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定 着 させた なお NHK 連 続 テレビ 小 説 おしん ( 脚 本 : 橋 田 壽 賀 子 )が 昭 和 58 年 (1983)から 翌 年 にかけて 放 映 された 幼 い 主 人 公 が 冬 の 最 上 川 を 筏 で 下 るシーンが 印 象 的 で 強 く 国 民 の 心 に 残 った

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2 景観認知に関する調査 (1) 最上川に関する景観認知 ① 文学に現れる最上川 最上川は、松尾芭蕉の俳句をはじめとして、古くから和歌など様々な 文学作品に取り上げられてきた。主なものを整理する。 ○最上川を題材とした主な文学作品 時代 内容 古代 ・「最上川 上れば下る 稲舟の いなにはあらず この月ばかり」(詠み人知らず) 延喜5年(905)に成立した『古今和歌集』に収録 中世 ・源義経一行が平泉へ落ちのびる途中、清川から本合海まで最上 川を舟で溯る様子を記述。 室町時代に成立した軍記物『義経記』 近世 ・「五月雨を あつめて早し 最上川」 ・「暑き日を 海にいれたり 最上川」 『おくのほそ道』(松尾芭蕉) 元禄2(1689)に県内を訪れ、本合海から清川まで舟で下る。 近代 ・「ずんずんと 夏を流すや 最上川」 ・「草枕 夢路かさねて 最上川 ゆくへもしらず 秋立ちにけり」 『はて知らずの記』(正岡子規) 明治 26 年(1893)に芭蕉の足跡を訪ねて県内を訪れる。 ・「最上川の上空にして残れるは いまだうつくしき虹の断片」 ・「最上川 逆白波のたつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも」 『白き山』(齋藤茂吉) 上山市出身。昭和 21 年(1946)から2年間を大石田で過ごす。 文学作品に見られる最上川は、舟運に関連するものや、最上川の流れ の激しさ、自然地形が現れた峡谷の風景を象徴的に表現しているものが 多い。その代表が、芭蕉の「五月雨を あつめて早し 最上川」の句で、

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定着させた。 なお、NHK連続テレビ小説「おしん」(脚本:橋田壽賀子)が、昭和 58 年(1983)から翌年にかけて放映された。幼い主人公が、冬の最上川を 筏で下るシーンが印象的で、強く国民の心に残った。のちに海外 63 ヵ国 でも放映されている。 ② 校歌に歌われる最上川 歌詞に「最上川」(最上川上流部の別名である「松川」を含む)がある 校歌を持つ小中学校は県内に 65 校ある。その所在地を見ると、上流部か ら下流部まで分布している。各地域の土地の歴史や風土を象徴するもの として、最上川が流域で歌 い継がれていることがうか がえる。 ○歌詞に「最上川(松川)」が ある校歌を持つ小中学校 立川町立清川小学校校歌 作詞 斎藤磯雄 作曲 池田正義 さみだれあつめ 最上川 大海原を めざすよう 悠々として たゆみなく 技を 知識を 求めゆく 進歩の学び舎 おお母校 (一部抜粋) 白鷹町立鮎貝小学校校歌 作詞 鈴木與次郎 作曲 大沼学朗 澄みわたりゆく 大空の かなた飯豊の 峰遠く ここ松川の 水長し ああ清らなり わが山河 (一部抜粋)

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③ 最上川舟唄 かつての最上川舟運の様子を伝えるものに「最上川舟唄」がある。舟 唄は、川を上り下りする舟乗りたちが歌ったもので、流域には多種多様 の舟唄が残っていた。 現在に伝わる最上川舟唄は、昭和 11 年(1936)、流域の各地方でそれ ぞれに歌われていた舟唄を元に、大江町左沢在住の渡辺国俊が編詞、後 藤岩太郎が編曲したものである。2人は各地の舟唄を訪ね歩き、自ら舟 に乗って調子を合わせるなどして、新たな舟唄を創り出した。そこには、 かつての舟運に生きた人々の様子がいきいきと歌われている。最上川舟 唄発祥の地として、大江町では毎年、「正調最上川舟唄全国大会」が開催 されている。 2人の業績を称える碑が最上川を眼下に見おろす「日本一公園」に建 てられている。この日本一公園は、国指定史跡の左沢楯山城跡の一角で、 最上川と大江町左沢のまちなみを一望できる景勝地で、楯山公園ともよ ばれている。昭和初期の工事の際、工事関係者がここからの景色の素晴 らしさを「日本一の景色だ」と驚嘆したことに由来するという。 (日本一公園から見る最上川)

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(『大江町史』) (日本一公園の最上川舟唄碑) ○最上川舟唄 (ヨーエサノマッガショ エンヤコラマーガセ エエヤエーエヤエーエ エー エヤ エード ヨーエサノマッガショ エンヤコラマーガセー) 酒田 さ が だ さ 行 え ぐさげ 達者 ま め でろちゃ (ヨイトコラサノセー) 流行風邪 は や り か ぜ など ひがねよに (エエヤエーエヤエーエ エーエヤエード ヨーエサノマッガショ エンヤコ ラマーガセ) 股 大 根 まっかんだいご の 塩汁煮 しょっつるに 塩 しお しょぱくて くらわんにゃえちゃ (エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエサノマッガショ エンヤコラ マーガセー) 碁点 ご で ん 隼 はやぶさ ヤレ 三ヵの瀬 み か の せ も (ヨイトコラサノセー) 達者 ま め でくだったと 頼むぞえ (エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエ サノ マッガショ エンヤコラマーガセ) あの女 へな 居 え んねげりあ 小鵜飼乗 こ う が い ぬ り も すねがったちゃ (エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエサノマッガショ エンヤコラ マーガセー) 山背風 や ま せ か ぜ だよ あきらめしゃんせ (ヨイトコラサノセー) おれをうらむな 風うらめ (エエヤ エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエサノ マッガショ エンヤコラマーガセ) あの女 へな ためだ 何んぼとっても 足らんこたんだ (エーエヤ エーエ エーエヤ エード ヨーエサノ マッガショ エンヤコ ラマーガセー)

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④ 絵画に描かれる最上川 最上川は近代以降、絵画の題材として盛んに描かれてきた。最上川を 描いた主な画家として、日本画家の小松こ ま つ 均ひとし(1902-89 年)と洋画家の 真下慶治 ま し も け い じ (1914-93 年)がいる。 小松 均は、明治 35 年(1902)に大石田町深堀ふかぼりに生まれ、上京するま での 18 年間を最上川の近くで過ごした。その画風は水墨画を感じさせ、 強く掘り込むような力強い筆の線描写が独特な作風を生み出した。昭和 44 年(1969)から最上川連作に取り組み、長大な作品を次々と発表し、 文化功労者にも選ばれた。 ○小松均の最上川連作 作品名 スケッチ場所 視点場の状況 最上川(三ヶ瀬、鍋巻、はや ぶさ) 村山市長島 最上川源流(源流、長井付近 その1、長井付近その2) 米沢市白布高湯、長 井市 高台 冬の最上川 栗の花咲く最上川(上)(中) (下) 大石田町大浦 高台 最上川難所(三ヶ瀬、碁点) 村山市三ケ瀬、碁点 川沿い 春の最上川 大石田町今宿 雪の最上川 大石田今宿 (『母なる最上川展』出品目録を参考に作成) 真下慶治 ま し も け い じ は、大正3年(1914)に戸沢村津谷 つ や に生まれた画家で、県内 に在住しながら、生涯を通じて最上川を描き続けた画家である。画風は 現場制作に徹した写実で、川の流れに向かってしつらえた桟橋の先端に アトリエを固定し、川の風情を水面の上から描くこともあった。 これらの絵画に描かれる最上川は、峡谷部や河川が湾曲する姿が多い。 また、河川だけでなく、周囲の人家や集落、川を往来する舟が描かれて

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また、こうした作品は、川沿いや水上を視点場とするもののほか、川 付近の高台から、川の流れを中心とした集落や農耕地などの一体的な風 景を見下ろすように描いたものがみられる。 平成 10 年(1998)には松山町資料館に真下慶治記念室(現在の酒田市松 山文化伝承館)が新設され、平成 15 年には村山市大淀に真下慶治記念美 術館が開館した。 ○作品のスケッチ場所

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○真下慶治の主な作品 番 号 作品名 スケッチ場所 視点場の 位置 番号 作品名 スケッチ場所 視点場の 位置 1 最上川河口 酒田市 宮野浦 川沿い (河口) 34 冬 の 最 上 川 - 白 き山- 大石田町 川沿い・ 湾曲部 2 冬の河口付近 酒田市 宮野浦 川沿い (河口) 35 冬の早房 村山市 小滝 川沿い・ 湾曲部 3 冬・河口のあたり 酒田市 宮野浦 川沿い (河口) 36 雪の早房辺り 村山市 大淀 川沿い 4 酒田の最上川 酒田市 宮野浦 川沿い 37 冬の最上川(早房アトリエより対岸) 村山市 大淀 川沿い 5 酒田の最上川 酒田市 宮野浦 川沿い 38 雪の隼の瀬 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 6 最上川風雪(飯盛山) 酒田市 宮野浦 川沿い 39 雪の三ヶ瀬 村山市 大槙 川沿い 7 最上川晩秋(鳥海山) 松山町 山寺 川沿い 40 隼の眺め(一本松) 村山市 大淀 川沿い 8 冬の最上川(山寺を望む) 松山町 山寺 川沿い 41 はやぶさ浅春 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 9 最上川浅春(庄内橋付近) 松山町 山寺 川沿い・ 湾曲部 42 大淀の春 村山市 大槙 川沿い・ 湾曲部 10 眺海の森から 松山町 外山 高台 43 大淀の眺め 村山市 大淀 高台 11 冬の最上川(板敷山を望む) 松山町 南部 川沿い・ 湾曲部 44 雪の河畔 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 12 最上川晩秋 松山町 南部 川沿い 45 大淀の最上川 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 13 冬の山河(田代山) 立川町 狩川 川沿い 46 雪の大淀 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 14 冬の最上川(柏谷沢を望む) 立川町 清川 川沿い 47 浅春最上川 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 15 冬の眺め 戸沢村 草薙 高台 48 夏の河畔(大淀) 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 16 冬の瀧 戸沢村 草薙 川沿い 49 冬の山河 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 17 滝・夏 戸沢村 草薙 川沿い 50 大淀の最上川 村山市 大淀 水上 18 雪峡 戸沢村 大外川 川沿い 51 早 春 の 最 上 川 - 大淀のアトリエ- 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 19 残雪の峡(草刈り場) 戸沢村 草薙 川沿い 52 雪 の 大 淀 - 三 ヶ 瀬橋を望む- 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 20 最上川浅春(草刈り場) 戸沢村 草薙 川沿い 53 冬の最上川 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 21 春の最上川(草刈り場) 戸沢村 草薙 川沿い 54 雪の大淀 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 22 最上峡(草刈り場) 戸沢村 草薙 川沿い 55 夏の河畔 村山市 大淀 川沿い 23 雪の最上峡 戸沢村 高屋 高台 56 雪の大淀 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 24 倒影最上峡 戸沢村 高屋 川沿い 57 雪の河畔(大淀) 村山市 大淀 川沿い・ 湾曲部 25 最上峡雪景 戸沢村 高屋 高台 58 冬の最上川 村山市 大槙 川沿い・ 湾曲部 26 凍る河 戸沢村 高屋 川沿い 59 最上川(碁点) 村山市 碁点 川沿い 27 最上峡初秋 戸沢村 古口 川沿い・ 湾曲部 60 冬 の 最 上 川 - 河 島山を望む- 河北町 荒小屋 川沿い 28 雪の最上川(蔵岡)-舟- 戸沢村 岩花 川沿い 61 初 夏 の 最 上 川 - 荒小屋付近- 河北町 荒小屋 川沿い 29 最上川冬-蔵岡を望む- 戸沢村 岩花 川沿い 62 冬 最上川(荒小屋付近) 河北町 荒小屋 川沿い 30 雪景 戸沢村 岩花 川沿い 63 冬の河畔(絶筆) 天童市 寺津 川沿い・ 湾曲部 31 猿羽根峠から-毒沢を望む- 尾花沢市 猿羽根 高台 64 冬最上川 大江町 真中 川沿い・ 湾曲部 32 雪どけの川 大石田 町大浦 川沿い・ 湾曲部 65 雪の山河 朝日町 大隅 高台 33 三月の最上川 大石田町 大浦 川沿い・ 湾曲部 現在、松山町は酒田市、立川町は庄内町。

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⑤ 最上川ビューポイント 県は平成 10 年(1998)、山形県の「母なる川」最上川への関心と愛着を 深めることを目的として、最上川の良好な眺めを得られる地点を公募し、 11 景を「最上川ビューポイント」として選定した。 選定地点は、川の河口部分や合流地点、湾曲部、峡谷部など、その自 然的特徴が現れた景勝地が多いが、そうした風景の中には、舟の行き交 う姿や水田・集落の景観が捉えられている。また、お堂や城跡、舟運に 関する史跡といった歴史的・文化的な視点場が、現代のビューポイント となっている箇所も見られる。 ○最上川ビューポイントの位置 ① 西吾妻スカイバレー駐車場 (米沢市) ⑪最上川スワンパーク (酒田市) ⑦川前観音堂境内 (大石田町) ⑥大淀(村山市) ⑤楯山公園(大江町) ④玉ノ井(朝日町) ③荒砥橋付近(白鷹町) ②最上川・白川合流点 (長井市) ⑩眺海の森(酒田市) ⑨最上川・角川合流点 (戸沢村) ⑧芭蕉乗船の地 (新庄市)

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現在、松山町は酒田市。

(「美しい山形・最上川 100 年プラン 概要版」より)

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(2) 流通・往来に関する景観認知 ① 流通・往来に関する最上川の特性 景観認知調査の実施にあたり、「最上川流域の文化的景観」の特性を把 握するため、最上川流域の地形条件や最上川舟運を取り巻く状況の変遷 について整理を行った。 ア 交通路としての最上川の成立 最上川は、河川の流量が比較的安定していることなど、その自然的 特性から水運を活用しやすい環境にあったものと考えられる。 特に、最上峡などでは、山が川に迫り、陸路が確保しにくいという 地形条件も舟運の活用を促進する一因になっていたと考えられる。 中世までの最上川は、こうした地形条件の中で局所的に河川利用が なされていたと考えられ、流域には古代の水駅や中世の城館などの遺跡 が点在している。 イ 最上川舟運の発展と地域の形成 近世に入ると、難所の開削などにより、盆地と狭窄部を繰り返す地 形条件を克服し、河口から上流部まで全川での舟運利用が行われた。 近世における最上川舟運の発展は、日本海の西廻り航路や出羽三山 の参詣ルートとのつながりによるところが大きい。また、流域に大藩が なく、小藩や幕府直轄地が入り混じっていたため、商人荷物が規制され なかったことも、舟運の活性化につながったと考えられる。 舟運の発展により河岸か し集落が繁栄した。大通りを軸に町家などの商 家建築がまちなみを形成し、神社や寺院が建てられた。また、このよう な町場では最上川舟運を介して上方文化が流入し、その影響を受けた文 化が形成された。 一方、最上川の狭窄部は、湾曲を繰り返す線形、岩が露出した河床

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や護岸、水圧が高まることにより急流となり、舟運難所と呼ばれた。舟 運難所では、河床を掘削して舟道が整備されたり、信仰施設や航海技術 など、安定した航行のための知恵や文化が生まれた。また、流域には曳舟 ひきふね 人足の集落も見られた。 ウ 交通の近代化と舟運の衰退、最上川と地域の変容 近代の陸上交通の整備に伴い、最上川舟運は徐々に衰退していった。 こうした状況から舟運の航路確保の必要性が減少し、河川改修において も、治水を目的とした大規模な工事が実施されるようになった。 舟運が衰退していく中にあっても、近世に発展した河岸・湊町は町 場として存続し続け、特徴的な町割りや伝統的な建築物、祭礼などが継 承された。道路や鉄道の整備に伴い橋梁が整備され、既存市街地を核と した市街地の拡大も見られた。 戦後になり、自動車交通(トラック等)が普及してくると、近代に 短距離交通として存続していた舟運もその役目を終えた。橋梁整備や離 村・閉村により、渡し船の文化も消滅していった。 近年は、観光やレジャーなどによる川との関わりが見直されつつあ る。舟運難所を中心とした観光舟下りや川沿いを歩くフットパス、景勝 地のビューポイント選定などが見られる。

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墳時代の遺跡) ・ 生活や交通の場としての最上川 【古代・中世:交通路としての最上川】 ・ 出羽国の誕生(712 年) ・ 水駅の設置(野後、避翼、佐藝、白谷) ・ 『古今和歌集』(905 年成立)に「最上川」が初めて登場 ・ 荘園、河岸に沿った集落の発達 交通路としての利用(『義経記』に「清川」「あひ川のつ」) 【戦国:戦国武将による流域支配と城館の建設】 ・ 最上川沿いに城館を建設(のち上杉氏と最上氏に統合) ・ 最上氏による水運:清水-酒田間 ・ 三十六人衆による商人自治(酒田湊) 【近世:最上川舟運の全盛期】 ・ 難所開削:酒田-船町(慶長年間)、村山-置賜間(元禄年間) ・ 西廻り航路の整備と酒田湊の繁栄 ・ 河岸集落や舟着場の繁栄、曳舟集落の存在 ・ 物資輸送の大動脈としての最上川舟運 ・ 最上川を参詣道とした出羽三山詣での活発化 【近代:陸上交通の展開と舟運の衰退】 ・ 鉄道整備:奥羽本線の開通(1903 新庄まで)、陸羽西線の開通(1914) ・ 道路や橋梁の整備:大石田大橋(1901)、大蔵橋(1931)、本合海橋(1934)等 ・ 地域間交通としての舟運の存続 【現代:観光舟下りの幕開け】 ・ 鉄道、自動車交通(トラック等)の普及に伴う最上川舟運の衰退 ・ 橋梁整備や離村・閉村による渡し船の消滅 ・ 観光やレジャーによる河川利用(観光舟下り、フットパス) ○最上川の流通・往来史 【原始・古代:最上川の形成と人々の居住のはじまり】 ・ 地殻変動による最上川の形成(湖沼の隆起による盆地形成など) ・ 人々の生活が最上川の段丘面で営まれ始める(旧石器、縄文、弥生、古

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② 景観認知調査の考え方 景観認知調査は、自然地形や土地利用などの要素から成り立つ客観的 な景観特性を把握するとともに、地域で暮らす人々や生業を営む人々等 から見た主観的な景観特性を把握し、客観的な特性と比較等を行うこと で、文化的景観としての特性や価値をより明らかにしようというもので ある。 最上川に関しては、歴史的に重要な舟運路であったことから、最上川 を往来していた人々や、関連のあった人々の視点による主観的な景観特 性を把握することを重視した調査を行った。また、川絵図の分析から過 去における景観認知についても調査し、地図上に整理することで客観的 な特徴との関連付けを行った。 <景観認知調査の調査対象> ア 歴史的な景観認知 川絵図における景観認知 (描写内容の分析) ○「須川・最上川絵図」 (山形県立博物館所蔵) ○「羽州川通絵図 自米沢正部最上左沢」 (山形県立博物館所蔵) イ 現在の景観認知 観光舟下りにおける景観認知 (解説内容の分析) ○最上峡舟下り(戸沢村) ○三難所舟下り(村山市) 往来経験者等の景観認知 (聞き取りによる認知対象 の分析) ○観光舟下り船頭等の往来経験者 ○川沿い集落での聞き取り調査

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ア 歴史的な景観認知 江戸期以降に描かれた川絵図について、描写対象を把握するとともに、 現地調査を通じて描写対象の図化と見え方の把握を行った。 ○川絵図の概要 最上川の川絵図は、近世から近代にかけて作られたものが 14 点確 認されている。 本調査では、最上川の上流から下流まで舟運に関連する全川を網羅 するため、川絵図の中でも主に「須川・最上川絵図」と「羽州川通絵 図 自米沢正部最上左沢」を扱う。 描写範囲は、「須川・最上川絵図」が左沢-酒田、「羽州川通絵図」 が米沢-左沢を対象としている。いずれも作成年代は特定されていな いが、「須川・最上川絵図」は嘉永5年(1852)以前、「羽州川通絵図」 は寛政7年(1795)以前に作成された可能性があるとされている。 ○絵図の描写内容 近世・近代に描かれた川絵図は、舟運関係者あるいはその依頼によ って描いたものといわれ、往来する舟の様子や輸送のための施設、渡 船場、安全を祈った寺社のほか、集落(町村)や難所(瀬・淵・岩礁) など、流域を含めた最上川の景観が詳細に描きこまれ、最上川にかか わった当時の人々の心情が反映されている。 「須川・最上川絵図」「羽州川通絵図」にも、次に示すとおり、集 落、難所、寺社・堂舎をはじめ、様々な施設等が描かれている。

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難所や渡し場には赤色の丸印が付けられ、方位記号も描かれている

「須川・最上川絵図」(山形県立博物館蔵)

舟渡や舟の様子

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○川絵図の記載情報 「須川・最上川絵図」 「羽州川通絵図 自米沢正部最上左沢」 集落 (町村) 右岸 長崎、寺津、蔵増、窪ノ目、羽入、藤助 新田、野田、大堀、駒込シンテン、山口、 貝塩、大淀、下長崎、ウシロ、長崎、赤 石、今宿、大石田、深堀、芦沢、名木沢、 船形、猿羽根、清水、元合海、鉦打坊、 岩花、出船、更科、沓喰、大戸川、小戸 川、荒興屋、成沢、チミコツヤ、大河戸、 下新田、臼ヶ沢、大沼、山寺、松山、竹 田、中牧、相沢、飛鳥、砂越、茨野、小 牧、掛上り、大宮、四ッ興屋、大町、鵜 渡川原、酒田、高野浜 福沢新田、夏刈、宮崎、露橋、関根、砂 塚、荒町、梨郷、巻、松沢、金谷神、カ ス林、浅立、広野、畔藤、新砥、正部、 下山、佐野原、センザク、大瀬、杉山、 スガウ田、松原、宇津野、大滝、雪谷、 介ノ巻、四ノ沢、和江、大巻、用、深沢、 伏熊 集落 (町村) 左岸 左沢、アサフ、ウシマイ、皿沼、高家、 本楯、仁田、溝ノ辺、台、谷地、高関、 押切、吉田、大久保、ウシ尾、大牧、矢 崎、ハヤブサ、逆巻、塚ノ目、赤石シン 田、小菅、来迎寺、横山、川前、大浦、 毒沢、三栗、堀ノ内、本堀ノ内、唐曹川、 平塚、向稲沢、作ノ巻、畑、蔵岡、真柄、 古口、高耶、土湯、清川、浦シン田、古 関、沢シン田、連枝、千ヶ原、牧ノ嶋、 平岡、榎、遊摺辺、新井堀、落ノ目、宮 ノ浦 米沢、中田、窪田、糠野目、平柳、栖島、 門野目、町田、大塚、岡、ゾウキウ、荒 舘、小出、宮、成田、五十川、白兎、高 玉、田尻、鮎貝、箕輪田、高岡、四ッ屋、 今平、大淀、坂ノ上、大舟木、松程、水 口、赤釜、一穀、夏草、舟渡、八沼、野 中、川通、栗木沢、中沢、富沢、藤田、 左沢 難所 ドンドメキ、ウハ石、碁点瀬、台石、杉 嶋、七内石、カマ石、獅子石、マチ石、 ヤチマイノ穴、三河瀬、黒岩、大丈倉、 トイラカフチ、二ツ家、大滝、タナコゼ、 イボマキ、コゼントウラ、水ヶ瀬難所、 ベンノウ、白崎マハリ、堺之瀬、枕石、 鳥井石、三ッ石、長瀬大灘流、雑肴川難 所、鮭納瀬 ナベツル、ササブチ、サイカチ渕、長渕、 箕ノ輪渕、梨ノ木渕、八幡渕、貴布祢渕、 黒滝、エボシ岩、ツブテ石、銚子ノ口、 大滝瀬、稲荷瀬、ムロカド、地蔵渕、水 神渕、三階滝、八目マキ、広瀬、後藤渕、 カマノ渕、面白岩、ウノ石、大明神渕、 サクラノセ、ドウギ岩 寺社・堂舎 虚空蔵杜、三川観音(山辺)、羽黒山(大 淀)、薬師山(今宿)、黒滝山向川寺、御 前堂(深堀)、矢ムケ(元合海)、仙人堂 (小戸川)、金花山(清川)、権現(飛鳥)、 妙法寺(酒田)、龍蔵寺(酒田)、祥福寺 (酒田)、大信寺(酒田)、山王宮(酒田)、 太神(酒田) 八幡宮(栖島)、雷公堂(関根)、本覚寺 (荒町)、建向寺(梨郷)、羽山堂(大塚)、 高徳寺(大塚)、熊野堂(大塚)、不動堂 (松沢)、日月堂(荒舘)、八幡宮(金谷 神)、惣宮大明神(宮)、八幡宮(成田)、 八幡宮(鮎貝)、大明神(正部)、明神(高 岡)、不動堂(佐野原)、イナリ堂(大滝)、 天神堂(介ノ巻)、天神(左沢) 舟屋敷等 御番所(古口)、御番所(清川)、通船改 所(清川)、御蔵(酒田)、御(酒田)、 御囲(酒田)、沖ノ口番所(高野浜) 御役屋(糠野目)、舟屋鋪(糠野目)、御 米蔵(梨郷)、木場(宮)、御米蔵(宮)、 舟屋敷(宮)、御役屋(新砥)、御蔵屋敷 (新砥)、新屋敷(正部)、舟御改所(正 部)、舟屋鋪(正部)、御番所(杉山)、 船屋敷(左沢) その他 御虵王山 前舘、古墨、大舘、茶麿館、亀ガ森、ア ナゼキ、深山林、古舘、地蔵岩 ( )は川絵図にある地名。 (「資料紹介 最上川絵図」より作成)

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イ 現在の景観認知 a 観光舟下りにおける景観認知(解説内容の分析) 往来時の河川景観への認識(着目要素と捉え方)を把握するため、 観光舟下りを実施している最上峡と三難所の2区間を対象に、観光舟 下りガイドマニュアルの記述内容や船頭による解説内容の把握と分 析を行った。 また、現地調査を通じて描写対象の図化と見え方の把握を行い、地 形や土地利用など客観的な特徴との関連付けを行った。 ○観光舟下りの調査 最上峡(戸沢村) 三難所(村山市)

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○解説対象 参考:最上峡観光舟下りガイドマニュアル(最上峡芭蕉ライン観光株式会社) 番号 解説対象の 要素 解説時の描写方法 (対象の認知方法) 区分 概要 1月光山 右手の小高い丘 中景 刀鍛冶師が名刀「月光丸」をつく るため修行したところ 2お稲荷様 赤いお堂(お稲荷様) 中景 月光丸の鍛冶場跡 3舟番所跡 左手、杉・松・銀杏の 木立が見える所 中景 積荷の検査や通行手形の検査に あたった舟番所の跡 4角川 左手の方の支流 近景 月山を源流とする川 5底なしの淵 (柳巻) 最上峡で一番深い所、 増水すると大きな渦が できる 近景 6岩丸の瀬 浅瀬(最上峡四大浅瀬 の一つ) 近景 水量の少ないときは、船底すれす れになることもある難所 7抱石山 右手の高い山 中景 8板敷山 左手の険しい山並み 遠景 この山の峰沿いの道が昔、内陸と 庄内を結ぶ唯一の陸路だった 9抱石の瀬 中洲の狭いところ、大 きな石 近景 操船を誤り川に放り出され、この 石に抱きついて一晩中助けを求 めたといわれる 10沓滝 右手に見える滝 中景 弁慶が馬の轡を滝の水で洗い清 めたといわれる 11兜の明神 左手の赤いお堂 中景 源義経一行が兜を奉納して武運 長久を祈願したといわれる 12背比べの滝 左手に2条に並んで流 れている滝 中景 丈比べの滝ともいわれ、2条に並 んで流れているところから名が 付いた 13夫婦杉 岩肌の上、2本の仲良 く並んだ杉 中景 天然杉で樹齢 200 年ともいわれ る 14駒形滝 この滝(水面より上の ほうに丸い穴が点々と 見える) 中景 源義経と弁慶の馬の蹄跡だとい われる 15つぶて石 岩肌にめりこんでいる 丸くて大きい石 近景 弁慶が投げた石がめりこんだと いわれる 16七滝 この滝(山頂より七段 に流れ落ちる) 中景 水量が多いときは鯉がのぼるよ うにも見えるので「鯉ののぼり 滝」ともよばれる 17大滝 右手くぼ地に見えてい る滝 中景 最上峡で2番目に大きな滝

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18落ち葉の滝 左手、スノーセットの 上の方の小さな滝 中景 落ち葉をかきわけて滝を発見で きたところから名が付いた 19八幡楯 山(山肌に今でも段々 が残っているのが見ら れる) 中景 前九年の役で源義家(八幡太郎) がはじめて楯を築いたところと いわれる 20かっぱ淵 近景 地形が複雑で難船が絶えず、かっ ぱが舟を引きづり込むと考えら れた 21たばね滝 左手に見える滝 中景 22尻滝 左前に見える滝、船に 乗らないと見ることが できない滝 中景 23仙人堂 右手に見えるところ、 石の鳥居が見えるとこ ろ 中景 義経従者の常陸坊海尊がこもっ て仙人の修行をして開いたとい われる 24鳥居岩 右手川の中に2つなら ぶ大きな岩 近景 仙人堂奥の院の大鳥居の台石と いわれる 25不抜の森 この森 中景 仙人堂の神屋敷として昔から何 百年もの間、一本の樹木も切られ たことがないと伝えられる 26高屋の瀬 川底に大きな石がごろ ごろしている 近景 最上峡で3番目の早瀬 27板敷山 遠景 (このあたりから振り返ると、板 敷山がよく見える) 28白糸の滝 右手に見える滝 中景 最上峡四十八滝の最後の滝 6 岩丸の瀬【近景】 9 抱石の瀬【近景】 19 八幡楯【中景】

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○解説対象 参考:三難所観光舟下りガイドマニュアル(株式会社最上川三難所舟下り) 番号 解説対象の 要素 解説時の描写方法 (対象の認知方法) 区分 概要 1 河島山 標高 194.3mの小高い山で、山 頂と東方山腹に中世城館跡が ある 2 クアハウス碁 点 温泉とプールがある多目的温 泉保養館 3 べこ岩 昭和 30 年頃まで農民たちが水 不足になると、牛を供え、竜神 様へお祈り(雨ごい)をした 4 龍王神社 (竜神様) 近景 雨ごいの神様といわれている 5 碁点 水量が減ったときに 突出する岩が碁石を 並べたように見える 近景 最上義光により開削されたと 伝える 6 遊歩道 最上川フットパスの一部 7 つり橋 近景 歩道橋の「竜神のつり橋」 8 葉山 標高 1462m で、月山の端山とし ての信仰を集める 9 共栄橋 近景 昭和 57 年に完成し、橋からは 東に甑岳、西に葉山が見える 10 揚水場 11 蔵王山 遠景 標高 1841m の熊野岳を主峰とす る山形と宮城にまたがる連峰 12 大淀集落 中景 舟運の盛んな時代に舟宿とし て栄えた集落 13 アトリエ、美 術館 中景 洋画家の真下慶治が河畔にア トリエを構え、最上川を眼下に 望む高台が真下慶次美術館 14 羽黒山と羽黒 神社 中景 航行の目印ともなった小高い 山で、山頂には舟乗りが航海安 全を祈願した羽黒神社がある 15 大牧集落のお 堂 中景 16 葉山 遠景 (8 参照) 17 三ヶ瀬の岩 近景 18 三ヶ瀬 渇水期に川筋が三本 となる 近景 19 みかのせ橋 近景 平成 17 年に完成した2代目で、

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20 長島集落 中景 曳舟人足として生計をたてて いた集落で、伝統の長島鹿子舞 (ししおどり)が伝わる 21 甑岳 遠景 標高 1,016m 22 鍋の間 近景 船頭たちの休憩の場所 23 羽黒山と羽黒 神社 中景 (14 参照) 24 長島橋 近景 平成 21 年に完成した2代目で、 初代は昭和 30 年に作られた 25 甑岳 遠景 (21 参照) 26 隼の瀬の崖・ 巨石 近景 27 隼の瀬の崖 近景 28 隼の瀬 荒々しい波、浅瀬、大 きな岩、石、段差で、 激しい流れ 近景 舟運で一番苦労した場所だっ たといわれる 29 早房集落 中景 舟の航行を監視した集落で、川 絵図には「早房弐軒屋」が描か れる 30 葉山 遠景 (8 参照) 3 べこ岩【近景】 9 共栄橋【近景】 12 大淀集落【中景】 14 羽黒神社【中景】 16 葉山【遠景】 17 三ヶ瀬の岩【近景】

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b 往来経験者等の景観認知(聞き取りによる認知対象の分析) 船頭や船大工など往来経験者や、最上川流域の景観単位に関わる 人々を対象に聞き取り調査を実施し、往来時における景観の捉え方 (何をどのように見ているか、どんな意味合いがあるのか等)や、日 常時における最上川や景観構成要素の認識(どのようなイメージや要 素が思い浮かぶのか等)を把握した。 <ヒアリング対象者> ○船大工職人(大石田町) ○観光舟下り船頭(戸沢村) ○高等学校科学部顧問(米沢市) ○流通・往来と関連の深い集落の住民(高畠町糠野目、朝日町用、 村山市大淀・大槙・早房、大石田町大石田・大浦、大蔵村清水) <ヒアリング項目> ○最上川との関わりについて ・出身、家業など ・普段の生活や仕事などを通じた最上川との関わり ○最上川の景観認知について ・舟運の記憶 ・特徴的な風景、印象的な場所など ○その他 ・最上川への思いなど <ヒアリング実施期間> ○平成 22 年1月~3月

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◎ヒアリングの概要 ○船大工職人(大石田町) <舟作りと最上川との関わり> ・ 昔からこの場所で船大工を営んでおり、自分で6代目。 ・ これまで、大石田、清川、古口、左沢などから舟の注文を受けた。現在は木造の舟の注 文は少なく、1年間に3艘程度である。 ・ 川の流れにあわせて5種類ほど舟の作り方がある。左沢は、流れが急なので、舟の先端 がとがっていて、操作性が良いものを使う。大石田は、流れが比較的緩やかなので、先 はとがっていないものを使う。清川では、深く、幅が広いものを作った。鶴岡など下流 では、材料を厚くして頑丈にする。設計図は描かず、感覚でつくりあげる。舟の製作に は、材料をそろえてから完成まで1ヶ月程度、大きいものでは3ヶ月程度かかる。 ・ 昔は材料を運ぶのも、舟を下ろすのも、全て最上川を使っていた。作った舟は、船頭を 頼まず、川を使って自分たちで運んでいた。今は車での運搬に変わっている。 <集落の暮らしと最上川との関わり> ・ この集落には橋がなかったので、子どもが学校に通うのにも、渡し船で通った。家から 子どもが帰ってくるのが見えると、対岸まで迎えに行った。 ・ 渡し船は、町所有のもので、船頭は集落の人が交代で受け持った。雪解けの時は流れが 速くて危ないため、渡しにはワイヤーを張っていた。今は鯉のぼりをかけている。大浦 地区でも同様である。 ・ 冬場には、最上川で氷を割ってハヤ等を釣った。今は舟で鮎釣りをする。 <最上川往来時の景観認知> ・ 本合海は、正面に神社と崖が見えてきて印象的だった。 ・ この付近の「下ノ瀬」と「小菅瀬」は、流れが速く航行が難しく、渡し船や魚釣りは避 けていた。川が曲がる所は瀬になりやすいが、こうした瀬の場所は、舟を持っている人 はだいたい覚えていた。見た目で波が立っている所は流れが速いので、近づかないよう にしていた。 ・ 曳舟道が右岸にあり、3人で舟を曳き、2人が舟の前後に乗る。川前集落では曳舟をや っていたと聞いている。 ○観光舟下り船頭(戸沢村) <集落の暮らしと最上川との関わり> ・ もともとは最上川右岸の沓喰集落に住んでいた。 ・ 渡し船は、家から出るときの下駄のような存在で、なければどこにもいけない。常に川 に係留してあった。1家に2艘あり、1つは対岸へ渡るための小さな笹舟。もう1つは 農作業用のやや大きめの舟で、苗や稲、肥料などを積んだ。米なら 25 俵が積める。農地 は集落から3㎞ほど離れた所にあった。集落から山道はあったが、細いので、陸路での 移動は困難だった。 ・ 沓喰にも白山神社があった。集落裏の山の上にあったので、最上川からも屋根が見えた。 集団移転で古口へ移り、山の神として、手作りの神社に祀った。沓喰には、百段程の階 段がまだ残っている。

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<集落と最上川舟運との関わり> ・ 小鵜飼船は、昭和 26 年で完全に姿を消した。まだ舟が使われていた頃、舟に遊びに行っ て、舟乗りとご飯を食べた経験がある。 ・ 川を上るときは、帆を使って風の力で上った。ただ、川が湾曲している所など、部分的 にどうしても風が合わない所があり、そこは曳舟をした。そのため、船団を組んでおり、 舟を曳くときには、全員で1艘ずつ長いロープで曳いた。 ・ 古口では、川がカーブしている所で必ず舟を曳いた。カーブの外側(左岸側)が曳舟道 であった。水面から1~2mの高さで、幅1mほどであった。今は洪水で削られ、跡は 残っていない。 ・ 大きな舟は、舟乗りだけで曳くことはできず、沿川の集落から曳舟人足を頼んだ。外川 集落などでは、頼まれると笹舟で川を渡り、曳舟を手伝った。 ・ 風の良くないときは、舟乗りは川に舟をとめ、沿川の集落で風呂に入ったりして休憩し ていた。集落ごとに、なじみの家を決めていたようだ。また、沿川の集落は破船の救援 などもしていた。難所で川沿いに集落があるのは、舟の航行にとっても、集落の維持に とっても意味があった。 <最上川の往来時の景観認知> ①舟下りでの危険箇所 ・ 観光舟下りの 12 ㎞の区間で、特に危険な箇所が3箇所ある。 ・ 「抱石の瀬」は、中州で川が割れ、左側の広い方は浅瀬のため通行できず、右側の細い 方を通行した。中州の出口に急カーブがあり、そこが特に難所であった。なお、ここは 昔「天下普請」と呼ばれており、殿様の命令で工事をしたことに由来していると聞く。 ・ 「高谷の瀬」も、中洲があり、広い方は浅瀬で通行できず、細い方を通行したが、川底 には大きな石がごろごろして、石をかわしながら舟を進めた。 ・ 「草薙の瀬」は、白糸の滝の前で大きな石があり、注意が必要であった。 ②舟下りでの目印 ・ 舟下りの区間の目印になるものとして、次のようなものがある。 ・ 「大滝」は現在の航路の中間地点にあたる。「尻滝」は正岡子規の旅日記に記された滝で ある。 ・ 「二つ石」は大きな石が真っ二つに割れたもので、弁慶が空手で割ったとの言い伝えが ある。 ・ 「つぶて石」は怪しい者の気配を感じた弁慶が対岸から投げた石だとの言い伝えがある。 ③往来時のランドマーク ・ 観光船は鶴岡市由良の造船会社で造っている。舟を受け取る際は、由良港から日本海を 通り、酒田から最上川を上ってくる。日本海を航行している時は、鳥海山がランドマー クになっている。庄内平野の最上川では、左手に鳥海山がそびえ、右手には月山、羽黒 山などが見える。最上峡に入ると、遠方の山は見えなくなり、右手には板敷山(板敷峠) の山並みが見える。板敷山は、仙人堂、二つ石のあたりから特によく見える。 ・ 尾花沢市の毒沢まで上ると、鳥海山、月山、葉山が見えるようになる。その上流の大石 田までは盆地で、穏やかな風景であると感じる。逆に、本合海から下流を見ると、渓谷 に入っていく感じがある。 ・ 古口は、出羽三山への古い入口であったことが名前の由来と聞いている。元の宿場であ った。ここから舟で最上峡を下る人と、山道で板敷峠へ抜ける修験者に分かれていた。

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④難所について ・ 三難所は危険で「命取り」の所。最上川舟唄にも歌われている。 ・ かつての木舟や筏などは、石を前もってかわす必要がある。瀬波で水面下の石の存在を 判断する。何もない所は瀞場(とろば)と呼び、水面が鏡のようになっている。浅瀬部 分では多少のさざなみが起き、大きな石があると白波が立つ。 ・ 危険な場所の数百mくらい手前で判断する。川が湾曲していて先が見えない場所もある が、そうした所は船頭の経験で事前にわかる。 ⑤最上川の印象について ・ 舟で下ったことがあるのは、最上峡と三難所の2区間。最上峡は大きな岩が少なく、砂 利が多いようで、ごつごつした印象がない。三難所では、岩のごつごつした感じがあり、 荒々しい印象を受けた。 ・ 舟下りには舟唄が欠かせない。当時の舟乗りの苦労などがわかる。 ○高等学校科学部顧問(米沢市:川下り経験者) <調査・研究活動と最上川との関わり> ・ 20 年近く、高校の部活動で最上川の水質調査を行っている。最初は車で回っていたが、 河川は連続しており、河川全体を把握したいと考えたため、ゴムボートで川を下りなが らの調査を始めた。最上川には、昔、舟運があったと聞いていたので、可能ではないか と考えた。 ・ 米沢市の置賜橋付近、窪田水辺の楽校から出発し、河口の酒田まで下る。宿泊地は、朝 日町宮宿、村山市碁点、戸沢村草薙で、酒田には4日目の昼頃に着く。 <最上川の往来時の景観認知> ①川下りでの危険箇所 ・ 浅瀬にひっかかるとなかなか出られないので、200mほど上流から波の形やゴミの流れを 見て判断する。ゴミの流れや泡が寄っている深い所を狙って進む。 ・ 巻は今もある。遠くから見ると鏡状で波が立たないが、近づくと渦を巻いている。矢向 巻も有名だが、その少し上流もすごい。カヌーでは抜けられない。また、水流を制御す る施設を設置したために、渦が巻く所もある。 ②地域的な特色 ・ 盆地は難所が少なく、気を抜ける区間。同乗している学生は、難所を面白がって、盆地 では寝ている。 ・ 大石田の先は浅瀬の連続。庄内にも浅瀬がある。中州で二股に分かれる所は、広い方に 入ると、先のほうで浅くなり、戻れなくなってしまう。狭い方に入るのがよいが、石な どがあり、注意が必要。 ③川下りでの目印やランドマーク ・ 川岸の独特な岩、崖を目印としている。川の真ん中にある岩も目印となる。最上峡の白 糸の滝など、滝も目印になる。 ・ 橋は多数あり、下から見上げても名前がわからず、目印にはなりにくい。 ・ 川沿いにある川前観音や矢向明神は、川からも目立つ。羽黒神社は、神社のある小高い 丘が目立つが、神社そのものは見えない。 ・ 集落では村山市の大淀が目印。水の流れが止まっているような特徴的な風景で、印象的 である。長井も伊佐沢峡に入ると西山連山(長井葉山等)が見え、峡谷を抜けるとまち が見えてくるのが印象的。また、大石田も印象に残る。本合海は芭蕉像が川から見えて、 ランドマークになっている。

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④印象的な山 ・ 上流では西山連山(長井葉山等)、長井を過ぎたあたりからは白鷹山(雨量レーダー)が 見える。五百川峡谷では川岸しか見えない。舟の操作に集中するので、山を気にする余 裕もない。山形盆地では、奥羽山脈(東側)より月山(西側)のほうが目に留まり、葉 山は特によく見える。東側でも、東根では御所山が見える。庄内では、鳥海山が見える のかもしれないが、あまり意識したことはない。また、後ろ(上流側)を振り向かない ので、庄内から月山や葉山が見えるかどうかを気にしたことはない。 ○流通・往来と関連の深い集落の住民 ●高畠町糠野目(最も上流の舟着場) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 今は公民館になっている舟町通りの家中蔵には、上杉藩の下級武士が住んでいた。 ・ 集落には舟屋敷があったと聞くが、今は残っていない。役人は御屋敷にとまったものと 思われる。元湯が木賃宿で、行商などが宿泊したと思われる。 ・ 舟運は明治まで続いていたし、大正時代も一部で石などを運んでいた。舟運で栄えてい たので、米沢の人も大正頃までは糠野目に遊びに来ていた。 ・ 糠野目から米沢市芦付まで通船掘が通っていた。最上川舟運は、糠野目までは 30 石舟で 運び、ここで積み替えて、通船掘を利用したものと思われる。(この通船掘は、昭和 30 年近くまで水力脱穀に使っていた。) ●大江町用(五百川峡谷の集落) 地域住民 <集落の生活や仕事などを通じた最上川との関わり> ・ 用の集落は水田が少なく、畑と山仕事が重要な生業であった。山畑には青荢を栽培して おり、大正以降は桑畑となった。集落の北を流れる小沢川(最上川の支流)の上流に森 林地帯が広がる。流域は4町村(朝日町、大江町、寒河江市、中山町)にまたがる。 ・ 上流の木々で筏を組み、最上川を使って酒田へ持っていった。筏おろしは用、中沢、真 中の人がやっていた。昭和 26 年頃まで続いていたと思う。昭和 12 年までは酒田、昭和 20 年までは長崎におろしていた。筏おろしの賃金は酒田で受け取ったが、酒田や左沢の 飲み屋でお金を使っていたこともあった。左沢には百目木に6軒ほどの花街があった。 ・ 昭和 53 年に用橋が完成するまで、渡しで生活していた。昭和 5 年にワイヤーを張った。 船頭小屋があり、職を持っていない村の人が船頭をやっていた。 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 「用のはげ」の上に厳島神社があり、旧暦 3 月 19 日に祭礼がある(今は第3日曜日)。 頂上からの眺めはとてもよい。崖には竜神様が住むという洞窟があり、船頭の信仰があ ったという。江戸時代、川を下って明神様の前に来ると、手をあわせて拝んだという。 ・ 昔、「用のはげ」の下には最上川に沿って道があった。また、大江大橋の近くには綱手道 があったと聞く(右岸だと記憶しているが、大江町の調査では左岸といっている)。曳舟 は、舟に2~3mの柱があり、そこにロープをつけて引っ張った。

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●村山市大淀(三難所付近) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 大淀では最上川が大きく蛇行しており、水が淀む。 ・ 対岸には曳舟道があった(みかのせ橋付近から川の湾曲部まで)。大淀のビューポイント になっている所に舟をとめ、帆を立てていた。 ・ 羽黒神社は大淀と長島の2集落の村社で、4月 17 日に祭礼がある。 ・ 大淀には舟宿があったと記憶している。集落内には曳舟をやった人もいた。 ●村山市大槙(三難所付近) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 昭和 18~19 年頃に碁点の橋を架け替えたとき、小鵜飼船で材料を運んだのを見たことが ある。舟は他の集落から借りてきたものだった。 ・ 碁点橋から下流を見ると、水かさが低いときは岩が出てくる。大槙あたりも梅雨明けに は岩肌が出てくるので、舟がのぼれず曳舟が必要になる。 ●村山市早房(三難所付近) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 早房集落は元々2軒で、「早房の二軒屋」と呼ばれていたらしい。 ・ 昔は水面に近い位置にも家があった。 ・ 隼の瀬がある。急流手前の淀みに舟をとめ、応援を呼び、曳舟で川をのぼった。集落で 休憩、宿泊することもあったと聞く。ドライブインのような性格だったのではないか。 ●大石田町大石田(最上川最大の河岸) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 戦前は酒屋を営んでいた。戦後は、新庄の専売所から大石田まではトラックで塩を運び、 そこから川へ通し、舟で次年子や毒沢などへ輸送した。 ・ 大浦に舟を持っている人がいた。その後、トラックが出てきて舟運はすたれてしまった。 ●大石田町大石田(最上川最大の河岸) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 横山村の人は舟に乗る人が多かったため、「やたらづけ」などの漬け物文化、保存食文化 が発達したと聞いている。大石田には商家が多く、川端(金毘羅神社のある地区)には 舟の代行業(難所を渡るための知識と技術を持つ)があったと聞いている。 ・ 大石田から毒沢のあたりまで、5年ほど前まで観光舟下りをやっていた。年間 3,000 人 程度しか乗船する人がおらず、三難所と一緒にという話もあったが、今はなくなった。

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●大石田町大浦(大石田から6㎞ほど下流の集落) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 元商店を営んでいて、荷物(商品)は舟で大石田から大浦まで運搬していた。舟は個人 で持っていた。幅 1.2m、長さ 10m程度の舟だったと思う。舟は岸側を通る。途中に瀬 があり、越えるのが大変だった。積雪期は舟で、ないときは馬ソリかリアカーを使って いた。 ・ 大石田では、舟はそれぞれの商店の前にとめた。道路の反対側の店を利用する際は、店 の土間の廊下(ろうず)を通してもらった。 <集落の生活や仕事などを通じた最上川との関わり> ・ 釣りで尾花沢市の名木沢まで舟で行ったことがあるが、「だんご瀬」は流れがすごかった。 ・ 対岸へ渡るのに以前は渡しだった。昭和 36 年頃まであったのだろうか。渡しは、川にワ イヤーが張ってあり、手漕ぎだった。鉄柱は今も残っている。昔、集落の人で持ち寄っ て、一斉に鯉のぼりをかけたことがある。 ・ このあたりは亜炭の炭鉱地帯で5つの炭鉱があり、大浦集落のほとんどの人が炭鉱で働 いていた時期があった。炭鉱では、昭和 33~34 年頃まで鉱物を運ぶために舟をつかって いた。鉱山所有の小鵜飼船があった。 ・ 大浦集落より少し下流にある炭鉱では、そこで舟に積んで尾花沢市芦沢付近まで下り、 馬ソリに積み替えて芦沢駅まで運び、そこから汽車で遠方へ運んだ。赤縄炭鉱から芦沢 までは下りで 30 分くらい。 ●大蔵村清水(河岸集落) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 清水には、昭和 25 年くらいまで舟が来ていた。魚などを酒田から持ってきて、亜炭を積 んで川を下ろしたのだと思う。 ・ 清水の舟着場は、集落の西端、旧大蔵橋の付近にあった。舟宿もあった。 ・ 帆掛け舟で、風がないときは川の縁を歩きながら舟をロープで引っ張った。 ●大蔵村清水(河岸集落) 地域住民 <集落と最上川舟運との関わりを感じる点> ・ 清水には舟宿があり、大名などの定宿になっていたという。また、清水と合海の境目付 近に庄内様御乗船道がある。 ・ 合海と清水は隣り合っている。立派な家なみや屈曲した道路は、参勤交代における水陸 結節点として、大名が通ることを意識したためではないか。 ・ 舟運がもたらした文化として享保雛がある。興源院の鐘は京都でつくったものである。 ・ 下流の天狗岩付近で川が大きく屈曲しており、「いかまる」(水が逆流する)ことがあっ た。この付近は破船が多く、難所の一つだった。 ・ 旧大蔵橋付近の舟着場で荷物の積み出しが行われていた。近くには塩蔵があった。新庄 藩の一時保管所だと思われる。 <集落の生活や仕事などを通じた最上川との関わり> ・ 明治以降は清水より本合海のほうが栄えた。清水に新庄からの国道が通過しなかったた めだと思う。 ・ 昭和3~4年に大石田の大橋が、昭和5~6年に大蔵橋が、昭和7~8年に本合海橋が

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③ まとめ 川絵図の景観分析による歴史的な景観認知、および観光舟下りやヒア リング調査などを通じた現在の景観認知から、最上川では現在の河川景 観の中に川絵図の風景が保たれていることが確認できた。こうした風景 は、舟運に関連する人々が川の表情をどのように捉え、川に対してどの ように接してきたのかを今に伝えるものである。 さらに、最上川舟運が衰退した現在でも、このような河川景観の捉え 方は、観光舟下りでの解説ポイントや現在の操船技術の中において継承 されていることがわかった。 一方、河川周囲に広がる景観については、河岸や町場、川沿い集落に おいて、建造物やまちなみ、街路などの有形要素や、造船技術や祭礼な ど無形要素の中に、舟運と集落との関わりを確認することができた。 これらをまとめると、次のとおりとなる。 ア 景観認知の対象の類型化 流通・往来の観点から、「最上川流域の文化的景観」に関する景観 認知の対象について、5つに類型化した。 視点 対象の類型 <1>川からの景観として (川の往来者の視点 からの景観) a)近景要素として見えるもの b)中景要素として見えるもの c)遠景要素として見えるもの <2>舟運関連集落内の景 観として (集落等生活者の視 点からの景観) a)河岸・湊町集落での景観構成要素 b)その他の沿川集落での景観構成要素

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○ツブテ石(白鷹町黒滝付近) 川絵図 現況 (「羽州川通絵図 自米沢正部最上左沢」山形県立博物館蔵) 現在の地図 ◎具体例 <1>川からの景観として(川の往来者の視点からの景観) 【1-a】近景要素として見えるもの 川の中の石、岩、淵、瀬、川の湾曲部や護岸の崖など

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【1-b】中景要素として見えるもの 川沿いの寺社、丘、川に沿ったまちなみなど ○黒滝神社(白鷹町菖蒲) 川絵図 現況 (「羽州川通絵図 自米沢正部最上左沢」山形県立博物館蔵) 現在の地図

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【1-c】遠景要素として見えるもの 遠方の目立つ山 ○葉山(村山市) 川絵図 現況 (「最上川谷地押切渡より柏沢迄絵図」財団法人致道博物館蔵) 現在の地図

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<2>舟運関連集落内の景観として(集落等生活者の視点からの景観)

【2-a】河岸・湊町集落の景観構成要素

建造物(群)、寺社(群)、常夜灯、樹木など ○酒田湊(酒田市)

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【2-b】その他の沿川集落での景観構成要素

建造物、寺社、樹木など(集落付近の河川線形の特徴も) ○三ヶ瀬と羽黒神社(村山市)

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イ 景観の捉え方 5つの類型について、その捉え方や使われ方を分析した。 1-a 近景要素 ○瀬や淵を岩や崖などとセットで捉え、呼び名を付ける などして共有し、危険察知の目印としている。 ・瀬や淵など水面の表情を航行の危険箇所として認知 ・川の中の特徴的な石、岩、崖、滝などを航行の目印と して認知 1-b 中景要素 ○川が大きく曲がるところや川沿いの崖や丘の上に立地 するという寺社の立地上の特徴とセットで捉え、それ らの印象を強めている。(最上川の河川景観の見せ場) ・矢向明神、川前観音、羽黒神社など、川沿いの寺社が 航行時に印象に残る要素(寺社の建物が見えなくても、 それが立地する丘や崖が目立つこともある) 1-c 遠景要素 ○舟の移動に伴う場面の移り変わりの中で捉え、航行中 の自分の位置を知るための手がかりとしている。 ・峡谷部では「ここを曲がると見える」「この場所から振 り返ると見える」など、平野部では「この区間では上 流を向いて左手に見える」「東側に見える」など ・遠方に見える山を航行時の眺望対象の一要素として認 知 2-a 河 岸 ・ 湊 町 集 落 の 景 観 構 成 要素 ○商家や蔵等の界隈やまちなみが舟運文化を継承する要 素として認知されている。 ・町家や土蔵、界隈やまちなみ、メインストリートなど の要素 ・舟運の中間目的地であり、流域の「町場」として認知 2-b そ の 他 の 沿 川 集 落 で の 景 観 構成要素 ○河川内の岩や瀬、巻のほか舟道や曳舟道(綱手道)が 舟運難所の名残りとして認知されている。 ・曳舟道、曳舟人足、舟宿、安全祈願の対象である神社 を氏神様とする祭礼などの要素 ・曳舟人足や破船救助、舟宿の役割を果たした集落 <1>最上川の往来時における景観認知 <2>最上川や周囲の景観単位における景観構成要素の認知

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