『門』と明治日本の植民地主義
著者 伊藤 博
出版者 法政大学国文学会
雑誌名 日本文学誌要
巻 73
ページ 110‑119
発行年 2006‑03
URL http://doi.org/10.15002/00010125
ハルピン歴史的事実が教えるところによれば、伊藤博文が暗爾賓ステーション停車場で暗殺されたのは明治四十一一年(一九○九)十月一一十六(21}日である。即日、暗殺を報じる号外が発刊〉「これている。『門』では、「宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見た」(三)との記述がある。この記述と宗助が在宅している「日曜日」(二という記述を合わせて考えた場合、すでに今村忠純が指摘してい{ワこるように、『門』というテクストは明治四十一一年(一九○九)
夏目漱石が「朝日新聞」に『門』の掲載を開始するのが明治四十三年(’九一○)三月一日、掲載が終るのが同年六月十一一日である。同年八月二十九日には韓国併合に関する条約が締結され、韓国は日本に併合され、「朝鮮」という地域名となり、 るように、「門』というテクストは明治四十十月三十一日の日曜日が起点となっている。 はじめに
『門』と明治日本の植民地主義
日本がその地域を政治的、経済的、社会的支配下に置く。したがって、当時の読者は『門」を読み始めると、ただちに、ほぼ四ヶ月前の出来事である伊藤博文暗殺事件を想起するばかりか、「門』を読み了えた約二ヶ月後には、日本の韓国併合という歴史的変動の時期に直面することになるわけである。宗助夫婦にとっても日本近代の時代的制約から免れて生活することなど出来はしない。むしろ、彼らの生にこそ、激動する近代日本の歴史的情況のただなかで時代の変転と踵を接しながらその軌跡を描いていることがはっきりと看て取ることができるのである。
宗助夫婦の過去は近代日本のさまざまな歴史的転換点と密接に関わっている。その過去は主に日露戦争前後二年の間に位置
伊藤博
「門」と明治'三|本の植民地主義
宗助夫婦にとって伊藤博文の暗殺事件報道は「小六がそれ(伊藤博文の暗殺事件l引用者)を云ひ出した迄は」「格別の興味」の対象となってはいない。なるほどそれは、宗助夫婦がすでに、社会の情勢や世間の動向とほとんど無関係に生活していることのひとつの証しなのかも知れない。しかし、「号外発行の当日以後、今夜」まで、とりわけ明治四十二年二九○九)十月一一十七日と二十八日の「東京朝日新聞」における伊藤博文の暗殺事件に関わる記事内容を詳細に検討するならば、それが宗助夫婦のこれまでの生の軌跡を表象する内容となっていることが解かるのである。明治四十二年二九○九)十月二十七日(水曜日)付の「東京朝日新聞」(第八三三一號、一一面)に「●奉天よりの報」と づけられるのであるが、まず最初に、当時の日本社会全体を驚(3)情させた伊藤博文の暗殺に関する報道記事を読むことによって、それが宗助夫婦の過去とどのように関わっているのかという点について検討することにしよう。
此二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云ひ出した迄は、公けには天下を動かしつ樹ある問題も、格別の興味を以て迎へられてゐなかったのである。(同) 其後日毎の新聞に伊藤公の事が五六段づ国出ない事はないが、宗助はそれに目を通してゐるんだか、ゐないんだかつい分らない程、暗殺事件に就ては平気に見えた。(一二) 同紙面には「●六連發にて絶命」(傍点・原文)「●伊藤公即死説」といったように、すでに伊藤博文の死亡を報じる情報も同時に掲載されてはいるが、ここで問題となるのは「奉天」という地名である。「満州」に関わる小六と宗助の会話に微妙に反応する御米の表情、そして、御米の表情に対する宗助の態度(4)に着目すれば、すでに遠藤祐が指摘しているように、宗助夫婦にとって「満州」が自分たちと極めて深い関係にある場所であることがお互いに明瞭に、しかも、瞬間的に察知されている。 して次の記事が掲載されている。
奉天より後藤逓相の許に達したる報道に依ば伊藤公は今ハルピンステーション朝吟爾賓停車場下車の際プラットホームに於て韓人の為に狙撃ざれ生命危篤なり事實取調中なりとあり
とかくハルビン「兎に角満州だの、吟爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険な様な心持がしてならない」と云った。それ「夫や、色んな人が落ち合ってるからね」このとミごか此時御米は妙な顔をして、斯う答へた夫の顔を見た。宗助もそれに気が付いたらしく、「さあ、もう御膳を下げたら牝』つ異酉好からう」と細君を促,-)て、先刻の達磨を又畳の上から取って、人差指の先へ載せながら、か「どうも妙だよ。よく斯う調子よく出来るものだと思ってね」と云ってゐた。(三)
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宗助夫婦だけが、お互いに了解しうる微妙な表情や態度を採ったのは、もちろん、「色んな人」(三)の中に安井の存在が含まれていたからである。宗助と御米にとっては、安井を裏切ることによってしか二人の愛は成就しなかった。裏切られた安井は「半途で学校を退」き、宗助夫婦は「安井が満州に行ったしらせといふ幸日信」を得、そして、「或る関係から、安井がたしかに奉天にゐる事を」(以上、十七)確認することになる。つまり、宗助夫婦にとって、「満州」とりわけ「奉天」は安井を日本から放逐した場所として格別の意味をもっているのだ。彼らにとってはその地名は安井に繋がるがゆえに、決して口に出してはならない地名でもあったのである。しかし、今、宗助夫婦は連日の伊藤博文暗殺事件の報道に厭でも接せざるを得ぬわけであって、日々、安井に纏わる過去の記憶を現在に召喚させられることになるわけである。そのために、宗助は、自ら購ゴムふうせん入した「達磨」の形になる「護謨風船」(一二)を弄ぶことで、「満州」に関する話題を回避し、そのような記憶を紛らわせようとしているのである。しかし、そのような宗助の行為にも拘わらず、あたかも宗助夫婦に「奉天」の地名を突きつけ、追いかけるかのように、連日、事件は報じられる。翌二十八日(木曜日)付の「東京朝日新聞」(第八三三一一號、一一面)の最上段には伊藤博文の「●遺骸奉天通過」が報じられている。
十月二十八日付の「東京朝日新聞」には伊藤博文誕生に関す
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る諸説も同時に掲載されている。そして、その中の「第一説」はいわば、英雄伝説ともいえる内容であるが、宗助夫婦にとっては注目すべき記事となっている。次にその記事(六面)から抜粋する。●伊藤公の前半生(二)▽英雄誕生の異説、(前略)伊藤公誕生に就ても異説あり、曰く利輔は十蔵の子にあらず、十蔵夫婦同棲しすでに数年に及ぶと雌も、一子無きを歎く折しも、ある時一人の行脚僧、束荷の里に行き暮れて、一夜の宿を十蔵の家に求めしが、不思議にも僧侶に似気無く一人の嬰兒を携へたり、夫婦不審晴れやらず、其原由を問ふに僧は答へず、此嬰兒はなみノーの種にあらず、身分ある人の私生兒なり。拙僧に託し、大事に育てんといふ人を見立て興れよとて、若干の銭を附けられたり賀はんといふ人多けれど、銭に眼くる衝人に輿へては此兒の為め宜しからずと、諸国遍歴月日を経れども未だ此兒の親とするもの無しと云ふ、十蔵夫婦は嬰兒を打見るに容貌端麗にして神采すぐれ、実にも平人の種とも身江ず、あはれ斯る兒を我が子ともするならばと恩ふより、僧に向ひ、われ等同棲して多年、今こそ零落れて名も無き農民と為りたれど、先祖は由緒ある武門なり、八幡懸けて其子を粗かにせじ、我に輿へといふに、僧、其真心を知り、之を賜へて去れり、この子即ち利輔なりと、(後略)
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「''1」と明治日本の|:111(比地iミ義
真偽はともかく、このようなところを宗助夫婦が読んだとしたら、どのような気持であったろうか。「われ等同棲して多年、今こそ零落れて名も無き農民と為りたれど、先祖は由緒ある武門なり」といった記述内容の「農民」を「都市生活者」に置き換えれば、十蔵夫婦の生の在り様は現在までの宗助夫婦の生のか、へしやふ軌跡そのままだからである。壱不助は「抱車夫を邸内の長屋に住まはして、楽に暮らしてゐた」(四)ほどの「相当に資産のある東京もの、子弟」(十四)であった。そのような宗助が御いっしょ米と「一所になってから〈7日迄六年程の長い月日」(十四)を過ごすことになる。「門」の起点である明治四十二年(一九○九)からその月日を逆算すれば、宗助が日清戦争後まもなく設立された京都帝国大学(法科大学)を中途退学し、御米とともに広島へ赴いた時期が明治三十六年(一九○一一一)ということになる。広島は明治二十七年(一八九四)八月に対清宣戦布告がなされた後、同年九月に東京から大本営が広島城内の第五師団司令部内に移動してきたことからも解るように、呉や宇品といった軍港を擁した軍事的にきわめて重要な場所である。伊藤(5)博文の官歴には明治二十年代に何度か広島や呉を訪れた一」とが記されている。その後、宗助夫婦が「前後二年」(四)ばかり移り住む福岡はいうまでもなく、大陸と極めて近接し、軍事戦略的に利用価値が高い地域でもある。小川三四郎(『三四郎』明治四十二年/一九○九)が福岡から大阪、京都、名古屋を経て東京に至る立身出世を目指す上京の行程を辿るのとはまったく逆に、宗助夫婦は次第に西日本から九州の都市へ移動していく。日本帝国 主義にとって軍事に関わる港湾労働力の確保が必要であった広島や戦争遂行のための主要エネルギーである石炭の産出で短期的に好景気であった福岡は京都帝国大学を中途退学した宗助にとっては自らの労働力を売るには絶好の都市であったのだ。そして、宗助夫婦が福岡に住むまさにこの時期、明治三十七年二九○四)一一月に対露開戦が決定され、三月に伊藤博文が特派大使として漢城(ソウル)へ入京。翌年三月、奉天会戦、まもなく占領。九月、日露講和条約(ポーッマス条約)が締結され、Ⅱ本の韓国に対する支配権が決定的なものになる。つまり、宗助夫婦が福岡で「睦まじく暮らして来た」(四)時期は日露開戦から講和に至るまでの歴史的激動の時期にあたっているのであり、彼ら夫婦だけが静かで平穏な日常生活を過ごしていたと考えるわけにはいかないのである。(6)すでに別の機会に述べたことだが、宗助夫婦にとって一人月の子供は広島で「五ヶ月迄育って突然下りて仕舞」(十三)い、福岡では「月足らずで生まれて仕舞った」(同)赤子を亡くしてしまう。この福岡へ移り住んでから「二年目の末」(三、すなわち明治三十八年つ九○五)に学生時代の同級生であり、いまや高級官吏となった杉原の世話で宗助は東京に戻ることになる。宗助は大陸において多くの官吏が必要とされたために不足した人員を補う形で下級官吏として採用された可能性もあり、彼の職業ひとつ取っても時代の趨勢と密接に連動しているのが解かるのである。そして上京後「東京に移って始めての年」(十三)、つまり、明治三十九年(一九○六)に再々度御米の不注きいたいてんらく意から「膳帯纏絡」(同)という不測の事態によって二一人月の
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子供を亡くしてしまう。日露戦争前後の情況下に三人もの子供を亡くした御米に世間から如何なる視線が投げ掛けられ、抑圧が懸けられるのか、改めて問うまでもあるまい。宗助夫婦が子供を亡くすのは日露戦争前後の時期にあたっている。その意味では彼ら夫婦の子供の死は乃木将軍の子供らの戦死をも含め、日露戦争に関わり、亡くなった人々の累々たる死と時代を共有しているのだ。ところで、明治三十八年(一九○五)十一一月二十一日付「官(7)報」に拠れば、伊藤博文は韓国統監府の統監に任命されることになる。安丼のように満州へ渡る可能性も残されていた宗助夫婦が福岡から反転して東京に戻るのとは反対に天皇に直隷する韓国の統監に親任される伊藤博文の生の分水嶺は、まさに、この年末である。翌明治三十九年(一九○六)に開庁したこの韓国統監府(明治四十三年八月二十九日以降、朝鮮統監府に改称)(H}こそ「韓国内政全般にわたる監督と支配のための植民地機構」の中心的機関であることはいうまでもない。このように、宗助夫婦の住居の移動、および子供を亡くしていく時期と当時の日本が大陸に覇権を求める帝国主義的戦略の行程は微妙にその軌跡が重なっている。そして、宗助夫婦と伊藤博文が時を隔ててステーションともに帰着する場所が新橋停車場なのである。
夜汽車で新橋へ着いた時は、久し振りに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯の所為か晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、着の時間が珍しく三まち十分程後くれたのを、宗助の過失で国もあるかの様に、侍 新聞報道に従えば、伊藤博文の遺体が到着することで、今や、ステーシ刃ン「新橋」停車場は時代の死を確実に受容する場所となっている。ステーション宗助夫婦にとっても「新橋」停車場において叔父夫婦が出迎える様子は「灯の所為」や「途中」の「事故」による列車の遅延といった描写からも解かるように決して明るいものではなく、むしろ、これまでに二人の子供を亡くした宗助夫婦の暗い生を暗示し、今後の運命をあたかも示唆するかのように決定的に暗いのである。彼ら夫婦には「奉天」がそうであったように「新ステーシ卯・〆橋」停車場という活字に触れる}」とで、自分たちの過去の記憶 ステーション宗助夫婦が「新橋」停車場に着いたほぼ四年後、その同肝‐)ステーション停車場に伊藤博文が霊枢車に乗せられて東京に戻ることになる。その間の様子を明治四十二年(一九○九)十一月二日(火曜日)付の「東京朝日新聞」(第八三三七號、五面)は次のように報じている。
霊枢来たる哀しみの雲に包まれたる満都の人気もやや色めきたりc心あるも心なきも、これを新橋に迎えんと志す。正午過ぎ頃には新橘付近より霊南坂道筋、例によって人垣を造れり。弔旗は戸毎に翻る。(中略)あたかも一時七分、公の霊枢を乗せたる特別列車は、轍の響き徐ろにホームに進み入る。人々今更に容を正して粛然たり。列車は停まりね。(後略) くたびけしき草臥れた気色であった。(四)
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これまでの記述から明らかなように、「門」では日露戦争前後という大文字の歴史情況に一庶民としての宗助夫婦の小さな日常生活が対置させられていた。なるほど、そのような二項対立的構図に「門』の反時代性を読み取ることも可能である。しかし、宗助夫婦の反時代的な生き方は安井との関係によって強いられたきわめて私的な生き方に過ぎない。したがって、彼らの生き方には、当時の歴史的情況や社会的変動に対する批判的視点がまったく欠落しているといわざるをえないのである。「僕やいつ二」は学校を已めて、|層〈7のうち、満州か朝鮮へでも行かうかと思ってるんです」(三)と宗助に語りかける小六にしても立身出世を欲望し、時代に適合しようとする姿勢は完全に時代に取り込まれており、将来的にいえば、体制を補完する生き方そのものに他ならない。もちろん、そういった小六の欲望が生じるのは小六に大学進学のための学費を捻出できない宗助の経済的基盤の弱さが関係しているのであろうが、より重要なのは、当時の日本帝国主義が大陸を政治的、経済的、社会的に支配することによって軍需関係の仕事が増加し、植民地支配のための官僚制組織が膨張していくことである。そういった事情が、改めて人々に明治的立身出世の夢を蘇らせ注入していったのである。たとえば、宗助夫婦の家主である坂井の弟は次のような人物 が鮮やかに甦ることになるのである。
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明治政府は国家有用の人材の育成をめざして、明治十九年二八八六)に学校令を発布し、これによって明治二十年代以降、帝国大学を頂点とする教育システムがその培養装置となり、人々に立身出世の道が開かれることになる。宗助が帝国大学に入学するのはこのような社会情況のときである。そして、日露戦争に勝利した日本は積極的に大陸を侵略し、満州の経営に乗り出していく。こうして、坂井の弟が「銀行」を辞めて「満州」へ渡る歴史的、社会的基盤が着実に準備されることになるのである。坂井の弟の運送業の経営が失敗に終ったとはいえ、その業務内容は日本帝国主義の対外侵略と紛れもなく合致していることを見逃すわけにはいかない。日露戦争終結の翌年(明治三十九年/一九○六)に設立された南満州鉄道株式会社に代表されるように、植民地開発には運輸業務がきわめて重要な役割を果た として描かれている。
この此弟は卒業後主人(坂井l引用者)の紹介で、ある銀行はいいげに這入ったが、何でJい〕金を儲けなくっちゃ不可ないと口癖の様に云ってゐたそうで、日露戦争後間もなく、主人の留めるのも聞かずに、大いに発展して見たいとかとなへて、子』こ遂に満州に渡ったのだといふ。其所で何を始めるかと田心ふれうがくだと、遼河を利用して、一見粕大一見を船で下す、大仕掛けな運た.ちま送業を経営して、忽ち失敗-」てしまったのだそうである。(十六)
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(9)すでに玉井敬之が指摘していう(包ように、現在の本多夫婦のライフスタイル生活形態に将来の宗助夫婦の姿を看て取る一」とはむろん間違いではない。ただ、子供のいない宗助夫婦にとって、その老後の生活は息子から月々の「仕送」のある本多夫婦のそれより格段に厳しいものになるという点を補足しておくべきである。さらに、問題なのは、現在の本多夫婦の隠居生活を支える生活費が「朝鮮の統監府」に勤務する息子からの「仕送」に依存していることである。つまり、本多夫婦とその息子は大陸を植民地化する日本帝国主義の中心機関である「朝鮮の統監府」からの給与によってその生活が成り立っているのだ。本多夫婦が一気楽に暮らして行かれる」背景には大陸の人々が圧倒的に抑圧され、支配の下に置かれ、経済的に収奪されていることを決して見落としてはならない。「満州」で活躍する安井はむろんのこと、 していたのである。そのことは、宗助同様、坂井の貸家に住む本多夫婦の息子を見れば事情はさらに一層明瞭になるだろう。
「丸で前の本多さん見た様ね」と御米が笑った。前の本かまへうち多ざんと云ふのは、矢張り同じ構内に住んで、同じ坂井かしゃこをんなの貸家を借りてゐる隠居夫婦であった。小女を一人使つくらして、朝から晩迄一)とりと音もしない様に静かな生計を立て、ゐた。(中略)た薮息子が一人あって、それが朝鮮のそのほう統監府とかで、立派な役人になってゐるから、月々其方の仕送で、気楽に暮らして行かれるのだと云ふ事丈を、出入りの商人のあるものから耳にした。(七)伊藤博文階殺に関する情報を連日報じている「来京朝日新聞」紙上に漱石の『満韓ところどころ』が同時に掲栽されている。「満韓ところどころ」は満鉄総裁中村是好の「海外に於ける日本人がどんな事をしているか、ちつと見てくるが可い」()といった指示に梓える形で記述された紀行文という性格を有している。漱石は「遊覧」(二十七)目的で紀行文を書いている。しかし、そのような漱石の意図に反し、叙述内容は「満州」がさまざまな意味において日本の支配下に置かれていた情況がさらに一層強力に照らし出される結果となっている。たとえば、明治四十二年(一九○九)十月二十七日(水曜日)付の「東京朝日新聞」(第八一一一三一號、一一一面)には『満韓ところどころ』の(五)が掲載されているが、それには漱石が是好の邸宅を訪れた時の印象が記されている。漱石は是好の「広い部屋」に懸かる「南満州鉄道総裁後藤新平とかいてある」額の字体が「清国皇帝」の筆によることが分かった後で、しかもそ 生活の場を「広島」「福岡」「東京」と移している宗助夫婦、そして高級官吏の杉原の生活さえも日本帝国主義による植民地からの経済的収奪と無縁ではない筈だ。いや、むしろ、日本帝国主義による海外侵略の収奪によってこそ彼らの日々の生活がその根底から支えられているというべきだろう。すなわち、彼らすべてに共通していえることは、日本帝国主義への批判的視点を欠如したままその生を生きているということである。
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の字の大きさが小さいことから「後藤さんも清国皇帝に会って、か斯う小さく呼び棄に書かれちゃ堪らない」と書き記している。ママ続いてすぐその後に「江らい人からは、滅多に賜はったり何かされない方が可いと思った」と書き継いでいる。それらは権威主義に対する漱石の素朴な感情表現とも受け取ることができるラストエンペラ-のであるが、反面では、清国皇帝に対する満鉄初代総裁後藤新平の政治的立場の優位性を暗に支持するナショナリスティックな言葉だと理解することも可能である。漱石に椰楡されたこうストエンペラーの清国皇帝、一日一統帝こそ後に日本帝国主義によって満州国皇帝に据えられる溥儀に他ならない。また、十月三十日(土曜日)付の「東京朝日新聞」(第八一一一一一一四號、三面)には『満韓ところどころ』の(六)が掲載されている。(六)ではネーミングそれ自体が「日本」の支配を想わせる大連の「大和ホテル」(五)に宿泊している漱石のところに是好が訪ねて来るのであるが、その際、漱石が「おい此宿は少し窮屈だね、浴衣でぶらぶらする事は禁制なんだろう」と尋ねると、是好は「此処が厭なら遼東ホテルヘでも行けと云って帰って行」く件が記述されている。是好の「遼東ホテルヘでも行け」という口調からは日清戦争後、一時的に日本の支配が及んだ「遼東」半島の名称をただちに想起できる。つづいて、当時の日本とイギリスとの関係(第一一次日英同盟締結、明治三十八年/一九○五)を象徴するかのように、漱石はホテル内で出遭った「英人」に「旅順」や「門司」に「行った事があるか」否かを問われ、否定的な返答をした旨を書き記している。いうまでもなく「旅順」は日露戦争当時、最大の激戦地のひとつで あり、「門司」は海峡を隔てて下関と相対する場所である。話す相手が「英人」であればこそ、場合によっては、下関事件(文久三年/一八六三)が思い出されても不思議ではない。あるいは、日本側全権のひとりが伊藤博文であった下関講和条約(明治二十八年/二八九五)の事が話題になってもおかしくはない。しかし、彼らはそういった地名に関わる政治的問題性を一切問うことなく、「好い加減な所で談話を切り上げて」別れたことが書かれているのである。(川}すでに、『満韓ところどころ』については川村湊によって「日本が朝鮮を保護国化し、日韓併合によって植民地化するという道自体を批判するものではなかった」と指摘され、さらに中川(Ⅲ}浩一によって「南満州鉄道が帝国主義体制下の植民地支配を椎進める国策会社であるとの認識を全く欠いていた」と批判されている。そのような性格の紀行文と伊藤博文暗殺報道が同じ新聞に掲載されることで問題はより一層増幅されることになる。「東京朝日新聞」紙上に展開された伊藤博文暗殺報道においても、崎殺の事実経過以外に読むことができる主要な記事は政治家たちの立場を超えた伊藤博文のこれまでの政治活動を賞賛する談話や先に抜粋した前半生の逸話、そして位階昇進や国葬決定の告知などであり、政治家伊藤博文への国内からの批判は見ることは出来ない。その意味では、漱石の紀行文と暗殺事件の報道内容は新聞というメディアを通じて政治的には日本帝国主義の海外侵略を肯定するような言説を流布していたのである。ところが、漱石は「滋処まで新聞に書いて来ると、大晦日になった。一一年に亘るのも変だから一先やめることにした」という
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一一一一口葉を最後に明治四十二年(一九○九)十一一月三十日をもって
『満韓ところどころ』の掲載を突然、取り止めてしまう。その 結果『満韓ところどころ」の既発表部分を読めば、『満韓』の 『満』の部分だけが記述され『韓」の部分は描かれなかったこ とが解かるのであるが、漱石は書かなかった『韓』を代行する かのように翌明治四十三年(’九一○)三月一日から「門』を
「朝日新聞」紙上に掲載し始めるのである。すでにこれまでの記述で明らかにしてきたように、漱石は 『門』では伊藤博文の暗殺報道に関する「號外」や「新聞」を、
歴史や時代を表象する装置として効果的に活用しつつ、安井が活動する「満州」や本多夫婦の息子が勤務する「朝鮮の統監府」 といった日露戦争前後の政治的、軍事的にきわめて重要な場所
や地名をしっかりと書き込むことで、近代日本の政治情況を適確に示唆していたのである。さらに、明治三十年代中頃から四
十年代初頭に至る近代日本の激動期をテクストの過去の時間として構造化し、その期間と連動する形で宗助夫婦の過去を位置
づけてもいた。こうして、「門』というテクストは、宗助夫婦をはじめとす る登場人物たちの生の在り方や個人の生き方が近代日本の植民 地主義的、帝国主義的政治性や経済性によって本源的に規定さ
(脳)れている様相を描き出していたのである。注(1)明治四十二年十月二十六日(火曜日)付「讃責新聞號外」は「●伊藤公の暗殺」、明治四十二年十月廿六日付「東京 日日新聞號外」は「○伊藤公暗殺さる」「○伊藤公莞ず」を見出しとして、即日、號外を発刊している。明治四十二年十月廿七日付「報知新聞號外」は「▲伊藤公暗殺當時の光景」と題して暗殺の詳細な後報を褐戦している。「東京朝日新聞」も號外を発刊したであろうが未見。なお、明治四十二年十月廿七日付「大阪朝日新聞號外」は「●伊藤公狙撃さる」「●藤公即死」を報じている。(2)今村忠純は「あざむく漱石、たくらむ漱石l『門』私注」(『湘南文學」平成六年、第六号)で「東京朝日新聞」(明治四十二年十月廿七日付)の伊藤博文暗殺事件に関する報道記事を引用しつつ、「『門』の小説内時間は明治四十二年十月三十一日の日曜から始まる」(傍点・原文)と述べ、『門」の始まりの日時を特定している。(3)内藤千珠子は『帝国と暗殺lジェンダーからみる近代日本のメディア編成」(平十七・十「新曜社)で伊藤博文の暗殺報道を取り上げ、当時のメディアが当の暗殺事件をどのように報道し、それが如何なる意味をもっていたのかという問題について繊密に検討している。(4)遠藤祐は「『門』の世界l試論l」(『文学』昭四一・二、岩波書店)で宗助夫婦を「時に、「自分たちが栫えた、過あな去といふ暗い書に」落ちて口をつぐんでしまう一一人であると」当を得た指摘をしている。(5)『明治ニュース辞典第八巻」一二十七頁’一二十八頁参照。(昭六十一・「株式会社毎日コミュニケーションズ)参照。(6)拙稿「悲劇としての身体l『門』、受苦と救済の表象l」s漱石研究」第三号、平六・十一、翰林書房)(7)前掲書『第七巻』三四七頁参照。
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「llV」と明治|E1本の植民地主義
(、)黒川剣は『国境』(平一○・一一、株式会社メタローグ)で「漱石の作品(『門』l引用者)は、はっきりと「植民地文学」まんかんの質を帯びている。「満韓ところどころ」で朝鮮体験を謎呵るのを回避した漱而だが、彼はこうしたかたちs門』l引川者)で、それを消化することを準備していた。自身のありようが、いやおうなくそんな時代に呑み込まれてしまっていることに、彼は敏感だった」と述べ、作家漱石の側にシフトしつつ、漱布の時代認識の画を明らかにしている。なお、小森陽一は『ポストコロニアル』(平十三・川、岩波書店)の「朝鮮の植民地化と「門芒において三門』は、「韓国併合」というきわめて欺臓的な呼称を与えられた、半島に対する植民地支配が遂行された同時代状況を、明確に刻み込んだ小説である」と述べ、『門』というテクストを当時の時代状況に照らし合わせながら、歴史l地政学的観点から議場人物(男たち)の配澗を明確にしている。 (Ⅲ)中川浩一「漱石と帝国主義・植民地」二漱石研究』第五号、 (Ⅵ)川村湊「帝剛の漱而」弓漱石研究』館バサ、平七・十一、 (8)海野福寿「韓図併合』(平七・孔、四布波新替)一七九H参
召8Ⅱ小(9)玉井敬之は「「門』l過去と現在のドラマ」(「國文學』平四・五、學燈社)で「宗助は坂井にありえたかも知れない己の姿を見ようとしているが、この本多犬姉の姿にこそ、後日の宗助夫婦の姿を想像することが、むしろ相応しいの
平七・十一、翰林諜房) 翰林普房) である」と指摘している。 [付記]本文の引用は『漱石全集」第四巻(昭四一・三、岩波書店)に拠った。ただし、旧字を新字に改めルビは適宜省略した。
(いとうひろし.修士課程一年)
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