶
平
東
陽
留
城 西
趙
徐
三 王 瀟 蔵 謝 蓑
殿
楮 察
何
周
断 江
劉 路
檀
三 一
張 柳
骨
子 氏 氏 霊 室 氏 氏 氏 氏 氏 氏 氏 氏 氏 氏 氏
三 氏
氏 三
氏 氏 寺 氏 氏
宋 室斉 室
4 1
/ 15
4 2 6
3 1
9 1
5
4 3
3
2 1
南朝.における婚姻関係︵矢野︶
3
/ 12
1 1
2 1
3 2
1 1 1 1
梁 室
1
陳 室
5 2
2
3 1
1
/ 1
1 3 1
/ 2
2 1
/1
呉 郡 張 氏
呉 興 沈 氏呉 半銭 高
東 陽 留 氏
計
65
30
22
/1
/1
12
この表で注目されることは︑第一に︑宋朝では狼邪王氏︑陳郡謝
氏︑河南楮氏をはじめ︑慮江何氏︑済陽十六︑東海徐氏︑蘭陵藷⁝氏
に集中していることであろう︒中でも痕邪王氏は圧倒的である︒更
に︑前五者は所謂一流門閥であり︑後二者は︑王室劉氏と共に宋代
に入って中央官僚家となった勲門に属することが注目されよう︒斉
になるとその傾向は原則的には同様であるが︑可なり異ってくる︒
娘邪王氏が多いことに変りはないが︑他の名門は格別目立ったもの
はなくなる︒彰城の劉氏とか︑河東柳氏の如き新興幽門の見えるこ
とは宋代と同様である︒梁代になると︑狼邪王氏もそれほどではな
くなり︑他の名門とほぼ同列にならぶ︒
以上三代では︑娘邪王氏を中心にした各名門との婚姻が弩弓的で
はあるが︑その間に勲門との婚姻が全代を通じてまじり︑且つ割合
としてはふえる傾向にあるように思われる︒
ところがこの傾向は︑二代になるとかなり異ってくる︒即ち陳代
では︑従前にみられた名門との婚姻は稀となり︑反って勲引高は寒
門との婚が多くなってくる︑ということである︒これと表裏する如
く︑宋︑斉︑梁と続いて王室と憎した家が︑多くは陳朝では絶えて
いることが指摘できる︒
第二には︑宋朝と陳朝では︑その王室とだけしか点していない家
が多いことが注目される︒宋朝の下郵趙氏︑蘭立前氏︑東莞蔵氏︑
平昌孟氏︑丹陽路氏の如き︑−陳朝の巴西侯氏︑彰城到氏︑興郡張
三
長崎犬学教育学部社会科学論叢第二二号︵矢野︶
氏︑呉興沈氏︑呉興銭氏︑東陽脂汗の如きである︒これらの家が
多くは勲門乃至は寒門であることも注目すべきであるが︑更に陳朝
では江南出身が多いということも注目すべきで需ろう︒即ち︑張︑
沈︑銭︑留の各氏がそれである︒
以上の事から概括的に考えてみれば︑宋から梁までは︑王室の婚
姻相手は江北出身の名族であって︑それらは当時の上流階層であっ
たが︑陳朝となると︑勲門︑寒門との婚姻︑中でも江南出身との婚
が多い傾向が生じてきた︒ということは︑宋︑斉︑壁厚王朝が︑西
晋︑東晋以来の︑江北系の一流門閥中心主義を原則的には引きつい
だのに対し︑陳朝には︑それと異質的な社会体制が起りつつあった
のではないか︑との疑聞を提出することになろう︒勿論私は︑この
疑問をここで全面的に解明できるなどと考えているわけではなく︑
単に婚姻関係をたどることによって︑多少なりとこの雑題にふれう
ることを願っているにすぎない︒
さて︑陳代になって勲門︑城門と王室の婚が圧倒的に多くなったの
は事実であるが︑それ以前にもなかったわけではない︒すると陳代
のこの特徴は︑急激にやってきたものではなく︑宋朝以降徐々にそ
の傾向を増してきたのではなかろうか︒斉朝から︑狼邪王氏以外︑
特に目立った王室との通婚家がなくなり︑一朝では︑その狼邪王氏
さえも少くなってきたことも︑そのような変化と相応ずるものでは
ないのか︑という考えが浮んでこよう︒そこで私は︑西台︑東晋時
代の王室司馬氏との通婚家を調査し︑そのような勲門或は寒門との
通婚は︑西晋︑東晋以来のものか︑それとも宋朝以降のものかを︑
先ず明らかにしておきたい︒
そこで司馬氏の婚姻相手についてみるに︑大体次の如くである
︵拙撰︑ ﹁改訂日宇百官世系表﹂参照︶︒ 太原王氏娘邪王氏顯川庚氏河東質氏弘農楊氏東海王氏
6 8 3
2 2
1
沸国王侯氏/
河内張氏 窪
河東衛氏 2
東莱王氏 1 慮江何氏頴川葡氏河南楮氏弘農王氏太原温氏平原華氏南陽楽氏諜国桓氏陳郡謝氏
東海謬氏
2 1
1 1 1 1
2 1
2 1
京兆杜氏
済陽虞氏
泰山羊氏沸国劉氏
東莱劉氏
中山劉氏
苑陽盧氏河東斐氏
狼邪孫氏
河内楊氏 四
1
2 1
1 1
1 1
/ 3
/ 司馬氏はいうまでもなく河内郡出身の豪族であり︑曹魏政権斉島
回の時代から政治の実権を握っていたことは周知の如くである︒従って︑その婚姻関係をみても︑一︑二の特殊例を除いて︑殆ど無封
代の名門︑或は中央官僚家との通婚であった︒では︑特殊例とはど
のようなものかというに︑司馬氏の魏政権参加以前の仁君と河内張
氏︑東晋時代の河東公主と嗅直孫会︵血書59趙王倫伝︶との婚の如き
である︒河内の張氏は︑父は魏の粟邑令注であり︑母は河内山氏で
あった︵三囲侶︑宣穆張皇后伝︶︒従って︑この後漢時代になされたと
思われる宣帝と張氏との婚は︑河内郡の豪族間の婚姻であったと考
えられる︒これと同様な例は︑三三の弟の子たる高密文献王泰が︑
河内郡の豪族であり︑魏の有力官僚となった楊弓の女と回した如き
に見える︵遺志25楊評伝︶︒宣帝と楊俊とは仲の良い友人であったと
いう︵同上︶︒
次の狼邪孫会は︑藻汐の子である︒秀は︑﹁秀起自己邪外史︒累官
於趙国︒以論媚自達︒﹂︵皿呈日59趙王倫伝︶とある如く︑趙章章に仕え
て権勢をふるったが︑勿論︑王側近の小吏にすぎなかった︒けれど
も趙王倫の勢力を背景として︑恵帝の女河東公主と己の子とを婚せ
しめるに至った︒このことが一般に知れるや︑﹁百姓忽聞其尚主︒
莫不言愕︒﹂ ︵同上︶と伝えられているほど異常なものであった︒
従って︑王室司馬氏の婚姻関係を考える場合︑これらの特殊例を考
慮に入れる必要はない︑といえよう︒ ・
勿論︑西晋時代になって急速に中央宮僚化してきた家と司馬氏と
の婚姻がなかったわけではない︒例えば︑南陽楽氏と成都遺言との
婚の如きはそうであろう︒晋書︵43︶楽直伝によれば︑広の父方は
魏征西将軍夏帯玄の参軍にすぎず︑その死後は︑ ﹁広孤貧︒僑居山
陽︒馬素為業︒年無知者︒﹂ ︵薄書45楽士伝︶ といわれていたが︑
広はその人物の故に斐楷︑王戎︑質充塞の如き当時の名門︑権勢家
に知られ︑彼等の援引によって遂に中央高官となるに至った︒而も
なお当時は門閥社会の成立期にあたり︑婚姻に際してそれほど家格
を閥わず︑人物本位の考え方が残っていたことは︑既に守屋氏の指
摘されたところである︵守屋美都雄氏﹁六朝門閥の一研究﹂参照︶︒従って︑このような例は︑当時の社会通念の上では決して例外的なも
のとして考える必要はないわけである︒
しかし︑楽聖と司馬氏との婚の如き例は極めて稀で︑大体は当時
の名門︑少くとも魏以来の中央官僚家が司馬氏の婚姻相手であり︑
司馬氏と共に門閥社会を形成していった家々であった︒このこと
は︑司馬氏が当時の門閥社会の中にとけこんでいた︑即ち︑司馬氏
は一面政権を握りながらも︑他面門閥そのものであったことを示す
ものであろう︒
このことを︑南朝の場合と考え合せてみれば︑南朝諸王朝は地方
士大夫の家から身を起して政権.を握った軍閥政権であって︑司馬政権が門閥社会と共に成長発展した如きとは異っているわけである︒
即ち︑司馬政権.にとって門閥社会は︑自らを中心として長い年月か
けて発展してきた社会であり︑両者は一体的なものであった︒とこ
南朝における婚姻関係︵矢野︶ うが︑南朝の場合は︑既に存在している門閥社会に︑外から︑而も社会的には軽視されていた地位から入り込もうとしたわけである︒従って︑政治的には︑宋書︵42︶王弘伝に︑ ﹁高祖因図無謂翠公日︒我布衣始望不至此︒⁝⁝弘率爾対日︒此所謂天命︒求之不可得︒推之不可去︒﹂というところに見える如く︑天命を得て君臨する特殊の地位として︑容易に承服された天子の地位ではあったが︑
一方社会的には︑信書︵/︶武帝紀に︑﹁素手洋学以雄豪然推︒而
一朝便有極位︒晋氏四方牧言及在朝大臣︒尽心能事︒臣主群論定突︒高祖位微於朝︒衆愚一旅︒奮腎二心華中︒侶大義霊芝照照︒・田
是︑王誼等諸人時衆民望︒莫不届撃手焉︒﹂というところに明らか
な如く︑桓玄などとは琴平にならぬものとしか考えられていなかっ
たであろう︒
従って︑これら諸王朝が︑政治的のみならず︑社会的にも支配的
地位を固めてゆく為には︑すみやかに自らを門閥化する必要があっ
たと考えられる︒その為の最も簡単な手段が︑一流門閥との通婚で
あったに違いない︒そう考えると︑当時最高の門閥であった狼邪王
氏との通婚が︑圧倒的に多いことも了解できるであろう︒而もこれ
ら王室の周辺には︑政権獲得にあたって労苦を共にした所謂股肱の
臣がいた︒彼等は勿論単なる武人或は寒門出身にすぎなかったが政
権獲得︑王朝成立と共に必然的に中央高官となり︑政権をめぐる中
央官僚家を形成した︒その故に︑これら各王朝の群婚には︑おのつ
から勲門或は寒門との婚が入り込んでくるわけである︒
このように考えてくれば︑勲門或は寒門との通史は︑宋朝以降の
ことと考えてよく︑それは武力をもって政権を握ったこれら諸政権が︑始めから負わざるを得なかった運命であったとも考えられよう︒では次に︑宋朝以降の︑勲門︑寒国と王室との通婚を調査する
ことによって︑陳代において︑何故にあのような︑極端な通婚関係
五
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二二号︵矢野︶
があらわれてきたのか︑ということについて考えることとする︒
−上述の王室通婚表において︑三代で二面︑長門とみられるものは︑東海徐氏︑蘭陵薫氏︑東莞蔵氏︑下一泊氏︑丹陽路氏の如きで
あろうが︑斉では高平檀氏︑河東王氏︑梁代では遍満張氏の如きで
あろう︒陳代となるや︑巴西王氏︑呉興沈氏︑呉興銭氏︑東陽留
氏︑彰城到氏の如きが見え︑特に疾氏︑到氏を除いたものは︑江南
出身であった点も注目される︒
ではこれらの家々と各王朝とは︑どのような結びつきをし︑それ
は何を意味するものであろうか︑ということになるが︑先づ︑これ
らの家々と政権との関係を調べてみよう︒
○宋朝関係
一︑下郵趙氏略系図 −
一書
︒彪賄御−畜幕
昏
さて︑⁝喜て述べた如く ︵拙著﹁門
閥社会史﹂所収︶︶︑この趙氏は地方の平凡な官僚家にすぎなかっ
た︒たまたま劉氏と相似た家柄ということで︑武帝の門脈翅と趙皇
后との婚姻が成立したと考えられる︒勿論これは︑宋朝成立以前の
ことである︒倫之は皇后の弟であるが︑早くから武帝に仕えて軍功
あり︑佐命の功を認められて︑政権樹立と共に中央官僚家を形成し
たと見られる︵宋書46趙倫之伝︶︒倫之の事情も宋の公主と薄してい
る︒﹂
堂之餌 鳥之鞭−伯符備中−惰
十 夷︑海塩公主一蹴皇后 十薬︑武帝王劉翅 ︵﹁魏晋南朝の中正制と門閥社会﹂ 二︑蘭卑下下略系図・轟電請之聡整i思蒸
着下郵趙氏一型皇后 十 三年 塁一メノ 十浦郡劉収
着
この家についても別にふれた如く
会﹂︶︑地方の平凡な官僚家であったにちがいない
の姉が王朝成立前に樽町帝の父劉勉と済し︑
んで中央官僚家として成立したこと︑下郵趙氏と同様である︒
両氏の相違は︑高調が中央宮僚としてそれほど栄えなかったのに対し︑薫氏は思話の活動によって︑中央官僚家としての地位を確立し
たのみならず︑遂に甲門としての社会的地位をも得てきたことは︑
晦素と三三の女との婚が行われたことによって察せられる︒しかし︑後の宋の王室との多くの婚姻は︑孝諮薫皇后による外戚という
つながりの上に︑瀟氏が王室の成立と一緒に︑中央官僚化していっ
たということによるものであろうから︑それらの婚姻が王室と三門
の婚姻であったとは考え難いので︑それらはやはり勲門としての蒲
団と王室との通婚とみておくべきであろう︒
三︑東莞蔵氏略系図 一恵開i一心 1女 十 宋︑孝武帝子−恵明i膵素 十 娘邪王氏︵庸主︶1恵基 十− 宋︑江夏王義恭女i女 十 宋︑桂陽王即下一女 十 宋︑劉乗︵宗室︶
︵前掲﹁魏晋南朝の中正制と門閥社
︒それが︑源之
劉裕が政権を握るに及
ただ
・弓隠.一晶沖
十 高密叔孫氏 −寿愈常−﹇蜷十 北地回郡
⊥景〜
1蔵皇后 十 一質1一女
十 宋︑武三一沖
この家も平凡な地方の士大夫家にすぎなかったことは︑殆ど間違
いなかろう︒その祖先が︑注までしか明らかにできないことも︑そ
れらが大した官職についていないことも︑僑の妻が高密の叔孫氏と
いう中央政界に全く縁のない家であったことなども︑皆その証拠で
あろう︒蔵氏と劉裕との婚姻は政権樹立前の東晋時代であるから︑
この婚も趙氏︑諮氏の場合と同じく︑地方士大夫家相互の婚姻であったと考えてよいであろう︒蔵氏が中央官僚となったのは︑この通
婚の故であると思われ︑宋政権樹立と共に︑一緒に成長した中央官
僚家の一つと見てさしつかえあるまい︒従って︑南郡王家と蔵氏の
婚姻も︑宗室と勲門の婚姻と考えてさしつかえあるまい︒
四︑東海徐氏略系図︵省略︑前出︶
この家については一応説明を加えておいたが︑必要な限りにおい
て再説すると︑この家は東晋末に中央官界に顔を出したにすぎず
︵晋書74桓輝伝附徐寧伝︶ ︑後に羨之が︑ ﹁吾位至二品︑官為二千
石︒志願耳聞︵宋書45徐羨之伝︶︒﹂といったところをみれば︑さし
たる家柄であったとは考えられない︒この家が中央宮僚家として確
立したのは︑欽之︑羨之兄弟に至ってからである︒それには︑東晋
末に行われた逡之と宋武帝長女︑会稽公主との婚姻が大いに影響し
たと考えねばならず︑この家も亦前記諸家と同様︑劉政権成立と共
南朝における婚姻関係︵矢野︶ 一三 十 宋︑南郡王義宣女一女 十三︑劉採︵義宣子︶ に中央に乗り出した家とみることができる︒しかし徐羨之は︑東晋末以来武帝の股肱の臣であり︑台命の功臣であり︑宋初の有力政治家の一人でもあった︒このような政権成立前からその後にかけての関係によって︑その後の両者間の婚姻が行われたものと見られるであろう︒五︑丹陽路氏略系図
・興之灘螺野 掛
宋書︵4/︶文帝路草媛伝によれば︑
侍郎︑茂之左軍将軍︒
慶の女は一時的にもせよ︑前廃帝の皇后として立てられていたこと
間違いあるまい︒この家が社会的には全くの単家にすぎなかったで
あろうことは︑墨書路淑爆心に︑ ﹁︵太后弟子︶環之宅与太常王僧
達並門︒嘗指革服聖運︒造僧達︒僧最早為之礼︒環下車訴太后︒太
后大怒︒告上日︒我尚在而人皆陵我家︒死後乞食突︒欲皐僧達︒上
日︒曖之年少︒自不遇軽造詣︒王覇達貴公子︒量以此事加皐︒﹂と
みえると干ろでも察せられるであろう︒道傍の女が前廃帝の皇后と
して立てられたのも︑孝武帝の母としての路太后の意から出たもの
であろうし︑王室との婚といっても︑これは一応例外的なものとし
て考えてもよさそうである︒
以上五氏の中︑黒氏を例外として他の四氏についてみるに︑特徴
的なことは︑これらの家々は劉氏がなお政権を獲得する以前︑名も
なき地方士大夫にすぎなかった頃に婚姻したことがある︑というこ 一路太后︵孝武帝母︶ 十 文旦 ロヒレ
i道慶男夫﹇﹁鍵后
前騨 ﹁廃帝景和渕︒足休之為黄門 ⁝⁝道慶寸分皇后︒﹂とみえているから︑道七
長崎大学教育学部社会科学論叢第二二号︵矢野︶
とであろう︒婚姻というものは︑元来︑魏志︵5︶文徳郭皇后伝に
いう如く︑同郷であって門戸の相似た間柄においてなされるのが普通であったとすれば︑時代こそ降れ︑上述四家と劉氏との婚は︑同郷でもあり︑且つ相似た家柄相互の︑世間一般にみられる婚姻であ
ったと考えてよいであろう︒
しかし︑勿論それのみではなかったようである︒というのは︑こ
れら四氏の宋初の人物は︑それぞれ宋朝成立に功績があった入々︑
換言すれば︑劉裕の股肱として建国に活動した人々であり︑従っ
て︑その功績の故に王室と密接な君臣関係を結び︑劉氏政権の成長
と共に成長し︑三三政権の確立によって中央官僚家としての地位を
得た人々であった︒即ち︑彼等は一面劉氏の政権獲得以前から外戚
として親しい関係にあると共に︑他面その建国に功労あり︑その結
果として中央官僚家となるに至ったわけで︑そのような関係が政権
樹立後に︑再び彼等と王室とを通婚せしめるに至ったものと考えら
れる︒従って︑これら四氏は皆所謂勲門というべきで︑例えば宋書
︵46︶趙倫之伝に︑ ﹁光禄大夫萢泰好戯︒謂日︒司徒公歓︒必用汝老
奴︒我不言慰撫地︒所任要是外戚︒高秩次第所至耳︒倫之大喜︒毎
載酒肴詣泰︒﹂とある如く︑上流門閥の人々からは軽視されること
があったわけであり︑その限りにおいて所謂甲門とはいい難い︒し
かし︑彼等が当初に中央官僚家としてのし上ったことは明らかであ
って︑その子孫ともなれば︑一応の社会的尊敬は得ていたと思われ
るし︑−例えば宋書︵78︶薫零話伝によれば︑ ﹁思話宗戚令望︒蚤
見任待︒⁝⁝所三無傲鰍清節︒三無稼鑛之累︒愛才好士︒人多帰環︒
﹂とみえる︒1そのような歪なしには王室との通婚は成立し難かっ
たであろう︒即ち︑これらの家々の門閥内における地位は︑王︑謝
は勿論︑何︑楮︑般︑蓑等の有力諸氏よりも一段ひくいものではあ
ったとしても︑官達を背景として︑一応中央門閥の仲間入りはして いたわけであろう︒ では次に斉朝においてはどうであったろうか︒○斉朝関係
一︑高平零墨略系図OI
論判t望外−珪蟹
一氏領軍 示将軍
・︐−︐︐︐﹃﹃⁝女 十 ︵斉?︶南謙王1道下司空 十 向氏
一女 十宋長沙景王
檀氏について︑
︵王︶僧慶烈日︒:
八
係念によれば︑ 面白い話が伝わっでいる︒
﹁高平檀珪⁝⁝与 ::
位宣︒亦不後物︒尚書同堂姉為江夏王妃︒檀珪同堂姑為南謙王妃︒
尚書婦是江夏王妃︒難解祖姑嬢長沙景王︒尚書伯為江州︒檀珪亦為
江州︒尚書従兄出身為後軍出軍︒檀珪父釈褐三業中衆参詣︒僕於尚
書︒人地本懸︒至早婚宙︒不至殊絶︒﹂と︒
珪の祖紹は︑その弟砥︑男爵と共に宋の高祖建国の時︑武勲を以
て寵せられたこと︑選書︵45︶檀詔伝に︑﹁高祖受命︒以佐命功増八
百戸︒丼前千五百戸︒紹嗜酒貧横︒所贈位金銀︒上嘉情合門従義︒下
道済又有大功︒故特見解授︒﹂とみえる播くである︒この一門は元
来は名もなき武将の家にすぎなかったとみえる︒従って︑宋王室と
の婚があったとしても︑それは劉宋政権樹立前のことで︑その頃相
似た武人の家劉氏との婚があったにすぎぬ︒従って︑それで以て王
僧慶の妻が江夏王の女であるという︑虚言政権成立後の婚姻と比較 この表の中︑南謙王については明らかでないが︑恐らく斉の宗室であろう︒若しそうでなくて宋の宗室であ
ったとしてもこの論文の論
旨に変更はないので︑ 一応
斉宗室と考えておく︒
さて︑整斉書︵33︶王僧
即ち︑
身錐孤微︒百世国士︒姻嬬
するのは当らないであろう︒しかし︑詔兄弟三人の懸命の功により
この一門が中央官僚となったことは明らかであり︑県警王との通婚
はその結果行われたものと考えられる︒従って︑多少的はずれなが
ら︑ ﹁於婚宣不心置﹂と一応は主張したのであろうが︑やはり﹁人
地本懸﹂とて︑門閥社会における檀弓の地位の低さを自認せざるを
得なかったのである︒
二︑河東柳氏略系図
・葱下編点景禅.
叔宗叢也隆禅.
十 十郭氏 閃氏 一軍呉興一匿都陽一 雫太守 イ太守 十 長城公主 ︵梁武帝女︶一女 十 斉河東王鉱
一○ 十崔氏︵霊鳳女︶ 覇
(富z公主陳文帝女︶
−放陳宣帝
この家は元来河東の著姓であめたが︑南朝柳翰墨に至って中央官
僚となった︒元景は武将として活動し︑宋孝武帝に重用せられ︑尚
書令に至った︒宋書︵77︶の彼の伝には︑ ﹁元蜂起自将帥︒及当朝
急務︒錐非所長而有弘雅之美︒﹂と伝えている︒世隆も亦武人であ
り︑南斉太祖及び世祖と親しく︑早くからその股肱として建国相半
の功があった︵南斉書24柳世詳伝︶︒斉朝成立後は政治的にも重用さ
れ︑世祖永明七年尚書令となったが︑学問に対する関心もあり︑
﹁世隆性愛渉猟︒啓太祖借秘辞書︒上灘二千巻︒﹂とか︑ ﹁世隆少
立功名︒乗組以談義︒﹂ ︵南斉書誤世隆伝Vとかいう如く︑晩年には
教養をつむことに努めた如くである︒このようにして申央官僚家の
確立をみたものの︑しかし壁代に軍門とみられた形迩はなく河東王
南朝における婚姻関係︵矢野︶ 鉱にその女を嫁したのは︑南史︵43︶河東隠男伝に︑ ﹁高捲臨崩以属武帝︒武籍甚加意焉︒即納柳世隆女為妃︒﹂とあるように︑世祖武帝の意によったものであるが︑これは恐らく建国前から辛苦をともにした︑帝と乳量との親しさの故であったと見るべきであろう︒ 次に梁王室関係についてみよう︒○梁朝関係○苑陽張氏略系図
︒華司空葎鱗﹂ 山父料 鎮西−綾t希 州一斗1最恵帯
−穆之刺則一薄︵梁文帝従姑︶﹁案弘策欝−熱⊥論書
−弘語感軍 十 十 梁富鉱公主 梁海塩公主 ︵梁武帝女︶ ︵簡文帝女︶一文献皇后 十藷順之︵梁武帝父︶+ 射 + 中山劉氏 梁定陽公主 ︵簡文帝女︶
この家は︑西晋の有力宮僚張華の子孫である︒渡江後は顕れるこ
となく︑門閥社会の平凡な一員にすぎなかったようである︒ところ
が︑この家は早智帝の家と親しい間柄にあったらしく︑穆之は恐ら
く東晋末か宋初の頃に︑武帝の父文帝の亜鈴と而している︵訳書7
太祖張皇后伝︶︒更に穆之の子文献皇后が宋元嘉中に︑文業即ち薫順
之と婚を結んでいる︵同上︶︒これらは︑この両者がごく親しい生
活グルー︒フの中にあったことを示すもののようである︒それは張弘
策伝︵引書矧︶にみえる︑次の如・き記事からも推察されるところで
ある︒即ち︑ ﹁心行与高祖年構輩︒幼見親押恒随高祖遊処︒毎入
室︒常覚有雲煙気︒体頼粛然︒弘策由此特敬高祖︒﹂と︒このよの
に︑幼少の頃から親しい関係にあった張野馳は︑長じては梁武帝の
九
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二二号︵矢野︶
股肱として建国佐命の功あり︵品書生憎地堺伝︶︑その一門は優遇さ
れて中央官僚となり︑綾は武帝の従兄弟の間柄として寵を蒙り︵梁
書54張讃伝︶︑張氏は譜面における︑最も権勢ある家の一つとなった︒
けれどもなおその社会的地位については︑一流門閥としての評価
をうけ難かったことは︑襟脚︵56︶張弘策伝横の条に︑ ﹁五年武帝
詔日︒横外氏英華︒朝中領袖︒司空々後︒名冠苑陽︒可尚書僕射︒
横本寒門︒以外戚顕重︒高自擬倫︒而詔有司空苑陽之言︒数回為
狭︒以朱昇草詔︒与昇不平︒﹂とみえるところによるに︑一応繊の
時には甲門として遇されたにもかかわらず︑草一門朱昇の見るとこ
ろでは︑なお天下の張氏ではなかったわけであろう︒而もその朱昇
も︑君側の権臣であり︑且は呉郡の名族朱氏に属していたかも知れ
ぬが︑当時は寒長客に属していたに過ぎぬ者であった︵越智重明氏
﹁梁の天監改革と忌門層﹂ ︵史学研究97号︶︶︒
以上︑斉︑梁時代の檀氏︑柳氏︑張氏についてみるに︑共に直門
であり且つ建国幕命の功臣の家であり︑王朝の成長と共に成長し︑
王朝成立と共に中央官僚家にのし上ったものであることと宋代にみ
た前述四氏と変るところはない︒従って︑これらの家と王室との婚
姻は︑政権樹立以前からの王室との親密の故であったと考えられ
る︒ ところが陳代になると︑必ずしもそうではなかった如くである︒
○陳朝関係
一︑巴西茨氏略系図
・弘遠顯毒鱗志士騰
十 富陽公主︵陳世祖女︶
この家は西思量豪︵県史66戻頂伝︶といわれている如く︑巴西の豪
十
号であったのであろう︒唄は野末の争乱に︑王僧弁輩下の武将とし
て梁元帝に仕え︑陳高祖が王僧弁を諌するに及んで一時高祖と対立したが︑ついに降り︑世祖即位に及んで大尉に進んだ︒彼は陳の良
将︵陳書8侯安都伝︶であり︑高祖末から世祖にかけての軍事面の中
心人物であった︵同上︶︒その黙念蔵と世祖の女との婚は︑ そのよ
うな者両の結びきつによったものであろうか︒
二︑東陽留氏略系図
・異釣針一忠臣
1貞臣 二更︑安豊公主︵世祖女︶
この家は︑ ﹁肚為郡短身﹂ ︵陳書55留異伝︶とあるが︑その祖先に
ついては何等知られていない︒この東陽の豪族であったのであろ
う︒その陳室との婚姻について︑陳書︵35︶の史照雨には﹁︵陳︶
宝迎撃︵留︶異︒世祖或敦以婚姻︒諸処其類族︒豊国不能旦夕︒蓋
置徳懐也︒﹂と述べて︑留異をなつくるに婚姻を以てしたのだとい
う︒一種の政略結婚であったのであろう︒巴瓦揆氏の場合も︑或は
そのようなものであったのかも知れない︒
三︑彰城到氏略系図
・彦之懸志度囎轡轟撃沈
−坦帥野概灘 蕊㌍塞灘翫鑛
十 十太山細心︵玄保々︶ 陳信義長公主︵世祖妹︶
彰城の到氏は彦之が東回末から宋武帝に随って戦功あり︑武人と
して高宮に至った︵旧史25到彦之伝︶︒その後︑この一門は中央官僚
として貴族的教養を身につけてきたこと︑例えば抗について︑ ﹁及
長善属文︒工象隷︒美風神容止辛煮︒﹂︵南史25到彦之伝洗の条︶とか︑
概について︑ ﹁臼哲美暴︒挙動風雪︒善於応答︒﹂ ︵同上慨の条︶と
かいわれている如くであった︒けれども尚一流貴族からは軽んぜら
れていたことは︑ ﹁︵概︶掌磯部尚書︒時何敬事前令参掌選事︒有
不凍︒概輯相論︒三三謂人日︒到概尚有余臭︒遂低回貴人︒﹂ ︵同
上︶という記事によって伺われる︒恰の妻は一一保の女であった
が︑その婚について︑﹁父坦以溌回外家︒乃一塁羊三保︒以為外
氏︒﹂︵同上治の条︶とある如く︑太山羊玄保を外氏として求めたこ
とは︑当時の羊氏が必ずしも一流門閥ではなかっただけに︑そのく
らいのところが三三の社会的地位であったと推定されよう︒従っ
て︑仲挙の子郁が世祖の妹に回したのは︑梁の時代︑伸挙が世祖の
郷里長城の令であった時のこととして︑ ﹁陳文帝居郷里︒嘗詣仲
挙︒二天陰雨︒⁝⁝白文帝至︒仲下酒之︒至嘱団結︒﹂︵南史25到彦
之伝三二の条︶と伝える如き︑早くからの両名の結びつきの故で︑
必ずしも到氏が一流貴族として考えられていたが故︑という如きで
はなかったであろう︒
ところが陳王室の外戚には︑以上のような宋︑斉などの王室に多
くみられた三門外戚の如きの外に︑従来あまりみられなかった郷里
の豪門があった︒呉自沈氏︑遠図二心の如きである︒
四︑呉興銭三略系図
︒銭卜方−放 ・銭景皆無i叢論
陳︑武帝︵政権成立前︶ 十 陳氏︵武帝従妹︶ ︵政権成立前︶
南朝における婚姻関係︵矢野︶
・銭蔵輻i恩
十永世公三欝女︶ ○銭粛 十三︑義興公主さて︑陳の王室は︑呉署長城下若里人といわれている︵陳書1高祖
紀︶︒其先は頴川陳氏というが︑勿論そのままは信じ難い︒しか
し︑﹁威和中土断︒弓隠長城人︒﹂ ︵同上︶とあるから︑東晋の初
めから呉興長城に住みついていたものであろう︒勿論陳氏が郷里の
名門でなかったことは︑陳書︵16︶藥景歴伝に︑﹁衡陽献王時為呉興
郡︒昌年尚少︒呉興王之郷里︒父老故人︒尊卑有数︒高祖恐昌年少︑
接対乖礼︒乃遣景歴輔之︒﹂とみえている如く︑高祖の第六子折回
王昌が高祖の郷里の長宮となり︑郷里の父老故人に対して礼を失す
ることがないよう配慮したということは︑なおこれが梁末であっ
て︑出身郡の人心収擁が大事であったということもあろうが︑決し
て陳氏が呉興の名門ではなかったことを思わしめる︒
このことは︑政権掌握前の婚姻相手によっても推測できる︒武帝
の母は董氏︑新帝の妻は銭氏及旧記であった︒旧記については明ら
かでないが︑銭氏については︑﹁高祖先嬰同郡銭三方女﹂︒︵陳書7
高祖章皇后伝︶とみえている︒この呉回読氏については︑他にも
高祖の女永世公主が︑三代に三三太守銭蔵に嫁しており︵陳書σ
蓑敬伝︶︑高祖の従妹が︑高祖がなお微なる時︑漢寿令銭卜探の三道
殿に嫁している︵陳書22銭道三訂︶︒これらによれば︑董氏︑銭氏︑
陳氏は同郡の相似た地方士大夫の家にすぎなかったのではなかろう
か︒というのは︑銭氏について︑次の如き話が伝えられているか
らである︒陳書︵34︶繋凝伝によれば︑ ﹁高祖︵宗︶常謂三日︒我
欲用義興主骨銭一一黄門郎︒卿意何如︒凝正色対日︒三郷旧戚︒恩
由聖旨︒則無所復問︒若格以倉議︒一散一一︒一月三門兼美︒惟陛
二
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二一言万︵矢野︶
下裁之︒高宗黙然而止︒﹂とみえる︒ここに繋凝がいう所は︑ ﹁銭
氏は帝と同郷の外戚︑単費によって命ぜられるならばいざ知らず︑
人門兼美を患うべき黄散の地に銭粛を用うべきではない﹂というも
のであろう︒即ち欝欝は社会的には寒門としかみられなかったと考
えられる︒銭粛と義興公主との婚は︑恐らくは陳政権樹立前の︑銭
財と陳氏との親戚関係が延長されたものと考えられる︒即ち︑銭氏
も陳氏も︑元来は呉興の寒門にすぎなかったのであろう︒高祖の後
の妻章動については︑ ﹁酔興軍馬人車︒本姓鉦︒父景明為章氏所養︒
因改焉︒景明梁代︑官至散騎侍郎︒﹂ ︵陳書7高祖章皇后伝︶とみ
え︑更に︑ ﹁后帰属無在朝者︒唯宮様鉦沿︑官爵中黒大夫︒﹂ ︵同
上︶というから︑この家も亦銭氏と相似た家柄であったのであろ
つ︒五︑呉興零墨略系図
・舅犠
夕山一巡 卿通直i下臥騎 常侍
尚書 一君厳
岩理難一極倹
十 会稽長公主 ︵聖帝女︶ ︵政権獲得前︶壷・同割 岩公鱗
・法深馨〜欽葎一観麹
射i沈皇后 十三︑文帝︵政権獲得前︶ i沈皇后 十三民主
呉轟沈氏と重氏との婚姻をみるに︑陳王朝成立前に︑世祖文身と 一二
法深の女︵陳書7沈皇后︶︑沈心理と高祖侍坐の女︵伝陳書25連単理工︶
との説及び長沙王公三型沈潜︵陳書28長沙王伝︶があった︒陳王朝成
立後は︑後主と沈皇后︵陳書7沈皇后伝︶との婚が見える︒
沈氏はいうまでもなく呉興の豪門であり︑幾多の門流に分れ︑多
くの中央官僚を出した一族ではあるが︑世祖沈皇后はどの門流に属するか︑明らかにし難い︒皇后伝︵陳書7︶には︑その兄欽につい
て︑ ﹁為尚書国選射︒尋遷左平射︒欽素無技能︒奉已而巳︒﹂とい
っているから︑皇后の兄の故を以て左僕射の要任に至ったものの︑
殆ど教養のない単なる武人にすぎなかったらしい︒
一方沈君理の場合は︑その伝︵陳書25︶によれば︑祖三菱﹁は梁の左民尚書︑父巡素は東陽太守で︑父は陳高祖と仲のよい友人であっ
た︒而も︑﹁君理美風儀︒博渉経史︒有識竪﹂︵同上︶とあるか
ら︑一応門閥としての教養もあり︑その人物を認められての通詞で
はあろうが︑元来は父と高祖が同郷の友人であるということによる
ものであろう︒ この君理の家と世祖沈皇后の家との関係は明らかにし難いが︑両
者共に同郷的誼みからの︑王室との通婚と思われるが︑とすれば︑
君理の女が後主の皇后となったのも︑ 陳朝成立後のこととはい
え︑これらの王朝樹立前の姻戚関係によるものといえそうである︒
勿論︑君理はその人物の故に重用され︑遂に太建元年吏部尚書に至
り︑翌年女が皇太子妃となっていることから考えて︵同上︶︑陳氏
勢力と共に成長し︑政権樹立と共に中央官僚家となった家と王室と
の通婚という面もあったわけである︒
以上銭氏や沈氏の場合をみれば︑ 前代諸王朝にみえた︑ 中央に
のし上って来た権勢ある勲門と王室との婚︑というだけのものとは
異って︑同郷としての誼みにもとづいての政権獲得前の婚姻関係
が︑政権獲得後もつづけられた関係の如くであり︑その為に樋門と
王室との婚が見えるといえそうである︒
さて︑以上の調査によって各王朝の婚姻関係を概観すると︑宋︑
斉︑愚筆王朝においては︑従来の一流門閥との婚姻を中心とし︑そ
れに加うるに︑王朝と共に成長して中央官僚家となった勲門との婚
が多かった︒陳朝では︑一流門閥との通婚がなかったわけでもな
く︑又王朝と共に成長した中央官僚家との通婚もあったが︑それと
共に︑軍事力ある家との政略結婚︑同郷的色彩の強い婚姻が行われ
ている︒即ち︑寒門︑民会との通徹はすべての王朝で行われている
のではあるが︑ただ陳朝では他にみられない特徴がある︑というこ
とになる︒
こう考えてくると︑南朝諸王朝は︑自らの一族とその股肱の臣の
一族とを︑共に門閥社会の中にとけ込ませ︑積極的に門閥化を心掛
けたといえそうである︒そのことは︑王朝側が門閥の社会的︑政治
的努力を認めざるを得ず︑王室も亦門閥社会の一員であるという︑
西晋以降の伝統に妥協的であったといえないことはない︒もっと
も︑陳朝においてはそのような伝統が全く否定されたわけではない
にしても︑形式的な家柄よりも︑現実的な勢力関係に目をむけてい
たといえそうである︒
しかし︑反面から言えば︑以上の王朝の態度は︑それ自身門閥化
しつつあったとはいえ︑なお勲門︑寒門との通婚を認めていたわけ
で︑実際にはそれだけ門閥社会に対して否定的であったので︑その
傾向が︑南方に長く土着し︑北方勢力からも追いつめられて苦しい
政治状態にあった陳朝では︑何等実力のない門閥社会に対して︑よ
り一層否定的であったことを示す︑ともいえよう︒換言すれば︑
このような各王朝の通塗態度は︑嘗て私が論じた門閥社会の動揺
︵﹁門閥社会の成立と崩壊﹂第四章︵拙著﹁門閥社会史﹂所収︶︶と相応
ずるものといえようか︒
南朝における婚姻関係︵矢野︶ さていままでは︑南朝王室を中心としての婚姻関係についてみてきたが︑次に︑晋朝門閥の婚姻形態と︑南朝門閥の婚姻形態とを比較することによって︑その間にどのような変化がみられ︑それは社会の変化とどう関連するか︑ということについて考えてみたい︒
第二節 晋朝と南朝の婚姻形態の相違
先づ晋代の門閥の婚姻関係についてみるに︑私は嘗て﹁斐氏研
究﹂︵長崎大学学芸学部社会科学論叢第十四号︶において︑西晋時代の
斐氏の婚姻関係を論じて︑ ﹁以上によってみるに︑斐氏の婚姻は概
ね王室を中心として︑狼邪王氏︑太原王氏︑賃氏︑楊氏︑三遷という
一流門閥及至は勢門と結ばれている︒﹂と指摘した︒これは西晋時
代の代表的門閥斐氏を通じてみた結論にすぎないが︑いまこの主張
を更に確かめる為に︑代表的な門閥としての娘邪王氏︑陳郡重氏︑
陳郡三一を例として︑西堂︑東晋時代の婚姻関係を調べてみよう︒
○狼邪王氏の場合︵拙撰﹁改訂魏晋百官世系表﹂︶
司馬氏との婚
高平郁氏
狼邪顔氏
河東斐氏
南陽楽氏 太原郭氏
汝南榎氏
○陳郡謝氏の場合︒
司馬氏との婚
陳郡嚢氏
河南衛士 南陽劉氏
8 3 2
1 2
/ /
︵同前︶
2 3
2 1
陳郡謝氏との婚
謙国二選沸国劉氏
彰城曹氏
護国夏侯今様郡嚢氏
陳郡殿氏娘邪王氏との婚陳郡股遅
番川里氏太原王氏
一三
3 5
/ 3
1
1 1
5 1 1 1
長崎大学教育学部社会科学論叢第二二号︵矢野︶
狼邪諸葛氏 / 太山羊氏 / 太原郭氏 1 南陽苑氏︑ 1
0陳郡蓑氏の場合︵同前︶
陳郡謝氏との婚3
陳郡殿氏との婚 1 穎川葡氏 1 狼邪王氏 /以上によって︑先づ第一に考えられることは︑早蒔の場合その数
が少いとはいえ︑婚姻の範囲が極めて限定されているかにみえる︒しかし︑王氏︑謝氏の場合についてみれば︑婚姻範囲は必ずしも狭
くはなかっれようである︒ただ︑それにもかかわらず︑その相手は
やはり名門であるか権門であるかに限られていること明らかで︑そ
れら名門︑権門の範囲が一つの婚姻グルー︒フを形成していたと考え
てよいであろう︒
第二には︑王室司馬氏との婚姻が必ずしもめだっているわけでは
なく︑王室も他の名門と同列にあった︑といえないことはない︒し
かし︑やはり司馬氏は娘邪王氏と共に︑これらグループの中の一つ
の申心であったことは否めないようである︒即ち︑王室も晋朝門閥
社会に属する一門閥であり︑この婚姻グルー︒フの中心的一員として
考えられていたにすぎぬ︑ともいえるようである︒
第三には︑これら三氏は何れも北方出身︑所謂北人であるが︑そ
の婚姻相手はすべて北方出身に属するもので︑江南出身︑所謂南人
に属するものは全く見られないことも注目すべきである︒
では︑これに対して︑南朝におけるこれらの家の婚姻について考
えてみよう︒
○狼邪王氏の場合︵前掲﹁未定稿南朝百官世系表﹂ ︵未発表︶︶︑
劉氏︵宋室︶との婚 15 瀟氏︵心室︶との婚 /2 重氏︵当室︶ 5 陳氏︵陳室︶ 2
陳郡細思 3 陳郡謝氏 3
彰城劉氏 陳守殿氏 魯国孔氏 蘭陵粛氏 ︵?︶章氏○陳重厚氏の場合︵同上︶ 劉氏︵宋室︶との婚 薫氏︵梁室︶ 陳郡股氏 穎川葡氏 ︵?︶曹氏 南陽張氏/ 2
/
/
/6
2
/ 1
1 1
鷹江何氏
礁国桓氏
太山羊氏
呉興言氏
蒲氏︵斉室︶
心皮王氏河南楮愈
々留玩氏
心心王氏 一四
3
/ 2
/
との婚 /
/ 3
1 1
○陳郡裳氏の場合︵同前︶
劉氏︵宋室︶との婚 / 藷氏︵斉室︶との婚 /
薫氏︵手跡︶ 2 狼邪王氏 3 済々藥氏 3
これら諸氏の婚姻には多くの特徴が見られる︒第一には︑王室との婚姻が圧倒的に多いこと︑第二には全くの気門との婚が見えるこ
と︑第三には︑これらの諸氏は東晋時代の所謂北人の子孫である
が︑同じく所謂南江の子孫との婚が見えることなどがあげられる︒
先づ第一の点について晋代と比べてみるに︑晋代では王室司馬氏
との婚は︑他の名門との婚より多少目立つとはいえ︑それほど他か
ら際立ってはいなかった︒然るに宋朝以降では︑王室との婚が急激
にふえている︒それは三指の場合に共通の現象である︒これは一体
何を意味するものだろうか︒
先づ考えられるのは︑﹁諸尚公主者︒並用世胃︒不宮任有才能︒
﹂︵宋書52︑楮叔度伝︑湛之の条︶とみえ︑或は欝林王何妃について︑
﹁歩軍将軍何敢万古︒初将納為南郡王妃︒文恵太子嫌戦無男盛孤︒
不遠端昏︒王倹以︑南郡王妃猫型将来外戚︒唯総高胃︒不須立論︒
今何氏蔭華族弱︒宴允外戚之義︒永明三年乃成昏︒﹂︵南史10欝林王陰嚢伝︶とみえるところによって伺われる如く︑公主に馴するもの
は才能はどうともあれ︑家格の高い門閥であるべきであったし︑王
室の外戚は有力門閥であるべきである︑ということであった︒とい
うことは︑これらの婚姻は王室側からの働きかけによったことを推
察せしめる︒即ち︑司馬氏とは異って︑門閥社会の外にあった王
室が︑より早く自らの社会的地位を高める為の手段として︑名門と
の通町が必要にであったことを示すものであろう︒
しかし反面︑門閥側から婚を求めたことがなかったわけではな
い︒例えば︑南史︵44︶南康王子琳伝によれば︑ ﹁子垂下母歯群︒
心見愛︒太占草葺因請昏︒ ︵斉︶聖帝悦而許之︒﹂とみえている︒
王倹の如き最も有力な門閥に属し︑且は最高の官にあった人にして
なおかつ︑帝の最も寵愛する王子との昏を望んでいる︒これはやは
り︑王室との婚姻が政治的意味を含んでいたことを示すものであろ
う︒それは例えば︑宋書︵7/︶王僧緯伝に︑ ﹁富鉱印影中書侍郎薬
興宗日︒弟順位心胆新建斉︒超至今日︒蓋由姻戚写譜也︒﹂とある
如く︑昇進が王室との婚姻−僧紳の妻は宋室の公主一に左右されることがあったからであろう︒
勿論︒図書︵7︶太宗王皇后伝に︑狼邪王蕎の言葉として︑ ﹁謂
諸子日︒吾家門戸︒所謂素族︒自国随平進︒華中萄求也︒﹂という
自負にみられる如︽︑一流名門ともなれば︑求めずして高官に至る
ことも可能だったわけであり︑その故にこそ︑南史︵24︶王裕之伝
峻の条に︑ ﹁耳珠為国子生︒寺巡興王女繁昌主︒珠不慧︒無学生所
喘︒遂離婚︒峻謝王︒半日︒此自上意︒難燃不願誓此︒暦日︒下官
曾祖是謝満洲外孫︒亦不動殿下姻購為門戸耳︒﹂という如く︒王室に
南朝における婚姻関係︵矢野︶ 反請する態度もでてくるわけであろう︒けれども宋朝以降は︑天子の大権は基太的には門閥の官達を制約したことについては越智氏の見解があり︵越智氏﹁南朝における皇帝の軟論貴族支配について﹂ ︵社会経済史学21i5︑6合併号︶︶︑私も亦吏部権限の変遷に関連して考察しπことがある︵﹁国里南朝における吏部権変の変遷の一考察︒﹂ ︵門閥社会史所収︶︶︒従って︑以上のような態度が︑誰にでも︑何時でも通用するものでなかったことはいうまでもあるまい︒ 以上の如く考えてみれば︑王室からする積極的態度と共に︑反面門閥から王室への接近もあって︑晋代では見られなかった結婚現象が生まれたものと思われる︒それにしても︑この王室と名門との婚姻が︑宋から斉︑梁︑陳と時代が降るにつれて減少し︑特に陳代には謝氏︑震氏のみならず︑江氏︑殿氏︑徐氏の如きも︑全く王室と淫していない点は注目すべきである︒このような王室と一流門閥とが︑時代が降ると共に次第に疏遠になってゆく傾向は︑どのように考えたらよいのであろうか︑その為には︑他の二点について考える必要がありそうである︒ 第二の点︑即ち︑名門の婚姻相手に︑全くの遍歴がみられるるという点についてみるに︑黒氏の相手に晋陵王氏と南陽張氏が見える︒ 謝眺の妻は晋陵王敬則の女である︵南斉書47謝眺伝︶︒南斉書︵26
︶王敬則伝によれば︑その祖先については何等記載なく︑敬則の母
は女巫であった︒宋末から武人として活動し︑斉の太祖に帰してそ
の股肱となり︑衰漿の乱に功あり︑中領軍︑中寺将軍を歴任し︑建
元十一年司空となり︑明帝の世大司馬に進んでいる︒彼の伝に︑
﹁敬則日︒臣若知書︒不過量尚書飛躍史耳︒那得今日︒敬則錐不大
早書︒黒蝿甚警難︒臨州郡︒塁上事甘辞︒下教判決︒皆不失理︒﹂
とある如く︑根っからの武人ではあったが︑仲好のきれ者であった
一五
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二二号︵矢野︶
らしい︒兎に角︑この王氏が全くの寒門であったことは明らかであろう︒その女がどのような理由で謝眺と翻したかは明らかでないが︑跳の母は宋文帝の女︑長城公主であり︑眺の子誤の妻は梁武帝
の女︑永世公主であることをみれば︑彼が全くの寒地の王敬則の女
と齢したのは︑一見奇異の感なきを得ない︒しかし︑南史︵/9︶謝胱
伝によれば︑﹁眺及画素与梁武野曝文章相得︒築三大女永興公主出
癖子釣︒第二女永世公主適眺子誤︒並暫随母向州︒及武帝即位︒二
主始随内密︒武帝海里謹︒又以足労欲更適張弘男子︒暗号︒又以与
王志印影︒﹂とある如く︑梁の武帝はこの家を門単としてとり扱
い︑苑陽の張弘策及び解職王志の家よりも︸段と下にみているの
は︑謝氏に属するとはいえ︑他の門流ほど︑この一家が栄えていな
かったことを示すものであろう︒従って︑尊敬則が当時の権門であ
ったことをみれば︑或はこの婚姻はそれほど不自然ではなかったか
も知れぬ︒それを明らかにする為に︑次の南陽張氏の例をみよう︒
謝才卿の妻は南陽張敬承の女であった︵南史/9謝霊運伝超宗の条︶︒
中中児は初め武将として宋朝に仕え︑早くから斉の太祖と親しみ︑
斉初には散騎常侍︑車冬将軍に至った︵南斉書25張敬児伝︶︒彼は一
生を武将として過した人物で︑ ﹁敬児武将︒不習朝儀︒﹂ ︵同上︶
とか︑ ﹁敬児始不識書︒晩既為方伯︒乃習学︒ ︵同上︶﹂などとみ
える如くであった︒
一方塗筆卿は超宗の子である︒超宗の祖は霊運で︑宋文帝によっ
て霊運が諌せられてより︑謝々に属するとはいえ︑この一家は不遇
の中にあったようである︒従って超宗は︑才能があった割には用い
られることなく︑その為か︑世にすねるところもあったようである
︵南岳19謝霊運伝超宗の条︶︒張氏との婚姻の前後の記事に︑ ﹁世祖
即位︒使︵超宗︶掌国史︒除寛陵王諮議参軍︒領記室︒愈不得志︒
昌運丁張敬児女為子婦︒土塁疑之︒永明元年敬児諌︒超宗聖霊陽ヂ 一六
型安民日︒往年三韓信︒今年殺彰越︒サ欲何計︒安民具啓之︒﹂
︵南延期56謝超宗伝︶とみえている︒不遇の状態にあった超宗が︑武
人として当時世祖の疑うところとなっていた張敬児と婚を結んだの
であるから︑世祖がその閥に何か反逆の計がないかと疑ったのは当
然かも知れぬ︒永明元年︑垣崇祖につづいて裏層児が株され︑超宗
は︑姫鱒則と共に敬児を陥れた李安民に︑その怨をぶちまけたので
あろう︒このようにみれば︑洪図に属するにかかわらず︑当時の権
勢ある門閥からは寒熱と軽んぜられた如き︵南冥19謝超紀伝︶︑その
不遇の故に︑寧ろ寒門であっても︑実力をもつ張氏と片するに如か
ずと考えての通史ではなかったろうか︒謝眺の場合もそれに似たも
のであったのであろうか︒ このような例は︑単に身魂のみではなかったらしい︒例えば前引
瑛邪王氏と童謡との婚もそれに近いものではなかろうか︒これは瑛
邪王土と黒氏との婚であるが︵南史24節士之︶︑何れの量氏か明らか
でない︒仮りにこれが梁代の雲門たる京直壁叡の一門に属したとし
ても︑更に親玉が冬営帝の股肱の臣であり︑叡の子放は完全に中央
官僚となっていたとしても︑一般的にいって瑛邪王氏に比すれば︑
一段おちる家柄であったことはいうまでもない︒一方王清も准之の
曾孫であるが︑この一家も祖父情調以降顕れることなく︑父進之も
梁武帝の挙兵に応ぜず︑狼邪王氏の中では最も不遇の門流であっ
た︒恐らくはこのことが︑当時の権門たる章氏︵王清の妻を京兆章
氏と考えて︶との婚を可能としたのであろう︒それは宛も送還の場
合と変りないのであろう︒ さて︑外にこれらに類した例を︑上述諸氏以外から︑一つだけ示
しておけば︑書影真の子と葡昭光の女との婚がそうであったであろ
う︒いま︑南史︵36︶江夷講敦の条によるに︑ ﹁先是︑中書舎人紀
僧真幸於︵斉︶武帝︒梢歴軍勢︒土壁有士風︒謂帝日︒臣小人出自