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「マイニンゲン宮廷劇場とマイニンゲン演劇博物館」

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【講演会報告】マイニンゲン博物館館長 フオルカ一・ケルン氏

「マイニンゲン宮廷劇場とマイニンゲン演劇博物館」

早稲田大学演劇博物館との交流覚書を結ぶために来日していたドイツ・マイニンゲン演劇博物館館長フオル

∴l

カ一・ケルン氏を招き、 2002年1 2月5日および同6日、二回にわたる講演会が行われた。

マイニンゲン演劇博物館は、マイニンゲン劇団の本拠地であったテユーリンゲン地方マイニンゲン市(旧東 ドイツの西南端)にあり、同劇団の上演資料とともに、今日までのマイニンゲン市における演劇上演資料を所 蔵・展示する演劇専門の博物館である。

マイニンゲン劇団は、 19世紀後半のドイツで、時代考証など実証的・写実画的舞台美術(舞台装置・衣装・

メイク)によって新しいリアルさを求め、またスター俳優中心の演劇を脱却し、アンサンブル重視など演出家 がすべてを統括して統一した舞台づくりを行うという近代演出システムの噂矢として知られる。さらにザクセ ン‑マイニンゲン公国の領主が演出家であったという特異な要素に加え、欧州全域での引っ越し公演により、

次代の演劇に多大な影響をもたらしたことで演劇史に名を残す存在である。

今回、東西ドイツの統合以前からその館長をつとめ、また演劇研究者としてマイニンゲン劇団の専門家でも あるケルン氏から、マイニンゲン劇団の歴史と功績について、またこれまで国内では詳細な紹介がされること がほとんどなかったマイニンゲン演劇博物館の所蔵資料や活動について、貴重なお話をうかがった。博士課程 の大学院生をはじめとする若き研究者はもとより多くの研究者にとっても極めて意義深い時間になったと思わ れる。簡単ではあるが、それぞれの講演概要を報告したい。(2)

*  *

■第1回講演「マイニンゲン宮廷劇場ヨーロッパを行く 演劇改革とシェイクスピア」

(12月5日(木) 於:早稲田大学文学部(戸山キャンパス) 32号館324教室)

1831年12月17日、マイニンゲンに新しい劇場が建てられた。当時、まだそこに常駐する劇団はなく、旅回り の劇団による上演が行われるだけであったが、それ以前には宮廷の素人劇団が町のレストランなどでわずかな がらの公演を行っていたのだから、この新しい劇場の誕生は大きな飛躍であった。この劇場を作ったゲオルク 一世の孫こそが、われらがザクセン‑マイニンゲン公ゲオルク二世(1826‑1914)である。若き日のゲオルク は、ボン大学およびライプチヒ大学で法学、歴史学のほか、美術史や絵画を学ぶ。絵画の才能は、後に演出家 として多くのスケッチを残すことになるが、彼がシェイクスピアと出会ったのもこの場所であった。 1850年に プロシア王女シャルロッテと最初の結婚をするが、彼女はイギリス・ヴィクトリア女王の姪にあたり、おそら

くその縁でもあって、彼は何度かロンドンを訪れたという。そんな未来の大演出家は父ベルンハルト二世から 演劇に関わることを禁止されてしまう。とはいえ、当の父親も劇作に手を染めたというのだから、代々演劇熟 に冒されていたとも言えるだろう。

1866年9月、普喚戦争勃発によりベルンハルト二世が退位を余儀なくされ、ゲオルク二世が誕生する。それ は彼が演劇の実権を手中におさめた時でもあった。すでにその二年前にシェイクスピア協会創立を果たしてい たゲオルク二世は、爵位を継ぐとすぐにシェイクスピアへの取り組みを開始する。すなわち、それまでのオペ

ストレートプレイ

ラ・カンパニーを解散するとともに、オペラではなく演劇、それも彼の求める演劇を上演するために、詩人で ありシェイクスピアの翻訳者でもあったボーデンシュテツトを劇場のトップに据え、その下に俳優たちそして スタッフたちの新たなアンサンブルを形成しようというのである。早くも最初のシーズン1867‑68)にはシ

ェイクスピア・フェスティバルを開催する。シェイクスピア作品9演目をほぼ日替わりで19ステージの公演と

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いう、当時の小さな劇場ではめずらしいやり方だった。その後、ゲオルク二世は自ら演出家として手腕を振る い、シェイクスピアのほかシラーやクライストなどの作品を手がけていった。 70年代には未だ高いレベルの俳 優は育っていなかったものの、それでもこの頃にはドイツでも有数の劇団に成長していたという。

そして1874年、その後17年81回におよぶ欧州引っ越し公演がはじまる。欧州38都市、 2591ステージ、延べ 200万人以上にのぼる観客を動員した.その中には1888年のブリュッセル公演に自由劇場のアントワ‑ヌが、

1890年のモスクワ公演にはスタニスラフスキイとダンテェンコが含まれている。公演の演目はシェイクスピア、

シラー、クライスト、モリエールなど前時代までの作品が80%を占め、それに加えてイプセンやビヨルンソン などが上演されている。こうした広範囲かつ大がかりな巡業が可能であったのも、鉄道の発達が寄与するとこ ろが大きい。また、かの有名な(群衆)であるが、これは現地調達のエキストラで賄われ、現地で指導が行わ れたという。ゲオルク二世自身はマイニンゲンを離れることはなかったが(つまりは公務に努めていたという ことか)、テレグラムによって巡業先との連絡が取られていたという。まさしく、欧州各地‑の影響力は、産 業革命以降の技術革新によって可能になったわけである。

一方、マイニンゲン様式と呼ばれた演出の特徴のひとつは、歴史資料を駆使した舞台装置や衣装、メイクで ある。それまでの役者たちはそれぞれが独立した職人とも言える。段取りと台詞さえ与えられれば、あとは 個々の役者たちの技の見せ所である。それに対しマイニンゲン劇団では、作品の舞台となっている時や場所を 詳細に調べ、彫像や文献資料をもとに衣装を再現し、博物館の所蔵品、あるいはレプリカを作らせて小道具に 使い、歴史劇であれば実在の人物に外見上も似せるなどメイクにもこだわり、俳優たちは長い時間をかけて役

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になりきる。こうした試みはマイニンゲン公が初めてではないが、演出家ゲオルク二世のコントロールのもと に、長い稽古時間を費やして作品世界の時代背景・状況・意味を探求、それによって統一的な作品の一部とし ての衣装や舞台美術を極めていくという方法は、やはり極めて近代的な方法だと言えよう。今日言うところの

「演出家」の噂矢とされるマイニンゲン公であったが、この時代は未だスターシステムの時代であった。それ は俳優芸の時代から、抜きんでた俳優を擁さないアンサンブルの時代へ、スターが芝居の流れを作る舞台から 演出家がすべてをコントロールする舞台への移行期でもあった。一国の領主は、演劇の世界においてもすべて

を牛耳る王‑演出家となったのである。

もうひとつ、ゲオルク二世の妻がもと女優であった点もよく知られている。二度までも妻と死別したゲオル クは1873年3月、女優エレン・フランツを三人目の妻として迎える。彼女はコープルク、マンハイムなどを経 て、 1867年、マイニンゲンの舞台に登場する。その活躍ぶりは、その時代のドイツでは異例の男優と同じ報酬 を得ていたことからもわかる。女優が王や貴族の愛人となることはそれまでにも珍しいことではなく、むしろ ありふれたことであったが、正式な后となれば話は別である。革命前のフランス貴族なら、気がふれたとして 牢獄入りになったであろうから、時代も場所もちがうとはいえ、やはり大変なことだったと思われる。事実、

公爵主催の晩餐会に后として出席することはかなわなかったという。大女優であったにもかかわらず、后とな って二度と舞台には立たなかったというから、演出家としては惜しくはなかったのかとも思わないでもないが、

文芸主任の役割を担い、若手俳優の育成にかかわるなど、やはりその貢献度は高かったようだ。

こうした細部に関しては、全く知り得なかったことであり、個人的にいくつかの疑問点も解決され幸いであ った。またマイニンゲン劇団のシェイクスピア上演については、ロンドン公演の本国イギリスでの波及、そし て欧州大陸全体のシェイクスピア上演史という観点からも、興味深いものであった。

*  *

■第2回講演「マイニンゲン博物館の現状とその展示」

(12月6日(金) 於:早稲田大学6号館(本部キャンパス) 318教室(レクチャールーム))

マイニンゲン演劇博物館は、旧東ドイツの西南端、現ドイツでいえばその心臓部にあたるテユーリンゲン地 方に位置するマイニンゲン市にある。かつてのザクセン‑マイニンゲン公国の首都マイニンゲン市は、今日で

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は人口わずか2万3000人のドイツでも最も小さな都市の一つであるが、 3劇場4部門(オペラ、バレエ、演劇、

人形劃)を有し、こららの劇場を中心にさまざまな文化プログラムが開催される「劇場の町」でもある。これ は公国以来の伝統という。町の中心には、公国の居城としてかつて宮廷祝祭や舞踏会で賑わったエリザベ‑チ ンプルク城(17世紀後半に建てられた後期バロック様式)があり、これがマイニンゲン演劇博物館のあるマイ ニンゲン博物館の中心施設となっている。

マイニンゲン演劇博物館は、複数の博物館の総合体であるマイニンゲン博物館の一つである。マイニンゲン 博物館は、演劇のほか、絵画、音楽、郷土史、文学の5部門にわかれており、テユーリンゲン州 80%)、マ

イニンゲン郡10% 、マイニンゲン市(10% が出資する財団によって運営されている。

演劇博物館そのものは1926年に創設された。当初、マイニンゲン劇場のメモリアル・ホールの中に置かれた が、 1936年にマイニンゲン博物館がエリザベ‑テンプルク城に創設されると、演劇博物館もここに移された。

現在の演劇博物館の建物は、エリザベ‑テンプルクに隣接するかつての宮廷乗馬ホール(ライトハレ)を再建 したのもので(2000年5月にリニューアル・オープン)、このため現在ではマイニンゲン博物館ライトハレ演 劇博物館(¶leatermuseum der MeiningerMuseen in der ehemaligen Reithalle)と称している。マイニンゲン博 物館の所蔵する演劇資料はこのライトハレを中心に展示されているが、演劇博物館館長は、マイニンゲン博物 館所蔵の演劇資料全体を総括管理する演劇部門の長でもある。

演劇博物館の所蔵資料は数十万点におよぶが、その主たるコレクションはもちろんマイニンゲン劇団の上演 資料である。そのほか、 19世紀の舞台効果音の機材や1950年代以降のポスター、 1950‑60年代の照明制御盤な

どをはじめ、マイニンゲン劇場など今日のマイニンゲン市の演劇資料(オペラを含む)全般を収集・保存・公 開している。

演劇資料はエリザベ‑テンプルク城にも展示されており、またゲオルク二世の居室など、城そのものが資料 と言ってもよい。しかし、中心的、特徴的な展示空間といえばライトハレであろう。このライトハレは、そも そも17世紀半ばに宮廷の厩舎として建てられた。その後、他の厩舎が取り壊される中、ここだけが乗馬練習場 (乗馬ホール)として残された。戦禍をまぬがれたライトハレは、戦後、スポーツホールとして、ついでスー パーマーケットとして転用された後、演劇専用の博物館として改築(1998‑99年)、 2000年5月にオープンし たことは前述の通りである。

ここにはマイニンゲン劇団の資料として、当時使用された舞台装置をはじめ、ゲオルク二世直筆の衣装デザ イン画1500点以上)や演出ノートまでさまざまなものが残されているが、特筆すべきは、ドロップや書き割

り、さまざまな置き道具などが、ある作品、ある場面に使用した装置一式という形で残っている点であり、舞

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台装置275セット、完全な形でのドロップ7セットを数える。これらは漸次修復され、ライトハレで上演当時 の形で再現展示され七いるoなかでもシェイクスピア作品の上演資料が有名で、 『夏の夜の夢』、 『ハムレット』

など、ヨーロッパ各地で衝撃を与えた舞台の姿を今日なお知ることができる貴重な資料である。他にシラーの

『群盗』や『ヴァレンシュタインの陣営』をはじめ、クライスト、イプセン、ビョルンソンなどの上演につい ても同様の資料がある。またゲオルク二世のデザイン画などをもとに多くの舞台衣装が復元展示されているが、

これらは1996年、実際の上演に使用されたものである。

ドイツにはマイニンゲン演劇博物館以外にもミュンヘンやケルン、ハノーヴァ一、デュッセルドルフ、ベル リンなどに演劇資料を持つ博物館が存在し、またいずれの都市にも古文書館があり、そこには演劇関連の文書 が保管されている。しかし、それらの多くが常設展示を行っていない中で、マイニンゲン演劇博物館は、常設 の、しかも当時の舞台を再現して展示するという大がかりな展示を実現させている特別な博物館といえるだろ う。

そもそも舞台装置や衣装といったものは、上演機会が失われれば破棄されてしまうことが一般的である。と りわけマイニンゲンの舞台装置はそれ以前に比べて大がかりなものであり、保管するだけでも困難であったろ う。さらに長年の上演や多くの巡演を経た後では傷みも激しく、維持・保存することは一層むずかしくなる。

また上演資料を保存するという発想そのものが古くからあるわけではない。こうした状況に加え、政治的、社

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会的困難を乗り越えて、散逸することなく引き継がれてきたその所蔵資料は、稀有な存在といえるだろう。ま た近年の演劇研究においては、上演資料(一次資料)の参照は不可欠になっており、その意味でもマイニンゲ ン演劇博物館は貴重な存在といえる。今回の講演を通じて、マイニンゲン演劇博物館の事例を知るとともに、

今日いっそう重要視されてきた上演資料全般へのより高い関心を高められたのではないかと思われる。

*  *

マイニンゲンで多くの講演会をこなすケルン氏は、厚さ15センチはあろう講演資料を携えて来日された。し かしそれらはすっかり彼の頭の中におさまっており、その時々の聴衆やテーマ、時間にあわせて、いかように も応じるための忘備録にすぎないようだった。実際、話の後半にはフロアからの要望や質問に沿って話題は絞 られていった。そのために、持参されたスライドやビデオのうち見られずに終わったものも少なくなかった。

おそらくは時間さえあれば、あれもこれも見せたいものであったであろうし、それにまつわる話も尽きなかっ たであろう。その点は残念である。

マイこンゲン劇団の演劇史的意義やおおまかな活動、少なくともその名については、西洋演劇の研究者であ れば既知のものと言えようが、専門とする時代や地域によっては殆ど参照されないこともあり、日本で出版さ れている西洋演劇史のすべてに記述されているものでもない。また前述した通り、マイニンゲン市が旧東ドイ ツに位置していたこともあって、直接マイニンゲンを訪れた研究者は多いとはいえないようである。そうした 中、実際に何が行われていたのか、それをうかがい知ることのできる、その豊かな資料に幾分かでも触れられ たことは、聴衆にとって実り多い時間であったと思われる。と同時に、上演資料を有する演劇博物館が持つ多 くの可能性を改めて感じた次第である。

注(1)この講演会は、ギュンタ一・ツオーベル教授を筆頭とする研究プロジェクト「ヨーロッパの演劇博物館と日本演 劇関係所蔵資料」を中心にすすめられた。このプロジェクトは、 COEプロジェクトの一つとして、学術フロン ティアでの研究グループ「世界の演劇博物館 調査・研究・交流プロジェクト」の活動を部分的に引き継き、発 展させたものである。

(2)本稿作成にあたっては、当日の講演をもとに、 "The Magic World of Scenery", Theatre Museum of the Meiningen Museums in the former equestrian hall, Museums of Meiningen, The Castle Elisabethenburgほかマイニンゲン博物 館各パンフレット、 『マイニンゲン宮廷劇団と演劇博物館』 (世界の演劇博物館調査・研究・交流プロジェクト 編、 2003. 2 ) 、 Dictionnaire encyclopedique du theatre, ed. par Michel Corvin, Bordas, Paris, 1995、山内登美雄「演 劇と絵画の交差‑ゲオルク二世の演出‑」 (明治大学人文科学研究所叢書『ヨーロッパ演劇の変貌』白鳳社、

1994)を参照した。

(3)ドイツ演劇を専門としないことを言い訳にフランスを例にとらせてもらえば、 18世紀半ば以降、とりわけ衣装改 革では同様の試みがある。当初は一部の舞踊手や俳優の個人的な取り組みであったが、革命期から19世紀前半に 活躍したタルマの改革はより広範囲なものとなり、マイニンゲンとほほ同様の試みだったと言えるだろう。ただ

しタルマは時代考証などの実証性や全体の統一感への配慮に努力したが、彼自身はスター俳優であり、近代的演 出とは区別される。

(4)予算上の理由で、修復はゆっくりとしか進められず、多くの資料が修復を待っているのが現状である。

(文責:八木雅子)

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