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日本佛教學協會年報 第14号 004大山公淳「我國に於ける排佛思想に就て」

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我図に於げる排悌思想に就て

,n... 時昌、

司、徳川時代の園事

支那事費勃護以来英霊の会葬問題乞中心として紳悌雨敦封立の観を基一し‘或は明治維新の際に於ける如き排悌運動 が再穫するに非るかとさへ杷憂さる L とと与もあった。或外園には一時我日本圏内に宗教戦争が勃護するかの如くに 偉へられたとのととで

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った。勿論五日人はそれを甚だ遺憾に考へた。謂ふまでもも仏く我園は古来神間と信ぜられ、そ の中に住む人々は所謂天孫民族を中心としたものであって、降伏した外閣の捕虜をも同じ人民︵オホミグカラ﹀とし て晴育し来ったものである。況んや我園の文運を向上せしめ圏諸の降昌に資するものであるたらぽ、何もの乞も厩ふ ととなく大謄に率直にそれを導入して掌中のものとし‘我文還の飛躍に資した。か E ふる圏内に於て少しでも我他彼此 の偏見左抱き、現に存在する有益にして且つ有力な一一蹴の思想宗教を排斥するといふ如きは全然許されたいととで、 それは返って自ら思想界を撹乱し人心を撞鳳するものと一再はなければならぬ。 然し一歩退いて考へるたらぽ、か a ふる思想は明治維新の曽初以来忽然として現れたものではなく、その淵源は古く 速いととを知るのであるが‘比較的に近い有力にして直接的なと忠はる L は徳川期に於ける圏構の勃興・としたくては

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ならぬ。閤皐の勃興は元和五年ハニご七九﹀九月五十九歳で卒した藤原憧語、その門人林羅山などを中心とする宋儒接、 殊に朱子園型、中江藤樹を中心として欝興した陽明墜の興隆た

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に 刺 激 さ れ た で あ ら う け れ ど 、 慶 長 四 年 本紀紳代容の勅板刊行されて後‘一克鵡十三年ハ二三六 O ﹀十二月七十歳で卒した水戸光国卿の大日本史編纂の業あり、 此蕗に我圏史が新に研究さる与とと L なり、翌元繰十四年正月六十三歳で寂した借契沖阿闇梨によって我古典研究の 端が開かれるとと aふたった。契沖阿闇梨の如をは光国卿に依積されて有名注高葉代匠記乞撰

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.白金三千爾・絹三千 匹を下されたけれ

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.それをすべて私のものとせ夕、章く貧窮者に分興したとのととである。その徳その感化力の大 き さ も 察 せ ら れ る 。 , 次 い で は 元 文 元 年 ハ ニ 三 九 六 υ 七月喜六十八歳で捜した荷回春輔、明和六年ハ二四二九﹀十月七十三歳 で浸した賀茂虞淵あり、更に享和元年ハニ四六一 υ 九月七十二歳で卒した本居宜長、その門人にして天保十四年ハ一一五 =一︶九月夜した平田篤胤あり、復別に尾強名古屋東照宮の嗣官で費暦十一年ハ二四一一一﹀八十九歳で卒した吉見幸和あ り。その中春滞日下の四人は殊に著明であって、その門下には圏整の英才が幾多輩出した。それらが百接間接に明治 維新の大業に影響したととは察するに難から泊、排悌思想も亦その中に癌壊された。 円 f M 平田篤胤翁はその名著古道大意の中に‘賀茂員淵翁の立場に就いて一荷回東肺呂翁の上を今一段上つでも仏ほ深く考 へ、始めて古の遣を明に得んとするには漢意備意佐清く捨てはてねば員の鹿は得がたい﹂と述べてゐるが、宣長・篤 胤の悶翁の立場は全く此の外にたかった?と考へられる。復宣長翁に就いて同警には﹁拙者どもが師と仰ぐ本居先生﹂ ・ と し て 、 回︵始めは漢の皐聞を深く園事ばれ、それより御園の皐びに移り、牒居大人︵賀茂異淵翁︶に従って英大志を受け櫨が れ、皐聞の謹に於ては古より類たき大功を立てられ 4 ・ と推賛してゐる。そして自身の墜風の由って来る所を説いて﹁水戸中納言光闇卿大きに興起あらせられた﹂としてゐ

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る。それらの皐風は自ら排悌思想にあったととは明瞭としなくてはならね。弘化三年ハ二五 O 六 υ 十月七十四歳で卒し た伴信亥も亦備教を排斥した。その著八幡考の中には﹁いかに僻道左好み給へばとて、やごとなき大紳を菩躍として も唱へ給へるはいかにぞや﹂と慨してゐる。かくて上記の人えは皆悌教を排斥した紳謹若くは閤事者であるが、特に 民淵翁が囲意考に﹁古の道﹂を説いて以来、その影響は強大で、宜長・篤胤等は古典の研究を通して極力その古道の 何ものたるかを列明せしめゃうと努力した。 R J 千田翁は古誼大意上傘に吉道を説いて﹁此の方の説く古誼の趣きは謂ゆる天下の大道で則人の遣である。故に質に は此の大御闘の人たる者は接ぽ d y ともその大意ぐらいは心得居るべき筈である﹂とし、復﹁此の方の事風を古事とい ひョ撃ぷ遣を古道と申す故は、古へ儒備の遣いまだ御園へ渡り衆らぎる以前の純粋なる古の意と古の言とをもうて、 天地の初めよりの事賓をすゑほに設き考へ、その事賓の上に民の道の兵ってあるととを明むる磨間である﹂といふ。 本居翁は匿昆霊に きたたきからぷみ心を披ひきょめて清々しき御園心もて古典どもをよく事びてよ、然せぽ受け行ふべき謹・なきとと は‘訟のづから知りてむ。其をしるぞすたはち紳の道左受け行ふにはありける といひ、玉かつま程一 ﹁もるとしぶみを謹むべき事﹂の僚には 皇園だましひだに強くして動かざれば夜重からぷみを見ても心は建ふととたし と詑く。その中には明に排備的の思潮を離してゐるが、翁は丹後松尾寺の畢借等忠一師ハニ四 O 五

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二 四 七 六 υ に就いて受 戒し、復党字悉曇韻鏡・などを接んだ程で、卒田翁ほど極端に排悌思想左抱かたかったらしい。けれ H と儒備の垢を除を 去った所に虞の古道が顕現すると考へたととは共通である。縫って我園古遣の潟めに悌殺を排斥した千田翁の俗紳道 大意四巻、出定笑語三位也、同附録三巻、同原本一巻たどは上記の如き立場で悌教を様 K に悪評したもので‘その中に

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は随分の妄断や濁断が讃まれる。 f J 然らぽ一紳遣とは何ぞ。本居宜長翁は﹁天照大御神の受けたまびたもちたまひ偉へ賜ふ遣なり﹂とし、 祭りたまふととをさして一足へるたり。さて難波の長柄の宮の御念に惟一脚とは紳遣に隠って亦自ら紳選有るを謂ふなり とあり‘まさしく皇圏の道を贋くさして一民へる始め訟りける﹂といふ。とれは書杷の第二十五袋、孝徳天皇大化三年 ハ 一 = 一 O 七 ﹀ 四 月 の 詔 の 中 に 一 不 さ る 士 宮 口 調 を 述 べ た の で る る が ‘ 卒 田 篤 胤 翁 は 一 脚 謹 玄 妙 論 に ﹁ 師 一 匹 ﹂ と

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遣に随ふとは天の下治め賜ふ御わざは‘たど一紳代より有り燕しまにまに物し賜ひて少かもさがしらを加へ給ふと となきをいふ と停ふ。此の﹁師云﹂はやはり本居翁の設と思はる L が、とに角天照大紳以来皇国に於ける政事そのものの寅際が紳 誼に外・ならぬとしてゐる。直昆彊には復 異閣は本より主の定まれるが−怠ければたど人もたちまち王に及、り、王もたちまちたど人にもたり亡びうせもする古 よりの風俗たりハ中略︶掛まくも可長きか吾天皇隼はしも然るいやしき園々の王”ともと等したみには坐まさヂ 縫 っ て 天地のあるきはみ月日の照らす限りは幾高代乞艇でも動き坐さぬ大君に坐せり。故に古語にも静岡代の天皇をしも紳 と申して質に紳にし坐せぽ普き揺を御上の論ひを拾て L 、ひたぶるに畏み敬ひ奉仕ぞまととの謹には有りける として我間盟の等巌、長園の民義を間明してゐる。か a A る古遣に劃する意識は非常に傘いけれ

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.その排悌的所論の 中には大いに研究し批判左嬰すペをものが感ぜられて念に賛成し得られぬ。 賀茂同県淵翁は前越の如︿古道を稿遣した先畳者であるが.本居・千田爾翁程排他的でゑかった。園意考に 或人は備のととをわろしといへ

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.人の心の去るかに k b J 行くたれば︵中略﹀大たるわぎはひ位特らぬ注

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といふてゐるととによっても察せら HOL であらう。然し たど唐闘は心わろき園・なれば深く教てしも︾もてはよき様にて絡に大たるわるどとして世をみだせり として警めてゐる。その底には猶幾分の排悌思想を蔵してゐたとしなくてはたらぬ。中一口見幸和は五部書設需を著はし て所謂紳道五部書に封し鋭い批判を加へ雨部習合説を極力排斥したととは有名である。 林羅山翁はその著紳世考序に 本朝は紳闘である。紳武帝天に憎いで極を建てまふてより巴来相棲相承して皇緒結え守王道惟に弘まる。是れ我天 紳の授くる所の誼にて‘中世寝︿徴にして悌氏際に乗じ‘伎の西天の訟を移して吾東域の俗を嬰歩。王道既に衰へ 紳 遺 漸 く 慶 る 。 と慨し、同書本文程こには 偉教・同弘法・慈覧・智置は‘我閣の紳閣にして人多く蹄敬するを見て、還に揚言して語、伊勢は大目、日吉は騨迦 と、我神明左遣はして伎の日本を化す とて中古以来の本地垂建設の一端を駁し、更に 南部習合といふを見るに‘彼れ潜に我嘗事記・古事記・日本記の言を矯んで備を飾り紳を剥ぐ ロ U とも論じてゐる。一や田篤胤翁はとれらの所論を﹁凡て 4んもゑる読﹂として信用してゐるが、吾人としてはやはり正し い史寅の上の所論とは考へられぬ。羅山はか︿悌歌乞排してその代りに儒教を置き換えた。 山崎間需品調の垂加翁神話に依れぽ﹁漢の明帝は備を夢に見て中閣にむかへ入れ紳園にまで毒を流せり﹂といび. ﹁働者は大日霊の名によりて大日を引き合はす。走れ皆謹言の刑 b L犯し正直の設にたがふ莫太の曲事なり﹂と評して 極力俳散を排斥した。伊勢大一脚宮儀式帳雨轄の害に序して﹁胡僻入来して紳誼愈々底れ玉誼愈 K 弛む﹂といふも、史

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賓を考へや殊に伊勢の紳道五部書・などを信用してゐるので、今それを評する艶象としかねる。 以上の如き諸家左中心として動いた思想の流れは随分大きく、種々の場合にとれら諸家の流れを受けて出た排備の 思想を見る。今その全貌乞究め童すの飴容がたいので詳述は略するが、徳川期に於ける園壌を中心とした排悌思想の 大概はかくの如きであらうと信やる。それらに就いての予の所見は後に論述するととにしたい。 ︹ 註 ︺ 1 + n 澄大意卒回篤胤全集七・一六 2 同 会 集 七 ・ 一 七 3 問 セ − 一 八 4 同 七 占 ノ 、 5 悶

6 窓 毘 震 7 卒国篤胤全集七・九七 8 岡 七 − 一 回 O

以上簡単ではあったが徳川期に於ける園襲左中心とした排悌思想を概見した。然らぽその思想は徳川期に限って現 れたかといふに就いて、己下少しくそれらの事情を考へて見たい。 先づ平田翁の俗紳遺大意審こに 窓海が外宮を抱き入れ備書を作って其根を堅め、まづ紳宮には古くより備法を御忌みなさる主役もって働法︵法字

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桁カ︶を立須久閣とい弘、働経を染紙といび、併を繋長といひ堂を古里多幾︵コリグキ﹀と一五などの口惜しさに、 業説を作って大御紳内には働法を守り給へ

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も、世のはじめ魔王に三貴は近づけまいと御約しなされたに主って、 外には御忌なさる与ととぞ といひ、復 欝には凡て紳官に於いては一字の上にも思一言があって塔を阿良々岐といび、悌経を染紙、悌を中子といひ、債を髪 長といひ、尼

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女髪長といふ類、また朝廷及び諸の紳事に禁門に入る左許さ歩、大宮には僧尼の拝所と一再て別に有 h v .また禁秘御抄にも僧尼より奉りたる物は奉ち・?と御記しあそぼしたるなどは皆人の知りたる通りのとと と錨ぷ。その所論中特に室海が外宮を抱き入れて備書を作ったといふ如きは平田翁の濁断に過をないが、但此慮に各 種の忌語、なるものを出してゐる。思語は忌調とも書き、そは四億語ともいふべく・そのととを表面的に現はさ‘ないで代 用語をもって呼ぶをいふ。それに就いても今の篤胤翁の所論は甚しく紳僻を封立せしめ、排備的の立場乞表はしてゐ る 。 然らぽその忌詞は先づ何時代の頃より用弘らる L に至ったか。とれは可成りに古くから行はれてゐた語であって、 各種の書物にとれを見るも、その根本は恐らく延暦廿三年三四六四﹀八月の記に成る皇太神宮儀式慢であらう。該儀 式帳には﹁亦種 k の事忌定め給ふ﹂として

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打を奈津 鳴を臨茸 血を阿世 宍︵完︶を多策 経乞志目加繭 備を仲子 塔を阿良 K 蚊 法師を襲長

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優婆塞を角波須 商 品 誌 を 片 食 寺を瓦茸 死を奈保利物 基を土村 かくの如く一切の物の名に思道定め給ふ。 病を慰 としてゐる。然し此庭で政雑然と並列されたみであるが、延喜式の第五賢官寮式になると此の思器犯内の七言外の七 言あるととを明にした。 内の七言とは 怖を中子︵グチコハ

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︶ 経佐染紙 寺友瓦茸 塔を阿良え肢 帰 旧 を 髪 長 尼を女髪長 賢を片膳 外の七言とは 死を奈保留 病を夜須顕 突を臨垂 打を撫 血を阿世 宍を菌ハクサヒラ﹀ 基 を 壊 ︵ 内 ノ チ ク

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︶ 又別の忌詞あり 堂を香燃︵コ

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グ キ ﹀ 同 盟 婆 塞 を 角 筈

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み︸捕す。同畳間第六情院式、第七践神大挙祭式には今の外の七一宮のみを出し、文字が少々異うてゐるけれ

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頭み方は岡 巴い。副 死を直ハナヲル︶ 病を息ハヤスム﹀ 血を汗 と記す如きである。所調内の七言とは悌較に劃する語でるって、外の七一一貫とは悌教以外のととに用ふる語である。各 K 七言を分ち別に香燃・角筈たどの語を加ふ。とれを前の延暦儀式帳に比するに宍と墓の名稽が建ってゐる。且つ前 の延暦儀式帳では単に紳前に於ける恩調として衰はされたるに、延喜式ではそれに内外を分ち、更に同第七鶴一昨大番 祭式には 設 粛 三 七 割 畑 一 主 ︵ 樺 同 月 一 は 預 め 諸 司 に 告 げ 及 び 符 を 畿 内 に 下 し 備 費 清 食 を 得 十 として、排悌的た思潮を示してゐる。思語は猶とれだけでは・なかった。外言に麗するが本居宜長の玉かつま第一に年 4 の始めに病を歌梁といふ事の僚には、﹁承元二年ハ一八六八﹀正月十一日将軍家の御蔵壊によって延て今日に及ぶとあ り、今の世にも年の始めには病といふととを思みて御蔵襲といふたらはし建ってゐる﹂と偉へ、弘安六年三九四一一一﹀ に書き畢った無住法師の沙石集第一には﹁犬神宮の御事﹂の僚に 首位に物を忌み給ふとと飴祉にすとしかはりて侍る。産屋をぽ生白剤と申し五十日忌む。叉死せるも死無とて同巴︿ 五十日思み給ふ と記す。産事死事に際し宮参りを五十日遠慮するといふととは此の時代よりのととかも知れぬ。 塵添撞襲紗第十五には伎の内外の七言を出して弐に左の如き興味ある話を出してゐる。邸 前町長七年二九一五﹀多の比、外宮の主主すにて千部の経を謹むべき由を申したるに、紳官共支へけるに、五の繭宜

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惟房神主が夢に一首の歌を聞いた。 ﹁ 染 紙 b E ちLに手向る聾聞けばいかにうれしと紳もう︿らん﹂と、依って千部 を許し法華躍を讃ました F り と。弘安九年ハ一九四六︶の記友る遁海の太神宮参詣記下容の記事に依れぽ‘とれは建長七年十月のととであって、法 華経千部を五日間に轄讃し奉納する諜定であったのに、今の如き紳託があって繭宜撞も骨信心を穫し、七ケ日に延ば して轄諒したとあり、叉此の世喜寺︵今の世義寺に作る︶は外宮の近くにあったのでとれを他庭へ移さうとした所が 忽に審立ち鐘めて仕事が出来たく伝ったも仏

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様えの説話を偉へてゐる。更に同書には思詞は粛宮のみでなく熊野詣で の精進屋にもあり、其の数は内外の七言のみではたく、借をぽソ

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といひ、米をハラといふ如きとれであるとして、 勺r 此 事 を 守 る と 一 足 と も ︵ イ 、 其 躍 注 息 む に 非 や ノ 借 を そ し る と 一 耳 へ P ﹂も︶構現は借を忌ませ給はや 左越ペてゐる。ソ

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とは借の剃髪を意味し‘ハラは米をバラバラにする副散米にするとと左指したと考へられる。復 同書には六種の禁を説く。 町駅一禁喪主巾、疾を問、刑殺を列、罪人を決罰、替業を・なすとと 第二禁苑ヲ奈保ル、病ヲ夜須美、突ヲ撞垂、血ノ赤キハ汗、宍ヲ菌 語業には此の五を出す。七言に及ぼぬ︿中略︶悌も大嘗舎の大紳事に名を讃みかふるととたし 喪産に預り雑音の死産にふる L とと、喪は思三十日、宍を食するは月を限る。産井に畜生死せば七日、産 第三禁 は三日浦つるを限って後に蹴ひ清めて参る 第四の禁には積悪のととたし 蹄依の別心を誠しむ。 第五禁 締結を不可行とて備を瞳し経堂讃む事左ぽ制し侍るとも、借を忌み尼を禁ぜよとは侍らや J 。況や紳供の法味に於

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て を や . 第六禁哀を事げ井に葬を改むるとと 査しとれはその順序のま L に眼耳鼻古身意といふ六識の禁を意味す。町六識の妄執を止めて一心に褐仰を揮さん詩 めである。かく忌詞は時代と共に増加されたととを知る。伸教の内に於ても紳前新穏には四の字、シは死に通守るか らとてとれ左ヨンと讃み、地獄をチキヨク‘卒観婆をソロパム︶霞むなどのととが惇へられてゐる。皆同類とすべきで あらう。要するにとれらは稜苦から表はる L 聯想を中止して専ら精紳を統一し祈念を探らずの外はない。同じ逼海の 参詣記下容には 討と申す事も其物写をたたしと云には非や。清きを思むと名付けて清き詞を思み詞ーと申す︵中略︶由貴の御膳をぽ 費忌と書き‘時体き火を忌火と申し、地神祭の清鋤を忌鋤と申す如し と説く。或はか L る清静の詩めの意味をもって忌詞左使用したかも知れゑい。 上越の如き忌調に就いて滑川期に於ける真言宗の傑出した紳誼家慈雲害者の門下天如師がその神道大意の中に﹁七 種の忌詞甚だ拙﹂と評

L

.﹁中にも借を繋長といふとと殊に野俗である、偲令雅詞左以てずとも詞そ息むといふとと 其大韓雅訓に非歩、且つ死を直ると稿しでも心には死の解了無き能は守、死の解了あれば心はけがる﹂と論巴た。徳 川末期高野山の事借輝揮の紳道見開銀には 近来麿濫の紳道者が此思調をもって紳明は悌法を厭ひ玉ふといふ。とれその所由を知らたい者が誤りて評するの み。党国の異風は醸語をもって唱へ、民生の不鮮は忌詞乞もって諸人唯一の榊徳を稿する。そは且く構讃し傘敬す るの一端にして、億ぽれ敬はるも A 紳明の預り知る所でない と論じてゐる。けれどその忌詞そ設けた意味は前述の如く、詞より聾する聯想左止めて専ら精進潔消せん鵠めであう

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たと考へられる。怨しとれを利用するものから一式へぽ排悌の詩めであった。 それでは如何たる保件のもとにかムる語が成立するに至ったか。とれに就いては誰人も論究してゐない。怠ふに伶 侶は印度以来の風として出家し得度剃髪する。それは我園風から見れば異様であったに建ひゑい。停来された悌像を 考ふるに嘗初のものは皆大陸風であって園風に合しない。経巻は朝夜を通じてしをりに罵経されたが.その用紙は皆 色のづいた麻紙の類である。建てらる L 寺には瓦がしきりに使用される。塔は全然異った建築様式で、所謂植物のア ララギを想像せしめたかも知れぬ。かゃうた備較調自の風格が自然に時の人 K の批評の封象とたり、内の七一百といふ ゃうたものが唱へらる L に至。たのであらう。それが紳前にての特殊語として使用されたその字国には、古風を愈霊 するといふ各宗教共通の感情、特に我固に就いて一目へぽ所謂天孫民族としての紳園意識の撞頭があったと考へらる。 聞神前で奮儀左執行する場合には後より入り来った悌較的のものを除くの風が馴致され、止むを得守して用ひ怠けれ ばたらぬ時は封蹴的危醸語若くはそれに聯関した代用語を用ふる。とのととは寧ろ自然の勢であったと考へられる。 ︹ 註 ︼ −卒国篤醐励金集七・一五六 2 同 書 一 五 九 3 群書類従一・認済雑誌枇本一・四 4 本 勝 室 長 会 集 八 ・ 一 一 一 二 6 品 抑 歎 金 書 本 三 六 五 一 員 綾群書類従完成合本=一下・七九七下 5 7 同 書 七 九 O 8 同 養 士 九

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9 河 書 七 九 10 慈 雲 仲 持 者 全 集 一 0 ・九七八

平田篤胤翁の俗紳道大意谷二には神吋予備法左嫌ふととを説明して筏に﹁伊勢の大御紳にさ t A ぐる宣命などには決し て悌臭きととや抹香臭きととは御忌み﹂なさる L 朝廷の御定めじゃ﹂といび、出定突語附録倉一には 1 4 八御紳の御前借 尼剃髪の者を御忌みなされて御五聞から拝するととを御脅しなされや.御鳥居の前に御制札が立ってゐる。其文に借 尼山伏法曜の輩とれより参入するを得示。ので脳同裁如件﹂︵原漢文︶と、また﹁念謀総じて悌兵を持し異形にてとれより 内へ参入致す間敷きものたりともある﹂と記す。蓋しとのととは此時代に始められた禁制ではなく康永一冗年ハ一一 コ J 十月太神宮へ参詣した坂土悌︵或は十仰︶の記と侍へらる L 太神宮参詣記には﹁出家の置は五百枝の杉と申す霊木の もとまで詣で L 宮の中へは参らや。是れ叉禁裏の趨儀である﹂といび.元亨樺書昌也十八には本書の著者師錬が参詣し た時のとと乞記して 漸く段前に進む。一現可して目、比の紳沙門を愛せや近づく−なかれとて一大樹下に遮止す と 述 ペ 、 復 天 一 や 十 コ 一 年 ハ 一 四

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行基法師日伊東大寺創立に際し聖武天皇の勅を受けて参詣した時﹁内宮甫門大杉の下 に於て七日を期し持念して上旨を告ぐ﹂と記した。とのととは庫添嘩嚢紗者四、本朝神社考容一等各種の本に輔載さ れてゐる所である。温海の参詣記には 抑も官官に悌法乞忌せ給とて加様にこの鳥居の内迄参り侍れども・中院の一珊拝を許されやノ、此の謹にて法施を奉れ ほ事も相隔り念も及ぽざる心地し侍・り

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と も 出 す 。 4 かくの如き神宮神前に悌法を嫌ふととは随分古くから見られる。積日本紀倉一に依れぽ文武天皇の二年ハ二一一五八 十二月廿九日伊勢閤多気郡に在る多祭神宮寺を度合郡に、謹したととがある。それは紳の崇りあるが詩めといふととに なってゐる。同じ害容三十六光仁天皇賢誼十一年ハ一四四 O U 二月の僚には 5 紳祇官言す。伊勢大紳宮寺先に崇りあるが箆に他所へ謹し立つ。然るに今紳郡に近く其山宗り未だ止ま歩、飯野郡を 除くの外使地へ移し遺るととを許す 弐に類築関史第十九神祇部十九には﹁ぽ峨天皇弘仁七年ハ一四七六 U 六月廿二日伊勢太神宮司従七位下犬中臣朝臣清 持に犯積あり.井に備事を行や。紳祇官之を卜するに崇

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あり大戒を科す﹂とあり。安政元年ハ二五一四﹀八十七歳で 捜した蘭藤彦麿が誌したと停へらる L 神道問答上巻には貞翻儀式に忌むべきとと六傑あり中に備法を行守るとととい ワ f ふのを出してゐる。本居翁の玉かつま巻七伊勢の大御紳伸乞きらび玉ふ事の僚には﹁基記に天養二年︵一八 七日左馬槽守額定来って一五、左大将︵推定︶伊勢の勅使にて精進の間︵中略﹀悌経等家の中に置かや。然るに中院︵額 定の家︶の寝殿に国有り、その煙屋上に見え隣呈驚く、驚いて天井を放ち見るに棺像の伸五時色旗等有り、件のもの を門外に出して後煙散じ墨きぬ﹂といふ話を停へ、平田篤胤翁の俗紳道大意巻こには此の額定の話に併せて‘一二保内 大臣賞房公、高倉天皇の治承元年ハ一八三七︶に勅使を勤められた時の自記として 8 ﹁十五日夜夢に信そ見る。驚いて捜 し求めた所出居︵イデイ︶の廊の長押︵ナグシ﹀の上に揚柳観音一慢を見出して取り去りぬ。敬紳の至り隼ん・チるを もって先となす﹂と.復長寛二年三八二四︶の記とさる L 長寛勘文には q J 伊勢の神宮は諸紳中の最賓館段無こにして私の幣

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禁断し悌事を忌み障かる 門 U とも閉す。康暦二年ハ二 O 四 O ﹀外宮題官記には﹁ J ∼寸日長長迄内院並に高官へ推参.末代の式無力の弐第である﹂とて

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僧侶が内院へ参拝したととを深く慨いてゐる。か t A る類の記録は猶その他にも存するであらう。 然らげ何故に神世殊に伊勢神宮に於いて備法を忌むか。とれに就いて沙石集第一大紳宮御事の僚には去る弘長年中 大紳宮へ詣で侍わしに或一紳官の語るに﹁首祉に三賓の御名を忌み御殿近くへは借なんども詣でぬ事は、止日此闘が未だ 無かった時大海の底に大日の印文あり、太一脚宮御鉾左指し入れてさぐり給ふに、その鉾の滴り露の如くなった時第六 天の魔王患に見て、此の滴りは閣となりて備法流布し人倫生死を出づべき相ありとて天より下り来った。その時太一脚 宮と週以給ひ‘我三賓の名をもいはじ我身にも近づけじ.とく/\師り上り給へととらし給ふた。その御約束ありて 僧は御殿近く参らや吐壇にては経を顕露にせ守、一二賓の名も正しく一五は歩、所謂思詞を用ふ。かくて外には悌法をう ときととにし、内には二一賛を守り給ふ。とれ我閣の悌法は偏に犬神宮の御守護に依る﹂と述ペ、一冗亨樺書第十八、文 保二年の頃の記に成る比叡山黒谷光︷一部の渓嵐拾葉集第六及び第百八、永正七年 C

O ﹀二月に寂した日澄の法華紳 道酪決倉一、本朝紳世考第一等にも大約同じい説話を出し、太平記第十六には第六天の魔集まって此の園に備法弘ま らば魔障弱く力を失ふに至らんとて、天照太神の際化利生乞妨げようとした。時に天照太紳は彼の魔の障際友休めん 埼めに我三賀を近づけやノと誓をたし給ふたと記す。それらの中法華紳遁秘決は許して﹁妖亙の詞のみ﹂といふたが、 とれを﹁室、海が誼り出した安説﹂と評した。けれいと室海がか tふる妄設を出す筈な 平田篤胤翁の俗紳蓮大意第二には. く、とれを室海とするととが反って平田翁の妄設に過ぎたい。沙石集や元亨程書に出すをもって考ふれぽ鎌倉時代か ら行はれるやうになった話と忠はる。第六天の魔王といひ、抄石集に出す如く或紳官の語とある謹より考へて、 は例の外宮の紳官が作斗出した話かも知れぬ。 通海の参詣記には﹁俗一同﹂として備法を忌むとと品目伊勢諾・伊弊冊の隼此の園を建てんと思ひ給ぴ、第六天の魔王 に乞請し給ふに王去、此地には締法統布す。載は僻粧の敵、なるに依りて是を許さやノと。諾容は然らぽ併法在忌むべし

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とて乞請して途に比の園を建り給ふ︵巴上取意︶とて.神宮に悌法乞忌むととは神代以来のとと丙﹂今に替る所がたい 司 J と説いてゐる。塵総出直嚢紗第十こにも此の話左出してゐるが、本書では伊勢詩傘をもって第六天の魔王伊合那天とし てゐる。されど我紳代に悌教が存し、それ以来紳宮には働法を忌むといふとと既に歴史以上の設で、前の天照太紳と 第六天魔王との約束話と共に信用し得られぬ全くの妄設としたくてはならぬ。従って量翻の記に成る紳謹或聞に﹁ぽ 史の上に更にとれたを浮設に誼ぎやノ﹂とし、天明二年ハご四四一一︶八事山諦忍師の記した空華談叢倉一には﹁此の設児 童の戯言にして論やるに足らや J 一人此の無根の談を唱へて詩人是に和し天下に氾濫す﹂といふは正しい評といふべ さである。但図史にたき浮設であり児戯に類する言設ではあるが、それは前述の如く鎌倉時代に既に流布されてゐた ととは事賓としなくてはならぬ。その本国日は悌教者が神宮の側近に乏で参拝するを許されなかったととに封する一つ の歓迎的解躍であったかも知れぬが、齢、りよ市卒強附舎に過ぎて後人の理性を満足せしむるものではない。 とれに就いて渓嵐集第六及び第百八巻に寸大紳宮に借形を入れぢるとと何の故たるや﹂と問ひ、その答に﹁教門の 宣義あり﹂として教相から一五へぽ此の紳明は我国開聞の時影向し玉ひ、諸の一刑事祭柏崎等は俗諦をもって勤む。借間は 備法停来以後のととたので、古の儀に任せて借闘を入れやと設を、大遁院義順師が天保七年ハ一一四九六﹀一二月尾州停賢 ワ t 寺で講じた諸紳本懐集講義に、神に帥法を禁じ玉ふととは﹁ザ閣の古風を守りかつ祭耐の敬を謹す﹂による。とれは ﹁全く御法を嫌ふに非守、紳明を肥る時は紳闘の古風を守り且つ敬を謹すの義﹂とした。とれらは最も受賞訟見解と 考へらる。従うて﹁外には師法を嫌ひ内には一二賢を守り給ふ﹂など t A いふ窮屈な解鰐も無用となる。 蓋し古来宗教儀式には古きそ守るといふ侍統的精神が強く作用する。特に我神話の如きは一一麿然りである。その詩 めには借風で太紳宮へ参拝するとと左許さなかったり、紳前へ出づるととを禁じたり、隠語左用ひたりするとともあ うたとしたければならぬ。本部の初めに出した俗一肺道大意袋二の所論の如きは此の立場で大いに訂正

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怒 る 。 門 誌 ︺ −平田篤山励金集七・一六 O 2 岡 書 九 ・ 四 二 回 3 群書類従経済雑誌社本一・九七七 4 朝日新聞社版六図史本上・八 5 同 書 下 ・ 一 一 一 四 六 6 関史大系本一七九 7 木 目 的 笠 長 会 集 八 ・ 一 九 四 8 平岡篤胤全集七・一六 O 群書類従経済雑誌社本一六・九三ニ取意 9 叩綾群書類従完成曾本一上・一七 11 平 田 篤 出 品 会 集 七 ・ 一 四 七 及 び 一 五 一 12 綴群書類従完成曾本三下・七八一 13 品 川 敬 金 書 本 三 OO 頁 日 議 雲 象 者 会 集 一 0 ・ 一 O 六 六 15 偽 教 会 書 本 三 九 一 一 文 16 大豆大減経七六・五一六 c 及び八六五 b 17 居 眠 宗 大 系 本 ご 五 頁

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以上排悌思想を概見じ、忌詞及び一押宮と悌伶といふととに就いて考察した。然らぽ一紳と悌法・一押官と僧侶とは本来 如何にあるべきか‘鎌倉期の文献を中心として、多少神話的に見らる L 説話もあるが、貴重に思ふものを記して一考 し た い と 忠 ふ 。 先 づ 文 化 元 年 ハ 一 一 四 六 四 U 十二月八十七歳で寂した河内高貴寺の大徳慈雲寧者は徳川時代に於ける員言宗の神道串者 であるが、その話連に成る紳道大意の中に糞掃衣注意する時は紳廟を避けて通るべきを誠められたが、然らば神明は 常に備法と僧侶と左厭ふ山といふに然らやである。紳明が備法を喜び給ふの話は古来幾多存する。今昔物語審十こに は川町階寺の俗善珠の弟子に害弘といふ人あり、心浮く悟り賢く正教を皐び音葉のととも知ってゐた。此の人が浬撰舎 の儀式乞作り職衆左調へ柴器を副え蹟重に執行した。然るにその翌日尾張の熱田明神が童子に託して随喜参列された ので、その翌日猶一度とれを執行す、潟水市二日間勤むるの例にたったと記す。諸事縁起集にはとれに就いち害関巳議 は貞翻二年二五二 O U に始めて此の大合友行ぜられ、熱田大明紳の参列を得たとし、南部七大寺誠一鵡記興幅寺金堂の 4 僚には二月卜冗日常紫合を修するととは貞鶴二年以来にて、同十六日法華舎を修す。とれ尾州熱田大明紳の所望に依 F コ F O り露関法師の修する所と倖ふ。一苅亨躍害容十、本朝高僧偉容十、本朝紳世考倉一等には勢州の太守藤孝忠の第二子教 闘が或一日唯識論を諦やるに坊の側に在る松の樹に呉人燕りて舞乞なし、師の唯識論左諦やるを喜び玉ふ。そとで誰 人かと問ふに恭一日大明紳であると答へ了って見えなくなったと記す。戦国は・氷承二年ハ一七 O 七﹀六月毒七十で寂し た 。 延 久 四 年 ハ 一 七 三 二 U 六十二哉の時商舶に乗じて入宋し、手天に前雨して霊験を現はし善悪大師の説を得て途に彼 の地に客死した成等は、鯨密の法七包受けて誠修専登、その威験紳に入ると稽されたが‘常に法華

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請やるに苛衣の意

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子屋上に来って聴聞してゐた。或時中一寸の傍に大槻樹めり二夜風たさに枝が折れた。鳴に茸現はれ来って一目ふ。昨夜伊 勢の大紳容属を率ひ来り諸紳多く樹上に集る。故に校在損した、顧慮するなかれと語り塁。て見え司なくなったと。と れは対亨韻書巻十六・本朝高僧停泊沓六十七・大雲中守体制起に出てゐる話でるる。遇海の点沙諸記者下にはが治二年ハ一八 四六︶二月東大寺動進の霊源上人が大仰殿再興の願を起し、聖武天皇天干の柱時を憶ひ太紳宮へ参詣し瑞鑑の謹にて 通夜前請した。その時大紳示現して五口近年身疲れ力衰へて大事が成し難い。若し此の闘を遂げようとならば早く吾身 在とやせよと、そとで上人は本寺へ還り紳明の威光乞増益するとと般若の威力に担ぐるはないとて、大般若経二部を 酔官官摘しとれを内外雨宮へ奉納し粂て呑論議を勤修し‘常行寺で般若舎を始行したと出す。古今著聞集者一一脚祇の僚に QU は霊源上人内外雨宮陀参錯するとと各七日間.第七日の夜夢に費珠を感得したといひ、﹁末代といへ

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も信カのまへ に紳明感臆を垂れ給ふととかくの如し﹂といふてゐる。延慶三年ハ一九七 O ︶の識文を載せてゐる春日擢現験記巻十四 にはかつて京に大陸亡あり四方みな焼け失せた中に一宇の家屋煙を免れて残った。人々不思議の忠弘をして一再び騒ぐ 中に一人あり、夢に貰衣の紳人敢輩出で来て此の屋のゑげしをさぐり火を打ち消してゐたと.そとでそのたげしを探 るに唯識論一容があった。とれを大明紳擁護し給ふて此の家だけが残ったととを知り見聞きする人々はほめあざむだ とのととである。問事談第五には‘勢田尼上︵紳祇伯顕霊母︶は常に賀茂祉に参詣した。或日通夜の問夢に大明紳費 殿の戸を開きて仰せらる L に、我は踊陀念併を好む‘常に申せよと。依って一世頭へ借を屈し七ケ日間不断念怖を行じ たと。か L る話は数多見らる t A で あ ら う 。 円 U ,次に紳明は孝心や大慈悲行を喜び給ふといふととに就いての話がある。紀伊鰻風土記各四高野山の部明王院忠義の 俸には.忠義は讃岐の人にて明王院勝義の室に入った、その機関よく一休和尚左伏したと稽さる。明躍三年 四︶八十九歳であったとの記録が見られるが鴎寂の年月は詳にされたい。或時伊勢神宮へ参詣した。詮中湯田の里に

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て葬に遇ふ c そとで衣裡に縞に秘印明を結請し亡霊を引導した。その夜該死人の亡魂現はれて家族に告ぐるに、我は 忠義大徳の救済により頓に荷日升するを得た。爾等は我潟めに報聾せよと。即忠義の還る日左待って謝思したと。高野 山明王院々譜にも此記事がある。宗較の要諦は問責の一位舎を救ふと共にその反面霊を救ふにるるを思へぽ、伊勢神宮 参拝の詮中の出来事であっただけ興味あるととに思ふ。 元亨騨害容十二躍常翻の停には、彼れは和州三輪廓の人で密教を修行し慈悲行に勝れてゐた。或時吉野の紳聞に参 詰しようとして詮中に母を喪ひ父還行して還らタ悲泣する稚児に遇ふた。慈悲の飴り詮葬して遣はしたきも今身は紳 闘に諾する詮中にて、紳は死械を思み給ふ。されど結局喪を趣くるに忍び守、士口野紳祉へ詩するを止めて近所の野謹 に葬し一一一輪へ還らうとした。然るに身俄に強硬して動︿能は歩。吉野の方へ向へば何等の妨げも友い。そとで紳嗣へ 向って参り近間き樹下に憩ひ持念するに毘あり狂舞して出づ。常翻は思に偶れて来たので紳の誠めを受くるのであら うと思ふてゐた。然るに亙は近く寄り来って特っとと久しく何ぞ暮れたる。哉は忌を諒ぜや只師の惑慣を貴ぶと云ふ て引いて紳股へ到る。常観は感泣して闘ったと。此の詰は人名を一万さ守して沙石集第一出離を紳明に前る僚にも出し てゐる。常観の生存年代は不明であるが、紳明も慈悲の詰めには葬躍を思ま 4 y といふととを教へてゐる。 つ ム 同巳元亨回開敢闘傘十こに躍性蓮の話乞載す。性蓮は至孝の人であった。その閣の風俗として亡人の品目在高野山へ約め た。位も亦母の遺品目をもって高野山へ赴かうとし詮中尾州熱田の紳澗を泊ぐ。紳官は思宮詳みて宿を許ざたかった。 そとで紳嗣の南門の側に寄寓して一夜を明さうとした。主一夜大間︵大宮司︶の夢に神託あり,今高賓あり乞ふ君珍饗 をせよと、間使者をして紳洞の中を検するに誰人もゐ歩、門の側に性謹一人診るのみ。そとで聞は蓮を呼びて其の由 を語るに、性蓮は忌あるむ 7 4 告ぐ。祝日ふ。我夢に紳託あり紳は師を思み・?と。還に引を入れて盛鶴を供し紀州へ選っ た。沙石集には﹁尾張熱田の紳官のかたりしは﹂として此の話を前の話と同じ僚に出す。一押も思を忘れて孝心を緯ぽ

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る L とと日本精神として然るペぎであらう。 沙石集第一には復﹁神明道心を貴び給ふ﹂として、昔三井寺が山門の徒の詩めに焼を抑はれ堂塔僧坊悌像経翁など 盛る所伝く・寺借も亦山野にまじはり人もゐない寺となったととがある。その時寺借中の一人がその鎮守紳である新 羅明神世へ参り通夜した。その時夢に明神が御原を挑げ御心地よげに坐するを拝した。そして告げ給ふに異質の菩提 心を超せる寺僧一人有るととがよるとばしい。堂塔伸経は財賓あらぽ建られるであらうけれど.菩提心を起す人は千 高人中にも有り難いと仰せられたといふ。新羅紳に就いては別の研究乞要するが.三井と山門との争闘は源一や時代よ り鎌倉期に及び随分盛に行はれたので、そのいつのととか今の記録は年時を示してゐない。けれどその話の内容は何 時の時代にも誠めと汁ぺく、紳明が悌設精神の根本たる菩提心佐一律び給ふととを去はしてゐる。 遇海の参詩記には紳震も悌法を思ませ給ふとは忠ひたきはや J 。会家の御所にも法施を旨とし侍り︵中略︶紳宮にも霊 病人に縄る時には信誼の大般若経乞奉諒するにそのしるし掲震であると越ぶ。神前祈誓にも併経が用ひられてゐたと と を 知 る 。 共に借侶が紳に救はれた話が停へられてゐる。郎沙石集第一和光利益甚深の事の僚に.甫都に小輔僧都嘩固といふ 解股上人の弟子にて碩開晶子の名聾高い人があった。かつて魔道に落ち、春日大明神が心暗く思はれ、大明神の方便で他 方の地獄へは潰はされや、春日野の下に地獄を樟へて取り入れ、毎日長朝に第ココり御殿よ

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地蔵菩薩の潜水器に水を 入れ散杖左もって彼れに水左一躍が﹂給ふに.一滴の水は件の罪人の口に入りて苦慮暫く胡か

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、少しく正念に住するや うになった時大衆経の要文や陥羅尼などを唱へて聞かせ給ふとと日々慨りたく・還に地獄の苦より浮び出でたと。と れは伸借が紳より地獄の苦を救はれたととの一話題であるが‘それと反封に神官が浮士に往生した話もある。同じ沙 石祭器一に笠置の解脱岳上人が太神宮へ参詣した時のととであるが、解脱上人は建暦三年ハ一八七三﹀五十九歳で寂し

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た山首時の高徳である。その話は上人が菩提心を時得しようとして耐請の詰めに八幡宮へ参篭した。然るに夢の中にそ の一不現は我カにては難く太神宮へ参って申し給へとて道中の様子を悉く示された。そとで夢の中に太神宮へ参詣され たるに、外宮の南の山を超ゆる山買に池あり大小の蓮花が満ちてゐる。人あっていふに此の蓮花は嘗吐の紳官にて既 とれから往生するものはつぼんでゐる。和光の方便にて多くは往生すと。さて御世へ参って に往生したものは開き. 法施し奉ると見て夢が醒めた。やがて負打ちかけて只一人夢に任せて参り給ふに少しも道中の様子夢に遣はなかった とのととで、然もとれば親しを紳官が語ったので憶のととであらう。年久しくはなったが耳底に留まって忘れられ守 的てとれを記すといふのが本書著者無住法師の語である。 4 4 一沌亨縛害容十二・本朝高借偉容五十三に出す借延朗の停には、延朗の祈りによって京都松尾神社の一神主が失明を治 癒し、松尾神社の衛護左得るに至った話を侍へてゐる。延朗は承元二年ハ一八六八

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月七十八歳で寂した。前の話に 円 コ 併せて興味深く考へられる。元亨樺害容十七の記事に依れぽ備中古備津神世の紳官であった藤井久任は寛治四年、一 丹州主組紳祉の宮司惟高は累世紳官であっ たが、心を伸飛に蹄し常に地蔵盟問躍左念じてゐた。長徳四年ハ一六五八︶四月病に臥せて六日を過ぎ、俄に気絶し忽ち 七 五 O ,︶二月剃髪し法名を戒寂と稽し専ら摘陥を念じたとのととであり、 附明野に赴を路を迷ふた。時に六沙門現れ本土へ導き還さると夢見‘魔めて蘇生した。その時の六沙門は六地蔵倉であ ったので、惟高は右の六地蔵の像を刻し供養舎をいとなみ訟に七十飴、地蔵菩躍の盟を唱へて西に向ひ寂したと。 れらは直接紳官が悌教に蹄依したととの興味深い読話としなくてはたらぬい 大通院議順師が天保七年三月尾州浮賢寺で講じた諸神本懐集講義には.伊勢の祭主氷一税は蓮大寺を建て、輔親は樟 鎗寺を設け、親定は勝養寺を立て、千枝は大胆閣寺を創する等、古の識見ある祭主神職で仰門に入り伽藍を建立し出家 修道するものが多かった。その中別して鰐傘寺を創した輔親は古今祭主の名賢と一試はれた人件\人皇六十八代後一保

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院 の 回 耳 元 四 年 三 六 九 一 υ 八十じ歳であったが、後 長暦二 年三六九ヘ υ 出家したとのととであったと傍 ふ 。慈 雲館者会 ワ r 集 に 出す 紳道戎間 や紳 祇溜頂 或 問には . 伊勢の澗官や ト 部宗の一抑関等で仰法を信仰 し出 家 入議した人 は 少 く た 演 ・ 長明 ・ 慈過 ・ 粂好 ・ 九 江 ・ 党舜 等その代表的 友 人であると越ぷ。その中空演は大中臣知治麿の 子 にて出家して弘 曜大師の門徒 真 如親玉の弟子と な り、山 城閤 乙 訓郡に寺を 建て相臨寺と 補 し た 。三代質録第十四 倉 の 記 事 に 依 貞観九年 ハ 一 五 ご 七 ︶七月十二日樺借

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法 印大和尚 位堂演卒年寄六十五歳 、 右京の人とるる。九江は ト 部粂倶の子で吉 田の山下に在る紳 龍 院に住し南開寺に属した。党 舜は 卜 部粂 右の子にて 慶長十 八 年 ハ ご 二 七 三 ︶ 六 月徳川家 庭 に Q J て紳還を談 じた。長明 ・ 慈 週 ・ 品 川好等は何れも作者明な人のみ。通海参詣記下容には 仁明 天皇は登演伶正を召いて紳宮 御析の事を仰せられ 、 毎日金 剛般若経 三十巻︵ 或廿各︶左縛 諒し ‘ 清 和天 皇は大法師南 向山を召いて紳宮法施の御 仰 せ ら れ 、 毎日法華 ・ 仁 王 南部の経在韓語 し 毎年紳 宮 へ 参 詩 、 醍醐天皇は大 法師良 緒を 召 い て同 じく御析を仰せら れ、毎日花巌経・大般若経各二袋を輔讃し四李に紳宮へ 参 詣したと停 ふ。良緒 の停は分明したい が 南忠は弘法 門徒入唐求法償問行の弟子とた・

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.復慈畳大師の室に も入 っ た 。 ︹ 註 ︺ 1 叫 叫 仙 雲 骨 骨 考 会 集 一 0 ・ 九 七 九 奨裕次とは不同げの切れを拾ひ待︿洗ふで作った袈裟をいふ 3 闘 史 大 一 品 川 一 六 ・ 六 一 = 一 品 川 敬 会 敢 闘 寺 総 態 筈 四 ・ 四 2 4 悶 四 ・ 二 一 5 1可 一 一 五 四 及 び 一 − 一 七 六 、 江 談 抄 第 一 ・ 偽 川 市 常 の 僚 に も 見 る 日 常 誌 慾 餐 四 − 問 。 七 6 例 歓 会 者 本 一 九 四 一 良 、 同 二 ・ = 一 六 七 、

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7 後叫川書類従完成曾本三下・七九八 8 闘史大系五・一七三 9 I司 一 五 ・ 一 一 六 10 組伊緩風土記刊本四噌七七八 11 偽敬金書本ニ八三頁 12 同 」 二 13 綬 群 書 類 従 完 成 曾 本 一 一 一 下 ・ 七 八 四 15 14 偽 歎 金 書 本 二 七 九 頁 、 同 ニ ・ 二 一 一 一 五 同 三四一文 16 自 民 宗 大 系 本 ご 悶 瓦 17 時 四 叫 雲 寧 者 会 集 一 0 ・ 一 O 七四及び九五五 日 朝 日 新 聞 一 枇 版 六 闘 史 上 ・ 一 一 一 五 19 額群書類従完成舎本=一下・七八八

前述の如く歴史の上では紳官なるべくして借侶になり、伶侶にして紳明に救はれ紳官にして悌に救はれたといふも のが一一丹ならやノ見られる。宗教として互に胸襟を披き相助けて悶還の殻展にづくし、大政左翼賛し奉ったのが備法渡 燕以来現在に及ぶ千数百年聞に亙る紳僻闘係の賓際である。

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明治六年日浅︵一川興が神道五部書刊行に際し序文を作って 夫れ紳伸の跡回より是れ剣然す。然も紳悌の諮りての致一である。剣然の故に一紳慌には仰法の息宣日付め、 功一堂西天の真に推す。紳悌若し判然したい時は世間と出世間との分際を騨ぜ守、若し又紳仰一致しない時は安んぞ 並べ立て L 能く一王の聖治を資くるを得ん。方今師に悶官僧侶相和して聖朝の設化宣弘む。誰か敢て間協惜の端を殻 一 致 ぜ ん と一再ふは.神仰分離問題の直後に於ける語であるだけ一一同意味深きを感やる。神間決探編容中には 紳遣は混沌の境を出で L 混沌の始めに蹄し。一一一貨は有無の見を破して賞相の地乞さとるの一岬は脇認を詞して正源に 導き仰は敦令を立て L 有相を破す︵中略︶一肺を敬ひ仰を傘ぶは清浮注先となす と‘卸紳と悌と各その分乞異にすれいと共に清浮を本とするの根本原理を明にした。復同唯一一に京都智積院の事匠泊如運 倣 和 尚 が 延 費 五 年 ハ 二 三 一 一 一 七 ﹀ 序 文 を 作 っ て 一 五 ふ 。 備法紳道互に相輔翼して道各々流行す。近世局儒の徒強いて儒を推して之を附合し買の紳道となし、揮氏を排する をもって買に紳道を知ったとたす と附言してゐるが、 とれはその後に於ける園閥単者の立場にも共通して考へらるぺく‘自己の閥単問を推重するの飴り他 の教を誹諒する如きは正しい紳道者悌教者の共に取らない所である。用者は互に輔翼してのみ一皇の聖治危資くると とが出来る。少くとも我閣の文運はかくして古来護展し来ったのである。 塵添援嚢紗第十こには 紳備の内設同一にして而も化儀は各別である。神道は一法未だ超らたい所を守って起る所の高物をぽ皆機感なりと 忌む。悌訟は二途既に分れて後諸の迷あるを悉く質相と見る。然れども悌法に専ら本一初不生を談じ、榊誼に和光同

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撞の利益普し。されぽ互に閥事なけれど暫く一明を表とする時は本を守って積を忌む。 である。備は又末左導きて本を示す。とれ其の本堂畳らしめんが詩めである とれは其の末を導かんが詩め とたす。紳伸判然の理乞示したがらその向ふぺを遣を端的に表現した。同書には復筏嵯峨院杉堂法端末寺をもって御願 に准ぜらる L 官符の文を出してゐるが、その中に﹁誠に是れ王法は紳徳の加護により‘紳明は悌法の徳用を受く﹂と あ る 。 王法と紳明と悌法との関係は此の文の外には移しない、 三者乞別離する如きは白 A しい大事で・なければたら ぬ

日本園現報善悪霊異記は薬師寺の沙門景戒が弘仁十四年ハ一四八三︶に記した書と考へらる L が、その上巻序文に 際紳天皇の朝に外書来り、欽明天皇の朝に内典来る。然るに外左閣申ぶものは悌法を誹り内を讃むものは外典を軽ん やノ。愚療の類は冥報を壊り罪幅を信ぜ 4 1 ・深符の惇は内外を覗て因果を信じ恐る と謹ぷ。内典外典各々その墜ぶ所に執して他−

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一誹詩するととは此の時代にもあったととらしいが、それでは内外共に 我闘に於いて道を成就するととが出来たい。深智の徒の組しない所であるといふ。かくて紳悌一致といふととは昭明 ﹁天皇伸法を信じ給ひ紳道乞隼びたまふ﹂ととあ

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てより以来我園民の信念とたり今日に及び来つ 天皇即位前紀に た。羅山が本朝紳舵考序に 夫れ沙門の伊勢に入る左得示、伊勢・賀茂の忌詞有る。 る。尾輿・鎌子の伸傑を拝せまる、是れ猶上古の遺風飴烈である 内侍所に借尼の贈物を献ぜざる。敏謹出 といふも、沙門の伊勢に入るを得、?といふとと並に忌詞は上に説く如く、内侍所の儀もとれに準じて考ふペく、敏謹 帝悌法を信じ給はや J とは、室百紀各二十の記事なれど、未だ歴史はとれ乞信じ給ふ程稜展してゐなかったと見るの外な い 。 そ の 皇 子 聖 徳 太 子 の 御 事 躍 を 田 山 ふ 時 そ の 感 が 一 一 暦 深 い 。 尾 輿 ・ 錦 子 の 件 は 欽 明 帝 十 三 年 ハ 一 一 一 一 一

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審紳として悌法を排斥したのであるが、それは新奮雨思想の争といふの外ゑく. と れ ら

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もって上古の遺風齢烈とい ふととは早計の結論たるを菟れぬ。 然らぽ初めに述べた如さ排悌的論議に封する所見如何といふととになる。それは徳川期に於ける閤墜者の排悌思想 を受け、所謂古遣を中心とした皇園意識の白血児を基礎としたものと‘すべての偉統を無視し歴史を捨て L 現賓に於け る悌教徒の腐敗と無力の一面のみ乞見て排斥しゃうとするものと‘間平に併設は外来の宗教であるから排すべきだとす るものと、大約これらの三種の思潮の何れかのつ若くはその合流になったものとすべきであらう。けれど吾人の所 見によれば何れも皆我歴史の一不す正しい閤是に相臆した思潮とは考へられぬ。 先づ古道左中心とした皇困意識は徳川時代としては可であったかも知れぬカ、今日としては頗る偏狭に堕したもの で我歴史の一不す躍準日本の賓際に相隠しない。明治天皇の示し給ふた五箇俸の御誓文に拝する如く、上下心を一にし て盛に経倫左行び‘奮来の阻習を破わ J天地の公道に基き知識を世界に求めて大いに長基を振起する。そとに・氷還に護 民する我困問日生命が存する。我国民の本領は世俗の語にもある如く来るものとばまや諮ぐるもの迫はやで、すべて来 るものはとれを受け入れ時取して十二分に阻鴎し、自らの血とし肉とし更に進みてそれを必要た武器とし岡家を守る 詩めの資糧として弐の新しい飛躍へ志すのである。若し旺唱しきれない有害とさる L ものがあったたらぽ歴史の上に 問汰され泊減する。若し我民族の圏是とする大和の精神を揖鋭ずるものある時は破邪の創が揮はる L も 、 そ は る の精神乞根基となす。買に我たくましい園間生命はかくて大和の上に躍進を簡け来ってゐる。 次に現在の悌敦徒が無力だといふとと。それは見方に依れば一箇の限定論に過ぎぬのでたいかとさへ考へられる。 成程多くの償侶の中には指弾さるべきものもないではなからう。叉新聞や雑誌で宣侍さる L 程の活動と費明や鷲見を ずるものは常にはか仏いかも知れね。けれどその大部分は全力をさ L げて各々の立場で職域に奉公してゐるととは事賞

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である。但不足なのは伸教界全般に通守る強力た統整と指導宣停の機闘がたいととである。 後に併設は外来敬であるから排すべきだとする如きは摩ろ児戯に類する所論といふの外ない。欽明天皇の朝中臣・ 物部氏の時代である怒らぽ一考さるべきも、爾来既に一千四百年を経過し上下の信仰に於いて紳伸の巨別を見なかっ た。今夏それを問題にして論やる如きは好みて平地に破畑乞起すものであって、思慮分別あるもの L ぃ。特に現在の大東亜宍柴圏内の思想として宗教として彼れ此れ一五はるべき問題でない。 我閣は紳固と帯されてゐるが、それは八百再の紳が在すといふととのみでたく、八百高のものをすペて我 完成して行くととであって、我 K の園間意識国間生命はそれを強く欲求してゐる。大政翼賛といび世界新秩序建設と いふも此の意固の外はないと信守る。密教の思想をもって一五へば、品正十市山羅の理念の額現であり賢践である。紳悌の論 争を事とする如きは大政翼賛を概念的に扱はんとする小人の戯論のみと云は、なければならぬ。 ︵ 出 克 一 ︹ 註 ︺ 1 偽 敷 金 書 本 = 一 O 五 頁 2 日本書紀二十一、朝日新聞批版六図史本下・九五

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