九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
主婦とオルタナティブ労働 : 二元論的分離の間にあ る典型的でない労働に注目して
里村, 和歌子
https://doi.org/10.15017/1831393
出版情報:Kyushu University, 2017, 博士(比較社会文化), 課程博士 バージョン:
権利関係:
主婦とオルタナティブ労働
―二元論的分離の間にある典型的でない労働に注目して―
里 村 和歌子
平成 29 年 3 月
目 次
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1 先行研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6 1.1 主婦論から
1.1.1 主婦とは誰か 1.1.2 主婦の歴史
1.1.3 開き直りを説いた第三次主婦論争 1.1.4 生協運動とエコロジー
1.2 女性労働研究
1.2.1 日本労働研究の主潮流 1.2.2 世界システム論,主婦化 1.2.3 日本女性労働研究 1.2.4 無償労働の発見
1.3 リベラリズム,女性,そして新しい家族 1.3.1 公私という二元論
1.3.2 同時に家族の重要性
1.4 主婦にとっての自立とは何か 1.4.1 問題設定
1.4.2 なぜ3事例か
2 主婦のオルタナティブ労働Ⅰ――「作家さん」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26 2.1 問題設定
2.2 「作家さん」とは誰か 2.3 方法
2.3.1 調査時期・調査対象 2.3.2 調査内容
2.4 「作家さん」の世界 2.4.1 資源の発見
2.4.2 つながりの展開 2.4.3 「自立」をしない 2.4.4 性別分業のとらえ直し
2.5 「作家さん」の呼称とジェンダー 2.5.1 作家であること
2.5.2 なぜ「さん」がつくのか?
2.6 主婦か,それとも労働者か
3 主婦のオルタナティブ労働Ⅱ ――主婦の「理想」の労働のあり方とは・・・・・・53 3.1 ソーシャルビジネスとは
3.2 農村女性起業 3.3 方法と対象 3.3.1 方法 3.3.2 対象 3.4 田中さん
3.5 福岡中小建設業協同組合
3.6 考察――主婦にとっての「理想」
3.6.1 ソーシャルビジネスか?
3.6.2 主観的なコストと利益 3.6.3 経済資本
3.6.4 程よいという「理想」
3.7 ソーシャルビジネスというオルタナティブ労働
4 主婦とオルタナティヴ労働Ⅲ ――地域活動と主婦の利害意識に注目して・・・・・67 4.1 主婦と地域社会
4.2 二元論的分離への注目 4.3 方法と基本情報
4.4 結果――なぜ休止したか?
4.4.1 行政の趣旨との齟齬 4.4.2 もの申す存在
4.4.3 なぜ1年目はうまくいったのか 4.4.4 なぜ地域活動をするのか?
4.4.5 優先順位
4.4.6 得たもの――仲間,そしてパースペクティブ 4.4.7 小括
4.5 考察――地域社会は利益がない?
4.5.1 地域活動と有償労働 ――市場で働くということ 4.5.2 子どもを中心とした活動
4.5.3 小括――公私との折り合い 4.5.4 なぜ手間になったのか 4.6 結論
5 考察 ――主婦たちの「自立」とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93 5.1 オルタナティブ労働の確認
5.2 利益とコスト
5.2.1 「作家さん」の利益とコスト
5.2.2 ソーシャルビジネスにおける利益とコスト
5.2.3 O会の利益とコスト
5.2.4 バランスの先にあるもの 5.3 なぜ選ぶのか?
5.3.1 賃金とコスト
5.3.2 利害意識と意図することなく 5.4 差異と平等のディレンマ 5.5 主婦たちにとっての「自立」
6 新しい公へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109
はじめに
2016 年 4 月から「女性活躍推進法」が施行されるなど,「一億総活躍社会」において女性は有力 な労働力人口として期待されている.その一方で,6 割の女性が出産とともに仕事を離れている現 実がある.この数値は,母親が子どもを育てるべきであるという母性規範,保育所不足などの構造 的な問題を示すが,女性たちが自ら実践しているという行為からも目をそらすことができない.そ の大きな問いが,なぜ彼女たちは公的領域における仕事を辞め,子育てという私的領域に「降りる」
のかというものである.
女性は 70 年代以降,近代主義と反近代主義との間で大きく揺れてきた.近代主義とはもともと,
神や伝統の権威とは絶縁して,人間自身の力によって科学が,秩序よりも進歩が,システムよりも 個体が,エリートよりも大衆が,遊びよりも労働が,属性主義よりも業績主義が,女性原理よりも 男性原理が尊重され鼓吹される精神的態度であり,西欧において,科学革命,市民革命,産業革命,
教育革命という四つの革命を次々と引き起こし,封建社会を資本主義社会へ発展させる原動力とな った(森岡 1993).
女性解放運動もまさに近代主義から生まれたものであり,18 世紀後半以降,オリンプ・ド・グ ージュの『女性と女性市民の権利宣言』(1789),ジュディス・サージェント・マーレイの『良性の 平等について』(1790),メアリ・ウルストンクラーフトの『女性の権利の擁護』(1792)による啓 蒙主義フェミニズムによって,女性も自然権を持つ市民であるとし男性との平等を求めた.しかし 1970 年以降,ウーマン・リブや環境運動,平和運動などの「新しい社会運動」の登場によって近 代主義は問いただされることになる(Habermas 1990=1994).例えばウーマン・リブ運動はこの近 代こそを批判の対象とし,現代社会の賃労働体制,商品生産体制,職住分離体制,核家族体制こそ 女性への抑圧の根拠を形成するものであるとの批判をした.近代が設定する抽象化された「人間」
「人格」には,妊娠・出産という役割や家事労働を担う女性の存在が隠されており,ここにこそ近 代の女性の抑圧体制が生じたという反近代主義の主張だった(江原 1985: 146).
さらに,反近代主義を日本に広く知らしめたのが,イワン・イリイチだ.彼は『シャドウ・ワー ク』(1981)において産業化以前の社会こそが調和と秩序の世界であるという反近代主義の精神的 態度について述べたが,『ジェンダー』(1982)では女性差別もまた近代の産物であり,平等を求め 近代主義の完成に手を貸すことは近代の抑圧制に加担することになるのだとの主張を展開し日本 のエコロジストやフェミニストの間で一定の影響力を持った(江原 1985:147 ; 上野 1990: 128). もちろん,近代以前の社会がユートピアなはずはなく,称揚される「女性原理」への警戒感や家父
長制は近代以前にも存在したとフェミニストたちから集中砲火を浴びることになった.
このように 70 年代にわき起こったリブを境にして,フェミニズムにおいては「進歩」と「発展」
の近代主義から,近代に対する懐疑を踏まえた反近代主義が登場することになった(落合 1989). これについて 85 年には上野千鶴子と青木やよいによる「エコフェミ論争」がおきるなど,「女性原 理」の行き過ぎた称揚に対し「本質主義」であるとの批判がなされてきた.このような対立につい て江原由美子は,
「近代主義と反近代主義の双方の言説をともに女性に即して解体しつくしていくことこそ,今の女 性解放論の課題である」(江原 1985:57)と指摘する.なぜなら,その対立は近代社会システム の一部であり,その課題を突破することこそ,女性解放論が人間解放論に対して寄与できる唯一の 方向性があるというのだ.しかし 87〜87 年に「アグネス論争」,98〜2002 年に「専業主婦論争」
が起こるなど(妙木 2011),女性解放論は課題を突破するどころか,形を変えながらも近代主義/
反近代主義の対立を軸に闘わされてきた.
このように女性は近代をめぐって大きく揺れてきた.それは自立した男性が公的領域を独占する 一方,女性が私的領域において妊娠・出産という再生産労働を担い男性の自立を支えてきたという 一面も大きい.女性が公的領域に出て「男性並み」の存在になることが社会参加の切符を手にする ことだとしたら,私的領域で再生産労働を担うこともまた,あらかじめ権利と条件が剥奪された女 性たちにとって,近代化を「影で」支える「社会参加」の切符でもあるからだ.
つまり,近代主義/反近代主義は社会的な領域においても公的領域と私的領域で分断線を描いて おり,性,そして生産様式によって住み分けがなされている.もともと日本において公と私は,集 団と集団成員を表す対概念であった.公は「おおやけ」であり,血縁に基づかない家(共同体)を 代表する人物や物を指し,「わたくし」は家族の成員であった.やがて,漢字の「公」と「私」で 表現されるようになり,公は私に背く,公平公正な正しい分配と行為という儒教圏の規範的な公私 観が重なり,日本では家(共同体)への滅私奉公として強制されてきた.さらに第二次大戦の敗戦 後,西洋からパブリックとプライベートの観念が入ってきて,私性が肯定され噴出し,現在公私観 は混迷状態にあるとされている(安永 1976; 森岡 1993; 溝口 1995; 西川 2004).
たとえば,階級論における公私二元論批判は,私的領域である経済権力が抑圧・搾取を放縦化す るとの批判であるが,フェミニズムにおける公私二元論批判は,私的領域における家父長制という 男性が女性を抑圧・搾取への批判となる(井上 2002: 144-6).つまり,階級論では私的領域が経 済権力,公的領域が国家である一方,フェミニズムにおいては家庭こそが私的領域であり,公的領 域は家庭外の領域を指す.本稿はフェミニズムの公私二元論に立つ.
では,私的領域において再生産労働を率先して担う主婦はフェミニズムの言説においてどう描か れてきたか.第一章でも述べることになるが,男性の自立を支えそれに従属する存在であるとして,
主婦はフェミニストたちからは批判の的であった.
第二派フェミニズムのきっかけとなったベティ・フリーダンによる『新しい女性の創造』(Friedan 1965=1977)のなかでは、「“主婦業”は激しい意気のいる仕事にかわるものでもなく,給料を受け られるほど大切な仕事でもない」(Friedan 1965=1977: 176),「主婦はむだにエネルギーを消費し ている」(Friedan, 1965=1986: 178),「“セックスの奴隷”という以外に自分を持たない主婦は,
ものを所有することによって,自信を持とうとする」(Friedan 1965=1986: 192)などの表現が散 見される.そこからわかることは,フリーダンの批判の矛先が「自ら進んで,家庭にはいる道を選 んだのは,誰の責任でもなく彼女たちの自身の責任なのだ」(Friedan 1965=1986: 130)と,主婦 たちの自己責任へと向かっていることだ.さらにパートタイムでもフルタイムでも,少しでも何か しらの仕事をしている女性はフリーダンの提唱する「新しい女性像」に合致するが,無業の主婦は
「「うつろな巣」で朝寝坊し,未来に期待できるものといえば死だけ」(Friedan 1965=1986: 268)
の存在として切り捨てられてもいる.これらの主張がきっかけとなって第二派フェミニズムのうね りが生まれたとしたら,フェミニストらによる専業主婦に対するイメージは,この時点でほぼ固ま っていた.
たとえば日本においても落合恵美子が山川菊栄婦人問題研究奨励賞を受賞したその著作『21 世 紀家族へ』で,フリーダンの「得体の知れない悩み」を引用しながら第二派フェミニズム以降の主 婦たちの不安と自己責任について追及している.第二派フェミニズムで浮上した主婦の不安をそれ 以降の世代の女性たちが繰り返すことは「あまりにも愚かなこと」とし,その自己責任を追及して いる(落合 1994=2004: 167).
「(完全雇用が崩れつつあり,離婚率も上昇中の今日,)そんな状態で主婦になることを選択でき るのは,よほど勇気のある人か,見通しの甘い人だというほかありません」(落合 1994=2004: 249),
「家族のためにつくす人生を選ぶことは自由ですが,ならばそのためのコストは,行きとどいた家 事と時間と気持ちのゆとりを享受した本人と家族で処理してほしい,という意見が出るのは当然で しょう」(落合 1994=2004: 250)などの主婦、そして主婦のあり様に対する厳しい論調は 30 年と いう時を経てもフリーダンとそう変わらない.
このような風潮のなか,主婦という立場から男性中心の近代主義に対し,私的領域を足場にした
反近代主義的な「居直り」を訴えたのが,第三次主婦論争で「主婦こそ解放された人間像」と訴え た武田京子と,生活者運動を担った主婦たちだった(第 1 章).だが,フェミニストからは,両者 は共通して,近代主義を「影で」支える主婦の特権であるという論点で批判が集中した.多くの批 判者にとって主婦は「解消すべき存在」であり,男性と対等な労働者として経済的自立を果たすこ とが目指された(国広 2006: 172).
さらに 90 年代後半からの「新・専業主婦論争」(中公新書ラクレ編集部 2002),猪瀬直樹が政府 税調で述べた「パラサイト・ワイフ」,さらに同じ猪瀬による「ニート主婦」(『アエラ』2005.8.1)
という新語が如実に示すとおり,専業主婦の「優遇」施策が批判され,専業主婦さえいなくなれば 税収も増え経済も社会もうまくまわるのだという主張は,2000 年を前後して男女共同参画社会提 唱論者たちの間からも頻繁に聞こえてくるようになった(大沢 1998 ;落合 1994=2004; 山田 2001; 大日向 2002; 大沢 2006; 坂東 2009).
このように,性別役割規範が瓦解したといわれる現在,主婦の存在はもはや自明性を失っている との指摘もあるほどに(妙木 2011:281),言説上の主婦は「解消されるべき存在」として認識され,
扱われてきた.では,実体としての主婦がいなくならないのはなぜなのか.
もちろんそこに家父長制的資本主義という構造的,家父長制という規範的な制約があること,そ して構造的差別の内面化によって「巧妙な」権力の思うとおりふるまい結果としてジェンダー秩序 を支えてしまう作用については数ある先行研究によって明らかにされてきた.しかし何十年,いや,
18 世紀後半,この世にフェミニズムが産声を上げたときから 200 年以上もの間,フェミニストた ちの再三の異議申し立てにもかかわらず,いまだに女性が主観的に男性並みの「自立」を目指さな いのはどういうわけか.
主婦たちの主観的意識において男性並に働くことを目指さないということは,近代主義的認識装 置(江原 1985)の枠内で,近代家族に象徴される近代主義を私的領域から支えるという一面しか 持たない窮屈なものとの指摘もある.しかし,そこにこそ,近代主義がつくりあげた公私関係を変 える何かしらの可能性が秘められているのではないか.本稿ではそうした見通しのもと,主婦にと っての主観的な「自立」について探っていく.労働しつつも男性並の「自立」を目指さないのはな ぜか,その実践と合理性を二元論的分離の境界にいる主婦たちの利害意識をヒントに分析する.さ らにはこれまで近代主義が要求してきた男性標準の働き方に疑問をつきつける契機を探ってみた い.
第 1 章で詳述するが,本稿は,生産労働/再生産労働,公共領域/家内領域――ジェンダー・イ デオロギーによって恣意的に引かれた境界線の間にあるマージナルな領域をグレーゾーンとし,そ
こで行われる活動をオルタナティブ労働として設定する.ひとまず「労働」という概念を用いるの は,生産労働と再生産労働の間にある活動を,公私領域における労働と同じレベルで照射し探るた めだ.
まず第 1 章では,ウーマン・リブ,エコロジカル・フェミニズム,そして生協運動と脈々と流れ てきた主婦の反近代主義の系譜と,それについて寄せられた批判の論点を整理する.そして,社会 批判の場所たりうる家庭には,1)再生産領域と生産領域をつなぐ,2)再生産領域は家庭で育まれ る,3)ケアの重視,という三つの共通点があることを示したい.
そこからわかることは,俯瞰した理論からはひとつに見える主婦も,近づけばさまざまなグラデ ーションを見せるという点だ.とくに公的領域/私的領域,生産労働/再生産労働というフェミニ ズムの二元論的分離のフレームを使うと,その両領域には入りきらない曖昧な存在が出現してくる.
彼女たちの存在は主婦をつくりだした近代主義,そしてアンチ・テーゼとしての反近代主義は両者 とも,近代主義的認識装置がつくりだした軸であり,対立軸そのものが無効であるという証左でも ある.
そこで生産労働/再生産労働,公共領域/家内領域――ジェンダー・イデオロギーによって恣意 的に引かれた境界線の間にあるマージナルな労働に注目するために,本稿の主題でもあるオルタナ ティブ労働という概念を設定する.さらに,オルタナティブ労働に携わる主婦たちの主観的な利害 意識に注目することで,彼女たちが「従属」する位置にとどまる理由について問いを立て,フェミ ニスト理論が描く「自立」と主婦たちが描く「自立」に違いがある可能性を提起した.
第 2 章から第 4 章ではオルタナティブ労働を実践する三つの事例を通し,主婦たちのどのような 利害意識が何を合理的と見出しその労働を選びとり継続し休止するのか,その労働の世界を質的調 査によって観察しながら理由を探っていく.三つの事例とは,まずひとつは,自らハンドメイド作 品を制作し販売する「作家さん」であり,二つ目はソーシャルビジネスの活動をしている主婦,三 つ目は O 会という地域活動の事例だ.
第 5 章の考察では,公共領域/私的領域の間にグレーゾーンを仮説的に設置し,オルタナティブ 労働の三つの事例によってそれぞれ配置がなぜ違ってくるのか,そして,そもそも,主婦たちはオ ルタナティブ労働をなぜ選ぶのかについて主婦たちの利害意識をヒントに総合的に考察する.
そして第 6 章の結論では,以上の議論のまとめとともに,オルタナティブ労働が示唆する「新し い公」について展望してみたい.
1 先行研究
本節では,主婦,労働,家族をテーマに,主婦論,女性労働研究,政治思想研究における公私の 領域分離の議論について概観する.
まずはじめに,1.1 主婦論からでは,主婦論を中心に,主婦登場の歴史や性別分業の定着,「居 直り主婦論」を訴えた第三次主婦論争,そしてエコロジーを足場にした生活者運動論の議論をふり 返る.つぎに1.2 女性労働研究では,日本の女性労働研究において,私的領域と公的領域がいかよ うに描かれてきたかについて概観する.1.3 リベラリズム,女性,そして新しい家族では,公私と いう二元論を超えた社会批判の場所たりうる家庭についての議論をふり返る.
1.1 主婦論から 1.1.1 主婦とは誰か
主婦とは誰か.主婦はいつもこのような問いにさらされてきた.論者によって定義もさまざまで,
その実態を統計的に捕捉することは難しいとされる.先行研究の推定方法を使うと 800 万人規模で ある(杉野,米村 2000: 179)1).しかしそのはじき出された数字が定義と照らし合わせて正しい かといえば,その定義自体が曖昧なため正確な数を把握することは困難である.
では主婦の定義とは何か.主婦研究の第一人者である国広陽子は,主婦の定義を「性別役割分業 規範に基づく性役割として家事・育児・介護などの生命再生産活動を無報酬で主に担うことを自明 視された女性」(国広 2001:26)とする.瀬知山学は,「夫の稼ぎに経済的に依存し,生産から分 離された家事を担う有配偶女性」(瀬知山 1996: 217-223)だとする.本稿では以上にのっとり,
主婦は,1)夫の稼ぎに経済的に依存し,2)無償で家事労働を行うことに責任を持つ,という二つ の要素を満たした既婚女性であると定義する.
しかしなぜこの定義が曖昧にならざるをえないのかといえば,無職の女性だけではなく,パート や非正規労働者が含まれてしまうからだ.本稿では専業主婦だけでなく,夫の扶養内(配偶者控除 の範囲内)で働く女性も主婦の定義に組み込むつもりだが,1983 年に共働き世帯が片働き世帯を 上回って 30 年以上経ち,女性活躍が政府によって喧伝される現在,専業主婦と共働き女性は決し て対立した存在ではないということが示されている.むしろ,ひとりの女性の人生のなかで「専業」
と「兼業」を異動することが明らかにされてきたため,雇用形態,婚姻状況だけでその実数を正確 に把握することが困難なのだ(杉野,米村 2000: 179).
このような状況を踏まえ,既婚女性を対象とした研究において「既婚女性」や「子育て女性」な どの用語が使われるようになり,もはや「主婦」という労働形態を含む用語は学術的にも消えうる
寸前であるともいえる.
ではなぜ本稿ではあえて主婦という言葉を使うのかといえば,構造的に不利な位置に置かれる一 方,男性中心のジェンダー秩序を近代家族の主要アクターとして「影」で支える女性の両義性を表 現する言葉として適切だと考えるからだ.主婦の主体性をめぐって争われた第三次主婦論争の 1970 年代以来 40 年以上経つ今でさえ,女性が構造的に置かれた主婦的状況は変わらない.結婚制度に 入った途端,秩序を支える一方,女性という片方の性にのみ家事労働やケア労働が期待され,未婚 の女性でさえつねに主婦との距離で生き方を規定されてきた(伊藤 1972(1982b :163)).このよ うに主婦は何かの指標をもって厳密な定義はできないかもしれないが,私たちが社会的に共有する 概念として確かに定着し,それをもとに女性は生き方を規定し規定されている.この認識をまず前 提としたうえで,本稿では主婦について論じていく.
1.1.2 主婦の歴史
つぎに,主婦の歴史を概観してみたい.
家族史研究によれば,家族成員のための世話役割を中心的に担う主婦が登場したのは,雇用労働 者とその妻と子どもで構成される核家族世帯としての近代家族の誕生以降である(落合 1994=2004, 国広 2001).産業革命以後,生産と家事,公的領域と私的領域が分離し,男性は公,女性は私とい う性別分業が成立した.そしてこの「男は仕事,女は家庭」というイデオロギーは,段階的にブル ジョア階級から,次第に労働者世帯にまで広がっていく(Oakley 1974=1986).
日本における主婦という言葉は,明治初年の翻訳家政書の中で「使用人に対する主人」という意 味で使われはじめたのをきっかけに,1890 年ごろ(明治 20 年代初頭)に「家事担当者」という意 味で広く使われるようになる(広井 2000).さらに国民国家や近代家族の成立と不可分な規範とし て,女子教育を通じ良妻賢母思想が行き渡っていった(小山 1991).そして大正から昭和初期に都 市部の限られた新中間層のなかで夫はサラリーマン,妻は専業主婦という性別分業が定着した.こ の時期までは主婦は理想化された女性のライフスタイルではあっても,結婚した女性の誰もがなれ る身分ではなかった.それが高度成長期になると職住分離のもと,「総サラリーマン化」した男性 と「総専業主婦化」した女性の組み合わせが家族の規範的モデルとなり,女性たちは一気に主婦化 した(上野 1990; 落合 1994=2004; 広井 2000; 国広 2001; 牟田 2006; 村上 2010a).
もちろん先述のように社会統計から見れば主婦化とは,皆が皆一様に専業主婦に変化したという ことではなく,結婚後一定期間無職になるようなライフコースが典型として現れてくることを指す.
つまり主婦は,企業社会と近代家族の結合というシステムによって規定されつつも(木本 1995),
必ずしもその一生を専業主婦で終えるわけではなく,少なからぬ主婦労働者たちが再び賃労働市場 において働いてきた(杉野・米村 2000: 179).主婦と市場労働とは,切っても切り離せない関係 にあるのだ.
渕上の整理によれば,主婦労働者の出現を可能にした労働形態は,①ツーサイクル型就労形態,
いわゆる M 字型労働力化率のパターン,②パートタイム型就労形態,③家計補助型就労形態である という.このような労働形態を維持したうえで女性が就労することは,女性に賃労働者にして家事 労働者という二重負担を背負わせ,家父長制を別なかたちで補完し,強化することにつながってい る(渕上 1988, 31).つまり「妻は仕事も家庭も」という「新・性別役割分担」(樋口 1987)はと うに定着し,性別分業は無くなるどころか別なかたちで補完されている.
1.1.3 開き直りを説いた第三次主婦論争
このような分業を前提とした主婦と労働のあり方について,1970 年,第三次主婦論争がおこっ た(上野 1982b).第一次主婦論争(1955),第二次主婦論争(1960)含め主婦論争については先行 研究に詳しいが(上野 1982a/b; 妙木 2009; 妙木 2011; 村上 2010a),特に本稿が注目するのが この第三次主婦論争である.なぜなら,この論争においては主婦の折り合いに開き直ることが高ら かに宣言されたからだ.
第三次主婦論争は,主婦労働者が大量に出現した時代にはじまる.駒野によれば,日本の産業社 会は高度成長を続け,パートなどの低賃金主婦労働者はますます増加して,働く女性と主婦という 分け方そのものも意味をなさなくなり,「いまや,職業か,家庭かではなく,女性は職業と家庭を 両方背負い込んだかと思えば,たちまち不況下にはまっさきに職場を追われて専業主婦にまいもど る,といった混沌の時代にはいったのだ」(駒野 1976(1982b: 240)).
「混沌の時代」――主婦労働者の「中断・再就職型」のライフコースが浸透していくこの時代,
無業の主婦として無業でいつづけることは,逆に,それはなぜかと問われる事態になっていく.第 3 次主婦論争の発端となった武田京子「主婦こそ解放された人間像」において「専業主婦」いう語 が初めて登場したのにはそのような背景がある.第 1 次,第 2 次主婦論争までは「特に一般の専業 主婦にとってはピンとこない無縁の論争といったままで終わった」(駒野 1976(1982b: 240))の に対し,「100 パーセントの生活人間である」という主婦の特権的立場を利用し,資本主義的解決 にも社会主義的解決にも与せず,生産優位の論理よりも生活に価値をおくという武田の主張は,ま さに主婦自身による折り合い,すなわち「居直り主婦論」(上野 1982 a: 240)でもあった.さら に池田祥子は,「どこまでも「経済的自立」論に影響され脅かされ,偽りのない劣等意識をどのよ
うに自信へと転換しうるか,を模索し続けてきた従来の「主婦」擁護論とは明らかに一線を画して いる」とし,「「経済的自立」論が内包していた近代的な労働観や幻想を拒否したところにたってい るからである」と評価している(池田 1991: 21).
では,争点はどのようなものだったか.それは労働力商品化を逃れた主婦が本当に自由なのかと いう点だった.林郁は「主婦をすでに解放された人間像と肯定するのは,せいぜい“気休め論”に しかすぎない」,「男の生産性の論理は否定しなければならないと思うが,そのことと,主婦が解放 されているということは,全く別の問題である」(林 1972(1982b: 155))と突き放す.伊藤も「主 婦は本来は働かなくていい,と外から決められて,だから例外的に働いている女,とりわけ母親に は実に働きにくくしむけられていて,主婦は,結果として働かないことを選ばされているのではな いか」(伊藤 1972(1982b :166))と,働かないからといって資本の支配から自由な「無風地帯」な どこの世にありえないとはねつけている.同じく上野も武田の無邪気さに水を差す.「武田氏は,
「私たち主婦の人間的な暮らしをすべての人に!」というスローガンで,性分業に反対しているが,
当面は,生活人間としての主婦の立場を肯定している.主婦の「自由」が「依存の中の自由」でし かないことは繰り返すまでもないが,それを別にしても,武田氏への私の基本的な批判は次の一点 である――すなわち,100%「生産」特化が疎外なら,同様に 100%「生活」特化もまた,疎外に 他ならない」(上野 1982b: 263).
しかしここで特記すべきは,上野が,武田の主張は自らの「人間的自由の砦としての私生活の拠 点=家庭を擁護しつつ,その内外での性別役割分業を否定する立場」と比較的近いとし,武田が提 起した家庭擁護論は家庭こそが社会的抑圧廃止のための拠点だというまったく新しい視点をもた らしたと最大限に評価していることだ.
このように第三次主婦論争に対する問い返しは様々だが,最大の収穫は「経済的自立」の要請に 対する主婦たちによる労働観の転覆,そして自由の砦としての家庭を擁護し得た点であり,それは 大きな「理論的遺産」と捉えることができる.この「自由の砦としての家庭」については,のちほ ど自由論で詳しく論じていきたい.
1.1.4 生協運動とエコロジー
次に,主婦という存在形態からは切っても切り離せない「生活者運動」について見ていきたい.
「生活者運動」は 1968 年に設立された生活クラブ生協運動に代表される「新しい社会運動」の一 つであり,「生活者」の研究を重ねてきた天野正子の定義によれば,「生活者運動」とは,先進産業 社会が追い求めてきた「物質主義的」価値への反省を含む「脱物質的」価値への転換を求める運動
である(天野 1995: 44).そして,「生活者」とは,それぞれの時代によりさまざまな意味をこめ られた一つの「理想型」として使われてきた概念であるが,そこに通底しているのは「それぞれの 時代の支配的な価値から自律的な,いいかえれば「対抗的」な「生活」を,隣りあって生きる他者 との共同行為によって共にめざす行動原理にたつ人びと」(天野 1995: 64)を意味する概念である としている.つまり,生活者とは,(1)支配的な価値から自律的である,(2)オルタナティブな生 活を目指している,(3)他者との協同行為を行っている,という要素を満たした概念である.そし て,「消費点」を足場に置いた「生活者運動」は社会運動を飛びこえ,「新しい政治運動」である代 理人運動(1977),「新しい労働」であるワーカーズ・コレクティブ(1982)へと展開した.
ここで彼女たちが採ったのは「脱物質的」価値への転換,すなわちエコロジーと共通した思想だ.
エコロジー(環境思想,環境運動)は,レイチェル・カーソンに先立つ環境科学者であるエレン・
スワローによって人間の社会をその対象領域にとりこんで以来,「本来,人間は自然の生態系の一 部であると認識し,人間が自然と調和して生きるための思想および社会的,政治的運動として起こ った」運動もしくはライフスタイルという方法と実践である(萩原 1997: 294; 波夛野 2000: 253). 萩原の整理に従うと,エコロジーに共通する基本理念として,①自然環境および発展途上国の 人々に負担を強いるような開発のあり方,現在の資源浪費型(大量生産,大量消費,大量廃棄)の 経済優先システムを改め,より簡素な生産様式とライフスタイルに変える,②権力が一つのところ に集中しない草の根民主主義社会を実現させる,③あらゆる暴力,つまり人間による自然の支配,
人間による人間の支配を否定し,あらゆる生命を尊重した,多様性を認めあう社会をつくる,とい う三つが挙げられる(萩原 1997: 294).ここで「生活者運動」を振り返るなら,「生活者運動」の なかに資源浪費型経済システムへの異議申立てという明確なエコロジーの行動原理を読み解くこ とができる.
つぎに「生活者運動」研究の中心テーゼであるオルタナティブという形容詞について見ていくと,
北村日出夫によれば,「その社会・時代に確立した,既存の伝統的な制度・価値・思想に対して,
それに代わる代替的で新しいもう一つの」(森岡 1993: 128)という意味である.つまり上記で示 したエコロジー思想は,既存の体制の制度・価値・思想にノーを突きつけ代替的な社会を目指すと いう点で,オルタナティブの一つの形態であり,それを目指す主体こそが「生活者」であると大ま かに枠付けられる.
しかし,その一方で,「『生活者』になるための実践が,なぜ,女性だけの,主婦だけのものなの かを開き直って徹底的に対象化する作業がされてこなかった」(天野 1995: 59)との指摘のように,
実践主体がまとう主婦という立場性を見つめなおす必要性も提起されている.同じく,「生活者運
動」をアソシエーション論によって分析した佐藤慶幸は,「生活者運動」は「男中心の産業社会を 批判しながら男に依存する潜在的ジレンマ」(佐藤 1996: 120)をもつとし,天野も具体的な課題 として,「最大の問題は,全世活マ マ をかけて選びとったこうした新しい働き方が,メンバーが自立し,
生活していく現実的条件をまだつくり出し得ていない点にある」(天野 1988=2009: 171)と経済 的自立の重要性を指摘する.いうなれば,一方で「生活者運動」のように「資本」に寄与しないよ うな形で自己実現を目指し,他方では,夫が後顧の憂いなく「資本」の利潤創出に貢献しうるよう,
内側からしっかり支えるという矛盾をはらんだ役割を果たしている点について,主婦たちが運動主 体であることの,その「弱さ」が指摘された(天野 1988=2009: 171).
同じく「生活者運動」のリーダーであった岩根邦雄とマルクス主義フェミニズム研究者である古 田睦美も,「生活者運動」は主婦が担い手である以上「どうしてもジェンダー分業を前提としてい る」(岩根・古田 2005: 29)とし,彼女たちの経済的な依存性について否定的な意見を述べている.
さらに金井淑子は意識の面から「(男女の)関係性の変革意識を不問にした生活の変革はありえな い」(金井 1992: 66,85)と批判し,「男/女」という性別役割規範をのりこえてこそ生活の変革 を成しうるのだと説いた.また渡辺登は生活者ネットワークについて論じるなかで,運動が孕む性 別役割分業の形成や助長の危険性,社会的・経済的地位が高い専業主婦という階層規定性,議員交 代制をめぐるネットワークの組織矛盾について批判をした(渡辺 1995: 211−4).
以上から,「生活者運動」研究における運動主体についての批判は以下の三つに分類できる.(1)
主婦という構造規定性についての批判,(2)性役割意識についての批判,(3)性別分業にもとづく
「生活者運動」の組織自体のあり方への批判である.
これらの批判の背景として,「生活者運動」研究が蓄積された 1990 年前後が,家族規範が衰退・
弱体化し,女性のライフスタイルの多様化が定着した時代であったことが挙げられる(安河内 2008: 160).具体的には,1983 年に共働き世帯が専業主婦世帯を上回ったこと,そして 1986 年に 施行された男女雇用機会均等法,1990 年に成立した育児休業法に見られるよう,女性の「社会進 出」への期待が高まった時期でもあった.つづいて 1995 年に北京で開催された国連世界女性会議,
1999 年に施行された男女共同参画基本法が象徴するように,1990 年以降フェミニズムが社会的に 大きく浸透した.ともすれば「フェミニズムの実現のために主婦は消え去るべき」(岩根・古田 2005:
29)という風潮のなかで,「生活者運動」への評価には二つの側面があったともいえる.一つは,
男性主導の産業社会を問い直す点は評価されつつ,一方で担い手の主婦という立場性と主婦意識は 批判された.すなわち,(1)新しい社会運動の一つとして,男性中心の産業社会への異議申立ては 認定され,(2)主婦という立場性と主婦意識はのりこえるべきものとされた.
「生活者運動」研究で取り上げられた主婦たちを中心とした「生活者」は,平和運動や女性解放 運動などに代表される一つの「新しい社会運動」の担い手として,性別分業と主婦意識をのりこえ れば,という条件付きで,従来の体制を問い直しうる存在として研究者たちに期待をもって描かれ た.ここから,主婦といえば高学歴・高階層で環境意識の高い既婚女性というイメージが定着した が,そのフレームに入りきらない主婦たちも過去のみならず現在にももちろん存在してきたはずだ.
しかしそれらの女性たちが取り上げられる機会は少なかった(高野 2005; 村上 2010b).
このように「生活者運動」研究において,活動主体である主婦たち自身の性別分業が問われたの は上述のとおりである.それは,面白いように第三次主婦論争で交わされた議論と重なっている.
性別分業をのりこえる策として,天野は,産業社会自体を問い直し,夫をも巻き込む理論構築こそ が必要であると説き(天野 1988=2009: 172),佐藤もオルタナティブ社会を求めるために「自己決 定の自由を獲得していく必要がある」(佐藤 1996: 136)とし,金井も「『フェミニズムの視点』
は不可避的な課題.制度・意識両面からの主婦意識の脱却を必要とする」(金井 1992: 85)と述べ,
フェミニズムの視点を導入することによって制度だけでなく根強く残る性役割という意識ものり こえる必要があると論じた.
以上本節では主婦論を中心に,主婦登場の歴史や性別分業の定着,「居直り主婦論」を訴えた第 三次主婦論争,そしてエコロジーを足場にした生活者運動を紹介し,性役割と自立の間でゆれる論 点を紹介してきた.次節では,労働研究の視座から主婦はどのように論じられてきたのかを見てい きたい.
1.2 女性労働研究
主婦と労働を議論するうえで女性労働研究の視座は欠かせない.日本労働研究の主潮流が公的領 域における有償労働のみを見つめてきたことに対し,女性労働研究は私的領域における無償労働が 不可視化されている点について訴えてきた.
1.2.1 日本労働研究の主潮流
1960 年代以降の現代フェミニズムは,近代市民社会の解明に向けた経済学が市民社会の全貌を 明らかにするものではなく,市場活動=経済活動(有償労働)として,その背後でこれを支える膨 大な非市場労働(無償労働)を,社会的に不可視化されてきたことへの告発としてなされた(Beechey 1987=1993; 竹中・久場 2001).
そもそも日本の労働研究の主潮流は,1955 年頃から 60 年頃にかけて「近代的」で「自由」な賃 労働者としての「大企業男性正社員」でありまさに近代主義の系譜をたどっていた.「近代化」さ れた労働者とは,労働力商品として「二重の意味で自由」な労働者である.要するに,血縁・地縁 から離れて身分的・人格的な自由を持ち,いっさいの生産手段から切り離された労働者としての自 由を持つ労働者のことだ.資本主義の創設期から戦後の再建・復興期にかけて,日本の労働研究は どう「封建的なるもの」を乗り越えて,「近代化」された労働者を創出させるかに関心をもってき たが,1955 年頃からの「近代的」労働者の誕生以降,賃労働における「封建性」の議論が衰退し,
労使関係における近代の成熟に関する議論へと転換していった.「年功賃金」「終身雇用」「企業別 組合」の構造や機能に関する研究は精緻化され海外でも脚光をあびてきたが,一方で自らの賃金の みでは労働力再生産がなされない労働者とその社会構造への関心は一気に失われていった.
1.2.2 世界システム論,主婦化
その一方で,日本の労働研究の主潮流とはまったく逆に 1980 年代以降,資本主義的経済システ ムはむしろ「外部」なくしては成立しないことを解くべく資本制的生産様式と非資本制的領域との 接合研究が世界システム論として深化していった.たとえば,ウォーラーステインは『史的システ ムとしての資本主義』(Wallerstein 1983=1985)において,資本主義は自家消費のための家内生産 など資本制的生産様式の「外部」を常に求め,資本制的商品連鎖の経済体制に組み込み,人びとを 完全にプロレタリア化することなく,資本主義の全史を地球規模でみると半プロレタリア的な世帯 構造を固定化してきたと指摘する.なぜなら,非賃金労働の存在によって,資本は労働力を安価に 調達でき,市場で支払う賃金水準を抑えることが可能になるからだ(Wallerstein 1983=1985:27). この考えは日本の労働研究が捨て去った「非近代的」な「封建的」な労働であるとの指摘もある(藤 原・山田 2011: 16-9).
またローザ・ルクセンブルクはウォーラーステインよりもはるか前に『資本蓄積論』(1913)に おいて資本主義はその成熟段階においても非資本制的領域を必要とすると論じていた.ルクセンブ ルクによる「継続的本源的蓄積』概念を発展させ,植民地や農業セクターのほかに女性労働の分析 編と射程を広げたのが M・ミース,C・V・ヴェールホフら(1988=1995)だ.彼女たちは「主婦化」
という概念を用い(Werhof 1991=1995),世界規模で進行する男性をも含む女性労働の搾取の構造 をあぶり出した.このようなインフォーマルな労働がなければ,水面の上の経済は成立しないにも かかわらず,統計はこの水面に浮かんだ部分しか見ていないことは「家父長制的なバイアスの賜物」
であるとの指摘もある(古田 2008: 92)).ミースらは世界システムの中で,女性がまるで無償で
利用できる天然資源や自由に搾取できる自然のように扱われることを問題化し,無償で労働を担わ され,あるいは支払われたとしても労働力再生産を満たせないレベルで労働が供給される構造を明 らかにした.
日本の労働研究の主潮流であった「二重の意味で自由な」労働者が世界的に拡大していくという テーゼとはうらはらに,プロレタリアの法的権利として獲得された地位は掘り崩される.ミースに よる,植民地がなくなったいま,資本蓄積のための「植民地」は,女性,自然,他民族であるとす る立論は,ジェンダー変数のみならず,民族差別など他の差別からどのような利益を資本制が得て いるかも説明できる.彼女たちは,そのような差別という制約によって,生産手段から完全に切り 離されない「不自由」な賃労働者や,非賃金の労働者が世界的規模の資本蓄積過程で搾取される構 造を理論化した(藤原・山田 2011: 20-21).
1.2.3 日本女性労働研究
藤原と山田の整理によれば,日本の女性労働の特徴は 1)労働力率や就業率が全体として低く,
出産・育児期に低い M 字型カーブがみられること,2)就いている職種が男女で異なる性別分離(水 平的職務分離)は欧米に比べ小さいが,同一職種内の職務や管理職比率などの性別分離(垂直的職 務分離)が大きいこと,3)非正規雇用者の割合が高く,非正規雇用の多くは女性であること,4)
男女間賃金格差は先進諸国のなかで最も大きいことだという(藤原・山田 2011: 21).
その特徴について,2016 年度の男女共同参画白書から見ていきたい.まず,現在,日本の女性 就業率率は 63.6%であり,生産年齢人口にあたる 15〜64 歳では 64.6%(男性 81.8%)である.女 性非正規雇用比率は 56.3%で,男性は 21.9%である.また管理職比率は,課長相当職以上は 1 割 未満など男女間格差が大きい.
海外との比較ではこの 15〜64 才の日本の女性労働力率は 2015 年度時点で OECD34 カ国中日本は 16 位.米国やフランスとほぼ同水準だが,年齢階級別に見ると,韓国と同様 30 歳代に落ち込みが 見られるいわゆる「M字カーブ」を描いている.
また,女性の年齢階級別労働力率を配偶関係別に見ると,20 歳代から 40 歳代にかけて有配偶者 の労働力率は未婚者の労働力率より大幅に低くなっている.未婚者の労働力率は 20 歳代後半をピ ークに年齢が上がるとともに徐々に下降する一方,有配偶者では 40 歳代後半がピークとなってお り,この傾向は 1975 年,1995 年,2014 年ともに変わらない.この傾向は,出産を契機にいったん 労働市場から撤退し,子育てを中心に担い,子どもの手が離れる頃の 40 歳代後半に非正規雇用と して労働市場にくり出す女性たちの動きを示している.
この動きは,育児休業を取得する女性は増えているが,6 割以上の女性が出産を機に離職する傾 向が続いているデータが示している.一方男性はといえば子育て期にある 30 歳代及び 40 歳代は,
他の年代に比べ,長時間労働者の割合が高いうえに,男性の育児休業取得率は依然として低水準で ある.
さらに,2015 年における給与所得の男女差は,男性一般労働者の給与水準を 100 とすると,女 性一般労働者の給与水準は 72.2.ただし非正規雇用となるとその半分となり,男女の比率はそれ ほどの開きはなくなる.つまり男女平等という観点からすれば,非正規雇用の形態の方が男女間格 差が少ないということになる.
以上見てきたように,藤原と山田が挙げた 1)〜4)の日本女性労働の特徴を 2016 年度の統計デ ータからも引きつづき読み取ることができる.つまり,男女間のジェンダーギャップは依然として 存在する.その理由は何か.
1.2.4 無償労働の発見
1970 年代,とくに 75 年の国連女性年以降,近代主義批判の文脈で女性のアンペイド・ワーク(無 償労働)の問題が注目されるようになった.1960 年代末の英語圏における家事労働論争や 70 年代 に台頭した女性解放運動の問題提起のなかで,フェミニズムの最大の功績は,人間の再生産に関わ る活動に労働概念を与え,これを無償労働と定義したことであり,これにより「生産と再生産」を めぐるジェンダーの内的連関構造(家父長制的資本主義の内的構造)における支配/被支配関係を 明らかにすることが可能となった(上野 1990: 180; 竹中 2001: 17; 古田 2005: 189).江原由美 子は無償労働の発見について,「売春は労働である」という主張と同様,家事・育児・介護・ケア などの従来「労働」とみなされなかった活動に「労働」という定義を与えることで,「支払い要求 の正当性」や「子育て・介護などを労働条件という観点から記述することでその過酷さを明らかに する」などの言説の効果を狙ったものであることは認めつつ,こうしたフェミニズムの理論的営み こそが,「労働」という概念を立ち上げることで実際には社会が何をしてきたのかということを明 らかにしたことを強調する.すなわち,無償労働の発見こそが,近代社会におけるジェンダー化と 労働者化と近代家族化との(フーコーがいうところの生権力の),相互にあまりにも緊密に絡んで いるために区別できないほど結びついた関連性に,切れ目を入れ解きほぐす効果をもったのだと最 大限に評価している(江原 2005:93-94).
同じように女性労働研究者の竹中恵美子と久場嬉子は「労働力商品化体制」(資本制と家父長制 の接合)という,女性が容易に労働力化されない構造,労働力化されても雇用労働市場では劣位に
おかれる構造を理論化し,女性労働を資本蓄積と政策の関連でとらえその理由を見出した.
上野千鶴子が「労働市場が「女・子ども」を追い出し,市場の外に「近代家族」という私領域を 疎外した時,市場は市場原理にとってはノイズであるはずの非市場的な原理を隠密裡に導入し,こ れと妥協した」(上野 1990: 180)と論じたように,労働力商品を生産するためにはケア労働など 再生産に必要な無償労働が存在するが,資本はこれに関知せず,個別家族の私的な行為(「愛情」
「母性」「女性役割」とみなすことで,その「見えざる労働」を利用し,労働力再生産費用を「外 部化」してきた(藤原・山田 2011: 22-3).この「労働力商品化体制」には二つの前提があり,第 一に家族が私的に労働力再生産という経済的機能を果たすこと,第二にその私的労働は性別分業に よって女性総体が無償で担うことである.フェミニストたちは近代家族の性別分業イデオロギーを 含めた家父長制の資本制的形態を問題視してきたのだ(久場 1983: 28; 竹中 1985: 26; 上野 1990 :180; 千田 2011: 162).
これについて木本(2000)は,家庭内の性別分業が雇用労働における女性の地位を規定するとい う労働供給サイドに偏った家庭内性別分業決定論であるとして,その方法の陥没を指摘する.つま り,家庭内性別分業決定論は潜在的な労働力としてしか再生産労働をみなしておらず,そもそもの 再生産領域におけるケアについてのまなざしがないために雇用労働の領域と再生産領域をつなぐ ことができないという方法論的陥没であるというのだ.その点,女性労働研究は雇用労働の領域だ けでなく再生産領域を含み,両者をつなごうとする点に特徴があるが,女性労働研究が切り拓いた 視点は男性労働研究の分析に用いられることはほとんどなく,労働研究のメインストリームから乖 離した「特殊理論」としての位置から脱却できないとした.(藤原・山田 2011: 24)
この木本の指摘について藤原と山田は,久場と竹中は「これまでの経済学や日本の労働研究で語 られてきた「二重の意味で自由」な「近代的」労働者とは,労働力再生産過程へのかかわりをみご とに欠落させたケア不在の労働者(ケアレス・マン/エコノミック・マン)であること,したがっ て,雇用労働における男女平等のためにはケアへの責任と権利の平等は配分が必要であり,それを 可能とするための経済的資源(時間と貨幣)の社会的再分配が必要であること」を主張しているの だと強調する(藤原・山田 2011: 25).
つまり,労働研究がこれまでモデルとしてきた「近代的」労働者は,身分的・人格的な自由と生 産手段からの自由のみならず,無償労働,すなわち労働力(人間の)再生産過程からの自由をも暗 黙に含んでいた.いうなれば無償で行われる労働力の再生産労働こそが女性を総体として「二流に」
貶め,「標準的」で「近代的」労働者になるのを妨げてきた.筒井淳也は,1970 年代以降,政府が
国民の生活保障に直接乗り出すことがなかった日本では,男性は会社で稼ぎ,女性は主に家事・育 児・介護をしながら外部労働市場でパートタイマーとして働くという共働きのスタイルが定着した が,このような外部労働市場が正規雇用の夫と家計を共有する有配偶女性向けに形成されてきたこ との帰結は,現在の正規雇用・非正規雇用の賃金格差の問題として現れてくると指摘している(筒 井 2015: 29)
藤原と山田は,この問題について男性をも取り込んだ制度的な展望が必要だとし,この労働者モ デルを乗り超えるために,「一日あたりの労働時間規制」と「生存可能な賃金水準の確保」こそが ケアレス・マンという労働者モデルからの離脱を意味するものであり,男性の身体を基準とした「社 会的標準」を解体し,トータルな人間活動を視野におさめた新たな「社会的標準」を再構築する必 要があると述べている(藤原・山田 2011: 26).
以上見てきたように,日本の女性労働研究において,ケアを含む無償の再生産労働が注目された ことが最大の貢献であることがわかる.竹中が指摘するようにジェンダー・アプローチの過程は,
女性に対する差別・抑圧の根源である近代家族を解明することからスタートして,政治・経済・社 会・文化の多面的な複合要因を分析し,究極的には,差別・抑圧の根源を支える社会システム(有 償労働と無償労働のジェンダー的編成)そのものの変革に向かう理論構築を行ってきた.そして現 段階は,有償労働と無償労働のジェンダー編成原理とその国民経済を超えた実像を明らかにし,次 いで,これをジェンダーニュートラルにするためにはいかなる条件と政策による「社会的標準」が 描けるかを考える段階である(竹中 2001: 27).
ここまで来てわかるのが,女性労働研究と主婦研究との共通点である.端的にいえばそれは再生 産領域(=私的領域)に対する関心である.労働研究から派生した女性労働研究は,「労働商品化 体制」を克服するために公的領域が含む再生産領域を問題にすべきだという点に方法論的特徴があ るが,第一節で見てきたように主婦研究においても同様,生活者運動研究や第三次主婦論争など,
再生産領域と生産領域をつなぐ方策についての討議がなされてきた.一方異なる点は,主婦研究の 対象がその名の通り主婦,すなわち 1)夫の稼ぎに経済的に依存し,2)無償で再生産労働を行う 存在を前提にしているのに対し、女性労働研究は男女を含む労働編成全体を焦点にしている。主婦 論については,フェミニズムの視点から,担い手である主婦の性別分業という前提を問い直す批判 が繰り返しなされてきたが,その主観的,客観的な揺れ動きを含め主婦論は研究対象にしてきた.
また,女性労働研究においてもケアレスマンモデルへの批判がなされ再生産領域と生産領域を架橋
するような労働モデルの再構築の必要が唱えられているなど,妊娠・出産という再生産行為を期待 される女性の労働のありようをめぐっては,再生産領域の視点は欠かすことができない.
そこで,その再生産領域の主要な集まりである家族に視線を移そうと思う.そのために,まずは 政治思想における家族と自由のディレンマに関する議論を紹介したい.上述したように女性労働研 究と主婦研究との共通点は再生産領域についての関心と,再生産領域をいかに生産領域と架橋して いくか,その在り方についての議論が中心であった.つぎは新しい家族に焦点を当てる.
1.3 リベラリズム,女性,そして新しい家族 1.3.1 公私という二元論
「たいていの女は「家庭」の大切さを充分すぎるほど自覚している」(江原 1985: 9)と江原が 論じるように,フェミニズムでは,女性が男性並に賃労働に就労し経済的な自立をするだけでは問 題は何も解決されないことに薄々気づいてきた.「子どもに対する世話,老人や病人の世話,生命 を産み出し死をみとること,こうしたことが「お金を稼ぐ」ことよりも大変な労働であり,しかも 人間にとって本質的なことであることに気づいていた.だからこそ,単に男と同じように働けるこ とだけを目標とする女性解放論の限界は「常に」指摘されていた」(江原 1985: 11).
それについて,リベラリズムの議論が参考になる.女性たちの自由をめぐるディレンマ,すなわ ち「女性を被害者としてみるのか,それとも,自由な意思による自己決定を行っているのか,とい う対立項」(岡野 2008: 41)のなかで,家族や家庭が重力のように女性たちにとっての解放や自由 への希求を拘束してきた(岡野 2010: 34).その一方で,フェミニズム理論は家族の抑圧的な側面 だけでなく,個人を育て,慈しみ,支え合うという肯定的な側面にも光を当ててきた.こうした両 義的な家族へのアプローチは丁寧な議論が必要であるが,個人主義的な価値と共同体的な価値との 緊張関係のなかで,象徴的に女性に結び付けられてきた慈しみや共同性を巡る価値の重要性は,フ ェミニズム理論において「充分すぎるほど自覚」されてきたと岡野は強調する(岡野 2010: 36).
古代ギリシャにおける労働への嫌悪や蔑視によって,奴隷と女性は果たすべき機能においてポリ スから排除されてきた(Arendt 1958=1973).そして近代以降すべての人が平等で自由だというリ ベラリズムの価値志向のもと,女性は近代的な公私二元論の確立のために性的契約(sexual contract)を結んだ.社会契約は結果として市民社会と国家を創設することができたが,他方で女 性はその性的契約によって公的領域には存在することができなくなったとされる(Pateman 1988).
1.3.2 同時に家族の重要性
このペイトマンによる公私の相補性についての議論は説得力をもつが,一方でブラウンは社会制 度からの女性の排除はそもそもリベラルな秩序に内在しているものではないとする(Brown 1995:
137).労働の分業自体に服従の要素がある限り,すべての女性がジェンダーに割り当てられた労働 に就くことを要請はされないので,「誰か代わりを服従させることで,ある特定の女性たちは,自 らの解放を買える」(Brown 1995: 46),すなわち,リベラリズムは「誰かが奴隷とならなければ,
他の者が自由になれないという信念」(Brown 1995: 156)を内包しているのだと論じている.これ についてはリベラリズムの文脈ではないが,「雇用関係は家父長制そのものではないか」と経営に おける雇主と雇人の関係の法理が家における家長と家人の関係の法理と論理的に同型であり,発生 史的にも同じ起源を持つことを実証した森によるイギリス労働史研究も参考になる(森 1988).
つまり,労働の分業自体に支配=従属の要素がある限り,性が分解したとしても地域,民族,人種,
宗教など形を変えて非対称性はつづくのだという指摘である.
岡野はそれらの議論を踏まえ,リベラルな主体になることが女性の解放ではなく,応答されるこ とを可能にする社会,そして,応答責任を果たすことと自己の自由を希求することが両立する社会 を構想することこそがすべての人に開かれた自由な社会の条件を考えることに繋がるはずだとし
(岡野 2010: 50),「女性たちが伝統的に担ってきた家を維持する仕事の創造的で人間的な側面」
(Young 1997: 51)に着目したヤングの議論を引き合いに出す.
ここで家庭の重要性が取りあげられる.ヤングは家,すなわち家庭こそが,批判的で解放的な可 能性をもつという.これは,江原が「家庭の重要性」を論じたことと共通する(江原 1985: 8).
もちろん念を押さなければならないのは,ここでいう家庭とは「女が家庭内の役割をになう」とい う性別分業を前提にした近代家族とはまったく別にあるジェンダーニュートラルな家庭である.性 による支配=従属関係を乗り越えた先にある家庭の可能性は,実はフェミニズム理論によって否定 されているわけではないのだ.
ヤングは,家庭の営みのなかにこそ,支配=従属関係といった人間関係の建設=破壊といった人 間活動とは異なる,多様な者たちの生の意味と,個々人の尊厳を守るための活動を見出す.その特 徴として,以下の三つを挙げる.1)自分は一貫した何者かであるということに気づく,2)世代を またぎ残る,3)家事は(文化の継承という意味で)記憶を想起することを促す.もちろん家庭は すべてに開かれているわけでもなく,経済的な自立から遠ざけられたり,土地を占拠したりという マイナス面はあるものの,他者への思いやりや応答の態度をうながす場である点は強調していい
(岡野 2010: 53).
では家族はどうか.岡野は家族を「個々の人々が,他者から慈しまれることで,自らの自尊心や 責任感を養う関係,他者から違いを受け入れられ,積極的に守られることで,自由な存在であるこ とを実感できる関係」だと定義し,1)家族を統治の道具・対象として把握する国家からの解放を 求めつつ,2)そうした家族のもつ潜在力の実現を得ようとする社会制度を求めることができる,
すなわち,「他者とともにあり,問いかけに応えることが自由への一歩となるかもしれない」と家 族の可能性を論じている(岡野 2010:55).
このように,リベラリズムの影響を強く受けたフェミニズム理論において,リベラルな主体にな ることだけが女性解放のゴールではなく,自尊心を育む社会批判の場所としての家庭,そしてケア 労働のとらえ直しの必要性が問われてきた.まとめると,社会批判の場所たりうる家庭には以下の 三つの共通点がある.1)再生産領域と生産領域をつなぐ,2)再生産領域は家庭で育まれる,3)
ケアの重視.
以上本章では,主婦研究,女性労働研究,政治思想研究を見てきた.三者に共通するのは男性中 心に培われてきた生産領域に対する異議申し立てであり,再生産領域(=私的領域)に対する関心 であった.政治思想から生まれたフェミニストが,女性に結び付けられてきた慈しみや共同性を巡 る価値の重要性について,そして家庭を社会批判の場としてまなざすとき,それは 70 年代,80 年 代にわき起こりいつの間にか声を潜めていった反近代主義の,2000 年代のリバイバル版とさえも 見える.しかし政治思想のフェミニスト理論からは,もはや主婦の姿は消えている.なぜなら主婦 研究の対象がその名の通り主婦,すなわち 1)夫の稼ぎに経済的に依存し,2)無償で再生産労働 を行うことに責任をもつ存在を前提にしている一方で,政治思想のフェミニスト理論は経済的自立
/経済的従属を超えた女性の妊娠・出産という再生産行為についての議論,そして近代家族を超え た「家族のオールタナティブ」(牟田 2006)としての家族・家庭を前提としているからだ.性別分 業を前提とした主婦はもはや議論の俎上にすら載せられない.しかし,主婦はいなくならないどこ ろか確実にいる.それは,なぜなのか.以下で本稿のねらいについて述べたい.
1.4 主婦にとっての自立とは何か 1.4.1 問題設定
本稿で注目するのは,オルタナティブ労働をする主婦たちだ.「はじめに」でも述べたように,
本稿は男性並に働くことを目指さない主婦たちの合理性に注目することで,近代主義がつくりあげ