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① 明治維新と国民主義

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目次

(1)はじめに−国民主義・適中主義と制度構想−

(2)前史−明治維新の課題と現実

① 明治維新と国民主義

② 官僚制発展の光と影

③ 国民勢力の台頭(以上,本誌第4 8巻第3・4号)

(3)第二維新と国民主義の制度構想

① 中間考察−国民主義の国家観−

!

)積極国家 (

"

)積極政策 (

#

)行政国家

$

)権力分立

② 官僚制と議会

!

)官僚制と議会の分立 (

"

)予算案修正問題に関して

#

)政府・自由党接近問題に関して

$

)初期議会観(以上,本誌第4 9巻第1号)

③ 議会と政党

!

)議会と政党 (

"

)大同団結運動

#

)初期議会前の自由党と立憲改進党

$

)初期議会期の自由党と立憲改進党

%

)政党構想−政策政党の政策連合(以上,本誌第4 9巻第2号)

④ 議会と選挙

!

)国民主義と選挙

"

)直接・制限選挙と自由選挙

陸羯南における国民主義の制度構想 (八)

山 本 隆 基

福岡大学法学部教授

−4 1 3−

(1)

(2)

#

)衆議院議員選挙評

$

)議会・政党・選挙(以上,本誌第4 9巻3・4号)

⑤ 中間団体(その1)−地方団体

!

)国民主義と地方団体

"

)市制町村制・府県制郡制・行政裁判所

#

)官民軋轢・大同団結・実業者

$

)構想と現実−政府・官僚制・政党に対する批判

(以上,本誌第5 0巻第2号)

⑥ 中間団体(その2)−社会団体

!

)国民主義と社会団体

"

)実業団体と農商務省

#

)実業団体と政党

$

)中間団体と国民主義(以上,本誌第5 0巻第3号)

⑦ 内閣政治

!

)国民主義と内閣政治−内閣統治権論と内閣責任論

"

)政党・官僚内閣積勢論

#

)大同団結運動と政党内閣論

$

)初期議会と官僚内閣論

%

)制度の構想と制度の現実(以上,本誌第5 2巻第1号)

(4)第二維新と国民的天皇政の提唱

① 本節の課題

② 朝野の功利主義思潮に対する批判

③ 国民的天皇政の提唱

!

)天皇統治権−主権・執中権・精神的融和力

"

)神道思想(その1)−皇統の万世一系性・神聖性

#

)神道思想(その2)−道徳神道と政教分離(以上,本号)

$

)神道思想(その3)−習合神道(=中国・西洋思想の受容)と修正 功利主義(以下,仮題)

%

)神道思想(その4)−国民神道と国民的天皇政

④ 国民的天皇政と制度構想

(5)結び−制度構想と国民主義・適中主義

−4 1 4−

(2)

(3)

(4)第二維新と国民的天皇政の提唱

本節の課題

陸羯南は明治2 0年代の初頭,1 0年代の明治政府と自由民権陣営の政治的・

思想的抗争の克服を目指す国民主義を掲げて論壇に登場した。そして,彼は 明治維新以降の政治思潮の展開を綴った『近時政論考』の中で,自らの国民 主義を2 0年代初頭に出現した「新論派」と自負したのである。 (参照,西田長 寿・植手通有編『陸羯南全集・第1巻』みすず書房,6 9頁,以下,1 ‐ 6 9と略記す る。 ) 羯南の国民主義は,世界政治における帝国主義時代の幕開けを察知し,

対外的危機に対抗して,日本国民の統一を実現し,以て日本国民の独立を確 保することを目的とした。彼は日本国民の統一を実現していく上で,明治維 新の意義を高く評価した。維新政府は徳川時代の地域的分裂,身分的差別さ らには対外的鎖国の体制を改めると共に,廃藩置県の断行を契機に,統一的 国民国家の建設に着手した。しかし,羯南は,廃藩置県以降の政治制度の建 設や運営が,官僚中心政治に偏った点を批判し,統一的国民国家の建設のた めには,国民勢力の政治参加を目指す第二維新の遂行が必要であると力説し た。同時に彼は,明治政府による官僚制度構築の意義そのものを否定する自 由民権運動の思潮を批判した。

かくして羯南は,明治政府主導による明治2 0年代初頭の憲法制定,議会開 設,地方制度整備などの施策に呼応して,第二維新の遂行という旗印を掲げ,

国民主義に拠る政治制度の構想を披瀝していくことになる。国民主義の政治 思想は,政治制度論の展開を重要な因子として内包していたのである。本稿 では,これまで,2 0年代初頭から日清戦争前に至る羯南の新聞論説を素材と して,その点に関して彼が取り上げた官僚制,議会,政党,選挙,地方団体,

−4 1 5−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(3)

(4)

社会団体,内閣制度などの諸問題を順次考察してきた。彼はかかる制度構想 の実現によって,対外的危機に対して,国民の統一を実現し,国民の独立を 全うすべき旨を訴えたのである。

しかし羯南は,必ずしも,如上の政治制度の構築が,即,国民主義を実現 する必要且つ十分の条件であると考えたわけではない。彼は政治制度を運用 する日本人,つまり政治的諸勢力の精神や思想の成熟が伴わないと,制度新 設も十全の成果を生むことは不可能と見ていたのである。例えば,彼は明治 憲法制定の前年, 「吾輩は,徳義の腐敗を医するに非ざれば,法律規則は如 何に完美整頓するも, 其社会に及ぼす効力の甚だ薄弱なるを信ず。 」 (1 ‐ 5 6 0)

と述べた。羯南の国民主義思想は,政治制度如何と共に,政治制度を運用す る国民諸勢力の内面的・精神的要素の如何をも重要視するものであった。本 節は,以上の次第をもって提起された国民主義思想の精神的・内面的契機を 考察することを目的とする。

羯南がこの点で強調したのは,神道思想に拠る天皇・皇室思想の涵養・普 及であった。天皇・皇室思想が日本国民の道徳思想として,普及・定着する ことが重要であると言うのである。天皇・神道思想が古代期以降,日本政治 思想の根幹として存続したことは,例えば,丸山真男の「執拗低音」論など によって周知の所であるが,とりわけ,明治維新期から太平洋戦争期にかけ ては,多くの政治言説の「機軸」 (伊藤博文)たる位置を占めた。羯南の国 民主義の政治思想もその例外ではなく,それを理解する上で,天皇・神道論 を逸することは出来ない。ところで,明治期には多様な神道観に基づいて多 様な天皇像が出現するが,羯南は, 「国民的天皇政」 (2 ‐ 3 8 9) , 「国民的君主 政」 (1 ‐ 6 8 2・6 8 3,2 ‐ 6 8 2) 「国民的基礎に座する君主政」 (2 ‐ 3 9 0) 「立憲 帝 政」 (1 ‐ 2 2) , 「立憲君 主 政」 (2 ‐ 4 6 2,4 ‐ 4 1 2) , 「国 民 的 立 憲 君 主 政」 (2 ‐ 3 5 2

(2 ‐ 3 5 2・3 6 7・3 9 0)等々という造語観念を駆使して,彼独自の天皇・神道 論を披瀝していった。以下,本稿では,最初の「国民的天皇政」と言う用語

−4 1 6−

(4)

(5)

を採用して論述を進めることにする。

これまでの羯南研究史における天皇論への言及を,簡潔に見てみる

(1)

。丸 山真男は太平洋戦争直後の古典的羯南論の中で,羯南の国民主義思想を「ナ ショナリズムとデモクラシーの綜合」の試みとして高く評価すると同時に,

彼の「思想に内在する根本的制約」として,彼の国民観念が「君主も貴族も,

藩閥も紳商も,悉く『国民』の下に総括」されている点を批判し,そこに

「神秘的な全体主義の契機」 が潜んでいると指摘した

(2)

。丸山は羯南のナショ ナリズムの重要な契機である天皇観には, 「限界がある

(3)

」と考えたのであ る。その後の羯南研究を見ると,先ず,丸山の指摘した「限界」の側面を強 調する小松茂夫,岩瀬昌登などの一群の論者が出てきた。彼らは羯南の天皇 論が,太平洋戦争期の超国家主義の天皇観に繋がるものであると力説してい る

(4)

。それに対して,坂井雄吉と西田毅は,羯南の天皇観は,丸山の指摘し たデモクラシーの契機をも受容したものであり,超国家主義の天皇観とは異 なる面を有する次第を指摘している

(5)

私はこれらの先行業績に学びつつ,次の二点に留意して,羯南の天皇・神 道観を内在的に理解することを試みてみたいと思う。先ず,明治前期の天皇 論の諸相−国学・復古神道の天皇観,明治政府の天皇観,民権運動の天皇観 の三種類−との比較に留意して,羯南の国民的天皇政論を検討してみたい。

彼の国民的天皇政の思想は,明治維新期以降,主としては,1 0年代の天皇観 の相克を踏まえて,それらの受容と批判を通して形成・提起されたものであ るからである

(6)

。次に,前節までに考察した政治制度構想の体系との関りに おいて,羯南の天皇論を見てみたい。羯南の国民的天皇政論は,上述のよう な次第で,政治制度論と無関連に打ち出されたわけではなくて,両者は密接 な関連を持っているからである。とりあえず指摘するとすれば,彼が上記の 自らの天皇観念の一つに「立憲」と言う言葉を付している点にも,それが表 れている。以上の二点に留意して羯南の天皇・神道論を考察することによっ

−4 1 7−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(5)

(6)

て,神道家,明治政府,民権家の天皇論とはひと味違う彼独特の国民的天皇 政論が打ち出されている次第が明らかに出来れば幸いである。

朝野の功利主義思潮に対する批判

羯南の国民主義は,明治1 0年代以降の朝野両陣営並びに両者の内部で展開 した政治的・思想的な対立・抗争を,国民の統一と独立を阻害するものと捉 え,両陣営の行動や思想を批判しつつ提起された。羯南は朝野両陣営の分 裂・抗争を惹起する思想的原因が,両者の中に蔓延している功利主義思潮で あると捉え,それが国民の統一を実現するための制度装置として期待する議 会制度の円滑な運営を阻むものと見た。そこで,彼は功利主義思潮を批判し て,それを克服するものとして,国民的天皇政の思想を提起していくのであ る。だから,国民的天皇政の思想の考察に先立って,先ず,功利主義思潮に 対する羯南の批判を見ておくことにする。

羯南は議会開幕前の,2 1年9月,憲法発布を目前にして, 「家族的生活と 政治的生活」 , 「社交改良は政治改良よりも急なり」と題する二論説を書き,

その中で,朝野の両領域において儒教の五倫道徳が蔑ろにされている風潮の 社会的・政治的影響を憂慮し,かかる功利主義思潮の蔓延によって,議会が 私利争奪と国民分裂の施設に化してしまう危険性を直截に警告している。

「夫れ無君無父の人たる,自然の徳性を滅却し,天下唯一個の己あるを知つて,

他人あるを知らざるものなれば,其為す所至らざることなく,己れに不利ならざ

そこな

る限りは,物を残ひ人を賊するも心に之を憚かることなかるべし。此の如き人を して相踵きて其暴威を逞ふせしめば,我日本社会の支離滅裂は期して待つべし。

又此余勢をして政治上に反流せしめば,騒乱紛擾寧日なかるべし。 」 (1 ‐ 5 3 9)

「廉耻を視て愚直なりと嘲り,博愛を售名の具と為し,学問を迂闊なりと笑ひ,

彝倫を腐儒の説と為し,上下挙つて詐術険謀唯だ利己のみ是れ勉むを尚ぶは,今

−4 1 8−

(6)

(7)

日我社会の傾向なるが如し。斯る社会に在りては,如何に政治の改良を行ふも,

決して充分に其効果を現はす能はざるのみならず,代議制は却て政事家が私利を 謀るの具と為り,與論も正当に其力を及ぼす能はざるに至るべし。 」 (1 ‐ 5 4 3)

見られるように,功利主義の風潮が是正されないと新設の議会制度が正し く運営され得ないと警告した。さらに,同年の論説, 「社会の制裁,徳義の 腐敗」においても,朝野における功利主義の蔓延が,対外的には,日本の独 立を損なう危険性を持つ旨を次のように指摘している。

「官となく民となく上となく下となく,社会は只々私利を計るの場となり,人 類が他の下等(動物)と異なる所の道徳的の結合力は漸くに消滅して,愛神,愛 国,愛他の精神は其の脳中を去るべし。社会の腐敗此に至りては,国民が敵国外 患を防禦し,国家の隆盛を計るの元気は,之を何の処に求めん乎。 」 (1 ‐ 5 6 1)

羯南は明治憲法の発布と議会開設を控えて,矢継ぎ早に功利主義批判の論 説を書き,議会新設を中心とする法制度を整備しても,それを実際に運用し ていく日本国民の功利主義思潮が是正されないと,日本国民の統一と独立と いう国民主義の目的を実現することは不可能であると訴えたのである。

もっとも,同時に羯南は,明治憲法制定前後の一時期,在野の政治動向に 一定の期待を寄せた。既に前稿において考察したように,彼は,2 1年の大同 団結運動やその翌年の大隈条約改正反対運動の展開を,国民勢力による国民 主義の漸進として高く評価した

(7)

。また,2 2年の憲法発布に際しては, 「…不 祥事によらず,官民相親み上下和睦…」 (1 ‐ 6 7 9)のうちに憲法の誕生を見た ことを,同じ観点から祝している。また,これも前稿で見たところであるが,

羯南は議会開幕前の段階では,新設議会が政府・官僚陣営と政党・議会陣営 の討議・協議の場となり,議会が政策論争と政策決定の「坩堝」となること を期待した。議会新設が,両陣営の中に国民主義を実現し得る新たな精神を 形成すること,つまり,制度の改革が朝野両陣営の意識の改革を産み出すこ

−4 1 9−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(7)

(8)

とを期待したのである

(8)

しかし,2 3年1 2月の初期議会の開幕と同時に,羯南の期待は反転する。初 期議会では,民党陣営の予算案修正問題や政府陣営の選挙介入問題などを 巡って,両陣営の抗争が出現した。羯南は開設議会が国民の統一を図る場で はなくて,国民分裂の場と化していると見た

(9)

。彼は政府と議会(民党)の 衝突に直面し,従来にも増して功利主義思潮に対する批判を強め,一連の政 府・民党批判の論説を発表する。羯南は,その総決算として,明治2 6年, 「原 政」という漢語の題名を付した連載式の長編論説を発表し,その中で,両陣 営の対立を, 「法律主義」と「進歩主義」の思想対立と捉え,双方が功利主 義思潮に陥っている次第を厳しく批判するに至った。前者は,憲法の条文を 盾に私欲と権勢を追及する「辞柄的憲政」(4‐523)を強行し,後者は功利 主義を進歩主義の名で正当化しつつ,「党利」を追求する「功利的政党」

(2 ‐ 1 5 0,3 ‐ 4 3)に陥っている。羯南は,官民両陣営が共に,私欲の追求に 走り,相互の譲歩・協調によって,国民の統一を図るために制定された明治 憲法の精神を蔑ろにしていると批判する。彼は, 「政府(制度−筆者)は如 何に変ずるも,人間にして獣心を去らざる以上は何の効力もなし。 」 (1 ‐ 1 4 4)

と述べて,朝野の行動が第二維新の制度革新を台無しにしている次第を糾弾 している。彼は, 「原政」つまり「政治とは何か」と言う問題を設定して, 「政 治とは道徳である」と答えて,政治の本質が,謂わば,法治よりも人治の側 面にあると言わんばかりの主張をしたのであった。

ここで注目すべきは,議会における朝野両陣営の衝突を批判するに際して,

西洋のルソーやスミスの功利・欲望論を引き合いに出している点である。羯 南は,後述のようにルソーの国家思想(自然法思想と社会契約思想)を厳し く批判するのであるが,他方で,その前提となっている人間論=功利・欲望 論については共鳴を示しているのである。彼は明治2 5年の論説, 「競争の説」

の中で次のように書いている。

−4 2 0−

(8)

(9)

「ルーソー曰く, 『人其の小智を濫用して天の秘密を撥く。此を以て天の罰を受 けて其の自由を失ふ』 。吾輩は此の説を見て頗る奇矯に失するものと做し,彼れ世 の学術技芸の弊を非毀する,其の極終に社会の文明を無視するに至れることを笑 ひたり。然りと雖ども,吾輩は今まにして而後に一真理(傍点は筆者)の其の説

・・・

に寓することあるを見る。小智曲学の社会を害する亦た甚いかな。 」 (3 ‐ 3 9 9)

また,前記の「原政」においても,民党の進歩主義を批判する文脈におい て,同じ箇所を引き合いに出して,言っている。

「ルーソーといへる人の言に『人は濫りに天帝が張り置ける帳を開きて秘密を 窺はんと欲す。其の罪に因りて自由を剥奪せられぬ』とあり。奇言の中にも自ら 真理の存する無きにあらず。 」 (1 ‐ 1 3 2)

羯南は,今日では周知の所となっているルソーの文明・科学技術批判に違 和感を持ちつつも,キリスト教の原罪論批判を援用した功利主義批判には,

共鳴を示しているのである。彼が二度までも,ルソーの同じ箇所を引き合い に出していることは,その点に強い共鳴を示していることを表している。

羯南は,他方,同じ論説の中で,ルソーの同時代人,スミスを嚆矢とする 功利主義思想,特にその極地とも言うべきスペンサーの社会進化論の「優勝 劣敗」論を,批判している。

「政党(民党−筆者)は実に経済上の法則に於て必至の生物,進歩主義者の夙 に是認する所は斯の如し。彼等は常に人類を動物的方面より観察して,物質的法 則を此の世界に応用せんことを務む。ルーソーの所謂る窺秘の罪は此の辺に出づ。

而して罰は立ち所に至る。 」 (1 ‐ 1 3 3)

また,同じ論説の中で,次のように言っている。

「人類の弱点を利用せんとする進歩主義の政治は,所謂覇道にして王道にはあ

−4 2 1−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(9)

(10)

らず。其の結果は毫も幸福安寧の増すあらずして,唯だ人を率ひて尽く獣たらし むるに過ぎず。 」 (1 ‐ 1 4 4)

羯南は「競争の説」つまり, 「人間の弱点(功利・欲望−筆者)を利用」

して技術や文明を発展させようとする,自由主義思想を批判している。彼は,

功利主義思想に対する批判として,ルソーのスミス思想批判を援用している わけである。彼の功利・欲望論におけるルソー思想の援用は,彼が功利・欲 望の問題をルソーと同様に,極めて深刻に捉えていることを示している。そ して,彼が人間欲望論の問題に関して,スミスではなくてルソーに軍配をあ げている面のあることは,銘記すべきことである。

さらに羯南は初期議会の開幕を目前した時期,論説, 「士」を執筆して,

その中でスミスに始まるイギリス自由主義思想の影響を受けた福沢諭吉以降 の日本の功利主義思潮を糾弾して次に様に述べた。

「三田学派大に町人主義を主張し,人間社会を見くびりて,銭の一方に推し片 付けんと試みしより以来,謬論稗説相踵ぎて起り,遂に亜米利加的拝金宗を唱ふ る者有るに至れり。 」 (2 ‐ 6 9 9)

羯南は,新聞発刊前の官僚生活時代,上司であった井上毅の道徳・政治思 想から大きな影響を受けた

(10)

。井上が福沢流の功利主義と対決したことは 周知の所であるが,此処では羯南が福沢諭吉を功利主義思潮の頭目と見なし て批判しているのである。

しかしながら他方で,羯南はルソーの功利・欲望論に対して,全面的な支 持を表明しているわけではないことに注意する必要がある。ルソーの所説に 関する上記の引用文に返ってみると,羯南は其の中に, 「奇矯に失するもの」

或いは「奇言」の類が存する点を指摘している。彼はこう書いている。 「世 の学術技芸の弊を非毀する,其の極終に社会の文明を無視するに至れること を笑ひたり。 」羯南は,ルソーの欲望=功利思想批判に共鳴を示しながら,

−4 2 2−

(1 0)

(11)

一方では,彼の科学技術や文明社会に対する批判に関しては,同調すること が出来なかった。つまり,彼は産業革命以降の経済文明を機軸とした人間社 会の発展自体を全的に否認してはいなのである。ルソーの所謂,堕落史観は 必ずしも,羯南のものではなかった。功利心= 「利己心」を活用して社会や 経済を発展させようとしたスミスの立場を批判しつつ,スミスが目的とした 文明・科学技術の発展そのものは肯定している。羯南は,発展・文明史観自 体を否定してはいないのである。それでは,羯南のルソー観とスミス観との 間の隘路に関して,彼の国民的天皇政の思想はどのような応答を試みている のか。丸山真男はかつて, 「政治を真正面から問題にして来た思想家は古来 必ず……人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた。……政 治の予

!

!

!

!

(傍点は筆者)人間像というものは昔からあまり美しくないこ とに相場がきまっている

(11)

」と述べた。羯南もまた,明治2 0年代前半期と いう歴史状況の下で,国民主義の実現を模索する途上において,ルソーとス ミスに止まらず多くの思想家たちが取り組んだ人間の情念・欲望の問題に直 面したわけである。以下,順次,国民的天皇政の思想の考察を深めつつ,羯 南の応答について考えてみたい。

②国民的天皇政の提唱

!

)天皇統治権−主権・執中権・精神的融和力

羯南は,朝野の両領域に,功利主義の風潮が蔓延し,社会や政治の分裂を 来たしている事態を憂慮し,ルソーの堕落史観の一面に共鳴を示すまでに 至った。彼はこのような精神状況が続く限り,日本国民の統一と独立の確保 を目指す国民主義の実現は困難であると考えた。そして,羯南が功利主義思 潮を克服すべく提唱したのが,国民的天皇政の思想であった。彼は朝野両領

−4 2 3−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(1 1)

(12)

域の日本人が国民的天皇政の思想を体得することによって,国民の分裂を回 避し国民の独立を確保する可能性が開けると考えたのである。それは如何な る理由・次第によるものであるのか。以下の論述で此の問題への応答に迫っ てみたい。

羯南は明治憲法の発布を期して,自紙名を『東京電報』から『日本』へと 改名し,連載論説, 「日本の立憲政体」 (参照,1 ‐ 6 8 7)を初めとする一群の 明治憲法論を掲載した 先ず,彼が憲法の天皇規定についてどのように理解 したかを,見てみたい。憲法第4条の前半部は, 「天皇ハ国ノ元首ニシテ統 治権ヲ総攬シ…」と規定しているが,羯南はこれに賛意を表して,天皇は統 治権の保持者であると主張する。統治権とは,立法権,行政権,司法権の三 権の上位に超出して,これら三権を統括する権力である。彼は, 「日本の立 憲政体は此の三権力の上に尚ほ天皇の統治権あるを忘るべからず」 (1 ‐ 2 6)

と述べ, 「決して天皇の統治権を以て国家の権力と混同すべからず」 (1 ‐ 2 6)

と指摘している。羯南は,明治政府による統治権規定の導入を支持して,次 のように言っている。

「近世の憲法学に暁通すと自称する在朝党は,数年前より独逸の学者に聴き,

……其説に以為らく,立憲国の君主は万機を親裁して統治権を総攬す, 『在位而不 為政』とは独り英国の政体のみと。説頗る善し。 」 (4 ‐ 4 5)

羯南は此処で,明治政府は統治権の観念をドイツの学者から学んだとして いるが,山室信一たちも,この言葉は,ドイツの国法学者から学んだもので あると指摘している

(12)

。なお,伊東巳代治は明治政府の憲法注釈・解説書 として刊行された『憲法義解』において,sovereignty という英訳を付して いる。さらに,羯南が,先の脚注 (6) で言及したように,メストルの書物 『主 権論』を翻訳出版していることも此処で,想起してよいであろう。

羯南は,天皇が三権に超出する統治権を持つという見地から,自由民権家

−4 2 4−

(1 2)

(13)

が唱えた天皇は行政権の掌握者であるとする見方を批判する

(13)

「苟くも天皇を国の最高等官吏即ち世襲大統領と為すときは,日本の立憲政体 は忽ち歴史上の関係を離れて共和政体と為るに至るべし。 」 (1 ‐ 2 6)

羯南は,民権家の天皇統治権の否定は,共和制の容認を意味し,日本の歴 史的国体を破壊することに通ずると批判するのである。明治政府の手に成る

『憲法義解』も,自由民権家の見地を「国家の正当なる解義を謬るものな り

(14)

」と批判している。また,天皇は主権たる統治権を持つわけだから,

憲法制定権力を有している。羯南は明治憲法が欽定憲法として制定されたこ とを当然として,民権論者の民定憲法論や憲法点検論を批判している。

「蓋し西洋諸国の君権は国約憲法又は国民権力に因りて制限せらるゝこと常な るが故に,之を最上無二の権力と云ふは固より不可なりと雖も,日本天皇の権力 は斯る順逆を誤りたる有限の権力にはあらずして,日本臣民に向ては固より絶対 的権力たるを失はず。 」 (1 ‐ 2 2)

さらに,羯南は天皇が統治権の保持者であるが故に,民権・民党陣営が唱 えたイギリス流の「君臨すれども統治せず」という国王観と相容れないこと も強調している。

「君主は位に在れども政を為さず。此の一語は英国の政体より抽出せる所の套 語にして,西洋の旧き著書を読みて政治論を立つる者が,取りて以て立憲君主政 の神髄と為すや久し。今の改進党自由党なんど云へる党の立論は大抵皆な此の思 想を抱くあり。此の一語や一見して甚だ穏妥の如くなれども,我が国に在りては 頗る失体の語にして,直に至尊の虚位を正当視するに均しきもの,……」 (4 ‐ 4 5)

このように羯南は,天皇の「統治権」 = 「主権」の存在を否認する民権・民

−4 2 5−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(1 3)

(14)

党陣営の見地を種々の観点から,批判している。彼にとって,天皇統治権を 否認する者は,例え天皇の存在自体を正面から否認していない場合でも,事 実上,共和制論者と見られたのである

(15)

しかしながら,羯南の統治権論は,明治政府のそれと全的に一致するもの ではなかった。彼は天皇の統治権の具体的作用如何に関して, 「執中権力」

であると考えていたからである。

「天皇の大権は第一に最上権力たりと雖も執中権力なりと云ふべし。執中権力 たる所以は即ち最上権力たる所以の結果にして,最上権ならざる以上は決して執 中即ち調栽の実を挙ぐる能はず。要言すれば天皇の統治権は其本体に於ては最上 なり,其の作用に於ては執中なりと謂ふべし。夫れ天皇の統治権は高く立法権,

行政権,司法権の上に超然表出して,一方には此の三権交互の関係を調栽し,他 の一方には此の三権(即ち国家権力)と臣民権力との関係を調栽するものなり。 」

(1 ‐ 2 2〜3)

天皇の統治権= 「最上権力」は,立法・行政・司法の三権の上にあって,

三者の間,そして,これらの政治権力と人民権力の間を「執中」あるいは

「調栽」する権限である。これ等の諸権力から超出して,諸権力を「並行し て中を執る」 (1 ‐ 2 0)のが,統治権の働きである。憲法は,第6条から第1 6 条にかけて,法律の裁可権を初めとする立法・行政・司法に関わる天皇の権 限 を 列 挙 し て い る が,そ れ ら は 凡 て,こ れ ら 三 権 へ の 天 皇 の「干 与」

(1 ‐ 2 3)権を意味するものである。そして,羯南は, 「凡そ此等の干渉は皆 な執中権たるの職務にして,天皇の大権此の職務を司るにあらざれば三権の 間に自ら嫌隙を生じて統一すべからず。 」 (1 ‐ 2 3)と指摘している。羯南は,

天皇の大権や統治権は,三権を行使する諸勢力の間,或いはそれらと国民の 間に「干与」して,それらの諸権力相互間の円滑な運営を司るものであると 主張するのである。

−4 2 6−

(1 4)

(15)

「夫れ複雑の器械は,膏油を要すること多し。立憲代議制は政治の尤も複雑な るものなり。其円滑の行為を要する,君主専制の比にあらざるを知る。 」 (3 ‐ 2 5)

天皇の統治権は「複雑の器械」 = 「立憲代議制」を円滑に動かす「膏油」に 比せられている。つまり,統治権は,これまで本稿において考察して来た羯 南の制度構想の体系を構成する諸要素,つまり,官僚制,議会,政党,選挙,

地方団体,社会団体,内閣などの諸制度・諸勢力の上位に位置して,これ等 の対立・抗争を「調裁」して,国民の統一を作り出す作用を担うものである。

統治権の存在意義は,内閣制度を中心とする多元的政治制度の有機的な分 立・統一を作り出すことにある。羯南における国民主義の制度構想の基本原 理,つまり,諸制度・諸勢力の有機的権力分立体制を担保するものが天皇の 統治権である。羯南の天皇論の特色の一つは,天皇の統治権を執中権と捉え たところに見られるのである。

「日本の立憲政体は全く天皇の大権より生出したるものにして,此の点に付て は殆んど外国に其例を見ず。日本の立憲政体は国家と各人との中を折し以て相ひ 偏倚せしめず,又国家に付ては共議制と独任制との中を折し,各人に付ては貴族 主義と平民主義との中を折し,以て相ひ偏倚せずして相ひ調和せしむるものなり。

而して此の執中の職を司るは常に万世一系の天皇なりとす。 」 (1 ‐ 2 7)

このように,羯南における天皇の執中・調栽権力論は,多元的且つ分立的 な政治制度の存在を前提とするが故に,統治権の存在そのものを認めない民 権陣営の天皇観と異なるだけでなく,天皇が三権を直接に執行する天皇親政 論,つまり,維新直後の国学者や神道家或いは明治1 0年代初頭の天皇親政運 動家たちの天皇親政論とも齟齬するものであった。また,羯南の統治権論は,

多元的な政治制度と多元的な政治勢力の存在と活動を前提とするものである から,明治政府の官僚中心政治を前提とする統治権論とも異なる者であった。

−4 2 7−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(1 5)

(16)

だから,枢密院における明治憲法草案の審議過程や『憲法義解』の第4条の 解説には,羯南の天皇執中権論に当たるものを見出すことは出来ないのであ る

(16)(17)

。なお,羯南は執中権力という言葉の源については,特別に言及し ていないが,先の統治権と同じく,洋の東西の両地域にまたがる文献から採 られたものと考えられる

(18)

羯南にとって,天皇の統治権は,先ず,立法・行政・司法の三権を超越す る主権であり,次いで,これら三権に関わる種々の政治制度や政治勢力の間 に働く執中・調裁権であった。そして,三番目に,執中・調裁権は天皇が直 接に執行するものではないという点に止目しなければならない。ここで前項 の「内閣政治」の所へ立ち返ってみたい。そこで見たように,羯南は,明治 憲法第5 5条の各大臣を成員とする内閣が,天皇の「輔弼」機関であるという 規定に拠って,内閣が統治権の執行者であるとした。その際,内閣以外の他 の機関・制度も内閣との間に権力の分立と調和の関係にあるのだから,統治 権の執行は,事実上,全機関・制度の任務となる

(19)

。それ故に,内閣を中 心とする全制度・組織は,その執行に際して「輔弼」機関として天皇に対し て,統治権執行の責任を負うのである。天皇は主権の所有者ではあっても,

執行者ではない。全政治機関が一体となって,国民の統一と独立の実現に努 め,その成果を天皇に奉るのである。

それでは,統治権論の論理の中で,天皇にはどのような役割が付与されて いるのか。羯南は,天皇は外面的・制度的な「便宜」の世界ではなくて,内 面的・感情的な「道徳」の世界に位置する存在であると考える(1 ‐ 5 3 3) 。羯 南は,例えば,論説, 「建国祭」において同様の趣旨を, 「国民の感慨は国家 の格段なる祭典に会する毎に其動くや殊に深し」 (2 ‐ 4 1 6)と述べている。日 本人は,神武天皇を祭る祭祀,紀元節に参与することによって,皇室に対す る深遠な「感慨」 =帰依心を養い,国民意識を醸成して行くのである。天皇 の存在意義は, 「国民の感慨」 (2 ‐ 4 1 6)を呼び起こすことにある。天皇は,

−4 2 8−

(1 6)

(17)

外面的な政治世界の背後・上位に位置して,内面的に日本人の精神・感情に 働きかけて,日本国民としての意識を喚起する。天皇は三権を実際に執行す る政治権力者ではなくて,三権の執行者の上に君臨し,国民意識を養成して いく精神的な権威者・教導者である。羯南が, 「国民と云へる感情は合理の 感情なり」 (1 ‐ 6 5) 「国民的自負心は決して不正当の感情にあらざるのみ…

…」 (1 ‐ 6 9) , 「国は感情の上に立つ」 (4 ‐ 4 2 2)などと述べる時,天皇の日本 人に対する精神的・感情的働きかけが含意されている。だから羯南は論説,

「名実の説−教育家,学術家」において, 「国民的道徳」は推理ではなく,

感情によって保持されるべき旨を主張した。 「国民的倫道は其の最も時勢と 容れざるものを除くの外,容易に推理を以て之を論ずべからず。教育家は此 点に於て殆んど宗教家の如く,推理を主とせずして感情を主とすべし。 」

(1 0 ‐ 3 1 7)

(20)

天皇の統治権は,政治的世界の上位に位置する精神的権威力である。天皇 の精神的な執中権力が働くことによって,諸制度・諸勢力の間や内部の協 議・譲歩・調和が生まれる。この働きは,何よりも,直接に統治権の執行に 責任を負う者たち(内閣を初めとする諸制度)の内面・感情の世界で自律的 に行われるべきである。政府や議会などの政治権力の担当者は,天皇の精神 的権威に打たれて,帰依の感情を喚起し,自らの欲望=功利から生まれる行 動を自制することが期待されるわけである。だから羯南は,例えば,明治2 6 年に出現した第二次伊藤内閣の詔勅依存策と議会・民党の上奏依存策の対抗 を厳しく批判したのであった

(21)

「政府と議院との衝突は今年の期に至りて其の極に達し,遂に至尊をして親ら 其の争端を収めしむるを致したり。官民の紛争は古今東西に免れ難き所なるも,

・・・・・・・・・・

大政の事局に当る者自ら之を裁する能はず(傍点は筆者) ,神聖なる君主を煩はし て始めて交綏するが如きは,憲法に率由する政体に在りて多く見ざる所,吾国臣 民の忠良なるを以ての故に希望の結果を収めたりと雖も,斯の如き事態は一たび

−4 2 9−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(1 7)

(18)

之を見るべく,再び之れを望むべけんや。 」 (1 ‐ 1 2 5)

天皇が直接に政治権力の世界に関わることは,本来あってはならないこと である。勅語渙発や上奏応答は,本来,行われるべきではないと言うのが羯 南の見地であった

(22)

また,羯南においては,天皇の統治権・執中権は,精神的権威を意味する ものであり,政治的権力ではないのであるから,狭義の意味での天皇親政論 は採られていないことになる。それは,両権力の所有を意味するからである。

羯南の天皇統治権論は,中国の皇帝や西欧の絶対主義君主とは異なる性格を 持つ。それらは精神的権威と政治的権力の両者を併せ持つ存在であった。明 治期の日本においても,国学者や神道家の間には,これと同趣旨の天皇観を 主張する向きが見られた。羯南は上のような天皇観に立って,神道家の天皇 観を,民権家のそれと一緒に次のように批判したのである。

「夫れ我が帝国憲法は明かに『天皇の大権』を掲げて君主親裁の義を示し,而 して一面には則ち『神聖不可侵』を宣して,他の一面には『大臣責任制』を命じ,

以て立憲君主政の要義を定む。他言を須いずして帝国の政体は明瞭なり。故らに 君主虚位を説き,故らに君主親裁を説くは,今日復た何の必要かある。 」 (4 ‐ 4 6)

羯南は,議会は「英国流の君主虚位論」 (4 ‐ 4 5)を唱え,神道家は「独国 流の君主親政論」 (4 ‐ 4 5)を採っているとして,両者を批判しているのであ る。天皇の統治権は三権の上に存在するのであるから,明治憲法は広義の意 味では,天皇親政を規定していると言える。しかし,天皇の統治権は,精神 的権威力であるから直接に政治権力を行使して,立法・行政・司法権を執行 するのではない。従って,狭義の天皇親政論とは言えないのである

(23)(24)

。 天皇は政治の圏外にあって,政治の上に立って,政治世界に働きかける。ま た,天皇の権力は政治的なものではなくて,感情的・内面的なものである。

−4 3 0−

(1 8)

(19)

羯南は,この二重の意味において天皇は政治権力ではないと断じているので ある。天皇の統治権は,この二重の意味において政治権力とは異なり,政治 権力の上位にあって諸々の政治主体の間の調栽作用を遂行するのである。

!

)神道思想(その1)−皇統の万世一系性・神聖性

羯南は,天皇の統治権の属性として,全政治権力を統べる権力であること,

諸政治権力の対立を執中・調栽・折衷する権力であること,そして,全政治 権力の背後に存在する精神的な権威・融和力であることの三点を指摘した。

それではこのような天皇の統治権を基礎付けている思想は何であったのか。

つまり,統治権が,三権,そして三権と国民との間の上に立って,精神的執 中権として働く理由は何であったのか。以下,此の問題を考察して行く。羯 南の天皇統治権論の思想的基盤には日本独特の伝統思想である神道思想が存 在した。彼は明治初頭期に,中世来の習合神道を批判して出現した復古・国 学神道によって唱えられ,明治2 0年代初頭,明治憲法や教育勅語に唄われた 万世一系天皇という観念を以て,天皇の統治権を基礎付けようとした。羯南 は, 「我が国に於て君主政の性格は我日本国家の日本国家たる所以なれば,

皇室の統治権の如き万世不易の者にして…」 (2 ‐ 1 2)と述べている。しかし ながら,羯南の万世一系天皇論の中に踏み込んで見ると,その内容に関して は,必ずしも復古・国学神道や明治政府の見地と同一のものではない点が明 らかになる。羯南の神道論は,それらの神道論とは異なる要素を持っており,

それ故に,羯南の天皇論は彼等とは異なる面を持つことになるのである。そ こで,以下の論述では,先ず本項で,万世一系天皇論に言及し,次いで,羯 南の万世一系天皇論の特色を掴むために, 「道徳神道」 , 「習合神道」そして

「国民神道」という項目を立てて考察を進めて行きたい。

明治憲法第一条は, 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定す

−4 3 1−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(1 9)

(20)

る。この規定は,徳川・明治維新期の国学者が唱えた天皇・神道観念に依拠 したものである

(25)

。憲法の主導的なプランナーであった井上毅も,日本に 於ける「万国に類ない所の優美なる国産」として「御国の国体,万世一系の 一事」 を挙げた

(26)

。さらに,明治憲法は此の規定を受けて,第三条では, 「天 皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」と唄っている。万世一系の天皇つまり天照大 神から始まる皇統の継続性と永続性が,天皇の神聖性の根拠となっている。

悠久かつ無窮の血統とその世襲が天皇の崇高さと神聖さの根源となっている のである。

羯南も同じ見地に立つ。ここに彼の論説, 「伊勢の太廟,皇室と行政府と の関係」の冒頭部分を引用する。

「吾輩嘗て伊勢の太廟を拝し,所謂五十鈴川の清流に嗽ぎ,鬱蒼陰森したる榊 木の下に徘徊して,坐ろに我が建国の悠遠なることを追懐し,転た愛国の情を激 揮せしことありき。又嘗て万国史を繙きて海外各国国体の屡々変遷するを通観し,

称して君主国となすの邦国さへ,其易姓革命の頻繁なるを流覧し,顧みて我が万 世一系の国体を回想する毎に,我が本国を愛重するの感情を発揮せずんばあら ず。 」 (1 ‐ 5 3 2〜3)

この体験談の中に,羯南が天皇統治権の思想的背景として万世一系天皇論 を奉じていた次第が明らかにされている。伊勢神宮参拝体験においては,

「我が建国の悠遠」を実感することにより「愛国の情」が喚起され,そして 万国史読書体験においては, 「我が万世一系の国体」の回想が,易姓革命に よる変転常無き他国の君主制に対する優位を実感させ, 「我が本国を愛重す るの感情」が喚起されたと述懐している

(27)

。彼は自己体験の披瀝によって,

万世一系の皇室・天皇の存在こそが,他国に類を見ない日本国を成り立たせ ている「機軸」 (伊藤博文)つまり,日本の「国体」 ( 「体」の対語は「用」

である)であると主張している

(28)

。それが,日本人に感動を与え,愛国心 を醸成して行くと言っているのである。万世一系の皇統の存在そのものが,

−4 3 2−

(2 0)

(21)

日本人の心中に天皇に対する畏敬の心情を生み出し,その結果,天皇統治権 が執中権として働くと言うわけである。また,羯南は同様の理由で以て,教 育勅語に出てくる皇室の「天壌無窮」と言う観念にも言及している(4 ‐ 4 0 8) 。 このようにして羯南は, 「万世一系の皇室を戴きたる国民的君主政」 (2 ‐ 3 8 9)

という表現を用いて,国民的君主政論の最も基幹的な要素として,皇室の歴 史の永遠不変性=国体の存在を指摘するのである。このような見地に立って,

羯南は日本の天皇と中国・朝鮮の皇帝・国王や西洋諸国の絶対主義君主を峻 別し,日本の国体の独自性を強調している。彼は, 「吾人奉戴する所の君は 易姓の君に異なり,吾人維持する所の国は革命の国に非ず。 」 (2 ‐ 6 4 5)と述 べる。日本の皇室は,歴史的継続性と永遠性を持ち,西洋諸国の国王や,中 国の皇帝,そして朝鮮の国王の如き易姓革命思想に拠る断絶性と時間性を帯 びるものではない。外国の思想や制度を受容するとき,此の日本独特の歴史 的伝統を侵してはならない。この点が,羯南が譲ることの出来ない言うなれ ば,最大限の綱領であった

(29)

このような観点に立って,羯南は明治1 0年代の民権陣営の政論家が,万世 一系の国体という観念を蔑ろにしていた次第を批判し,民権党と論争した立 憲帝政党の天皇論を評価した。

「当時民間の政論家を以て自任する者は日本の旧慣を弁護することを憚かり,

僅に英国の例を藉りて以て西洋風の勤王論を口にするあるのみ。実に当時の政論 家は国体論又は忠君論を禁物と為したる有様なり。此の時に当り断然起ちて万世 不易の国体を説き,王権論を説き,欽定憲法論を説きたるものは独り帝政論派な り。 」 (1 ‐ 5 6)

既述の様に,民権党は天皇の存在そのものを否認したわけではないが,そ れを, 「万世不易の国体」という思想によって基礎付けてはいない。逆に,

彼らの自然法思想(性法思想)や社会契約思想は,歴史的国体思想を破壊す

−4 3 3−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(2 1)

(22)

る危険性を持ち,彼らの「西洋風の勤王論」は,事実上,共和制に傾くもの である

(30)

。羯南は,それに対して「国家の自然的(歴史的−筆者)国体に して人意を以て濫に動すべからざる」 (2 ‐ 7 6 3)次第を主張し,かかる1 0年代 政治思潮の大勢に対して,立憲帝政党が万世一系天皇論を擁護した点を評価 しているのである

(31)

さて,ここで止目すべき点は,万世一系天皇=国体と明治天皇個人が区別 して扱われていることである。羯南の見地においては,統治権=主権が帰属 するのは,国体たる万世一系の天皇に対してであって,明治天皇個人に対し てではない。彼は,国体観念が明治憲法の成文条規の上位に存在し, 「万世 一系の天皇」という条文も,それを法的に確認したものであると言う。明治 憲法は欽定憲法であるが,明治天皇個人が創造・発布したものではない。

「……各国の君位継承例を案ずるに大抵皆な『某家の某何世は某国正統の国君 なり』……とありて,何れも君主の姓氏を特筆するが如し。御姓は勿論なり,御 名をも掲げずして単に『万世一系の天皇』とのみあるは,是れ又た万国に類なき 大法章なりと言はざるべからず。 」 (1 ‐ 2 1)

だから,明治天皇は歴史的国体の顕現体である明治憲法によって制限を受 けることになる。

「天皇の大権は……無限のものにあらずして常に憲法の条規に依りて執行する ものとす。是れ実に立憲政体の本性にして,之れなければ立憲政体たるを得べか らず。……日本天皇の権力は……日本臣民に向ては固より絶対的権力たるを失は ず。只だ欽定憲法即ち天皇が親ら裁定し給ひて皇祖皇宗の霊に誓告し給へる所の 此の憲法に向ては制限を受くるの姿なり。 」 (1 ‐ 2 2)

明治天皇は,西洋流の民定憲法と違って,日本臣民に対して執中権として の絶対権=統治権を持つが,万世一系天皇=国体の所産としての明治憲法に

−4 3 4−

(2 2)

(23)

よる規制を受ける。だから羯南は,憲法が規定する陸海軍の統帥権を初めと する天皇の権限について, 「是れ等……は我が日本に於て皆な天皇固有の天 職と見做すべく,決して外国の如くに国君の特権などゝ称するを許すべから ず。 」 (1 ‐ 2 2)と述べたのである。

明治憲法は,人為的な産物ではなくて,連綿と続いた国体の精神が法制度 的に発現した者である。ましてや,それは明治政府の創造になる産物ではな い。 「帝国憲法の精神は一朝立法家の構造に成るものに非ずして実に祖先以 来日本国民が経営せし国家成立の理性にして……」 (2 ‐ 4 7 4)また,羯南は同 様の趣旨で,幕末の王政復古大号令について, 「……善美なる精神を我が古 代王政より摘取して……」 (1 ‐ 5)と述べ,2 3年の市町村制の施行に際して,

それは「刀筆の吏が文墨を舞はして製造したるにあらずして,古昔王政の精 神が文章と為りて世に現はれたるものに外ならず」 (1 ‐ 1 8)と述べている。

羯南は万世一系天皇・国体の思想は,実定的な法律や制度に先行・優越する ものと理解した。西洋風に言うと,前者は後者に対する一種の自然法のよう な上位規範として存在し,後者は前者の主旨或いは精神によって規律される べきものと理解されているのである

(32)

ところで,羯南は皇統の万世一系性や国体という観念を,国民精神とも言 い表している。彼は,明治2 2年2月の新聞, 『日本』の「創刊の辞」の中で,

それを「国民精神」と言う形で,括弧付きで表現している(2 ‐ 3) 。この表記 から見ると,国民精神という言葉は,翻訳語である。彼はその出典は明示し てはいないが,その言葉は,彼が大きな影響を受けたドイツ国民主義者の Volksgeist を採ったものであると考えられる。例えば,シュルチェは,具体 的・可視的な「国家生活・憲法生活」の産みの親として, 「ゲルマン古代か らシュルチェの時代にいたる」連綿たる継続性を持つ「ドイツ国民共通の法 意識・国家意識」の存在を強調し,それを Volksgeist と表現した

(33)

。羯南 は,かかる歴史主義的思考法に共鳴し,その鍵観念を日本の国体論と重ね合

−4 3 5−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(2 3)

(24)

わせて捉えたのである

(34)(35)

。その後の論説においては此の用語を多用する ことになる。例えば, 「日本の立憲政体は日本の国民精神に依りて培養さら れざるべからざるなり」 (1 ‐ 2 0)あるいは, 「憲法発布は国民的精神を発揚す るの最大機会なり」 (1 ‐ 6 8 0)等と述べている。羯南が国民主義思想の機軸と して堅持した万世一系思想に対応する西洋思想に言及している次第は,後段 に予定している「習合神道」の項において扱うつもりであるが,彼の神道や 国民的天皇政の思想が,他国や他国民を拒絶する偏狭なものではなくて,世 界に開かれた要素を持つことを示している。

さて,これまで説明してきた万世一系天皇に関する明治憲法の規定は,第 一条に登場するが,それを受けて,第三条は, 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカ ラズ」と唄っている。また,一般的にも,天皇の神聖性は,天皇が宇宙の中 心たる太陽神の天照大神の子孫として,万世一系のものであることに基づく とされている

(36)

。この点に関しても羯南は,同様の見地に立っている。万 世一系の天皇はその万世一系性の故に,神聖・不可神聖性を帯びると考えら れているのである。彼は,西洋の君主政を引き合いに出して,次のように書 いている。

「凡そ君主政の憲法は大抵皆な皇帝の神聖且不可侵を明言すと雖も,其の所謂 る皇帝は何れも 劉蹶の余を承けたるものなれば,其の神聖なる所以のものは 自ら薄弱ならざるを得ずして,不可侵の度も亦た対比的たるに過ぎざるのみ。

……我が天日嗣の天皇は歴史上及び現実上に於て誠に絶対的の神聖なり,誠に絶 対的の不可侵なり。……蓋し君臣上下の義理名分は俄に法文を以て律すべからず,

必ず伝例習慣に基きたるものにあらざれば名実共に全きを得べからざるに似たり。

立憲帝政の神髄たる此の皇帝尊厳性は独り我が日本に於てのみ成文憲法以前既に 存立するを得たり。 『天皇は神聖にして侵すべからず』との条は国民固有の感情に 投合して名実共に完しと云ふを得べき歟」 (1 ‐ 2 1〜2 2)

羯南は,ここでも改めて,西洋君主政の変転常なる様と比較して,日本の 皇統の万世一系性の特殊性を誇り,その歴史的連綿性に培われた国民精神が

−4 3 6−

(2 4)

(25)

母胎となって,憲法条規が存在するが故に,天皇は西洋の君主を上回る強度 の神聖を帯びている旨を主張している。万国に冠たる万世一系天皇の神聖性 こそ,羯南が伊勢神宮参拝や万国史読書によって巨大な感慨・感動を受けた 当の理由であった。そして,天皇の統治権・執中権が有効に働く理由もこの 点にあったのである。

ところで,一般的には,天皇神聖性の根拠として,万世一系性と並んで,

儒教的な君徳論が取り上げられている

(37)

。しかし,羯南においては,天皇 の万世一系性と神聖性は,絶対的なものであった。彼にとっては,万世一系 であることが神聖性の必要にして十分の条件であった。彼は「万世一系の帝 統は少くも日本国民が其の君民間の徳性を証明すべし」 (2 ‐ 1 0)と述べてい る。 「皇室は仁徳の源泉である」 (2 ‐ 7 4 8)とされて,万世一系の天皇自体が,

道徳性の担保とされているのである。神聖性論の中に,儒教思想を絡めるこ とは,万世一系思想を弱めることになるとともに,中国流の天皇親政論に繋 がることになる

(38)

。儒学の場合,天皇の地位は,君徳との関係で捉えられ,

徳を失った天皇は権力を失うと見られた。つまり,羯南は,儒学の易姓革命 の思想が我が国に導入され,万世一系思想が損なわれる点を危惧したのであ る。

!

)神道思想(その2)−道徳神道と政教分離

前節で見たように,羯南は明治政府と同様に,万世一系天皇の神聖性とい う国学者や神道家の神道思想を受け継いでいた。しかしながら,羯南の神道 思想は,神道家や国学者のそれとは異なる点を持っていた。彼は,平田篤胤 などの幕末国学者の神道思想の系譜に立つ神道思想が,強度の宗教性を帯び ている点を受け入れなかった。神道は人間の来世態の如何を問題とする宗教 ではなくて,人間の現世態の如何に関心を持つ道徳の世界に属するものであ

−4 3 7−

陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(2 5)

(26)

る旨を強調するのである。

このような羯南の見地は,明治4年の廃藩置県以降,明治政府がそれ以前 に一時的に採用した神道家や国学者の神道観や天皇観と袂を分かって,徐々 に形成して行った非宗教的な神道思想・神道政策と親和性を持つものであっ た。そこで,明治維新期から2 0年代初頭期までの政府の神道・天皇論を,簡 潔に辿ってみたい

(39)

。羯南は,此の時期における神道家や国学者の唱えた 復古・国学神道の命運について,それに対する政府の対応も交えて,次のよ うに概括している。

「蓋し封建制の末年に至り,之に逆ひて喚出せられたる国学即ち神道学の勃興 は,善く国民的精神の発揮を促がし政権統一の大業を媒したれば,政教の理判明 ならざる当時の政事家中には,直ちに之を立てゝ国教と為さんと欲し,或時は多 少之を実行せんとしたることも亦これ有りしならん。爾後二者の区域漸く判明な るに及びて,是等の謬見も亦消滅に就きたりと雖も,然れども抑々神道の以て往々 にして宗教視せられ,神社の以て其標的視せられたるもの,此に職由せずんばあ らず。 」 (2 ‐ 3 8 6)

復古・国学神道は万世一系天皇論=国体論を掲げることによって,国民的 精神を喚起し,以て幕藩体制の解体と統一国家の構築を成し遂げる上での思 想的媒介作業を果たした。最初期の明治政府は,神道を宗教視する復古・国 学神道の立場を採用して,宗教神道を国教とする政教一致,祭政一致の政治 体制の構築を模索した。徳川時代までの神仏習合思想を否定して神仏分離を 図り,政教一致の宗教政治を模索したのである。明治2年には,大宝律令に 則り,神事を司る神祇官が政治を司る太政官の上位に位置する官制が定めら れた。天皇→神祇官→太政官という序列に基づく親政政治の実現が計られた のである。そして翌3年,宗教政治を普及するために, 「大教を宣布せしめ る詔」が布告され,宣教使を任用して実施が試みられた。4年には,官国弊 社以下の社格が定められた。羯南はかかる推移に関して, 「政府は朝廷の軍

−4 3 8−

(2 6)

(27)

事的・経済的無力さ故に, 『空名』を補うために,全国に宗教的威力を振る うに至った伊勢神宮の勢力を活用しようとした」 (1 ‐ 1 3) ,あるいは, 「祭政 一致の主義を以て藩力を圧せんことを企て」たと述べている(1 ‐ 1 3) 。そし て,明治維新直後に明治政府が試みた政治体制を, 「旧思想」 (1 ‐ 1 3)に基づ く「神威政事」 (2 ‐ 3 8 4)と捉え,上の引用文に見られる様に, 「謬見」と断 じている。

しかし,羯南が同じく,上の引用文で「二者(政教−筆者)の区域漸く判 明なるに及びて……」と指摘しているように,明治4年の廃藩置県あたりを 境目として,明治政府は神道の宗教性を希薄化して行く政策を採り始め,神 道非宗教論と政教分離論の見地を徐々に,推進して行くことになる。羯南は,

政府の政策変更について次のように説明する。

「是等人士の思想は神威を敬せざるにあらざれども,寧ろ皇権の尊厳を感受し,

能く幽明神人の別を知るものなるが故に,祭政一致の旨義は之を政憲上に混入す るを欲せざりき。 」 (1 ‐ 1 4)

明治政府の指導者は,元来,宗教的な神道思想によって天皇を神格化し,

祭政一致の体制を作ることには批判的であり, 「神威」と「皇権」を同一の ものとはしていなかった。廃藩置県によって,幕藩体制解体の目途をつけた 明治政府は,神道国教主義に基づく祭政一致の路線の変更に着手する。彼等 は平田篤胤流の見地に対して, 「幽明神人の別」 ,つまり,来世世界と現世世 界,神と人間の間を区別し, 「天皇の尊厳」の所在を後者の世界に求めたの である

(40)(41)

。政府は神道の宗教性の脱色という方針を出すとともに,それ に見合った制度改革を断行した。太政官の上位に位置していた神祇官を廃止 して,太政官内部の神祇省に格下げし,更に,名称を宗教色の薄い教部省と 変更し,最終的にはそれを文部省の一部局として編入した。また5年には,

仏僧,島時黙来らの建言によって,大教院が設立され,神職・僧侶・儒者の

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陸羯南における国民主義の制度構想(八) (山本)

(2 7)

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