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「論理的なもの」の把握 : 松原稿・ナンシー稿読解

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Academic year: 2021

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286 専修人文論集105号 と説くところからも了解できよう。 私はこれまでマルクス・ソシュール・ウィトゲンシュタインらの諸テキ ストを読み,そこにヘーゲル論理学において展開される「論理的なもの」 を見出した。本稿ではいささか趣を変え,文学に関する二つのテキストを 採り上げ,これまでと同様に,それらにヘーゲル論理学の「論理的なもの」 の展開を見出してみようと思う。 採り上げるのは次の二稿である。 松原朗『中国離別詩の成立』(研文出版,2003年)の第九論文「大暦 様式の超克―韋応物離別詩考」

Jean-Luc Nancy, La communauté désœuvrée, Christian Bourgois,1999 の第二部「中断された神話(Le Mythe interrompu)」および第三部「文 学のコミューン主義(Le communisme littéraire)」

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「それが諸学の経験の成果にまでなっている(es zum Resultat der Er-fahrung der Wissenschaften geworden ist)」というのだから,いま「成果」 である「論理的なもの」は「諸学の経験」において把握される。そして「論 理学はそのことから普遍的真理として自己を現わす」,ヘーゲルは続けて こうも説く。そうであれば,ヘーゲル論理学そのものの研究とそこに説か れる「論理的なもの」の「諸学の経験」における把握とは,いわば車の両 輪であると言えよう。

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288 専修人文論集105号 物の詩集には,約五〇〇の詩が収められており,そのうち送別詩は六 七首を占めている。この時期を代表する詩人たち,また特に大暦十才 子と呼ばれる詩人たちにおいて約三割が送別詩によって占められてい ることと対比すれば,その割合は,必ずしも多いものではない。従っ て少なくともその数においては,送別詩は,韋応物の文学の最も主要 な部分とは言えないだろう。しかし韋応物の送別詩は,この時代にお ける彼の文学の特殊な位置を知る上で,最たる関鍵の位置を含めるも のなのである。(p.293。なお「盛唐期」は「712―765」) (1)一節1パラグラフは次である。 <松> 1パラグラフ 韋応物の初期の送別詩は,少なくとも五言律詩型を取るものに限れ ば,大暦期の平均的な作品であるに留まっていたと言わなければなら ない。(p.294) これに対応する叙述は,『大論理学』の「絶対的理念」章17パラグラフ 第5文,ナンシー稿は「中断された神話」15節の2パラグラフ第2文であ る ――“La communauté désœuvrée”で「節」とは原書で「

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あった」(第1文)と始まる。ただしこの一文は初出稿(2) には存しない。 そこで第2文だが,対応する『大論理学』・「中断された神話」の叙述と ともに引く。 <松> 2パラグラフ 第2文 即ち,官場における儀礼的な送別の宴席において,そこに参加した 者は,自らの惜別の思いの満ちると否とに拘らず,官人としての社交 の必要から送別詩を制作する。(p.294) <大> 絶対的理念 17パラグラフ 第6文 前者[端初となるもの]が即 ! 自 ! 的 ! に ! あるところのもので後者[成果] はいまやまさに同じく向 ! 自 ! 的 ! に ! あり,普遍的なものは主観のなかで定 ! 立!さ!れ!て!いる。 <ナ> 「中断された神話」15節 2パラグラフ 第3文 したがって,或る型の創設・言明,そして文学と共同体の成就を不 可能ならしめただろう:つまるところ一つの政治を[不可能ならしめ ただろう]。Et par conséquent de rendre impossible un certain type de la fondation, de la profération et de l’accomplissement littéraire et communautaire : en définitive, une politique.

松原稿はここで「送別詩の制作」について説く。それゆえ「端初となる もの」も,その「送別詩の制作」において「端初となるもの」である。関 連する次の叙述を参照しよう。

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(3) <松> 2パラグラフ 第3文 儀礼的応酬の場で作られる送別の詩に求められたのは,送られる一 者のみを念頭に置いた私的な惜別の情ではなく,その宴会に集った多 くの者たちの関心を等しく取り結ぶもの,つまり修辞を逞しくした沿 路の叙景と,当たり障りのない被送者に対する儀礼的な激励の言辞で ある。(p.294) <大> 絶対的理念 17パラグラフ 第7文 三肢構造のはじめの二つの契機は抽 ! 象 ! 的 ! な ! ・真ならざる契機である が,まさにそのゆえにこれらの契機は弁証法的であって,この自分た ちの否定態によって自己を主観たらしめるのである。 <ナ> 「中断された神話」15節 3パラグラフ 第1文 述べる(そして才能あるいは権利を述べる)才能あるいは権利は, もはや同じ才能でも権利でもなく,たぶんもはや一つの才能でも一つ の権利でもない。Le don ou le droit de dire(et de dire les dons ou les droits)ne sont plus le même don ni le même droit, et ils ne sont peut -être plus ni un don, ni un droit.

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(4) <松> 2パラグラフ 第4文 送別詩のこうした定型化は,大暦の十才子において始まったのでは なく,盛唐期の台閣詩人王維において,すでに確立されたものであっ た。(p.294) <大> 絶対的理念 17パラグラフ 第8文 概念そのものは,さしあたりわ ! れ ! わ ! れ ! に ! と ! っ ! て ! ,即自的である普遍 的なもので!も!あれば,向自的である否定的なもので!も!あり,ま!た!第三 のそれ自体で自立的に存在するもの・[すなわち]推理のすべての諸 契機をつらぬいてすすむ普 ! 遍 ! 的 ! な ! も ! の ! でもある; <ナ> 「中断された神話」15節 3パラグラフ 第2文 神話的な正当性,神話がその朗唱者にそれ自体を授けていた正当性 は,もはや存しない。Il n’y a plus la légitimité mythique, celle que le mythe conférait lui-même à son récitant.

「三肢構造のはじめの二つの契機が自分たちの否定態によって自己を主 観たらしめる」(前文)ので「主観的概念としての概念」・すなわち「概念 そのもの(der Begriff selbst)」だが(4)

,これについて『大論理学』は次 を説く。 <参考> 概 ! 念 ! そ ! の ! も ! の !

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298 専修人文論集105号

書はむしろ,決して認められず・危険で・限界に曝された,正当な らざるものとして知られている。L’écriture se connaît plutôt pour illé-gitime, jamais autorisée, risquée, exposée à la limite.

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300 専修人文論集105号 そして「知られている」のは「結論命題」である。つまり「概念がそのな かで自分の否定態[決して認められず・危険で・限界に曝された,正当な らざるもの]を通じて自己自身と媒介されており,こうして向!自!的!に![各 時代に]普 ! 遍 ! 的 ! な ! も ! の ! かつまた自 ! 分 ! の ! 諸 ! 契 ! 機 ! [こう発音する・こう書く] の!同!一!的!な!も!の!として定立されている」,このことが「結論命題」(正書法) として「知られている」のである。かくして「roi,loi」は「飽くことな く量産されることになった」。 (6)次に松原稿3パラグラフだが,ここでも読みは一文ずつである。 <松> 3パラグラフ 第1文 宰相の元載や王縉(王維の弟),あるいは䨥馬の郭曖ら朝廷の貴顕 たちは,安史の乱の混乱からようやく回復された太平の時代を謳歌し 文飾するために,しきりに文宴を催した。(p.294。なお「安史の乱」 は「755―763」で大暦に先立つ) <大> 絶対的理念 18パラグラフ 第1文 さてこの成果は自己へと歩み入った・かつまた自己と同!一!的!な!全体 として直 ! 接 ! 態 ! という形式をふたたび自己に与えたのである。 <ナ> 「中断された神話」15節 3パラグラフ 第4文 しかしそれは何でもありのアナーキズムではない。Mais ce n’est pas un anarchisme complaisant.

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302 専修人文論集105号

Car c’est ainsi que l’écriture obéit à la loi ― de la communauté.

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作家の神話の中断は作家の消滅ではない。L’interruption du mythe de l’écrivain n’est pas la disparition de l’écrivain.

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304 専修人文論集105号 盛大な文宴においてのみ送別詩を作ったわけではない。(p.294) <大> 第3章絶対的理念 18パラグラフ 第4文 ちょっと見ると,成果のこの認識は成果の分析であり,そしてそれ だから,この成果がそれらを通じて成立したところの・そして[先に] 考察されたところの,あの諸規定とそれらの歩みを[成果そのものか ら]ふたたび分けなければならない,というようにも見えるかもしれ ない。 <ナ> 「中断された神話」15節 4パラグラフ 第2文 それはとりわけ,ブランショが表現したような「最後の作家の死」 ではない。Elle n’est surtout pas “la mort du dernier écrivain” telle que Blanchot l’a représentée.

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irré-ductiblement singulière(mortelle), il l’est en commun : aussi bien ne peut-on jamais être “une voix”(“une écriture”)qu’en commun.

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それゆえまた kranza 同様変遷をまぬかれえない ――「死すべき」――「対 象」だからである。そしてこうした「対象」が「新しい基礎をつくりなし, この新しい基礎のもとでも方法は先行する対象のもとでの方法と同じ方法 でありつづける」のだから,現代独語の共同体が Kränze を慣用するよう に,「作家[対象]は共!同!で!この声である」。「この声」はいわば「広汎な 規範性を持ち」,つまり「人は共 ! 同 ! で ! 『一つの声』(『一つの書』)であるに すぎない」。 (13) <松> 3パラグラフ 第7文 そして大暦文学の特徴として厳然として存在している「千篇一律」 の単調な印象は,正しく彼らが飽くことなく作り続けたその様式化し た送別詩において突出していたのである。(p.295) <大> 第3章絶対的理念 18パラグラフ 第8文 区別はただ基礎そのものの関係にだけかかわっている; <ナ> 「中断された神話」15節 4パラグラフ 第6文 個別性において,共同体の文学的な経験 ―― すなわち与えられ,ゲ ームされ,誓われ,供され,共有され,放棄された,書の,声の,言 の,「コミューン主義者的」な経験 ―― が生じる。Dans la singularité a lieu l’expérience littéraire de la communauté ― c’est-à-dire l’expéri-ence “communiste” de l’écriture, de la voix, de la parole donnée, jouée, jurée, offerte, partagée, abandonée.

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<ナ> 「中断された神話」15節 4パラグラフ 第7文

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314 専修人文論集105号

キアスムの形式にあるこの性質は,私がここで言,声,書,あるい は文学と名づけるものでしかない ―― そしてこの意味で文学は,この 性質とは別の窮極の本質をもたない。Cette propriété en forme de chi-asme n’appartient qu’à ce que je nomme ici parole, voix, écriture ou littérature ― et la littérature en ce sens n’a pas d’autre essence der-nière que cette propriété.

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316 専修人文論集105号 山水敬亭祠 山水には敬亭の祠あり 綱紀多閑日 綱紀(政務)には閑日多く 観游得賦詩 観游して詩を賦するを得ん しばらく 都門且盡酔 都門 且く酔ひを尽くせ あ 此別数年期 此の別れ 数年にしてまた期はん そして「この詩」が「一例」であることで,「大暦文学の特徴」は「導 出されたもの」であった。そうであれば,導出されたものは「この詩」に おいて把握される。換言して,「内容[大暦文学の特徴]はいまや導出さ れたものとして方法[この詩]に属している」。つまり,「[この詩を引く] ここではじめて認識の内 ! 容 ! そのものが[松原稿において]考察の範囲に入っ てくる」。

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(17)松原稿は5パラグラフに入る。 <松> 5パラグラフ 第1文 宣城郡の録事参軍事となって赴任する路某を送行するこの詩は,「大 暦様式」を体現した典型的な送別詩となっている。(p.295) <大> 第3章絶対的理念 19パラグラフ 第2文 方法そのものはこの[導出された内容という]契機によって自己を 拡大して体系になる。 <ナ> 「文学のコミューン主義」1節 1パラグラフ 第1文 中断された神話の共同体,すなわち,共同体を欠いているという意 味での共同体あるいはまた共同体を欠いているコミューン主義,これ がわれわれの行き先だ。La communauté du mythe interrompu, c’est-à -dire la communauté qui est en un sens sans communauté, ou bien le communisme sans communauté est notre destination.

「方法そのものがその[導出された内容という]契機を通して(durch) 自己を拡大して体

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われわれのもっとも固有の将来へとわれわれが呼びかけられあるい は追いやられている,そのことがすなわち共同体(あるいはコミュー ン主義)なのだ。C’est-à-dire qu’elle(ou il)est ce à quoi nous sommes appelés, ou envoyés, comme à notre avenir le plus propre.

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320 専修人文論集105号

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来(avenir;Zukunft):己れ自身への到来」。なお或るものはその「模範」 に「呼びかけられあるいは追いやられている」と言えよう ―― 。そして「わ れわれはわれわれのもっとも固有の将来である」はいま「空虚な同語反復」 であるのだから,「われわれのもっとも固有の将来へとわれわれが呼びか けられあるいは追いやられている,そのことがすなわち[無規定的な]共 同体(あるいはコミューン主義)なのだ」と言われる。 (19) <松> 5パラグラフ 第3文 すなわち詩の前半は,「沿路の叙景」である。(p.295) <大> 第3章絶対的理念 19パラグラフ 第4文 その限り方法は形式的にすぎない魂として現われたのであり,この 形式的な魂にとって・またこの形式的な魂によって端初はまったくひ たすらに自分の形!式!に関してのみ規定されていた,すなわち直接的な かつ普遍的なものとして[規定されていたのである]。 <ナ> 「文学のコミューン主義」1節 1パラグラフ 第3文 しかしそれは「一つの将来」ではない,期限に従い,また接近・熟 成・あるいは征服の道筋に従って,成就に向かっている最終的な実在 性ではない。Mais ce n’est pas “un avenir”, ce n’est pas une réalité fi-nale en instance d’accomplissement selon le délai et la direction d’une approche, d’une maturation ou d’une conquête.

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<大> 第3章絶対的理念 20パラグラフ 第2文 このことは,端初は成果の規定態に対してはそれ自身が規定された ものであるから,端初は直接的なものとしてとらえられるべきではな く,媒介され・かつ導出されたものとしてとらえられるべきであると いう,いまや規定された要求として表現されることができる,そして この[端初が導出されたものとしてとらえられるべきだという]こと は証明したり導出したりするにあたって背 ! 後 ! へ ! と ! 無限進行せよという 要求とみなされることができる。だがまた同様に,獲得されている新 しい端初からは方法の経過を通じて同じようにまた成果が現われ出る のであり,こうしてその結果前!方!へ!の!進行が同じように無限にころが りつづけてゆくのである。[原書は一文] <ナ> 「文学のコミューン主義」1節 2パラグラフ 第2文 共同体のない共同体とは次のことに他ならない:現出の限界に来る, その限界においてわれわれは実際そこへと召し出され呼びかけられ追 いやられている ―― またそこから召し出され呼びかけられ追いやられ ている。Elle n’est que cela : venir à la limite de la comparution, à cette limite où nous sommes en effet convoqués, appelés et envoyés ― et d’où nous sommes convoqués, appelés et envoyés.

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を改めて考えてみたい。 (1)「主観的判断において人びとは同!一!の!対象を二!重!に!見ようとする,すなわち一方で はそれの個別的な現実性において,他方ではそれの本質的な同一性・あるいはそれの 概念において。すなわち個別的なものがそれの普遍性へと高められる,あるいは同じ ことであるが,普遍的なものがそれの現実性へと個別化されるのである。」(『大論理 学』3p.88) (2)原題「韋応物送別詩考 ―― 大暦離別詩との差異化と五言古体詩型の活用」『専修大 学人文科学研究所年報』2000年 (3)このことの具体例に,「『平成』の終わりと『令和』の始まりが,改元政治ショー によって染め上げられたという事実」(白井聡「戦後民主主義と象徴天皇制の葬式」『週 刊金曜日』1230号)が挙げられる。 (4)「概念の実!在!性!一般は概!念!の!定!在!の!形!式!である;この形式の規定が問題である;こ の規定に,概念それ自体(der Begriff an sich)である・換言すれば主!観!的!概念とし ての概念であるところのものと,概念が客観性へと沈みこんでいるところのものと, さらにまた生命の理念のうちにあるところのものとの区別がもとづいている。」(『大 論理学』3p.286)

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332 専修人文論集105号

『中国離別詩の成立』のものである。)

Hegel, G.W.F., Das Sein, Felix Meiner.(寺沢恒信訳『大論理学』1 以文社) Hegel, G.W.F., Wissenschaft der Logik I , Suhrkamp.

Hegel, G.W.F., Wissenschaft der Logik II , Suhrkamp.(寺沢恒信訳『大論理学』2・3 以文社)

Nancy, J. -L., La communauté désœuvrée, Christian Bourgois. 松原明『中国離別詩の成立』(研文出版)

Saussure, F. de, Cours de linguistique générale, Payot.(小林英夫訳『一般言語学講義』 岩波書店)

参照

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