• 検索結果がありません。

女王陛下の少年劇団 : 劇団・劇場・宮廷上演

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "女王陛下の少年劇団 : 劇団・劇場・宮廷上演"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

女王陛下の少年劇団 : 劇団・劇場・宮廷上演

著者 勝山 貴之

雑誌名 主流

号 74

ページ 1‑19

発行年 2012‑11‑10

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015242

(2)

女王陛下の少年劇団

一 劇 団 ・ 劇 場 ・ 宮 廷 上 演 一

勝 山 貴 之

エリザベス朝における少年劇団の活動を知るうえで,劇団と宮廷との関 係は重要で、ある.劇団に対する女王陛下の庇護は,劇団の盛衰に大きな影 響を与えたと考えられるからである. しかし少年劇団に対するエリザベス の支援については,今なお謎とされている部分も多いa 少年劇団研究の草 分け的存在として知られているE.K.チェンパーズ(E.K. Chambers)の 名著『エリザ、ベス朝の舞台 (TheEliz<αbethαn StαgeHを紐解くと,一六世 紀後半において一時は圧倒的な人気を得た少年劇団が徐々に凋落していく のに対して,かたや隆盛を極める成人劇団の活躍がつまびらかにされてい

る.また,チェンパーズと双壁をなす名著と言われるハロルドN.ヒルブラ ンド (HaroldNewcomb Hillebrand)の『少年俳優 (TheChild Actors:A Chαpter in Eliz<αbethαn Stα:ge History) jにおいても,少年劇団の盛衰とそ れと入れ替わるかのように活発化する成人劇団の様子が語られている.

しかしこれらの名著が,栄華を極める成人劇団の陰で衰退していく少年 劇団の運命を雄弁に語ることに対して,近年,疑問の声もあげられている (McCarthy) .果たして,活発化する成人劇団の活躍におされて,少年劇団 は女王の寵愛を失っていったのか.むしろこよなく少年劇団を愛したエリザ ベスは,成人劇団が成長を遂げるなかでも,変わることなく少年劇団を庇護 し支援し続けたのではなかったか.この小論では,いまいちど当時の記録を 検討することにより,女王による少年劇団への庇護にエリザベスと劇団の相

(3)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演

互依存関係を読み取り,少年劇団をめぐる従来の演劇史に一石を投ずること としてみたい.

1.  1580年 代 ま で の 少 年 劇 団 の 活 動

チェンパ)ズおよびヒルプラントは,それぞれの著書のなかでエリザベス 治世における少年劇団の盛衰と成人劇団の隆盛の様子を詳細に記している.

エリザベスの時代には,女王陛下の保護のもとにあるチャペル・ロイヤル少 年劇団(官leChildren of the Chapel)をはじめ,聖堂や寺院の聖歌隊(聖ポー ル聖堂,ウインザー,など)によって構成された少年劇団(TheChildren  of Paul'TheChildren of Windsor) ,更にウエストミンスター・スクール

(Westminster School)やマーチャント・テイラーズ・スクール (Merchant Taylors School)などの生徒によって組織された少年劇団が活動していた なかでもチャペル・ロイヤル少年劇団と聖ポール寺院の聖歌隊によるポール ズ少年劇団は人気を博したという (Chambers11  1・76,Shapiro, Children of  the Revels 1‑14) , 

チェンパーズはその著書『エリザベス朝の舞台』のなかで,これらの少年 劇団が宮廷上演をおこなった際に支払われた報酬記録をもとに,彼らの活動 の推移を辿ろうとする.チェンパーズによれば, 1558年から 1576年という 期間を例に挙げると,記録として残っている78回の宮廷上演のうち,実に 21回がポーJレズ少年劇団によるものであり, 15回がロイヤル・チャペル少 年劇団の上演,更に 10回がスクール・ボ}イズの上演であったという,こ れら合計46回を数える少年劇団上演記録に対して,成人劇団による宮廷上 演はわずか32回に過ぎない (ChambersII 3‑4),チェンパーズの指摘する

とおり,少年劇団の人気の高さがうかがわれる所以である.

しかし1576年に最初の常設劇場が誕生すると状況が一変する.1576年か ら1583年までの期間では少年劇団の宮廷上演は17固にまで減少し,成人劇

(4)

女王陛下の少年劇団 劇団・劇場・宮廷上演一 団は39回を数えることとなる.1578年のクリスマス・シ」ズンに枢密院は,

宮廷上演を許可する6つの劇団を選抜しているが,そのうち4劇団がレスター 一座,ウォーリック一座,サセックス一座,エセックス一座といった成人劇 団であったのに対し少年劇団は,ポールズ一座とチャペル一座の2劇団だ けになったという.更に, 1583年から 1590年までの期間に日を向けるなら,

45回の宮廷上演の記録のうち, 30回が成人劇団によるもので,残り 15回が 少年劇団であった CChambers II 4‑5) .チェンパーズの示す統計的数字を見 る限り,少年劇団の人気が成人劇団にとって代わられていく様子がうかがえ るように見える.

しかし確かに統計のうえでは減少しているものの,少年劇団に根強い人気 があったことも数字が証明している.まず少年劇団の宮廷上演が無くならず,

毎年,彼らが宮廷へ招かれ続けたという事実に目を向けなければならない.

そればかりか枢密院によって選出された6つの劇団のうち2つまでを少年劇 団が占めていたことも重要である.更に,チェンパーズが参照したフレドリッ ク・フリエイ CFredrickGard Fleay)の『シェイクスピアの生涯と作品 の年代記 (AChronicle History of Lifeαnd Work of Williαm Shαspeαre: Player, Poet,αnd Plα:ymαker)1.を辿ると, もう少し細かな情報を知ること ができる.フリエイは,その著書に劇団の宮廷上演の回数を示す表を付して いるが, 1588年や89年には,毎年ポールズ少年劇団が他の成人劇団を抑え て最も多い3回の宮廷上演をおこなっている.成人劇団の宮廷上演の回数が 多いのは,劇団数が多かったことも影響していると考えられ,年によって人 気の成人劇団も入れ替わる.従って,決して上演回数の合計だけが成人劇団

と少年劇団の盛衰の模様を物語るものではないようである.

チェンパ」ズと同じく,成人劇団の隆盛の陰で少年劇団が衰退していく という演劇史観に立つヒルブランドは衰退の理由を,少年劇団の演ずる芝 居の内容の単純さにあると分析している.ヒルブランドによれば, 1580年 以前の芝居は,成人劇団も少年劇団も総じて道徳劇やフアースの要素が強

(5)

女王陛下の少年劇団一劇団 g劇場・宮廷上演一

く,内容から察して役者の演技も明快で、単純なものを求められたという CHillebrand 258‑261).それは 12歳という年齢の少年の演技で充分通用す る内容の芝居であり,台本も台詞も役者にそれL以上の演技力を要求するもの ではなかったのかもしれない. しかし時代が進むにつれ.少年劇団の人気に 圧倒されがちであった成人劇団は.徐々に内容的に成長e深 化 し よ り 心 理 的に複雑なものを舞台にかけるようになったのだという (262).それは,後 の舞台を席巻することとなるアレン(EdwardAlleyn)やパーベッジCRichard Burbage)のような熟練の役者の演技力を必要とするものへと変貌していっ

たのである ヒルブランドは,少年劇団がこうした演爵史の転換に乗り遅れ,

取り残された存在となったことにより, 自ずから衰退の道を辿らざる得なく なったと説明している (262‑264) しかし少年劇団と成人劇団の上演を,作 品の内容や登場人物に対する人間理解の深さという同じ土俵の上で評価しよ

うとするヒルブランドの見解に問題はないであろうか.

少年劇団の起源は,宗教的儀式に求められる.礼拝などの儀式において聖 歌を歌い,インタールードなどを演じた少年たちを.祝祭や宮廷の娯楽のた めに援用することは,エリザベスの治世以前から伝統的に行われてきた慣わ しであった.すなわち少年劇団の本来の目的は,礼拝の奉仕において天上の 神を讃えたように?その訓綿された歌声で君主を賛美し祝福することにあっ たと考えられる.やがて賛美の歌声は台詞のある芝居形式を伴うようになり,

f余々にi寅技が中心的f支割を担うような演目を取り入れるようになったのであ る(ShapiroChildrenof the Revels 1‑11).従って,少年劇団の上演形態を 成人劇団の芝居と同等に比較・検討することには限界があるように思われる.

またヒjレブランドは,少年劇団がジョン。リリー (JohnLyly)のような 劇作家と組んだことは,ある意味において必然的なことだという.少年劇団 の俳優たちの持つ演技力の限界と. リリーの作品に登場する内面の深みを欠 いた登場人物は まさに相応しい組み合わせで、あったというのである.

(6)

女王陛下の少年劇団 劇団・劇場・宮廷上演一

While the plays of Lyly are the fine flower of the children's  drama before 1590, they are at the same time a decadence. 

In them for the first time we can clearly observe cropping  out the effect of the limitations of the actors. If the lads had  sprightliness, vivacity, pertness, and charm, they lacked power  to portray serious and deep emotions. And accordingly we  find none of the deeper emotions in Lyly. His main figures are  animated marionettes, endowed with beautiful speeches but no  action. (Hillebrand 264) 

しかし逆に,ここにこそ少年劇団の特質があったともいえる.少年劇団の 芝居は,形式的あるいは儀式的要素を多分に含んだものであり,マイケル・

シャピロー (MichaelShapiro)も指摘するとおり,修辞や詩的効果を前面 に押し出した朗吟調の演技がふさわしい 特定の登場人物の個性を浮き立た せるような台詞表現には適さないといわれている (Childrenof the Revels  116117).従って,そこに「真の演技

J

を期待することにこそ無理があるよ うに思われるのである.

II. 女王の寵愛と少年劇団

当時の宮廷において,演劇や仮面劇をはじめあらゆる余興は君主に対する 奉仕であり,それに対して,君主は相応しい思賞を与えるというのが慣わし であった.余興を準備する側はそれなりに費用もかかり出費も求められるこ とから,賛美を余興の形で提供された君主はそれに対する対価を何らかの形 で供与することを期待されたのである.それは報酬という形での金銭の授受 の他に,君主からの特許権,独占権,復帰財産権(不動産など,他人に譲与 された権利が消滅した後に,その財産権を譲り渡すこと)といった利益供与,

(7)

女王陛下の少年劇団 劇団・劇場・宮廷上演

地位や職位の授与,また劇団の場合であれば活動を制限しようとする様々な 法律や取り締まりからの保護などが考えられる.

劇団経営という観点に立つなら,少年劇団は経済的な面で劣勢に立たされ ていた.成人劇団が自分たちの興行に専念できたのに対し,少年劇団は聖歌 隊であったり,就学中の生徒であったりしたことから,劇の上演が彼らの日 課のすべてというわけにはいかなかった.他にこれといった収入の途がな かった彼らにとって,当然のことながら宮廷上演の報酬が活動の経済的基盤 をなしていたであろう 自分たちの本拠地である寺院や礼拝堂において,宮 廷上演のためのリハーサルを人々に見せ,報酬を得ることもあったらしいが,

それは王室の財政逼迫により宮廷上演の機会が減少したことに原因があると も考えられる (Shapiro,Children of the Revels 13‑14) . 

1572年以降,財政の緊縮を掲げる大蔵卿パーリー (LordBurghley)と当 時の祝宴長官プラグレーヴ (ThomasBlagrave)は,祝宴にかかる出費の 削減に乗り出している.1571年から75年までの期間をみるなら,当初,年 間1500ポンドあった祝宴予算は.1573年から74年の期間に670ポンドに,

更に1574年から75年の期間には580ポンドにまで抑えられている.祝宴予 算の削減は,宮廷上演を行う劇団への報酬にも影響したはずである.記録 によれば,宮廷上演に対する報酬は,一演目あたり当初6ポンド13シリン グ4ダカットであり,後に10ポンドの祝儀が加算されたりもしたが,その 後1590年頃まで全く改定されていない.ロンドンの物価の上昇を考えると,

実質的な報酬の目減りは明らかであろう (Shapiro,Early(Pre1590)Boy  Companies and Their Acting Venues" 130).大衆劇場での上演をおこない ながら,宮廷上演を果たしていた成人劇団に比して,宮廷上演にその経営の 多くを依存していた少年劇団との聞に経済的格差が広がっていたことは,あ る程度理解できる.だからこそ,宮廷上演報酬の減少の陰で,少年劇団に対 する別の形でのエリザ、ベスの庇護があったのではないかと推測されるのであ る.

(8)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一 エリザベスの少年劇団への愛顧は,即位以前からのものであったことが明 らかにされており,既に1552年2月12日,若干18歳のエリザベスはハー トフィールド邸でセパスチャン・ウエストコット CSebastianWestcott)の 率いるポールズ少年劇団の上演を観劇している.ウエストコットは,エリザ ベス即位の後も度々少年劇団の宮廷上演をおこない,エリザベスの寵愛を受 けた.女王のウエストコットへの保護は,彼がカトリック信者であったこと から国教会派やロンドン市と対立した際にも,女王が陰ながら彼を擁護し たことからも窺い知ることができる.わざわざレスター伯ロパート・ダド リー CRobertDudley, Earl of Leicester)がウエストコット救済のために動 いたのは,その背後にエリザベスの指示があったものと推測されているので ある CShapiro,Children of the Revels 12) .またウエストコットは,自らの 劇団の質を向上させるため劇団の徴用権を行使し 他の聖歌隊から歌唱力の ある少年を引き抜くということを頻繁におこなった.にもかかわらず,彼の 劇団の少年が引き抜かれそうになると,それを阻止するために枢密院までが 介入するという大騒ぎとなったという記録が残されている CShapiro,官arly (Pre1590)Boy Companies and Their Acting Venues" 128).こうした事件 の背後にも,エリザベスのウエストコットに対する手厚い保護の様子が見え 隠れするのである.これらのことを視野に入れるなら,宮廷上演の回数や報 酬とは,異なる視点に立って少年劇団への女王の寵愛の跡を探る必要がある

だろう.

少年劇団の研究としては,チェンパーズとヒルブランドの功績の陰で,と もすれば看過されがちであったチャールズ・ウォーレス CCharles William  Wallace)の論文「黒僧座のチャペル少年劇団15971603(The Children of  the Chapel at Blackfriars, 15971603")

J

がある.ウォーレスは劇団の歴史 的経緯を解説する中で一貫して少年劇団がエリザベスの深い寵愛と庇護のも とにあったことを主張している 確かに,劇団に対するエリザ、ベスによる特 別の庇護を強調する説は,決定的な証拠を欠くために,従来の演劇史におい

(9)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一

てはあまり支持されてこなかった. しかしウォーレスによれば,女王からの 少年劇団への援助は単に宮廷上演の際の報酬ばかりではなく,劇団の所有者 に対する,土地の下賜,特許状の付与,更に俸給のような形をとって行わ れていたという.彼は,こうした女王の思賞について具体的に例示してい ないが,近年,この部分をジーンE.マッカーシー (JeanneE. McCarthy)  がその論文「エリザベス一世の小さき者たち( Elizabeth

spicture in  little''') 

J

の中で補足してくれている.

例えば,チャペル少年劇団の代表であったリチヤード・エドワーズ (Richard Edwards)は, 1561年に給与を保証する特許状を与えられている し彼の後継者ウィリアム・ビューニス (WilliamHunnis)は, 1585年に 王室領を分け与えられている.また1582年までポールズ少年劇団の代表を 務めたウエストコットが,劇団に関係している間にかなりの財を貯め込んだ ことは,ヒルプラントも指摘するところである(1l9).宮廷上演が中心では あったが,女王の庇護のもと少年劇団の代表たちがかなりの利得を手にして いたことが,ある程度推測できるのである.宮廷における上演報酬を精査す るだけでは,この部分は見えてこない CMcCarthy431) 

またエリザベスの少年劇団への特別の保護の様子は, 1569年に印刷され たという清教徒によるパンフレットからも窺われる.

Even in her maiesties chappel do these pretty vpstart youthes  profane the Lordes Day by the lascivious writhing of their tender  limbs, and gorgeous decking of their apparell in feigning bawdie  fables gathered from the idolatrous heathen poets. (Wallace 4 n) 

ともすれば厳格さのあまり誇張にすぎるとも思われる清教徒の憤りではある が,そこからは礼拝堂の神聖を異端の芝居で穣す少年劇団を取り締まろうと もしない女王への憤りが窺われる.裏返せば,こうした清教徒の糾弾は,女

(10)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一 王の青春時代から変わることなく続く少年劇団への庇護と寵愛を物語るもの

とはいえないだろうか.

宮廷での御前上演は劇団にとっては栄誉であったが,同時にこの機会に乗 じて女王に助言や進言を試みようとする政治的意図をもった芝居も数多く登 場した.マッカ」シーは,仮面劇や成人劇団の演目は,男性君主の支配を賛 美するようなものが大半で,女性君主であるエリザ、ベスを賞賛し支持するよ うな内容のものが極端に少ないことを指摘する.またレスターを始めとする 宮廷人の上演する芝居の中には結婚を賛美することによって女王に結婚を迫 るものが多く,もしもエリザベスが生涯独身をつらぬくようなことがあれ ば,陰惨な結末が訪れることを予言するものがあったことを重視している.

政治性を帯ぴたこうした作品に対して,少年劇団の上演する演目は女王への 賛美と崇拝を基調としており これこそエリザベスに大いに訴えかけた部 分であったのではないかと考えられるのである (McCarthy,Elizabethl' 

picture in little'"  451‑52). 

例えば.1590年代に少年劇団の上演で人気を博したリリーの『エンデイ ミオン (Endymio)Jでは,神話における月の女神シンシアによるエンデイ ミオンに対する求愛の構図が逆転され,エンディミオンが月の女神を追い 求める展開となっている.結末では 月の女神と卑しい人間との違いを意 識し変わることなき忠誠と崇敬を誓うエンデイミオンに,シンシアは祝 福と褒美を与える.作品を巡る解釈の中には,メアリの処刑によりスペイ

ンとの戦争が避け難い現実となったことから,オックスフォード伯をはじ めとする隠れカトリックたちが,作品をとおして自らの保身のため女王へ の忠誠心を表明しようとしたのだ, とする批評も存在する (Endymion,ed.  David Bevington 28; Lyly's Endymion and Midαs:  The Catholic Question  in England" 26‑46).確かに,女王を天上の神と除えるエリザベス崇拝が作 品全体を通して描き出され,登場人物の内面よりもむしろ君主を神格化する 様式美が強調されていることをみれば,ここにエリザ、ベスの求める君主像が

(11)

10  女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一一

浮かび上がると考えられる.ともすれば政治的な意図を持った成人劇団の芝 居に対する対抗策として,女王自身が,少年劇団の華麗な歌声にのせて,観 る者に自らの神格化を印象づける筋書きを望んだのではないかとも思われる のである.このように女性君主への賛美を修辞と詩的イメ}ジを散りばめた 文体で朗々と展開するところに,少年劇団の真骨頂があるので、あって,ここ に人物の心理的内面の葛藤を求めることは,少年劇団の演技の特質を無視す ることに他ならない.

皿.晩年の女王と少年劇団

まさに絶頂期ともいえるリリーと少年劇団であったが, 1588年マープレ リト (Marprelate)論争lに巻き込まれ,そのあおりを食った形で劇団は 解散の憂き目に遭う少年劇団たちは,以降数年の間,歴史の表舞台から 完全に姿を消すこととなるのである.アルフレッド・ハーベッジ(Alfred Harbage)は,少年劇団がマープレリト論争の災禍を被ったのは,リリーの 芝居においては穏健なものであった訊刺が,一線を超えたことを意味すると いう.そして少年劇団による楓刺は,後にはジョンソン(BenJ onson)やマー ストン (JohnMarston)の手によって,一層辛競なそして冷笑的なものへ と変貌していくことを指摘している CHarbage6971). しかし訊刺ばかり に目を奪われると,作品の基調をなす女王崇拝を軽視してしまうことになり かねない,

しばしの活動停止期間を経て, 1597年あるいは98年にまずポールズ少 年劇団が,更に1600年頃チャペル少年劇団が再び活動を開始する.復活 したチャペル少年劇団の活動の拠点は 黒僧座劇場であった.同時に,リ リーの芝居にも再び関心が向けられ始めた.1600年初頭に無名の劇作家 ウィリアム・パーシー (WilliamPercy)が,

r

妖精たちの牧歌 (TheFαi,ry  PαstorαlHと題する芝居をポールズ少年劇団に提案している.この芝居は

(12)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演 11 結局上演されることはなかったが,公然とリリーの手法を模倣したもので あった. また1601年8月にはジョージ・ホ。ツター (GeorgePotter)がリリー の五作品の出版権を手に入れたこともわかっている.ベン・ジョンソンがリ

リーに倣った作品『シンシアの宴 (CynthiαRevels)1.をチャペル少年劇 団の舞台にかけたのもまさにこの時期であった 劇の場面設定や登場人物か ら推察されるとおり,ジョンソンはリリーの形式を模倣し女神シンシアの 宴に集う人々の混乱と,その混乱を正し本来の秩序を回復するシンシアの姿 を描いている.女神シンシアの美徳、の支配する宮廷の回復は,文字どおりエ リザベスに対する賛美と崇拝を表し,劇の結末は女王崇拝を高らかに植い上 げる形で終わるように仕組まれているのである.ジョンソンは,古色蒼然た るリリーの作風や文体を冷笑しながらも,園内の政情不安に鑑み,今こそ女 王への賛美を全面に打ち出した芝居を書く必要性を感じ取っていたのであろ う.宮廷への足がかりを求めていたジョンソンにとって,リリーの文体を模 倣するかどうかはともかく,エリザベスへの崇敬を表明する作品を手がける 必要があったにちがいない(Judsonlix‑Ixii).実際,ジョンソンの努力はベッ ドフォード伯爵夫人 (theCountess of Bedford)の日に留まることとなり,

その後,ジェームズの時代において宮廷仮面劇執筆への道を彼に開くことと なるのである.

これらの劇作家や出版業者がリリーの作風のリパイパルを手がけた背景に は, 1580年代のリリーの作品のなかに描かれた女王への崇拝と賛美を追い 求めるエリザベス自身の晴好が,反映されていたのではないであろうか.巷 に次々と登場する反政府的書物や芝居のなかでは,君主の神聖に対する疑義 が繰り返し投げかけられ,不滅で、あるはずの君主の身体もまた滅びゆくもの であるとの問いかけがなされていた.老齢を迎えたエリザベスにとって,そ うした世相に対する唯一の対抗手段は,今一度,過去の芝居のなかに詠われ た女王の栄光を,少年劇団の復活という形で蘇らせることであったのかもし れない.

(13)

12  女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演ー

アルフレッド・ハーベッジは活動を再開した少年劇団が,宮廷に招かれ ることはなかったという (81‑82).しかし宮廷での上演回数が減るかわり に,逆に女王自身が黒僧座劇場で少年劇団の芝居を観劇することもあったと は考えられないのであろうか.エリザベス自身が,少年劇団の本拠地黒僧座 劇場を観劇のために訪れることがあったのかどうかは,大いに議論を呼ぶと ころである.ウオ}レスはエリザ、ベスの黒僧座での観劇を証明する興味深 い資料を引用している.1601年12月29日の出来事として,サー・ダッド リー・カールトン (SirDud1ey Carlton)はジョン・チェンノtレン (John Chamberlain)に,次のような書簡を送っているのである.

The Q: dined this day priuat1y at my Ld Chamberlains; 1 came  euen now from the b1ackfrrswhere 1 saw her at the play wth all  her candidae auditrices. (Wallace 95) 

ウォーレスの引用したこの証拠は,チェンパーズの激しい反論を呼びおこす.

チェンパーズは,芝居が少年劇団のものとは言い切れないと主張する.

1 cannot, finally, agree with Professor Wallace in assuming  that the play attended by Elizabeth at the Blackfriars on 29  December 1601 was necessarily a public one at the theatre; much  1ess thatwasonly one in a series of such attendances'. She  had dined with Lord Hunsdon at his house in the Blackfriars.  The play may have been in his great chamber, or he may have  borrowed the theatre next door for private use on an off‑day. And  the actors may even more probably have been his own company  than the Chapel boys. (Chambers II 48) 

(14)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演 13 ブラックフライヤーズというのは, もとはドミニコ修道院のあった地区の名 称、で,市の管轄区域からは除外された特別行政管区の呼称であり,そのまま 黒僧座劇場を指し示すものとは言い切れない 従って,この点においてチェ ンパーズの指摘どおり,カールトンの書簡が暖昧な記述であることは認めざ るをえない.

しかしマッカーシーも指摘するように,宮内大臣であったハンズドン (Lord Hunsdon, George Carey)がエリザベスの指示でチャペル少年劇団を 自らの管轄下においていたことも事実である.もちろん女王が観劇したのは,

宮内大臣一座の劇かもしれないが,宮内大臣の管轄するチャペル少年劇団の 芝居であった可能性も完全には否定できないのである.むしろハンズドンは 女王をもてなすため,エリザベスがこよなく愛した少年劇団の芝居を上演さ せたとの推測もまた信恵性があるだろう 1604年にアン王妃が,夫ジェー ムズのことを郁捻した少年劇団の芝居を観たのは黒僧座であった可能性が高

, 1634年にアンリエッタ・マリア王妃は黒僧座で観劇をしたとの明白な 記録が残されている.こうした王室の慣習は既にエリザベスの時代から存在

したと考えることは,それほどまでに不自然なことなのであろうか.

ヱリザベスが,少年劇団の再結成に直接に手を貸したという証拠は少な い. しかしそうしたなかでもウォーレスが引用する次の証拠は,この時期に おける少年劇団に対する女王の寵愛を鮮明に伝えているとは考えるべきでは ないか.1602年9月18日,シュテッテインーポメラニアの公爵 (Dukeof  Stettin ‑Pomerania)であったフィリップ・ジユリアス (PhilippJulius)の

日記には次のような記述がある.

From there [i.e., from anArt‑museum] we went to the play at the  Children's Theatre, which in its plot deals with a chaste widow.  It was a story of a royal widow of England. 

‑But with reference to this Children's Theatre this is  the state 

(15)

14  女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一

of affairs: The Queen maintains a number of young boys who  are required to devote themselves eamestly to the art of singing,  and to learn to perform on various sorts of musical instruments,  also at the same time to carry on their studies. These boys have  their special preceptors in all the various arts, and in particular  excellent instructors in music. 

Now, in order that they may practice courtly manners, it  is  required of them to act a play every week, for which purpose  indeed the Queen has established for them a special theatre and  has provided them with a superabundance of rich apparel. 

Whoever wishes to be a spectator at one of their performances  must pay as much as eight shillings of our [Pomeranian] coinage  [cα, 12d]. And yet there is  always present a large audience,  including many respectable women, because entertaining  plot‑developments and many excellent teachings, as we were  informed by others, are expected to be presented. 

All their performances are acted by candle‑light, which  produces alespectacular effect. (Wallace 106‑7) 

日記の記録の2年後の1604年,成人となったフイリップ・ジュリアスは母 国の政治を担うようになり,イングランドの地での感動を胸に,女王の少年 劇団と同じく,国家の費用で少年劇団を組織させたという.

しかしチェンパーズはこの証拠を「一外国人の報告を,あたかも黒僧座 の営業組織に関する正確な証拠として,強調してはならない( Thisreport  of a foreigner must not be pressed as if it were precise evidence upon the  business organization of the Blackfriars." II 47) 

J

と切り捨てる.またヒル

ブランドも, 日記の内容を外国人の誤解に基づくものだとして,真剣に取り

(16)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演 15 上げようとはしない.

The refutation of this statement stands within it;  the queen  certainly did not build B1ackfriars

, 

and if the duke was so  misinformed on this point, we must hesitate before accepting  his other statements. In fact, a foreigner of noble rank engaged  in running over the sights of a capital is  not to be taken for an  exact authority on the conditions lying behind the management  of a playhouse. He might easi1y deduce from the name of the  company‑一一Chi1drenof her Majesty's Chapel Royal"‑that the  maintenance ofthe company was a fancy ofthe queen's, and how  purely personal and rash his conclusions were is  shown by his  attributing everything‑bui1dings, equipment, and all‑to her.  (Hi1lebrand 16566)

短期間イングランドを訪れた外国人の証言だからということを理由に,この 証言を却下すべきではないであろう.またヘンリー八世以来,メアリ,エリ ザベスは,地域の所有権を主張するロンドン市から,ブラックフライヤーズ 地区を頑なまでに保護し守りぬいてきた黒僧座劇場を建設したのがエリザ ベスではないからといって,それだけを理由にボメラニア公爵の貴重な証言 を単なる思い違いと否定してLまうことはあまりにも乱暴に思えてならな

.

この日記の日付の一年前に 劇団はひとりの少年を誘拐し強制的に劇団に 参加させたかどで,少年の父親から訴訟を起こされている 劇団の支配人 たちは,自分たちの正当性を主張するために抗弁し,

I

もし女王様がこうし たこと(訴訟を起こされたこと)にご立腹になれば,ご自分の命令を実行 させるために更に別の少年を捜して連れてこられることになりますぞ、( yf

(17)

16  女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一

the Queene wou1d not beare them furth in that accion, she shou1d gett  another to execute her commission for themづ」と述べ更に自分たちは「こ の国のどのような貴人の子弟でも徴用することができる権限を付与されてい る( theyhad aucthoritie sufficient soe to take any noble mans sonne in  this 1and.") 

J

と宣言したとする記録が残されている (ChambersII 43‑45).  かつてウエストコットが行使した少年劇団の徴用権を,劇団の支配人たちが 再び口にしたことを考えると,やはり自分たちが女王の保護のもとにある存 在であるとの意識を強く持っていたと考えられるのではないであろうか.仮 にもエリザベスの後ろ盾がなければ,簡単に女王陛下の命令であるなどと口 にできるものではないであろう.劇団の称号「女王陛下のチャペル・ロイヤ lレ(Chi1drenofher Majesty's Chape1 Royal) 

J

はあながち名ばかりではなく,

またポメラニアの公爵も単純に誤解していたわけではないようである.

1603年エリザベスが崩御し,スコットランド王ジ、ェームズ六世がイング ランド国王ジェームズ一世となった.ジエ}ムズは,成人劇団を「国王一座」

として自らの庇護のもとにおき,チャペル少年劇団を「王妃の少年劇団j と して王妃アンの保護のもとにおくことを決めた.従来のようなエリザ、ベスに よる庇護とは異なる状況のなかで,少年劇団が一層その商業主義的色彩を強 め,宮廷の噂を題材とした危険な領域へと踏み込んで、いったことは,既に多 くの批評家の筆によって取り上げられてきたところである.彼らは観客の喜 びそうな話題なら,なんであろうと取り上げ,劇場戦争においても人々の注 目を集めた.彼らは手段を選ぶことなく劇団存続のために, より多くの興行 収入を上げようとしたのである.そして最後には,舞台上で国王を風刺した ことがジェームズの耳に入札劇団は解散へと追い込まれる.少年劇団の研 究は,ともすれば17世紀以降,特にエリザ、ベス崩御前後の,あるいはジェー

(18)

女王陛下の少年劇団一一劇団・劇場・宮廷上演 17  ムズの時代における彼らの辛嫁な調刺と醜聞に満ちた上演活動にのみ注目が 集まりがちである. しかし少年劇団の「復活」の背景にある社会的状況や女 王の庇護に,今一度目を向けてみる必要があるであろう.

従来の演劇史においては,チェンパーズとヒルブランドによって語られる 少年劇団の盛衰を高く評価し成人劇団の隆盛の陰で衰退を余儀なくされて きた少年劇団の運命を疑うことなく受け入れてきた成人劇団が深化し登 場人物の内面を深く描く作品を次々に世に送り出すなかで,フアースや道徳、

劇に固執し続けた少年劇団は,演劇の発達から完全に取り残され衰退して いったことに,疑いを挟む余地はないとすら考えてきたのである しかし少 年劇団は,時代に乗り遅れたのではなく,成人劇団とは異なる演劇様式へ分 化していったと考えるべきではないであろうか.その点では,従来の演劇史 に若干の修正が必要となるのかもしれない.それは音楽を多用した朗唱形式 の芝居のなかに,神格化された君主への永遠の崇拝と賛美を描き出すという 様式のもので,女王はこよなくこうした演劇を愛したのであった.エリザ、ベ スは,女王を取り巻く複雑な政治状況のなかで,ともすれば自らの神聖が揺 るがされ,自分に対する崇敬の念が忘れ去られていく様子を肌で感じていた のであろう.そうした時代だからこそ,年老いた女王は,若き日々より変わ ることなく愛し庇護してきた少年劇団の芝居のなかに,かつての栄光を取り 戻すかのような,束の間の夢を見たのかもしれない.

1588年,マーテイン・マープレリト (MartinMarprelate)の名で,英国国教会 の主教制度を批判するパンフレットが現れ,国教会の聖職者は騒然となった 主 教たちは清教徒たちの仕業と息われるこのパンフレットの弾圧に全力を挙げる が,事態は容易に終息する気配を見せなかった.主教たちがリリーをはじめ, ト マス・ナッシュ (ThomasNashe)やロノTート・グリーン (RobertGrene)といっ た劇作家にも応援を求めたため,演劇界にも論争の波紋が広がった パンフレッ トの執筆者は謎のままであるが,複数の人物の仕業によるものと考えられている

(19)

18  女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演ー

考えられる人物として名前の挙がっているのは'.John Penry. Sir Roger Wi1liams.  John Throkmorton.  John Udall である • AShαkespeαre Encyclopαediα参照の こと.

公爵の一行は1602910日ドーヴァーに上陸.12日にはロンドンに入洛し,

首都に8日間滞在した.その後,ケンブリッジやオックスフォードなど地方都市 2週間かけて巡り.103日にドーヴァーから帰国の途についている.およそ 3週間の英国滞在の間に,公爵は政界の要人や学者と会見し.917日にはロン ドン市長と会食をしたとの記録が残されている.同日の午後,ホワイトホール宮 殿を訪問しあいにく女王は留守であったため,高官によって宮殿内のエリザベ スの私室内部へと案内されたという.そして翌18日に黒僧座で少年劇団の芝居 を観劇したのである. 日記の記録は. 1ansactionsof the RoyαHistoricαl  Society (New Series, 1892).  VI.  26.  28に掲載されており,本文は独語である ため,ここではWallaceによる英訳を引用した 原文は以下のとおりである

Von dannen [i. e., von einer Kunstkammerl sind wir auf die Kinder comoediam gangnwelche im Argument iudiciret eine ca8tam viduam,  war eine historia einer koniglichen Wittwe aus Engllandt. Es hat aber  mit dieser Kinder‑comoedia die Gelegenheit: die Kniginhalt viel  junger Knaben, die 8ich der Singekunst mit Ernst befleissigen mussen  und auf allen Instrumenten lernen, auch dabenebenst studieren. Diese  Knaben haben ihre besondere praeceptores in allen Kunsten, insonderheit  sehr gute musi

s. 

Damit sie nun hflicheSitten anwenden, ist ihnen aufgelegt,  wochentlich eine comoedia zu agiren, wozu ihnen denn die Konigin ein  sonderlich theatrum erbauet und mit kostlichen Kleidern zum  Ueberfluss versorget hat. Wer solcher Action zusehen will, muss 80 gut  als unserer Munze acht sundische Schillinge geben, und findet sich  doch stets viel Volks auch viele ehrbare Frauens, weil nutze argumenta  und viele schneLehren, als von andern berichtet, sollen tractiret  werden; alle bey Lichte agiret, welches ein gr08S Ansehen macht. 

SELECTED BIBLIOGRAPHY 

Bevington, David. Lyly's Endymion and Midαs:  The Catholic Question in  England." Compαrαtive Drαmα32  (1998): 2646. 

(20)

女王陛下の少年劇団一劇団・劇場・宮廷上演一 19 

Campbe ,IlOscar J ames, ed. A Shαkespeαre Encyclopaediα. London: Methuen, 1966.  Chambers, E. K. The Elizabethan Stage. 4 vols. 1923. Oxford: Oxford UP, 2009.  Charney, Maurice. The Children's Plays in Performance." Reseαrch Opportunities 

RenαissαnceDramα18(1975): 1923 

Craik, T. W. The Tudor Interlude: Stage, Costumeαnd Acting. Leicester: Leicester  UP1958. 

Fleay, Fredrick Gard. A Chronicle History of Life αnd Work of Williαm  Shαkespeare: pzα:yer, PoetαndPlaymαker. London: John C. Nimmo, 1886  Gair, Reavley. ThChildren of pαul's: The Story oThe.αtre Compαny1553‑1608 

Cambridge: Cambridge UP, 1982. 

Harbage, Al合ed.Shαkespeαreαndthe RivαITrαditions. Bloomington: lndiana UP,  1952. 

Hillebrand, Harold Newcomb. The Child Actors: A Chαpter  Eliz.αbethαnStαge  Histθry. New York: Russell & Russe ,1l1964 

Jensen, Ejner J. The Boy Actors: Plays and Playing." Reseαrch Opportunities in  RenαissαnceDrαma 18 (1975): 511. 

Judson, Alexander Courbin巴,d.Cynthiα's Revels or The Fountαin of SelfLove by  Ben Jonson. NewYork: Henry Holt, 1912. 

Lyly, John. Endymion. Ed. David Bevington. Mancheter:Manchester UP, 1996  McCarthy, Jeanne H. Elizabeth I's picture in little':  Boy Company 

Representations of a Queen's Authority." Studies in Philology 100. 4 (2003):  42562. 

"The Queen's unf1edged minions': An Alternate Account of the Origins of  Blackfriars and of the Boy Company Phenomenon." Inside Shαkespeαre:  Essαys on the Blαckfriαrs Stα:ge.  Ed. Paul Menzer. Cranbury, NJ: Associated  University Presses, 2006. 

Munr Lucy.Children of the Queen's Revels: A JαcobeαnTheαtre Repertory.  Cambridge: Cambridge UP, 2005. 

Shapiro, Michael.  Children of the Revels: The Boy Compαnies of Shαkespeαre's  Time αnd Their Plαrys. New York: Columbia UP1977.

. Early (Pre1590) Boy Companies and Their Acting Venues." The Oxford  Hαndbook of Early Modern Theαtre. Ed. Richard Dutton. Oxford: Oxford UP,  2009. 

Wallace, Char1es William. "The Children ofthe Chap1at Blackfriars, 15971603." 

University Studies 8. 23 (1908). 

参照

関連したドキュメント

男役を目指したのは中学2年生の秋。部活でバレ

(2) 払戻しの要求は、原則としてチケットを購入した会員自らが行うものとし、運営者

ガンゲイル・オンライン GGO 少女☆歌劇 レヴュースタァライト RSL ノーゲーム・ノーライフ NGL アイドルマスター

・KAAT 神奈川芸術劇場が実施した芸術文化創造振興事業は、30 事業/56 演目(343 公 演) ・10 企画(24 回)・1 展覧会であり、入場者数は

今回、子ども劇場千葉県センターさんにも組織診断を 受けていただきました。県内の子ども NPO

平成 24

[r]

尼崎市にて、初舞台を踏まれました。1992年、大阪の国立文楽劇場にて真打ち昇進となり、ろ