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山本八重子と会津の精神風土

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山本八重子と会津の精神風土

著者 野口 信一

雑誌名 同志社談叢

号 30

ページ 177‑192

発行年 2010‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013014

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山本八重子と会津の精神風土一七七 第三十六回Neesima Room企画展公開講演会「新島八重という人を語る」平成二十一年十二月十二日土曜日 於同志社大学至誠館二階二十一番教室

山本八重子と会津の精神風土

野   口   信   一

 皆さんこんにちは。本日は会津に生まれた新島八重、その会津の精神的な風土と、山本家を中心にお話申し上げたいと存じます。京都の方は会津などあまり意識することは無いと思いますが、会津から見ますと京都というのは、歴史的に非常に大きな意味を持っております。それは何と申しましても、幕末の会津藩京都守護職であります。幕末の動乱期、京都から遥かに離れた会津藩が、天皇や京都の町を守る、という役割を、半ば強制的に押し付けられました。今から一四七年前の一八六二年一二月会津藩主松平容保以下、約一〇〇〇名の藩士が京都にやって参りました。もちろん、これは望んだ訳ではありません。そもそも会津藩の本来の役割というのは、奥羽東北の抑えにありました。東北地方の入口にあたる会津で、外様の伊達や上杉、最上氏などが都に攻め入るのを防ぐという、防御の盾の役割でありました。一五九〇年の豊臣秀吉による蒲生氏郷の配置以来、徳川の世になってもその役割は変わりませんでした。

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山本八重子と会津の精神風土一七八

〔資料〕

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山本八重子と会津の精神風土一七九

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山本八重子と会津の精神風土一八〇

 最初に簡単に会津の歴史についてお話申し上げますが、四世紀前半、会津には巨大古墳が造られておりました。とくに昭和三九年会津若松市内の大塚山古墳から、権力の象徴である神獣鏡と太刀などが発掘され、古代東北の歴史を書き換えるという大発見に繋がりました。これは当時、未開の地と思われていた東北地方、その会津が大和朝廷と結ばれている証拠でありました。平安時代のはじめ八〇〇年頃には、磐梯山の山麓に奈良の僧徳一が来住し、仏教の普及を図り、比叡山の最澄と宗教論争を繰り広げました。現在もこの時代の仏像が、国宝をはじめ一二体も残され、仏都・仏の都会津と称されております。 その後、武士の時代に入り一一八九年、鎌倉の源頼朝が、奥州平泉の藤原氏を滅ぼし、会津は功績のあった佐原氏、のちの葦名氏が支配いたします。佐原・葦名時代は二〇代四〇〇年も続きました。しかし一五八九年葦名氏は、隣国米沢の伊達政宗により滅されてしまいます。政宗は会津を手始めとして、全国制覇を狙っておりましたが、一足早く豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げてしまいました。秀吉は自ら会津に足を運び、政宗を元の米沢に戻し、新たな会津領主に、伊勢松坂一二万石の蒲生氏郷を領主に選びました。氏郷は近江国日野の領主で、織田信長の娘をもらうほどの人物で、会津九二万石という大きな石高で大抜擢いたしました。氏郷は七層の天守閣を持つ城・鶴ヶ城を築き、黒川と称していた町を若松と変え、現在の会津若松の基盤を築きました。氏郷は千利休の子、少庵を会津に保護したことでも知られます。またキリシタン大名として、レオという洗礼名を持っております。氏郷にならいキリシタンになった家臣や領民も多く、磐梯山麓、猪苗代にはセミナリオも造られておりました。禁教後は南会津地方では隠れキリシタンとなり、マリア観音といった石仏も残されております。氏郷はわずか四〇歳で亡くなり、一三歳の子の秀行が跡を継ぎましたが、三年後会津という重要な地を、任せられないということで、秀吉は栃木・宇都宮一八万石に左遷してしま

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山本八重子と会津の精神風土一八一 いました。 次に会津領主に任命されたのが、今年のNHK大河ドラマ天地人の上杉景勝であります。景勝は越後高田九一万石から会津一二〇万石という、非常に大きな石高で会津入りを果たしております。 しかしご承知の通り、関ヶ原の戦いで、家康との直接対決はありませんでしたが、一二〇万石から三〇万石という石高で米沢に移されてしまいました。わずか三年八ヶ月でした。 これで天下は家康のものとなり、家康の娘婿である宇都宮一八万石の蒲生秀行が、六〇万石と言う石高で返り咲きを果たします。この頃まで会津は東北一の都市でありました。しかし秀行は三〇歳、跡を継いだ子の忠郷は二五歳という若さで亡くなってしまい、その後に四国・伊予松山二〇万石、加藤嘉明が所得倍増の、四〇万石という石高で会津領主となります。嘉明の跡を継いだ明成の時代に、お城の改築・拡張を行い、これが昭和四〇年に再建された鶴ヶ城の原形となっております。しかし明成も家老との対立が元で、領地を返上、わずか一万石という石高で石見国へ移されてしまいました。 ここまで葦名から加藤氏まで六家が会津領主を務めましたが、いずれも会津入りした際は、石高も大幅に増え、意気揚々とやって参りました。ところが会津を去るときは、すべて石高を大幅に減らされ、失意のうちに会津を去っております。それでは会津という所は、武将にとって縁起の悪い所か、というとそうではありません。奥羽の入口にあたる会津には、力も人望もある、選ばれた武将を置く必要がありました。それだけ会津という所が、地理的に重要であったという証明でもあります。 加藤氏の後に入ったのが初代会津藩主保科正之であります。正之は徳川家康の孫、二代将軍秀忠の子。秀忠の奥方お江の方は、再来年の大河ドラマの主人公ですが、浅井長政と信長の妹お市との子、淀君の妹でありま

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山本八重子と会津の精神風土一八二

す。正之はお江の子ではなく、側室の子として、江戸市中で密かに誕生いたしました。このお江の方に、正之の存在が知られると、命も危ないということで、誕生は極秘にされており、恐妻家の秀忠は正式の認知もしておりません。正之はその後、武田信玄の娘・見性院に匿われ養育されますが、七歳のとき、女の手では将来が心配されるということで、元武田の家臣で信州高遠城主保科正光に養育を依頼し、以後母子ともども高遠で生活いたします。その後、保科家を継いだ正之は、腹違いの兄三代将軍家光の知るところとなり、高遠三万石から、一挙山形二〇万石、そして一六四三年二三万石で会津に入っております。歴代の領主では一番石高が少ないようですが、二三万石でも全国二六〇くらいある藩の中で上から一九番目、東北では仙台伊達六二万石に次ぎ第二位の石高になります。正之は会津領主となりましたが、実は殆ど会津にはおりませんでした。家光に四代将軍家綱の後見役を託されたため、ずっと江戸で暮らし会津には三度しか戻ってきておりません。それでも会津領内のことは忘れることなく、数々の善政をおこなっております。その中には九〇歳以上の老人に対し、お米一人扶持を与えるということも行なっております。一人扶持とは年間で約二七〇キロになりますが、日本初の老齢年金制度といわれております。 正之は晩年、藩主や藩士に対して、会津藩の憲法ともいえる一五条からなる家訓・かきんを制定しております。その第一条ですが「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。もし二心を抱かば、即ち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」とあります。この第一条こそ会津藩の立場、あり方を明確に示したもので、のち戊辰戦争の悲劇の元になったものであります。ここでいう大君とは将軍、徳川家を指しております。つまり徳川家に忠勤、忠義を尽くせと言っております。普通、家訓というのは家の掟、教えですから自分の家を守れ、殿様・会津藩主に忠義を尽くせというのが常識です。ところが会津藩の家

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山本八重子と会津の精神風土一八三 訓は自分の家はさておき、本家である徳川家に忠義を尽くせというものです。しかも「列国の例を以って、自ら処るべからず」他の藩を見て判断するな、もし徳川家に逆らう藩主が出たら、それは私の子孫ではない。家臣の面々は決してそれに従ってはならない、とまで記されております。それほどまでに徳川家を大切にした家訓であります。これは正之は腹違いとは言え徳川直系ですし、四代将軍家綱の叔父として、幕政に参画し、将来も会津藩が幕府を支えていかなければならない、という気持ちから作られたものです。この他、「兄を敬い弟を愛すべし」「えこひいきはするな」「賄賂を行い、媚を求めてはいけない」「法を犯す者は許すな」など、現代に通じる項目も記されております。その最後には「もしその志を失い、おごり遊楽を好み、家臣や領民に対しその所を失ったなら、則ち何の面目あって封土を戴き、土地を領せんや。必ず辞職して蟄居すべし」とあります。この第一条を元として、九代藩主松平容保は、越前の松平春嶽や一ツ橋慶喜らに、執拗に攻められ、京都守護職を承諾するしか道は無かったのであります。この家訓は時代によって異なりますが、一月一一日の御用始、八月一日の八朔、一二月一八日御用納めの年三回、城中で家臣一同拝聴する慣わしとなっておりました。 もう一つ、会津藩と京都のかかわりを申し上げますと、会津藩は初代保科正之から松平容保まで九代二二五年続いております。三代目正容の時から、幕府の命により松平姓を名乗ります。 二代将軍秀忠の娘、正之の姉和子は後水尾天皇の中宮・お后になっております。従って天皇家とも親戚関係にありました。正之自身も一六五三年将軍名代として参内しております。以降、三代正容、四代容貞、五代容頌、七代容衆、八代容敬も将軍名代として参内、天顔を拝しております。 京都守護職時代の会津藩ですが、天皇にも将軍にも、誠の心で一途に尽くした訳ですが、最後、悲劇的な結

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山本八重子と会津の精神風土一八四

果に終わっております。これは今ほど申し上げました、正之の家訓もその元になっておりますが、幕末に至る会津藩の精神性が確立したのは、五代藩主容頌の時代と言えると思います。容頌が藩主に就任したのはわずか七歳ですが、この頃から藩の財政が厳しくなり始め、さらに天明の大飢饉が追撃ちをかけました。藩士らも泰平の時代が長く続き、腐敗、怠惰と危機的な状況に陥っておりました。慢性的な財政難に苦しむ会津藩は、場当たり的な対処で過ごしており、将来的な展望は見出せないでおりました。この時登場いたしましたのが家老田中玄宰であります。玄宰は正之の家訓の精神に基づき、軍事力の充実、教育の改革、人材の登用など、八大項目からなる改革案を、藩主に献策いたしました。反対する家老もおりましたが、改革案が藩主に認められ、ようやく実行に移されることになりました。 玄宰が最初に挙げた軍事力の充実ですが、これは会津藩にとって重大な意味を持っておりました。先ほども申し上げましたが、会津藩の役割は奥羽の抑え、防御の盾の役割にあります。ところが高遠以来の寄集め軍団である会津藩は、過去戦いの実績を持っておりません。これではいくら徳川家と親戚で、東北第二位の大藩といえども、戦闘実績のある上杉や伊達に対し、引け目を感じない訳には参りません。戦いの極意は戦わずして相手を屈服させるのが一番。そのためには普段から会津藩の強さ、軍備の充実を、他藩に認識させておく必要があります。そこで玄宰は従来の軍制である河陽流から、実戦向きで軍事調練を重視する、長沼流への改変を行ないました。長沼流と言いますのは、長沼澹斎が創始した兵法学ですが、一七八八年に会津藩が導入したときは、澹斎は亡くなっており、その弟子から教えを受けております。澹斎のお墓は伏見の栄春寺にありまして、会津藩では流祖である澹斎を敬い、一八一〇年に墓碑を建立し、命日には藩の道場で先師祭りも行っております。会津藩の軍事訓練は追鳥狩と申しまして、鳥や獣などを野原に放し、整列した侍が一斉に捕まえるという

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山本八重子と会津の精神風土一八五 演習からきております。このほか騎馬隊、弓隊、槍隊、鉄砲隊、大砲隊など、実戦さながらの大演習が行われました。この日は前の晩から野宿して、夜明けと共に演習が開始されますが、他藩からも見学に来るほどでした。 この成果もありまして今から二〇一年前の一八〇八年会津藩は蝦夷、樺太警備を命じられます。この頃ロシアは日本との交易を求めておりましたが、許可されずその腹いせに、日本の番屋や船を襲っておりました。その防衛のため一六〇〇名の藩士が、樺太、稚内、利尻島などに向いました。この時はロシアとの対決こそありませんでしたが、検視として参りました幕府の役人から、会津藩の軍事力、規律の厳しさ、警備の意識の高さなど、非常に高い評価を得ることになりました。 その二年後、一八一〇年からは、一〇年間に渡り江戸湾三浦半島警備、一八四七年にはその対岸房総半島警備、さらに一八五三年には江戸湾品川のお台場警備と、山国会津の侍は、日本の海の警備に邁進するのでありました。そして最後が一八六二年の京都守護職、この受諾が悲劇の幕開けとなりました。しかしこれは正之の家訓、徳川家を守るという会津藩の定めでもありました。 玄宰の改革にもどりますが、もう一つの重要な改革が教育の改革でありました。会津藩の藩校日新館は、日本三大藩校の一つともいわれております。それより前、三代藩主の時代、一六七四年に学校は造られておりましたが、この頃の侍はあまり勉強は好まず、振るいませんでした。 一七八八年玄宰の改革で、上級武士の学校を二校、中・下級藩士の学校も二校建て、合わせて四校体制が整い、藩士一〇歳から一八歳までの就学を義務付けました。ただ校舎は侍の家を改修したもので、学校としてはあまり効率の良いものではありませんでした。そこで玄宰は上級武士の学校を統合して、新たな学校の建設を

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山本八重子と会津の精神風土一八六

計画いたしました。それが日新館で、一八〇三年に完成いたしました。お城の西、約七二〇〇坪という面積に、資料の図のような施設・建物を設けました。 その特色ですが、普通この時代の学校といいますと、学問を学ぶ所ですが、日新館は文武両道、武道も学ぶ学校でした。常時千人以上が通う大規模校で、毎月一日が入学日でした。一〇歳で最初に入学するのが素読所、正面の門を潜り、戟門の右側に三礼塾、毛詩塾。左側に尚書塾と二経塾があり、それぞれ二組、計八組ありました。その組分けは、居住区域ごとのクラス編成になっておりました。日新館は儒学を基本とした学校ですので、教科書は中国の論語、孟子、中庸などを使用いたします。素読所は四等級になっており、いわゆる飛び級、成績の良い生徒はドンドン先に進めます。中には一四歳位で一等級卒業、という生徒もおりました。一二歳になりますと素読所の二階の書学寮で、書道の勉強が始まります。書道も、小笠原流の礼法と共に必修科目でした。素読所を卒業すると、成績優秀者はその上の学校、大学に進学します。下等、中等、上等の三学年で、授業内容は同じく儒学中心、文の解釈や研究、討論、漢詩の作文などになります。中等で優秀な生徒は留学の道が開けておりました。もちろん外国ではなく、江戸の昌平黌に参ります。 授業には選択科目もあり、神道、和学、天文学、医学、数学、雅楽などありました。ただし数学ですが、白虎隊士でのち東京・京都・九州の帝国大学総長を歴任した山川健次郎は、上級武士で「数学などやる者は武士の風上にも置けない」風であったと、のちに語っております。数学は上級武士の学問ではなく、中級以下の侍のものとされていました。また日本史や地理といった学科が、全く無かったのは欠陥であったとも述べております。日新館の西北角には天文台もあり、郭内の神社、諏訪神社から「会津暦」を毎年発行しておりました。初期の時代はまだ蘭学所はなく、一八五七年に創設されております。場所は西の方、広原にありました。

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山本八重子と会津の精神風土一八七  一方、武道の方ですが生徒たちは文と武、どちらを好んだかというと、当然武道の方でした。当時の風潮として「文事なきは恥とせず=学問のないのは恥としない。武事・武道の心得の無いことを恥とする」とされました。これは槍・刀をもって奉公する侍ですので当然です。武道は一四、五歳頃から始め、刀、槍、弓、馬術の四つが必修でした。日新館の授業だけでは上達しませんので、宅稽古と言って先生の自宅の稽古場にも通って習いました。武道の選択科目は砲術、柔術、居合、水練などがありました。日新館には鉄砲の練習場もありましたが、上級武士は飛び道具、いわゆる鉄砲や大砲などは卑怯な道具、足軽クラスの持ち物と思っておりましたので殆ど習いません。鉄砲隊を指揮しても、自分はそんな物は持てないという考えが染み付いております。先ほど長沼流のお話を申し上げましたが、会津藩では戦国以来の伝統的な戦法、戦いは広い野原で、正々堂々と戦うものと信じておりましたから、市街戦や鉄砲などは想定外でありました。選択科目の砲術ですが稲留流など一〇位の流派があり、日新館内の広原に角場という練習場がありました。各流派が日を定め修行しておりました。多くの上級武士が、覚馬のような先進的な考えを持つようになるのは、鉄砲や大砲のお蔭で、かろうじて勝った禁門の変以後になります。絵図の左に池が描かれております。これは水練水馬池と言って、日本最初のプールでした。また期間限定ではありましたが、日本最初の学校給食も行われました。 日新館での学校教育は一〇歳からですが、会津藩ではその年齢以前から、侍として、人としての教育を行っておりました。侍の子どもたちは六歳になると、必ず町内の子どもたちのグループ・什に入らなければなりません。什の集まりは毎日午後からで、当番の家に集まりお話と遊びが始まります。まずお話は全員正座の上、最年長者、といっても九歳の什長が心得、八条からなる什の掟を話します。一条ごとにお辞儀をし、最後に「ならぬことはならぬものです」で締めます。什のグループは城下の町内ごとにありましたが、掟は全てが共

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山本八重子と会津の精神風土一八八

通ではなく、多少の違いはあります。掟とありますように、これは押しつけではなく、各グループが自主的に定めた規律です。お話が終わると什長が誰か、これに違反した者がいないか質します。もし違反者がいれば罰が与えられます。軽いものは無念と言い、皆の前で「無念でありました」と言い頭を下げます。その上は手の甲にシッペイ、決して手加減はいたしません。一番重い罰は派ぎりという仲間はずれ、こうなると親が九歳の什長に詫びをいれませんと許してもらえません。このあと、外で夕方什長が解散を宣言するまで一緒に遊びます。こうして什の六歳から九歳のグループは、年長者への礼儀と尊敬、同年者との友情、これを自然に身につけさせます。武士としての日新館教育の前に、自然の遊びのうちに人の道、社会人としての基本を習います。この時代は家の身分、石高などは問題にされません、あくまで長幼、年齢の順で序列が決りました。上下一歳違いは呼捨て仲間と言い、互いに名前を呼捨てにしますが、二歳違いでは上であっても、下であっても「誰様」と敬称をつけます。 また幼児用に「幼年者心得の廉書」一七か条というのも作られました。これは日常生活の具体的な作法や心得を記したもので、武士の子どもとしての道を、朝起きてから夜寝るまで、日常生活の実践に基づき、痒いところに手の届くように、懇切丁寧に教えております。これを単に教えるだけでなく、実践することで、知らず知らずのうちに忠義、孝行、情け、敬い、信頼の道に達し、自覚して参ります。このうち侍にとって一番大切なものは忠義であります。侍は、自分自身はもちろん、家族を犠牲にしても殿様を守ることに命をかけておりました。 さて今まで申し上げました日新館というのはもちろん男の子の学校、男女共学ではありません。当時は「女に学問は要らぬ」という時代ですから、教育では先進的な会津藩でも、女子に対する教育制度というのはあり

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山本八重子と会津の精神風土一八九 ませんでした。学問こそ受けられませんでしたが武道、とくに薙刀は奨励され、女子による対抗試合なども行われました。では教育はどうしていたかというと、各家庭で祖父母や父母が教えたり、裕福な家では家庭教師を雇ったりしましたが、いずれそれほどの教育は受けられませんでした。ただその分、家庭教育、躾や立ち居振る舞い、侍の婦女子としての生き方、などを厳しく教え込まれました。明治元年の戊辰戦争では一ヶ月間、お城に立て籠もって戦いましたが、女性たちは臆することなく、並みの男以上に勇敢に、炊事や病人の看護、鉄砲の弾つくりなどにあたりました。 次に山本覚馬・八重子兄弟に話を移したいと思いますが、資料の二枚目会津若松城下の地図をご覧下さい。山本家の家はお城の西、米代四ノ丁という所に位置しております。その周り、やや楕円形状に廻っているのが、外堀と土塁であります。この内側が郭内と申しまして、武家屋敷街、上級武士の屋敷が建ち並んでおります。一般の民家は一軒もありません。郭内には上級武士の屋敷が約四百数十軒、一軒当りの敷地面積は四五〇坪から九〇〇坪、家老クラスとなると三〇〇〇坪を優に超えておりました。 会津図書館には一八三三年に成りました、会津藩の侍の系譜集「諸士系譜」が残っております。各家から提出された上級武士の系譜で、三六六巻一〇六五家分記載されています。山本覚馬家の系譜、「山本平左衛門系譜」も残っておりますが、記述自体は、覚馬の生まれる五年前、文政六年一八二三年で終わっております。従いまして覚馬の父、権八良高の途中までしか出ておりません。この系譜の題名の平左衛門というのは、覚馬の祖父の良久のことであります。資料の系図をご覧下さい。それを遡りますと初代が佐平良永で、最初元禄八年一六九五年二月金六両三人扶持を賜り、三代藩主松平正容の御用人支配、という役についたことが始まりです。この初代良永の父は道珍良次といいます。道珍という名が示すようにお茶、一五〇石取の茶道頭でありました。

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山本八重子と会津の精神風土一九〇

丹波亀山藩主、松平伊賀守の推薦で、保科正之に子どものうちから仕えることになります。道珍は会津藩の茶道、遠州流の祖となった人です。本国は近江国と記されております。この道珍・良次家が本家で、覚馬の家はその分家になります。 良次の次男が、覚馬家の祖、佐平良永になります。分家ですので石高が、最初六両三人扶持と非常に少ないのですが、家の格としては上級武士になります。最終的には二二石四人扶持までになっておりますが、お茶の道は本家だけで、良永は継いでおりません。五代目が平左衛門良久、馬術師範、馬術の先生であります。良久には男子がおりませんでしたので、三〇〇石の藩士三宅治兵衛の四男権八吉高を婿養子に迎えます。文化五年一八〇八年会津藩は、先ほどお話した、蝦夷樺太の警備を命じられますが、権八は実の父三宅治兵衛の介添として、利尻島に渡りロシアに対する警備を行っております。その後は火術・砲術の修行を命じられております。その子どもが覚馬と八重子になります。 母の名はさくと申しました。当時、山本家の西隣に水島弁次、のちの純という人が住んでおりました。水島は一八四四年生まれ、覚馬より一六歳年下、八重より一歳年長になります。戊辰戦争時は二四歳の働き盛り、戦後は軍人として陸軍の裁判官になっております。その水島が、大正五年発行の『会津会会報』第八号に「廣澤先生、山本先生に関する懐旧談」というのを載せております。広沢先生というのは広沢安任のことです。それによりますと、母のさくは非常に賢明な人で、会津藩の婦人の中でも先覚者であったと記しております。一例をあげますと、当時疱瘡が非常に流行っておりましたが、さくは積極的に近所の頑固者を説諭して、自宅で種痘を施したそうです。覚馬・八重兄弟が、先見性があったのも、この母によるものと思われます。 また山本家は来客の多い家で、これもさくの交際上手、もてなしが行届いていたからとも記しております。

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山本八重子と会津の精神風土一九一 覚馬は若い頃は武芸の達人でありました。侍というのは殿様を守る兵隊であります。そのため覚馬は、日新館においても文よりも武、学問よりも武道に力を傾けます。槍は大内流の名人、覚馬が稽古場で槍の稽古を始めますと、その掛け声で他の流派の生徒も見学に来るというくらいの腕前で、また馬術も達人でありました。祖父の平左衛門良久が、馬術の師範でしたので、その影響もあると思われます。その後、江戸に砲術修行に出ておりますが、水島は「先生は文学・学問には乏しき方でありました」とも語っております。元治元年一八六四年の禁門の変、蛤御門の戦いで、覚馬は大砲方頭取御雇勤の肩書きで兵隊を指揮して活躍いたします。戦後の論功行賞では「功作格別に付き」ということで、中等の褒賞、三人扶持の加増を得て一六人扶持になっております。父の権八も銀子一五枚を拝領しております。その後の戊辰・会津戦争で、権八は戦死いたしますが、この戦いで会津藩士らは三〇〇〇人以上が亡くなりましたが、自刃・自ら命を絶った婦女子も二三三名を数えております。八重子が銃を取って大活躍したのもこの時です。殿様の前で砲弾の構造なども説明しております。 敗戦・降伏後、藩主、藩士は東京と越後高田に、幽閉謹慎の身と成りましたが、明治二年一一月、生まれたばかりの容保の子、容大に家名相続が許されます。翌明治三年、本州の最果て、青森下北方面で三万石の斗南藩が成立し、一七〇〇〇人が移住いたします。実質七〇〇〇石といわれる不毛の大地での極貧生活、しかも翌四年七月には廃藩置県となり、藩士らは各地に散り散りになってしまいました。 本日は会津藩精神を生んだ背景と、山本家についてお話申し上げましたが、海もない、他国との交渉も少ない、会津という山国で、このような愚直ともいえる、精神性が純粋培養されて参りました。裏を返すと頑迷固陋、頑固で融通が利かないと言えますが、西軍・とくに薩摩のような、機を見て変節するという、器用な生き方とはまったく無縁でありました。その後、会津には朝敵・天皇に敵対したという汚名がずっと、ついて廻り

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山本八重子と会津の精神風土一九二

ましたが、それが晴れたのが、昭和三年九月、容保の孫娘節子と秩父宮様との結婚でした。その前、先祖への報告のため、会津に里帰りの際は、全会津から三万人もの人が集まり、これでようやく朝敵の汚名が晴れたと、三日三晩に渡り、盛大にお祝いが開かれました。婚礼の際は八重子も上京し、「ご慶事を聞きて」として詠んだのが、今回、展示しております和歌の短冊であります。当時八四歳でした。その時の肖像写真とともに、ご覧戴きたいと思います。時間となりました。以上で終わらせていただきます。

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