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ロシアにおける書籍印刷 (第3回)

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(1)

ロシアにおける書籍印刷

(第3回)

岩田行雄

1996年8月刊

早稲田大学図書館紀要第43号抜刷

(2)

ロシアにおける書籍印刷(第3回)

万 u師}JTny −e−r−pm

岩 田 行 雄

目  次

一M− 一

第5章 16−17世紀リトワおよびベラルーシにおける書籍印刷   第1節 リトワの書籍印刷一その始まりから最盛期まで   第2節 マモーニチ印刷所一正教徒派から教会合同派の拠点に     (1)第1期(1573−1576) ムスチスラーヴェッの時代     (2)ムスチスラーヴェツについて

    (3)決裂

    (4)ガラブルダ印刷所

    (5)第2期(1582−1600)一ルカとクジマの時代      ①奉神礼書

     ②奉神礼書ではない宗教的書物      ③教科書

     ④公的出版物      ⑤教会合同派の出版物

    (6)第3期(1601−1623)一レオンの時代

    (7)スヴャト・トロイッキイ修道院印刷所とスプラースリ修道院印刷所   第3節 ヴィルナ兄弟団印刷所一正教徒派の拠点

    (1)ヴィルナでの印刷所創設     (2)エヴィエへの移転     (3)ヴィルナの印刷所再建

  第4節 アカデミー印刷所一カトリックの拠点

    (1)その前身=ラドヴィラ印刷所そしてイエズス会印刷所     ② アカデミー印刷所の誕生と発展

    (3)アカデミー印刷所の刊行点数     (4)宗教的内容の出版物     (5)世俗的内容の出版物

  第5節 レンチッキイとヤン・カルツァン

47一

(3)

 (1)

 (2)

 (3)

第6節

 (1)

 (2)

 (3)

 (4)

 (5)

第7節

 (1)

 (2)

 (3)

 (4)

 (5)

 (6)

 (7)

第8節

無節操な(?)印刷者レンチッキイ 無関心派の(?)印刷者ヤン・カルッァン クミタの印刷所

プロテスタントの印刷所 ヤン・キシカの印刷所 モルクナスの印刷所 ペトケヴィチュスの印刷所 スリトツェル兄弟の印刷所 ケイダイニャイの印刷所 ベラルーシの印刷所と印刷者 カヴェチンスキイの印刷所 チャピンスキイの印刷所 ザブルドブ印刷所

スピリドン・ソーボリの移動印刷所 クテイン修道院印刷所

モギリョーフ兄弟団印刷所 ヴォシチャンカの印刷所

キリル文字による書籍印刷のまとめ

 第3回は第5章でリトワとベラルーシ、そして第6章でウクライナの書 籍印刷についてふれる予定であったが、原稿準備の都合で第5章のみと なった。しかしながらこのふたつの章は内容的に共通または関連する部分 が少なからずあるので、予定した両章にまたがる序説を述べておきたい。

 リトワ、ベラルーシ、ウクライナは現在ではそれぞれ独立した国家を形 成している。だが、16世紀においてはこれら三つの地域にまたがるリトワ 大公国が存在した。そして1569年7月1日にはリトワ大公国とポーランド 王国がルブリンにおいて条約を締結し、「ポーランド共和国」を誕生させ た。この連合はとくにリトワにとっては増大するロシアの軍事的脅威に対 抗するために決断したものであったが、その結果文化面において三つの大 きな変化が生じることになった。ひとつはポーランド文化の影響の増大、

より端的にはポーランド化であった。とくに貴族たちの多くがポーランド 48一

(4)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

語やポーランド文化を競って受け入れ、自民族の文化や言語をないがしろ にする傾向が顕著になったことである。ふたつ目は、ポーランド文化や ポーランドの国教であるカトリックに対する反援から宗教改革が一定の支 持を得るようになり、この宗教改革を通して西欧の影響を受けたことであ

(注223)

る。三つ目は、カトリックの圧力によりギリシア正教との間に教会合同が 行われ帰一教会が誕生したが、これに反対する闘いが各地で結成された兄 弟団を中心に展開されたことである。すでに1573年のワルシャワ国会です べての宗教への寛容と平等が確認されていたが、事態は急速に激化する。

 このような社会的・文化的・宗教的状況は書籍印刷の活動の有様と出版 物の内容にも如実にあらわれている。第4章までに述べたロシアの書籍印 刷は、ほぼ国営のモスクワ印刷所1ヶ所に集中しており、印刷された言語 は教会スラヴ語ないしはロシア語、使用された文字はキリル文字だけで あった。また宗教はロシアの国教であったギリシア正教のみで、出版物は ごく少数の世俗的内容の出版物を除くすべてが国家権力と一体化したギリ シア正教による支配のための道具であった。ロシアと比較した場合、リト ワ、ベラルーシ、ウクライナの書籍印刷はそれぞれの地域によって違いが あるものの、その特徴点はおおむね次の6項目にまとめることが出来る。

 1. 印刷所は各地に点在していた。

 2. 印刷所の経営主体は、個人のほかに、兄弟団、修道院、イエズス会   などがあった。

 3.印刷に付された言語はラテン語、ギリシア語、ポーランド語、教会   スラヴ語、リトワ語、ベラルーシ語、ウクライナ語のほかにドイツ語、

  イタリア語、ラトヴィア語などがあり、ウクライナではアルメニア語   による出版も行われた。

4.印刷に使用された文字は、ラテン文字、キリル文字、ギリシア文字   のほかにアルメニア文字があった。

 5. 宗教的にはカトリック、プロテスタント(ルター派、カルヴァン派、

  アリウス派など)、教会合同派、ギリシア正教徒が入り乱れていた。

      −49一

(5)

 6. 出版物は奉神礼書や典礼書ばかりではなく各宗派の論争のための武   器ともなっており、しばしば激しい論戦が展開された。書籍印刷の拠   点作りは16世紀後半のリトワにおいては宗教改革派が優っていた。ま   たそのほかに、世俗的内容の出版物が多いこと、そして同時代人の著   作を含め個人による著作が多いことも大きな特徴である。

 以上の諸点の具体例については本論でふれる。第5章、第6章ともキリ ル文字による書籍印刷を中心に述べ、第4章までと同様に初出の原書名を 注記する。その他の文字による書籍印刷についても、必要と思われる個所 では調べ得たかぎりにおいて概要の紹介につとめたが、原書名にさかの ぼっての調査は本稿の目的外であり、書誌も不備のため省略した。

 日本において利用できるリトワ、ベラルーシ、ウクライナの書籍文化に 関する文献はロシアの書籍文化に関する文献と比較してはるかに少数であ る。したがって、このふたつの章の参考文献はごく限られており、記述も       〈it 3)

参考文献の要約的な平板なものとならざるを得ないが、『400年史』『書物

      (注6)      (注132>

史』『書籍:研究と資料』および『ベラルーシ総目録』を中心に論を進め        (注224)

ることとしたい。これらの中で、とくにウラジミーロフ著『書物史』はロ シア語だけでなく、リトワ、ベラルーシ、ウクライナ、ブルガリア、ポー ランド、チェコ、ラテン、ドイツ、スペイン、英語の各言語で書かれた 600点余の文献を利用した精緻な研究であり、同書に負うところが大きい。

 文中の人名と地名の表記は参考とする文献が、ポーランド名、ロシア名、

リトワ名、ベラルーシ名、ウクライナ名のいずれを用いるかによって異 なっているので、完全ではないが一応次の基準に拠った。

  リトワとベラルーシの人名…カタカナで表記するロシア名は『書物    史』、そしてカッコ内のリトワ名またはラテン名は『リトワ・ソビ         (注225>

   エト百科事典』

  ポーランドの人名、とくに国王など歴史上の人物…『ポーランド史』

  ロシアとウクライナの人名…『400年史』

  地名…ロシア名を基本とし、名称と位置の確認には『ソ連邦地図帳』

50一

(6)

      ロシアにおける書籍印刷(第3回)

  (注226)      (注227)

(第2版)およびロシア語版『世界地図帳』を用いた。ただし、第4 章までヴィリニュスをロシア名でヴィリノと表記してきたが、16−17世 紀の古地図の地名に則してヴィルナ(Vilna)とし、さかのぼって統一 する。なお、本文中の主だった地名については本章112頁の〈図11>を 参照されたい。

第5章 16−17世紀リトワおよび    ベラルーシにおける書籍印刷

 16−17世紀のリトワとベラルーシにおける書籍印刷の活動には、首都 ヴィルナを中心とするリトワ大公国という大きな枠組みの中での共通性や 相互の関連と同時に、それぞれの地域の特徴も見出すことが出来る。した がってこの章では、リトワ(第1節一第6節)、ベラルーシ(第7節)それぞ れについて概観したのちキリル文字による書籍印刷についてまとめるが、

個別の記述に入るまえに多様性に富んだリトワ大公国における書籍印刷の 概要を示しておきたい。

 『書物史』(p.276)によれば、1553年から17世紀末までのリトワ大公国 の書籍印刷に関する数字は次の通りである。ただし、1569年のルブリン連 合に先立って、それまでリトワ大公国に属していたウクライナの大部分に あたるキエフ地方がポーランド王国の支配下に移行しているため、ウクラ イナは下記の数字の対象外となっている。また小リトワと呼ばれていたプ ロシア地方も含まれていない。

 1. 印刷所数 28

 2.刊行点数 約1850点(ロシアの約3.7倍)。このうち83%はヴィルナの   印刷所による。刊行点数は、1590年2点、1595年24点、1640年33点、

  1658年は1点もなしというように年によって大きく異なっている。

 3.大まかな分野別 ほぼ48%が宗教的内容、ついで約32%が頒詩(ま   たは頒詞)であった。学術的文献についてはパーセントや点数は示さ   れていないが、第1位が歴史で、そのあとに系譜学、法律が続いた。

      −51一

(7)

 4.言語別 ポーランド語45%、ラテン語42%、教会スラヴ語およびロ   シア語約10%、リトワ語は全部で39点。

 以上の数字が概数で示されているのは、この時代の出版物に関する総目 録が完成していないことによる。当時の印刷部数があまり多くなかったう えに後述するさまざまな原因で現在まで伝えられていない書籍が少なから ずあるという。

 第1節リトワの書籍印刷一その始まりから最盛期まで

 リトワでの書籍印刷の始まりは、スコリーナが1519年末ないしは1520年 の初めに祖国に帰った時点にまでさかのぼる。かれはヴィルナで印刷所を 設立し、出版の準備にとりかかった。印刷所はかれの後援者であるヴィル       (注228)

ナのヤクプ・バビチの家に置かれた。1522年頃から1525年までの間にベラ ルーシ語で22点を刊行しているが、スコリーナの経歴および書籍印刷活動        についてはすでに第1章第1節に

〈図1> マジヴィダス著『教理問答集』

   1547年刊(『リトワ百科』第    7巻P.324より)

おいてふれているのでここでは繰 り返さない。1526年以降は、かれ の手になる刊本や書籍印刷活動に 関する記録は残されていない。

1530年にヴィルナで市の3分の2 を焼き尽す大火災があり、これが おそらくスコリーナの書籍印刷活 動中止の原因となったとの推測が

     (注229)

なされている。またこの大火では、

多数の書物が灰憧に帰したものと 考えられている。ヴィルナではし ばしば火災が発生しており、それ が戦争や焚書とならぶ書物大量消 失の主要な原因となった。

52一

(8)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

 スコリーナ以後のリトワでの書籍印刷活動は16世紀後半まで待たなけれ ばならないが、これに先立つ1547年に小リトワのケーニヒスベルクにおい てリトワ語による初めての出版物が刊行された。著者はリトワ人の宗教改 革派聖職者マジヴィダス(Martynas Ma2vydas,1510頃一1563)で、書名は

『教理問答集のやさしい言葉、読み書きと聖歌の勉強』。本文以外にリト ワ語による初めての「初等読本」および楽譜付きの聖歌が付されている。

また、マジヴィダスによる前書きはリトワ語で初めて詩の形式がとられて いた。これらの試みはリトワの文化史上で大きな役割を果すことになっ

(注230)

た。マジヴィダスによる時代に先がけたこの刊行にもかかわらず、リトワ 大公国内でのリトワ語による書籍印刷への関心は薄く、1595年になってよ うやく始められる。それでもすでに述べたように、17世紀末までの刊行点 数は39点とごく少数に終っている。

 リトワの書籍印刷活動の中心地となるヴィルナは、政治・経済・宗教・

文化とすべての面においてリトワ大公国の中心であった。そしてそのヴィ ルナの社会構造は次のようなものであった。まず都市住民の基本的な階層 はベラルーシ人で、かれらは自らをロシア人とみなしており、ベラルーシ 語をロシア語と呼んでいた。周辺の農民層はリトワ人、そして支配階級は ポーランド人と一部のドイツ人であった。そのほかに、ヴィルナにはモス クワ大公国から亡命してきたロシア人たちのかなり大きな集団があっ

(注231)

た。当時の亡命ロシア人の代表的な人物にクールプスキイ(AHApert MHxa加oB肝Kyp6cKtm,1528−1583)公爵がいる。かれはリヴォニア戦争 におけるロシア軍司令官であったが、イヴァン4世(雷帝)の 不公平な 不興を恐れて1564年にリトワへ亡命し、ポーランド王に奉職していた。

 リトワの書籍印刷は、1575−1625年の50年間が印刷所数、出版の数量と もに最盛期で、1598−1600年には7つの印刷所が同時に存在した。この50 年間の刊行点数は約700点で、年平均14点。当然のことながらこれを上ま わる年もあった。その例は1584年および1592年各17点、1594年24点、1595 年25点、1596年26点などである。1596年に刊行された26点を文字ないし言

53一

(9)

語別にみると、キリル文字8、リトワ語2、ポーランド語10、ラテン語5、

ギリシア語1と多様である。他の年には、ドイッ語、イタリア語、ラト ヴィア語による印刷も行われている。活字はキリル文字、ギリシア文字の ほか、ローマ字ではローマン体、イタリック体、ゴシック体、スクリプト 体も使われた。リトワには版画や紋章その他を製作するマステルが存在し、

かれらは論争的なもの、学術的なもの、教育のためのものと出版物の内容 にあわせて装飾の独自の様式を作りあげた。また、リトワの刊本にはロシ ァと異ってスコリーナの時代からすでに標題紙が付されていたが、通常、

      (注232)

標題は民族的な様式の囲み飾りの枠の中に収まるようデザインさた。

 そのほかに、装飾ではフヨードロフとムスチスラーヴェツが作り出した 様式も流行していた。かれらはモスクワを去ったあとベラルーシのザブル ドブで1568年に新たな書籍印刷活動を始めている。このふたりの名前はこ れからも度々登場するが、リトワ・ベラルーシ・ウクライナの地域別に論 ずるため時代が前後するところもあるので、かれらが活動した地名を年代 順に紹介しておこう。

 フヨードロフ

  1568−1570ザブルドブ(ベラルーシ)

  1573−1574 リヴォフ(ウクライナ)

  1578−1581 オストローク(ウクライナ)

 ムスチスラーヴェッ   1568−1569ザブルドブ   1574−1576 ヴィルナ

 リトワの書籍印刷の最盛期までの概略については以上で終え、次に主要 な印刷所および印刷者たちについてふれる。これらの印刷所ならびに印刷 者たちは、後にみるようにごく一部を除いてほとんどすべてがどこかの宗 派に属しているか、または支持者の立場をとっていた。

 最初にとりあげるマモーニチ印刷所には、1570年代から1620年代にかけ ての時代の主だった要素のほとんどが含まれているので、とりわけ詳細に

54

(10)

ロシアにおける書籍印刷(第3回)

論ずることとしたい。

 第2節 マモーニチ印刷所一正教徒派から教会合同派の拠点に  マモーニチ印刷所は若干の中断期間をともなうが、1574年から1623年ま

で約50年間にわたり数多くの出版を行っている。同印刷所の歴史は、印刷 活動の中心人物および出版内容から三つの時期に区分することが出来る。

第1期はムスチスラーヴェッの時代、第2期はルカとクジマの時代、第3 期はレオンの時代である。

 ジョールノワの研究によれば、ウンドーリスキイとカラターエフのふた りがそれぞれ作成した目録にリトワの出版物として記載するまでは、マ モーニチ印刷所の出版物のかなりの部分はロシアの出版物として記録され

     (注233)

ていたという。19世紀ロシアの研究者たちはこの印刷所にさほど注意を 払っていなかったとのことだが、以下にそのマモーニチ印刷所の活動を見

てみよう。

 (1)第1期(1573−1576)一ムスチスラーヴェツの時代

 マモーニチ印刷所が設立された時期についての正確な記録はないが、初 めての出版物である『福音経』の印刷に着手した日付1574年5月14日のほ ぼ1年前から設立準備が行われたものと考えられている。

 設立にたずさわったのは、当時のヴィルナではいずれも著名な人士で、

イヴァンとジノーヴィのザレツキイ兄弟、およびルカとクジマのマモーニ チ兄弟であった。イヴァン・ザレッキイ(HBaH 3apeqKmfi)は大公の会 計官の長、ジノーヴィ・ザレッキイ(3vaHOBvait 3apeqKMfi)はヴィルナ

(注234)

市長をつとめていた。ルカ・マモーニチ(JlyKa MaMOHvag)はイヴァン の娘と結婚しており、義父の死後、大公の会計官となる。クジマ・マモー ニチ(Ky3bMa MaMOHm)は商人であり、また実業家でもあった。かれ はのちに、ジノーヴィにとってかわって市長となっている。以上の4人は 当時ヴィルナのギリシア正教徒の社会において指導的な集団を形成してお

り、かれらの陣営における必要性からムスチスラーヴェツを招き、印刷所        一55一

(11)

の設立に及んだ。

 印刷所はヴィルナの市場にあるマモーニチ家所有の建物のうちのひとつ に置かれた。ザレッキイ兄弟とルカ・マモーニチが印刷所を後援し、物資 の供給はクジマ・マモーニチが行った。ただしのちになって、1580年代半 ばから1606年までは印刷用紙をルカ所有の製紙工房から供給している。設        (注235)

備と実務に関してはムスチスラーヴェッが担当した。第1期のマモーニチ 印刷所で刊行されたことが明確なのは次の2点である。

  『福音経』1575年3月30日刷了   『聖詠経』1576年1月16日刷了

 上記2点のほかに1574年から1576年の間に刊行されたと考えられている

『小時課経』1点がある。この『小時課経』の発見にいたる経過は興味深 いので、1964年刊『書籍:研究と資料』第9集に掲載されたジョールノワ の論文「初期印刷者ピョートル・チモフェーエヴィチ・ムスチスラーヴェ

(注236)

ツ」(以下、rムスチスラーヴェツ謝と略す)に基づきその概略を紹介しよう。

 1945年にレーニン図書館(当時)がある人物から古版本と写本のコレク ションを購入したが、その中に1冊の不完全な『小時課経』があり注目を 集めた。判型は四ッ折版。稀槻書部の専門家たちはひと目でそれが16世紀 ないし17世紀初頭の出版物と判断したが、この『小時課経』には出版事項 がなかった。そこで様々な比較研究を行った結果、赤い終止符を印刷して いる手法からムスチスラーヴェッとの関連が浮かび上った。そして上述の

『福音経』や『聖詠経』と同じ大きな活字(10行=127mm)が使われてい ることや、装飾頭字の大部分が『聖詠経』のものと一致していることから マモーニチ印刷所の出版物との見方が強まった。しかしながらそれまでの ロシアの文献目録には、『ウンドーリスキイの編年目録』および『カラ ターエフの記述目録」という最も信頼のおける書誌を含めどこにもこの

『小時課経』は記載されていなかった。また当時はソ連邦内で同じ『小時 課経』を所有している図書館はまだ見当らなかった。

 2冊目の存在については1951年に刊行されたOxford Slavonic Papers第

      一56一

(12)

      ロシアにおける書籍印刷(第3回)

2巻に掲載の「イギリスの図書館で記録されていない若干の教会スラヴ語

   (注Z37)

初期刊本」と題した論文がきっかけとなってボドリアン図書館の所蔵が明 らかになった。ロシアとイギリスでほぼ同時に進められていた個別の研究 だがイギリスでも「出版地 ヴィルナまたはオストローク、出版年 1575

1601年」とロシアの研究に近い結論に至っていた。双方の『小時課経』

のコピーを比較したところ完全に一致し、さらにボドリアン図書館所蔵本 の方がレーニン図書館所蔵本よりも完全な形に近いものであることが判明 した。しかしながらボドリアン図書館所蔵本にも出版事項は明記されてい なかった。

 これらの研究のおかげでこの『小時課経』は、その後新たにペテルブル グの国立公共図書館、ロシア科学アカデミー図書館、サラトフ大学図書館        (注238)

で各1部発見され合計5部となった。

 現在ではこの『小時課経』はムスチスラーヴェツによりマモーニチの家 で1574年から1576年の間に刊行されたものとして目録に掲載されている。

 (2)ムスチスラーヴェツについて

 モスクワにおける初期刊本印刷者としてフヨードロフと共にその名を留 めるムスチスラーヴェツだが、かれに関する研究はあまり行われていない。

フヨードロフに関する研究が単行本のほか雑誌および新聞に掲載された論 文をあわせて1970年代ですでに2,000点をこえその後も増え続けているの に対して、ムスチスラーヴェッに関するものはほんの数えるほどしかない。

こうした研究状況の中にあって、ジョールノワの『ムスチスラーヴェツ 論』はおそらくかれについての初めての本格的な研究である。

 ジョールノワによれば「ムスチスラーヴェッ」は姓ではなく通称で、こ れはかれがベラルーシの町ムスチスラーヴリの出身であることを物語って いるという。そしてムスチスラーヴェッがベラルーシ人であろうことを前 提にして論が進められている。本稿の第1章第2節において1564年『聖使 徒経』のあとがきに含まれる情報を歴史学者チホミーロフが6点にまとめ

たものを紹介したが、その6番目に「印刷者はふたりのロシア人、イヴァ       ー57一

(13)

ン・フヨードロフとピョートル・チモフェーエフ・ムスチスラーヴェツ」

と記されており、ベラルーシ人との考え方と相違している。しかしながら、

この点に関しては前述したようにベラルーシ人たちは17世紀に至るまで自 らをロシア人とみなしており、ベラルーシ語をロシア語と呼んでいたとこ ろからすれば矛盾しないものと考えることが出来る。

 ムスチスラーヴェツの名前はいつもフヨードロフのあとに置かれてきた。

このフヨードロフの名前との前後関係については様々な考え方がある。

 ジョールノワが紹介するところによれば、「ムスチスラーヴェツはスコ リーナの弟子であった。そしてかれはモスクワに派遣されヴィルナから やって来た」という何らの根拠に基づかない推論があり、それはさらに次 の推論を生み出した。「ムスチスラーヴェッはフヨードロフの先生だった が、当時のモスクワにおいてはモスクワ人が首位を占め、よそ者のベラ ルーシ人としては陰の人物にまわらざるを得なかった」というもの。しか

しながらこの「先生説」についてジョールノワは、ベラルーシのザブルド ブにおいてはフヨードロフがよそ者の立場になったにもかかわらず首位を        (注239)

保ち続けたことを見落していると矛盾点を指摘し、一蹴している。

 また「スコリーナの弟子説」についても次のような理由からこれを否定 している。第1に活字、オーナメント、さし絵に共通したものがないこと。

第2にムスチスラーヴェツがモスクワ、ザブルドブ、ヴィルナで活躍した のは老年ではなく壮年であったと考える方が妥当で、その場合両者の直接 的な接点はなかったと考えられること。第3にムスチスラーヴェツにはス

コリーナの文章にみられるようなベラルーシ語の影響がみられないこと。

       (注240)

そして第4に根拠となる史料が何ら示されていないことを挙げている。

 フヨードロフと比較すると、ムスチスラーヴェッが残した文化的遺産は あまり多くない。かれの版木を所有した私営の印刷所が短命だったことか ら、印刷所の活動停止とともに通常は印刷道具も消え去ってしまい、ムス        (注241)

チスラーヴェッの版木もまた消滅してしまったものと考えられている。し かしながら、ムスチスラーヴェツの活字やオーナメント(装飾の図柄)が

58一

(14)

ロシアにおける書籍印刷(第3回)

ウクライナのいくつかの 印刷所をはじめベラルー シやルーマニアでも使わ れた形跡があること、さ らには17世紀ロシアのラ ジシェフスキイもかれの 活字の描線や大きなイニ シャル(装飾頭字)の模 様を借用していることが

これまでの研究で明らか にされている。このほか ジョールノワはムスチス ラーヴェツが活字造りの 技術面ではフヨードロフ にひけをとらないとも述

   (注242)

べている。

 ここまでは主にフヨー ドロフとの比較に基づい て見てきたが、マモー二

〈図2> 1564年刊『聖使徒経』口絵(『古代    ロシアの書物の版画』p.65より)

チ印刷所時代のムスチスラーヴェツについての評価を『書物史』(p.257)

では次のように述べている:「1575年刊『福音経』と1576年刊『聖詠経』

はフォリオ版で印刷され、10行=127mmの大きな活字が使用されている。

それらはともにその素晴らしい印刷の仕上り、余白がたっぷりしているこ と、そして紙が良質であることが見る者を驚嘆させる。これらの事柄すべ てが2点の書籍をそれ以降のマモーニチ印刷所や16−17世紀リトワ・ベラ ルーシ・ウクライナにおけるロシア人印刷家たちの出版物から際立たせて いる。ムスチスラーヴェツはヴィルナにおける出版によって、かれが造本 の名匠であることを示した。さし絵とオーナメントの様式から判断して、

      59一

(15)

2点の書籍はモスクワの1564年刊『聖使徒経』の伝統を継承したものと考

えられる。」

 それと同時に『書物史」ではムスチスラーヴェツの版画に西欧のマニエ リズムの影響を認めており、ジョールノワもこの点についてふれているが、

両者とも1951年にモスクワで出版されたシードロフ著『古代ロシアの書物

  (注243)

の版画』で行われている分析に基づいている。またジョールノワは『ムス チスラーヴェッ論』(p.78)において、1564年刊『聖使徒経』の口絵〈図2>

の合作説を紹介している。これはシードロフが前掲書(p. 95,113)で、口 絵の周囲の飾りをフヨードロフが、そしてルカの人物像をムスチスラー

ヴェッが製作したという確信に至ったというもの。

 ところでこのムスチスラーヴェツがザブルドブを離れヴィルナへの招聰 に応じた理由について、ジョールノワはフヨードロフとの不和や喧嘩別れ というような個人的事情によるものではなく、当時の社会情勢に起因する       (注244)

ものとの考え方をとっている。それはベラルーシ人としてフヨードロフよ りも一層良くヴィルナの文化状況が把握できたであろうムスチスラーヴェ ツが、ザブルドブよりも書籍印刷の事業でのより大きな成功の可能性を秘 めた大都会ヴィルナを選択したと解釈している。なぜならば、ヴィルナに はリトワにおけるロシア人たちのギリシア正教上の権利のために闘う強大 な勢力が存在しており、啓蒙活動のために書籍を必要としていたからであ る。そしてまた、領主であるひとりの人物がすべてを決定してしまうホド ケヴィチの所領ザブルドブよりはヴィルナの方がはるかに印刷所建設に適 していたものとみている。ムスチスラーヴェツがマモーニチの印刷所建設 に着手したのは、前述の通り『福音経』の印刷が開始された1574年5月14 日から1年ほど前と考えられている。

 (3)決裂

 ムスチスラーヴェッを迎え、ようやく軌道に乗り始めたかにみえたマ モーニチ印刷所に突然の破局が訪れる。1576年3月までに民事訴訟がおこ

されたためだが、『400年史』(p.103)によれば訴訟はムスチスラーヴェッ       ー60一

(16)

ロシアにおける書籍印刷(第3回)

によっておこされている。

 『聖詠経』刷了の1576年1月16日まではムスチスラーヴェツとマモーニ チ兄弟は良好な関係ないしは少なくとも共同の関係にあったはずである。

      (注245)

決裂の原因を特定することは両者の財産関係が不明なので難しい。また、

かれがどのような条件で働くことにしたのかも不明である。ムスチスラー ヴェツによる「あとがき」にも仕事の面については何もふれられていない。

 この両者の関係を示す唯一の資料は、1577年5月付のヴィルナ市裁判所 の会議の議事録である。同議事録によれば、1576年3月の審理の結果、次 の判決が言い渡された:「印刷された書籍の在庫分はすべてマモーニチへ。

印刷の設備はすべてムスチスラーヴェッへ。そのほかにマモーニチはムス チスラーヴェッに30×60グローシュを支払うこと。しかしながらマモーニ チが裁判所の決定を1年間まったく履行しなかったためムスチスラーヴェ ッが再度申し立てを行った。その結果ムスチスラーヴェツは先の決定分に        (注246)

加えてマモーニチから罰金として100×60グローシュを得た。」これ以後 の記録はない。なお、「書籍の在庫分のすべてをマモーニチへ」との決定 は、当時紙が非常に高価だったことからこのような判断が下されたものと 考えられている。

 ジョールノワはその後のマモーニチ印刷所の出版物を検討した結果、ム スチスラーヴェツの活字もオーナメントの版木も残されていないと判断し ている。ムスチスラーヴェッがかれの財産を運び去ったことの状況証拠と して、それらがウクライナのオストローク印刷所の出版物に使われている        (注247)

ことを指摘している。さらにジョールノワは、『精進についての書』 『小 時課経』、そしておそらくもう何点かのオストロークの出版物の実質的な 印刷者がムスチスラーヴェツの可能性があること、かれが自ら印刷せず弟 子に任せた可能性もあることを示唆している。ただしこれらの考えは自ら も認めているように、オストローク印刷所の活動の記録が発見されない限

        (注248)

り推測の域を出ない。

 (4)ガラブルダ印刷所

      一61一

(17)

 マモーニチ印刷所が活動を停止していた期間中に、ワシーリィ・ミハイ ロヴィチ・ガラブルダ(Bac随皿磁M随xaimoBMg papa6yp瓜a)という人物 によりヴィルナに新たな印刷所が作られた。

 ワシーリィ・ガラブルダは宮廷で重要な地位を占めていたミハイル・ボ グダ・ヴ・チ・ガラブルダ(M。X曲B。__品6yp。。)の息子 だったという説がある。ミハイル・ガラブルダは1570年代にリトワ大公国 の大使として様々な任務をおびてモスクワに赴いた経験を持つ。その任務 の中のひとつにオストローク印刷所のために写本の聖書をモスクワから持 ち帰ることが含まれていたという。そして1580年代には何度も外交的任務

      (注249)

を遂行している。ジョールノワはこの「親子説」に対して、国王の側近の 息子がカトリックの反動が始まっていた時代に政府の気に入らない出版活 動をすることは考えにくいとの見解をとり、ミハイルとは何ら共通性を持 たない別の人物について述べている。

 ジョールノワが拠としたのは、まず第1にクールプスキイ公爵がクジ マ・マモーニチに宛てた手紙。その文面で、クールプスキイはオストロー シスキイ公(K.K. OcTpo宗cK随,1526−1608)がアトス山から入手したギ リシアの教父たちの説教集をガラブルダを経由して貸してくれたことを述        (注250)べ、この説教集を転写するようクジマ・マモーニチに薦めている。ジョー ルノワはこのガラブルダが、ザレツキイ兄弟、マモーニチ兄弟そしてムス チスラーヴェツも加わっていたギリシア正教徒集団の一員であったとみな している。第2の史料は、ヴィルナ古文献編纂学委員会が1871年にヴィル ナで刊行した『文書』の第5巻。この巻には1582年の文書が含まれており、

その中にワシーリィ・ガラブルダとかれのふたりの兄弟の名前が記されて いる。この文書でワシーリィはリトワ大公国官房長エフスタフィ・ヴォロ ヴィチの《スルジェーブニク(c y7Ke6HvaK)》と呼ばれている。当時スル ジェーブニクはマグナート(大土地所有の上層貴族)の庇護を利用できる 人物を意味し、イヴァン・フヨードロフも同じ呼び方をされている。そし てこの文書から、ワシーリィの兄弟のアファナーシイがイヴァン・ザレッ

62一

(18)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

       (注251)

キイに200リトワ・グロシを貸していたことが判る。これらの史料からか れらの親密な関係を読み取ることが出来るが、ジョールノワはここから次 のような推論をまとめている。1570年代から1580年代にかけての時代は正 教徒にとって書籍印刷活動はすでに困難な情勢になっており、富裕な階層 に属し社会的な成功を目指していたマモーニチは政府の意向に反して行動 することを恐れたが、何も失う物のないガラブルダは使命感に燃えて書籍 印刷活動を行った。

 ガラブルダ印刷所の出版物として出版事項が明記されているのは1582年 刊の『八調経』1点のみ。その他に1580年頃の刊行と推定される『福音経

(学習用)』1点が同印刷所の出版物とみなされている。経営に関してマ モーニチが援助した可能性もあるが、紙の粗末さと印刷の出来の悪さから みて、豊富な資金を持たないため優れた印刷技術者を集められなかったガ       (注252)

ラブルダが自力で印刷したのではないかと考えられている。

 『書物史』(p.260)はガラブルダを次のように評している。印刷の仕上 り具合からみてガラブルダは経験豊富な印刷者ではない。『八調経』は粗 末な紙にぞんざいに印刷されており、活字はフヨードロフのものを模倣し てはいるが鋳造は不正確で、組版は不揃いである。ただしオーナメントだ けは、とくにフヨードロフのモスクワ版とリヴォフ版のザスタフカ(章な どの初めに使うページ幅の花形飾り)を模倣した7点が良く出来ている。お そらくガラブルダを手伝った人物がいるが、それはフヨードロフの弟子グ

リニ・イワノヴィチ(PPHHb  BaHOBH9)の可能性がある。

 ガラブルダ印刷所は短期間で活動を終えるが、それはマモーニチ印刷所        (注253)

の活動再開と関係があるものとみなされている。

 (5)第2期(1582−1600)一ルカとクジマの時代

 マモーニチ印刷所の第1期(1573−1576)より少し前にカトリック勢力の まきかえしが成功を収めるきざしがあった。そして1576年に熱心なカト リック教徒であるステファン・バトリ(Stefan Batory,1533−1586.在位 1576−1586)がポーランド王に即位した。この状況下でマモーニチ印刷所は       一63一

(19)

6・−7年間活動を中断した。ジョールノワはこの期間にマモーニチがカト リックの政府からとりたてられ、特許状を手にするのを待っていたものと

    (注254)

考えている。だがウラジミーロフは『書物史』(p.260)で技術面に視点を あて、ムスチスラーヴェッが去ってからは活字もなく、また活字やその他 の組版の用具を作る職人もいないため印刷所を再開することは出来なかっ たと述べている。このことに関連して伝えられる話では、マモーニチが フヨードロフの弟子グリニ・イワノヴィチをヴィルナに招致し、かれがマ モーニチのところで2種類の活字を作ったという。

 マモーニチ印刷所第2期はルカとクジマが中心となっているが、1593年 以降はクジマの息子レオンも手伝うようになったと考えられる。他の助手 については判っていない。おそらくクジマは自ら印刷することが出来たの であろう。

 1583年6月24日にマモーニチ印刷所再開後最初の出版物である『奉事 経』が刊行される。印刷工程から逆算して準備を開始したのは1582年と考 えられる。そして1586年には国王ステファン・バトリから特許状を得てい る。この特許状について『マモーニチ印刷所論』(p.183)はラテン語で書 かれた原文に基づき、クジマとルカ・マモーニチ兄弟はロシア語、教会ス ラヴ語、ギリシア語の書籍印刷のみならず、国内での販売および税金なし に国外で販売する特権を終生認められていること、もしも他の印刷者の出 版物が国内で見つかった場合それはマモーニチの利益のため押収され、さ らに500ズウォティの罰金が課せられることを述べている。ただし『書物 史』(p,265−266)によれば1589年にヴィルナ兄弟団にもギリシア語、教会 スラヴ語、ロシア語(ベラルーシ語)、ポーランド語による書籍印刷の特許 状が与えられているので、『マモーニチ印刷所論』に書かれている排他的 効力は半減したものと考えられる。

 第2期の出版内容は多面的である。キリル文字による出版物だけで大別 して5種類、即ち、奉神礼書、奉神礼書ではない宗教的書物、教科書、公 的出版物、および教会合同派の出版物がある。

64一

(20)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

 第2期および第3期のキリル文字による出版物の約半数は出版事項が明 記されていない。そのため『マモーニチ印刷所論』と『ベラルーシ総目 録』では刊年の推定にかなりの違いが生じている場合や印刷所についての 判断も異なる場合がある。また『書物史』の判断がさらにこの両者と異な るため、三通りの解釈が生じることもある。そうした場合本稿では、. 一一応

『ベラルーシ総目金剥を判断基準としたが、依拠する基準によって1601年 を境とする第2期と第3期の印刷活動の内容の評価にも違いが生じてくる。

この点に関しては第3期の項でふれる。

 第2期のキリル文字による刊行点数は34点。ただし、このうち1585年刊        (注255)

『教理問答集』1点はイエズス会印刷所による出版物の可能性もある。マ モーニチは活発な出版活動を行ったが、もう一方ではとても慎重で、34点 中18点を匿名で刊行している。なお『書物史』(p. 264)によれば、マモー ニチは1582−1601年の間にポーランド語の書籍を9点刊行しているが、こ こではその紹介にとどめる。

 次にキリル文字による5種類の出版物について奉神礼書から順に述べる。

  ①奉神礼書

 キリル文字による出版物34点のうち半数の17点を占めている。その内訳 は、奉事経2、聖詠経3、聖詠経(補足付き)4、福音経2、福音経(学習 用)2、聖使徒経3、時課経1、小時課経1。

 マモーニチはこれら正教会むけの書籍をリトワ大公国内での販売のみな らず、国外での販売を意図していたものと考えられている。1570年代にす でにマモーニチにはアレクセイという代理人があり、モスクワに出かけて       (注256>

かれらに必要な情報をもたらしたという。

 ここで、マモーニチが国外での販売のために講じた方策とおぼしき具体 例を紹介しておこう。

 例1.1583年刊の『奉事経』にはヴェネッィアのポジダル・ヴコヴィチ が1519年に、また息子のヴィンチェンツォが1547年に刊行した『奉事経』

の中のふたつのザスタフカが使われている。これは明らかにバルカン地方       一65

(21)

での販売を意識したもので、現にバルカン各地の図書館でマモーニチ版の       (注257>

1583年刊『奉事経』を見出すことが出来るという。

 例2.1598年頃の刊行と推定される『奉事経』は1583年版と比較すると、

モスクワの聖人たちの名前が書き加えられており内容が多少違っている。

この変化の理由として、リトワとモスクワの正教会の結びつきがより密接 になっていること、そしてマモーニチが『奉事経』をモスクワで広く普及 しようとしたことの2点が考えられている。同書がモスクワとペテルブル グの図書館に現在も多数残されていることがこうした推測の根拠となって

 (注258)

いる。

 例3. 『奉事経』以外の一連の奉神礼書、即ち『福音経』『聖詠経』『聖 使徒経』『時課経』『小時課経」のすべての印刷でマモーニチはザブルドブ       (注259)

版の活字とオーナメントを模倣している。これはフヨードロフとムスチス ラーヴェツが印刷活動を行ったザブルドブの出版物と思わせることが狙い

である。

 例4.上記の奉神礼書の中に1595年に刊行されたページ付けと折記号の ある『福音経(学習用)』と折記号だけの『福音経』がある。ロシアに現存 する両書の多くは標題紙と無番号の1葉が欠落している。ペテルブルグ神 学大学図書館では6冊所蔵しているが、その6冊とも標題紙と無番号の1 葉が欠落している。これはザブルドブで印刷されたものと思い込ませるた        (注260)

めにモスクワへ送る前に意図的に切り取られたものと考えられている。こ の手法は第3期のレオンの時代でも繰り返されている。

 例5.マモーニチは1600年にも折記号のある『福音経』と折記号のない

『福音経』を刊行している。ただし、これらは一般に用いられる「学習 用」ではなく教会で用いられる「宝座上」の『福音経』。モスクワにおけ る『福音経』の刊行はアノニームナヤ・チポグラフィヤの時代の1550年代一 1560年代に3回あるだけで、それ以降はラジシェーフスキイが1607年頃に 手がけるまで新たな刊行はなかった。そのためモスクワでは『福音経』が 不足しており、その欠乏状態はのちにモスクワ総主教の座に着くフィラ       ー66一

(22)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

レート(在位1616−1633)でさえもやがて批判することになる「ヴィルナ       (注261)

版」を購入せざるを得なかったほどであった。

 以上、いくつかの例を見ただけでも、強制的販売に依拠していたモスク ワ印刷所とは異なり、マモーニチが自分たちの出版物を販売するために絶 えず腐心していた様子が判る。

  ②奉神礼書ではない宗教的書物

 この区分に含まれるのは次の5点である。

 1. 『教理問答集』1585年刊。(イエズス会印刷所刊の可能性あり)

 2. 『論集』1585年3月1日以降の刊行。

       (注262)

 .3.モンテネグロのニーコン著『説話集』1592年頃の刊行。

      (注263)

 4. 『聖書』(「ヴィルナの紙葉」)1595年頃の刊行。

 5.マクシム・グレーク著『十字の印(キリスト教徒が右手で切る)につい て』1588−1595年頃の刊行。

 これらの分野のモスクワでの出版は1640年代以降のことである。した がってこの点でマモーニチはほぼ半世紀先行している。ただし『教理問答 集』だけは本稿第3章第4節で既述した通り、1620年代にモスクワで検閲 により未完に終ったものがある。

 2番目の『論集』は3人の教父の著作から成る。第1の教父はコンスタ ンチノープル陥落後初めての当地の総主教ゲンナーヂィ(在位1453−1459)

で、著作は100点に達する。第2は8世紀のギリシア正教会の代表的なそ して傑出した人物のひとりであるイオアン・ダマスキン。第3は本稿第3 章第2節で紹介したイオアン・ズラトウースト(金口聖ヨハネ)。『論集』

の出版にはマクシム・グレークと面識のある人物で、それもモスクワから の亡命者のうちのひとりが参加しており、その人物はクールプスキイとみ なされている。ゲンナーヂィの著作「問答集」にはギリシア語からの翻訳 を行った人物による前書きがあり、かれはマクシム・グレークを「わが 師」と呼び、ゲンナーヂィについての教えを受けていたことにもふれてい

(注264)

る。また『400年史』(p.104)によれば、ギリシア語で書かれたテキスト       ー67一

(23)

はマクシム・グレークから贈られたものという。

 『聖書』(「ヴィルナの紙葉」)はそれ自体では1冊の完成した書物ではな い。1580年代に商人のイヴァン・マモーニチがリヴォフからヴィルナに38 冊の「聖書」を運んで来る。これはフヨードロフが1580年から1581年にか けてオストロークで印刷した『聖書』の完成品とは別に、かれの死後に残 された未完成の「聖書」のうちの約半数を買い取ったもの。そしてこの未 完成の部分を補完するためにマモーニチが刷り上げたものが「ヴィルナの 紙葉」と呼ばれている。この印刷のためにマモーニチのもとで特別の活字 が鋳造された。

  ③教科書

 教科書は次の3点である。

 1. 『教会スラヴ語文法』1586年10月8日刊。

       〈ii266   2.ヨハン・シュパンゲンベルク著『弁論術』1586年頃の刊行。

 3. 『初等読本』1590年代半ば頃の刊行。

  『教会スラヴ語文法』はヴィルナ住民の要望により印刷された。ヴィル ナには1585年に兄弟団の学校が設立されており、教科書を必要としていた。

この『教会スラヴ語文法』と次の『弁論術』は前述の正教徒集団の影響に よる出版物とみなされている。また『教会スラヴ語文法jのもとになった       (i}267)

写本はオストローク公の蔵書の中から発見されたものであった。

  『弁論術』は標題紙なしでわずか6葉だったことから1900年になるまで は世に知られていなかった。そのため『ウンドーリスキイの編年目録』に も『カラターエフの記述目録』にも記載されていない。原本は1541年にラ イプツィヒ、第2版が1544年にクラクフで刊行されて当時普及していたヨ ハン・シュパンゲンベルク(Johann Spangenberg,1484−1550)の著作の  「三段論法についての教義」の篇を翻訳したもの。その翻訳者とあとがき

の瀦はいずれもクールプスキ㍗㎏版事項は印刷されていないが、出版 物の特徴が『教会スラヴ語文法』と密接に結びついていることから、マ モーニチ印刷所で同じ年に印刷されたものと考えられている。

68一

(24)

      ロシアにおける書籍印刷(第3回)

 『初等読本』の原文は、1574年にリヴォフ、1580年にオストロークで フヨードロフが刊行した『初等読本』と一致している。現存が確認されて        (注269)

いるのは、ペテルブルグの国立公共図書館所蔵の1冊のみ。教科書はボロ ボロになるまで使われてその後捨てられてしまう運命にあったので、いず れも現存部数が極めて少数である。

  ④公的出版物

 公的出版物は次の5点。これらは法制史上重要な出版物であると同時に、

マモーニチの書籍印刷活動の大きな特徴となっている。

      (注270)

1. 『リトワ大公国の高等裁判所』1586年刊。

       (注271)

2. 『リトワ大公国法規集』1588年刊。

3.『コンスタンチノープル総主教イエレミィの通行に対するジグムン       (注272)

 ト3世ヴァーサの保証状』1589年7月15日以降の刊行。

4. 『リトワ大公国法規集』(第2版)1592−1593年頃の刊行。

5. 『リトワ大公国法規集』(第3版)1594−1595年頃の刊行。

 『リトワ大公国の高等裁判所』(以下、rトリブナール』と略す)は5年前 の1581年にワルシャワで開催された議会において承認された裁判制度を伝 えるもの。国王の名により従来の王室裁判所にかえて新たな選挙裁判所が 設置され、高等裁判所が開かれる場所(ヴィルナ、トローキ(現トラカイ)、

ノヴォグルードク、ミンスクが主要な都市)、開廷の期間、当時者から書類を 受理する書記の受付時間等が細かく定められている。したがってリトワ大 公国の住民はこれらの都市で上訴の手続きが行なえるようになった。高等 裁判所は、郡裁判所および市裁判所等の判決、郡の行政機関の決定に対し て上訴された事件を審理した。それらの中で特に重要な事件だけが国王の

      (注273)

もとへ送られた。新しい制度が承認された背景には、マグナート(大土地 所有の上層貴族)の支持を得た国王への権力の集中に反対し、財政・軍 事・司法・行政の面での改革を要求していた16世紀のシュラフタ(小地主       (注274)

貴族階級)の運動があった。そしてこの決定は国王が司法権に関与できる 範囲を明確に制限していた。

69一

(25)

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購鞍騨饗驚

 く図3> 「リトワ大公国法規集』1588年刊の標題紙        (『400年史』p.107より)

 なお、『書物史』(p.262)はレーニン図書館(当時)の研究を引用して、

『トリブナール』が1588−1600年の間に2−3回、おそらくはそれ以卜印 刷されたと述べているが、現物は発見されていない。

 『リトワ大公国法規集』(以下、r法規集』と略す)はすでに1529年と1566 年に編纂されていたが、いずれも刊行までには至らず、写本のまま伝えら れている。『法規集』は1588年の公刊に先立ち、地方議会とワルシャワの       一 70

(26)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

       (注275)

選出議会の校閲を受けている。

 『法規集』には本文の前に同書の出版および販売に関する国王名による 二通の特許状が印刷されている。第1はロシア語で書かれた1588年1月28 日付のマモーニチ宛のもの。第2はラテン語で書かれた1588年2月11日付 のレオン・サピェハ宛のもの。第2の特許状が与えられたことは一般論と

しては第1の特許状の否定と考えられるが、この『法規集』の出版に際し てのマモーニチとサピェハの経済的および物質的な関係がどのように調整 されたのかは明らかではない。ただし、マモーニチは他の出版物の場合と 同様に、『法規集』の場合にもサピェハの製紙工房で作られた紙を使用し        (注276)

ていることがサピェハの紋章入りの透かし模様から判明している。

 本文の各章の内容は、君主の人となり、シュラフタの権利と自由、全国 家的な防衛、裁判と裁判官、相続の規定、シュラフタと平民の権利の相違 点、領主の隷属農民の地位、交易、交通路について。

 『法規集』は1592−1593年頃に第2版、1594−1595年頃に第3版が同じく マモーニチ印刷所から刊行されているが、刊年については諸説があり未だ に確定していない。

 『害物史』(p.262)によれば、『法規集』『トリブナール』ともにCTapo.

6e∬opyOCK随fi3fi[K(古ベラルーシ語、または古代ベラルーシ語)で書かれて いる。

 なお、マモーニチが1593年に刊行した『聖詠経』の出版事項で「国王の 印刷家(複数形)マモーニチ」の称号を用いていること、そして1589年か ら宰相となったレオン・サピェハの庇護のもとにあったことからマモーニ チ印刷所を政府機関とみなす研究者もある。しかしながらウラジミーロフ は『書物史』(p.261)でその見方を否定し、この印刷所は存続期間全体を 通じて私企業であったと述べている。ここでは「王室御用達」の印刷所と 解しておきたい。

  ⑤教会合同派の出版物

 マモーニチは正教会むけの書籍を刊行しながら、もう一方でそれとは相       一71

(27)

容れない教会合同派の出版物を手がけている。それは次の4点。

      (注277)

 1. (イパチィ・ポチェイ著)『ギリシア正教会合剛1595年。

 2. (ピョートル・スカルガ著)『ブレスト教会会議の記述とその防衛』

     (注278)

  1597年刊。

 3. (イパチィ・ポチェイ著)『1596年ブレスト教会会議の真実の記録』

     (注279)

  1597年刊。

 4. 『アポクリシスとオトピスへの反論』1599年以降の刊行。

 『ギリシア正教会とローマ教会の教会合同』は両教会の合同を実現する ための最も重要な教義の記述。ブレスト教会会議の前年に刊行され、いわ ば露払い的役割を果たした。著者のイパチィ・ポチェイは教会合同派の教 宣活動家。1589年にジグムント3世ヴァーサにより教会管理人(または城       (注281)

番)の重要な仕事を与えられている。

 『ブレスト教会会議の記述とその防衛』は1597年にクラクフで出版され たピョートル・スカルガのポーランド語の著作Synod Brzeski i jego obro・

naからの翻訳。1596年の教会会議でカトリックが勝利し、その結果を見 て多数のマグナートたちが教会合同の側に移行した。そしてこれらのマグ ナートたちからのマモーニチへの圧力が強まり、以前庇護者だったサピェ ハまでがマモーニチに対して教会合同のためにもうひとつ出版するよう強 いた。その結果本書が誕生した。

 『1596年ブレスト教会会議の真実と記述』はブレスト教会会議をふたた び擁護するために1597年に刊行された。ジョールノワが「マモーニチ印刷 所論」を書く時点まではこの出版物はいかなる書誌にも書かれていなかっ たという。現存が確認されているのはロシア科学アカデミー図書館所蔵の

1冊のみ。

 『アポクリシスとオトピスへの反論』は正教徒にむけて出された教会合 同派の論争の書。ブレスト教会会議以降、正教徒と教会合同派の宗教的闘 いの中で双方から論争的な著作が出されるようになる。そして1598年頃に        アポクリシス正教徒側からの書物が2点相次いで刊行される。1点は『返答または反

72一

(28)

       ロシアにおける書籍印刷(第3回)

〈表1> マモーニチ印刷所 第3期の起点についての比較

『マモーニチ印刷所論』 『ベラルーシ総目録1

刊 年 書   名 刊 年 書   名

1600 1600 1600以降 1601

〔1601〕

福音経 福音経 聖詠経 時課経 時課経

1600 1600.7.17

  以降 1600頃

福音経

福音経       r

聖詠経 第3期 第 3 期

1601 1604 1608.1.8

  以降 1608頃

日々の祈禧(書)

フィレンッェ公会議の擁護 イオシフ・ルッキイ著『命題』

信仰の調和

1601 1601 1601頃 1592〜

 1601頃  〃 1593〜

  1601 1604 1608 1608.1.8 迄に刊行

日々の祈禧(書)

時課経 時課経 小時課経 小時課経 初等読本

(イパチィ・ポチェイ著)フィレンッェ公会議の擁護

(イパチィ・ポチェイ著)信 仰の調和

イオシフ・ルツキイ著『命題』

の書で、出版地は明記されていないが、ウクライナのWWt h 2

IUi;一・L −i z)とみなされている。そして教会合同派から再反論の書と して出されたのが『アポクリシスとオトピスへの反論』である。現存が確 認されているのはロシア国立中央古文書館が所蔵している1冊のみ。ただ

し、標題紙と出版事項が欠落した不完全なもの。

 以上、第2期の出版物について見てきたが、1596年のブレスト教会会議 以降はサピェハを含む教会合同派からの圧力が強まる中で、1600年刊『聖 詠経』までの期間、正教会むけの書籍で出版事項が印刷されているものは

1点もない。

 (6)第3期(1601−1623)一レオンの時代       一73一

(29)

 1601年にマモーニチ印刷所の経営主体は世代交替し、クジマの息子レオ ンが管理者となる。そしてこの時点からクジマとルカの名前は記されなく

 (注284)

なる。

 〈表1>は『マモーニチ印刷所論』と『ベラルーシ総目録』がそれぞれ 第2期と第3期に区分している出版物のうち、1600−1608年の期間だけを 比較したものである。第2期および第3期の刊行点数は、1601年刊の『時 課経』と刊年不確定の4点をどちらの時代に区分するかによって当然のこ

とながら違いが生じてくる。そしてこの5点の区分いかんによっては、刊 行点数のみならず、第3期の出版内容いいかえれば経営方針の解釈が異

なってくる。

 『マモーニチ印刷所論』(p.212−213)によれば、第3期に入ってからの 最初の5点はいずれも教会合同派の出版物である。このことは教会合同派 であったレオンが管理者になったことによりマモーニチ印刷所は経営方針 を明確に転換したと解釈することが出来る。これに対して『ベラルーシ総 目録』の区分にしたがえば、第3期の出版内容は正教会むけの奉神礼書や 初等読本を含め、単に第2期を引き継いだにすぎないかのように見える。

しかしながら『ベラルーシ総目録』が第3期に区分している刊年不確定の 4点は推定年代の幅からして、むしろ第2期に含めるべきであろう。仮に これらのうちのどれかが1601年に刊行されていたとしても、準備期間を考 慮すればそれは第2期から引き継いだ作業と考えることが可能であろう。

また『時課経』の刊行の日付は1601年11月2日だが、これも準備期間を含 めれば第2期から引き継いだ出版物と考えることが出来る。このような問 題整理をすればジョールノワの『マモーニチ印刷所論』の解釈にかなり近 いものとなるが、ここでは問題点の指摘だけにとどめ、前述した通り『ベ ラルーシ総目録』に準拠してまとめておきたい。

 第3期のキリル文字による刊行点数は18点。その内訳は奉神礼書(この うち何点かは教会合同派むけ)、教会合同派の出版物5点、教科書4点。以下、

第2期と同様の説明は繰り返しになるので省略し、特徴点だけについてふ 74

(30)

ロシアにおける書籍印刷(第3回)

れる。

 1604年から1608年にかけて教会合同派の出版物だけを3点刊行したのち、

レオンは父と叔父にならってモスクワむけの販売をも見込んだ『五旬経」

(1609年刊)および『三歌斎経』(1609年頃)を刊行する。これは動乱が続 くモスクワの情勢をにらんでの決断であろう。『五旬経』は1591年モスク ワでアンドロニク・チモフェーエフ・ネヴェージャにより刊行された版の 完全な写しで、『三歌斎経』も同様に1589年にモスクワでネヴェージャに

より刊行された版の写しである。

 1609年刊『五旬経』には出版者としてレオンの名前が初めて印刷されて いる。現在ロシアで所蔵が確認されている1609年刊『五旬経』のうちで完 全なのはペテルブルグの国立公共図書館所蔵の1冊だけで、その他はすべ て標題紙と無番号の3葉が欠落している。これも以前と同様に、モスクワ むけに販売する際に意図的に切り取られたものと考えられている。なぜな らば、標題紙の裏には教会合同派サピェハ家の紋章と、教会合同で果して       (注285)

いるサピェハの役割を讃える献辞が印刷されていたからである。しかしな がら、このような小細工にもかかわらず、マモーニチ版とモスクワ版の相 違は歴然としていた。第1に、マモーニチ版はポーランド製の黒ずんだ紙       (注286)

が使われていたがモスクワ版の方はフランス製のより薄い紙で印刷されて いた。そして第2に、マモーニチ版には折記号が印刷されていたが、モス クワ版の方は折記号は印刷されていなかったからである。

 レオンは1617年に『時課経』と『奉事経』を刊行している。この2点は リトワ、ベラルーシ、そしてウクライナでの販売を見込んではいたが、モ スクワを対象としてはいなかった。その理由は、動乱から立ち直ったモス クワで1615年に『聖詠経』、1616年には『奉事経』が刊行され印刷局の機 能が回復しはじめていたからと考えられている。

 その後レオンは初等教科書の『教会スラヴ語文法』を1618年に2回、

1621年に1回刊行する。これら3点には印刷所が明記されていないが、使 用されている活字および何点かの木版画が1617年の『時課経』に使用され       一75一

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