古阿弥陀仏の造仏 : 応永年間の阿弥陀像造立活動
著者 林 宏一
雑誌名 東京家政大学博物館紀要
巻 15
ページ 107‑117
発行年 2010
出版者 東京家政大学博物館
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010314/
はじめに
中世には、信仰の多様化にともなうさまざまな造仏活動が行われたことはよく知られている。善 光寺式如来像の造立、あるいは聖徳太子像、清凉寺式釈迦像の造立などはそうした状況を表す最も 際だった事例であり、その活動を推進した各派教団の僧や聖とそれに結縁・助力した貴賤相交わっ た多数の人々の熱狂的ともいえる信仰心の昂揚が、その背景にあったことを読みとることができ る。
ここに取り上げる一連の造仏活動も、そうした中世的信仰世界の有様を伝えてくれる好事例とみ なされるので、今後の研究の基礎資料として紹介するとともに若干の考察を加えることにする。
1.春日部市常楽寺銅造阿弥陀如来坐像
表題の古阿弥陀仏という人物をはじめて知ったのは、かなり以前のことになるが春日部市赤沼所 在の新義真言宗豊山派の古刹常楽寺に伝来する応永 27 年(1420)銘銅造阿弥陀如来坐像を調査し た際のことであった。(註1)
当像は台座を含めた総高で39.2㎝、像高で21.7㎝を測る比較的小ぶりの金銅仏で、像容は童顔丸 顔の頭部をやや強く前に傾け、裙に覆肩衣を着け衲衣を偏袒右肩にまとい、膝上で弥陀の定印を結 んで蓮台上に坐した姿の当時通例の阿弥陀坐像である。不揃いな螺髪、鄙びた面貌、たどたどしい 衣文線の表現やあちこちに鋳切れや補鋳の痕をみせる手抜かりの多い鋳造技術を見ると決して上手 の作とはいえないが、素朴で地域色のつよい作風に親しみやすさの感じられる仏像といってよい。
様式技法的にみて当地域での造像とみなしてほぼ誤りなかろう。像の構造は耳のすぐ後ろを通るあ たりで外型を前後に割った像本体と蓮台を各々別鋳したのち、蓮台上面に像の底部をはめ込むよう に鋳掛けしており、その細工に際して像底部と蓮台の接続を整合させるために地付まわりを塗り込 めるようないささか雑な鋳掛けを施している。像全体が火中した痕跡を示すことから、この雑な鋳 造形表現学科 日本・東洋美術史研究室
林 宏一
1. 常楽寺阿弥陀如来坐像 2. 同 (左斜め)
3. 同 (背面) 4. 同 (左側面)
掛けは後世の補修の際によるものかとも判断される。現在蓮台より下は失われており、木製丸彫り の反花座が後補されている。像本体と蓮台の背面に分けて、次のような陰刻銘がある。
(像背面) (蓮台背面)
道願
法圓 明全 唯佛
祐賢 應永廿七年
融海上人 古阿弥 庚子七月十五日 祐全 尼子道阿弥
覚明
これにより当像は融海上人以下10名の僧尼が結縁合力して、応永27年(1420)7月15日に造立し たことが明らかにされる。「古阿弥」、「道阿弥」といった阿弥号の使用や「唯佛」といった名称から すると熱烈な阿弥陀信仰の徒による作善であることは明らかだが、ここにみられる僧尼の経歴等に ついては調査当時いっさい不明であった。その後自ら調査した中世金銅仏の在銘像や、やはりその 頃から活発に刊行されはじめた関東地方各県及び市町村の仏像調査報告等書を渉猟するなかで、時 期的、造像環境的に見て同一人物とみなされる名前を複数確認することができた。その代表的人物 が「古阿弥陀仏」で、時に「古阿」、「古阿弥」とも称し、当像を含め応永年間後半に造立された3躯 の阿弥陀如来像の結縁交名中に継続して名をみせている。そのことから小文の表題に彼の名を取り あげる次第となった。それでは、つぎに古阿弥陀仏の名をみせる作例を順次みていくことにしよう。
5. 同 (本体背面陰刻銘)
6. 同 (蓮台背面陰刻銘)
2.前橋市富士見町萩林庵銅造阿弥陀如来立像(市指定文化財)
常楽寺像についで古阿弥の名に遭遇したのは、『新編埼玉県史』の金石文調査で実査の機会を得 た旧富士見村萩林庵所蔵の応永34年(1427)銘銅造阿弥陀如来立像の銘文中であった。(註2)
当像は像高44.0㎝、常楽寺像と同様やはり童顔丸顔ながら鼻筋整い、ふくよかな頬とかすかに微 笑んだ口元の表情により健康的な明るさを感じさせる像である。上品下生の来迎印を結び、内衣に 裙を着けて衲衣を通肩にまとい、両足先をかるく開いて台座上に立つ姿はのびやかに整っており、
素朴で鄙びた作風ながら一種古雅な気品を漂わせている。像の構造は両手首より先を除く像全身を 外型を耳前で前後に割って足 を含めて一鋳しており、これに別鋳した両手先(後補)を挿着して いる。当像も鋳造技術は上等とはいえず、鋳造時の湯のまわりが悪かったらしく背面地付部右側に おおきく補鋳箇所があり、また右袖口部に厚く、左袖口部にうすく補鋳の痕が認められる。像背面 中央に設けられた光背 を避けるように、7行に及ぶ次のような陰刻銘がある。
林 宏一
7. 萩林庵阿弥陀如来立像 8. 同 (左側面)
(背面陰刻銘)
武蔵國太田庄南方吉羽鄕住人
大檀那 明法禅門 禅祐庵主 愛観禅尼 古阿弥陀仏 明圓禅門 妙賢禅門 了密禅尼
妙意禅尼
應永卅四年丁未五月十五日
銘文に見られるとおり、応永34年(1427)と常楽寺像に遅れること7年後の造像である。大檀那 明法禅門以下8名の結衆のなかに「古阿弥陀仏」の名がみえる。当像の本来の造立地とみなされる 武蔵国太田荘南方吉羽郷は、今日も久喜市の東部「吉羽」の地にその名を遺している。太田荘は鳥 羽天皇第三皇女八条院領として平安時代末期の成立にかかり、現在の埼玉県北東部の大半を領域と した武蔵国最大の荘園であったことはよく知られている。吉羽郷の地は文字通り太田荘南方で、古 利根川の支流青毛堀川右岸の低地・自然堤防上に位置し、縄文・古墳・奈良時代の集落跡高輪寺遺
9. 同 (背面) 10. 同 (背面陰刻銘)
跡のほか中世墓跡も発掘されていることから、早くから開発の進んでいた土地らしい。常楽寺の所 在する春日部市赤沼は、これより南方約 17㎞ほどの同じ古利根川左岸の地にある。地理的、時期 的に近接して行われた阿弥陀像の造立という状況から判断すると、この「古阿弥陀仏」は常楽寺像 にみえる「古阿弥」と同一人物とみなしてほぼ誤りなかろう。
大檀那として筆頭に名を見せる明法禅門は、「吉羽郷住人」とあるとおり同地の有力者であると ともに在俗剃髪の篤信な念仏の徒であったと想定される。愛観禅尼ほか明円、了密、妙意、妙賢は その家族か一族のものであろうか。禅祐庵主も所縁ある人物とみなされるが、「庵主」とあること からすると、すでに小規模な念仏堂のようなものが存在していたことが窺われる。当像は、そこの 本尊として新たに造立された可能性も考えられよう。このなかでひとり阿弥号を称する古阿弥陀仏 はやや異質といってよく、常楽寺像の事例からみても当地の住人とは思われない。おそらく彼は一 所不住の遊行聖のような人物で、この造仏に際しては勧進的役割をになった存在とみるべきであろ う。ここに古阿弥陀仏を介して、明法禅門以下吉羽郷在住の熱心な念仏信仰の徒による阿弥陀像の 造仏作善が果たされた状況が確認される。
3.松戸市光明寺銅造阿弥陀如来立像(市指定文化財)
さらに今ひとつ古阿弥陀仏とみなされる事例を知った。西川新次、関根俊一両氏が『三浦古文 林 宏一
11. 光明寺阿弥陀如来立像 12. 同 (本体右斜め) 13. 同 (本体左側面)
化』第 32 号に発表された「善光寺式阿弥陀三尊像の形式を巡って−千葉県下の遺品を中心に−」
(昭和57年、三浦古文化研究会)の論考中にとり上げられた千葉県松戸市二ツ木光明寺の所蔵にか かる応永23年(1416)銘善光寺式銅造阿弥陀如来立像がそれである。(註3)
当像は中尊像のみの単独像で、古くは付近にあった阿弥陀堂の本尊仏として伝来した像である。
像高45.4㎝、裙に内衣を着け衲衣を通肩にまとい、左手善光寺式如来特有の刀印を結び(右手先は 欠失)、両足先をかるく開いて台座上に立っている。萩林庵像と同様素朴穏和な造形をみせており、
やや面長ながら人懐かしげなほほえみを浮かべた面貌表現、なで肩で長身の体躯、それをつつむ着 衣の類型的でおおまかな衣文表現等が当地域での造像を物語っている。銘は、背面腰部に次のよう に陰刻されている。
(背面腰部陰刻銘)
教阿 祐全 道性 祐光 祐真 妙善 慶阿 四十八躰願 融海 明全 道圓 妙信 古阿
應永廿三年 五月 日
常楽寺像に先だつこと4年前の造像である。この像の銘は、常楽寺像及びその後の萩林庵像の造 14. 同 (頭部右側面)
15. 同 (本体背面) 16. 同 (背面陰刻銘)
像を予告し、またその造像の背景を読み解く上に きわめて重要な内容を持っている。ここに見える 12名の結衆のうち融海(上人)、明全、祐全は常楽 寺像に重ねて登場する人物とみて間違いなく、彼
等と作善をともにした「古阿」は、「古阿弥」その人であることは明白であろう。いづれも熱烈な 念仏信仰の徒とみなされ、ある程度集団を組みながら各地を遊行教化し、機が熟すれば諸人の善根 を集めて教主阿弥陀如来の尊像を造像していた状況がここに覗える。融海は常楽寺像で上人と称し ていることから、この結衆中の中心人物とみなされ、正規に出家得道した僧侶であろう。「融」字 を用いていることからすると融通念仏の徒であった可能性が高い。古阿以下の他の人々は在俗、遁 世者さまざまと推測され、教阿、慶阿等は古阿と行をともにしていた人物と考えられる。
また、「祐全」に注目すると、現在東京都奥多摩町古矢家の所蔵となる応永33年(1426)銘下総 国下河辺荘上高野(現幸手市)香取大明神鰐口(註 4)に「大工祐全」の名がみえる。こうした名 は中世において同名異人の場合も多いことからすると必ずしも同一人物とはいえないが、時期的に も地理的にも近接していることから同じ人物である可能性は否定できない。もしそうだとすると、
彼は熱心な念仏信者であったとともに、光明寺像、常楽寺像の制作に携わった工人の一人であった と考えることもできよう。
さらにここでもっとも注目されるのは、当像の造立趣意を表す「四十八躰願」という文言であ る。文字どおり素直に解せば「四十八体の願いにより」と理解される。「四十八」という数字は無 量寿経等に説かれる阿弥陀四十八願から導き出されたものであることは容易に了解されるが、
「四十八体」という表現はそこにしかるべき数量の量計を含んでいるように読み取れる。これは いったい何を意味するのであろうか。ここで、光明寺像に先行し、これとほぼ同意趣の文言を有す る阿弥陀像の作例があること紹介したい。栃木県宇都宮市の一向寺に伝来する応永 12 年(1405)
銘銅造阿弥陀如来坐像がそれである。
林 宏一
17.光明寺阿弥陀如来立像 像底部
18. 同 台座
わたって 1、105 文字に及ぶ多量な陰刻銘がある。銘の概略は、一向寺当住忍阿の発起により宇都 宮氏十二代の当主満綱が願主となって345人の僧俗男女が結縁合力し、長楽寺代々の尊霊と法縁諸 人の往生極楽を期して応永 12 年(1405)4 月 2 日に大工秦景重が造立した旨を記している(註 5)。
この頃「一向弥陀一仏」をとなえ諸国を集団横行していたことで知られる一向衆の勢力盛んなるこ とを象徴する造仏事業といってよかろう。ここで注目されるのは左肩法衣襟の部分に刻まれた銘 で、「一見弥陀身 必離三悪道 何況造立者 決定成菩提 四十八躰内 第二願 大旦那藤原満綱 発起一向寺 当住忍阿 旨趣為二親並志諸聖霊乃至法界也」とある。ここにみえる「四十八躰内 第二願」の文言は、光明寺像の「四十八躰願」の文言と相通じる用法であることは明らかであろ う。この銘の大意は「弥陀の真身を拝すれば三悪道からの離脱は必定であり、ましてや弥陀の像を 造立するならば成菩提は決定である。故にこの阿弥陀像を造立した。四十八躰の内の第二願であ る。」と読み取れる。浄土教典に説く弥陀四十八願の第二願「設我得仏 国中人天寿終之後 復更 三悪道 不取正覚」の文言が像の左右の襟に刻まれていることからすると、この「第二願」の文字 はこれにかかるとも考えられるが、文章の配列からすると「本願第二番目の造仏」と解釈するのが 素直に思われる。あるいは両様に用いられている可能性もあろう。
これらの解釈からすると、一向寺当住の忍阿を発起として類縁の人々が聖道浄土諸祖等融通一結 諸人の往生極楽を期して弥陀の四十八願にならい四十八体の阿弥陀仏造立を祈願興業し、その業の 第二願として当像を造立したと理解される。すでに当像に先だって第一願の像が造立されていたと 考えてよかろう。この理解に立つなら、光明寺像の「四十八躰願」の銘文の意味するところは明ら かで、一向寺像に連なる四十八体阿弥陀像の一として造立したことを表していると考えられる。
さらに一向寺像銘文中には、表題の古阿弥陀仏こと古阿をはじめ光明寺像に見える妙善、教阿
(複数いるがどちらかが同一人物の可能性がある)、常楽寺像に見える道阿(道阿弥)、萩林庵像に 見える妙意、妙賢の名が確認される。これらの人物は345人の結縁者のひとりとして一向弥陀一仏 を奉じた熱烈な一向衆徒であったとみなされ、一向寺像の造仏で確立された四十八体阿弥陀像造立 の意趣を受け継ぎ、各々時と場所を変えて多くの法縁・同行を募ってその願を実現していく活動を 繰り広げていった状況が浮かび上がってくる。このことからすれば、常楽寺像、萩林庵像は一向寺 像、光明寺像に続く一連の一向衆徒及びその法縁に連なる人々による阿弥陀像造立活動の成果のひ
とつと理解すべきものと考えられる。
おわりに
以上、古阿弥陀仏を軸として応永年間に造立された一連の銅造阿弥陀像を紹介するとともに、そ の造像背景の大凡を探ってみた。ここに取りあげた応永12年(1405)銘一向寺像、同23年(1416)
銘光明寺像、同 27 年(1420)銘常楽寺像、同 34 年(1427)銘萩林庵像は、時、場所こそ違え当時 関東各地で繰り広げられていた一向衆徒を軸とする熱烈な念仏信仰活動の中から生まれた阿弥陀像 であることが理解されよう。冒頭で述べたように当代の各派教団の僧や聖とそれに結縁・助力した 貴賤相交わった多数の人々の熱狂的ともいえる信仰心の昂揚が、こうした造仏活動に如実に表れて いるといってよい。ことにこれまであまり話題にあがることのなかった一向衆の徒による造仏活動 の具体的な事例を確認することができたことは、今後の中世彫刻史研究の裾野をより広げることに なったのではないかと考えている。匆匆の間にまとめたものなので、多くの誤りがあるかと思われ る。識者の御指摘、御叱正をお願いして筆を擱くことにする。
註1 常楽寺銅造阿弥陀如来坐像 埼玉県春日部市赤沼939
〔形状〕 如来形。螺髪は粒状で粗目。髪際一文字。肉髻珠・白毫相を表す。耳朶環ならず。頸部に三道 を表す。膝上で弥陀の定印を結び、右脚上に結跏趺坐。着衣は覆肩衣に裙、衲衣を着ける。衲衣は 左肩を被って右肩に浅く掛かり右腋下をくぐって再び左肩にまわり、背面に垂れる。
蓮台は蓮弁八方二段葺き、正面三弁のみ弁脈を陰刻する。木製の反花座は八方の反花に八方入隅脚 付きの框座。
〔品質・構造〕 鋳銅製。像本体は両耳中央をとおる線で外型を前後に割り、両手先をふくめて一鋳。原 型は土型か。蓮台は別鋳。上面周縁部を含めて一鋳し、像本体地付部と鋳掛して接合したものとみ なされる。左耳下頸部三道際に鋳切れの箇所があり、正面右腋下から腹部にかけても補鋳の跡があ る。現状、鍍金の跡は認められない。像本体背面に六行にわたって結縁者交名を、また蓮台背面二 行に及ぶ年紀を陰刻する。
〔保存状況〕 火中した痕跡を示し、上半身を中心に肌の荒れがめだつ。像本体と蓮台の鋳掛けは後世の 修理によるか。背面中央の光背用 穴及び背面中央下蓮台上面の光背支柱用と思われる穴も後世の 仕事と思われる。さらに蓮台底部の反花座柄受用の穴も、後世ノミで拡大されている。
〔法量〕 単位㎝
像 高 21.7 髪際高 18.8 頭頂〜顎 7.2 髪際〜顎 4.2 耳 張 5.3 面 張 4.4 面 奥 6.0 肩 張 10.0 臂 張 14.8 胸 奥 5.7 腹 奥 6.2 膝 張 16.9 膝 奥 11.1 膝高(左) 3.4 (右) 3.7
蓮台高 6.6 蓮台径 20.4 木製反花座高 10.0 同幅 23.4 註2 萩林庵銅造阿弥陀如来立像 群馬県前橋市富士見町原之郷甲1,791
〔形状〕 如来形。螺髪は大粒で旋毛形。髪際緩やかにカーブ。肉髻珠・白毫相を表す。耳朶環ならず。
頸部に三道を表す。上品下生の来迎印を結び、両足先やや開いて蓮台上に立つ。着衣は内衣に裙を 着け、衲衣を通肩にまとう。
台座は後補の木製(蓮台、反花、六角二段框座)蓮花座。光背は木製舟型光背。
〔品質・構造〕 鋳銅製。像本体は耳前をとおる線で外型を前後に割り、両足先・足 をふくめて一鋳。
さらに頭部のみ耳前のほか後頭部正中で型を割っており、三道下首廻りに亀裂がめぐる。両手先は 林 宏一
追記 本稿を作成するにあたって、次の方々に御協力、御教示を賜った。お名前を記して心からの 感謝の意を表します。(敬称略 順不同)
常楽寺住職山崎一一師 光明寺住職片川恵明師 萩林庵管理者髙山忠志 春日部市郷土博物館實松幸男 春日部市教育委員会中野達也
松戸市教育委員会倉田恵津子 同 関山純也 松戸市立博物館小高昭一 前橋市教育委員会馬場崇 埼玉県立歴史と民俗の博物館西口由子
註3 光明寺銅造阿弥陀如来立像 千葉県松戸市二ツ木30
〔形状〕 如来形。螺髪は粒状、小粒で整然と刻む。髪際緩やかにカーブ。肉髻珠・白毫相を表す。耳朶 環ならず。頸部に三道を表す。右腕屈臂し、左腕軽く垂下して刀印を結び、両足先を開いて蓮台上 に立つ。着衣は内衣に裙を着け、衲衣を通肩にまとう。台座はいわゆる臼型台座(蓮肉に八方二段 葺き反花座、 七方入隅円形框座)。蓮肉正面のみ芯状の線条を刻み、反花蓮弁も正面上段三葉、下段 四葉のみ二重輪郭線とする。また蓮肉上面正面側に唐草状の装飾文を表す。さらに蓮肉上面中央に 台形楕円型の円筒状受けを造り出し、像本体地付部を填め込み、固定するようになっている。
〔品質・構造〕 鋳銅製。像本体は耳後をとおる線で外型を前後に割り、両足先をふくめて一鋳。足 は 造らない。両手先は各々別鋳して袖口部に挿込み釘留め。台座は別鋳。蓮肉上面の楕円形円筒状受 け、反花座、框座をふくめて一鋳している模様。背面に五行にわたる陰刻銘を施す。像内中型の土 は除去されている。像全身火中した痕跡を示す。原型は土型か。面部髪際の一部に鍍金の痕跡が残 る。
〔保存状況〕 右手先及び左右の袖口部の釘を欠失する。
〔法量〕 単位㎝
像 高 45.4 髪際高 42.0 頭頂〜顎 8.7 髪際〜顎 5.4 耳 張 5.9 面 張 5.0 面 奥 6.8 肩 張 9.4 臂 張 12.8 胸 奥 7.0 腹 奥 7.7 袖 張 12.6 裾 奥 7.2 裾 張 10.7 足先開(内) 3.9 (外) 7.2 台座総高 18.0 台座高 14.7 蓮肉径 11.0 框座径 15.2 註4 『武蔵史料銘記集』(稲村坦元編 1966 東京堂出版)に拠る。
註 5 一向寺阿弥陀如来坐像の銘文の詳細は、北口英雄氏論文及び『関東彫刻の研究』・銘文集(久野 健編 1964 学生社)に拠った。