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近代割賦販売信用の会計的考察

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(1)

近代割賦販売信用の会計的考察

一 序

Pカにおける割賦販売信用の生成発展

川 割 賦 信 用 の 成 立

‑公的取引における割賦信用

2私的取引における割賦信用

3割賦版交信用と割賦信別

向先駆的割賦販売信用の成立

‑初期の高価口問の取引

2

安何 円刊 の取 引

3近代的割賦販売信用と先駆的割賦山間交信用

回近代的割賦販売信用の生成発展

‑自動車割斌販売の起源

金融会社の発展

割賦販売の一般商品えの普及

近代的割賦販売信用の確立

結 4 

近代割賦販売信用の会計的考察

1=1 

ロ ロ

八五

(2)

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六八六

現在割賦販売は︑

(1

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単に企業経営上の一課題として論議されるに止らず︑社会的な問題としても種々論じられている︒

(4

それはまた世界的な広範な領域にわたってみられるものとなった︒

そし

て︑

しか

し︑

(5

かかる割賦販売を如何に理解すべきかについては︑会計学上も一致した意見があるわけでなく︑また︑

わ が国における研究においても著書︑論文などを通じてみるも微々たるもので︑特に割賦販売の近代的社会的な性格を 会計的見地から究明したものは皆無のごとくである︒

わが国における企業会計原則注解の注

2

にお いて は︑

﹁割賦販売契約は︑通常の販売契約と異なり︑その信用期間

が比較的長期にわたり︑代金の支払が分割払であるとともに代金回収上の危険率も高く︑所有権の移転又は取戻しに 関する条件も複雑である﹂とこれを規定しているのみで︑近代割賦販売信用制度︑

および近代割賦販売信用の本質に

ついては何等言及していない︒

割賦販売会計の研究と確立のためには︑割賦販売契約の形式や割賦販売の技術︑

ある いは

販売業者の販売問題と

してのみ︑割賦販売を考察するだけでは不充分である︒われわれは近代割賦販売︑

つまり︑近代割賦販売信用の成立

するにいたった経済的必然性と︑その経済的基盤とを生産力の社会的発展と︑

そしてこれと不可分の関係にある金

融制度︑の確立過程とにもとづき考察するのでなければ︑

近代割賦販売信用の本質を正しく把握することができない︒

近代︑割賦販売信用と先駆的割賦販売信用とがことなる点は︑割賦契約の形式や割賦販売方法に存するのではない︒

それは近代産菜を経済的基盤とするものか否か︑割賦販売信用制度が確立しているか否かに依存する︒きればかかる

(3)

基本的な分析と研究とを度外しては近代割賦販売信用の会計的性格を理解し得ないことになる︒

かかる意味において︑本稿においては割賦販売の最も芹比しているアメリカにおける割賦販売信閉め発展過程争︑

会計 的観 点か いけ

し︑その近代的な志義を明確にし︑従来の会計的思考と会計処理の是非を論述せんとする︒

1)mm

和一 一一 十凶 年八 月六 日附 民一 れ利 問ぬ 載の 山際 日飢 舵裁 の談 話

( 2 )

昭和三十凶年九月十二日附毎日新聞掲載の社説

(3)

矢島 保男 教授

︑金 融字 会報 告︑

E

一九 五九 年︑ 一一 二 O頁

( 4 )

川和三十四年八月二日附朝日新聞掲H戦のソ述における割賦販売の記事

( 5 )

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ア メ リ カ に お け る 割 賦 販 売 信 川 の 生 成 発 展

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近代的な割賦販売信用の一会計学的な性格を究明せんがために︑アメリカにおける割賦販売の歴史

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を︑著名にして権威ある

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教授の研究になる己ロ∞

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己目 山口 問﹂ を資 料と して 考察 寸る

︒ 彼は割賦版売を︑信用の一形態と

ぇ︑割賦信用

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一公的以引にかんするものと︑

私的取引にかんするもの正に大別

近代制似販売じ川の会計的考察六八七

(4)

近代 割賦 版完 信用 の会 計的 考察

六八八

ついで公的取引にかんするものを︑その支払が政府に対してなされるか︑政府によってなされるかの相違によっ

て︑それぞれ区別し︑

また

私的取引にかんするものについては︑特に近代割賦販売の歴史という標題のもとに︑川山

初期

の一

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引︑

ω

安価け山の取引︑閣白動車割賦販売の発端︑間金融会社の発展︑間割賦販売の其他日用品えの

場普 及︑

の五段階に区分して論述している︒

しかし︑筆者は割賦販売を説賦販売信用と理解するので︑これを︑

ω

割問信用の成立︑

ω

先駆的割賦既売信用の戊

立︑側近代的割賦販売信用の生成発展の三段階にム人別して︑

その 概一 去を 紹介 する とと もに

これを資料としてそれぞ

れの発臆段階におけるいわゆる割賦販売の会計的性格について究明せんとする︒

4E S

( 割賦信用の成立

公的取引における割賦信用

割賦信用は︑信用そのものと同様に︑かなり古いものであるが︑それは公的取引

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ば︑その支払が政権に対L︑﹀﹀︑

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︑亥去しじ政権によってなされるか(忌

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さらに再分される︒

個人から政権えの︑強制支払の最も一般的なケIスば︑納税の分割払である︒総額は最初から確定しているが︑

その

離続的分割で支払が認められるのである︒所得税やアメリカの土地税

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︑割 賦の 回数 は︑ 二回

︑一 ニ回

あるいは︑四回であるが︑他の場合は︑世界

(5)

的に割賦の回数は︑次第に増加している︒アメリカの或る州では︑十回から十五回の︑継続的分割払となっている︒

有す ると き︑

政権に対する強制支払に始まったところの割賦払制度は︑間もなく契約支払にまで拡大した︒政権が弘下げ口聞を所

しばしば適用される︒これは政権の存立と同時にみられ︑アメリカに於ては︑政府の所有する土地の処

分に関してのみ行われた︒この制度のより近来の適用は︑濯淑方法においてみられる︒種々様々な開拓法︑

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二年および一九一四年の開拓法

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は︑必要に応じて適当な量の水を︑農地所有者に流

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込み

または送り込むことを目的とし︑

アメリカの北東部および南東部における巨大な貯水池は︑二

O

年という年月

に一旦って︑継続的増加分に対して支払われるようにしたのである︒類似の性質の割賦の例は沢山ある︒個人から政府

えの契約的支払にかんする︑割賦販売の興味ある︑

また︑もっとも新しいタイプは︑大戦中に市場に売出ぎれた自由

公債(ピ

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︒ これまで既述してきた例は︑政権による割賦販売であり︑個々の人々が強制支払か︑

あるいは︑契約支払かの︑

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り︑ 商品

これらの場合と反対に︑個人ではなく︑政権が支払を伴う︑他のカテゴ

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ーが ある

︒ あるいは財貨が︑個人から政権に売渡され︑政権が割賦支払をすべく︑債務を負う場合がそれである︒

づれかをなすものであったが︑

その初期の形態は︑中世紀始めの伊太利の諸都市における強制的公的借款である︒それはある個人が政権から選定さ れ︑お金を前渡しすることが強いられ︑次いで

一団体あるいは︑会社組織を形成するように指示されたのである︒

これらの機関には︑出資者の各々が︑割合的わけ前を受取るため︑その年の才入を受取る権限が与えられたのである︒

また︑市政権は︑一定の才入の代りに︑毎年︑

ある一定額を個々の貸手に支払うことを約束した︒形式的に︑政府会

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あるいは︑政府証券(向︒

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と呼ばれる借款の制度に︑しばしば︑割賦

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六八九

(6)

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六九

O

販売方法

( S O S E V O

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が適用された︒

私的取引における割賦信用

割賦信用が最初に適用されたのは︑‑公的取引であったが︑この方法の利点が︑私的取引にも適用されるに至ったの

は︑それほど速い昔のことではない︒

割賦支払のこの形態は︑保険業に於て適用され︑その驚異的な発展を招来した︒一九二四年の末期においては︑全

世界において約九百億弗の生命保険を算するに至り︑その六三三億弗は米国が占めた︒生命保険の保険料は︑年々分

そして死亡したとき契約額が支払われる︒生命保険事業は︑割賦支払の上に︑基礎づけられているも

割で 支払 われ

のである︒この制度は火災保険に︑また︑其他の保険に拡がっていったのである︒海上保険は︑

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m山口付宮口白の時代までその利用はさかのぼる︒

割賦 信用 は︑

古代エヂプトにおいて︑土地︑家屋の譲渡に際しても適用されたと︑

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はいっている︒また︑

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は︑大火災が起る

とき︑家屋を買い切る習慣があったので︑所有者達は一切の希望を捨て︑それがために割賦法で財産を売却したとい

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は︑古典的な古代のその他の大都市においても︑同様な投機的な活動があっ

たことを詳述している︒また︑中世紀においても︑不動産の購入制度として︑期間的年額による返却方法が普及して

︑ 拘

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不動産の割賦販売は︑近代アメリカにおいてもみられる︒

一つ の形 態は

ピルデングにかんするものでるる︑他の

(7)

一つの形態は︑都市における協同アパート

( 8

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と数外の財産

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割賦販売信用と割賦信用

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教授は︑割賦販売を割賦信用と理解するが故に︑公的取引における個人の政権に対する税金の分割払や

払下土地代金の分割払︑あるいは︑政権から個人に対する借款や公債などの分割払という形態︑私的取引の領践にお

ける投機的な不動産の処分における分割払や海上保険料の支払などの形態の生成をもって︑割賦販売の歴史の誕生と

断定する︒また︑

かか る見 解は

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の両教授にあってもみられる︒

割賦販売の起源について︑両教授は次のごとく述べている︒﹁割賦信用は非常に古い方法で︑多分信用それ自体と

同様に古いものであるoそれはキリスト教よりも︑もっと古くさえあるoバピロニア人やフエニキャ人によって︑海

上保険と関連して︑あるいは制約された規模で行われた︒HV︼ ロ

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にしたがえばロ!マにおいては︑シlザl

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と同一時代の人物であるわ

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は︑大火の期間中に住宅を買上げるととによって︑

づいた︒そしてそれを割賦法で売ったのであやじ 一財産をき

しかし︑割賦販売信用は︑第一に単なる割賦払を意味し︑あるいは︑個人的な財産の媒介に基く信用でなく︑商品

の売渡しを媒介とする信用である︒第二に企業の営業として直接︑間接行われる︒第三に企業の取得する割賦販売売

掛金

あるいは割賦販売手形(割引割賦販売手形)として企業の資産となるべき性格︑形態のものである︒第四に現

金支払でなく︑全部︑あるいは一部分の支払が将来において︑総額ではなく︑分割で︑しかも定期的︑継続的になさ

れるものである︒第五に割賦販売契約書の諸条件にしたがって行はれる商品販売を媒介とする金融取引である︒

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六 九

(8)

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

割賦販売信用のかかる性格に比し︑上記において割賦販売の誕生として殺述されたものは︑単に全部︑または一部

の支払が将来において︑分割払で行われるというに過ず︑

しか

も︑

それは政権︑個人の財産の処分︑

ある いは

︑税 金︑

保険料金の負担にかかわる︑単なる支払の一形態を意味する割賦信用であるから︑かかる割賦信用を︑損益計算的思

考に基き︑商品の販売を楳介とし︑営業として企業が︑商品の購買者に対して与える割賦販売信用と同一視すること

は適切と思考されない︒

ただ

このような割賦払という新決済方法の生成が︑後日企業の商品販売の分野に︑従来の現金販売︑掛売販売と

もに︑割賦販売として導入されるに至ったとき︑はじめて企業の割賦販売信用として成立することになる︒

(2) 

先駆的割賦販売信用の成立

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ロ教授が近代割賦販売の歴史としで一規定しているものには︑近代的割賦販売信用と前近代的割賦販売信用

との︑二つの範時に大別さるべきものが混在していると思考される︒

そとで本稿においては︑後者を先駆的割賦販売信用の成立︑前者を近代的割賦販売信用の生成発展と題し︑会計学

的な見地から考察する︒

1  初期 の高 価口 聞の 取引

商品の割賦販売は︑

一 八

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ニューヨークのカウパlスウェート・アンド・サンズ商会

アメリカに紹介された︒この商会は現存している︒

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この制度は︑氷い間U

m u 話回という自において行われていたのを︑

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(9)

であるといわれているが︑その真一合は不明である︒

割賦販売は︑最初家具に適用され︑

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ロ可などの膚でも採用し︑さらには飽の諸都市にも普及していった︒

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の両教授は︑﹁割賦販売の現代的形態(匹︒匂

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一八二八年バリから帰ってきた

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によって︑英国に導入された︒その頃パ

リーでは︑それはロロ皆吉︼という届によっ

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︑明かに行われていたので︑家具製作商(釦片山同自え

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にそれをすすめたのであった︒アメリカにおいても割賦方式の採用は︑全く古くからあった︒それは一八

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lヨークに導入された︒それは最初

家具に適用された︒それは家具というものは元来たまたま掛売

(3

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これらの企業のあるものは︑現在では家具のみならず︑敷物︑寝具から家事用品の一切ハ

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を取扱っている︒商売が発展するにつれて︑それは頃合ひの︑そして︑安価な物口聞にまで普及していっ

た︒大きな家具商会は︑危険の負担について用心深く︑相当の高所得の責任をもてる買手に限定して販売するよう努

力した︒しかしながら︑お客の多くは︑賃金所得者達

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恰好のサラリーを受取る専

間的職業者達

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パーセントは中小企業者連(由自巴

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ロ)で構成されていた︒も

っと裕福な環境にある人々は︑割賦販売に赴く理由は︑少しもないのである︒

近代 割賦 妓完 信用 の会 計的 考察

六 九

(10)

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六九四

ある 企業 では

お客の財政的無責任をなくするために︑

ある 階級 や︑ ある 民族 や︑

ある区域の住民などを排除する

規定を設けていた︒大商会の典型的な販売は︑五弗から数千弗となっている︒大戦前の平均額は︑約七五弗から百弗

であった︒お客との契約は︑賃貸借契約

Q0 20 ) か ︑

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mo﹀かの形式をとるのである︒売

手はつねに不履行の場合︑払込済の割賦金を返却せずに︑商品を取戻す権利を留保した︒

大部分の家具商会では︑約一

O

パーセントの頭金

(

H H M O E )

を要求し︑信用のノーマルな最大期間は約

一八カ月となっていた︒買手の選択に充分注意するので︑詐偽から生ずる損失は比較的少なく︑契約不履行は︑

に予知し難い偶発事件によるものであった︒

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は︑この制度が適用された︑第一一番目のものである︒シシガIきシン

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一九世紀の中頃から割賦法で︑その製品を売り始め売︒そ

してこの制度ほ︑競争者にすぐ普及した︒

家具販売とミシン販売との根本的な相違は︑後者の販売が主に巡回代理商によってなされたということである︒彼

等の常得意は主として家具の得意先より裕福でない買手で構成されていた︒︑シンは当初殆んど家庭の婦人

( 片 町 ︒

者 ︒ s o

︒同

仲 }H OE 向B 日付 )に よっ て買 われ たの であ る︒

セールスマン遼は︑商品を処分せんがために不当な説得を行

う危険があった︒一ュ!ヨ!クにおいては︑﹁法的救済は︑物品回収の訴法によるのみならず︑契約不履行の買手に

体刑を課することになっていた︑訟訴により︑少なからず実刑が課された︒﹂(昨日

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(11)

頭金を支払い一週五

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セントを支払って買うことが出来たが︑しかし︑もっと高いミシγ

は ︑

その割合に応じて変更

された︑信用の最高期間は︑一年を超えるものもあった︒

ミシンの販売は︑貧乏な裁縫師

( ‑ B U R S E E

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ロミろに普及していったのだが︑ことに旧式な劣悪な条件の下

で労働者を酷使する制度

2 4 2 E E m

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の下に置かれていた裁縫師が多かったので︑その危険負担はより大

きかった︒しかし︑たとえ︑顧客の階級が︑家具商会のそれよりも︑やL劣っていたとしても︑尚ミシシ業の割賦販

売は︑高価口聞の系統

( E m p m g a o

回ヨ吉田)の中に包含されるものであった︒

高価口問割賦グループのうちで︑第三番目に発展したのは︑ピアノ業

( 1 8 吉 田 Z 2 1

であ った

ピアノの割賦販売は︑半世紀余も以前から始った︒そして今日では︑その販売方法は世界的なものとなるに至って

いる︒ピアノは高価な商品であるので︑社会的に比較的に上流な人々から買われるので︑この方法の悪用は遥かに少

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頭金が少くとも三分のてあるいは︑それ以上とられる︒そして︑

に準じた大きさの月払額を以て︑二年から三年の聞に取引を清算する取り決めが行われる︒

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弗もする高級のピアノは︑それ

数十 年以 前︑

一デパートメント・ストアーが︑

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頭金五弗︑残金一週一弗支払で販売すること

を広告したとき︑上位の製造業者は︑割賦方法の普及を試みたこの制度を称して︑

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と特徴づけた︒現在ニュヨ!クの一大デパート

メント・ストアーは︑同様な方法で一年に約三百万弗のピアノ販売の売上をなしたといわれる︒

ピアノ販売においては︑賃貸借契約

Q0 20 )

の形式がとられる︒比較的商品の価格が高いため︑顧客の程度も高

く︑問題の生ずることも余りなかった︒割賦販売口聞の取り戻しというととは︑めったに無かった︒

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六九 五

(12)

近代割賦販売信用め会計的考察六九六 初期の高価口問割賦販売の最終的な範時は︑書籍である︒

一 八

OO

年頃英国において︑最初にみられた方法は︑出版前にセットで予約を受け︑前金で集金するものであった︒

第二の方法は︑前もって予約を勧誘し︑毎冊発送される都度集金するものであった︒最後の方法は︑印刷技術が改良

され

︑ 生産のスピード化が可能となったとき︑

つま

り︑

一九世紀の中頃に導入されたもので︑

それは置ちに全巻発送

L︑それから割賦によって集金するものである︒

一九

OO

年以来個々の本を売る巡回図書代理商の数に応じて︑非常

に増加した︒こうしたやり方は︑殆んど窓用する者は現れなかった︒書籍の割賦販売は︑商品の価額と買手の程度の 双方において︑ミシンとピアノの商売のほぼ中聞に位していた︒

要するに︑高級口聞の割賦販売の起源は︑現金払ハ

n g H H

乱︒

ぎロ

)

か︑または︑妥当な信用期聞を置いて全額支弘を

するか︑そのいづれもなし得泣い人達に対して買うことの出来る様にして︑売手の販売額を増加せしめようという業 者の慾望から生じたものであった︒責任ある業者によって︑

しかも︑責任ある買手のためにおこなわれる取引は︑利

益的であるのみならず︑信用拡張の有用な形態宣

5 0

同 巳 同

Oロロえ

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伊丹

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︒ 2 

安価品の取引

割賦

販売

が低

廉口

問︑

ならびに生活程度の低い買手にまで拡張したのは︑大分後のことであヮた︒

一 一 ュ

lヨ!ク市に

十九世紀の最絞の一

0

年閣の所産であった︒この種の商売の特徴は︑始めは行荷人(℃色色男叩)によって

行われたといヲことである︒行商人というのは︑家庭から︑家庭えと商品を担いで歩き廻る勧誘人(宮忌刊誌ムロ)か︑ お

いて

は︑

あるいは︑行商小売人

( U E

︒同

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として活動したものである︒大商会は少く︑多︿は小さい業者である︒

回収 扱商 品は

︑家 具︑ 庭家 用品

︑ ミシンのみではなく︑衣類︑汽船の切符︑

または︑貧之人や移民によって買われたあ

(13)

らゆる種類の物品であった︒

ニューヨーク市における︑これらの行商人には三階級があった︒

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得 意 行 商 人

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印)

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割賦行商人

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け宮 内出 足印

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行商小売人(宮注目白骨向日目印)

得意行商人とは︑白を持っていないし︑また︑書いた契約書をとらないで商品を売り︑

また

一週間毎に既定の金

額を支払うという得意先の口頭の承認で行うのである︒契約書なしで行われるということは︑彼等が危険負担の選択 に非常に注意深いからで︑彼等が裁判所に訴えたということは聞かれないと称されている︒彼等は︑個人的な面識や 信用調査の原始的な方法に依存していた︒この制度は昔からのしきたりにもとづ︿ものである︒

割賦行商人のうちには︑勧誘員(℃己

‑ o g E

山口)といわれるものがいる︒彼等は︑無智な人や貧しい人遣の間で︑

せ っせと自分の仕事に精励したが︑悪用のいろんな方法えの発展の機会を与えた︒

第三の行商小売人は︑名前だけで︑あらゆる品物を取扱う小売人である︒彼等は屈を持っていないが︑しかし︑卸

商人から商品を買った︑

そして白からの名で割賦で販売している︒彼等の屈は︑帽子の下

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一 戸H ‑ 仲 田 V ω

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か︑たかだか彼等の住んでいる室

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る︒

寸インチキ︒割賦販売

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植 山

口 印

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叫)は︑始め︑宝石︑時計︑書籍︑花瓶︑装飾用時計︑

写真

︑ 安びか物といったような装飾品なとを取扱ったのである︒これらの取引の多くは︑良心なき詐歌︑実際上の盗みを示 すものである︒古い﹁イシチキ﹂割賦販売は︑大体消えてなくなったとはいえ︑

一 ュ

lヨlク市には︑非常によく似

近代割賦販売信用の会計的考察六九七

(14)

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六九八

た割賦制度のやり方が今も尚家具や宝右の場合に残っている︒

家具商における普通の形態の一つは︑クラブ法(の

Z σ H )

宮口

といわれるもので︑会社の代理人あるいは集金人が︑

買手を契約書にサインさせるように誘導する︒それによって買手は一'七弗・五

O

仙に なる きで

一週二五仙を支払う

ことを承認する︒全額支払ったとき︑買手は価額相当の品物を選択する権利をもっ仕組となっている︒尚︑毎週くぢ

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当選者は将来支払を要せず一七弗・五

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仙の写真の発送を受けるという趣旨の内容である︒ニユY

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一九一五年この問題を調査したとき︑かかる富

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が末払であったといわれる︒かかる割賦販売制度で坂芳する家具商会にかんする多数の苦情

は今日も尚あるといわれ︑不満の主なものは︑発送口聞が選択日間と相違したり︑非常に貧弱なものであるという苦情で

ある

宝石商会の場合においても︑割賦販売価額が真価よりも過大であることがじばしばあった︒ ︒

賦販売をはじめたのは︑

なお

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と切号宮目的の両教授は︑ジシガI裁縫会社(叶V02Dh

刊号

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年頃であり︑ピアノ営業では一八七宜年以来のことであるといっている︒

近代的割賦販売信用と先駆的割賦販売信用

一八

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年代においては︑高級品として家具︑ミシン︑ピアノ︑書籍が︑低廉品として衣類︑宝石︑安ピカ物など

の商品が︑割賦販売業者によって割賦販売されるに至った︒そして割賦販売は︑頭金︑割賦支弘期間︑賃貸借契約︑

または動産抵当の形式による商品取引の条項を含む割賦販売契約によって行われたので︑それは近代的な割賦販売と

形式的には異なる点が認められなくなった︒しかしこの時代の割賦販売信用は︑商品の販売業者が商品の購買者に

(15)

対して︑自己の損益計算的思考に基いて︑自己の資力を限度として︑信用を提供したに過ぎない︒したがって販売業

者にとっては︑商品の割賦販売高は割賦売掛金なる︑長期に一旦る債権︑

つまり︑固定的な資産の一項目となった︒か かる割賦売掛金なる企業の固定的資産は︑客観的にはまだ不確実な資産にして︑流動性のない不安な資産と思考され

たのである︒こLにこの時代の割賦販売の会計学上の歴史的性格が匪胎する︒

販売業者がいまだ手工業品︑

ない

し軽

工業

口聞

を︑

専ら行商人ゐ販売手腕に依存し︑耐久性のある商品を割賦販売す

る場

合︑

とくに自己資木を限界として割賦販売をなさんとするとき︑彼等は近代産業が意識する大旦旦生産に基く過少

消費

︑ つまり︑命がけの販売の必然性を︑現在の業者が切実に自覚している程痛切に感ずるものでなかった︒それは また近代産業が操業度に基いて製品原価を算定し︑金融費用を原価計算して︑商品の割賦価格を決定し︑

販売計画を

達成せんとする営業方針とも異なる販売であったから︑不当価額での販売︑

インチキ既売法なる様相を露呈し︑商品 生産の発展を阻害することさえ生じた︒かかる段階にあっては割賦信用を︑

商品販売に従属せしめ︑割賦信用原価を 商品売上原価と分離して思考する必要はなかった︒成売莱者は割賦販売資金を銀行に依存することなく︑自己資本に

依存して賄っていたので︑

金融機関によって支国きれず︑割賦販売を白︑王的に︑自由に営むことが可能であった︒

(3) 

近代的割賦販売信用の生成発展

近代的割賦販売信用の歴史的発展は︑自動車産業の発展︑

金融会社の発展︑割賦販売の一般商品えの普及なる三項

目を通じてみられる︒

自動車割賦販売の起源

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

六九 九

(16)

近代割斌販売信用の会計的考察七

OO

自動車産業は︑十九世紀の終り頃︑欧洲から︑最初は仏蘭西から︑富豪のためのゼイタク品として輸入されたわず

かな自動車にはじまったが︑わずか十年ばかりの間に︑全アメリカ産業の最大のものとなる程に急速に発達したので

ある

ハ註)ア ︒

jp カ白 動車 産業 は︑ 誕生 約十 年の 一九 一一 三年 国勢 調査 で︑ 主要 注業 の第 一位 とな り︑ 三︑ 一六 一二

︑三 二七

︑八 七四 弗 (卸 売価 額﹀ を一 示し

︑ま たア メリ カに おけ る乗 用と トラ ック の登 録数 は︑ 一九 QO

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八︑

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台か ら︑ 一九 二六 年に は二 二︑ 三四 二︑ 四五 七台 に激 増し てい るの 一九 二六 年に 自動 車産 業に

︑直 接間 接震 はれ てい る入 は約 三百 五拾 万人 で︑

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八︑

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る︒

一九 二五 年の 自動 車工 場の 固定 資産 は一

︑八 八八

自動車産業における革命は︑大戦に入るほんの少し前に完成された︒生産における驚異的な暗加正価格の低下とは︑

新しい階級の使用を継続的に引き入れた︒この変化と共に︑販売方法と製品の処理とに︑新な変更を必要とするに遷

った

自 ︒ 動車 が︑

ゼイタク品として︑金持だけが買うという古い時代においては︑現金取引が唯一の方法であった︒

しかし︑中産階級︑それより低い所得階級または農民︑比較的富んだ給料取などが︑圧倒的な購入希望者になって

来たとき︑巨額な預金もなく︑現金購入も不便と考えるこれらの人に買わせる何等かの方法な導く機会が生ずる︒彼

等は住宅や家具を割賦方法で購入した経験から︑

この方法が発達する理由があった︒ この方法が好都合と考えた︒他面︑顧客よりも︑小売業者にとって

有蓋卒(己O

宮 内 凶

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ろが流行する以前の時代においては︑自動車販売は極めて季節的な商売であった︒つまり︑早

春とか︑夏に偏ったのである︒

(17)

販売量の漸増と共に︑製造業者は︑大量生産の利点︑それは﹁価格の引下げを可能ならしめる﹂ために︑そして︑

市場を獲得すること︑これは﹁規則的な継続生産を可能にする﹂ために不可避的と考え︑﹂れらに即応し始めた︒季

節的 生産 では

工場の不稼動と労働の休止とを生じ原価を高め︑企業の経営を困難にする︒

自動車の需要が︑

一年の内数ヶ月しかないと︑小売業者︑卸売業者が製品を手持しておくか︑生産者が生産制限を

する

か︑

その いづ れか にな る︒ もし

︑臨 給者 (円 回目 印可 思ロ 件︒ 吋由 )が 処分 する とき だけ

ストックに対して現金支払をす

ることが許されるならば︑回給者はストックに要する莫大な資金が不要となるので︑この困難な問題は︑解決される

﹂とになる︒こ与にも割賦販売制度導入の理由があった︒

一九

O

年に至るまでは︑消費者に関し現金取引は︑一般的原別であった︒自動車の数の増加とともに︑また︑白

動車の取得を望む中産階級の買手グループの希望によって︑新車の代りに中古車を買う習慣が生れた︒中古車販売の

増加とともに︑業者は買手に譲歩なすようになった︒

一九

O

年以来譲歩は増大した︒特に大平洋岸は︑この園の他

処よ

りも

より長い期間自動車を利用できる気候であり︑

また良い道があった︒次の二年あるいは三年内に定期支弘 の方法で︑譲歩するという制度が普及し︑次第に新車にも適用されるに至った︒

その取扱方法は︑業者によって著しく相違し︑

また︑その期間も種々雑多であったが購買大衆に対し︑新寧にし ろ︑中古車にしろ︑継続的割賦方式で︑主として月賦払で︑車の販売代金の支払を認める習慣が成立していった︒で は販売業者は︑車代を製造業者に支払うべく︑如何なる方法を講じたであろうか︒

販売 業者 は︑ 地方銀行に買手から受け取った手形を割引すべく努力した︒しかし︑

かかる手形は信用の対象として︑

また︑地方銀行の慣行上から難点が認られまた

もし業者自身の信用が良かったとしても︑買手の支弘能力を保証 近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

七O 

(18)

近代 製紙 販売 信用 の会 計的 考察

O 七

する適当な機関がなかった︒

買手の手形の多くは︑何カ月にも亘るものであったので︑この手形は銀行の要求する流動性の要素に本質的に欠け

ていた︑就中︑未払割賦金の集金について︑買手を監督する部門を設置することはむずかしかった︒

販売業者と買手とのこの事情は︑不可避的に割賦販売の方法に適するような信用機関の成立を要求した︒

更に重要なことは︑製造業者からの配給業者に対する庄力であった︒自動車は特殊な例外を除き︑現金で販売する

慣習であった︒このため彼等の資本は不足した︒量産される寧を︑季節的需要が来るまで︑無限に手持しなければな

らな いと すれ ば︑

販売生産を制限しなければならなくなること当然である︒

ここに︑製造業者︑配給業者︑小売業者︑消費者のすべての要求を満すベく︑信用会社公百円同日付

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あ るい は︑ 金融 会社 (片 山口 問ロ

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印 )が 設立 され

その解決を見出されなければならなかった事情があった︒

金融会社の発達

割賦販売信用の近代的性格を明にするために︑割賦販売信用機関の生成過程を嬰述する︒

未収入金(︒

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あるいは︑受取勘定(誌のぬ言︑

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を抵当にして︑金を借りるという方法は古く︑

それは古代にあったし︑

また

ハンザ同盟都市や中世の伊太利の諸都市に空で遡る︒アメリカでは︑多分この山刀法で

最初に行われたのは︑

アス ター (旬

H E V S σ k r z o

ろが彼の快走船で支那からの出荷にかんして作成された書類に

ついて金融された事実であった︒

商人が資金を必要とし︑地方銀行から前金を得ることが困難であヮたとき︑遠隔の地にある入︑

また

は︑

より大き

な中心地にある人は︑サービスを彼等に提供することを始めた︒商人は自丹の約束手形︑あるいは︑顧客の手形をブ

(19)

ローヵlに渡した︒ブローカーは銀行か︑その他の貸手にこれらの手形を売渡し︑一定の手数料(ロ

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を取得した︒手形ブローカー業務の発展に応じて商業手形商会

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u m H v m w H F 0 5 0

﹀が成立するようにな

る︒これらは次のようないろいろの名称で知られている︒

信用会社

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割引会社

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商業信用会社

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刊という用語の代りに︑の

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氏︒ロとか可己主などが使用されることがある︒

商業手形商会の共通的な点は︑個々の借手と銀行との聞に仲介者として行動することである︒その能力は手形を見

分けるエキスパートたることにあり︑取扱う手形を裏書するものではない︒初期において彼等は本来の手形ブローカ

l業務のほかに︑受取勘定

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や売上受納♀

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の買入も兼ねていた︒

無通告制度(田吉宮田丘ロ︒ロ・ロ

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の下で︑受取勘定の譲渡を取扱った最初の信用会社ば︑

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五年春に設立されたシカゴ商業信用会社(冨

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氏によって一九

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と組織変更され今日におよんでい

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一九二五年までは割賦販売手形を取扱うことなく︑現在も関心を有していない︒

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近代 割賦 販売 信用 の会 計的 考察

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近代 割賦 販売 信用 の会 計的 表委

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ロ凶刊を創立し︑割賦購買金融をなした︒正確な時期は不明であるが︑割賦手形

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における櫨詰産業と関連し

て発達したもののごとくである︒

当時卸商によって︑

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トオ モロ コシ

エンドウ一旦その他の産物の大部分が契約きれ︑権詰業者から製品が発

送されるや否や︑彼の発注額の二十五パーセントが︑十日間化支払われるのが︑その当時卸商の慣習となっていた︒

次の二十五バiセγトは九

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日闘に︑次の二十五パーセントは六カ月間に︑最後の二十五バ1セγトは九カ月の間に

支払 われ た︒

年に

︑ ナショナル・トラスト・アシド・クレヂット・カンパニーは︑かかる契約を異受たのである︒この会社は一九一四

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刊に組職変更され現在までその名称で存続している︒この会社

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﹀の取扱を始めたのは︑一九一七年二月以降のことである︒

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が設定され︑仲買人や製造業者の未収入金にかんする貸付︑為替手形の買入︑などの業務をな

した︒その後口︒

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lクで今も現在の金融会社のう

ちで最大の一つとなっている︒

殆ん ど同 時に アン ダー スシ 氏( 宮司

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より︑一九一二年にはハi

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によってこの原則を適用する信用がなされた︒

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モン氏は土地に対する割賦契約書を作成した最初の人であり︑不動産割賦を金融するやり方を始めて適用した人とし

(21)

て注目される︒

受取勘定を取扱う金融会社の出現よりも︑或点においてもっと重要なことは︑勤労者銀行(同口内宮田片岡山巳切山口即日口問)

のモリスプラン(冨

2

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宮山口﹀と称されるものである︒

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0ロ﹀を開始した︒モリスパンクは銀行経営の

革命を完成したと称さているが︑

それは三つの基本原則にもと守ついてされた︒

第一点は︑普通の銀行は主として︑

販売か︑生産の目的のために信用を与えるので︑勤労者は高利貸か︑質屋以外 に信用をうけうるところがない︒このような勤労者に対し︑消費目的のために︑見返り無しで︑個人誼券に対する貸

付を︑割賦返済で認めようというのである︒

第二点は︑勤労者は人格と正直さと︑将来の収入能力以外には︑'有価証券として提供しうる何ものも持っていない︒

銀行はこのような勤労者に対する貸付は︑

一つには危険を招くもの︑二つには貸付は返済されるまでに相当の期間を

要するものと判断し.

それは銀行経営に必要な安全性︑流動性を害するとして相手にしない︒このような勤労者に対

し.調査の結果︑もし正直で.

必要 が事 実で

その貸付が予想の収入に対し妥当と考えられ︑そしてもし彼の手形に

裏書人として二名の友人が署名するならば︑彼に信用を許すというのである︒

第三点は︑注意深い︑

そして綿密な計算によって︑返済の確実な信用期間を決定し︑割賦方法で返済せしめること である︒返済を金額素早く要求することは問題である︒返済を安全にさせるには或時間が必要であり︑

また︑適当な

金額でなければならない︑他面︑最終的支払が余りも長すぎるのは︑

また危険を伴う︑何故ならば︑彼や彼の裏書人

近代 割賦 販売 信用 の会 計的 察考

七O五

(22)

近代割賦販売信用の会計的考察七O

にとって︑長引いた期間の中には色々な事情が起って収入能力に変化を招来することがあるからである︒割賦で衣却 することは︑秩序正しい個人の予算制度として期待され︑自発的な強制貯金制度ともなる︒

以上の三原則に即応し︑五

0

週間の割賦期間の採用︑六パーセントの利子︑ニパーセントの手数料という融資条件︑

つまり︑金融に関する損益的計算思考を確立し︑営業として金融業務を開始したのである︒詳細な計算にもとづくこ

の営

業は

︑ 当初この方法を十分理解しえなかった人々には︑種々疑点がいだかれたようであるが︑それは結果的事実

としても成功となって現れた︒

一九二六年のビジネスの量は︑一六六︑

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弗に達し︑全国一二

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以上のモリスバンクの総所得

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三︑

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弗を超えるに至ったのである︒特に損害額は一パーセントの十分の一よりも少

かったのである︒

更に興味あることは︑勤労者金融会社は当初から自動車の購入を助成する信用を与えたのである︒

動車割賦販売の発端をなしたのであるが︑この一年を終ったときこの方法は放棄されたのである︒それは当時の役人

一九

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年は白

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ゼイタク口聞に対する信用に反対し︑消費信用に対して偏見を強く抱いていたのに譲歩したためである︒

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一九一七年モリス氏は

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肖印)との関係で︑その方法を再びゃ

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ることになったo二︑三年後︑兎も角も︑この事業は︑

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に移された︒モリ

ス氏はその会社の社長となり︑それは現在も大きく育っている︒

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弗を超え︑そして顧客の数はスツ

Iドベーカーの閏内の業者は組織の一約八五パーセントを示

一九二六年にこの会社によって買取られた手形の量 して

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(23)

買入 れ自 動車 手形 (同 苫円

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正規の商売として︑長︑初に信用として扱ったのは︑

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と称されているが

実際 には

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である︒彼は一九一三年十二月に︑L・

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lバーという商号で

自動卒金融業をぽじめ︑

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1パ!という名称の会社にしたQ

一九一五年五月マドック氏(冨吋・開門凶巧ω

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ウイリIスとスチュワルトの両氏(冨円

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再三)にすすめて︑

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を設立した︒この会社は一

九一六年四月︑ニューヨークの信用会社に承継された︒

一九一六年の自動車ショウに於て︑主だった製造業者が協同して総合金融会社脅設立しようとしたが不成功に終っ

た︒しかし︑既存のめ︒

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︒などの金融会社は︑自動車金融をなすために

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一つの部門た開設し始めた︒

だが︑最終の支払がなされるまでは︑自動平を取り民す必要が生じた場合は︑いつでもそれが問来るような先取特

権を設定することに困難があった︒それは州により適用される法律の条項は異なり︑自動車にかんする特別法もなか

ったからである︒それ故に︑各州における規定にしたがって契約をなす三とを必要とした︒当初は三十一種以上のい

ろいろな書式が用いられたが︑次第に劃一的なものが作成きれるようになった︒

自動車の取戻し価額については︑小売業者が取得する小売販売手形(詰片山口DCZろは︑

小売業者自身によって裏

近代割賦販売伝用の会計的考察

C ‑じ

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⑴ 経済的一体性のみ 1 不可分一体説 2 密接不可分説

2.年間販売促進計画 図表4─2 年間販売促進計画例 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 社会行事 歳時 お正月 成人の日 バレンタイ ンデー 卒業式

事によりその宜偉効果を狙ふもの 4