• 検索結果がありません。

・ラートブルフの法哲学上の作品選(二・完)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "・ラートブルフの法哲学上の作品選(二・完)"

Copied!
88
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ナチス体制確立期からその死に至るまでのグスタフ

・ラートブルフの法哲学上の作品選(二・完)

著者 上田 健二

雑誌名 同志社法學

巻 61

号 1

ページ 1‑87

発行年 2009‑05‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011734

(2)

ナチス体制確立期からその死に至るまでの グスタフ・ラートブルフの法哲学上の作品選(二・完)

上 田 健 二 (訳)

法思考における分類概念と整序概念(1938年)←

 伝統的な論理学は、現代では多くの異論にさらされている。その諸概念は、それら が生活に暴力を加えていると非難される。生活は流動する諸々の移行であるが、しか し概念はこのような移行を横切りにして明確な限界線を引く。生活が「より多くか、

それともより少なくか(mehr-oder-minder)」しか示していないところで、概念は「あ れかそれともこれか(entweder-oder)」という決断を要求する。生活においては、

関心は主として概念の核心をなしている通例の広がりに基づいているのであるが、こ れに対して概念的な思考は圧倒的に、概念が正しく限界づけられて(「定義づけられ て」)いるかが、それらによって試される通例でない、周辺部の、限界諸事例に関心 をもつ。概念の主眼は、機能として現われるのは「把握するということ」、ある一定 の思考内実を包括するということではなく、「限界づけるということ」、つまりは、概 念がそれをもって外部から他の思考内実に対して自らを閉じ込める防護壁である。要 するに、伝統的な概念的思考は、生活の全体を切り裂き、そして破壊するような「分 離思考」である、ということである。

 このような時代的気分に直面して生活の流動的移行をより適切に評価するような方 法論の試みが、とりわけ問題となっているのが非合理的な、概念敵対的な特効薬の推 奨ではなく、概念的思考の枠内におけるひとつの革新である場合に、特別な関心を掻 き立てる。問題となっているのは、標語的に表現すれば、科学的方法論にとっての比 較的なものの発見である。その仕事についてここで語ることが求められる思想家はパ ウル・オッペンハイム(Paul Oppenheim)←とその共同作業者であるカール・G・

ヘンペル(

Carl G. Hempel

︵ ₁ ︶)←であり、彼らは、彼らがその分類的な課題を理由に分

(1) Carl G. Hempel und Paul Oppenheim: Der Typenbegriff im Licht der neuen Kogik, Leiden

(3)

同志社法学 61巻 ₁ 号 2

類諸概念と呼んでいる伝統的な諸概念にもうひとつの種類の諸概念、すなわち整序的 諸概念を対置する。分類的諸概念は、ある個別現象に否認か、それとも承認かしか与 えることができない諸要素から合成されているが、これに対して整序概念は、ある個 別現象にさまざまに異なる尺度において、より高いか、それともより低いかの程度に おいて承認することができる、内容的に段階づけることが可能な諸特性を含んでい る。前者の言語的表現は確定的なものであるが、【60】しかし後者の諸特性については、

石英は方解石よりも固いというように比較的なものにおいて語られる。整序的諸概念 は、それゆえに二つの、もしくは複数の現象との間の程度関係を言明するのであり、

それゆえにこれらの現象を系列および位階順序に持ち込むのであり、たとえば諸々の 鉱物をそれらの固さに応じてひとつの連続した系列のなかに整序するのであり、[46]

そのようにして、分類的諸概念が暴力的に引き裂いたものを概念的に表現するのであ る。ある整序概念が段階を付し得るある特性を含んでいるならば、この基盤のうえに ひとつの直線的な系列順序が明らかになり、それがより多くのこの種の特性を含んで いるならば、系列順序はより多元的なものになる―諸々の鉱物をその固さに応じて だけでなく、それらの重さとそれらの化学的な合成に応じても系列順序に持ち込むこ とができるのである。このような諸々の系列順序は、それらを他の諸々の系列順序と 因果的な諸々の関連に置くことができるならば、特別な実りをもたらす。それという のも分類的諸概念に基づくのと同様に、整序的諸概念に基づく場合であっても諸法則 の発見に達することができるからである。前者が「もし……であれば、……である

(wenn―

dann)」という図式に従って表現されるとすれば、後者は「……であればあ

るほど、……である(je―

desto)」という図式に従って表現される。穀物の価格が高

くなればなるほど、窃盗の頻度が高くなる、というように。

 系列順序というものにもち来たらせられている個別的な諸現象のなかで特定のもの を他の諸々のものに対して際立たせることができる―あたかもそれを通してそれら の間に存在している諸現象を確定することができる道標であるかのように。そのよう にして様々にことなる固さの10個の鉱物を合成するとともに他の諸々の鉱物をその硬 さに応じて整理する尺度図式を獲得することができたのである。このような処理の仕 方が整序諸概念の最も重要な形式への、つまりは類型的諸概念への移行をなしている のである。ひとは系列の内部で、極端な諸形式であれ、もしくは逆に平均的な諸現象 であれ、それらで他の諸現象を測定する、ある種の特別に刻印づけられた、生粋の、

典型的な諸現象を選び出すのである。けれども必ずしもこのような類型にある経験的 1936; P. Oppenheim; vom Klassenbegriffen zu Ordningsfen, Travaux du IXe Cingrés International de Philosophie, Paris, ₁₆ août 1937; Paul Oppenheim; Die natürliche Ordnung der Wissenschsften, 1926, S. 221 ff.,にすでにいくらかの示唆が示されている。

(469)

(4)

な個別現象を相応させる必要なはなく、逆にそれらはたいていの場合では、特定され た視点のもとで様々に異なっている諸現象の本質的な諸特性を統合する構成された諸 形象である。ところでこのような視点はあの諸特性の発現の頻度でも、もしくはそれ らは念頭に置かれている理念の割合に応じて選択されもしよう。両方の場合では諸類 型が現実の個別的諸現象から隔たっている前者、すなわち平均類型は、後者、い わゆる理念型よりもほとんど僅少なものではない。諸類型は決して現実認識を表わそ うとしない。それらは現実的な個別現象の認識のための手段であろうとするにすぎな い。それは、そのなかでいくらかの【61】個別的諸現象が整理されるネットしかなし ていないのである。分類概念と同様に整序概念もまた諸現象を整理するための手段で ある。分類的諸概念に整序的諸概念を対置するということは、それゆえに用語として は全くうまいというわけではないように思われる。もちろん求められた整理は、量概 念の場合ではきわめて異なった種類のものである。個別的諸現象は分類的諸概念のも とに当てはめられるのであるが、しかしそれらは類型的諸概念のなかに組み込まれ る。それらはこのもしくはあの類型概念からのそれらの多少とも広い距離を通して特 徴づけられる。この距離は、たいていの場合に直観的にのみ評価され、しばしば客観 的な諸基準を手がかりにして規定され、最もうまくゆく場合にはメートル法により、

数的に評価され得る。分類的諸概念は明確な諸限界を通して互いに区別し、類型的諸 概念は朦朧とした諸限界を通して、色彩が色彩圏に入り込むように、互いのなかに入 り込む。分類的諸概念は分離し、類型的諸概念は結合するのである。[47]

 オッペンハイムとヘンペルは彼らの発見のどのような過大評価らも好ましいことに 距離を置いている。彼らは分類的諸概念を、たとえ彼らが分類的諸概念から整序的諸 概念への展開というものを確認することができると考えているにせよ、許容してい る。彼ら自身が心理学での、体質研究での展開を示し、経験的な研究の他の領域にと っての同様の探究を勧めている。ゲーテの類型的思考方法をその根源現象の、とくに 根源植物の概念について明示することは刺激に満ちているであろう︵ ₂ ︶。ゲオルク・イエ ニネク(Georg Jellineck)の国家論のなか︵ ₃ ︶では、そして、これを模範として、マッ クス・ヴェーバー(Max/ Weber)の社会論のなか︵ ₄ ︶では、類型論的諸概念の詳細に根

(2) たとえば、H. Schenk, Gioethe als Denker, 4. Aul. 1922, S. 44 ff., 57 ff.

(3) G. Jellineck; Allgemeine Rechtslehre, 4. Aufl., 1921, S. 34 ff. こ れ に つ い て は、W.

Wi n d e l b a n d ; Ü b e r N o r m u n d N o r m a l i t ä t , A s c h a f f e n b u r g s M o n a t s s c h r f t f ü r Kriminalpsychologie, 3. Bd., 1907, S. ₁ ff.; H. Heller; Staatslehre, 1934, S. 61 ff,

(4) M. Weber; Die Objektivität sozialwissancchaftliche und soziologische Erkenntnis. Archiv für Sozialwissenschaft, 19. Bd., 1904, S. 43 ff. これについては、K. Jaspers; Max Weber, 1932, S.

46; B. Pfister; Die Entwicklung zum Idealtypus, 1928; A. v. Schelting; Max Webers Wissenschaftslehre, 1934.

(5)

同志社法学 61巻 ₁ 号 4

拠づけられた適用が現在の方法論的諸問題に接近している。イエリネクは平均的諸類 型と理想的諸類型とを区別し、後の版では、経験的類型と理想的類型を区別している。

理想的類型はひとつの当為および価値形象であり、経験的類型は、個別事例の大多数 が表わしている共通する諸要素を浮かび上がらせることを通して獲得される存在的お よび現実的形象である。これに対してマックス・ヴェーバーの場合では、理想的諸類 型は理想的な模範像といったものではなく非難すべき諸現象の、たとえば売春の 理想的諸類型も提示され得る【62】、それはむしろ個別的な諸々の偶然性から純 化され、一貫して構成された、それゆえに一面的に高められた現実の諸々の図式であ る。ウエーバーの理想的諸類型はリッケルト(Rickert)←の意味における価値に関 係づけられた諸概念としてイエリネクの評価的な理想的諸類型とイエリネクの価値か ら自由な経験的な平均的諸類型との間の中間を保っている―ひとはこれを理念的な 諸類型と呼ぶほうがより誤解を招くことがないであろう。類型的諸概念は、マックス・

ウエーバーによれば認識の目標ではなく手段であり、それらをもって現実が測定さ れ、それらをもってそれが比較される理念的な限界的諸概念である。それらは、イエ リネクによれれば個別現象を、これがそれをそれらを通してはじめていわば社会的諸 過程の全領域におけるそれらの場所を含んでいることから、はじめて根本的に理解す ることを教示する。これは、オッペンハイムとヘンペルによって仕上げられた類型論 的系列順序にとっての、いまだ手さぐり的な表現よりほかの何ものでもない。

 法学に関して言えば、オッペンハイムは制定された諸法令の表現形式にとって整序 的諸概念は「明白に合目的的ではない」と説明した。「それというのもこれらが有し ているのは実に複数の構成要件の最終目標との相互的な比較ではなく、これからある 一定の要素が承認されるか、もしくは否認されるということを通してなされるような 個別的構成要件の評価だからである︵ ₅ ︶」。このような根拠づけは失当であって、それと いうのも―立法者によるものであれ、裁判官によるものであれ―個別的構成要件 の評価は、意図された判定の根底に置かれている法命題の他の諸事例にとっての射程 を試すために、数多くの多少とも類似している諸事例が念頭に置かれ、そして比較さ れることを前提としているからである。それにもかかわらずオッペンハイムの法学方 法論の見解が結論的に当たっているか否かを、以下において究明することが求められ る。このような究明は、ごく最近では分類的諸概念から整序的諸概念への移行は、法 学にとっても明白に提唱されているからには、それだけにいっそう迫られているので

(5) Oppenheim, IXe Congrés de Philosophie, S. 73 ff. オッペンハイムが彼の以前の本、Die natürliche Ordnung der Wissenschaften, S. 177 ff., のなかで、法学を典型的な諸科学に算入し ているとすれば、彼が考えているのは明らかに、後に彼によって展開された種類の類型的諸 概念ではなく、分類する一般的な諸概念である。

(467)

(6)

あるそれというのもこのことだけが、カール・シュミット(Carl Schmidt)に よって急速に標語にまでになっている「具体的秩序思想」という公式の意味であり得 るからである。規範は、とカール・シュミットは言う、正しく評価されるべき生活の 類型的に想定されるべき形姿、たとえば勇敢な兵士、義務を意識した官吏、誠意のあ る同僚等々を前提としている。ある規範がいまだそれが欲しているほどに確固不動に 振舞おうとも、【63】それは、状態が完全に正常である範囲においてのみ、そして正 常であることが前提とされた類型が消し去られていない限りでのみ、ある状態を支配 しているのである︵ ₆ ︶。かくしてシュミットは法律上の諸構成要件を正常諸類型として解 しているのであり、そこから非類型的な諸事例を法律に代わって「事物の本性」から 評価しようとしているのである―それというのもそのようにこれまで、シュミット がいまや具体的秩序思想として特徴づけている、あの個別事例を類型化し、そしてこ の類型から評価する思考方法が呼ばれたからである︵ ₇ ︶

 今日でもなお支配的な法的思考はオッペンハイムの意図と調和しており、シュミッ トの要求とは異なって原則的に分類する方法の側に立っている。全く意識的に立法 は、生活の流動的な諸々の移行を通して明確な切れ目を入れている諸概念をもって作 業している。幼児期から青年期への、青年期から成人期への成熟の漸増性を意識的に 無視させている日と時間に規定された年齢の限界を考えてみよ。まさにこのような法 的諸概念の現実との不相応性が、すべての中間的音色の、いっさいの快い運命の戯れ のことさらなる無視、あの「あれも―そして―これも」もしくは「より多くか―それと も―より少なくか」の厳しい否認、「あれか―それとも―これか」という厳しい思考方法、

これこそまさにこの時代において法を、とくにローマ法をあれほどに嫌悪の念を起こ させる当のものである。しかしこれらすべては「実用性」、言い換えれば、疑問から 免れた法の適用、それゆえに法的安定性という理由からして不可欠である―が、し かし、その女神が目隠しをしているのも理由のないことではなく正義もまた、それが その平等への志向に「人格の声望」なしに向いているばかりでなく、現実の他の諸々 の(重要でない)差異を無視しているということがその理由である。しかし法を生活 に密着させることが正統な自由主義の克服後ではこの時代のひとつの傾向であるなら ば、このことは類型的諸概念と系列順序を通してではなく、特殊な分類的諸概念を通 してなされる。これにとって特徴的であるのは、まさにそれがひとつの段階を付し得

(6) C. Schmidt, Über die dei Arten des rechtswissenschaftlichen Denkens, 1934, S. 22, 10, 21, 23. これについては,E. Schwinge und L. Zimmerl; Wesenschau und konkretes Ordnungsdenken, im Strafrecht, 1937.

(7) 「事物の本性」というきわめて要急の概念の特別な処理については、H. Isay; Rechtsnorm und Entscheidung, 1929, S. 78 ff.

(7)

同志社法学 61巻 ₁ 号 6

る整序概念、つまりは「限定帰責能力」を示唆しているように思われるからである。

その法律上の承認に従っても法背反者はより多くか、それともより少なく帰責能力を 有しているといったものではなく、【65】彼は責任能力者であるか、それとも責任無 能力者であり、前者の場合では完全な帰責能力者であるか、それとも減軽された帰責 能力者であるかのいずれかである。帰責能力はどのような系列概念でもなく、ひとつ の低クラスの概念にすぎないのである。

 もちろん多くの事例において立法者は、特殊化する分類化を通して個別的諸事例を 正当に評価することは可能でないと考える。彼は、いよいよ頻度を高めるこのような 諸事例では、法の諸作用の個別事例との適合を裁判官の裁量に委ねるのである。これ こそまさに、類型的諸概念と系列的順序を観察することをわれわれが予期することが できる領域である。ひとつの特別に教示に富む例を法律上の刑罰枠の内部での裁判官 による刑の量定が提供している。それは裁判官を、個別的諸事例を―この犯罪の考 え得る最も重い事例と考え得る最も軽い事例という―二つの極端な類型の間にこの 類型からのその最も広い距離もしくは最も狭い距離の尺度に従って系列のなかに組み 入れるという課題の前に立たせる。将来においてこのような系列化は、これまでのよ うに裁判官の直観に委ねられ続けるべきではなく、むしろ客観的な諸基準によって導 かれることが求められる。ライヒ刑法典の最後の草案︵ ₈ ︶は裁判官による刑の量定のこの ような基準として行為者の犯罪的意志、国民社会の処罰欲求、行為者が責任を負った 危険と損害、所為以後の彼の態度を挙げる。しかしこのような刑の量定理由のいずれ もから、このような系列順序のいずれにも、そのために刑が量定されなければならな い犯罪行為にその場所を割り当てなければならないような系列順序が明らかになり、

この系列順序のいずれにもそれに割り当てられる順位が他の系列順序におけるよりも 高いか、もしくは低いものであり得る、当罰性諸理由の多元的な系列的順序というも のが問題になっているのである。しかし可能な刑罰の程度は一次元的な系列しかなし ていない。それらは単に重いか、それとも軽いかのいずれかである。そこから、当罰 性諸理由の多元的な系列順序を一元的な系列順序に還元するという困難な課題が成り

立つ︵ ₉ ︶。草案の立法者はこの問題をも認識していたのであり、彼は様々に異なっている

当罰性の諸基準を、次のような統一的な公式のなかに総括する。「刑罰は行為者の責 任の種類と程度に相応していなければならない。」しかし彼がこれをもって示したの は問題だけであって、解決の方法ではなく、立法者にとっては、確かにこれ以外には 何も可能ではないのであろう。裁判官が個別事例において様々に異なっている系列順

(8) Gürtner, Das kommende deutsche Strafrecht, Allg. Teil. 2. Aufl., 1935, S. 173.

(9) Hempel und Oppenheim, a. a. O., S. 70.

(465)

(8)

序を責任の等価的要素と見ようとするのか、それとも不等価要素と見ようとするのか

【65】、そしてどのような事情において不等価要素と見るのか、それゆえ、代数的に言 うならば、個別的な犯罪行為にとっての責任の程度は、様々に異なっている系列にお ける単純な位階番号を通して獲得されるのか、それとも特定された系列のために[50]

この位階番号の多重というものが設定されなければならないのかは、裁判官に委ねら れたままである。このようにして獲得された当罰性の系列は刑罰の程度に相応する系 列にとっての基盤をなしているのであり、そしてこれには「整序する法律」というも のを通して「多ければ多いほど―それだけいっそう多い」という図式(これはもち ろんひとつの経験的な法則ではなく、ひとつの当為法則、ひとつの規範である)に従 って結びつけられているのであり、しかもこのことは、もちろん責任の程度の側面で はないが、しかし十分に責任の尺度の側面で、メートル法による数値に則した把握が 可能である法則である。このように刑罰量定に則して系列順序の問題をほとんど余す ところなく説明することができるのである。

 法学の伝統的な分類的性格(カール・シュミットとその信奉者)が増大しつつある 矛盾に遭遇していることは、すでに指摘された。われわれが[51]見てきたように、

あの性格は法的安定性への欲求に基づいている―それだからこの矛盾には法的安定 性の最も低下された評価というものが、その有効性だけでなく、その価値が表現され る。このような見解と対決することはわれわれの課題の外部に置かれているのであ り、われわれは法学的方法論にとってのその諸帰結を評価するだけにしたいのであ る。伝統的な方理論が法的安定性のために具体的な状況を個別化的に顧慮することを 広い範囲にわたって断念しなければならなかったのであれば、このような要求がいま や、法的安定性の価値が切下げられた後に、法的思考の前景に登場してくる。そこか ら、イギリスおよびアメリカのケース・ロー(case law)のやり方に従った、多くの 法律家の事例法というものへの傾向が見えてくる。それゆえにいまや、どのような役 割を類型論と系列順序がケース・ローのなかで演じているのかを究明することが求め られるのである。

 英米の裁判官は具体的な事例にとっての法を(制定法(statute law)が妥当してい ない限りで)見出すのであるが、しかしこれには彼がその判定の規定に置いており、

判定理由(ratio decidendi)として言明した法命題は、将来の同種諸事例にも適用さ れるという効果を伴なっているのである。それにもかかわらず、諸事例のどれほど狭 い、もしくは広い範囲にまで新たに獲得された法命題が拡がるのかは、広い範囲にお いて不確実のままである。裁判官にはある新しい事例に直面して、彼が先決事例の判 定理由はこの新しい事例にとって適切でないと見る場合には、防護手段の全兵器庫を 任意に用いることができるのである。彼は、この新しい事例が事実上の視点から見て

(9)

同志社法学 61巻 ₁ 号 8

以前の諸事例から本質的に【67】逸脱しており、それゆえにこれとは別の法的な取り 扱いを要求していることを示すことができるのである。しかし彼は、以前の事例の判 定理由が、それが当時の事例の判定にとって必要であったのであり、単にひとつの拘 束力のない「傍論(dictum)」である限りで、広く捕捉されることを示すこともでき るのである。彼はその場合では、判定の規定に実際に置かれている、ただそれだけで 拘束的なより狭い法命題を、すなわち「法の原理(priciple of the law)」を際立たせ ることになろう。しかし展開は、対立する意味においても経過することもあり得る。

後の事例の裁判官が、以前の判定の法思想は当面する、いくらかは逸脱している事例 にも、彼が以前の裁判官の判定理由のなかにひとつのより狭い表現を見出したにもか かわらず妥当を要求するという意図に達することもあり得よう。彼はその場合では、

彼自身の判定における法命題にひとつのより一般的な表現形式を与えることになろ う。慎重に引き続いて模索する一連の判定の後に、次いでおそらくはある新しい事例 を契機として段階的かつ部分的に浮き彫りにされた法思想のあの系列を一人の裁判官 が完結的に総括的に表現するであろう。

 ところでわれわれは、ある判定のなかで呈示され、その継続的展開においていまだ 見渡し難い法命題をどのようにして性格づけることができるのかを問わなければなら ない。リュウリン(Llewllyn︵₁₀︶)はこれを短い言葉をもって見事に特徴づけた。「どの ような法命題にあっても次の ₃ つのものが現存している。すなわち、すでに現に存在 しているものとすでに意図されているものの全く確固とした内実的核心、次いで流動 的な限界の縁取り、すなわち命題の偶然的な文言を通してともに条件づけられている 拡張[52]可能性のそれ、最後にこのような可能性に関するひとつの傾向である。こ れは部分的には確固とした核心を通して、部分的には隣接する法的諸命題を通して、

部分的には、法的な諸関心のそのつどの欲求を通して条件づけられている。」かくし てこれは、その妥当が一連の中枢的な諸事例にとって疑いから免れている一方で、ど の程度までにその朦朧とした限界に、「こちらか、それともあちらか」に近接してい る諸事例にも適用することを命じているのかを確実性をもって言うことができないひ とつの法思想であり、全く緩慢に隣接形象に対するひとつの明確な分離線へと固める か、もしくは逆にこれとともにひとつの形象に合流する確固とした核心と流動する周 辺を伴なう類似した形象が周りを取り囲んでいる。このような思考形象を論理学的に は類型的諸概念として以外には全く特徴づけることができないこと、それについて用 いられる諸々の操作のなかでは系列順序もひとつの役割を演じていると、われわれに は思われる。もちろんこのような類型的諸概念は最終形式として求められた分類的諸

(10) A. a. O., S. 79.

(463)

(10)

概念、誕生の状態(statu nascendi)における分類概念への途上の通過的な諸形式に すぎない。しかしこの【68】誕生の状態は、決して窮極的に克服されないような恒常 状態である。現在および将来の諸事例の不可破損性は、見かけのうえでは窮極的に達 成された分類的諸概念の確固とした諸限界が繰り返し疑問視され、繰り返し流動的で あることの実を明らかにするということのために配慮する。

 しかし英米の裁判官だけでなく、大陸の裁判官もまた法を実際には具体的な諸事例 のために見出している。具体的諸事例はもちろん、彼に現実的な判定のために生活の ここでいま(hic et nunc)呈示されるのではなく、むしろ彼にその想起によって、も しくはその想像力によって与えられるのである。ヴィルヘルム・ヴント(Wilhelm

Wundt) は内心生活の現実における一般的な諸概念は個別的諸事例の「代表的な諸表

象」を代行されることを示した︵₁₁︶。ところでこのような代理的諸表象は(前科学的諸概 念ではそもそもそうであるように)「確固とした諸限界のない諸類型」という性格を 有している。現に、あらゆる事例の全体を見渡しているわけでもなく、非具象的な思 考図式の一般的な抽象にも満足しようとしない裁判官にとっても念頭に置かれている のは、それが最も頻度の高い諸事例であれ、最もひと目を引いた諸事例であれ、類型 的な諸事例である。その場合では、法律の分類的に考えられた諸概念はあまりにも容 易にひそかに、そして無意識的に類型的諸概念という性格を保持しているのである。

立法者の手に由来している法律は、あらゆる解釈の前に、それが解釈されるのは拡張 的にか、それとも縮減的にか、それが適用されるのは類比的にか、それとも反対から

の論証(

argumentum a contrario)によるのかについていまだ固まっていない法律は、

いまだ流動的な諸限界を伴なっている、ひとつの類型論的な形象として現われる。

 現代の立法者にとって類型概念が分類的諸概念を求める方法のいわばひとつの副産 物にすぎないとすれば、[53]ローマの立法者は全く意識的に分類的諸概念をもって 満足し、この類型的諸概念を分類的諸概念にまで継続形成することを解釈に委ねた。

学説集成( ₁

,

₃ )←では、つねに新しい言い回し( ₁

,

₃―₆

, 10)においてその規

範化に当たっては、

„quae plerumque accidunt, quae et frequenter et facle eveniunt“←

と い う こ と に よ っ て で は な く、„quae parraro eveniunt, quae forte uno aliquo casu

accidere possunt“←ということによって支配されることが立法者に諄々と説き聞か

せられる。次いで諸法律から明らかになる思想(

sententia)が類似した状態にある

諸事例【69】にまで拡張する(ad similia procedere)こと、そしてそのようにして明 文で規定されている諸事例のためにと同様に、同じ目的思想に向けて(quae tendunt

ad eandem utilitatum)適用を命じている諸事例のために補充すること(supplere)

( ₁

,

(11) Wundt, Grundriß der Psycchologie, S. Aufl. 1898, S. 315.

(11)

同志社法学 61巻 ₁ 号 10

13)← が解釈と法の言い渡しの任務であるとされる。しかし解釈もまた、分類的諸 概念の形成に当たっては慎重であるように戒められる。„omnis definitio in jure civile

periculosa est“

( ₁

, 202 D, 50, 17)←。ローマ人は、イギリス人の法思考の本質を規

定しているのと同様の、思慮深く抽象への畏怖の念を抱いているのである︵₁₂︶。  「分類的諸概念か、それとも類型的諸概念か」という問題は法学にとって簡単には 答えることができないということを見てきた。分類的思考形式と類型論的思考形式と のひとつの錯綜した競演というものが結果として生じてくるのである。ここでなされ た諸々の示唆は、しかしながらこのテーマを決して組み尽くそうとするのではない。

それらは現代の方法論のおそらくは最も重要な問題についての熟考へと案内しようと しているのである。

[ヴィンフリート・ハッセマー(Winfried Hassemer)による校訂]

【60】Klassenbegriffe und Ordningsbegriffe im Rechtsdenken, in: Internationale Zeitschrift für die Theorie des Rechts (Revue Internationale a la Théorie du Droit), 12 (1938), S. 4654.

Auch in: Gustav Radbruch Gesamtausgabe [GRGA], Band 3, Rechtsphilosophie III bearbeitet von Winfried Hassemar, 1990, Heidelberg, S. 6070.

(オッペンハイム);Paul Oppenheim, 1885年にフランクフルト・アム・ラインに生まれ、

1977年にプリンクトン(アメリカ合衆国)に死す。化学者であり科学理論家。移民の後、

1939年以来、プリンクトンでの私教師。

(ヘンペル);Carl Gustav Hempel, 1905年にオラニーンブルク(Oranienburg)に生まれる。

論理学者、科学理論家。1948年から55年までイエール大学の、1955年以来プリンクトン(ア メリカ合唱国)の教授。

【63】(リッケルト);Heinrich Rockrt, 1863年にダンツイッヒに生まれ、1936年にハイデルベルク に 死 す。1916年 以 来 ハ イ デ ル ベ ル ク 大 学 教 授。 リ ッ ケ ル ト は ヴ ィ ン デ ル バ ン ド

(Windelband)とともに新カント主義の南西ドイツ学派を創始した。方法論的には、リッ ケルトは自然諸科学と文化諸科学の区別を際立たせた。哲学の課題として彼は法の探究を無 時間的に妥当する諸価値のそれとみなした。

【69】( 学 説 集 成(digesten))( ₁, ₃ ); こ の 学 説 集 成 は、Corpus Iuris Civil (ed. Krüger/

Mommsen), 1973版から次のように示されることができた。[Otto/Schilling/Sintenis, Corpus Iuris Civilis (1939), Reprint 1984 によるドイツ語訳]:

1, 3, 3; Iura constitui . . .in his quae plelumque accident, non qua praeter expectationem.

Rechtsbestimmungen müssen . . . darnach getroffen werden, was der Regel nach, nicht aber

darnach, was sehr selten geschieht. (法的諸決定は、……例外的に生じているものに応じてで

はなく、原則に応じて生じているものに従って下されなければならない。)

1. 3. 5; nam ad ea potius debet aptari ius, quae et frequenter et facile, quam quae perraro eveniunt.

Denn das Recht muss vielmehr dem, was häufig und leicht geschiet, angepasst warden, als dem

(12) F. Schulz, Prinzipien des Römischen Rechts, 1934, S. 27 ff.

(461)

(12)

was sehr selten geschiet.(それというのも法は、きわめてまれに生ずるものにではなく、む しろしばしば、そして容易に生ずるものに適合されなければならないからである。)

1, 3, 10; Neque leges neque senatus consulta ita scribi possunt, ut omnes casus qui quandoque inciderint comprehendantur, sed sufficit ea quae plerumque accident continari.

Weder Gesetze noch Senatsgeschlüsse können so abgefaßt werden, daß sie alle Fälle, die nur irgeng jemals eintreten können, begreifen, sondern es genüg, wenn sie das, was meistenteils zu geschehen pflegt, enthalten.(諸法律も元老院諸議決も、それらがどこかでいつか発生する ことがあり得る全事例を把握するというようにではなく、それらは、大部分において生ずる のをつねにしているものを含んでいるならば、それで十分であるというように起草されるこ とができる。)

1, 3, 12: . . . cum in aliqua causa sentential eorum manifesta est, is qui iursdictioni praeest ad simila proceddere atque ita ius dicere debet.

. . . wenn in Begriff eines Umstandes derselben[Gesetze oder Senatsbeschlüsse]das Urteil klar ist, so kann derjenige, welcber der Gerichtbarkeit vorsteht, davon ähnliche Anwendung

machen, und darnach Recht sprechen. (それら[諸法律またな元老院の諸議決]のある事情

の概念において判決が明確である場合には、裁判権を統括する者は、これに類似した事例に これを適用し、これに従って法を言い渡すことができる。)

1, 3. 13; Nam. . .quotiens lege aliquid unum vel alterum introductum est, bona occasio est cetera, quae qoatendunt ad eandum utilitem, vel interpretatione vel certe iurisdictione suppleri.

Denn sobald, . . ., durch ein gestetz das Eine oder das Andere eingeführt worden ist, ist eine gute Gelegenheit vorhanden, das Übrige, was denselben Nutzen bezbeckt, entweder durch die Auslegung oder wenigstens durch die Gesetzgebung zu ergänzen.(法律によってあるものも しくは他のものが導入されるや否や、……、同じ利用を目指している残りのものを解釈を通 してか、もしくは立法を通して補充するという、ひとつのよき機会が現存している。)

L, 17, 202: Omnis definitio in iure civili perculosa est: parum est enim, ut non subveri posset.

Jede Festsetzung einer Regel im Civilrecht ist gawagt, denn sie kann sehr leicht umgestossen

werden. (民法におけるある原則のどのような固定化も敢えて行なわれるのであって、それ

というのもそれはきわめてたやすく転倒され得るからである。)

(13)

同志社法学 61巻 ₁ 号 12

五分間の法哲学(1945年)

000

 命令は命令だと、兵士に向けてそう言われる。法律は法律だと法律家は言う。しか し命令がひとつの重罪もしくはひとつの軽罪を目的としていることを兵士が知ってい る場合には、彼にとって服従への義務と権利は停止するのに対して、法律家は、およ そ100年前に法律家のなかの最後の自然法論者が死に絶えてしまって以来、法律の妥 当と法律のもとに置かれている者にはこのような例外があることを知っていないので ある。法律は、それが法律であるがゆえに妥当する、そしてそれが諸事例の通例の通 例において自らを貫徹する権力を有している場合には、それが法律である。

 法律とその妥当についてのこのような見解(われわれはそれを法実証主義の理論と 呼ぶ)が、あれほどに恣意的な、あれほどに残虐な、あれほどに犯罪的な諸法律に対 して国民を無防備にしたのである。それは、最終的には法を権力と同置する。すなわ ち、権力のあるところのみ法はある、というわけである。

000

 ひとはこのような命題をもうひとつの命題を通して補充するか、もしくは置き換え ようとした。すなわち、法とは、国民にとって有益であるもの、という命題である。

これが意味しているのは、恣意、契約破棄、法律違反は、それらが国民にとって有益 である限りで、法である、ということである。これが実際的に意味しているのは、国 家権力の掌握者にとって公共の利益になると思われるもの、独裁者のどのような思い つきもどのような気まぐれも、法律と判決なしの刑罰も、病者に対する法律なき謀殺 も法である、ということである。これが意味することができる0 0 0のは、支配する者の利 己心が公共の利益であるとみなされる、ということである。そしてそのようにして法 を誤って考えられた、もしくは言うところの国民の利益と同置することが法治国家と いうものを不法国家というものに変えたのである。

 否、国民の利益になるすべてが法であると言われてはならないのであり、むしろ逆 に、法であるものだけが国民にとって利益になる、と言われなければならないのであ る。

(459)

(14)

000

 法とは正義への意志である。しかし正義が言わんとしているのは、人格の声望なし に裁くこと、すべてを同じ尺度で測ることである。

 政治的敵対者を謀殺することが称揚され、他人種への謀殺がが命じられるが、しか し自己と信条を同じくする仲間に対する同じ所為が残酷極まる、破廉恥極まる刑罰を もって難詰されるならば、それは正義でも法でもない。【78】

 諸法律が正義への意志を意識的に否認し、たとえば人間的諸権利を恣意に従って保 障したり否認したりする場合には、このような法律には妥当が欠如し、国民はこのよ うな法律にはどのような服従義務を負っていないのであり、法律家たちもまた、それ らから法たる性格を拒絶する勇気を見出さなければならないのである。

000

 正義と並んで公共の利益もまた法の目標であるというのは、確かなことである。こ のようなものとして法律もまた、悪法でさえ、いまだつねにひとつの価値を―法を 諸々の疑問に対して確実なものにするという価値を有しているというのは、確かなこ とである。人間的な不完全性が諸法律のなかに必ずしもつねに法の三つの価値、すな わち公共の利益、法的安定性および正義を調和のとれた形で統合することができると は限らす、その場合ではただもう有害であり、正義に適っていないとしか言いようの ない諸法律が法的安定性のために、それにもかかわらず妥当を認容することができる のか、それともその不正義もしくは公共にとっての有害性のために妥当を否認すべき であるのかという問題が残されたままであるのは、確かなことである。とはいえ、そ れらに妥当を、それどころか法たる性格を否認しなければならないほどの程度にまで 達しているこのような不正義と公共にとっての有害性を伴なっている諸法律も存在す ることがあり得る0 0 0 0ということ、このことは国民と法律家たちの意識に深く銘記されな ければならない。

000

 かくして、どのような法的定立よりも強力である結果として、これらに反している ような法律が妥当を欠くことになる法的諸原則が存在する。このような諸原則が自然 法もしくは理性法と呼ばれるのである。それらは個々の点で多くの疑問によって取り 囲まれてはいるが、しかし数世紀にも及ぶ作業がひとつの確固とした現在高を際立た

(15)

同志社法学 61巻 ₁ 号 14

せているのであり、いわゆる人間的および市民的諸権利の宣言のなかに、それらの多 くに関してはもはやことさらにする懐疑しか疑問を維持することができないほどに広 範囲に及ぶ意見の一致が集められた。

 信仰の言葉では、しかし同じ思想が聖書の二つの言葉のなかに定着している。一方 では、汝は、汝に対して権力を有している官憲に従順でなければならないと書かれて いる。しかし他方で、汝は人間よりも多く神に従え、と書かれているそしてこれ はひとつの敬虔な願望といったものではなく、ひとつの妥当している法命題である。

このような二つの言葉の間の緊張を、ひとは第三の言葉、たとえば「カイザーのもの はカイザーに、神のものは神に与えよ」という格言を通して解決することはできない

―それというのもこの格言もまた、諸々の限界を疑わしくするからである。むしろ こういうことである。特別な場合に直面してのみ個々人の良心において彼に語りかけ る神の声に解決が委ねられているのである。

【78】Fünf Minuten Rechtsphilosophie, in: Rhein-Necker-Zeitung (Heidelberg) vom 12.

September 1945, auch in: GRGA Band 3. Rechtsphilosophie Ⅲ, Heidelberg 1990, S. 7879.[初 訳:村上淳一・ラートブルフ選集 ₄ 『自然法と実定法』(東京大学出版会、1961年)所収225

228頁]

(457)

(16)

ラートブルフ:法の革新(1946年)←

 諸々の法学部から法の革新は、ドイツの歩律家の再教育と全ドイツ国民の法境域は 出発しなければならない。このような課題にとっては、次のような基本的諸原則が決 定的でなければならないように私には思われる。

  ₁ .われわれは12年間の完全な不法と恣意に、国家権力にとって有益であると思わ れるものであればすべてが許されていると考え、それらが最も神聖な目的に、すなわ ち人間の生命の保護に奉仕しているとこであっても、妥当している諸法律を何のため らいもなく無視する国家権力の支配に立ち帰る。われわれは法律なき状態と恣意から 再び法律の支配へ、不法国家から法治国家0 0 0 0へと立ち帰らなければならないのである。

以前ではあまりに自明であるためにあたかも生きるための空気のように意識されてい なかった法治国家の、それ自体の諸法律に結びつけられている国家の理念が再び意識 され、教え込まれなければならないのである。

  ₂ .われわれは、そこでは諸法律それ自体が不正義を、それどころか犯罪をさえ裁 可することに利用されたような時代を回顧する。ドイツの法律家たちのなかで支配し ている見解、すなわち規則に則して成り立ってさえいればどのような法律にも法たる 性格と妥当が帰せられるとする法実証主義はこのような不正で犯罪的な法律に対して 無防備にした。われわれは再び、すべての法律のうえに聳え立っている人間的諸権利 を、正義と敵対している諸法律から妥当を否認することを自覚しなければならないの である。

  ₃ .われわれは過去12年間において、どのようにして他のすべての精神力が、大学 と科学が、裁判所と司法が、政治上の世界観と諸政党が専制政治の前に崩壊したのか を体験したのであり、そのなかで自己主張をしたのはただひとつ、それはキリスト教0 0 0 0 0 と教会0 0 0である。この体験は、少なくとも宗教上の信仰ではどこまでも深い感銘であり 続ける。信仰への畏敬の念とそれを求める憧れが復活した。法もまたそれに触れられ ないままであるというわけにゆかない。法は創造秩序の一部として把握され、法と諸 契約の神聖さは再びひとつの単なる話し方よりも多くのものになる。諸法について可 変的なもの、永遠のものは比較法0 0 0を通して最も具象的になる。地球圏内に分つている 二つの大きな法文化の、すなわちヨーロッパ大陸のそれと英米のそれとの比較はとく に必要であり、前者はローマ法と後の諸々の修正のうえに、それゆえに法律の【80】

うえに、後者は裁判官の諸判定のうえに構築されている。この二つの法文化との比較 がはじめてあなた方の誰にもそれぞれの独自性を知らせ、それらの長所と短所とを評 価させる。英米法の研究は、それゆえにドイツの現在の状況からだけよりもはるかに

(17)

同志社法学 61巻 ₁ 号 16

深い、そして一般化的な諸理由から必要とされるのである。

  ₅ .ローマ法0 0 0 0が決して妥当していなかった国々においても、それでもそれは学者の 研究の対象であるイギリスにおいても、そしてアメリカにおいても。それゆえに ローマの法的諸概念もローマの法的諸用語も二つの異なる法文化の間の相互理解のた めにひとつの適している手段であるそれは法の世界の一種のエスペラント語であ る。すでにそれだけの理由でドイツの法学はローマ法の取り扱いにおける熟練を保持 し、もしくは再建しなければならないのである。ローマ法はその適用において人本的 な形成であり、われわれは熟練した法律家であるばかりでなく、教養ある法律家であ ることを欲する。

  ₆ .ローマ法の純個人主義的な精神を、私法と公法との厳格な分離というものを、

われわれの法はますます超えて行かなければならないこと、これはもちろんである。

われわれの経済の再建は純私的経済の形式で成し遂げることができないのであり、そ れが経済および労働法においてすでに始められているように、「社会法0 0 0」の形態にお いてしか成し遂げられないのであり、言い換えれば、公法上の諸々の修正を広い範囲 にわたって私法に浸透させることである。

  ₇ .最も大きな荒廃をすべての法領域のなかで刑法が被った。それがわれわれにと って意味しているのは恣意に代えて法的安定性に、サディズムに代えて人道性に、威 嚇と応報に代えて改善と教育に賭けるということである―とはいえ、非人道性に代 えて弱者に賭けるのでないのであって、それというのもまさに教育者は、この時代で は慈悲深い心を持っていなければならないのであるが、しかしまた確固とした手をも もっていなければならないからである。

  ₈ .将来的な刑法0 0は民主主義的な類のものでしかあり得ないのであるということは、

どのような別段の説明をも必要としていない。これに対して下からの、その開始が共 同体からのものである民主政の構築が現在の状況のひとつの必然性であるばかりでな く、とくにドイツの伝統の稔り豊かな政治的理念に、フォン・シュタイン男爵によっ て計画され、プロイセン都市条例(1808年)をもって開始された憲法形式の思想に相 応しているということは、強調しておく必要がある。

  ₉ .最後にドイツの法学は、その主要目標が世界平和でなければならないような新 しい国際法0 0 0の成立に協働し、戦争を阻止するためのサンフランシスコ←の成果【81】

とニュールンベルク←の諸成果に協働することを欲している。そこではもはや諸国家 だけでなく、政治家たちを個人的に義務づけるような国際法、平和攪乱者個人に向け られるような国際法を創設することが必要である。

(455)

(18)

【80】Erneuerung des Recht, ハイデルベクる大学法学部の再開を契機にした部長の演説。In:

ReinNeckerZeitung (Heidelberg) vom 12, Janual 1946, auch in: GRGA Band. 3.

Rechtsphilosophie Ⅲ, Heidelberg 1990. S. 8082.

【81】(サンフランシスコ):1945年 ₆ 月25日から26日に50カ国によって国際連合憲章が議決され、

1945年10月24日に発効した。

【82】 (ニュールンベルク):いわゆるニュールンベルク訴訟0 0 0 0 0 0 0 0 0 0が1945先ず年から1950年まで連合軍の 国際軍事裁判所0 0 0 0 0 0 0で審理され、次いでアメリカ軍事裁判所で、いわゆるIMT. Statusを基盤に して戦争に対する犯罪が審理された。

(19)

同志社法学 61巻 ₁ 号 18

 法律上の不法と法律を超える法(1946年)

 「命令は命令だ」、「法律は法律だ」という二つの原則を手段としてナチズムはその 服従を、一方では兵士を、他方では法律家をがんじがらめにした。命令は命令だとい う原則は決して無制限には妥当しなかった。服従義務は、命令者の犯罪的な目的のた めの命令である場合には停止した(軍刑法第47条)。これに対して「法律は法律だ」

という原則はどのような制限も知らなかった。それは、過去数世紀にわたってほとん ど異論なくドイツの法律家を支配した実証主義的な法思考の表現であった。法律上の 不法は、それゆえに法律を超える法と同様にひとつの自己矛盾に陥っていた。この二 つの問題の前に実務は繰り返し立たされた。現に南ドイツ法曹新聞(SJZ S. 36)で はヴィスバーデン区裁判所のひとつの判定が公表され、論評された←のであるが、そ れによれば、「ユダヤ人の財産は国家に帰属すると言明した法律は自然法と矛盾して おり、すでにその公布の時点で無効になっている」。

 刑法の領域では同じ問題がとくにロシア軍の占領地区の内部における諸々の討議と 判定を通して投げかけられている。

  ₁ .ノルトハウゼンのチューリング陪審裁判所のある公判廷において、密告を通し て商人のゲッテッヒに有罪判決と処刑をもたらしていた司法省の役人プットファルケ ンが終身の懲役刑に処せられた。プットファルケンはゲッテッヒを、彼によってある 便所に残されていた「ヒトラーは大量謀殺者であり、戦争の責任を負っている」とい う書き込みの廉で告発した。有罪判決はこの書き込みだけでなく、「外国放送を聞い ていたこと」をも理由にして下された。チューリングの検事総長クシュニツキ博士

(Dr. Kuschnitzki)←の最終弁論は新聞(„Thüriger Volk“, Sonnengerg, 10. Mai 1946)

を通して詳細に再現されている。検事総長は先ず所為は違法であるかという問題を論 じる。「告発はナチズムの確信から許されていたと被告人が言明するならば、これは 法的に重要ではない。政治上の確信からであっても密告へのどのような法的義務も存 在していない。【83】ヒトラー時代においてもこのような法的義務は成り立っていな かった。決定的なのは、彼が司法の任務において行動していたということである。こ

(453)

(20)

のことは、司法が法を言い渡すことができるのかである。法律適合性0 0 0 0 0、正義を求める0 0 0 0 0 0 こと0 0、法的安定性および司法というものの諸要件0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。この三つの要件のすべてがヒトラ ー時代の刑事司法には欠けているのである。」

 「このような年々においてある者を密告する者は、被告人を真実の解明のための法 的な諸々の保障を伴なった合法的な裁判手続きにではなく、恣意に委ねられているこ とを顧慮していなければならなかったそしてこれを顧慮してもいた。」[105]

 「私はその限りで完全な範囲において、イエーナ大学の法学部長であり、教授であ るランゲ(Lange)博士がこの問題について報告したような法律鑑定に与する。現に 何者かが戦争の第 ₃ 年目に「ヒトラーは大量謀殺者であり、この戦争に責任を負って いる」と書いた紙切れの廉で責任が問われたならば、その場合ではこの男は生命を逃 れることができなかったことが正確に知られていたという第三帝国の事情は周知のも のであった。どのようにして0 0 0 0 0 0 0司法が法を曲げるのであろうかをプットファルケンのよ うな男は確かに見極めることができなかったのであるが、しかし彼は、司法がそれを やってのけてくれるであろうということ0 0 0 0 0に信頼を置くことができた。」

 「刑法第139条からは告発へのどのような法的義務も成り立っていない。確かにこの 規定において大逆罪というものの目論見について信ずべき知見を有していながら、こ れについて官憲に適時に告発することを怠った者には刑が科せられる。確かにゲッテ ィッヒは大逆罪の予備0 0 0 0 0 0の廉でカッセル上級地方裁判所によって死刑判決を受けている ことは確定しているのであるが、しかし法的な意味においては決して大逆罪の予備と いうものは現存していなかった。『ヒトラーは謀殺者であり、戦争に責任を負ってい る』という、ゲッティッヒよって勇気をもって告知された文章はどのみち純然たる真 実でしかなかった。それを流布して告知した者はライヒをもその安全をも脅かしてい ないのである。彼はライヒの腐敗を除去することに貢献し、そのようにしてライヒを 救出しようと試みたにすぎないのであり、これはすなわち大逆罪の反対物である。形 式法学的な思慮を通してこのように明白な構成要件的事実のどのような混濁も否認さ れなければならない。そのうえに、いわゆる総統およびライヒ首相がそもそもいつの 日にか合法的な国家元首であるとみなされ得るのか、彼はそこから大逆罪条項によっ て保護されたのかは疑問であり得る。それゆえに被告人は決してその告発に当たって その所為の法的な当てはめについて熟慮を巡らさなかったのであり、その認識の程度 からすれば巡らすことだけでもできるのである。彼は、彼がゲッティッヒを、【84】

彼が事実としてゲッテイッヒの所為をひとつの大逆罪の企てと見たがゆえに告発へと 義務づけられていると考えたことを理由に告発したことも決して明らかにしなかっ た。」

 検事総長は次いで、この所為は有責であったのかという問いに立ち向かう。

(21)

同志社法学 61巻 ₁ 号 20

 「プットファルケンは、彼がゲッティッヒを処刑台に送ろうとしたことを大筋にお いて認めている。これは刑法第211条にいう謀殺の故意である0 0 0 0 0 00 0 00 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。第三帝国の裁判所が ゲッテイッヒに死刑判決を下したことは、プットファルケンの正犯性にとって妨げに はならない。彼は間接的正犯者である0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。ライヒ裁判所の判例が展開してきた間接正犯 の概念がこれとは別の事実諸構成要件を、主として間接正犯者が意志のない、もしく は帰責能力のない道具を利用するようなそれらを念頭に置いていることは、確かに認 められなければならない。あるドイツの裁判所がある犯罪の道具であり得ることは、

以前では何人も考えついていなかった。しかしわれわれは今日いまやともかくもこの 種の事実構成要件に直面しているのである。そしてプットファルケン事件は唯一のも0 0 0 0 のにはならないであろう0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。裁判所が不法判決を言い渡したときに、それが形式的には0 0 0 0 0 適法に行為していたということは、間接正犯性にとって妨げにはならない。ちなみに、

その限りで成り立っているいくらかの疑念は1946年 ₂ 月 ₈ 日のチューリンゲンの補充 法を通して取り除かれている。この法律は刑法第47条第 ₁ 項Ⅱのなかで諸々の疑問を 除去するために次のような表現形式を与えた。『有責に可罰行為を自ら実行するか、

もしくは他の者を通して実行する者は、たとえこの他の者が適法に行為している場合 であっても、正犯として罰せられる。』遡及効を装備したこの新しい実体法は、問題 になっているのは、1871年以来効力を有している刑法のひとつの真正な解釈にすぎな いということを通して制定されているのである︵₁₃︶」。

 「私自身は、間接正犯におけえる謀殺というものの想定の賛否を慎重に考量したか らには、これに対する疑念は妨げにはなり得ない0 0という見解である。しかしわれわれ はともかくもこれを想定したうえで、われわれは、裁判所がこれとは別の見解に立ち 至ったであろう場合には、そこで何が問題になってくるのであろうかを考慮に入れな ければならないのである。間接正犯の構成が否認されるならば、ゲッテイッヒに死刑0 0 0 0 0 0 0 0 0 判決を言い渡した裁判官たちを謀殺者とみなすこと0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0を避けて通ることはできないであ ろう。その場合では被告人は謀殺への幇助0 0 0 0 0 0を遂行したことになり、【85】この視点か ら処罰されなければならないであろう。これには重大な疑念が妨げになるとされるな らば、1946年0 0 0 000月30日の連合軍管理委員会法第10号00 00 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 00 00←が残存しているのであり、その

(13) チューリンゲンの表現形式における刑法典のその版(Weimar 1946)のなかでリカルド・

ランゲ(Richard Lange)教授(S. 13)は次のように言う。「行為者がその犯罪目的を追及 するするために司法を濫用していた諸事例(訴訟詐欺、政治上の密告)における間接正犯の 概念については、多様な疑問が浮かび上がっている。46年 ₂ 月 ₈ 日の補充法Ⅱ等々はそれゆ えに、間接正犯は、被利用者がある職務上の義務を履行することにおいて、もしくは自らは 適法に行為していた場合であっても、処罰することができるということを明確にしたのであ る。」

(451)

参照

関連したドキュメント

ここから、われわれは、かなり重要な教訓を得ることができる。いろいろと細かな議論を

The Beurling-Bj ¨orck space S w , as defined in 2, consists of C ∞ functions such that the functions and their Fourier transform jointly with all their derivatives decay ultrarapidly

Villamayor, ‘Hypersurface singularities in positive characteristic.’ Advances in Mathematics 213 (2007) 687-733. ‘Elimination with apllications to singularities in

Kraaikamp [7] (see also [9]), was introduced to improve some dio- phantine approximation properties of the regular one-dimensional contin- ued fraction algorithm in the following

In Section 3 the extended Rapcs´ ak system with curvature condition is considered in the n-dimensional generic case, when the eigenvalues of the Jacobi curvature tensor Φ are

Our approach follows essentially the pattern introduced by Filippov [4] and developed by Frankowska [5], Tolstonogov [16], and Papageorgiou [13], however with the basic difference

Saturated chains in non-crossing partition posets... Poset of

In particular, we find that, asymptotically, the expected number of blocks of size t of a k-divisible non-crossing partition of nk elements chosen uniformly at random is (k+1)