李朝漂着中国帆船の「問情別単」について(上)
その他のタイトル On the Wen Ging Bio Dan (問情別単) Made up for the Chinese Merchant Vessels Cast Ashore on the Korean Coast in the Yi (李) Dynasty.
(1)
著者 松浦 章
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 17
ページ 25‑83
発行年 1984‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16041
中国の海事史を研究する際に︑一番困難な点は︑中国史全体から
見れば︑その資料が乏しく︑しかも︑それらの多くは諸書に散在し
ているため︑時間をかけて逐次収集しなければならないことであ
① り︑さらに︑資料の乏しい理由として︑中国の海上交通や航運等の
一︑ 緒
言
李朝漂清中国帆船の
目次 一
︑ 緒 言
二︑
李朝
漂着
中国
帆船
と﹁
問情
別単
﹂
漂着
資料
﹁問
情別
単﹂
Hし肉︵本号︶
g
以降
︵次
号︶
三︑
﹁問
情別
単﹂
より
見た
清代
海上
貿易
山 沿 岸 貿 易
② 海 外 貿 易
四︑
﹁問
情別
単﹂
より
見た
清代
海上
交通
五︑
﹁問
情別
単﹂
より
見た
清代
社会
六
︑ 小 結
船が海上航行をおこなうかぎり︑海難事故は避けられないもので
あろうが︑従来の中国側の歴史資料には漂着に関する例を多く見な
② かった︒ところが︑朝鮮半島や日本列島︑南西諸島に眼を転じると︑
その例は決して少なくないのである︒これらの地では︑他国船のこ
とでもあり︑各国々の自国船のものに比較して︑概して珍貴な記録
③ として詳細に記され残されている例が多々あると言える︒
そこで︑本稿は︑これらの一っとして李氏朝鮮時代に朝鮮半島に
漂着した中国帆船を調査した際の問答記と言うべき資料を︑この分
野の新らたな資料として追加したく︑稲を草した次第である︒ きものをあげたい︒
二五
歴史そのものが︑従来︑附随的に扱われてきたことによるものと思
このような意味で海事史資料の欠を補うものとして︑これまで等
閑視され︑あまり注意を引かなかった中国帆船の漂着資料と言うべ わ
れる
︒
ヽ
﹁問情別単﹂について上
︵
松
浦
章
されており︑それがここに言う﹁問情別単﹂である︒これらは﹁凛
人問情別単﹂とか﹁漂漠問情別単﹂等々と漂着地名や通訳の名を付
けて題せされ︑中国船の乗組員の構成︑航海目的︑積荷︑船客の渡航
目的さらに中国の現状等についての数々の質問と返答が詳細に記さ
れていて︑同時代の中国側資料には見られない貴重なものである︒ この書に︑朝鮮半島に標着した中国帆船に関する問答記録が収録 ︑こミ︑て
"
t
ヵ 李氏朝鮮時代にどれほどの中国帆船が漂着したかは︑既に紹介し④ たところであるが︑さらに︑朝鮮国側では幾つかの船について詳細
その記録とは﹃備辺司謄録﹄に掲載されている﹁問情別単﹂と題
せられている調査問答記録である︒
﹃備辺司謄録﹄は︑成宗十三年︵明・成化十八︑一四八二︶に辺防
明宗十年︵明・嘉靖三四︑一五五五︶に 緊急の必要から︑辺事に精通する堂上官より選抜し︑辺務備禦を合
議させたことに端を発し︑
は庁舎が創建され定制化した備辺司の日々の詳細な記録であり︑李
朝の政局における箸議遂行の典拠として唯一の秘本として保存され
一九五九年四月より六
0
年十月にかけて大韓民国国史綱纂委員会より謄写原稿をもとに全二八冊に分冊し影印出版されたも
⑤ ので︑同時期の朝鮮︑日本︑中国の対外関係史を専攻する者にとっ
て欠くことの出来ない資料である︒ な調査をおこない︑記録を残している︒
二
︑ 李 朝 漂 着 中 国 帆 船 と
﹁ 問 情 別 単
﹂
間蒙 萬暦四十五年(‑六一七︶七月二十七日浦口瀾漂着船︵﹃備邊司謄録﹄第一冊︑光海君十年丁巳九月十九日條︑刊本一冊四八
i
五0
頁 ︶
萬暦四十五年九月十九日
一名酵萬春︒年五十五歳︒係輻州府扁清縣水手︒俺等一顆四十一人︒
委於本年七月十二日︒討得福州府間縣奉院道頒給紅田執照雇駕紅戸
林成海紅一隻︒自寧波府寒海縣︒開使将到沙埋地面︒遇賊多人︒賂
帯銀貨二千餘雨︒併被抄揺︒遺下衣服薬料︒牧拾装載︒十九日在洋
内︒息遇腿風院作︒海中東漂西轄︒二十七日到浦口濶泊︒初不知是
何虞地面︒随有雨層板屋紅三隻︒上載許多軍兵︒束続僅紅︒俺等書
上國人三字於紙面︒掲示軍兵︒木紅長官︒就許俺等替上兵紅゜餓以
酒食︒兼演米糠︒例搬俺等在紅物件︒帯回本國慶尚道統制使螢安歌︒
國王︒差委通事官前去帯末︒所供是貿゜
一名葉如欽︒年五十五歳︒係幅州府間縣民人︒供典膵萬春相同︒所
供是
賓゜
(一) 〇漂着資料﹁問情別単﹂ ︶は原本注︑︹は の順番は漂着年月日の順である︒尚本稲で使用した﹃備辺司謄録﹄
上 記 の 二 八 冊 本 で あ る
︒ 資 料 の
︵
︺ は 筆 者 注
︒
上︑題名及び刊本記載の所在を記し紹介していくことにする︒掲載 そこで︑管見に入ったものを順次︑若干の内容紹介を加え︑便宜
二六
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ 一名黄摯︒年三十歳︒係延平府南平縣民人︒供典酵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名王敬︒年四十歳︒係幅州府南平縣水手︒供奥膵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名王欽︒年四十三歳︒係延平府南平縣民人︒供典酵萬春相同︒所
供是
貿゜
一名王九︒年二十九歳︒係延平府南平縣民人︒供膵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名王オ︒年二十三歳︒係輿供典王九相同︒所供是賓︒
一名苑二︒年五歳︒係延平府南平縣水手︒供典酵萬春相同︒所供是
質 ︒
一名苑可︒年三十歳︒係延平府南平縣民人︒供輿酵萬春相同︒所供
是賞
︒
一名魏新︒年三十三歳︒係延平府南平縣民人︒供興膵萬春相同︒所
供是
賓゜
一名塵艮︒年三十八歳︒係延平府南平縣民人︒供輿辞萬春相同︒所
供是
買゜
一名爺鳳︒年七十歳︒係邪武府建寧縣民人︒供典膵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名胡敬︒年三十歳︒係輻州府閲縣民人︒供典膵萬春相同︒所供是
賓 ゜
一名王明︒年二十二歳︒係輻州府間縣民人︒供興膵萬春相同︒所供
是賓
゜
是賓
゜
二七
一名季文︒年三十歳︒係郡武府建寧縣民人︒供典酵萬春相同︒所供
是質
︒
一名酵愛︒年四十歳︒係幅州府侯官縣民人︒供輿酵萬春相同︒所供
是賀
゜
ママ
一名酵銘︒年三十三歳︒係祗州侯官縣民人︒供輿酵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名楊應︒年四十四歳︒係揺州府侯官縣民人︒供輿膵萬春相同︒所
供是
賓゜
一名呉隆︒年三十四歳︒係輻州府閲縣民人︒供興膵萬春相同︒所供
是賞
︒
一名呉進︒年二十六歳︒係輿供輿呉隆相同︒所供是賓゜
一名林邊︒年三十五歳︒係祗州府間縣民人︒供興酵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名林吉︒年三十八歳︒係禰州府閲縣民人︒供輿辞萬春相同︒所供
是賓
゜
一名李成︒年二十二歳︒係福州府間縣民人︒供興膵萬春相同︒所供
是質
︒
一名許明︒年三十五歳︒係揺州府間縣民人︒供輿酵萬春相同︒所供
ママ
一名萬成︒年二十六︒係幅州府間縣民人︒供典膵萬春相同︒所供是
質 ︒
供是
賓゜
是賞
︒ 賓 ゜
一名爾晉︒年一十四歳︒係扁州府間縣民人︒供典眸萬春相同︒所供
是質
︒
一名王進︒年一︱︱十歳︒係幅州府間縣民人︒供輿酵萬春相同︒所供是
賓 ゜
一名陳来︒年五十五歳︒係扁州府揺建縣民人︒供輿酵萬春相同︒所
供是
賓゜
一名金台︒年三十歳︒係禰州府間縣民人︒供興膵萬春相同︒所供是
一名鄭六︒年四十歳︒係扉州府間縣水手︒供輿膵萬春相同︒所供是
賓 ゜
一名林太︒年七十歳︒係福州府侯官縣水手︒供輿酵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名陳玄︒年四十五歳︒係扁州府間縣水手︒供輿酵萬春相同︒所供
一名鄭斗︒年四十歳︒係祗州府侯官縣水手︒供興膵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名林立︒年二十五歳︒係輻州府一揺清縣水手︒供輿膵萬春︒所供是
質 ︒
一名林四︒年四十四歳︒係禍州府幅清縣水手︒供輿酵萬春相同︒所
一名陳艮︒年二十九歳︒係輻州府間縣水手︒供興酵萬春相同︒所供
是質
︒
林成船乗船者 (表1)
府 県
I
水 手 名 民 人 吋間 5 13
福 州 侯 官 2 3
福 清 5 1
延 平 南 乎 2 7
郡 武 建 寧
゜
2(計) 14名 26名
(注) 不明1名,「福州府福建県」と
ある陳来は福清県として表記し た。
ものである︒﹁寧波府寒海
県﹂とはおそらく浙江省台 その後︑浙江省方面へ向か 省福州府間県より出帆許可 一名呉紅︒年一十七歳︒係揺州府間縣水手︒供典酵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名陳振︒年五十歳︒係幅州府福清縣水手︒供輿膵萬春相同︒所供
是賓
゜
一名林一︒年四十八歳︒係謳州府扁清縣水手︒供輿酵萬春相同︒所
供是
賓゜
一名周碧︒年六十歳︒係幅州府間縣水手︒供輿膵萬春相同︒所供是
賓 ゜
一名周松︒病未捧招゜
資料日は後述の資料のように﹁問情別単﹂とは題していないもの
の︑李朝側の質問に対して︑航海目的︑漂着の状況︑乗組員の年齢
出身地等について返答したもので︑形式は後の例に類似している︒
ところで︑この船は万暦四五年(‑六一七︶七月十二日に︑福建
を得た船戸林成のもので︑
って︑﹁寧波府寒海県﹂か
ら福建東北の沙垣に向かう
途中︑賊船に遇い漂流した ニ八
(
ヽ ー ︑
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ 李乗公年三十八︑住松江府華亭縣人︒林 沈従先年五十七︑住蘇州府崇明縣人︒李得南年四十三︑住蘇州府長州縣人︒許明義年六十四︑住松江府華亭縣人︒陳
李 紫 王俊侯年六十︑住江西省撫州府架安縣人︒
王
答︒俺等六十五人︒
顧如商年四十七︑住蘇州府呉縣人︒
張文遠年四十四︑住蘇州府嘉定縣人︒
劉 呉
郭
問︒徐等姓名誰︒而何慮人耶゜
曾
済州漂漢問情別輩
奨
州府寧海県の誤記と思われる︒
この船の乗船者はその出身地名の他︑民人︑水手の別を明確にし
ているので表示してみると︑表1のようになり︑不明者一名を除き
林成船の乗組員が十四名と︑その他に船客が二六名いたことが知ら
れ︑乗船者の出身地等を見るに︑福建省福州府を中心に︑その近郊
及び︑間江の中︑上流地域の人々で占められていることがわかるか
ら間北出身者による沿岸貿易船であったと思われる︒
康熙二十六年︵一六八七︶二月二十二日演州漂着船︵﹃備邊司謄
録﹄第四十一冊︑瘤宗十三年丁卯五月十五日條︑刊本四冊三ニー
三六
頁︶
沈肇先年四十九︑住浙江省湖州府烏程縣人︒
襲盛之年四十一︑住江寧府江寧縣人︒
ママ
朱仁宇年三十二︑蘇州府呉縣人︒
洪端鳳年四十三︑住江寧府漂水縣人︒
姜霊界年四十六︑住江西省撫州府臨川縣人︒
陶子秤年三十七︑住浙江省紹興府山陰縣人︒
周艘乾年五十︑住寧國府寧國縣人︒
陳心嘉年三十︑住蘇州府長州縣人︒
劉雲召年二十一︑住蘇州府呉縣人︒
王天武年四十︑住蘇州府常熟縣人︒
曾象功年三十二︑住蘇州府常熟縣人︒
楊茂生年四十︑住揚州府江都縣人︒
二九
義年三十五︑住蘇州府崇明縣人︒
大年五十五︑住湖廣省漢陽府漢陽縣人︒
ママ
瑞年四十三︑住長州府江陰縣人︒
林年三十九︑住蘇州府呉縣人︒
山年四十六︑住蘇州府呉縣人︒
潮年五十五︑住蘇州府崇明縣人︒
先年二十六︑住蘇州府崇明縣人︒
道年三十七︑住松江府上海縣人︒
敬年四十一︑住蘇州府常熟縣人︒
ママ
大年四十︑住長州府靖江縣人︒
翁 翁
李 許
ママ
麻年二十七︑住長州府江陰縣人︒
三年三十︑住蘇州府崇明縣人︒
二年二十七︑住松江府上海縣人︒
太年三十︑住蘇州府崇明縣人︒
四年二十四︑住蘇州府崇明縣人︒
三年二十八︑住蘇州府崇明縣人︒
乙年四十三︑住蘇州府呉縣人︒
選年三十三︑住蘇州府長州縣人︒
文年四十四︑住蘇州府嘉定縣人︒
二年二十九︑住蘇州府長州縣人︒
桂年二十九︑住蘇州府長州縣人︒
壽年三十四︑住蘇州府呉縣人︒
勝年五十︑住淮安府山揚縣人︒
二年三十五︑住松江府上悔縣人︒
二年二十九︑住蘇州府崇明縣人︒
聖年四十三︑住徽州府休寧縣人︒
宇年四十二︑住蘇州府長州縣人︒
押年二十五︑住蘇州府長州縣人︒
龍年二十五︑住蘇州府長州縣人︒
八年五十六︑住揺建省幅州府間縣人︒
耐年三十︑住揺建省幅州府間縣人︒
五年三十六︑住禰建省顧州府間縣人︒ 翁
李 呉
陶
問︑徐等在本土時︑有何身役︑而以何事為業耶︒
答︑俺等素無身役︑以商買為業耳゜
問︑徐等何時何慮狼船︑往干何慮︑漂到本國︑而聞船者幾人耶゜
答︑俺等今年二月十六日︑納税干戸工部︑十七日乗船︑十八日由呉
松口︑偲向大洋︑二十二日晩夕︑卒遇東南風︑是夜三更︑量到
演州腔義界︑敗船升陸︑而同船者七十人︑涼死四名︑其餘則僅
得生活︑而又一人病死突︒
問︑徐等以乗船行商為業︑則所欲往者何慮耶゜ 察楊
周
李 陳
許 李
朱
仲
朱
王
石 王
呉
聾
朱 奨
徐 季
江 姜
江 李
陳
呉
鄭 王
江
捷年三十八︑住揺建省祗州府侯官縣人︒
章年四十六︑住禍建省扁州府侯官縣人︒
壽年四十八︑住幅建省輻州府侯官縣人︒
五年三十六︑住輻建省揺州府侯官縣人︒
三年三十六︑住扁建省揺州府侯官縣人︒
元年
二十
︱︱
‑︑
住松
江府
華亭
縣人
︒
明年二十八︑住蘇州府崇明縣人︒
ママ
義年二十六︑住長州府無錫縣人︒
明年二十五︑住蘇州府崇明縣人︒
華年二十一︑住蘇州府呉縣人︒
二年十五︑住蘇州府呉縣人︒
元年十六︑住松江府華亭縣人︒
輻年十八︑住松江府華亭縣人︒
賓年二十五︑住蘇州府嘉縣人失︒
1 0
︑ ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ 答︑俺等各持物貨︑将向日本長崎島突︒問︑徐等所持者︑何捩物貨︑而所欲買者何物耶︒答︑俺等所持者白絲.杭綾・走紗・人拳・爵香・薬材︑而所貿者銀・
銅・蘇木・海参・ト魚・胡椒等物突︒
問︑徐等曾行商於長崎島者︑未知幾次耶゜
答︑俺等自乙丑至丁卯︑三遭往束突︒
問︑徐等往来長崎島時︑自呉松口幾船︑幾日嘗到耶゜
答︑俺等若遇西南風︑則四畳夜可到癸゜
問︑休等同時幾船︑欲向長崎島者幾船耶゜
答︑俺等蘇州三船同稜︑而卒遇狂風︑船行如飛︑故二隻則不知去向
癸 ゜
問︑徐等年:拇行︑必有公文︑然後可以行商︑而今則無之︑其故何
"
2. o
耳
答︑俺等納税於戸工部︑例出標帖︑而今因敗船︑漂失海中芙︒
問︑徐等年き往束海中︑則海邊地方︑及海中諸島︑必歴見︑而詳知
台潤島在於何方︑古之閲越︑亦在於何方耶゜
ママ
答︑間郎今之輻建省︑越即今之浙江︑台瀾島︑鄭之龍所居之地云︑
而曾無往束之事突︒
問︑台潤島即鄭之龍所居之地︑則鄭之龍之後︑世居其地耶゜
答︑鄭之龍之孫克壊︑癸亥蹄順之後︑始置都督一員︑知州一員︑知
縣二員︑皆以漢人差之︑留兵以守云突︒
問︑徐等以騎船行商為業︑則海路無禁令︑任意往束耶゜ 答︑癸亥以前︑則鄭克壊︑呉三桂︑尚可喜等︑不蹄順︑故海防極厳
癸︑今則天下大平︑海路洞然突︒
問︑近来海路︑有水賊出没之事耶︒
答︑鄭克壊蹄順之後︑別無海賊芙゜
問︑辛酉年間︑蘇州人高子英等︑漂到本國︑自此領送北京癸︑未知
何年蹄道本土耶゜
答︑高子英本以蘇州常熟縣胎生之人︑壬戌四月間︑自北京轄向蕨居
仰移家蘇州城内云︑而相距百餘里︑故不見其人︑只聞偲播之言
癸 ゜
問︑高子英一時同蹄者︑多至敷十餘人︑其中必有相知之人︑未知逢
着打
話耶
゜
答︑高子英同時還家者敷十餘人中︑趙思相・許ニ・許三・毒有生・
鄭公逹五人︑則還家後相見︑而亦聞其言︑毎於朔望︑焚香托手︑
永思本図鴻恩云汽
問︑徐等皆在蘇州隔縣︑蘇州府官員及城周︑可以歴指耶゜
答︑蘇州有撫院一員治軍民︑布政司一員管銀錢︑督糠道一員管田租︑
兵備道一員管軍民人等︑蘇州知府一員管錢糠︑其他管糠同知︑
督根同知︑徳捕同知︑通判織造府等八十餘員︑皆統層撫院︒城
周五十里︑而有間門・晉門・齋門・接門・盤門・甜門六門突︒
問︑徐等或在江西省︑或在浙江省︑或在幅建省︑或在湖廣省︑或在
江南省︑其官之敷︑一如蘇州耶゜
答︑四省官員多少︑無加於蘇州府癸゜
而然
突︒
問︑蘇州府似不及此四省之大︑而官員之多少同之︑其故何耶゜
答︑蘇州幅員︑雖不及省︑人物之衆多︑財貨之所緊︑又有加於諸省
問︑四省及蘇州官員︑以何人差之耶゜
答︑皆以漢人差之芙゜
問︑治兵之官︑有時有錬習之畢耶゜
答︑一年内︑春之二月笙︑秋之七月羞︑例為操錬︑時歩恭半︑而至
於江南省︑則有三員大将︑二員則消人︑各卒一萬清兵(‑?︶
在 省 城 内
︑ 一 員 則 乃 漠 人 也
︒ 領 十 萬 餘 兵
︑ 鎮 守
一在
鎮江
京口
︑
子松
江府
失︒
問︑騎歩軍兵所用機械︑可以歴指耶︒
答︑騎兵所用︑箇箇長擁︑腰刀︑歩兵所用︑或箭・或長槍.或鳥銃・
或防牌・或腰刀突︒
問︑蘇州府距北京幾里耶︒答︑三千六百里芙゜
問︑江西省距北京幾里耶︒答︑五千二百里突︒
問︑松江府距北京幾里耶︒答︑三千八百里突︒
問︑江寧府距北京幾里耶︒答︑三千二百里癸︒
問︑浙江省距北京幾里耶︒答︑四千里癸゜
問︑寧國府距北京幾里耶︒答︑三千六百里突︒
問︑揚州府距北京幾里耶︒答︑三千里突︒
問︑滝州府距北京幾里耶︒答︑三千五百里芙゜
問︑淮安府距北京幾里耶︒答︑二千八百里突︒ 問︑徽州府距北京幾里耶︒答︑三千八百里芙゜問︑一輻建省距北京幾里耶︒答︑七千里失︒問︑山東省距北京幾里耶︒答︑一千二百里突︒問︑陸軍有操練之事︑水軍徳治者何官︒以何技艇錬習耶゜答、蘇州有戦船三百餘艘、水軍七千餘人、技藝則鳥鎗・弓箭•長
摘・大砲等物︑而水軍徳兵主之突︒
問︑徐等在本土︑農桑及揺役何如耶゜
答︑康熙十九年︑酷被水患之炎︑厭後迄今︑年素豊賞︑銀一錢之債︑
至米十斗︑箔役則一畝之税︑只大米二斗之外︑別無雑役突︒
問︑徐等年u往長崎島行商︑則日本之商買︑亦来江南交易耶゜
答︑俺等以螢生牟利之徒︑不計海路危瞼︑往商日本︑而日本之人︑
則邦禁至厳︑故元無往来之事突︒
資料口は︑﹃同文案考﹄漂民の部にも見えないものであり︑康熙
二六年︵一六八七︶二月︑済州島施義県に漂着した︑長江河口の呉
松口を出帆して日本長崎に向かう貿易船の記録である︒当初の乗船
者数は七十名︑内五名が死去し︑残り六五名全員の年齢と住居地が
詳細に記され︑長崎貿易の初期の例としては珍らしいものである︒
その在住地を表に分けてみると︑表2のようになり︑江蘇省在住者
が七六・九%で︑特に︑蘇州府在住者は五ニ・三形を占めている︒
特に︑乗船者名簿から珍らしい例としては︑江西省撫州府の者ニ
名︑さらに︑湖北省漢陽府の者一名が居た点である︒
答︑俺等一百十三人︒ 問︑作等居在何地︑而姓甚名誰耶゜ 全羅道珍島漂漢人︑問情別箪 国 ところで︑この船の乗船者は︑﹁自乙丑至丁卯﹂つまり康熙二四
年(‑六八五︶より同二六︵一六八七︶まで三年問に一︱一度長崎貿易
をしたとある︒康熙二四年は︑鄭氏が清に降って展海令が出された
翌年であり︑それ以後︑毎年となる︒
康熙四十三年︵一七
0
四︶七月二十五日珍島南桃浦漂着船︵﹃備邊司謄録﹄第五十五冊︑粛宗三十年甲申十月十九日條︑刊本五冊
三八ニー三八七頁︶
︵ 注 ︶
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵
済州
漂着
船乗
船者
居住
地別
表
右表
は︑
康熙
二六
年の
時点
の府
県区
劃に
よっ
た︒
順番
は﹃
清史
稲﹄
地理
志の
記載
順に
よっ
た︵
以下
同じ
︶︒
船戸王有利︑郎臣観年三十四︑揺建汀州府住︒
財副李時芳年五十八︑浙江湖州府烏程縣住︒
財副察陣年五十︑一瞬建津州龍湊縣住︒
附客林森年四十︑幅建泉州府同安縣住︒
陳鸞年三十二︑幅建泉州府同安縣住︒
王攀年三十二︑︳揺建泉州府同安縣住︒
施同年二十九︑揺建泉州府晉江縣住︒
ママ
李仕年六十五︑揺建泉州南安縣住︒
陳球年五十六︑福建泉州府同安縣履門所住︒
黄旋年三十六︑揺建泉州府南安縣住︒
李徳聞年二十三︑浙江湖州府烏程縣住︒
船 主 王 富
、 郎 使 観 年 五 十 五
、 輻 建 泉
州府住。
省名 府名 県名 人数
江 蘇 江 寧 江 寧 1
深 水 1
淮 安 山 陽 1
揚 州 江 都 1
蘇 州 呉
,
長 州
,
常 熟 3
崇 明 10
嘉 定 3
松 江 華 亭 5
上 海 3
常 州 無 錫 1
江 陰 2
靖 江 1
安 徽 徽 州 休 寧 1
寧 国 寧 国 1
浙 江 湖 州 烏 程 1
紹 興 山 陰 1
江 西 撫 州 臨 川 1
楽 安 1
湖 北 漠 陽 漠 陽 1
福 建 福 州 問 3
侯 官 5
ムロ 計 65名
︵ 表
2)
康熙
二六
年二
月
態一年六十七︑輻建滝州府龍湊縣住︒ 黄雙年二十七︑輻建泉州府晋江縣住︒察七年三十八︑廣東潮州府海陽縣住︒呉明年二十七︑一瞬建泉州府同安縣住︒周興年四十八︑浙江寧波府鄭縣住︒杜泰年三十一︑揺建泉州府住︒陳連年四十三︑蝠建滝州府湾浦縣住︒陳明年三十五︑揺建興化縣住︒
陳幅年三十五︑輻建泉州府同安縣住︒
黄却年三十八︑粛建泉州府同安縣住︒
沈暢年三十︑福建潅州府潅浦縣住︒
曽添年四十五︑禍建泉州府晋江縣住︒
李牡
年︱
︱‑
+︑
輻建
泉州
府同
安縣
住︒
港榮年二十六︑浙江杭州府仁和縣住︒
徐子法年二十︑浙江寧波府鄭縣住︒
林士年五十七︑浙江寧波府住︒
呉成年四十︑禍建泉州府同安縣住︒
林壽年二十五︑福建泉州府同安縣住︒
周天詐年二十四︑揺建泉州府同安縣住︒
陳怨年三十一︑揺建泉州府同安縣住︒
許夏年四十九︑禍建泉州府同安縣住︒
葉公年五十︑福建泉州府晋江縣住︒駕船幣長何己年六十五︑一揺建泉州府同安縣住︒ 楊苗年二十八︑輻建滝州府龍揆縣住︒林宜年四十︑揺建滓州府龍梁縣住︒林盛年三十︑羅建津州府龍深縣住︒察盤年三十三︑扁建流州府龍裕縣住︒洪南年二十三︑揺建泉州府南安縣住︒李居年二十四︑輻建泉州府南安縣住︒洪雙年二十八︑揺建泉州府南安縣住︒黄欽年二十四︑祠建泉州府南安縣住︒林吉年四十四︑輻建泉州府同安縣住︒孫助年二十二︑輻建泉州府同安縣属門所住︒陳勝年三十︑輻建泉州府南安縣住︒黄燦年三十五︑幅建泉州府晋江縣住︒李
君甫
年︳
︱‑
十三
︑浙
江寧
波府
郵縣
住︒
楊起
龍年
一︱
︱十
九︑
浙江
寧波
府鄭
縣住
︒
鄭徳普年二十五︑浙江寧波府慈深縣住︒
楊茂盛年三十八︑江南蘇州府呉江縣住︒
楊五
年一
︱‑
+‑
︑輻
建泉
州府
晉江
縣住
︒
陳鵬年三十二︑揺建泉州府同安縣履門所住︒
何宗年十九︑揺建泉州府同安縣贋門所住︒
張蘇年二十四︑廣東廣州府新會縣住︒ 林祗年四十九︑一幅建泉州府同安縣腹門所住︒
四
, ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ 叫人穂趣陳大年五十四︑廣東潮州府澄海縣住︒拿庇と工林嬌年三十五︑揺建滝州府悔澄縣住︒官帆亜班白笏年五十六︑幅建泉州府安埃縣住︒官什用押工鄭一年五十︑一輻建泉州府同安縣住︒官貨直庫黄治年五十︑揺建泉州府同安縣住︒官掟頭掟黄喜年四十七︑福建滝州府海澄縣住︒官帆綜大線楊蔭年三十︑福建泉州府同安縣住︒官小船杉板工陳備年五十六︑一揺建滴州府龍湊縣住︒祀紳香公李元弼年四十八︑浙江湖州府烏程縣住︒叫人付縮起張藍年三十八︑扁建滝州府龍嚢縣住︒官脆綜一仔桃喜年三十二︑一揺建流州府龍埃縣住︒官脆線二仔沈長年四十三︑扁建滝州府流浦縣住︒官脆練三仔蘇應年二十七︑輻建汀州府永定縣住︒官掟二掟戴成年三十九︑輻建泉州府同安縣住︒官帆綜二練王亮年二十九︑輻建泉州府同安縣住︒官小船付杉板工林泰年二十二︑輻建滓州府海澄縣住︒官帆付亜班林尾年二十三︑輻建簿州府詔安縣住︒装貨付直庫余起雲年四十五︑浙江寧波府鄭縣住︒霙飯純鋪陳喜年三十六︑廣東廣州府東浣縣住︒船梢呉聰年二十八︑扁建泉州府同安縣住︒
旺為
年一
︱︱
十五
︑一
揺建
泉州
府同
安縣
住︒
阿代年三十︑廣東廣州府新會縣住︒郭妹年四十二︑巖東潮州府潮腸縣住︒ 呉天年二十九︑輻建泉州府同安縣腹門所住︒陳二年三十︑揺建泉州府同安縣住︒杜鳳年三十︑福建泉州府同安縣住︒沈旋年三十九︑揺建流州府滓浦縣住︒酵主年三十︑福建泉州府同安縣住︒
ママ
陳孫年四十一︑廣州潮州府澄海縣住︒
呉世探年三十四︑浙江寧波府鄭縣住︒
施和
年︱
︱︱
十三
︑幅
建呆
州府
晋江
縣住
︒
王郎年三十五︑輻建泉州府同安縣屡門所住︒
陳却年二十七︑幅建泉州府同安縣腹門所住︒
劉貴年四十六︑廣東廣州府南悔縣住︒
郭六年三十二︑廣東廣州府南海縣住︒
呉軟年二十一︑一輻建泉州府晋江縣住︒
楊午年三十八︑輻建泉州府同安縣住︒
林伴年二十四︑一輻建泉州府同安縣住︒
林習年二十七︑一廊建泉州府同安縣住︒
林和年三十七︑輻建泉州府住︒
五
趙痰年二十四︑輻建泉州府同安縣度門所住︒
藍六年二十七︑厳東潮州府澄海縣住︒
王郎年十九︑浙江寧波府鄭縣住︒
察勝
年︱
︱‑
+‑
︑輻
建泉
州府
同安
縣腹
門所
住︒
陳清年一二十六︑福建泉州府晋江縣住︒
林孫年三十七︑一輯建滝州府詔安縣住︒
任葉之年二十七︑浙江寧波府鄭縣住︒
辞随年三十七︑禰建流州府詔安縣住︒
李輻年四十一︑禰建泉州府安漢縣住︒
鄭壽年三十六︑一輻建興化府蒲田縣住︒
林乞年五十︑福建泉州府同安縣厘門所住︒
黄祗年六十四︑一瞬建泉州府同安縣厘門所住︒
洪オ年二十八︑扁建泉州府晋江縣住︒
王材年三十一︑浙江寧波府鄭縣住︒
小斯亜在年十九︑禍建泉州府住︒
起鳳年二十六︑浙江湖州府蹄安縣住︒
亜朝年三十二︑扁建汀州府住︒
問︑作等在本土時︑有何身役︑而以何事為業耶゜
答︑俺等素無身役︑以商販為業耳゜
問︑作等因何事往何地方︑縁何漂到我園耶゜
答︑俺等生理為難︑往販日本長崎島︑洋中遇風︑漂到貴國耳゜
問︑作等幾月幾日開船︑幾月幾日漂到我國耶゜
答︑俺等今年六月十一日離稜腹門︑将向長崎島︑七月二十四日晩︑
粋遇大風於洋中︑失舵折楷︑幾乎沈没︑幸於二十五日漂到貴國
耳 ゜
問︑作等離稜腹門時︑作伴向長崎島者幾船︑而仰何同船者幾箇人耶゜ 答︑俺等一百十六人中︑涼死者三人︑生存者一百十三人︑而厘門開
船時︑別無作伴船突︒
問︑日本不曾通歎於大國︑而作何因何往来買賣耶゜
答︑日本雖不曾通歎︑朝廷許民往来買賣耳゜
問︑曾前大國海禁至厳︑不許往来外國云︑而許民買賣︑自何年始耶゜
答︑曾前南方不平︑故海禁極厳︑自康熙十九年︑始通水路︑許民往
来失
︒
問︑南方不平云者︑未知縁何事耶゜
答︑鄭克壊捜守豪瀾︑故有海禁癸︒康熙十九年克壊締順後︑始無海
禁突
︒
問︑作等往日本交易之際︑語昔不同︑何以通情耶゜
答︑長崎島亦有解華語者突︒
問︑作等賂何様物件︑貿末何様物件耶゜答、賓去蘇木・白糖·烏漆・烏糖・痒角・象牙•黒角•藤黄・牛皮.鹿皮・魚皮・烏鉛•特藤・大楓子・棧椰・銀珠•水粉等物。貿
換紅銅•金・銀・飽魚•海拳・漆器・銅器等物以来突。
問︑大國既許通市︑則必有互市之畢︑日本國人︑亦往販大國地方耶゜
答︑日本國︑則不許本國人往販他國耳゜
問︑作等往日本時︑船有定敷︑而物貨亦有定限耶゜
答︑船是八十艘︑銀是一百二十萬雨定敷耳゜
問︑商船八十隻︑貨銀一百二十萬雨︑誰為的定耶︒
答︑日本國王定之耳゜
'
ノ
ヽ ー
李朝涼渚中国帆船の﹁問情別郎﹂について上︵ 問︑凡政令施為︑宜自大國定而行之︑船隻︑物貨之多寡︑日本園王
何以檀定耶゜
答︑此是日本國買賣︑故自其國定敷耳゜
問︑長崎島開市時︑官人監市耶゜
答︑我船到日本︑交易之時︑有二位官人︑照管買賣事突︒
答︑文引原有之︑而因洋中遇風︑船尾被浪打破︑賂人並衣箱︑
下水︑故涼失文引癸゜
答︑文引則有戸部敗税文引一張︑知縣官本地方文引一張︑而牧税︑
則小船銀子二十雨︑中船銀子三十雨︑大船銀子四十雨︑貨物則
随其多寡︑増減其税癸゜
問︑長崎島在於幅建何方︑而水路亦幾許里耶゜
答︑長崎島在於幅建東北方︑而水路三千里突︒
問︑作等曾有往来長崎島者耶゜
答︑俺等中曾往長崎島者︑多多人突︒
問︑作等年と往来海洋中︑必有可聞奇異之蹟︑可得聞耶︒
答︑海中往束之路︑別無奇異可聞之蹟耳゜
問︑作等多在輻建泉州府︑官員及城池周遭︑可以歴指耶゜
答︑泉州府有府官二員︑知縣七員︑提督一員耳゜
問︑府官・提瞥・知縣・各管何事耶゜
答︑提督管兵︑知縣管錢糠︑府官管悔路及壼糠耳︒ 問︑作等文引︑何等官人主管成給︑而有牧税商人之事耶゜ 問︑作等行商外國時︑有文引耶゜
役尖
゜
問︑既有水軍︑則嘗有兵船︑未知幾許隻耶゜
答︑俺等郎業商章︑未能的知其敷突︒
七
問︑提督一員所管兵幾何︑而兵是陸軍耶水軍耶゜
答︑提督管八府兵九千名︑而皆是馬歩軍︑而水軍則水師提督主管︑
而街門則在腹門所耳゜
問︑提督所管水軍幾許名耶゜
一提督所管兵︑則五日一錬習︑而一省内諸府提督︑或有合兵錬
習之
欅耶
︒
答︑各螢提督︑各自五日一錬習而巳︒元無合兵操錬之事突︒
問︑軍兵錬習時︑所用器械︑可以歴指耶゜
答︑錬習時軍兵所用者︑或火砲・或鎗.或長刀・或弓箭.或藤牌等
技耳
゜
問︑作等本土︑農桑賦役如何゜
答︑上年:事有八分牧︑而揺役︑則一畝税米四升八合之外︑無他賦
問︑南方土沃人冨︑ 問 ︑
一年之内︑雨穫面認︑力於農桑︑則衣食自裕︑
何必遠渉江海︑有此漂到之欅耶゜ 問︑既有軍兵︑則有時有錬習之事耶゜答︑毎五日一錬習耳゜ 一徳答︑有五螢兵一萬名︑而一提督所管︑則二千名耶︵耳?︶︒ 問︑海務是何事件耶゜答︑主管商船耳゜
答︑一輻建九府中︑七府一年雨穫︑而至於雨試︑則輻建所無之事︑而
南方雖日楽土︑士・農・エ・商︑各有其業︑遠商異國︑将欲求
利︑而有此漂到︑莫非天也︒
問︑七府之名︑可得聞耶゜
答︑禍建州府・建寧府・郡武府・延平府・興化府・汀州府・滝州府・
豪潤
府耳
゜
ママ
問︑汀州距北京幾里耶︒答︑五千里突︒
問︑泉州府距北京幾里耶︒答︑八千里突︒
問︑烏程縣距北京幾里耶︒答︑五千里癸゜
ママ
問︑龍浚縣距北京幾里耶︒答︑八千里︒
問︑同安縣距北京幾里耶︒答︑八千里突︒
問︑晉江縣距北京幾里耶︒答︑八千里芙︒
問︑南安縣距北京幾里耶︒答︑八千里芙゜
問︑海陽縣距北京幾里耶︒答︑九千里芙゜
ママ
問︑勤縣距北京幾里耶︒答︑六千里突︒
問︑流浦縣距北京幾里耶︒答︑八千里癸゜
(C .︶
︵里
?.
︶
問︑甫田縣距北京幾里耶︒答︑七千里七百突︒
問︑仁和縣距北京幾里耶︒答︑五千五百里癸゜
問︑寧波府距北京幾里耶︒答︑六千里突︒
問︑安淡縣距北京幾里耶︒答︑八千里癸゜
問︑慈羹縣距北京幾里耶︒答︑六千里突︒
(9 )
問︑新湊縣會縣︑距北京幾里耶︒答︑九千里癸゜ 問︑東莞縣距北京幾里耶︒答︑八千里突︒問︑潮陽縣距北京幾里耶︒答︑九千餘里芙゜問︑長泰縣距北京幾里耶︒答︑八千里突︒問︑貴省尚文耶︒尚武耶゜答︑文武倶有︑而文官︑則吏部天官李光地・翰林學士陳倦鶴・鄭開
極・科道彰鴫・兵部職方司許貞等︒在朝武官︑則謳建水師提督呉英・祗建陸路提督王萬詳•徳兵杵彩・天津提督藍理・寧波撼
兵官施也澤︒其餘文武︑難以盛記芙゜
問︑大國文武試取之規何如゜
答︑文試則三年一次試取︑而其始童生則秀オ・郷試則畢人・會試則
進士・殿試則三及第也︒學人一府定六十人︑進士天定三百六十
人及第︑就於一二百六十進士︑殿試選︱︱一人︑武試則以弓・馬・
論・策試取︑而武進士之敷︑一如文試耳゜
日は康熙四三年︵一七
0
四︶六月十一日に福建の属門を出帆して長崎に向かった日本貿易船の資料である︒この船については﹃同文
彙考﹄原編巻七十︑漂民︑﹁報押解南桃浦漂人発回甑島漂人容﹂及 問︑詔安縣距北京幾里耶︒答︑八千里突︒ 問︑石砥所距北京幾里耶︒答︑八千里突︒問︑厘門所︑距北京幾里耶︒答︑八千里突︒問︑永定縣距北京幾里耶︒答︑八千里芙゜ 問︑海澄縣距北京幾里耶︒答︑八千里突︒
/\
(表3) 王富船乗船者居住地別表
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ び﹁礼部回容﹂︵一九丁裏
i
二四丁裏︶に見えるが︑漂人容に﹁俺 等原係福建省屡門流州地人︑性商日本国︑今月二十六日︑狩遇狂
風︑漂到子此﹂等の記事が見えるが詳細はこの資料曰によってより
明確に知られる︒
乗船者は一︱六名︑内三名が死去し︑残り︱一三名は表3のよう
な居住者であった︒︱一三名中︑江蘇・浙江・広東省の計二七名を
除 く 八 六 名 が 福 建 省 で 七 六
・ 一
% を 占 め て お り
、 こ の 内 全
体の約七
省名 府名 県名 人数 省名 府名 県名 人数
江 蘇 蘇 州 呉 江 1 福 建 興 化 苛 田 1
浙 江 杭 州 仁 和 1 泉 州 4
湖 州 烏 程 3 晋 江 10
婦 安 1 南 安 7
寧 波 1 同 安 28
部
,
(夏門) 11慈 硲 1 安 渓 2
福 建 汀 州 2 広 東 広 州 南 海 2
永 定 1 東 莞 1
障 州 龍 渓
,
新 会 2海 澄 3 , 潮 州 海 陽 1
涼 浦 4 潮 陽 1
詔 安 3 澄 海 3
興 化 1 I 合計 113名
一・七%の八一名が流州・泉州両府の者であることが知られる︒
資料口の船が同程度の割合を江蘇省の者で占めていたことと比較
して好対照と言えるであろう︒
録﹄第五十七冊︑粛宗一二十二年丙戌四月十三日條︑刊本五冊︑五
三八!五四
0
頁 ︶
一︑問︑徐等居在何地︑而姓甚名誰耶゜
答日︑俺等十三人姓名︒
一 九
管帳車瑶年三十九歳︑山東省登州府莱陽縣人︒
管買賣柴米狙凌雲︑年五十二歳︑山東省登州府文登縣人︒
扶舵韓永甫︑年五十歳︑山東省登州府莱陽縣人︑蘇州府城裏住︒
水手陳五︑年一二十七歳︑江南省松江府華亭縣人︒
小水手哀六官︑年二十七歳︑江南省松江府上海縣人︒
ママ
小水手王三︑年二十四歳︑浙江省詔典府山陰縣人︒
小水手王五︑年二十六歳︑山東省莱州府郎墨縣人︒
小水手劉及成︑年三十五歳︑山東省登州府莱陽縣人︒
小水手程元︑年二十七歳︑山東省登州府莱陽縣人︒
客人宋宗徳︑年五十五歳︑山東省登州府莱陽縣人︒
客人梁珀美︑年二十四歳︑山東省登州府莱陽縣人︒ 演州源到人問情別箪 四
康 煕 四 十 五 年 (
‑
六︶正月十一日演州漂着船︵﹃備邊司謄七
0
一︑問︑徐等︑在本土時︑有何身役︑而以何事為業耶゜
答︑俺等︑素無身役︑只以農商為業耳゜
一︑問︑徐等︑因何事往何地方︑縁何漂到我園耶゜
答︑俺等︑以買賣事︑往蘇州地方︑洋中遇風︑漂到貴國耳゜
一︑問︑徐等︑幾月幾日開船︑幾月幾日漂到我國耶゜
答︑俺等︑今正月初二日開船於山東莱陽縣︑初四日大洋中︑粋
遇悪風︑失舵折楢︑幾乎沈没︑蒼黄中遠見山色︑疑有人家︑
俺等十三人︑持牌標急下︑汲水小船︑欲為救護大船之際︑又
遭東北風︑俺等十一日︑渫到貴國︑其餘二十一人︑在大船︑
不知
去虞
耳゜
一︑問︑徐等︑離狡山東莱陽縣時︑作伴向蘇州者︑幾船耶゜
答︑俺等︑莱陽縣開船時︑無作伴船失︒
一︑問︑徐等︑賂何様物件︑貿末何様物耶゜
答︑俺等︑持黄豆・紫草・杏仁・防風・白蝋・繭紬・憩猪等物︑
往蘇州貿束青藍・各色布・甕器・綿花等物耳゜
一︑問︑曾前上國︑海禁極厳云突︑不知何年︑弛禁行商耶︒
答︑古有海禁之令突︑今則有旨弛禁︑任意行商︑而弛禁年月︑
未能
的知
突︒
一︑問︑標帖成給之官︑是何様官司︑納税何司︑而以何物納税耶゜
答︑標帖則莱陽知縣成給︑而納税則薩其所持物種之多寡︑以銀
子計納於本縣耳゜
ママ
客人蒋彦盛︑年四十二歳︑山東省登州莱陽縣人︒
一︑問︑此島孤立海中︑無水賊依瞼籟稜之息耶゜ 一︑問︑莱陽之於蘇州︑相距幾許耶゜
答︑旱路則二千一百里︑水路則不能的定里敷︑而遭順風︑則四
天三夜︑可以得逹尖゜
一︑問︑徐等︑只行商於蘇州而已︑別無往来他國之事耶゜
答︑別無他國往商之事︑而只於浙江・輻建・江西・湖廣.溶陽
等慮
行商
耳゜
一︑問︑徐等年と行商︑而往末海洋之際︑必有可聞奇異之蹟︑可得
聞耶
゜
答︑海中往来之路︑別無奇異可聞之蹟耳゜
一︑問︑伶等︑蔵載貨物海路往来之時︑其無海賊攘奪阻捷之患耶゜
︹答
の記
入な
し︺
一︑問︑山東近虞︑有三山島︑而頗稲奇異云︑可得聞耶゜
答︑果有三山島︑而自登州府晴明日︑則可能羞見︑而自莱陽縣︑
則水路頗遠︑三山列立間通海水︑往束商船耳゜
一︑問︑既有三山島︑則其民幾何︑往末船隻︑常P
止泊
耶゜
答︑此島︑小而瞼悪︑且無可耕之地︑故元来無居民船隻︑往来
之時︑若遇風則時と止泊︑而多悪石︑且狭陰︑故僅容三四船
隻耳
゜
一︑問︑此外︑又有他島︑而民人入居者耶゜
答︑登州府西北間四十里許︑有廟島︑芙蓉島︑長山島︑皆有居民︑
而長山島︑最大居民︑幾至千餘戸︑登州府及莱陽縣主管耳︒
四〇
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上
c
答︑海防至厳︑故元無此息︑而曾聞五六年前︒廣東省︑有水賊云と之説芙︒今則太平無事耳゜
一︑問︑徐等︑雖業農商︑既為民丁︑則似不無身役︑可得詳聞耶゜
答︑俺等則非軍丁︑故一年毎口︑納丁稲銀子一錢六分︑而農者
納田税︑商者納商税︑此外無他身役耳゜
一︑問︑徐等十三人中︑曾有往束皇都者幾人︑而程途幾里耶゜
答︑俺等十三人中︑一人曾有往来皇都者︑而途里則一千四百四
十里
耳゜
一︑問︑山東所燭州縣︑共幾何耶゜
答︑山東一省︑有登州・莱州・青州・衰州・東昌・演南六府︑
而其所燭州縣︑則未能詳知耳゜
一︑問︑登州府︑有幾箇官人耶︒
答︑文官則有太府・ニ府・三府・學官・武官則有徳兵・副賂.
参賂・守備・千徳・把徳等官耳゜
一︑問︑所謂文官則所管何事︑武官則所管何事耶゜答、所謂太府、管知縣•生員・學生・ニ府、管監察耳目、三府、
管匪類・賭博︑徳兵則管山東一省軍兵︑而衛門則在於登州耳゜
一︑問︑徳兵所捩城池周遭及所管兵曹幾何︑而水軍耶︒陸軍耶゜
答︑城池周遭︑自東門至西門七里許︑南北亦如之︑兵敷不知幾
許︑而都徳水陸之軍耳゜ 一︑問︑山東地方︑農事何如︑
答︑近来農事︑連豊大牧耳゜
四
一︑問︑既有軍兵︑則有時錬習之事耶゜
答︑陸軍則一朔内九次操錬︑水軍則一年四季月操錬耳゜
一︑問︑操錬時︑所用器械︑可以歴指耶゜
答︑陸軍所用器械︑弓箭.刀鎗・火砲︑而水軍則操錬時︑曾無
目撃︑未知其器械之何如耳゜
一︑問︑貴省尚文耶︑尚武耶゜
答︑文武倶尚︑而俺等︑以商農為業之人︑試取之規︑未能詳知
耳 ︒
一︑問︑徐等大船所載物種︑多少幾許耶゜
答︑黄豆二百四十撥︑白蝋二百四十斤︑紅花二百四十斤︑繭紬
三疋︑紫草三百九十八包︑防風一包︑杏仁一小包︑堕猪十二
ロ耳
゜
四は︑康熙四五年︵一七
0
六︶正月十一日︑済州島に漂着した山東省登州府莱陽県の船の資料である︒この船については﹃同文索
考﹄原編巻七十︑漂民﹁報大清漂人押解容﹂︑﹁礼部回容﹂︵三三丁表
ー三五丁裏︶に見え︑漂人押解容に︑
俺等原係大国山東省登州府莱陽県人︑輿客商水手三十四人同
船︑載黄豆・柴草・防風・繭紬・塩猪等物︑要貿綿花・綾緞於
蘇州
︒
とあり︑礼部回容に生存者﹁陳五等十三名﹂とある程で詳しい乗組
員の状況は不明であった︒ところが︑同があることから︑生存者十
伍
) (表4) 車 理 船 乗 船 者 本 貫 別 表
省名
l
府名 県名 管帳l
管買売l
扶舵 水手 小水手 客人山 東 登 州 莱 陽 1名 1名 2名 3名
文 登 1名
莱 州 即 墨 1 //
江 蘇 松 江 華 亭 1名
上 海 1 //
浙 江 紹 興 山 陰 1 //
その理由は︑扶舵の韓永甫が
莱陽県の者ではあるが︑蘇州府
こなわれたためと思われる︒
陽県に船籍を有した商船であ
り︑その活動範囲は四に︑
浙江•福建・江西・湖広・
藩陽等処行商耳゜
とあることから︑沿海︑さらには︑長江や東北の遼河等を遡江する
ことも出来る河海両用の帆船であったことが知られる︒
康熙五十二年︵一七一三︶七月二十四日演州漂着船︵﹃備邊司 つまりこの船は山東登州府莱
問︑逼羅長機買賣︑北京亦知之︑而無海禁之事耶゜ から︑水手等の雇備が同地でお 城裏に居住していたということ 問︑一揺建︑管轄︑幾慮︑而官人幾員耶゜答︑一揺建省管轄︑一州九府共五十六縣︑而官人敷多︑雖難一こ記得︑
布政司.管錢糧︑掬兵軍民︑皆大官是如為白齊゜
問︑一幅建︑風俗尚文乎︑尚武乎゜
答︑我側的人︑貴文賤武是如為白齊゜
問︑福建︑農商早晩如何耶゜
答︑揺建︑一年雨稲︑春稲夏牧︑夏栢冬牧︑而桑木無之故︑本不養
諷是如為白齊゜
問︑近年以来︑白絲物貨︑債本極高︑未必年き矢認也︑有何曲折也︒
答︑我門亦往蘇杭買来︑而比前債貴︑此由︑於逼羅國長槻島︑買賣
繁多之致︑未必皆失鱈︑而然是如為白齊゜
答︑北京不知︑則税官何束︑而無標者不得通行︑則非禁而何亦是白
齊 ゜
る ︒ の者も含まれていることがわか 答︑我門︑係輻建省泉州府同安縣人︑以買賣事︑往日本國︑洋中遇級乗組員の中には江蘇.浙江省 問︑徐等在於何地︑而因何事︑漂到我國乎゜知られ︑小水手と言っといる下 県の者だけではなかったことが 済州漂漠人渡海後︑闘官李櫃問情 り︑必ずしも︑山東登州府莱陽 ついての出身は表4のようにな六一九ー六二五頁︶ 三名の内︑名簿のある十二名に謄録﹄第六十六冊︑粛宗三十九年癸已十一月十八日條︑刊本六冊
悪風︑漂到貴邦︑而漂没事情︑在渭州時︒己為詳逹是如為白
去乙︑依演州問情草︑逐條問之︑則無差錯更問之端是白齊゜
四
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ 一様瞬使︑而水牛則耕田時身熱入水︑身涼還出是 問︑税官住何虞︑而一年所牧幾許耶゜答︑税官︑在於同安縣海口腹門︑而一年商税︑定以八十萬銀為規是
如為
白齊
゜
問︑福建省︑過於海︑時常有防守之事乎゜
答︑沿邊設堡︑時と瞭落是如為白齊︒
問︑軍兵︑騎兵乎︑歩兵乎︒
答︑南方馬貴︑騎兵少︑歩兵多是如為白齊゜
問︑同安縣︑乃宋朝朱英子荒任之地︑遺風猶有可聞者乎゜
答︑自古至今︑人と尊敬︑立廟香祀︑秀オ︑輪班守直春秋雨祭︑而
一省無不立廟︑輿孔聖詞︑一般尊槃是如為白齊゜
問︑廟門︑題以何琥︑而祭用何證乎゜
答︑題以朱文公祠︑祭用小牢︑祀香官則知縣︑及秀才為之︑武官不
参是如為白齊︒
問︑記官︑着何様衣冠而祭之乎゜
答︑別無他衣冠︑都是大清一様是如為白齊︒
問︑朱文公子孫有否︒
ママ
答︑多在於縁平府︑或為秀オ︑或為農為商是如為白齊゜
問︑南方耕牛︑熱則入水︑身涼復出云︑然耶゜
答︑水牛︑家牛︑
如為
白齊
゜
問︑水牛︑何以拿得︑而家養生雛乎︒其大比家牛︑如何耶゜
答︑牛雖水物︑出食山草︑又生雛於山中︑故設機捕得︑欲馴者従人 漂漠人入京後間情
答︑生人︑王誉︑年三十五歳︒
四
喋飼︑不訓者至死不従︑而其大則比家牛加一半︑喋養生雛︑無
異家牛︑南方之人︑素不食牛肉︑而水牛味好故愛食︑角則用於
弓是如為白齊゜
問︑四五年前︑海賊甚多︑故自北京有報諭事芙︑近年則竪息如何耶゜
答︑南方有賊︑則商船何能任意通行乎︑聞山東︑有出没之患云︑而
近間無聞是如為白齊゜
問︑皇上有別様撫悼之事乎゜
答︑別無存撫之事︑而年凶則移粟賑清為白齊゜
問︑徐何︑在於何地︑何年月日︑従何虞乗船︑将往何慮倣甚喪事幹︑
而到此標没耶︒
答︑我何︑都是福建省泉州府同安縣人︑康熙五十二年六月二十日︑
同安縣乗船︑賂往日本長崎島買賣︑七月二十四日三更量︑漂到
貴國
地方
︒
問︑徐憫︑六月二十日乗船︑七月二十四日漂到我國︑其間日子甚多︑
未及漂到之前︑在於何地耶゜
答︑連値東風︑浮在大洋︑任風去来︑七月二十四日始到貴國゜
問︑徐門︑乗船時︑共通幾箇人︑而今有幾箇人耶︒
答︑我何共通四十二人︑漂没者三十四人︑生存者八人︒
問︑徐何姓名年紀居住︑一文説破︒
死人︑林春︑陳羨︑呉辰︑呉潟︑呉郡︑奥顕︑呉賜︑呉斌︑
呉孝︑呉添︑呉一︑陳飛︑陳六︑夏大︑呉志︑陳愛︑黄
鞘︑林乞︑張陽︑張法︑徐順︑周生︑何蔭︑祠開︑康祐︑
陳遅︑陳明︑陳成︑黄羨︑察捷︑陳興︑陳三︑伍舎︑共住
属門
人︒
問︑徐何︑既是共事同船而来︑則情地不凡︑死生去就︑宜無異同︑
而何不帯去屍罷︑埋置外園︑果合於情理耶゜
答︑死人既無燒葬之規︑又不好帯去長路︑不得己埋置︒
問︑北京人死則皆是燒葬︑徐何︑何不燒葬耶゜
答︑北京人︑或有燒葬︑南方的人︑元無燒葬之證゜
問︑徐何稜船時︑亦有同時稜行的人耶゜
答︑稜船時︑叉有雨箇船隻︑同時稜行︑因風漂散︑不知去虞゜
問︑徐何︑船雖破没︑既已極出物件︑則何獨漂失船粟︑到那徐何地
方︑能免罪責耶゜
答︑装船之物︑振出者小︑標失者多︑船票亦在漂失中︑既已漂失︑ 陳
王
高︑年二十六歳︒
仲︑年二十二歳︑共住同安︒ 陳 高
李 林 許
滴︑年六十二歳︒
椿︑年四十二歳︒
好︑年三十歳︒
友︑年三十四歳︒
吉︑年三十一歳︒ 我何地方官︑亦無奈何゜
問︑在前︑海禁至厳︑無有海商突︒何近年不禁耶゜
答︑在前︑果有海禁︑而近来天下太平︑許民行商︑置税官牧税︒
問︑四五年前海賊出没之故︑自北京︑有容報之事︑何謂近無海禁耶゜
答︑海賊船小︑離山不遠︑大洋則無山無島︑無虞安掟︑以此無有︑
看見客報的賊︑未知何方海賊︑而我何地方︑未聞有如許人︒
問︑徐何地方︑幅員甚廣︑東西南北往末行商︑何所不可︑而渉瞼遠
赴於日本︑自取漂没之息耶゜
答︑我何地方買賣︑不如日本買賣之利︑故冒瞼要利︒
問︑徐何拿来的物件︑都是徐住的地方所産耶゜
答︑白走沙則蘇州的︑八段絲則廣東的︑香木則安南的︑雪糖則扁建
的 ︒
問︑安南︑距祗建幾許里︑在於何方︑蘇.杭州・廣東︑亦幾許里︑
都是陸路耶︑亦有水路耶゜
答︑安南︑在於幅建之南方︑水路得好風︑則十日程︒蘇州在北方︑
旱路二十五日程︒枕州則二十二日程︒廣東在於西南︑旱路十五
日程
︒
問︑徐何物件中︑只有些少紬段︑而何無白絲等物耶︒我國亦興日本
買賣︑熟語其風俗︑徐的花布紅沙︵紗?︶等物︑不合於日本所
用︑未知斥賣於何方耶゜
答︑白絲等︑本錢不多︑故未得買︑玄花布等物︑亦為斥賣於日本突︒
問︑日本既不入貢︑則雨國人往来買賣︑必多有難使之事︑官不禁断 四四
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ 問︑徐門︑既通買賣︑則彼國之人︑亦束徐門地方磨︒答︑只是我何往束買賣︑他側元無束到之事︒問︑買賣之際︑彼此通話︑然後方可講定債本︒徐何亦能暁解日本的
説話
磨゜
答︑日本︑有解話通事︑因此博語︒
問︑選羅・日本︑亦有城郭宮闘︑人民衣服︑形陸貌様︑可得聞耶︒
答︑湿羅國有城︑皆是埠頭築的︑他的宮闘未見︑看見人民服色︑則
元無衣袴︑以一幅大手巾︑細縛周身︑垂其雨端︑至於附上︑官
人則金絲造成︑民人則用綿布︑面目︑典中國一般︑只是頭髪留
下二寸許長︑餘皆剪去︑亦剪除其鑽髯︑女人︑比男子穿的一様︑
並不着畦︑日本長崎島︑無有城郭︑人民衣服︑廣袖而短︑以班
爛造的︑無有袴子︑剪去頭髪︑只留頂上髪結於臓後︑女人椀
昏︑着長衣無悌゜
問︑伸何︑賂甚喪物貨︑性逼羅國︑野授甚喪物貨唖︒
答︑我何︑拿去紅拮・白絲・金絲・白沙・碗器・紅花・鼎釜等物︑
買末蘇木・白錫・胡椒・象牙・米蝦・紋銀而束︒
問︑湿羅︑日本︑有管買賣的官人喪︒
答︑遥羅︑無有官人︑都是民家買賣︑日本則有雨箇官人監市︑都是 問︑徐門︑亦曾往湿羅國倣買賣差︒答︑也曾走那箇地方︒ 答︑不為通歎︑而互市則不為禁断︒
耶 ゜
官府買的︑韓賣於民間云゜
有一
貼島
峡゜
問︑一幅建省管轄︑共通幾何︑幅員幾許里︒
四五
問︑曾往日本︑逼羅時︑海中必有島嶼︑亦有官府地方耶゜
答︑往遥羅的路中︑或有小島元無人居︑往日本路中︑都是大洋︑無
問︑徐門︑亦曾往北京︑而同安之距北京幾日程︑皆是旱路耶゜
答︑未曾往京裡道路︑則自同安︑距北京七千里︑自祗建省︑至北京
六千
里云
゜
ママ
答︑揺建省管下九府一州五十六縣︑府則延平︑建寧︑丁州︑郡武︑
揺州︑興化︑泉州︑滝州︑豪髯州︑則揺寧縣則不能霊記︑幅員
則福建南北二千里︑東西一千五百里︒
問︑同安縣幅員︑幾許里︑幾箇官人耶゜
答︑同安東西八十里︑南北亦八十里︑官人則知縣一人︑参賭一人︑
海口度門鎮︑守官一人︑税官一人︒
問︑知縣是幾品︑参賂鎮守税官︑各掌何事耶゜
答︑知縣︑是七品官︑参賭︑是管馬兵的︑鎮守︑是管度門海防的︑
兵税官︑是管牧税商船︒
問︑同安縣︑水田多耶︑旱田多耶゜
答︑水田︑比旱田頗多︒
問︑旱田所種之穀︑幾何種耶゜
︵姦
?.
︶
答︑所種大豆・紅豆・条豆・大変・小変︒
問︑徐何︑水田一斗租所種之沓︑秋牧︑幾斗穀耶゜
答︑一斗租所種之沓︑牧得二十斗穀"
問︑同安縣田税︑以米納官乎︑以銀納官乎︑納干那箇地方耶゜
答︑無有米税︑都是換銀︑納干輻建布政司︑以為軍糠゜
問︑一畝之税︑折銀幾雨︑而一畝田︑播幾斗種子耶゜
答︑税銀︑定以九分︑一畝之田︑播二斗五升種子︒
問︑知縣︑参賂鎮守税官姓名誰耶゜
答︑知縣姓朱︑参賂姓王︑鎮守姓施︑並不知其名︑税官姓名︑亦不
知 ︒
問︑徐地方官人出入時︑隔従︑幾許人耶゜
答︑文官則前導四到︑武官則前導雨劉゜
問︑徐何︑住的如許大地︑必有文翰雄傑之士︑亦可聞知耶゜
答︑秀才則多有︑而我何︑都是村庄人家︑未有聞知︒
問︑春種秋牧︑自是常理︑一年再稲者︑古無所偉︑至於遜羅一國︑
或有所聞︑而亦渉妄誕︑徐何︑在海南︑問情時︑亦言輻建︑春
種夏牧︑夏種冬牧云︑春稲夏牧︑猶或可也︑而夏牧之後︑始為
播種︑能牧於冬前乎︒南方風氣︑雖甚暖熱必不得四時長春︑則
其果深冬牧穫耶︒祗建一方︑皆是再栢耶゜
答︑我何地方甚熱︑雖窮冬︑亦無霜雪︑故二月種穀︑六月牧穫︑七
月種穀︑十一月牧穫︑禍建一省︑皆是再稲゜
問︑徐地方︑今年田禾好牧耶゜
答︑春田好牧︑秋田則我何離痰後無由聞知︒
問︑田禾好牧時︑則一斗米債銀子多少︒ 答︑好牧則一斗米債︑一錢銀子︒問︑同安縣︑去海幾里耶゜答︑到厘門海口五十里︒問︑一幅建︑乃是邊海要衝之地︑同安︑尤是海口︑嘗此招安海寇之時︑
必有防守之道︑願閲其詳︒
答︑水師官鎮兵︑有哨船︑出巡各慮地方︒
問︑出巡哨船︑幾個︑一船中︑有兵幾人耶゜
答︑哨船十隻︑一船中︑兵五十箇人︑各守各所管的地方︒
問︑既有防守之兵︑則必有操錬之方︑所用軍器︑亦可指名歴敷耶゜
答︑操錬︑不知一年幾番︑春天少︑冬天多︑軍器則長刀・短刀・天
箭・
大砲
︒
問︑徐何往来海洋中︑或有奇異可聞之事耶゜
答︑無有奇異之事︒
問︑上と年︑徐門地方人︑漂到我園︑とと救清護送︑未知盛敷還蹄
本土
耶゜
答︑聞已還蹄︑保其田里︑而相居頗遠︑未能相見其人︒
問︑同安︑是朱文公所癌之地︑嫁婆喪祭之證︑可得聞知︑而清明日
等︑亦有嬉遊之俗耶゜
答︑嫁姿則男子維輌︑鼓架前導︑交拝親迎︑喪證則父母没︑耳穿三
年︑頭上戴的︑身上穿的︑皆是以麻織布為之︑出入時︑穿廣袖
布衣︑居家時︑穿挟袖布衣︑祭膿則忌日祭子家廟︑清明日祭子
墳上︑而亦無清明日遊嬉之事︒
四六
ヽ ノ
李朝漂着中国帆船の﹁問情別単﹂について上︵ も漂没し︑生存者僅かに八名となった悲惨な船である︒ 問︑同安縣︑有名山︑大川︑形勝︑棲豪︑廟宇︑僧寺耶゜答︑武夷山︑在於蝠建︑而縣内則未有山川形勝︑僧寺則在於山上︑
間落間絶無︑廟宇則有孔聖廟・朱文公廟︑春秋雨祭︒
問︑犀象之服︑皆産於南方︑未知徐何地方︑亦有犀象耶︑願聞捕得
俊養
之方
︒
答︑犀象︑乃逼羅國所産︑而非我何地方之物︒
問︑徐的物件︑無逍失帯束耶゜
答︑無遺帯来︑而卜重難運︑是可閲也︒
問︑出没驚濤︑販渉遠路︑能無損傷︑而雨箇有病之人︑今已差愈
千歳爺︑診念徐何之無告︑特令沿路縣邑︑優値供給︑
果無凍餘之患耶゜
答︑曲庇天大︑千歳爺恩徳︑好喫好穿︑儘得温飽︑躍天胴地︑圏報
無由︑第我門媛帽︑證皆漂失︑頭上所戴︑皆涼帽︑若得雪中︑
則可
掩耳
梁︒
価は康熙五二︵一七一三︶六月二十日︑福建の同安より出帆して
長崎に向かう貿易船の資料であり︑この船は乗船者四二名中三四名
回の特長は︑﹁済州漂漠人渡海後︑訳官李枢問情﹂と﹁漂漢人入京
後問情﹂との二点があることで︑﹃同文彙考﹄原編巻七十︑﹁報大静
漂人押解容﹂︵三八丁表ー三九丁裏︶によれば︑漂着後︑ただちに審
問したのは訳学の呉震晶であり︑さらに漂人等は済州牧使の所で再 耶︒我國
丙
四七
問︑作等居在何地︑而姓何名誰゜
ママ
答︑俺等十六人居在江南省楊州府所管南通州︑皆是親戚︑同居一邑
之内︑而姓名則夏一周・高漢章・成茂元・成龍生・熊連玉・溜
茂生・朱進臣・李召衣・張陳穀・許喜之・馬駿卿・江臨照・楊 全羅道珍島郡源漢人領末諄官洪萬運問情別雖 び調べられ︑ついで都京城に送られて後も調べられたことがわかる︒
この船についても﹃同文彙考﹄の同書︑及び清の﹁礼部回杏﹂︵三
九丁裏ー四
0
丁裏︶があるが︑この内︑漂人押解容に︑倶係福建泉州府住民︑為因興販︑四十二人同駕一船︑発向日本︒
とあり︑人名も﹁礼部回杏﹂に﹁漂風人王裕等﹂とあるだけで乗船
者の詳しい状況は不明である︒しかし国の﹁漂漢人入京後問情﹂に
より︑生存者及漂没者の氏名が詳しく知られる︒
回の中で︑湿羅のことについて答えている中に︑その国へ行った
ことがあり︑宮殿を見ていないが︑城郭やその人々の服装について
詳しく答えていて︑この船の乗組員の中には︑同地へ貿易等で来航
した経験のある者がいたことが知られる︒
この資料は︑船そのものよりも︑乗組員等から聞き取った︑当時
の中国社会や︑周辺地域の情報について詳しいものがある︒
苑正十年︵一七三二︶十月十八日珍島漂着船︵﹃備邊司謄録﹄第
九十三妍︑英祖九年癸丑正月七日條︑刊本九冊五一〇ー五一四頁︶