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(1)

と め

Ⅳ ま

構 遺

1978年には じまった法隆寺防災工事 にともな う発掘調査 は第

4年

目を迎 えた。前年度 ま でには西院回廊内および西院耳ヒ部 の調査 と導水管敷設がおわ り

,す

でに述べたよ うに多 く の新知見 を得 ることがで きた。

本年の調査 は西院 においては聖霊院南 から大宝蔵殿前 にかけて実施 し

,東

院では北室院 境内

,西

面大垣 と西回廊中間および東院回廊内 において主 として旧導水管の取替 えを中心 として実施 した。西院東大門か ら東院四脚門 にいたる東西院中間の参道 に沿 う子院群 の地 も斑鳩宮の範囲 。東院の寺地 および中世以降の子院の変遷 などを知 る うえにおいて重要 な 地域 であるので

,こ

の子院の南 と北 を通 る両地区 について も事前調査 を実施 した。ほ とん

ど トレンチ調査 であるが

,寺

域 の土層観察 にはまた とない好機 であった。

西院地区

西院地区 における本年度の成果の第1は

,聖

霊院前面や

,東

寄 りの地 で

,北

から南への びる谷状 の大濤 が検 出 されたことである。聖霊院 。東室 の解体修理 の際の地下調査 の際 に 検出 されていた地山の異常 に深 い落 ち込 み も

,こ

の谷の地形 に関連す るもの と考 えること がで きる。 この濤 は

,今

回の トレンチの中では西院伽藍 の方位 に一致せず

,北

で西偏 して お り

,濤

は自然の谷筋 を流路 とした もの と思 われる。出土遺物 は西院伽藍倉↓建時の軒丸瓦 1個 を除 いてすべて若草伽藍 にともな うもので異形 の瓦製品 を含 んでいる。若草伽藍 とこ の大濤 の関係 は参後 の検討 を要す るが

,今

回の調査 で瓦類 が東岸部 に集 中 し

,西

岸部 か ら は全 く出土 しなかつたことか ら, これ らの瓦類の投入 が東側 か ら行 なわれたことを推定 さ せ る。 この ことは

,出

土瓦 を葺 いていた建物 が谷の東方 に建 て られていて

,若

草伽藍 当時,

この谷 が流路 として生 きていたもの と考 えることがで きるが

,今

回の調査 は底幅

lmほ

ど の トレンチ調査 であるので

,そ

の可能性 を指摘す るにとどめてお きたい。

また

,こ

の谷 は本来北方 か ら南方へ さがる谷で

,西

院回廊内 および東室では地山は高 く, 谷 はこの中間 を北上す る。 しか し

,大

講堂東北方 か ら東へ入 れた トレンチでは地山が高 く, 大講堂東脇 の北回廊基壇 も地山 を削 り出 してお り, この谷 が奥深 いものであったとは考 え られない。伽藍西方 も西円堂の建つ丘 との中間にかなり奥 の深 い谷 があ り

,1979年

の地蔵 堂 。大講堂中間の調査 では地 山が深 く

,掘

りきれなかったところがある。 この谷は西回廊 の西 を南下す ると考 えられる。回廊 の基壇 も地山上の不足分 を整地土で補 った うえに版築 を行 うところが多 く

,西

院伽藍 は谷 にはさまれた狭 い地形 いっぱいを利用 したことになる だろ う。

西院東回廊 と東室 にはさまれた谷 を埋立 る山土の投入は

,西

方つ ま り西院伽藍側 か ら行

(2)

われた もの とみ え

,西

方 か ら埋 立 て土層 力Ⅵ贋次斜 面 になって検 出 されて い る。 その埋立 て 面 に焼 土 。本炭 片 ・灰 な ど を捨 て て

,そ

の上 に さ らに 5 cm程 の山土 をかぶ せ て整地 を終 え て い る。 この よ うな状 況 か らみ て西院伽 藍 造成 の際 にこの谷 も順次埋 め立 て られた もの と 考 え られ る。

この谷 は宝蔵殿 東側 の東西 大垣 東側 の旧河 川 か らの距離 が

,高

麗尺45丈に近 く

,若

草伽 藍 の東 限 に当 るので は な い か とす る推 測 もで きるの で あ る。 た だ

この谷 を若草伽藍 方位

18)

で南々東へ延長す ると

,昭

43。 44年度の若草伽藍 の発掘調査 の際 の塔西方 トレンチ内 を 通 ることになる。 しか し, ここでは表土 か ら地山までが全体 に浅 くて谷 にはならない。 ま た

,西

院大垣南大門東方の修理工事の際

,南

大間中心か ら約

39mの

大垣下 において検出 し た手彫 り蓮華文鬼瓦

,忍

冬弁 文軒平瓦 をふ くむ焼土層は

,谷

状遺構 の推定 ラインよ りかな り西方へ振 れることにな り

この谷状遺構 が南で西へ迂 回 している可能性 も考 えられ

,今

後 の西院の調査 に期待 され る。大講堂東脇 と西院回廊東南隅南方で検 出 された若草伽藍 に 近 い方位の小 さい掘立柱穴 はいずれ もこの谷 か ら西 に位置す る。 これ らの小 さい掘立柱穴 の性格 も重要 な問題 であるが

このよ うな柱穴 が西院伽藍造営 にともな う整地 の後 でなお 残存 していることは

,西

院伽藍 造営以前 にすでに西および北方へ かな り開 かれていたこと

を示 している。

東大門か ら

2度

折曲 って耳ヒヘ延 る西院東面大垣 はその方位 が西へ強 く振 れて若草伽藍 と 同様 の傾向 を示す ことで注 目されているが, この東方 にほぼ平行 して南流 す る旧1可道 があ る。1959年 に聖徳会館建 設 にともな う事前調査 の際 には じめて検出 され

これを若草伽藍 の東限 に当 る重要 な遺構 と指摘 されているが

,今

年度 は

2個

所 で検 出 した。流路 は少 くと

も飛′亀時代 か ら中世初期 まで使用 されて埋没河サ││と なった。 この川 も奥深 い谷の水 を集 め た地形 による自然流路で ある。 この旧河川のす ぐ東方 に

7世

糸己の土器 を出土 した幅

0,6m

の細 い南北濤 (S D 1008)が平行す る。

さきの西院で検 出 した谷 と

この旧河川の間隔は約

150m強

で高麗尺 の45丈 (175歩

)に

近 く

,当

代の寺地規模 に適 当な幅 であ り

,若

草伽藍 の東西範囲 に当 るもの とみ ることもで

きるが

,な

お今後 の調査 にまつ ところが多 く

,現

状 ではそ うした可能性 を指摘す るにとど めてお きたい。

西院大宝蔵殿 前で検 出 した

2棟

の掘立柱建物 は柱 力半田く

,掘

り形 の深 さが50cm以下でか な り浅 い。 これはこの建物 が簡単 な構造であったことを示 し

, 1棟

は方位 がかな り東で北 へ偏 す るが

, 2棟

とも西院造営時

,ま

たはその後 間 もな くの仮設建物 か雑舎 と考 えられ る

ものである。

聖霊院南 に施釉陶片・灰焼土 を含 む土渡 がある。伴 出土器片 か ら考 えて

,延

3年

(925) に大講堂・北室 。鐘楼等 が焼亡 した後 に行 われた整地工事 に際 して投棄 した もの と考 えら れる。

(3)

東院地区

東院では回廊内 と西回廊外側 の調査 で東で北 にふ れる大濤 を検 出 した。 この大濤は東院 伝法堂

,舎

利殿 および絵殿 およびその前面の地下で発見 されている斑鳩宮 かと思 われ る掘 立柱建物群の南限 と推定 され る。 この大濤 は断面

V字

型の濤 で

,そ

の底部 の推積物はほ と んどない。濤底 は地下水面 を掘 り込 んでいるので

,内

に多少の流 れがあったもの と推定で きる。濤底 は東 か ら西 にゆ るや かに傾斜 し

,西

方へ流 れた もの と推定 され る。宮 の東・西

・北の三面の範囲はまだ未確認 である。

この大濤 と伝法堂 などの下層 で検 出 した掘立柱建物群 とでは

,方

位 に少 しずれがあるよ うに見 られるが

,1982年

度 に伝法堂北側 の調査 を予定 しているので

,両

方 の調査成果の照 合 を行 う予定で ある。

大濤 の底 および現東院回廊積土内 から焼壁片 および東院前身建物 に使用 した といわれて いる軒瓦 が出土 した。戦前の調査 では面 として焼土・灰 があった と報告 されているが

,今

回は前身建物 にともな う焼土・灰 の推積 は検 出す ることがで きなかった。 ただ

,焼

けて固

くなった壁土片 は大量 にあって

,付

近 に焼失 した建築物 のあった ことを示 している。壁土 片 は戦前の調査 で も確認 されているが

,大

濤内・絵殿前の小土竣 。東院造営の整地土 など

か ら出土 しているので

,東

院前身建物の ものであ り

,斑

鳩宮 に関係 あ るもの とす るな らば 発掘調査 によって発見 された我国最古の壁 の遺物であることになる。

さきに記 した斑鳩宮南限大溝 かと推定 される溝 の南側約10m̀で 旧地形 は急 にさが り

,東

院造営 にあたって ここに最大厚約

2.5mに

およぶ整地 を して い る。旧地形複元は1982年度 の調査 をまってか ら詳 しい検討 を行 うが

,東

院の東南隅 から東院四脚 門南寄 りを結ぶ線 に 台地端線 があ り

これ とほば平行す るよ うに東院南面大垣南 か ら東院

,西

院間の南側

,羅

漢堂東北 を結ぶ線 に庄内期 の 自然河川痕跡 がある。 この自然河川の方向 と海抜

51m,52m

等高線 による現地形 もほぼ一致 してお り

,北

方 から延 びて きた台地縁辺 に自然河川があっ た ことを示 している。 この 自然地形 とさきにみた斑鳩宮南限大濤 はその方位 がやや異 な り 30度ほ どの角度で交差 す る。大濤 は自然地形 とは違 った走行方位 にあ り

この大濤 が人為 的 な方位 に合 わせて掘 られてい る可能性 を強め るものである。 この点 につ いても今後 の検 討 が必要である。

北室院境内か ら検 出 した掘立柱建物 はその方位 が現東院伽藍 と同 じで

それ以後の柵列 がかえって東院下層 の掘立柱群 に近 い方位 にある。前者の遺構 は

3棟

分 ある。 その うち発 掘区西方で東妻部分のみ検 出 した梁行

2間

の建物 は東院伝法堂 中軸線 で折返 す と長 さ約36

mに

なる。 これ を『東院資財帳』 に見 える5間僧房

2棟

を中軸線 の東西 に並べ ると

,両

者 は約

6m(20尺 )隔

てて並ぶ ことになる。 この中間のあきをもふ くめ ると,『古今 日録抄』

に見 える12間房 ともな り得 るが

この建物 の掘 り形 は約60cmで あ り

,掘

立柱 とす ると太 い 柱 を想定で きない。 また柱穴 の切 り合 いか らみて他の

2棟

の小掘立柱建物 よ り新 しく

,11

74

(4)

世紀 中頃 までには廃絶 してい る。 『資財帳』 に見 える僧房 は瓦葺 で あ り

,こ

の掘立柱建物 を僧房 と断定す ることは まだむず か しいが

,北

室院の南側

,中

宮寺西門付近 の トレンチで 緑〆由片 が出土 してい るので

,伝

法堂】ヒ側 か ら北室院 にかけて僧房 などの生活空 間 があった

とみ ることがで きる。

中間地区

ここでは西端 で若草伽藍 の東限 か と推定す る旧河川 とその東側 に

7世

紀 の完形 に近 い土 器 を含 む濤状遺構 な どが検 出 されたが

,中

近世 には子院 が並 んでいた場所 で ある。幅1.5

m程

の トレンチでは充分 な調査 がで きず

,子

院関係 の建物 は地 固め も少 な く

,礎

石 も小 さ く

,修

理・改造・建替 えを受 け ることも多 く全面的 に発掘 して も詳細 な全容 を解 明す るこ とはなかなかむずか しい。今回の調査 では

,正

覚寺・蓮花院・宗源寺 。金剛院 な どにおの おのの池 をもつ庭園 があった ことが半J明 した。菩住院では素掘 りの池 を幕末 に石組 み地形 井戸 に変更 し

,蓮

花院 では素掘 りの池 を江戸時代後半 に規模 を縮小 し

,池

の汀線 ちか くに 庭園用の瓦囲いのサF戸をつ くるな ど庭 園 を整備 している。金剛院 において も素掘 りの池 を 石組 み護岸の池 に改造 し

,そ

の後 に池 を埋立てている。 これ らの子院の うち

,宗

源寺 など は学イ呂方 に属 し

,蓮

花院 ・正覚寺 な どは堂衆方 に属す る。 これ らは ともに庭 園 をもってい たこと

とりわけ堂衆方 の庭 園の整備 が江戸時代後半 に集中 してい ることは

,本

報告書の 子院の項 と一致す るが

なおいっそ うの検討 を要す る課題 であろ う。

井戸 について も各子院 に設 け られていたよ うで

,そ

の構造 も曲物井戸 か ら瓦製井筒 をヘ て石積大型井戸へ と変遷 す るよ うで ある。一木の くり抜 き井戸 などの特例 もあ るが

,室

町 時代各子院 には必ず井戸 が付属 してお り

,井

戸 が子院の区画 を考 える手掛 りのひ とつ とな

るよ うである。

整地上の状況

西院・東院 とも最大深 さ

2.5mに

及ぶ整地 上がある。 この整地上 にはほ とん ど遺物 を合 まない黄褐色粘質土で

,寺

地裏 山 に同質の上 がある。 このため

,整

地上 を地 山 と訣認 しや すいことがある。

西院大宝蔵殿西方の調査区では

,整

地土 に古墳時代の滑石製紡錘車 と埴輪片 がま じって いた。東院南門外の トレンチ において も埴輪片 が出土 した。 ともに江戸時代の整地土 から の出土である。紡錘車 と埴輪片 は ともに前期古墳 の もので

,江

戸時代 に寺地 に近接 した古 墳 をこわ してその封土 を寺地 の整地 に用いたもの と思 われる。

西院綱封蔵前の調査 などで

,地

表下約

lmで

地 山になるが

,こ

の地 山の洪積土 には吟良 火山帯 にともな う人山灰 の堆積 と見 られるものがあって

,こ

の面が大古 の地表面 であった ことを示 している。 また

,東

院地 区 において も

,地

山の黒色粘土の厚 い堆積 の なかに大 山 灰層 が薄 くある。 この人 山灰土 につ いては現在調査研究中である。

(5)

2.出 土遺物

出土 した遺物 の うち

,瓦

類 と土器類 につ いて とりまとめておこ う。

  

7世

紀前半 に属す る軒瓦 の うち

,従

来東院地 区で見受 け られ る軒 九瓦

(7)や

軒平瓦 (2) は斑鳩宮時代の もの と考 えられてい る。今回出土 した軒九瓦

(7)は ,東

院 東面回廊基壇 積土中か ら出上 した ものである。回廊基壇 は

,地

山上 に積土 を互層 に積 み上 げた ものであ り

,積

土中には焼土 を多量 に合 む層 があって

,火

熱 を受 けた痕跡 を示 す土壁 の断片 も見 ら れる。 この焼土 は

,東

院下層遺構 にともな うもの

,す

なわち皇極天皇

2年

(643)の,蘇我 氏 による斑鳩宮焼亡時の もの と考 えられる。 こ うした焼土 を混 えた積土 中か ら出土 した軒 丸瓦 は

,明

らかに斑鳩宮時代 の ものであることを示 してい る。 そ して

,宮

域 内 に瓦 を何 ら かの形 で用いた建築物 が存在 した ことを示 している。

この軒瓦は通常の もの よ り刈ヽぶ りに作 られているところに特徴 が見 られ る。軒 丸瓦 には かつてこの地 で出土 した忍冬弁 を瓦 当文様 とす るものがあ り

これ もまた刻ヽぶ りに作 られ る。 これ ら

2種

類 とも

,瓦

当範 その ものが小ぶ りに作 られてい る。 しか し

これ らと組合 うと見 られる軒平瓦 は

,成

形 に際 して周囲 を削 って切 り縮 めている。 この よ うな小ぶ りの 軒瓦 は

,後

,た

とえば奈良時代 においては絵皮葺建物 の甍 に飾 り瓦 として用 いたよ うな, 特殊 な使用法 が考 えられている。東院下層遺構 にともな う瓦類 は

,そ

の出土量 が僅少 なた め

,こ

れ ら小型瓦の使用法 につ いて明瞭 な解答 は出 しに くい。 しか し

,出

土 している軒瓦 がすべて小型品 に限 られ る点は

さきに述べ た甍瓦的 な便 われ方

,す

なわ ち桧皮葺 き建物 の一部 に使 った場合

,あ

るいは

,宮

殿 内の小規模な仏堂の存在 などが可能性 と して考 えら れよ う。

西院倉」建時の軒平瓦 で

,従

来 か ら注 目されていた製作技法 を明 らかに し得 る痕跡 をとど め る資料 を得た。 それは

,凹

面狽」に

,瓦

当か ら平瓦部 にかけ て縦方向の鉄」落痕 の見られる ものである。 その景J落痕 には粘土 を板状 に切 りとった際の糸切痕

,粘

土板 の端 と端 を重ね 合 わせた際の痕跡 をとどめてい る。 こうした痕跡 は

,平

瓦 を粘土板桶巻作 り技法 によって 製作す る際 に施 され る技法 に共通す る。軒平瓦 を瓦当 とともに桶巻作 り技法 によって製作 す る技法の存在 した可能性 はすで に指摘 されている。法隆寺の資料 につ いては

,創

建時の 軒平瓦の中に

,瓦

当部 ともども桶型 に巻 きつけた痕跡 をとどめ るものが散見 され るところ か ら「軒平瓦桶巻作 り」技法の存在 を指摘 したことがあった2,。今回の調査 において

さら に良好 な資料 が加 えられた ことは

,今

後の軒平瓦製作技法の復原研究 に資す るところ大で あろ う。

天平年間

,東

院伽藍 の造宮 が行 われる。

7世

紀後半 における法隆寺西院伽 藍 の造営工事 に際 しては,「法隆寺式」 と呼ぶ軒瓦 が作 られた。 それに対 して

,東

院伽藍造営時 に大量 に 生産 された軒瓦 が具体的 にどれで あるのか

さほ ど明確 ではない。 しか し

この地域 で数

76

(6)

量的 にやや際立 って出土す るものは軒丸瓦では

17,軒

平瓦では13であ り

,こ

の両者 が組合 せ られたもの と考 えられ る。 いずれも平城宮 で用い られた もの と同抱品である。ただ し,

平城宮での出土量 は少 ない。同絶品は

,他

に山背恭仁宮で出土 している。 このよ うに

,こ

れ らの軒瓦 が平城宮 と恭仁宮 の両宮跡 で用い られたことは

これ らの瓦 が官によって生産

されたものであることを示 している。東院の造営 は

,周

知 のよ うに

,僧

行信の懇請 によっ て朝廷 が造営 した とされる。 『法隆寺東院縁起』 か らは「造院司」 が設置 されたことが知

られ,  そ うした経緯 の一端 を

,軒

瓦 か らも知 ることがで きる。

平安時代の軒瓦の出土量 は さほ ど多 くないが

,こ

の時代 に幾度 か行 われた修理工事 の除 に葺 き替 えられたもの, あるいは永承年間 に大和の諸大寺で一斉 に作 られた際の もなどが 出土 している。 これ らは西院地域 ではほとんど出土せず

,主

として東院地域 か ら出土す る 傾 向 を示 している。

特殊瓦製品は

,か

つてその例 を見ぬものである。おそらく瓦製小塔の屋蓋 と考 えられ,

今回ひとつの復原 案 を示 した。部分的 に遺存 した資料のため

,全

体像 をつかみかね

,屋

の一部 の復原 を試みたにす ぎないが, このよ うな瓦製小塔 の

7世

紀前半の存在 を確認 で き た意義は大 きいといえよ う。

 

 

56年度の調査 で出土 した土器の うち

,遺

構 との関連 で特 に注 目され るのは

, 7世

紀前半 代の土器 と西院聖霊院前で検出 した南北大濤S D 2140,土S K2135出土土器である。

7世

紀前半代の土器は

,こ

れまでの調査で も少量 なが ら出土 していたが

,今

回の調査 で は

,遺

構 と密着 し

しかもほぼ完形 に近 い形 で出土 してお り

,法

隆寺造営以前の情況 を知 る上で貴重 な資料 を提供す ることになった。

7世

紀前半代の土器が

,比

較的 まとまって出 土 した地域 は

,西

院の綱封蔵 の南 と中間地区の律学院北地区である。前者の地区 について は

,西

院伽藍 の方位 とは大 きく異 なる掘立柱の建物の存在 とあわせて考 えれば

,若

草伽藍 の維持管理施設 が置 かれていた可能性 が1旨摘 で きよ う。後者 については

,現

西院東大垣や 排水路の方位 が斑鳩宮・若草伽藍 当時の地割跡 をとどめていると考 えられて来 たが

,そ

周辺で同 じよ うな方位 の南】ヒ濤 が検出 され, しかも

, 7世

紀 の土器が埋土 に含 まれていた

ことによ り

,先

の想定の蓋然性 は極 めて高 くなったと言 えよ う。

南北大濤S D 1240の埋土上層 か ら出土 した土器は

,藤

原宮や平城宮 の土器研究の成果 を 援用すれば

, 7世

紀末〜

8世

紀初頭 に位置付 けで きる。 しかも, この土器群 は

,焼

土の伴

出 している点 に注意 したい。 日本書紀 によれば

,天

8(669)年

9年

に斑鳩寺の羅 災 を伝 える。S D 1240から出土 した土器の年代は

,火

災時の年代 に極 めて近 く

,天

智年間の 火災記事の信憑性 が極 めて高 くなったと言 えよ う。 また, この濤 の最下層 か ら

,若

草伽藍 の瓦 とともに西院創建時の軒平瓦 が出土 してお り

,西

院倉1建時の瓦 について も

,土

器の方

か ら年代の一点 を付与す る形 になった。 またこの濤 の埋土の上 に厚 さ約30cmの西院倉↓建時

(7)

の整地土 が覆 ってお り, S D 2140の埋土出土の土器は

,西

院倉↓建 の年代 を考 えるにあたっ ても重要 な資料である。

西院造営時の整地土 か ら掘 られた土竣S K2135から出土 した土器は

,型

式学的 に見て,

平城京左京一条三坊大路東側濤上層

S D650B出

土 土 器群 と天禄

4(973)年

に焼失 した 薬師寺西僧房床面土器群 との中間に位置付 けられる。

S K2135は

,ほ

んの一部 を掘 ったにす ぎず

,法

量等の統計的 な処理 を行 うに足 る資料で はないが

,一

,調

整上の特色 を揚 げてお く。土師器では食器類の調整 に

, c手

法 が

, S 0650Bに

較べめだって多 くなっている事,灰釉陶器では

,底

部不調整で

,ハ

ケ塗 り施釉法

の技法 を持つ ものが見 られ る点が指摘で きよ う。

S K2135は

,す

でに述べたよ うに延長

3(925)年

の火災後掘 られたゴ ミ捨 て穴 と考 えら れ

,年

代的 に見て も

,そ

の土器は大和地方では今 まで空 白であった10世紀前半〜中頃 を代 表す る好資料 と言 えよ う。今後 もこの土渡周辺 を調査す る予定 があ り

,更

に良好 な資料 が 検出 されることを期待 したい。

餡 2145

Y24050000 X‑154080000+

̲X164090000 o      5m

SK21硝

S A 2145 西院回廊東南隅南 方 の

81‑8‑Iト

レンチで検出 した掘立柱穴2個は,掘形 の形 状や埋 め上の状況 か らみて,両 者 は組 み合 うものである。柱 間 寸法 は2.05mある。方位 は西院 伽藍 の方位 とは大 きく異 な り, 若草伽藍 と同様 な方位 を示す。

SK2141

Y424060,000

酪 H

第80図

 

西院 回廊 東南隅 南 の 遺構 第81図

 SK 1064出

土の甕

(8)

近世の遺物の中で特 に注 目され るのは

,中

間地 区の

81‑9‑Ⅳ

トレンチで検 出 した埋甕 と東院南問前の町屋 に関連す る遺構 か ら出土 した大甕である。両者 とも備前で

,慶

長〜元 和年間の頃 に比定で きる。前者 は

,口

59cm,高

さ92cmで

,肩

部 に「二石入」 と「♯」 の ヘ ラ描 きがあり

,後

者 は

,破

片 で あるが

,前

者 と同趣 な形態 をとる大甕 で

,肩

部 に「□手 捻土□・―・・」のヘ ラ描 きを持つ。過去

4年

間の調査 で検 出 した中近世の土器 。陶 器 は

,莫

大 な量 にのば るが

,多

くは

,畿

内産 と目されるもので

,外

国産 をも合 め畿内以外 の産 と考 えられる例 は

,前

述 した例 を合 め少量 にす ぎない。現在

,こ

れ ら中近世の土器・陶器類 を 整理 しているが

,そ

れぞれの年代

,産

地同定

,土

器・陶器 。磁 器の組 み合せの検 討 は

,他

の社寺等 との比較検討

,中

近世 の塔頭 との関連性 によって追求することが必要で ある。 こ のよ うに

,焼

物什器の側面 か ら

,寺

の興亡 を考 えてい くことが今後の課題 となろ う。

1)「

法 隆 寺 西 南 院 の調査 」 『昭 和53年度 平 城 宮 跡 発 掘 調査 部 発 掘 調査 概 報』。「法 隆 寺 境 内 の 調査 」 『昭和54年度 平 城 宮 跡 発 掘 調 査 部 発 掘 調査 概 報』。立 木修 「法 隆寺 の調査

J『

奈 良 国 立 文化 財 研 究 所 年 報』1981。

2)型

式 番 号 は 『法 隆 寺 の瓦 』 (法隆 寺

 

昭和53年

)に

よ る。

3)奈

良 国 立 文化 財 研 窮所 は平城 宮 跡 発 掘 調査 部 員全 員 が交替 で これ に あた り

,橿

原 考 古 学 研 究 所 は前 園 実 知 雄 が担 当 した が

,昭

和56年9月か ら中華 人 民 共 和 国へ留 学 生 と して派 遣 され た た め, これ以 後 菅 谷 文則 が担 当 した。 文化財 保 存 事 務所 は法 隆寺 出張所員 全員 が これ にあ た っ た。

4)法

隆 寺 国宝 保 存 事 業部 「 国 宝 建 造物 聖 霊 院修 理 工事 報 告」 『法隆 寺 国宝保 存 工事 報 告書』

第12冊

 

昭 和30年。

5)国

立博 物 館 『法 隆 寺 東 院 に於 け る発 掘 調査 報 告』

 

昭 和23年

6)「

瓦 葺 僧 房 試 間 長各五丈。今院家新造者。」

 

法 隆 寺蔵 『法 隆 寺 東 院縁 起』

7)佐

原 員 「平 瓦桶 巻 作 り」 『 考 古 学 雑 誌 』

58‑2 

昭 和47年。

8)『

法 隆 寺 若 草伽 藍跡

 

昭 和43年度 発 掘 調査 概 報』,『 法 隆 寺 若 草伽 藍跡

 

昭 和44年度 発 掘 調 査 概 報 』

 

文 化 庁 記 念物 課 。

9)四

天 王 寺 『四天 王 寺 図録

 

古 瓦編

昭和 11年 。

10)奈良 国 立 文 化財 研 究 所 「藤 原 宮 第24次 (東面 大垣

)の

調査 」 『飛 鳥 ・藤 原 宮 発 掘 調 査 概 報 9』

  

召禾日54年。

11)奈良 国 立 文 化財 研 究 所 「平城 宮 発 掘 調査 報 告 Ⅸ」 『奈 良 国立 文化財研 究所 学報34』日召和53年 12)註 4に同 じ。

13)京都 府 教 育 委 員会 「 国道9号バ イパ ス関係遺跡 昭和52年度 調査 概 要」 『京 都 府埋 蔵 文 化 財 調査 報 告

昭和53年。

14)稲垣 晋 也 「赤 土 器 ・ 白土 器 ― 中世 か わ らけの編 年 一

J『

大和 文化 研 究 』

8‑2 

昭 和38年。

15)広島 県 教 育 委 員 会 『草 戸 千軒 町 遺 跡1969年度 発 掘 調査 概 報』

 

昭和45年。

16)大阪府 教 育 委 員 会 『近 畿 自動 車 道 天 理 ・吹 田線建 設 予定地 内遺 跡 第1次発 掘 調査 報 告 』 日召和49年。

17)註 4及び

,奈

良 県 教 育 委 員 会 文 化 財 保 存 課 『重 要 文化財 法 隆寺 東室 修 理 工 事 報告 書 』

 

和37年。

18)註8に同 じ。

19)奈良 県 教育 委 員会 『重 要 文化 財

 

西 院 大垣 (南面

)福

園 院 本 堂4多理 工 事 報 告 書』 昭 和49年。

20)註

5に同 じ。

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