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納人規定と予算の性格 利用統計を見る

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Academic year: 2021

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(1)

著者

柏? 敏義

著者別名

KASHIWAZAKI Toshiyoshi

雑誌名

東洋法学

61

3

ページ

183-198

発行年

2018-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009676/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

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《 論  説 》

納人規定と予算の性格

柏﨑 敏義

1  はじめに  日本における財政立憲主義は、大日本帝国憲法(以下、明治憲法)が制定さ れることによって実現した。明治維新後明治憲法が制定されるまでの間の財政 運営は明治政府の主導によるものであり、明治初期の財政制度が確立していな い頃は旧慣に依るものとされ、民主的要素はなかった。それでも徐々に近代国 家たろうとする取り組みが行われ、財政機関や財政法令をはじめとする財政制 度を構築してきた( 1 ) 。  その中で本稿がとくに注目するのは、明治19年 3 月 9 日閣令第 3 号「歳入歳 出出納規則」の納人規定である。同規則は立憲体制以前の財政法令の集大成で あり、その後明治22年の会計法に受け継がれていくことになる。明治初期の財 政制度構築の意味は大蔵省による財政に対する統制権の確立にある。本稿はこ の状況下にある納人規定の意義を探ろうとするものである。 2  納人規定 ( 1 )納人規定とは  歳入歳出出納規則第 3 条は「此規則ニ於テ納人ト稱スルハ戸長、各納税者、 其他政府ニ對シ仕拂ノ義務ヲ有スル者ヲ云」( 2 ) と規定する。納税者は戸長、納 税者などであり、その者たちにとって納税は「義務」である。私はこの規定の 意味を、法令上納税義務者の存在を明らかにし、国家の財政構造を明らかにし たと評した。すなわち、明治政府は租税を旧慣に依り事実上徴収してきたので

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あり、しかしその法的根拠は不明であった。この規定を制定するによって近代 国家たるべく、法令上納税義務者を定義することで近代国家の財政の端緒とな るとした( 3 ) 。本稿ではこの評をもう少し敷衍してみたい。  公地公民に象徴されるように人民は国家に属せられ、租・庸・調に始まり、 年貢、夫役などの税を納めさせられてきた。この構造は、国家による徴税の正 当性根拠論にいう義務説で説明されうる。すなわち、「義務説とは、個人の意 思を超越した存在として国家を捉えたうえで、国家は、自らの目的を達成する ために、当然に課税権をもつが反対給付の義務を負わない一方、市民は、国家 の構成員として当然に納税の義務を負う」という考え方である( 4 ) 。明治維新に より成立した政府が統治の正統性を有し、明治 2 年の版籍奉還が政府の徴税権 力の正当根拠であるとすれば( 5 ) 、明治政府の徴税権力は義務説の説明に適合す るといえる。  またこのことは、租税の意味の理解とも係わる。租税は、「國家または地方 團體が、その經費を支辨するために、私人から無償で、强制的に徴収する貨財 を意味する」と解される( 6 ) 。その租税の徴収にあたっては、1215年マグナカル タの「代表なければ課税なし」に示されるように、国家権力による税・財政の 処理に対する議会および人民によるコントロールが確保されるところに、近代 以降の租税の本来の形があるといえる。アダム・スミスは租税の特質に関し て、公平であること、確実であること、支払いに便宜があること、徴収費が少 なくてすむことという 4 つの一般原則を指摘している( 7 ) 。明治維新によって近 代国家となった日本は土地に対する所有権保障を認め、土地所有者に対して地 租という納税を義務づけた。それが地租改正である。明治 3 年 6 月に神田孝平 は「田租改革之建議」を表し、「旧来ノ税法ヲ廃シ田地売買ヲ許シ其沽券値段 ニ準シテ租税ヲ収メ」( 8 ) させるべきと述べた。土地の価格に応じた税の徴収で ある。これによって地方ごとに異なる貢租を廃止し、統一的な課税制度を確立 することとなった。地租改正法は「今般地租改正ニ付舊来田畑貢納ノ法ハ悉皆 相廃シ更ニ地券調査相濟次第土地ノ代價ニ隨ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト可相定㫖 被」( 9 ) と定め、地価の 3 %を地租とした。したがって納税義務者は必然的に土

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地所有者となるが、ただ明文では土地所有者が納税義務者であるとは規定され ていない。この規定により、従来直接生産者たる農民が納税義務者であった が、地租改正により土地所有者が納税義務者となったと解する見方もある(10) 。 しかし、この地租改正法に基づく納税義務は、納人規定の納税義務と同じ意味 なのか否か、すなわち租税国家における人民と国家の関係はもはや封建的な政 治体制における関係とは異なるのであり、この状況を踏まえて納人規定を如何 に理解するかが問われることになるのではないだろうか。 ( 2 ) 3 条の納人規定以外の規定  歳入歳出出納規則は、 3 条以外に納人に関わるどのような規定を置いている のか見てみる(11) 。  第19条「第一部歳入中内國税ヲ徴收スルトキハ北海道廳長官若クハ府知事縣 令ノ命令ニ據リ郡區長ヨリ戸長若クハ各納税者ニ對シ徴税令書ヲ發スルモノト ス」  第20条「戸長ハ徴税令書ヲ受タルトキハ其町村一人別納額元帳ニ據リ各納税 者ニ徴税傳令書ヲ發スルモノトス」  第21条「第一部歳入中關税及第二部歳入中税關ノ諸收入ヲ徴收スルトキハ大 藏大臣ノ命令ニ據リ税關長ヨリ各納人ヘ納額告知書ヲ發スルモノトス」  第22条「第二部歳入〔税關ノ諸収入ヲ除ク〕徴收スルトキハ各廳ノ收支命令 官ノ命令ニ據リ會計主務官ヨリ各納人へ納額告知書ヲ發スルモノトス」  第24条「戸長ハ徴税令書ヲ受領シタルトキハ納期日以前ニ各納税者ニ徴税傳 令書ヲ發シ税金ヲ取纒ムヘシ」  第26条「關税、税關ノ諸收入及物品ヲ以テ徴收スルモノ又ハ第十六條但書ニ 屬スルモノヲ除キ其他ノ歳入ハ總テ納人ヲシテ現金ヲ金庫ニ納付セシムヘシ」  第28条「第二十六條ニ據リ納人ヲシテ現金ヲ金庫ニ納付セシムルニハ同時ニ 徴税令書若クハ納額告知書ヲ持參セシムヘシ」  第29条「金庫ニ於テ納人ヨリ歳入ヲ領收スルトキハ其持參シタル徴税令書若 クハ納額告知書ニ領収ノ證ヲ記シ之ヲ納人ニ交付スへシ・ ・ ・」

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 第31条「關税及税關ノ諸收入ハ納人ヲシテ現金ヲ金庫ニ預ケシメ其預リ證書 ヲ以テ税關ヘ納付セシムヘシ」  第68条「金庫ハ各納人ヨリ收入金ヲ領收シタルトキハ毎日之ヲ其徴税令書若 クハ納額告知書ヲ發シタル廳へ報告スヘシ・ ・ ・」  以上が、歳入歳出出納規則に規定された納人に関係する条文である。納人は 納税者であるから納税の主体であるが、国とのなんらかの関係が築かれている かというとそのような面は見られない。簡略化すれば、納人→戸長→国という 納税システムの構築が示されているにすぎない。  歳入歳出出納規則の後の法令は、明治22年会計法(明治22年 2 月11日法律第 4 号)となる。ただ、会計法本文には納人に関わる規程は見当たらず(もちろ ん重要規定はあり、たとえば第 5 条は総予算の帝国議会への提出、第10条は租 税法律主義などが規定されている)、明治21年 9 月27日の内閣総理大臣による 会計法草案の説明(12) において関連事項が見られるにとどまる。たとえば草案の 第 1 章総則第 4 条は「名義ノ如何ヲ問ハス法律ノ效力ニ據ラスシテ租税賦役ヲ 課スルヲ得ス」と規定するが、その説明は「本條ニ租税トアルハ一般國民ノ義 務トシテ課スル所ノ金錢物品」であるとする。また、第 3 章収入第12条は第 1 項で歳入金を金庫に納入した際にはその目的を記入した領収証を発行すると し、続く第 2 項で「右ノ領收證ハ納人ノ政府ニ對スル義務ヲ解除スル證書トナ ル」と規定する。その説明によると、「本條ハ納人ノ義務解除ノ方法ヲ定メタ ルモノナリ」とする。これらの規定するところの意味は明らかであり、国の徴 税権力は当然の前提であり、人民の納税は当然の義務とする理解がそこに見ら れる。  会計規則(明治22年 4 月30日勅令第60号)(13) には、前述の内閣総理大臣草案 の本文に見られた納人に関する規定が取り込まれている。  第25条「收入官吏現金ヲ以テ租税其他ノ收入ヲ領收スルトキハ其領收證ヲ納 人ニ交付スヘシ」  第27条「金庫ハ收入官吏又ハ納人ヨリ租税其他ノ收入金ヲ領收スルトキハ收 入ノ目的ヲ記入シタル別符付ノ領收證ヲ拂込人又ハ納人ニ交付スヘシ」

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 第29条「納人ヨリ租税共他ノ收入金ヲ直接ニ金庫ニ納付シタルトキハ收入官 吏ハ金庫ヨリ納人ニ交付シタル領收證ニ檢印シ別符ヲ切離シ領收證ヲ納人ニ返 付スヘシ」  なお、会計法の最初の法案とされる会計原法草案(いわゆる阪谷草案、明治 20年 7 月 7 日)(14) には納人規定は見られない。その理由は、阪谷が影響を受け た外国法にあると推測できる。阪谷はイギリス法とフランス法に影響を受けた といわれる。とくに予算についてはイギリスの影響が強く、国王を置きながら も議会の課税同意権を根拠とする議会による国王への統制と議院内閣制に見ら れる内閣による政府の実権掌握の導入である(もちろん、イギリス議会と日本 の帝国議会の実質的な内容の違いについてはここでは言及しない)(15) 。会計法 は最終的には明治憲法と同じくプロイセンを範とした内容となるが、大蔵省に よる財政権の統制という方向性はイギリス型でもプロイセン型でもどちらを採 用しても骨格となっている。  ここまでを一旦まとめると、明治政府による旧慣に依る徴税システムを明確 にし強化するために諸法令を整備することで制度化を図った。納人規定はその 一環として国家に従属する人民という構図を描いたものであり、必ずしも人民 と国家の関係を近代的に構築する意図を有してはいなかった。近代国家の体を 顕しながら、近代立憲主義以前の体制を維持し、大蔵省の統制権強化(16) (金庫 統一)の一環として納人規定は規定されたにすぎない。このように見ることが できるならば、租税法律主義の規定の意味するところも同様に理解することが できそうである。ただ、なぜこの時期に納人規定が突然登場するのかは明らか ではない。この点を所得税の導入との関わりでみてみる。 ( 3 )所得税導入との関わり  明治20(1887)年に所得税が創設される。所得税が導入されるまでは地租 (明治 6 年に地租改正が行われた。これにより土地の地価の 3 %が地租として 課税された)と酒造税が税収の中心であり、導入後の明治22年においても主要 税目の割合は地租59.2%、酒造税23.1%、所得税1.5%であった(17) 。地租改正

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により国家は安定した収入を確保することができるようになったが、なぜ所得 税を導入する必要があったのか。  所得税はイギリスで1798年に初めて創設され、日本の導入は明治20(1887) 年である。明治17年には大蔵省はイギリスを参考にして所得税法の草案を作っ ていた。その後の明治20年の所得税法はプロイセンの影響が強い内容となった が、この時期は近代的な税制を確立するため外国の税制を検討していた(18) 。  所得税は財政需要が増大するなか、酒税などの増税で財源を確保すると共 に、それだけでは不足する軍備拡張のために所得税が導入されたとか(19) 、ある いは、国家体制の近代化すなわち支配機構の整備のために必要な財政行政機 構・予算・会計制度の整備をすることで国会開設・憲法制定以後も政府の財政 権を維持すること(すなわち、できるだけ多くの税目を旧税として確保するこ とで、国会開設後も旧税に対する大蔵省の権限を保持すること)ならびに国民 の租税負担の不公平是正のため(20) といわれる。私もこれまで、明治19年 4 月か らの会計年度の改定について軍事費を賄うための改定であったこと、明治維新 後憲法制定までの間の財政機関および財政法令の整備が憲法制定後における政 府の財政権力の維持のためであることを確認してきた。所得税の導入もその一 環と捉えることができそうである。  所得税は当初は個人にのみ課税され(明治32年には法人の所得にも課税され ることとなり、第 1 種法人の所得、第 2 種公債社債の利子、第 3 種個人の所得 となった。)、 1 年の所得が300円以上の者が対象とされた。納税者は所得の予 算金高・種類を所得金高届に記し、居住地の戸長を経て郡区長に届け出るとい う方法がとられた。大蔵省は商工業者からの所得税収を想定していたが、実際 には都市の富裕層が対象の中心であった。ただそれだけでは納人規定の解明に はならない。  所得税法の構造を見ることで再度アプローチしてみたい。引き続き高橋論文 に依拠してみたい(21) 。高橋によれば、初期所得税制の大要は、(一)納税主体 は戸主である個人(同居親族に所得ある場合は戸主に合算)であり、法人は課 税されない。(二)総合課税方式によって課税される。(三)所得算定の方式と

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しては、( 1 )利子および配当所得、給与所得などはその全額を予算主義によ り申告する、( 2 )その他財産および営業所得は収入高より必要経費(国税・ 地方税―町村費を含む―・原料の原価・仕入原価・種代・肥料代・事業用の借 地借家料・修繕費・労務費・利子・雑費)を除いたものの前 3 年間平均主義に よる。(四)免税点は300円で、五等級の全額累進税率をとる。すなわち、300 円→ 1 %、1,000円→1.5%、 1 万円→ 2 %、 2 万円→2.5%、 3 万円→ 3 %。 (五)所得の査定は郡区長が調査委員会の決議によって行う。郡区長を下部徴 税機関の責任者とする。(六)調査委員会は各郡部について 5 ~ 7 名で構成 し、委員は納税者の間接選挙によって選出する、というものである。  注目するのは納税主体が個人であるという点である。法人には課税されない ので法人税免除の優遇策が採られたことになるが、このことによって企業数が 増大し、資本主義が飛躍的に発展することになる。そして300円以上の個人所 得に対して課税されるが、たとえば明治21年末の 3 府 6 県の土地所有者でみる と、納税者は10町歩以上の土地所有者であり、戸数は39,265戸、全個数に対す る割合は0.99%であった。したがって、所得税は有産者に対する富裕税の性格 があることが認められ、徴税を確かなものにするために調査委員会を設置し、 委員は事実上高額所得者が選出されることで自ら徴税業務に係わる構造がとら れたのである。  また、明治22年法律第 9 号国税徴収法ならびに同年法律第32号国税滞納処分 法が制定されたが、国税のうち、個人を対象とする地租、所得税などの一部の 国税の徴収は市町村の義務(市町村徴収委託制度)とされ、税の滞納があった 場合一般債権との関係で租税優先権が重視され(22) 、ここでも確かな徴税構造が 作られている。  ところで、所得税は富裕税の性格があることをすでにみたが、富裕層からの 反対はなかったのだろうか。  明治20年 2 月 2 日の元老院における審議で大蔵大臣松方正義は海防費増加の ための新税導入の必要性と貧富両者の課税の公平を図ることを強調したが、法 制局参事官岩崎小次郎は、所得税は「国家ニ対シテ其富裕家タル本文ヲ尽スコ

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トヲ得セシメン」として、富裕層が国家に貢献すべきことを述べている。300 円以上の所得にはすべて課税され最大でも 3 %の税率であることから軽微な課 税であるというのである(23) 。  所得税法案が議論され始めた明治17年頃は財政赤字問題を抱えていた時期で ある。明治17年に会計年度の改定( 7 月から翌年 6 月の会計年度を 4 月から翌 年 3 月までとし、明治19年 4 月から実施)が示された。その主な理由は酒造 税・煙草税・醤油税増税による増収が当初は好調であったがこの頃になると減 収に転じ、これ以上の増税は望めないことになった。それに加え、壬午事変 (明治15年)を機とした海軍皇張が主張され、翌年から皇張計画が進められ た。しかし財政赤字の状態で皇張費の見積もり約750万円の工面に苦労し、そ の対策として明治18年度(明治18年 7 月から翌年 3 月までの 9 ヶ月の会計年 度)の酒造税 2 期分と 3 期分( 1 期の納期は 4 月、 2 期は 7 月、 3 期は 9 月) を明治17年度に繰り入れ、明治18年度の酒造税を 0 円とし、明治19年度から 1 期の納期分から収入とすることにした。また合わせて、定額予算制を採用する ことで各省庁には緊縮財政を要請した。これで当面は乗り切るものの、財政不 足が解消されたわけではないのである。財源確保のために導入されたのが所得 税ということである。この認識に立つと、次の指摘は重要である。「海軍皇張 のための間接税の増税路線(24) が松方デフレ(25) の影響により行き詰まり、直接税 の新税導入が必然化したこと、酒税を中心とする間接税は貧富の差による負担 の均衡を欠くため、間接税の補完税として中等以上の階層に課税する所得税 が、新税として選択されたということである。明治十七年の大蔵省草案が、 「現行税法ニハ単ニ基準ヲ増シ以テ歳入ノ増加ヲ求ムルノ道ナキノミナラス、 漸次改良セサル可カラザルノ時期ニ臨メリ」と所得税導入理由を説明している のは、現状では地租や酒税などの間接税にはもはや増税の余地はないとの認識 を率直に示したものだったのである。また、所得に応じた公平な負担とは、と りわけ明治十四年度以降の地方税負担の増加のなかで強まってくる考え方であ る。こうした納税者の要求も、所得税が適切な新税と評価された理由だったと 考えられる。」(26)

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 なお、それにとどまらず、富裕階層に対する直接税としての所得税の納税義 務と引き替えに、選挙権・被選挙権を付与するという制限選挙制を導入するこ とで、富裕層勢力を国会に取り込むという政治の思惑があるという指摘もあ る(27) 。 ( 4 )まとめ  以上からわかることは、まず納人規定に「戸長」が規定されるが、戸長は直 接の納税義務者ではなく税事務取扱者であり、徴税を確かなものにするための 規定と思われる。実際の課税対象者は納人規定の「納税者」である。納税者は もちろん広範にわたり、これまでみてきた所得税の納税者や地租の納税者に限 らない。しかし所得税が議論されはじめた明治17年以降から法が制定された明 治20年という時期と、歳入歳出出納規則が制定された明治19年は、時間的に重 なることから推測すると、所得税は直接税だからこそ納税者に語る必要があっ たといえる。所得税制定にあたりイギリス型からプロイセン型への転換という 事態があったにせよ、国家・大蔵省による統一的財政権力の確立の方向性は大 蔵大臣松方の下では不変のものであったはずである。その視点から、納税者に よる納税を確かなものにする意図を見て取ることができる。したがって、納人 規定は納税者と国家との関係を構築する意図で規定されたものではなく、民主 的な要素をまったく持ち合わせていないのである。極めて国家の都合による規 定以外のなにものでもない。 3  予算の取扱い ( 1 )ロエスレルの影響  予算の取扱いについて、ロエスレルの影響が強いことが指摘されている。井 上毅が、予想できない諸事情のために予算外の支出が生じ、物価の変動によっ て意外な不足が生じ、また政府と議会の意見が一致しない予算が成立しない場 合があるから、このような国家生活の現実に照らすと、議会が予算を議決する 全権を有するとする理論には到底遵奉し難く、議会による政府の制肘は免れが

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たい。とすれば、「兵權ノ如ク税權モ亦議院ノ全權ニ委スベカラザルコトヲ發 見シタ」として「税權ヲ政府ノ手中ニ存スル爲ノ方法」を問いかけた。それに 対しロエスレルは、 「近世ノ國家ニ於テハ其財政ハ専ラ特有權ニ基カズシテ租税ニ基ケリ。政府ハ 租税ニ關シ官有地ニ於ケル所有權ヲ有スルヲ得ズト雖、其必要トスル費途ニ關 シ法律上ノ請求權ヲ有スルヲ得ベシ。如何ニシテ其請求權ヲ得ベキヤニ至テハ 蓋會計豫算ハ卽チ法律ナルガ故ニ議院ノ承諾ヲ得ルニ非ザレバ効力ヲ有セズト 云ヘル議院爭論ノ説ヲ排棄スルコト、又會計豫算ニ於ケル議院ノ參與ヲ以テ自 由ナル承諾權ト解釋セザルコト是レナリ。夫レ會計豫算ハ一モ普通ノ規準ヲ有 セザルガ故ニ固ヨリ法律ニ非ズ。却テ或ル収入支出ノ全權ヲ與フルモノナリ。 此全權ハ随意ニ之ヲ付與シ、又ハ拒否シ得ベキモノニ非ズ。何トナレバ若シ之 ヲ拒否スルトキハ、政府ノ運動ヲ阻止シ、國家ノ命脈ヲ危クスルニ至レバナ リ。故ニ會計豫算ニ於テハ承諾ノ權アルノ理ナシ。」 「若シ此ノ問題ニ關シ議院ニ勢力ヲ與フルヲ以テ巳ムベカラズトセバ、單ニ豫 算ハ法律ニ準據シタリヤ否ヤヲ審査スルノ參與權ヲ以テスベク、無限ノ承諾又 ハ拒否ノ權ヲ與ヘ、此ニ依テ國君ノ憲法上ノ權利ヲ滅絶スルヲ得ザラシムベキ ナリ。」(28)  すなわち、議会には予算が法律に準拠しているか否かだけを審査する権限を 与えるのみであるというのである。その影響によって、会計予算は法律ではな く、行政権に属するものなので、立法権とは異なり議会は決定権を有しないと いう考え方になる(29) 。この考え方は明治憲法起草段階から起草者たちによって 支持され、明治憲法の条文においてもそれが反映されている。たとえば、明治 憲法63条は旧税存続、同64条は予算に対する帝国議会の協賛権、同66条は皇室 経費に対する帝国議会の関与否定、同67条は天皇の大権支出、政府の義務費に 対する帝国議会の関与否定、同70条は国家緊急の際の財政支出の容認、同71条 は前年度予算施行主義の規定である。

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( 2 )若干の学説  このような事態はロエスレルを介してプロイセン型の導入であると理論的に は説明されている。では、学説上はどのように解されていたのか、若干の代表 的学説を見てみる。  ①伊藤博文『憲法義解』によると、予算は会計年度のために歳出歳入を予定 し、行政機関をその制限に準拠させる。国家の経費に予算を設けるのは財政を 整理する初歩である。弁明を要するのは各国において予算を法律と認めている ことについてである。予算は行政官の存衆すべき準縄を定めたものにすぎず、 特別の性質により議会の協賛を要するものであり、本然に法律ではない。なぜ ならば、予算は議会の承諾を経るが、特別の一事に限って普通に遵由させる条 則でないものは、法律と性質を殊にするからである、とする(30) 。本書は伊藤著 の形をとっているが主に井上毅が執筆したと言われていることからも、ロエス レルの説明と大差ないことがわかる。  ②穂積八束『憲法提要 下巻』は、「租税ノ賦課徴収ハ法律當然ノ効果ニシ テ議會毎年ノ承諾ニ待ツモノニ非サル」とし、「議會ノ豫算議定ノ權ハ彼ノ歐 洲國會ニ於ケル租税承諾權ノ遺物」とは異なり、これまでにすでに「豫算會計 表ノ制アリ、蓋大權ヲ以テ行政ノ官衙ヲ監督スルノ用ヲ為シ」ている。「豫算 ハ法律ト同シク政府ト議會トノ約束ニ非スシテ君主ノ命令ナリ」、「法理上豫算 ノ効力ハ法律ト同シク議會政府共ニ之ヲ尊重シ依準スヘキノ國家ノ示命タルコ トニ在ルヲ忘ルヘカラス(31) 」と強く述べている。憲法義解と異なるのは、「豫 算會計表ノ制アリ」として法理上だけではなく、これまで明治政府が取り組ん できた制度構築を正面から肯定しようというところに穂積の特色がある。  ③副島義一『日本帝國憲法要論』は、「豫算ハ政府ノ財政行為ニ關スル制 令」として標準を定めたものであり、議會はそれに協賛するものであるとす る。そして、諸学説を紹介したあと、上記穂積と同様に、明治 6 年以降明治22 年会計法が制定されるまでの制度を逐一取り上げ、「憲法ハ憲法制定當時ノ制 度ヲ採用シタルヤ明カ」であり、変更するのであれば憲法に明文で規定したは ずであるとして(32) 、理論ではなく現実の政治制度を重要視した見解を展開し

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た。  ④美濃部達吉『憲法講話』は、「議會が租税に協賛するのは形の上に於ては 常に法律に協賛することとなる」としたうえで、予算は実質的に人民を拘束し ないので法律とは区別されるとして予算の形式についてはあまり関心を寄せ ず、ただ立憲制度の下における予算は国会が政府の財政に対して同意を与える 点が重要であるとする。そして日本においてどうかというと、「人民の租税承 諾權というようなものは、憲法以前には嘗て認められたことは無かった。租税 は専ら政府が自由に之を定めて人民に賦課して居ったのであるが、ただその使 途に付いては政府が自ら豫算を定めて之に依って支出して居たのである。立憲 制度を行ふことになってからの豫算制度も、亦大體に於て此の専制時代の豫算 制度を其の儘維持して」(33) きたと指摘する。この指摘は重要であると考える。 とくに人民の租税承諾權についての言及は他の書物には見られず、しかし当時 においてもこのことが認識されていたことが明らかとなったのである。  ⑤松本重敏『憲法原論』は、「我憲法ハ統治上ノ収支即チ歳入歳出ノ見積ヲ 豫算」と称するとして予算は法律ではないとするが、さらに財政の計画でもな いとして、単に収支の見積表にすぎないとする(34) 。しかしこの理解では、立憲 制度の意義、国会の協賛の意味などをほとんど顧慮しないことにならないだろ うか。  ⑥清水澄『帝国憲法論』は、「豫算ノ性質ハ此ヲ絶對ニ論定スルコトヲ得 ズ。其國國ノ制度及ビ歴史ニ依リテ定マルベキモノ」であり「我國憲法上ノ豫 算ハ…政府ニ對シ下ス所ノ財政上ノ訓令タルナリ」として、法律予算説、予算 は政府に対する帝国議会の財政上の委任状とする説、豫算は政府の責任を免除 するとする説をすべて否定し、豫算は行政行為に属する財政計画であると説明 する(35) 。 4  まとめ  納人規定の意味を探るのが本稿の目的である。  これまで見てきたように、明治維新以降明治憲法制定前までの予算の取扱い

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を見ると予算は予算として作られてきた。これが慣行であった。理論の不存在 である。予算は国の財政計画であり、行政が制定する法形式は存在したが、立 法の形式はそもそも存在しなかった。したがって、予算は法律であるという発 想それ自体が存在しなかった。予算は行政であるという考え方があるのみであ る。  この確認が納人規定とどう関わるか。それを知ることができるのは、美濃部 による人民の租税承諾権が認められたことはなかったという指摘である。端的 に結論を述べれば、納人規定に意味はないということである。残念なことであ る。だが、明治政府、明治国家と平面的に記述してきたその実態を改めて確認 すると、藩閥明治政府は半封建的警察政治国家的本質を持ち、たとえば自由民 権運動の完全な抑圧対応に見られるような絶対主義的側面を持っていた(36) 。こ のことを改めて認識すると、穂積、副島など他の論者の見解からも明らかなよ うに、立憲体制後においても旧権力体制を守ることに全力が注がれていたので あり、納人への配慮を認める素材は全くないという結論に至らざるを得ない。 明治19年度歳計予算が勅令で制定され、続く20年度、21年度、22年度も同様で あった。明治22年会計法(37) の制定経緯もこのことを顕している。 注 ( 1 ) 柏﨑敏義「明治初期の財政制度構築―財政機関および明治元年~14年の財政法令の整 備」浦田一郎先生古稀記念論文集『憲法の思想と発展』(信山社、2017年。以下、柏﨑 ①)431頁、同「明治初期・立憲体制直前の財政法令―明治15年~22年の財政法令の整 備」戸波江二先生古稀記念論文集『憲法学の創造的展開』(信山社、2017年。以下、柏 﨑②)623頁参照。 ( 2 ) 大蔵省内明治財政史編纂会編纂『明治財政史』(明治財政史発行所、1926年。以下、 『明治財政史』)第 1 巻774頁。なお、この規則は、大蔵大臣松方による「国会開設に伴 う予算審議に対応させるため」のものであり「法規は未整備」であるとの見解がある (坂入長太郎『明治前期財政史』(酒井書店、1988年)380頁)。 ( 3 ) 柏﨑②・前掲注( 1 )627頁以下。

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( 4 ) 片上孝洋『近代立憲主義による租税理論の再考』(成文堂、2014年)23頁。本書は、 租税を国民から国家への贈り物であると主張する(33頁以下参照)。共同体における平 等な共同の利益享受と平等な経費負担とする共同体における租税論について、島恭彦 『近世租税思想史』(有斐閣、1948年(再版))27頁以下参照。 ( 5 ) 版籍奉還と財政の関わりについて、坂入長太郎『明治前期財政史』(酒井書店、1988 年)89頁以下。 ( 6 ) 清宮四郎『新憲法と財政』(国立書院、1948年)15頁。 ( 7 ) アダム・スミスについて佐々木寛司「租税国家と地租」近代租税史研究会編『近代日 本の形成と租税』(有志舎、2008年) 7 頁。 ( 8 ) 神田の「田租改革之建議」については、佐藤正男「土地税制史―評価を中心として ―」税大論叢39号(2002年) 9 頁から引用。また、内田正弘『明治日本の国家財政研 究』(多賀出版、1992年)74頁も参照。同書は神田の近代的国家財政と適合的な租税の 近代化案について詳しい紹介がある(69頁以下)。 ( 9 ) 伊藤博文編『財政資料 中』(原書房、1970年)600頁も参照。 (10) 坂入長太郎『日本財政論』(新評論、1975年)41頁。 (11) 『明治財政史』・前掲注( 2 )773頁以下。 (12) 『明治財政史』・前掲注( 2 )803頁以下。 (13) 『明治財政史』・前掲注( 2 )833頁以下。 (14) 小栁春一郎編著『日本立法資料全集 4  會計法』(信山社、1991年)167頁以下。 (15) 小嶋和司『日本財政制度の比較法史的研究』(信山社、1996年)11頁以下参照、小栁・ 前掲注(14)20頁以下。 (16) 小栁・前掲注(14) 8 頁。 (17) 大正 9 (1920)年には国税第 1 位となる。税務大学校 https://www.nta.go.jp/ntc.sozei/ tokubetsu/hl8shiryoukan02.htm.so 参照。明治32年には酒造税が税収第 1 位であり、明治31 年までは所得税の割合は 2 %程度であった。なお国税庁の統計年鑑は次のようである (この表は小栁春一郎「明治期の滞納処分制度」税大ジャーナル14(2010年) 3 頁から 引用)。

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表 1  明治期の国税の税目別税収概況(単位 万円) 内国税決算額計 地  祖 酒(類)税 税収第 3 位の税 明治10(1877)年度 4556 3945(86%) 305(7%)郵便税 81(2%) 明治20(1887)年度 6212 4215(68%)1307(21%)煙草税 159(3%) 明治30(1897)年度 8689 3796(44%)3110(36%)煙草税 493(6%) 明治40(1907)年度 24103 8497(35%)7840(33%)所得税 (8)2729(11%) 出典:『国税庁統計年報書第100回記念号』(昭和51)41頁 (18) 牛米努『近代日本の課税と徴収』(有志舎、2017年)12頁以下。 (19) 林健久『日本における租税国家の成立』(東京大学出版会、1965年)295頁。 (20) 高橋誠「初期所得税制の形成と構造」経済志林第26巻第 1 号(1958年)55頁。所得税 の導入は税負担の公平化にあるというのはあくまで立法を正当化するための名分であ り、現実は「不平準」の微調整であったとする指摘もある(織井喜義・山本洋「創成期 の所得税制叢考」税務大学校論叢20(1990年)38頁)。 (21) 高橋・前掲注(20)70頁以下。 (22) 小栁・前掲注(17)12頁。 (23) 牛米・前掲注(18)43頁。 (24) 大蔵大臣松方は「軍備皇張費之議」(明治15年12月26日)で「今般陸海軍備更張ノ儀 被仰出両卿ヨリ差出候見込書御下付相成意見具状可致旨御達ニ付」「増税ノ概算額取調 …造酒煙草之諸税額一ヶ年七百五拾万円ヲ収入シ得可キ見込ニ有」と述べている(織 井・山本・前掲注(20)48頁)。現実にどの程度の海軍費であったというと、明治11~ 15年度は毎年300万円前後で推移していたが、19年度以降は900~1000万円へと膨張し た。その理由は老朽艦の修理費の増大あるいはそれを避けるための新艦製造・海外発注 にあった。たとえばいわゆる軍備部方式のプランは、明治19年度で新艦製造費300万円、 軍艦維持費200万円、その他を含め計734万円とされた。詳しくは、室山義正『近代日本 の軍事と財政』(東京大学出版会、1984年)97頁以下参照。また、海軍卿川村純義によ る軍艦製造のための費用増額の上申書につき、伊藤博文『財政資料 下』(原書房、 1970年)95頁以下参照。 (25) 松方デフレの評価につき大森徹「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影

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響」日本銀行金融研究所『金融研究』(2001年)152頁参照。大森によれば、通説と異な り、すでにデフレ局面に入っていた時期に松方が増税、緊縮財政を実施した結果、物価 の下落を加速させたとみる。 (26) 牛米・前掲注(18)30頁。あわせて牛米努「松方財政下の税制構想」近代租税史研究 会編『近代日本の形成と租税』(有志舎、2008年)88頁も参照。 (27) 織井・山本・前掲注(20)59頁。 (28) 鈴木安蔵『憲法制定とロエスレル』(東洋経済新報社、1942年)432頁以下。 (29) 櫻井敬子「国家財政の基本構造(三)」国家学会雑誌111巻 1 ・ 2 号(1998年)85頁以 下。 (30) 伊藤博文・宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波書店、1940年)106頁以下。 (31) 穂積八束『憲法提要 下巻』(有斐閣、1910年)870頁以下。 (32) 副島義一『日本帝國憲法要論』(厳松堂書店、1916年)127頁以下。 (33) 美濃部達吉『憲法講話』(有斐閣、1918年)237頁以下。 (34) 松本重敏『憲法原論』(厳松堂、1922年)948頁以下。 (35) 清水澄『帝国憲法論』(明治大学出版部、出版年不明)192頁以下。 (36) 鈴木安蔵『史的唯物論と政治學』(中央公論社、1949年)170頁、178頁。 (37) 長山貴之「明治22年会計法と予算制度」香川大学経済学部研究年報41(2001年)103 頁以下に予算編成手続が詳しい。 ―かしわざき としよし・東京理科大学理工学部教授―

表 1  明治期の国税の税目別税収概況(単位 万円) 内国税決算額計 地  祖 酒(類)税 税収第 3 位の税 明治10 (1877)年度 4556 3945 (86%) 305 (7%)郵便税  81 (2%) 明治20 (1887)年度 6212 4215 (68%)1307 (21%)煙草税  159 (3%) 明治30 (1897)年度 8689 3796 (44%)3110 (36%)煙草税  493 (6%) 明治40 (1907)年度 24103 8497 (35%)7840 (33%)所得税

参照

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