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シェイクスピア劇の宮廷道化 : 「無」 の表象と近 代主体

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シェイクスピア劇の宮廷道化 : 「無」 の表象と近 代主体

著者 石塚 倫子

雑誌名 東京家政大学研究紀要 1 人文社会科学

巻 44

ページ 181‑189

発行年 2004

出版者 東京家政大学

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009150/

(2)

シェイクスピア劇の宮廷道化 「無」の表象と近代主体

  石塚 倫子

(平成15年10月2日受理)

The Court Fools in Shakespeare s Plays:The Representation        of the Modern Subject as Nothing

 IsHlzuKA, Noriko

(Received on October 2,2003)

キーワード:シェイクスピア、宮廷道化、主体、ラカン Key words:shakespeare, court fool, subject, lacan

1.はじめに

 シェイクスピア劇における宮廷道化(court fool)は 劇の根幹にかかわる重要な役割を果たしていることはし ばしば指摘されてきた.もともと宮廷道化は中世以来,

王侯貴族の館に仕える実在のおどけ者である.かれらは 階級としては最も蔑まれる周縁的地位にありながら,権 力者の身近に侍り,中心内部に入り込むことを許された 特殊な身分の者であった.その役割は,第一に主人を笑 わせたり,駄洒落や言葉遊びなどの他愛ない会話の話し 相手となったり,楽器や歌で楽しませることであった.

そのため,道化には笑いの対象となる生まれっきの愚者

(natural foo1)もいたが,ここで特に注目したいのは もうひとっのタイプの道化,っまり愚者を装いながら極 めて鋭い洞察で人々を椰楡し笑わせる知恵者の道化

(wise fool)である.この賢い道化は,余興的な笑いの 提供に加え,時には権力の座にある主人の愚をも映し出 してしまう両義的な機能を果たしていた.そしてこれこ そがシェイクスピアが劇世界に最大限に道化を活用した 所以でもあろう.

 しかし,シェイクスピア劇の中でも宮廷道化が活躍す るのはいわゆる円熟期の喜劇が中心で,悲劇の時代に入 ると『リア王』(King Leαr,1605)1)の朦1」前半で重要な 役割を果たすフール(Foo1)は途中でなぜか忽然と姿を 消し,その後二度とシェイクスピア劇に登場することは ない.現実社会では,その後チャールズ1世(1600−49)

の宮廷でも道化が扶養されていた記録があるが,シェイ クスピアの舞台以降,宮廷道化本来の生命は急速な終焉 を迎える2).世紀末を境にチューダー朝,スチュアー ト朝初期のイギリスは,政治,経済,社会,宗教,文化 あらゆる方面において,大きく変貌を遂げようとしてい た.こうした状況で初期近代の人間の主体自体も当然,

新たな様相を見せ始める.道化の最後の光彩と消滅はこ の近代主体の構築と深い関係があるといえるのではない

か.

 ここでは,シェイクスピア劇の中で道化がどのような 機能を果たしているか,もう一度中世の伝統をも再考し ながら見直し,喜劇,悲劇を経て,やがて劇中から完全 に消え失せてしまう道化の表象するものを,初期近代の 個の主体の形成との関わりで眺めて見たい.

英語英文学科 英文学研究室

皿.宮廷道化の伝統

 具体的に作品を眺める前に,実際にヨーロッパの上流 社会で多数存在していた宮廷道化がいかなるものなのか 概観しておこう.お抱え道化の起源は古くは古代エジプ トの宮廷に遡ると指摘されている3).インドの王やロー マ皇帝の館でも道化は扶養されていたが,かれらは独自 の神秘性を持ち,祭儀などで魔よけの機能を果たし,時 に王の代わりに愚弄される祭りのスケープゴートとして の役目も果たしたと言われているの.王と道化の密接 な関係の流れは,『リア王』を見ても明らかであるが,

道化には卑しさ,醜さとともに王に酷似した神聖さをも っ両義性があったことは事実であろう5).

 イギリスでも,薔薇戦争の終結後,宮廷生活に余裕が

(3)

石塚 倫子

できると道化を所有する王室や貴族の数も増えたと言わ れ,実際に宮廷の支出簿に道化手当ての支払い記録が残 されている6).たとえば,ヘンリー8世の道化ウィル・

サマーズ(Will Summers,?−1560)は王から特別の 寵愛を受けていたことは有名である.気性の激しいヘン リーも,気の塞ぐときはサマーズと言葉遊びに興じて大 いに楽しんだと言われ,王のそばで宮廷内のすべてを知 り尽くした道化は,孤独な晩年のヘンリーの最も近い理 解者でもあった7).また同時代の人文主義者トマス・

モア(Thomas More,1478−1535)に仕えたヘンリー・

パタンソン(Henry Patenson)は,主人の食卓に決まっ た席を与えられ,家族のような扱いを受けていた8).ス コットランドでも,フランス文化を持ち帰った女王スチュ アート・メアリ(Stuart Mary,1542−87)には女性の道 化が仕えていたといわれている.このほか,記録や名前 は残されていないものの,絵画や木版画に当時の道化の 姿が描かれているものも多数見出されている.

 こうした道化の仕事は,すでに触れたように機知に富 んだ言葉で雇い主に笑いを提供し,饗宴やくっろぎの時 間には楽器演奏や歌を披露し,時にはグロテスクな容姿

(道化は碕形であることも多かった)を晒すことで人間 としてより,主人の愛玩物のような役割を果たす場合も あった.すなわち,全面的な扶養を受ける一方で法的に は何の権利も保護もない社会から浮遊した道化は,主人 の所有物に過ぎなかったのである.しかし,それゆえ道 化には奇妙な自由があった.まだら服におどけた頭巾,

性的な意味も持っ道化杖というお決まりの外見に包まれ て,道化自身は「無」となり自らを消すことで,誰にも 束縛されずに社会現範の境界を行き来して,万人を映す 鏡となって自己の中に人々の愚を照らし出すことができ たのである.

 ルネッサンス期に入り,道化的精神はエラスムス

(Desiderius Erasmus,?1466−1536)という貴重な人文 学者を通して脚光を浴びることとなる.かれの著書『痴 愚神礼賛』(Moriae encomium,1511;英訳 The 1)rαise

()f Folie,1549)は,愚が愚を笑うという合わせ鏡の世 界を提示し,「愚」と「賢」を転換可能なものとして捉 える視点を提示している.エラスムスはイギリスの人文 学者モアとの親交も深く,かれらの知的サークルで人間 全般の愚かさを諭す道化の意義は当然,話題の中心となっ たはずである.シェイクスピアはこのような背景で,よ うやく商業演劇が軌道に乗り始めた16世紀末,時を得て

ロンドンに出る.道化を舞台に利用するのも当然の成り 行きであったと言えよう.

 シェイクスピアがさらに幸運だったのは,こうした道 化独特の性格を心得た上で劇的可能性を存分に広げてく れた天才道化役者ロバート・アーミン(Robert Armin,

c1568−1615)の存在であった.アーミンはシェイクスピ アの劇団でnatural fool系の道化役者ウィル・ケンプ

(Will Kemp,1585−1603)のあとを継ぎ,歌や踊りもこ なす,きわあて洗練された知的な宮廷道化として注目を 浴びていたと思われる.アーミンは彼でなければ出来な いタッチストーン(Touchstone),フェステ(Feste),

フールの役をこなし,またのちに自らも道化論を出版し,

『愚者の巣』(The〈Nest()f Ninnies,1609)の中で宮廷道 化という職に関する実体と知識を後世に残している9),

シェイクスピアが上演にあたってアーミンから得たもの ぼ計り知れないものだったことは容易に想像できる.

皿.変幻自在のパックー欲望の主体

 宮廷道化が最も活躍するシェイクスピアの喜劇では,

かれらはテーマに密接する重要なキー・パーソンとなっ ている.『夏の夜の夢』(AMidsummer Night s Dreαm,

1595)のパック(Puck),『お気に召すまま』(As You Lihe lt,1599−1600)のタッチストーン,『十二夜』(The TLvelfth Night,1600−02)のフェステは,喜劇に欠か せない笑いと幸福の演出家であると同時に,登場人物の 愚かしさを面白可笑しく人々に示し,また日常世界の価 値を相対化させ,一度秩序をひっくり返したあと再編成 することで,世界を浄化する調整役を担っている.その 意味で,道化は日常の硬化・停滞した生活に発想の転換 と笑いを提供し,秩序を維持するための重要なガス抜き の役割を担っているのである.

 さて,アーミンの登場以前の喜劇ではあるが,『夏の 夜の夢』のパックは妖精の王オベロン(Oberon)に仕え る道化であると自らが語る点でも( Ijest to Oberon and make him smile 2.1.44)10),宮廷道化の範疇に 入れることができよう.もっともパックには宮廷道化以 外のいくっかのルーツがある.パックの別名ロビン・グッ ドフェロー(Robin Goodfellow)はもともといたずら 好きの悪党のことで,中世以来の伝説では悪魔や道徳劇 のヴァイス(Vice)とも結びっけられている11).また,

パックはギリシャ神話に由来するとか,イギリス・ルネッ

サンス期に流行った妖精物語やパジェントの産物である

(4)

とか,土着の民話から来た伝説的人物である,などのい くっかの説がある12).いずれにせよ,パックは悪党,

いたずら者という点では共通しているが,シェイクスピ ア劇の中でもトリックスター的色彩が強い道化である.

パック自身が述べているように,彼はあらゆるものに化 けることができ,変幻自在の仮面を幾っも持っている.

1 11follow you,1 ll lead you about a round,

Through bog, through bush, through brake,

 through brier:

Sometime a horse I ll be, sometime a hound,

Ahog, a headless bear, sometime a fire,

And neigh, and hark, and grunt, and roar, and  burn,

Like horse, hound, hog, bear, fire, at every turn.

       (3.1.106−111)

 しかし,ここで注目すべきことは,すべての仮面は演 技であってパック自身の固定された自己は無いというこ

とである.シニフィアンの連鎖で構築されたパックの主 体の中身は空であり,それは人間の主体内部を表象する かのようである.そして,パックは宮廷世界で生きる人 間たちの闇の部分に揺さぶりをかけ,かれらの奥底に眠 る欲望を刺激する.アテネの森にさまよう恋人達は,暗 やみの中でパックの魔法の汁や演技による声に惑わされ,

欲望を呼び覚まされ,それとは気づかずに対象を取り換 えていくのだ.

 J.ラカン(Jacques Lacan)によると,欲望とは象徴 界に生きる人間が失ってしまった始原の何かを求めて生 まれるものであるという.子供は成長するに従い,秩序 社会の中で人間として生きていくたあに,言葉という記 号を得て母子一体の世界である現実界を抑圧する.同時 に,母の欲望の対象であることを諦あ,永遠に欠けた存 在として欲望の対象を記号で代償させながら,可能性の うちに主体の欠如を埋めようとする.これがラカンの言 う「去勢」のプロセスといいかえることも出来よう13).

仮面をとりかえ,恋人達の声音をまね,かれらを闇の世 界の混沌に引き込むパックは,自らが欲望の対象「a」

となり,さまざまなシニフィアンを提示しながら,それ を求めて狂ったようにさまよう若者たちを通して,実体 のない象徴界を椰楡しているように見える.パックは昼 のアテネの世界という象徴界から,恋人たちを夜の闇の

森という欲望のうずまく現実界へと彼らを引きこむ役を 演じている点で,秩序の裂け目,あるいはジジェク流に 言えば象徴界の「染み」を示すような存在である14).

 この混とんの世界でパックはもうひとっのいたずらを する.妖精の女王タイテーニア(Titania)はパックの魔 法とほれ薬のお蔭で,騙馬に変身したボトム(Bottom)

に恋してしまうのだ15).騙馬という記号を帯びたボト ムは,タイテーニアにとってのファルスとなり,かれに 激しく欲望されたいと望むことで,タイテーニアもまた,

自分の中の欠如を埋めようとするのである.

 しかし,パックは後半,混乱した恋のベクトルを丸く収 まるように修正し,妖精夫妻の日常世界における分身と もいえるシーシュース(Theseus)とヒポリタ(Hippolyta)

の結婚に祝福を与える重要な役割を果たす.その意味で

『夏の夜の夢』の道化パックは,主体の渾沌から秩序へ というプロセスを通して,恋と結婚に伴う不吉な要素や 過剰なエネルギーを負から正へと転換する,いわば古来 の宮廷道化の魔よけ,および豊穣の使者としての役目を 果たしているともいえよう.

IV.タッチストーンと言葉

    一シニフィアンの連鎖と「無」

 アーミンが登場して,いよいよ道化の本領を発揮する

『お気に召すまま』のタッチストーンは,「言葉」を巧み に操り,人々と問答するうちに価値を転倒させ,慣習や 身分,社会的な枠組みに捕らわれている人々の主体を解 体してみせる.たとえばタッチストーンと森の羊飼コリ

ン(Corin)の問答では,パストラルにはお決まりの都 会と自然の対立テーマはどっちがいいのか悪いのか,結 局のところからなくなってしまう.

Cor. And how like you this shepherd°s life,

Master Touchstone?

Touch. Truly, shepherd, in respect of itself, it is

agood life;but in respect that it is a shepherd s

life, it is naught. In respect that it is solitary,

Ilike it very well;but in respect that it is pri−

vate, it is a very vild life. Now in respect it is

in the fields, it pleaseth me well;but in respect

it is not in the court, it is tedious. As it is a

spare life(look you)it fits my humor well;but

as there is no more plenty in it, it goes much

(5)

石塚倫子

against my stomach. Hast any philosophy in

thee, shepherd?  (3.2。11−22)

タッチストーンは田舎の生活を散々馬鹿にしながら,い っの間にか都会をも嘲るのだが,宮廷という中心にいな がら,その醜さをっぶさに眺めてきた道化はどちらの世 界にもクールな距離をおいていることがわかる,

 同様に,最後の幕での街学的な法律用語の羅列におい ては,タッチストーンは言葉自体を無意味な記号に還元

してしまう.

Osir, we quarrel in print, by the book 一 as you have books for good manners. I will name you the degrees. The first, the Retort Courteous;the second, the Quip Modest;the third, the Reply Churlish;the fourth, the Reproof Valiant;the fift, the Countercheck Quarrelsome;the sixt, the Lie with Circumstance;the seventh, the Lie Direct. All these you may avoid but the Lie Direct;and you may avoid that too, with an If.

Iknew when seven justices could not take up a quarre1, but when the parties were met them−

selves, one of them thought but of an If, as, If you said so, then I said so ; and they shook hands and swore brothers. Your If is the only peacemaker, much virtue in If.(5.4.90−103)

そこには,言葉の記号秩序によって成り立っ観念がいか に脆いものか,さらに言葉を基盤とする象徴秩序自体が 人間の主体をいかに遠ざけ空疎なものしてしまっている かが,笑いのうちに暗示されている.

 われわれの語る言語というシニフィアンにシニフィエ はどれだけ確実に伴っているのだろう.言語によってし か自己の思いは伝えられないにもかかわらず,言語は語 れば語るほど意味はずらされ,遠ざかってしまう.タッ チストーンは記号の中に主体を消失させてしまう結節点 のような存在,っまり「無」の地点を体現するようなと

らえどころのない人物として境界侵犯的な位置にいると いえよう.それは取りも直さず,われわれの主体の背負 う構造的な「無」にっながるかもしれない.タッチストー ンは中世の宮廷道化の言葉遊びのプロとしての伝統を継 承し,アーミンという天才的な道化役者のお陰で,舞台

上のみならず観客の中にも介在し,文字通り虚構と現実 の境界を侵犯するのみならず,直視することを禁じられ たわれわれの個の内部の空しさを透視するかのような危 うい視点を提供する.

 しかし,最後はタッチストーンは舞台という虚構と現 実の境界すれすれのところで踏みとどまり,劇世界の中 に平和的に戻っていく.道化は性別や年齢が不詳で社会 秩序の中に定義しにくい「ドーナツの穴」のような存在 であったはずだが16),タッチストーンは最後に自分も オードリー(Audrey)という田舎娘と結婚することに よって祝祭のメンバーに加わり,現実生活の一歩を踏み 出す一方,宮廷という秩序を強化再生させる役割を果し,

自らもその秩序に回収されてしまうのだ.道化はここで 主人公たちの幸福と平和な結末に水をさすようなことは

しない.

V.フェステー象徴界に戻れない「撫」

 『お気に召すまま』の少し後,ほとんど『ハムレット』

(Hamlet,1600)と前後してシェイクスピアは祝祭喜劇 といわれるものの最後の作『十二夜』を創作している.

時は,17世紀を迎え,エリザベス女王の老齢による体力 の衰えははなはだしく,この世継ぎのない女王の次の継 承者を巡って巷では不安な空気が漂っていただろう.キ リスト誕生から数えて12日目,東方の三博士が訪れた日 を祝って,中世以来「十二夜」と呼ばれるこの日はどん ちゃん騒ぎの祝祭が催されるのが常であった,その名が 示すとおり,フェステはまさに祭りの中心人物を意図し て創造されたのかもしれない.しかし,同時に,この劇 に漂うそこはかとない死の影や悲哀は,まさにフェステ という謎の道化を通して表象されるのである.

 フェステもまた,タッチストーン以上に「言葉」を巧 みに操る道化である.オリヴィア(Olivia),サー・トー ビィ(Sir Toby),アンドリュー(Andrew),マルヴォー リオ(Malvolio)たちは,「阿呆」のフェステと語るうち に,いっの間にか自分が「阿呆」であることを証明され る.たとえば,有能な女主人オリヴィアとの対話を見て みよう.

αα Misprision in the highest degree!Lady,

Cucu伽8 non faci亡monαchum :that s as much

to say as I wear not motley in my brain. Good

madonna, give me leave to prove you a fool.

(6)

・乙

0・乙0 ヱ  ご  ご  ど OCOC Can you do it?

Dexteriously, good madonna,

Make your proof.

Imust catechize you for it, madonna。 Good my mouse of virtue, answer me.

α . Well, sir, for want of other idleness,1 ll bide your proof.

α・乙α乙α む ヱ 

ご  ヱ  ご σ0σ00

your brother s soul, being in heaven.

the fool, gentlemen.

Good madonna, why mourn st thou?

Good fool, for my brother°s death.

Ithink his soul is in hell, madonna.

Iknow his soul is in heaven, fool.

The more foo1, madonna, to mourn for        Take away

        (1.5. 55−72)

 いっまでも兄の喪に服して悲しみに浸っているセンチ メンタルなオリヴィアを,祭りの気分を損なう愚か者と してフェステはユーモアたっぷりに皮肉っている.フェ ステは同じく祭りを否定するマルヴォーリオのピューリ タン的な謹厳さも,トービィの年中酒びたりで極端な祭 り気分も,アンドリューの度を越した愚かさも,すべて 軽妙な言葉のやり取りの中で模倣し,相対化し,笑いも のにしてしまう.しまいにはサー・トーパス(Sir Topas)なる牧師に変装してマルヴォーリオを懲らしめ る主犯ともなる.祭りの中心にいるフェステはパックの ように魔法を使わずとも,言葉を武器に自由自在に自分 を変容させ,人々の鏡像の役割を果たすことができるの だか,一方,自分はない,っまり不在の体現者でもある.

 己の実像を見ようとしない人間の中で,ヴァイオラ

(Viola)だけがフェステが阿呆でないことを知っている

This fellow is wise enough to play the fool,

And to do that well craves a kind of wit.

He must observe their mood on whom he jests,

The quality of persons, and the time;

And like the haggard, check at every feather That comes before his eye. This is a practice As full of labor as a wise man s art;

For folly that he wisely shows is fit,

But wise men, folly−falrn, quite taint their wit.

      (3.1. 60−68)

そして道化同様,ヴァイオラは「自分は自分ではない」

( IamnotwhatIam. 3.2.141)こともわかってい るが,皮肉にも,男の服装という記号を帯びることで,

自らは欠けているにもかかわらず,欠如を埋めるシニフィ ァンーファルスーとして人々の欲望の対象となる.

この劇は,ほかのどの喜劇よりも人間のプライヴァシー の領域に深く入り込んだ劇であるが,フェステは両家の 間,人々のプライヴァシーとプライヴァシーの間,舞台 と客席の間,ひいては象徴界と現実界の間を往還して境 界侵犯し,自らはどこにも属さず,祝祭の仕掛け人であ りながら祝祭の輪の中からもすり抜け,劇世界の周縁に とどまっている.タッチストーン以上に,フェステは

「ドーナッの穴」,ラカンの描く円環(トーラス)の「空 白部」,すなわちわれわれがこの世界で生きていくため に逆説的に不可欠な,人間の主体の永遠に埋められない 欠如を,喜劇の道化の中でも際立って強く表象する人物

とも言えよう.

 まとめると,すでに述べたとおり喜劇における宮廷道 化は秩序の解体と再生をもたらす機能を果たしている.

道化はある意味で主体の欠如を外在化させ,主体をとり まく秩序に揺さぶりを掛ける役割を果たす.しかし,言 葉を自由に駆使し,王侯貴族の愚かさを暴いても,身分 の上で道化は最後は否認される.すなわち,制度の上で かれらは差異として雇い主の秩序の再生の仲介者となっ ている.

 しかし,喜劇の騎りが見えてきた『十二夜』では,秩 序の枠からはみ出してしまい,祝祭と虚構の世界に回収 しきれない道化の姿が見え隠れする.フェステが最後に ひとり舞台上で歌う歌は,世界がイリリア(lllyria)の 国ほど平和と幸福を約束されたものでないことを暗示す る.祭りが終われば宇宙は人間のことなど無関心に「毎 日,雨が降る」( For the rain it raineth every day 5.1.392)だけだ.のちにリアのフールとして甦るフェ ステは,絵空事の秩序の世界にはもう戻らない.同様に,

死の影と「無」の不安を自己の内底に抱えてしまった人 間は,もはや中世以来の厳然とした神には守られていな いのである.

VI.悲劇の中の宮廷道化一不在の主体の奥へ

 言うまでもなく,『リア王』のフールは悲劇における

宮廷道化の代表であるが,その前に『ハムレット』を一

種の道化の劇として考える必要があろう.『ハムレット』

(7)

石塚 倫子

では,墓堀のシーンでかっての宮廷道化ヨリック

(Yorick)の死が語られる.確かに,この劇ではすでに 道化そのものは死んでいる.しかし,かわりにハムレッ トほど,宮廷道化の役割を巧みに演じている主人公はい ない.父の復讐を決意してからのハムレットは,狂気を 装って道化さながらの性格を帯びている.道化ハムレッ トは言葉を巧みにすり替え,仮面を取り換えるように,

その場その場で豹変し,王子・息子・恋人・友人……ど のシニフィアンにも安住せず,自らが「無」となって,

他者の操る言葉の中でしか生きることができない窮屈な 宮廷内の人々を椰楡し,彼らの主体が本質的に空無であ

ることを暴き出す.ハムレットにとって,もはや言葉は 中身のない記号にすぎないのだ.

Pol. What do you read, my lord?

Hαm.Words, words, words。

Pol. What is the matter, my lord?

Hαm. Between who?  (3,2.191−94)

 しかし,ハムレット自身もまた,母との享楽の世界を 捨て,父と同一化するプロセスで,その存在を失って欠 けたものとして出発するという運命から逃れることはで きない.主体の「無」の代償として彼が手に入れるのは,

デンマークという王国の王子として歴史に名を残し,父 の復讐を果たして象徴秩序に回収されることであった.

 もっとも,この劇では回復する秩序は喜劇のようにすっ きりと強化されたものではない.我々の胸に残るのは,

父の名を継ぐ英雄ハムレットではなく,むしろ存在をか き消されてしまった主体の永遠に埋めることのできない 喪失感そのものを表象する,狂気と背中合わせのハムレッ

トの姿である.いいかえれば,公的な王子としての主体 ではなく,私的な領域でのハムレットの主体,それも限 りなく不安と焦燥と空しさで充満した不在としての主体 である.

 さて,ハムレットは一っの身体の中に道化を住まわせ ていた.一方,『リア王』ではフールは再び,リアお抱 えの宮廷道化として登場する.しかし,この道化はもは や劇中の登場人物としての実在感は極あて薄い.そもそ もこの劇自体,時代も人物も寓意めいていて現実性の希 薄な設定となっている.シェイクスピアはあえて中世道 徳劇のようなドラマトゥルギーを用いて,リアという人 間代表を,ヴァイスとそのルーッを共有する道化が,残

酷なまでに悪一ではなく,ここでは狂気一に誘う寓 意劇を描いたのだという指摘もある17).確かに,フー ルにヴァイスの分身像を重ねれば,劇の途中での不可思 議な退場の説明もっく.道徳劇ではヴァイスは主人公を 悪に堕落させた後,目的を果たすといっの間にか消えて しまうケースが多いからである.しかし,それだけで説 明のつくほど,この劇は単純なものではない.

 道化と王を酷似した分身とみなす人類学的アプローチ をはじめとして,シェイクスピア批評では「道化=リア」

の解釈はすでにしばしば言及されている.まさしく,フ ールはリアの鏡像としての機能を果しているのは事実だ ろう.フールはリアの内なる外であり,外なる内であ る.「わしが誰か言えるものは誰だ?」「リアの影法師だ よ」   Who is it that can tell me who I am? /

Lear s shadow. (1.4.220−21)一とは,リアが道化 であり,そしてその姿も影でしかない,っまり,みせか けの自己という想像的ヴェールの下に隠されたリアの

「無」をっきっけた台詞でもあるのだ.中身の無い主体,

しかもこの根源的な欠如をとりあえず埋めてくれる娘,

家来,財産,王国,愛,若さ,といった欲望の対象は,

すべてリアから失われてしまう.

 こうしてリアは正気から狂気の世界へ転落する.そし て理性から逸脱した言葉を語り,リアを囲む世界の秩序 を転倒させ,人々のおぞましい真実を道化となって語り 始める.しかし,道化が転倒して再生させる秩序はこの 劇世界には存在しない.われわれが喜劇の道化に同じよ うに「無」を見出しても,戻っていく「有」の自分があ るという安心感は常に失われていなかった,確かにコー デリア(Cordelia)とのっかの間の再会は,リアに希望 を与えた.かって遠い昔に記憶の彼方に抑圧した母子一 体の享楽の世界を彷彿とさせるように,リアは戻ってき たコーデリアの前では赤ん坊のように無力で素直になる

oray you now forget, and forgive, I am old and foolish. (4.7.84).生まれ変わったリアの変貌は さらに深化して,幸福が訪れるかのような兆しが見える.

しかし,シェイクスピアはこの幸福を長くは続けようと

はしない,母と一体になって過ごした本能の現実界に閉

じこもろうとするなら,狂気の世界に転落する以外道は

ない.それは主体の破滅,すなわち死を意味する.人間

とは,失われた楽園を希求しながら永遠に欠けたものと

して喪失という象徴的な負債を背負って生きる悲しい存

在なのである.っまり,人間は皆,根源に道化の「無」

(8)

を運命的に背負っているのである.

When we are born, we cry that we are come To this great stage of fools.  (4.6.182−83)

 そして,フールはこの後,舞台には登場しない.もは や,リアの中に道化は完全に内在化されてしまう.それ は空無を抱えて生きなければならない,近代以降の人間 の主体をまさしく先取りしているのだ,

W.まとめ

 道化の存在はある意味で,象徴界に参入することで不 在としての主体をひきうける人間の精神のありようを映 し出しているともいえる.喜劇の場合,道化のこの機能 は価値を転倒させ,人間を一旦,無に還元することによっ て再活性化させるスケープゴートの働きをしている.そ

して道化は皆を椰楡しながらも最終的には階層秩序の下 位に甘んじて祝祭の調和に参与し,伝統主義的秩序に包 摂され,その秩序を回復させることに一役買っている.

 しかし,フェステあたりから,道化は秩序に回収しき れなくなる.一方で,劇で扱われる領域は社会全体の混 乱や調和だけでなく,個々のプライヴァシー領域に重点 が置かれていく.バトリシア。ファマトン(Patricia Fumerton)は人間の主体の変化一自己の公的主体と 私的主体の間の極めて根本的断絶を経験するにいたって,

自らのうちに口を開けたヴォイド(空虚)を見ることに なった一の時期をジェイムズ王朝期だと指摘している.

これは,近代の個人主義的主体形成の時期であるとも言 えよう.ファマトンはこの主体の変化をヴォイドという,

口の中に入れた途端溶けてなくなるはかない砂糖菓子 の誕生と関連付けて説明している18),貴族は公的主体 とは別にプライヴァシーの世界を,自分たちだけで楽し む料理やそれを食するためのバンケット室と呼ばれる私 的な空間の中に見出すようになる.館の最上階にひっそ り構築されたこのバンケット室は,ごく限られた私的な 客を対象とする空間であり,17世紀初頭に次第に貴族の 邸宅様式として好まれるようになる.家とその内部が人 間の精神に対応すると考えるなら,この時期,家屋が外 から隔絶された個室や中庭を中心に建てられるようになっ たのは,プライヴァシーの重視と個人主義の興隆に一因 があろう.家族とは使用人・客人・居候すべてを受け入 れる中世の大家族ではなくなり,血のっながった小人数

の集団を意味するようになる.同時に家も個人空間とし て新たな建築形式を見せ始めたのだ19).

 変化は建物だけではなかった.絵画にも主体の変貌の 影響は現れ始める,ファマトンは,遠近法の直線を結ぶ 消失点の奥に,「無」しか見出せないことを指摘してい る20).世界を科学的に見たいという思いで,出来る限 り実物に近い遠近感を求めたこの技法は,その奥に「無」

あるいは「死」の一点で切り結ぶ荒涼として閉ざされた 空間を予感させるのである.それは今まで人間を支えて

きた有機的な秩序,あるいは神のヴィジョンの喪失と時 期を同じくすると言ってもよかろう.

 時代は中世に逆戻りは出来ない.すでに資本主義の萌 芽が見え隠れする初期近代のイギリスでは,「無」に等 しい紙切れが膨大な交換価値を持ち,やがて経済を動か す魔物に変身する時代を迎えっっあった.貨幣というシ ニフィアンは実体なくして一人歩きする.同様に,人間 の主体は記号のシステムの中に埋葬された空しい不在へ と変容し,かつて神の国へと連続していた個々の悠久の 時間と無関係に「毎日,雨降る」無情な時が刻々と刻ま れる.近代初期とは,人間が道化という外部の存在を設 けるまでもなく,主体自体の内部に道化を住まわせ,

「無」を抱えて生きていかねばならない悲劇を背負い始 めたスタート地点だったと言えるのかもしれない.

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 本稿は,1999年10月シェイクスピア学会(岩手大学)

で行われたセミナー「Fool再考」(司会:小町谷尚子・

メンバー:石塚倫子,小野俊太郎,河野洋子,丹羽佐紀)

での筆者担当の発表内容をもとに発展させたものである.

1)作品の創作年代については,すべて高橋康成・大場   建治・喜志哲雄・村上淑郎編『研究社シェイクスピ   ァ辞典』(研究社出版,2000年)に拠る.

2)ウェルズフォード,p.182.

3)ウェルズフォード,p,62.

4)ウェルズフォード,pp.61−78;ウィルフォード,

  pp.120−152参照.

5)この点は,フレイザーはじあ人類学的な考察が示唆   的であり,山口昌男の道化論も王の死と再生との密   接なっながりを指摘している,フレイザー『金枝論』,

  山口『道化の民俗学』参照,

6)ウェルズフォード,p.150.

7)Andrew Vogel Ettin, Will Summers, in Fools   αnd Jesters in Literature, Art,αnd History.

  P.409.

8)ウェルズフォード,p.154.

9)Dana E. Aspinall, Robert Armin, in Fools   αnd Jesters in Literature, Art,αnd History,

  pp.41−49.

10)シェイクスピアのテキストからの引用はすべて,

  Blakemore Evans, ed., The Riverside Sんαleespeαre,

  (Boston:Houghton Mifflin Company,1974)に   拠る.

11)Jonathan Gil Harris, Puck/Robin Goodfellow,

  in FoolS αnd Jesters in Literαture, Art, αnd

  History, pp.351−52.

12)Harris, p.352.

13)ラカンの理論にっいては福原参照.

14)ジジェクは,ヒッチコックの映画を使い,象徴化が   うまくいかないとき,その事実を現前させ,対象化,

  具現化させる手法を「染み」と名づけ,ラカン理論   を使って論じている.『斜めから見る』参照.

15)ボトムは賢い宮廷道化の系譜ではないが,この劇の   もうひとりのnatural foolとしての道化である.

  騙馬はパフチンによると,もっとも古くそして生き

(10)

生きした物質的・肉体的下層の象徴であるが,下落 させると同時に復活の象徴をも意味する.パフチン,

P.73.

  この劇ではボトムはカーニヴァルのさかさま世界 で持ち上げられ嘲笑される偽の王の役割を果たして いて,パックとは対極にいる道化の機能を果たして

いる.

16)高橋p.131.

17)野島,pp,371−78参照.

18)ファマトン,pp.171−251参照.

19)トゥアン参照.

20)ファマトン,p.229.

Abstract

  The aim of this paper is to study the meaning of the court jesters in Shakespeare s plays in terms of how the early modem su切ect can be analyzed in Lacanian psychoanalysis.

  The court fbols were marginal citizens supported by the royalty and nobility in medieval and early modem times. But they had license to intrude into conventional order and mock their lords,

making use of their protean nature just as the fbols in Shakespeare s comedies do. Though the fbol is a conventional character, his ambiguous nature fbreshadows an early modem su切ect emerging as nothing in a Lacanian account.

  In Shakespeare曹s tragedies fbols are more aml)iguous and paradoxical. In Hamlet, the hero him−

self plays the part of the court fbol. Feigning madness, he reflects the courtiers evil and fblly as a mirror, but in his role−playing we also realize his own su切ect is constructed on purely vacant signifiers.

  Shakespeare s last court fbol, the Fool in King Lear, is totally absent at the critical moment of the denouement of the play, never to reappear on Shakespeare s stage. The Fool, Lear s double,

represents the void of Lear s su切ect and so is absorbed in Lear himself when the king realizes

his own lack.

参照

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