• 検索結果がありません。

ジーベルとランケ─ 『歴史学雑誌』の創刊を中心に ─

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "ジーベルとランケ─ 『歴史学雑誌』の創刊を中心に ─"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1 はじめに

 今日なおドイツ歴史学を代表する専門誌『歴史学雑誌』(Historische Zeit- schrift)は、1859年3月、ジーベル(Heinrich von Sybel 1817-1895)の発意 によって創刊された。彼は、ベルリンのランケ(Leopold von Ranke 1795-

1886)のもとで学び、その後ボン大学およびマールブルク大学で教鞭をとり、

1856年、ミュンヒェン大学の正教授に就任した。このミュンヒェン時代に、精 力的な研究と並んで、彼の学問の組織化の一つの試みがなされた。それが、こ の学術誌の刊行であった。その際、恩師ランケの助言が大きな意味をもった。

ベルリン大学教授のランケは主著の『ローマ教皇史』(1834-1836)、『宗教改 革時代のドイツ史』(1839-1847)1をはじめ『プロイセン史』(1847-1848)や

『フランス史』(1852-1861)という大著を次々に公にし、ドイツ歴史学界の指 導的存在となっていた。

 本稿では、19世紀ドイツを代表する二人の歴史家のつながりを中心にこの雑 誌の成立を辿り、その追求する基本方針を確認し、19世紀ドイツ史学の発展に おけるその意義を確認する2

2 ベルリン大学におけるジーベルの学業とランケ

 デュッセルドルフの教養市民階級の出身で、芸術的感性を磨き歴史への関心 を深めたジーベルは、ゲレス・ギムナジウムの卒業資格試験を終え、1834年秋、

歴史を学ぶためベルリンに赴いた。ジーベルは詩人インマーマン3の助言に従

ジーベルとランケ

─  『歴史学雑誌』の創刊を中心に ─

佐 藤 真 一

(2)

い、もっぱらランケのもとで歴史学を修めることにした。ジーベルはさっそく 第一学期に、ランケの「中世史」を受講し、「歴史学演習」に参加した。しかし、

ヴァイツ、ギーゼブレヒト、デンニゲス、ヴィルマンスといった数年年長のす ぐれた先輩たちに気後れする。一方、翌年の夏学期にたまたま受講したザヴィ ニーの法学講義に魅了され、つづく二学期も、他の教授たちのドイツ私法、ド イツ法制史、ローマ法史の講義に出席した。ザヴィニーから学んだことは、法 学の教養が政治史の理解にとって不可欠であるということであった。それにも かかわらず、結局のところ、法学関係の講義は、歴史的・文化史的示唆を与え るにとどまった。ジーベルの歴史家への道を準備したのはランケであり、その 方法的基礎であった。ランケの1836年から38年にかけての中世史、ドイツ史、

近世史、現代史の連続講義は、ジーベルに欠けていた将来の研究領域に関する 展望を示した4。のちの受講者たちにはしばしば不評であったランケの講義で あったが、ジーベルにとっては、「豊かな知識、ほとばしる思想の講義、つね に独創的な個性的叙述5」であった。ジーベルは注意深く師の思考過程をたど り、吟味された史料・文献を書きとめた。1837年夏学期にはよりよい準備をし て、ランケの住まいでの歴史学演習に参加した。歴史的批判的方法を習得する ためである。演習は第一次十字軍の叙述を史料とするものであり、ジーベルは、

ブレーメン大司教アダルベルトについての報告をおこなった。イエーガー通り のこの朝の時間が、ジーベルの学究生活の発端となった。

 この演習で習得した批判的方法を、彼は6世紀のゴート人歴史家であるヨル ダーネスの史書に関する博士論文(1838)6で実証した。ランケはこの最初の研 究に、「新しい注目すべき成果7」を認めた。しかし、この論文にもまして独自 であったのは、博士論文とともに提示された論題であった。すなわち、一方で ジーベルはニーブーアやランケから受け継いだ批判的方法によって、厳密に神 話と歴史を区別するとともに、歴史家は「愛憎の念にかられて」(cum ira et  studio)書くべきであると主張した(第3命題)8。こうしてジーベルは、学業 を終えるにあたって、批判的方法においてランケの立場を受け継ぐとともに、

(3)

歴史家の政治への積極的な参与を求めることによって師とは異なる立場を選び 取ったのである。この相違は、三月革命の経験をへてより一層明瞭になる。

 1838年秋、ジーベルは教授資格取得の準備のため、ボン大学に移った。若き 博士は、「ヨルダーネス」で示した批判的方法をさらに推し進め、第一次十字 軍にかんする徹底した批判的研究を試みた。『第一次十字軍史』(1841)9がその 成果であった。本書はベルリンのゼミナールから直接に生じた研究であった。

ジーベルは初めて、文献学的史料研究の方法的原則を、組織的に第一次十字軍 の史料編纂者に適用した。すなわち、一次史料への立ち返り、信頼のおける本 文の復元、その真正性の吟味、自立的なものと派生的なものとの区別、叙述者 の性格によって獲得された批判的尺度によって、ジーベルは歴史的情勢を正確 に再構成することを試みた10。彼によって伝説と歴史は分離され、隠者ピエー ルの驚嘆すべき呼びかけやゴドフロワ・ド・ブイヨンの英雄的役割についての 伝説は排除され、十字軍の起源や経過に対する教皇ウルバヌス2世やボヘモン ドの意義が強調された。19世紀の十字軍研究の出発点となった本書は、ジーベ ルの書物のなかで最もランケの精神によって書かれた書物であった。

 このあと、1844年にボン大学で中世史の講義を担当し、1846年にはマールブ ルク大学教授に就任する。この間、注目されるのは、トリアーの聖衣論争で中 心的な役割を果たしたことである。トリアーの大聖堂には、コンスタンティヌ ス大帝の母から贈られたとされるイエスの着衣が保管されていた。その展示が おこなわれたことを機に、ジーベルは、伝説と歴史的事実の判別を拠り所とし て、鋭く批判をおこなった。その結果、ギルデマイスターとの共著『トリアー の聖衣』(1844)11が公にされた。また、1848年のフランクフルト予備会議のメ ンバーになったことも、政治に参与する歴史家としてのジーベルを特徴づけて いる。さらに、彼の主著『革命時代史』(1853-79)が精力的に執筆され始め たのである。

(4)

3 ジーベルのミュンヒェン大学就任(1856)

 ジーベルは1856年にミュンヒェン大学教授に就任するが、その際かなりの紆 余曲折があった。バイエルン国王マクシミリアン2世は学問を愛し、バイエル ンに党派的でない本格的な近代歴史学を導入しようとした。そのために彼は、

王太子時代にベルリンで学び歴史学講義に感銘を受けたランケをミュンヒェン 大学に招聘することを熱心に試みた。1852年12月から翌年3月末までのことで ある。1853年1月25日、王は敬愛する師に書いている。

 「敬愛するランケ教授。これまで私がわが邦の諸大学のために獲得した学問 の先駆者たちに加えて、わがミュンヒェン大学で今後久しくあなたに教鞭をと っていただくことが、私の切なる願いであります。私の主要な目的はその際、

比較的最近の歴史学の動向を移植し、北ドイツにすでに存在するような歴史学 派をバイエルンで創設することです。あなたを招聘することで、歴史が党派形 成の立場からではなく、学問のあのより高次の客観的立場から扱われる自由な 歴史的研究と教育の原理がバイエルンのために新たに生まれるべきです。この ために私はしかるべき時に、バイエルンの大学や学校における歴史の学科の配 置にあたって、あなたの助言を最も重視したいのです12」。

 しかし結局のところランケのミュンヒェン大学招聘は実現せず、他の人物を 探さねばならなかった13

 1854年に、ランケの弟子であり当時マクシミリアン2世の顧問であったデン ニゲス(Wilhelm von Doenniges 1814-1872)14はこのことでランケに相談し、

同年秋にはバイエルンの本省はジーベルにミュンヒェン赴任の意向を尋ねた。

彼の同意にもかかわらず、この人事問題は順調に進展しなかった。一つには、

『トリアーの聖衣』の著者を招聘することが教皇至上主義者の反発を招く懸念 があったからであり、プロイセンの指導のもとでの自由主義的な基礎に立った ドイツ統一を志向する「ゴータ派」の政治的信念が不快感を引き起こしたから である。しかし、自らの学問的課題にとってジーベルに匹敵する学者を見出す ことはできなかった国王は、こうした懸念や不快感を押さえ込んだ。またジー

(5)

ベル自身、すでに『革命時代史』において革命指導者の教会に敵対的な態度を 非難しており、さらに1855年7月の『一般新聞』で自らがカトリック教会の敵 ではなく、カトリック教会の見せかけのもとで国家権力と文化を服従させよう とする党派の敵であると言明した15。しかしその後も交渉は順調には進まず、

ジーベルは交渉を中断すべきであると考えた。しかしランケの助言によって、

ミュンヒェンから提示された条件に同意する決意をした。こうして1856年7月 末に彼は歴史学正教授に任命された16

 ミュンヒェン大学着任直後、ジーベルはマクシミリアン2世と会見した。そ の際、国王は「父親(ルートヴィヒ1世)が芸術においてなしたことを、学問 に対して成し遂げることを課題としている」と述べ、ジーベルの今後の活動に いかなる援助も惜しまないと約束した17

 事実、ジーベルのミュンヒェン時代は、彼自身が晩年に至るまでつねに語っ ていたように、「生涯のなかでも最も充実した時期」となった18。『革命時代史』

の進捗19、ミュンヒェン大学における歴史学ゼミナールの設置(1857)に加え て、バイエルン科学アカデミー歴史委員会の創設(1858)に深く関与し、会長 ランケのもとジーベルは書記としてその重責を担うことになるのである。この 歴史委員会の活動は、ヨーロッパの歴史学の発展に大きく貢献するものであっ た。さらに時を同じくして、もう一つの大事業がジーベルによって進められた。

それが『歴史学雑誌』の創刊であった。

4 『歴史学雑誌』の創刊にむけて

 歴史学の専門誌の試みは、『歴史学雑誌』が初めてではなかった。三月革命 以前の時代に文芸批評、哲学、政治の多くの雑誌が発行されたが、歴史学の分 野ではすでに、二つの試みがなされていた。一つは、ランケの編集になる『歴 史政治雑誌』(Historisch-politische Zeitschrift 1832-36)であった。シーダー によればこの雑誌は「不朽の影響力をもつ編集者の比類のない個人的な創意に よるもの20」であった。しかしこの雑誌は、七月革命後の騒然とした状況のな

(6)

かで、極右からも革命派からも批判され支持を広げることができなかった。ま た、 第 二 は か つ て ラ ン ケ の 演 習 に 加 わ っ た シ ュ ミ ッ ト(Wilhelm Adolf  Schmidt 1812-87)の創刊になる『歴史学のための雑誌』(Zeitschrift für  Geschichtswissenschaft 1844-48)である。この雑誌は「初期の歴史学派の精 神に由来する学問的ジャーナリズムの真摯な試み」であり、「三月前期の不穏 な情勢の中で、“ドイツ精神のあらゆる努力の一致点”、すなわち“われわれの 祖国のすべての協会と団体の中央機関誌”たらんと努めた21」。協力者として、

ベーク、ヴィルヘルム・グリム、ペルツとともにランケの名も挙げられている。

ジーベルもこの雑誌に1号から8号まで、10篇の論考を寄せている22。しかし この雑誌も、三月革命の勃発とともに「歴史に聞こうとするより、歴史を作り 出そうとする興奮した時代のただなかで姿を消した23」。9巻が最後となった。

 さて、革命後の反動と歴史的想起の時代は、ドイツ歴史叙述の隆盛を見た時 期でもあった。ランケの『フランス史』(1852-1861)。ジーベルの『革命時代 史』(1853-79)、モムゼンの『ローマ史』(1854-56)、ドロイゼンの『プロイ セン政策史』(1855-86)、ギーゼブレヒトの『ドイツ皇帝時代史』(1855-

80)という大著が次々に出版され始めた。

 一方、50年代末には、ドイツの国民的統一をめざす運動が活発になってくる。

そうした状況の中で、ジーベルは地域を超えた学問的な定期刊行誌の必要を感 じていた。ドロイゼンはすでに1853年12月6日付のジーベル宛の手紙で、歴史 学のための雑誌をふたたび刊行する必要があるのではないか、と記していた。

同じ思いを抱いていたジーベルは、ミュンヒェンに移ってから、これを実地に 移すことになったのである24

 ジーベルはそのための具体的歩みを1857年に開始した。4月28日に起草した 国王への上申書において、彼は簡潔な計画を示し、来るべき専門誌の方針を提 示した。その方針のきっかけとなったのは、ジーベルのベルリン旅行であった。

その目的は、歴史学の奨励にかんするマクシミリアン2世の意図についてラン ケから助言を得ることであった。しかしランケはその直前にロンドンに旅立っ

(7)

ていたので、その代わりに他の有力な歴史家、とくに『ドイツ中世史料集成』

の編集主幹であるペルツ(Georg Heinrich Pertz 1795-1876)25と相談した。

その際に語り合われたことは、シュミットの『歴史学のための雑誌』が廃刊に なった後、比較的小編の研究の公表、歴史学の文献の概観と方向づけ、また真 の学問的方法のより確実な批判と主張の適用、これらを方針とする雑誌が存在 しないことである。このことがジーベルが計画している歴史学雑誌に対する示 唆となった。

 こうした雑誌の方針とならんで、雑誌の経費や出版社の問題も避けられない 重要課題であった。ジーベルは年間総経費を4000グルデンと見積もった。学術 誌の購読者によって経費が満たされるわけではない、と判断したからであっ た。この経費を確保するためには、600部から700部の販売が必要とされた26。  出版社に関しては、1857年5月初めには朗報が届いていた。コッタ社が、補 助金なしでも雑誌の出版を引き受けることを伝えてきたのである。5月7日の 上申書でジーベルは、秋にもこの計画を開始できるように国王に早急の決断を 求めた。ジーベルは宮廷顧問官フィスターマイスター宛の添え状で、雑誌が「ミ ュンヒェンをドイツ全体のための歴史研究の中心にする」手段であることを示 唆した27。こうした指摘は、国王に雑誌の刊行に賛同してもらえるように、繰 り返された。6月24日付の宮廷顧問官宛の書状においてもミュンヒェンを学問 生活の中心にしようとするなら、歴史学の雑誌の創刊は最も有効な手段である とし、そのための準備はミュンヒェンにおける歴史学派の創設によってなされ ていると述べた。しかも、ヴュルテンベルク王国で同様の雑誌が刊行される計 画がなされていることを耳にしていたジーベルは、ミュンヒェンにおける雑誌 の刊行を急ぐのである。そして事業計画を進捗させるために編集者の任命に関 する提案もするのである。彼の念頭にあったのは、ハレ大学のマックス・ドゥ ンカー(Max Duncker 1811-1886)であった。

 それにもかかわらずマクシミリアン2世は、この計画に直ちに同意しようと はせず、1857年8月22日付の書簡でランケにこの点についての所見を求めた。

(8)

ランケは9月6日付でフィスターマイスターに所見を書き、はっきりとこの計 画に賛成した。

 「私は歴史学の雑誌の創刊にかんするジーベル教授の提案について熟考する ため数日間、猶予をいただきました。私は、この提案がきわめて推奨に値する ものである、と断言いたします。新しい歴史学の雑誌は、是非とも必要とされ ています。肝心なことはただ一つ、それが啓発的であるとともに魅力的である ことです。雑誌にこうした性格を与えるために、ジーベル教授ほどふさわしい 人物がいるでしょうか。読者は一般に歴史に感受性をもっています。とはいう ものの、まがい物と本物とをより一層区別するように手引きされなければなり ません。この種の最近の試みが失敗した主要原因は、素材の膨大な量にありま す28」。

 ここでの「最近の試み」とは、シュミットによって編集された『歴史学のた めの雑誌』(1844-48)を念頭においていると推定される29

 そこでランケは、内容面で重点を定めることを勧める。「私は古代史から一 般教養にかかわる以上のものを掲載することを勧めません。しかし、中世や近 世の研究については異なります。すなわち、中世研究については、とくにドイ ツと関連づけて、近世研究についてはより広い枠で、この雑誌は中心的雑誌に ならなければならないのではないかと考えます30」。

 つづいてランケは、19世紀ドイツの歴史学研究における重要テーマである政 治と歴史の関連について論じる。「この雑誌は、生じてくるいかなる重要な問 題をも受けとめ、非党派的にそれを論じなければならないでしょう。というの は、論争によって究明の精神は形成されるからです。別の困難は、歴史問題と 政治問題が密接していることから生じます。政治問題に言及することは避けら れません。しかし、歴史的観点はこの雑誌においてつねに主要事であって、一 方、政治的観点は別の方向を追求しうるのです。とはいえ、私が考えるに、ジ ーベル氏はこれらすべてのことを熟慮したでありましょうし、活発で若々しく 力強い協力者を当てにすることができるでしょう。彼の計画が首尾よく広い層

(9)

に受け入れられることができるように願っています。適切に導かれるなら、こ の雑誌は今日の教養の水準から見て価値あるものになりうるでしょう31」。

 ランケの肯定的な態度表明は国王を納得させた。同年9月22日、国王は個人 資産から年間2000グルデンの補助金をこの雑誌のために認可した。翌23日、王 はジーベルにフィスターマイスターを介して、雑誌の創刊に当たって留意され るべき点を伝えさせた。そこで彼はランケの勧告をほぼ字句どおりに繰り返し た32

 こうして今やジーベルはバイエルン王の雑誌創刊の許可と財政援助の承認を 得た。それにもかかわらず、『歴史学雑誌』の第1号が刊行されるまで、なお 1年半が経過することになる。さしあたり編集者の任命が問題であった。ジー ベルの強い要望であったドゥンカーの就任は、彼のテュービンゲン大学の教授 職受諾によって、不可能になった。ランケは1858年1月、自らの教え子であり

『プロイセン週報』の編集者であったヤスムント(Julius Helmut von Jasmund  1827-1879)を推薦したが33これも実現しなかった。結局のところ、ジーベル は自ら編集を引き受けることになった。「そういうわけで私は、とくにレオポ ルト・フォン・ランケにつよく勧められて編集をみずから引き受け、それによ って使用を許された補助金の負担を王室の官房金庫にかけないことを決断し た34」。編集の助手としては、1858年に若きハイデルベルク大学の私講師クル クホーン(August Kluckhohn 1832-1893)を得た35

 しかし今なお、雑誌の出版社を見つけることが問題であった。すでに1857年 春にジーベルはそのためにコッタ書店の協力を得る見込みがあると予告してい た。とはいえ彼が社長のコッタ(Johann Georg von Cotta 1796-1863)と具 体的な交渉を始めたのは、1年後の1858年5月であった。ジーベルはコッタ宛 の詳細な書簡で、「本質的に学問的性格」を備える雑誌を強調した。その一つ は、雑誌が明確な学問的方法を擁護し、「誤ったディレッタントの傾向」と闘 うことであった。その形態においてこの雑誌は、専門家向けであるばかりでな く、すべての教養人向けであるべきであった。そのねらいは、ドイツにおいて

(10)

年々ますますその重要さが明らかになっている歴史の分野で、広い読者を適切 に啓発することであった。さらにジーベルはバイエルン王の援助とともに、ラ ンケ、ヴァイツ、ドゥンカー、モムゼンといった著名な歴史家たちが協力を快 諾してくれたことを引き合いに出した。ジーベルは販売上乗せ額を10グルデン と見積もり、そのため3400グルデンと見積もった経費を満たすために、500部 の売り上げが必要であるとした。

 コッタは出版者としての立場から、この提案に躊躇した。定期的刊行物の出 版は原則として危険をともなうもので、雑誌が広く知られるまで明らかに採算 の合わない数年が必要である、と。また、ジーベルの経費見積もりには、雑誌 を紹介するに必要な広告費が含まれていなかった。さらに出版社の所在地であ るシュトゥットガルトと編集部のあるミュンヒェンが離れていることである。

 最後に、コッタ出版社は自社によって出版された定期刊行物の所有権をすべ て持っており、このことがジーベルの計画においては保証されていない。その ため、雑誌の創刊者が雑誌を何らかの理由から別の出版社に譲渡する可能性が あるというリスクが存在するのである36

 こうしたコッタの危惧に対してジーベルは直ちに応えた。彼も、この計画が 多大な儲けを期待させるものではないと認める。しかし、コッタ社にとっても 利点がある。すなわち、きわめて著名な名士たちとの結びつきが得られ、コッ タ社が力を注いでいる歴史学のすべての出版物の書評を確保できるのである。

またコッタの別の疑念に関してジーベルは、この歴史学の雑誌を他の出版社に 譲り渡すことはない、と約束した。さらに、この雑誌をミュンヒェン所在のコ ッタの姉妹企業である「文芸社」(Literarisch-artistische Anstalt)から出版す るという提案をした。コッタはこの申し出に納得し、1858年6月20日に、文芸 社の取締役ルードルフ・オルデンブルク(Rudolf Oldenbourg 1811-1903)に、

ジーベルとの契約交渉を委ねた37。両者はすみやかに『歴史学雑誌』にかんす る契約に合意した。この契約はすでに1858年6月29日にシュトゥットガルトで なされ、ジーベルとコッタが署名した。文芸社が『歴史学雑誌』の版権を得た

(11)

ことが確認された。雑誌は季刊で発行され、年間960頁(60印刷全紙)となる。

編集者としてのジーベルは、16頁(1全紙)ごとに30グルデンの報酬を得、そ れによって編集経費と協力者たちの報酬を賄うことになった。編集者と出版社 はこれらの条件の下で、この雑誌を3年間継続することを義務づけられた38。  その後は双方ともこの契約の解約を通知する権利を与えられた。ジーベルに よって解約告知がなされるならば、彼はこの雑誌あるいは同様のものを他の出 版社で刊行することを断念することになった。『歴史学雑誌』は、このような 場合、文芸社の占有権に移ることになった。その際、文芸社はこの雑誌を別の 編集者によって継続させる権限をもった。契約が出版社から解約される場合 は、ジーベルはこの雑誌を別の出版社において継続する権利をもつことになっ た39。こうして間もなく刊行される『歴史学雑誌』の方向づけがなされた。

 すでに契約締結の1週間後に、オルデンブルクはミュンヒェンの新聞雑誌 で、1859年の春から文芸社で歴史学の季刊誌が公刊され、とりわけランケ、ヴ ァイツ、ジーベルの協力が予告された。この広告は1858年7月21日号の『出版 業界紙』に再録されて、ドイツ中に紹介された。

5 『歴史学雑誌』の基本方針

 1859年3月初めに『歴史学雑誌』の第1号が創刊された。ジーベルの序言に は、ここ数年の準備期間の論議を背景としながら、雑誌の基本方針が示されて いる。それは何よりも学術誌であることの宣言であった。

 「本誌は何よりも学術誌であるべきである。したがってその第一の任務は、

歴史研究の真の方法を擁護し、そこからの逸脱を明らかにすることであろう。

このような基盤に立ってわれわれは、古物趣味の雑誌でも政治雑誌でもない歴 史学の雑誌を意図した。

 一方で、われわれは現実政治の懸案を論じたり、特定政党の支持を表明する ことをめざしたりはしない。われわれがある種の一般的前提を雑誌の政治的判 断を制約することになる事柄と呼んだとしても、それはこのことに矛盾しては

(12)

いない。歴史的考察にとって、すべての国民生活は道義的法則の支配のもとで、

自然的個人的発展として現われる。この発展は、内的必然性をもって国家と文 化の形態を生み出し、横暴に抑圧されたり促進されたりしてはならないし、異 質な紀律のもとに強制されてはならない。こうした見解は、進歩的な生活に死 滅した要素を押しつける封建主義、主観的横暴を有機的な発展に取って換える 急進主義、国民的精神的発展を外的教会の権威に隷属させるウルトラモンタニ スムス(教皇至上主義)を排除する。

 他方で、われわれは古物趣味の雑誌を創刊しようとはしていない。したがっ てわれわれは、主として現代の生活となお生き生きと結びついているテーマ を、また生活とテーマのそのような関連を論じることを望むのである。あらゆ る生成と生命の法則性と統一を認識することが、歴史的考察の最高の課題であ るのなら、そのような認識は、過ぎ去ったものがなお息づいており、われわれ 自身の中に決定的に影響を及ぼし続けているという実証によってこそ最も明瞭 になるであろう40」。

 ここで、創刊された『歴史学雑誌』が「封建主義」、「急進主義」、「ウルトラ モンタニスムス」の立場とは一線を画そうとしていることは注目に値する。ラ イン地方の富裕な市民階級の出身であるという経歴、穏健な自由主義者として の革命への批判、トリアーの聖衣論争を通じて深められたウルトラモンタニス ムスとの闘い。こうしたジーベル自身の背景も、この雑誌の方針に影響を及ぼ しているように思われる。

 さらに編集にあたっての一般原則が明らかにされる。すなわちこの雑誌で は、一般に近代史のテーマがそれ以前の歴史のテーマよりもより重んじられ、

そして外国史よりもドイツ史のテーマに力点がおかれている。歴史研究の個々 の分野は、雑誌の課題に密接に関連している。法制史と国制史、文学史ないし 教会史の論稿は、それらが『歴史学雑誌』の一般的諸原則にかなっている限り、

狭い意味での政治史の論文と同様、掲載されるであろう。

 一般的な情報提供のために、本誌のどの号もヨーロッパの歴史文献の新刊書

(13)

に関する文献解題の概観を載せる。そこでは可能なかぎりより重要な著作の内 容、方法、見解についての簡潔な注記が添えられるはずであった41

 こうしたジーベルの序言を補足するものとして掲載されたのが、「近代ドイ ツ歴史学の発展」と題するギーゼブレヒトの長編の論稿である。これはもとも と1858年4月19日、ケーニヒスベルク大学でおこなわれた教授資格講演である が、「ここで述べられた見解は本質的に本誌の方針をも特徴づけるのではない かと考えて、これを編集部に委ねることになった42」のである。

 ギーゼブレヒトはここでドイツの歴史学の発展を振り返りながら、歴史学の 課題を示そうとする。著者によれば、歴史の学問的な取り扱いはドイツではす でに宗教改革の時代から始まっている。しかし、100年あまり前から明らかに 歴史の分野で絶え間ない進歩が見られる。歴史学はドイツにおいて、神学、法 学、古典古代学の補助学から生じた。したがって他の学問に奉仕するものとし ての役割を担っていた。18世紀末まで、ほとんどすべての歴史書は、歴史学以 外の学問にたいする顧慮によって拘束されていた43。このような中で、ギーゼ ブレヒトはシュレーツァーに注目する。彼は叙述の技法においてヴォルテール に匹敵することはないが、研究の徹底性や真理感覚では優っている。そしてロ シア人、トルコ人、モンゴル人の歴史において、彼ははじめて一層厳密な批判 の原則と方法的研究を示した44。しかし、18世紀の最後の数十年に美学や哲学 がドイツの文学や精神生活を支配し始めると、そのような学問的歴史叙述は充 分な役割を演じることができなくなった。哲学者はすべてを一般化し、その普 遍的構成を歴史に押しつけた。無限に豊かな歴史的素材は彼らの体系に無理や り押し込められ、いかなる重要人物も彼らの道徳的尺度に従って評価された。

歴史を取り扱うさいにも、あくまでも普遍的理念が重視された45

 これに対して、ドイツ歴史学にとっての画期をなすのは、ヘルダーの人間性 の歴史哲学のための理念であった46。またシラーは、歴史的芸術様式を生み出 さそうとし、ヨハンネス・フォン・ミュラーはより徹底した学問研究によって 彼の時代の歴史叙述を深めようとした。これらの偉大な人物たちのドイツ歴史

(14)

学の発展過程にたいする影響はきわめて大きい。彼らはとりわけ普遍史のより 深い把握をドイツにおいて開拓し、多方面の研究にきわめて実り豊かな萌芽を 提供した。彼らはドイツの歴史叙述に新鮮さ、温かさと活力を与え、不毛の素 材を理念で満たした47

 他方、歴史は大学の強制から解放され、自由に時代の文学の中で、同時代人 の要求に従って発展する。しかしこの解放が、歴史をまた別の隷属に置き換え たこと、すなわち、哲学者や詩人に隷属させることになったのは危険であった。

シラーは、歴史書を書くために学問研究に依拠しないことも許されると考え た。近代ドイツの歴史学は、哲学的・美的傾向と関連して形成されたというよ りも、それらと対立して形成されたのである48。そのさい、ドイツの歴史学が 新しい生命をくみ出した泉は、あの「国民的高揚」であった。国民思想は歴史 学の推進力となったのであり、国民の汲み尽しがたい生命の充満や祖国への信 頼は歴史学につねに新たに勇気と新鮮さを与えるのである。しかも、国民的観 点は普遍的歴史観の妨げにはならない。むしろ国民的観点によってはじめてよ り深い、より真実な普遍史の把握が獲得されるのである49

 さて、こうした展望の中で、ギーゼブレヒトは「近代ドイツ歴史学のもっと も卓越した創始者とみなされるべき50」ニーブーアに注目する。古代ローマの 伝承の内的矛盾を明るみに出した歴史的批判の技法はますます大きな確実性を もって使用され、ますます広い範囲に適用される。もはや歴史叙述からそうし た批判を切り離すことはできなくなった。ニーブーア以来、際立った研究者で ない偉大な歴史叙述家はいない51

 つづいてギーゼブレヒトは、今日の歴史書が諸党派の精神によって汚染され ていると指摘する。左右両派から声高に叫び声が発せられる。歴史家も党派の 立場に立たねばならない、と。しかし、党派行動は徹底した研究に益をもたら すものではなく、より深い研究は極端な党派的立場を認めない。真の学問は客 観的な真理と非党派性を目ざす努力に忠実であり続けた52。歴史家のこうした 非党派性が問題となる場合、宗派の分野でとりわけ問題となる。しかし両宗派

(15)

のドイツの歴史研究者の歩み寄りが見られる。

 18世紀末まで盛んであったような学問的歴史研究も、それに続く哲学的な歴 史叙述も、ドイツ民族の歴史に対する特別な関心を示さなかった。しかし国民 思想を歴史研究が理解するようになってから、みずからの国民史に対する無関 心は通用しなくなった。『ドイツ中世史料集成』は、新たな国民的精神の産物 であった。シュタインによって始められたこの大事業は、同時にニーブーアの 精神であった。ニーブーアの研究がなければ、シュタインの考えはペルツによ ってそのような形で実現されなかったであろう53。この史料編纂の編集事業が 始まって以来、ドイツ史の分野で、これまでに見られなかったような活動が広 くゆきわたるようになった。

 そうした歴史学を促進していく学問的努力にもかかわらず、ドイツ史全体を 展望するような普遍史はまだ存在していない。その意味でまだ準備段階にい る。学問活動は、主に専門的個別研究によって続けられている。個々の論文は、

大聖堂のための一石材のように、全体をめざしている。その際、どんなに迂遠 であろうとも特殊から普遍を目指さねばならない。それは唯一の正しい道であ る54

 18世紀以来の歴史学の発展を展望しつつ、ギーゼブレヒトはこのように述べ た。それは、ここに発足した『歴史学雑誌』の方針とも深く結びつくものであ ったといえるであろう。

 さて、創刊号には、編集者のジーベルに宛てたヴァイツの書状55も掲載され ている。そこには、『歴史学雑誌』が避けなければならない傾向が明らかにさ れている。「歴史学の雑誌のこの試みを私は誰よりも歓迎しています」とヴァ イツは語る。重要な問題を論じ合い、歴史学に関心をもつ広い層の人々に語り かけることのできる定期刊行誌を求めていたからである。過去の生き生きとし た認識は何よりも重要であり、そのために歴史学は大いに発展しており、若手 の研究者たちも活動している。史料の収集と批判的研究は大いに進展してい る。しかしそうした中で、誤った有害な諸傾向が存在する。すなわち、歴史学

(16)

ほど、ディレッタンティズムによって損なわれているものはない56。ドイツ各 地の歴史協会の活動にそれが見られる。最悪なことは、厳密な学問を無益であ るとか無価値であるとして拒否することである57。したがって刊行される雑誌 は、このようなディレッタンティズムを排し、真正の学問的な姿勢を貫かねば ならないのである。

 こうして、ジーベルの序言、ギーゼブレヒトとヴァイツの論稿を通じて、『歴 史学雑誌』の基本方向が、力点の置き方はいくぶん異なっているにせよ、明確 に示されている。それらは同時に50年代末のドイツ歴史学の現状、課題も浮き 彫りにするものであった。しかもこの三人の歴史家はいずれもランケの愛弟子 たちである。いわゆる「ランケ学派」が力強い活動を展開している様子が見て 取れる。

 さて、創刊号にはさらに、前年(1858年)9月30日のバイエルン科学アカデ ミー歴史委員会準備会議の席上提出された三篇の上申書が掲載されている。ラ ンケ、ペルツ、ドロイゼンの執筆になるものである58。史料の収集と公刊、批 判的吟味、歴史研究の奨励と推進、企画、そのような歴史学の共通の課題を『歴 史学雑誌』も共有していることが推察される。ジーベルは歴史委員会に属する 研究者たちからの寄稿も期待していた。事実、歴史委員会の指導的な歴史家の うちとくにヴァイツとヴァッテンバッハは協力を惜しまなかった。

 ただジーベルを嘆かせたのは、雑誌の創刊を奨励し、文芸社との契約書にも 名を連ねた代表的な歴史家たちから、その後、期待していたほど多くの論文を 得ることができなかったことである。それぞれが他の人が論文を寄稿すること を望み、小論文を執筆することよりも、大著を出版することを考えていた。『歴 史学雑誌』の基本方向を据え、弟子たちをこの雑誌の協力者として送り込んだ ランケも6つの論稿(小論や歴史委員会での報告など)を寄稿したにすぎなか った59。この点には編集者としての気がかりがあった。しかし、「歴史学雑誌」

の刊行は、ジーベルの予測をこえて順調に滑り出した。

(17)

6 おわりに

 近代歴史学は19世紀前半にドイツで確立された。それは主としてランケの貢 献になるものであった。ランケはベルリン大学の歴史学演習において歴史的批 判的方法を習得させることを通じて、若き歴史家たちを輩出させた。そのうち の一人がジーベルであった。ジーベルは、19世紀後半、師によって訓練を受け た批判的方法によって研究を深めるとともに、ランケの推薦で教授に就任した ミュンヒェンで、『歴史学雑誌』の創刊を実現させた。そのことによって、歴 史学の組織化が進められた。

 『歴史学雑誌』の第100巻(1908年)の序言で、マイネッケは記している。「歴 史学雑誌は19世紀ドイツの最も重要な歴史家の一人の創意になるものである。

この人物は学問的事業の組織化に非凡な才能をそなえ、応対の巧みさ、様々な 才能に対する確かな洞察、手腕の堅実さと軽やかさを持ちあわせていた60」。

この雑誌は、このジーベルの組織力なしには刊行されなかった。また、『歴史 学雑誌』が歴史学の本拠とも言うべきベルリンにおいてではなく、バイエルン 国王マクシミリアン2世の後援のもと、ミュンヒェンにおいて創刊されたこと も、雑誌に一層の普遍性を与える象徴的な意義をもっていたことであろう。

 この雑誌のその後の発展は激動の時代に続けられていく。普墺戦争、普仏戦 争、ドイツ統一、第一次世界大戦、ナチス体制、第二次世界大戦という歴史の 大波が打ち寄せてきた。しかしながら、国民世論のさし迫った関心事であった こうした現実政治に直接言及することは、文化闘争への積極的関与を例外とし て、その基本方針から避けられた。現実問題を問題とする場合にも、あくまで 歴史的考察を通じてその背景を解明するというランケの姿勢がこの雑誌に反映 している。政治と歴史を結びつけようとする点でランケと立場を異にするジー ベルも、時事問題への発言は、『歴史学雑誌』においてではなく、他の雑誌に おいてなしたのである。財政的に自立しつつ、国家、諸機関、諸政党に依存す ることなく、批判的な方法に基づく多彩な研究成果が掲載され、充実した書評 を通じて研究が共有されることになる。専門の歴史家ばかりでなく、歴史に関

(18)

心を抱く教養人たちにも研究成果が示された。

 ヨーロッパの歴史学専門誌のモデルとなった『歴史学雑誌』の創刊時の基本 方針は、1850年代末のドイツ歴史学の根本的な立場を映し出すとともに、持続 的な刊行が可能となった理由をも示唆しているように思われる。

1 『ローマ教皇史』については、佐藤真一「ランケにおける対立と融和──近代歴史学  とウルトラモンタニスムス──」、森原隆編『ヨーロッパの政治文化史。統合・分裂・

戦争』成文堂、2018年、111-129頁。『宗教改革時代のドイツ史』については、佐藤 真一「「近代歴史学の父」ランケと『宗教改革時代のドイツ史』」、ランケ『宗教改革 時代のドイツ史 Ⅰ』渡辺茂訳、中央公論新社、2015年、1-20頁、参照。

2 『歴史学雑誌』の創刊以来100年の展望については、シーダーの長編の論文 Theodor   Schieder,  Die  deutsche  Geschichtswissenschaft  im  Spiegel  der  Historischen  Zeit- schrift, in: Hundert Jahre Historische Zeitschrift 1859-1959. Beiträge zur Geschichte der Historiographie in den deutschsprachigen Ländern, hrsg. von Theodor Schieder,  München  1959,  S.1-104. が重要。この雑誌の創刊については、Jürgen Müller, „Die  Zeitschrift  soll  vor  Allem  eine  wissenschaftliche  sein“.  Zur  Gründung  der  Histori- schen Zeitschrift durch Heinrich von Sybel, in: Historie und Leben. Der Historiker als Wissenschaftler und Zeitgenosse. Festschrift für Lothar Gall, hrsg. von D. Hein, K. 

Hildebrand  und  A.  Schulz,  München  2006,  S.53-63.;  Volker  Dotterweich,  Heinrich von Sybel. Geschichtswissenschaft in politischer Absicht (1817-1861),  Göttingen  1978, S.320-338. を参照。ジーベルの生涯の概観については、Conrad Varrentrapp,  Biographische Einleitung, in: H. v. Sybel, Vorträge und Abhandlungen, München und  Leipzig 1897, S.1-156 が、今日なお最良の文献である。

3   インマーマンは、ランケの著作の熱心な読者であった。1833年の春、彼はジーベルの 母アマーリエにランケの『歴史政治雑誌』を送り、1834年9月末にはランケの『ロー マ教皇史』第1巻を勧め、「こんなに才知に富む教皇制の叙述、宗教改革によるカト リックの本質の改造に関するかくも多くの解明」を読んだことは記憶にないと述べた

(Dotterweich, a.a.O., S.40 Anm.)。

4   A.a.O., S.40 f., S.41 Anm.

5   A.a.O., S.41 からの引用。

6   Sybel, De fontibus libri Jordanis de origine actuque Getarum, Berlin 1838.

7   Varrentrapp, a.a.O., S.15.

8   Dotterweich, a.a.O., S.42.

9   Sybel, Geschichte des ersten Kreuzzugs, Düsseldorf 1841.

10   Dotterweich, a.a.O., S.45. こうした点で、ジーベルの書物のなかで本書はランケから 学んだ学問的批判的精神が最もよく表れているものといえる。フューターによれば、

(19)

ジーベルの『十字軍史』は、「ランケ学派から生じた最良の歴史的批判的考察」であ る(E. Fueter, Geschichte der neueren Historiographie, 3. Aufl., München und Leip- zig  1936,  S.535)。ランケによる本書に対する疑問も含めた高い評価は、Ranke an  Sybel vom 25. April  1840,  in:  Ranke,  Sämmtliche Werke(以下 SW と略記する),  Bd.53/54, Leipzig 1890, S.311 f.

11   J. Gildemeister und H. v. Sybel, Der heilige Rock zu Trier und die zwanzig andern heiligen ungenähten Röcke, Düsseldorf 1844. 序文によれば、4章から9章までがジ ーベルの執筆になるものであった(Varrentrapp, a.a.O., S.158)。

12   Maximilian II. an Ranke vom 25. Januar 1853, in: Bernhard Hoeft, Rankes Berufung nach München, München 1940, S.44.

13   ジーベルがミュンヒェン大学に招聘される(1856)に至る歴史学教授職を少し遡って 概観しておこう。1848年1月29日にゲレス(Joseph Görres 1776-1848)が亡くなっ たあと、1827年以来ゲレスが占めていた歴史講座は、同年ファルメラーヤーに、さら に1849年にはゼルトル、つづく数年にブーフナー、ルートハルトに、1850年以降はゼ ップに委ねられた。国王マクシミリアン2世の意図は、彼らと並んで、さらにもう一 つの教授職を確保することであり、その目的はドイツ歴史学の新しい批判的傾向をバ イエルンに伝え、ランケの精神による歴史学派をミュンヒェンに生み出すことであっ た。最初の提案は、1851年末にデンニゲスによって、シェリンクを介してランケの弟 子でシェリンクの義理の息子であるヴァイツになされた。彼は北ドイツのプロテスタ ントにとってミュンヒェンに長く根を下すことは不可能であるとしてこれを拒否し た。1852年1月にはシェリンクとペルツが、同じくランケの教え子のギーゼブレヒト を推薦した。しかし協議は、彼の就任条件が高すぎて結局失敗に終わった。これ以後 も、様々な学者の名が候補として挙がった。再度ギーゼブレヒトを推す声ばかりでな く、マイラート、カール・ヘーゲル、ブルクハルト、パウリ、デュムラー、ケプケ、

シュミット、ヴェンク、ヴァッテンバッハ、ベーマー、ヴェーゲレ、ジーベル、ホイ サー、ドゥンカー、アルノルト、コルネリウスである(Nachträge zu den Briefen Leopold Rankes an König Maximilian II. von Bayern,  herausgegeben  von  Karl  Alexder  von  Müller,  München  1939  (以下、Nachträge zu den Briefen と略記する),  S.60-65.

14   デンニゲスはランケの教え子。1839年ベルリンで教授資格を得、1841年ベルリン大学 員外教授。すでに1831年にベルリンで、バイエルン王太子マクシミリアンと親交を結 び、師ランケの推薦で1842年6月、顧問としてミュンヒェンに赴く。教皇至上主義者 の圧迫によって、1844年11月、ミュンヒェンを去らねばならなかった。しかし、1847 年の秋にかつての地位に戻る。これ以後1856年まで、マクシミリアンに仕え、この期 間、政治・学問的問題における国王の最も信頼のおける助言者であった(Ranke, Das Briefwerk. eingeleitet und herausgegeben von Walther Peter Fuchs, Hamburg 1949,  S.300 Anm., S.333 Anm.; Nachträge zu denBriefen, S.10 Anm.)。

15   Sybel, Besprechung: Barante, Histoire du directoire, in: Beilage zu Nr.210 der Allge- meinen Zeitung vom 29. Juli 1855.

16   Varrentrapp, a.a.O., S.81 f.

(20)

17   A.a.O., S.83.

18   R. Oldenbourg, Heinrich v. Sybel, in: Historische Zeitschrift (以下、HZ と略記する),  Bd.75 (1895), S.387.

19 『革命時代史』の最初の2部の第2版、第3巻を、ジーベルは「尊敬する師にして父  親のような友人レーオポルト・ランケ」に献じ、次のように記した。「私はこの機会 にもう一度、あなたの弟子であることを告白し、本書の学問的内容を、あなたの大地 の実りとしてあなたにお届けさせていただきたい」と(Varrentrapp, a.a.O., S.91 f.)。

20   Schieder, a.a.O., S.2.

21   A.a.O.

22   Varrentrapp, a.a.O., S.158 f.

23   Friedrich Meinecke, Geleitwort zum 100. Bande der Hitorischen Zeitschrift, in: HZ,  Bd. 100, (1908), S.2.

24   Dotterweich, a.a.O., S.321. その際ドロイゼンの立場は、断固たる学問政策的性格を 備えており、雑誌はドイツの政治と学問にたいするプロイセンとプロテスタンティズ ムの意義を表現し、本拠をベルリンに置くべきであった。こうした理解が新しい雑誌 の原動力となっていたならば、新しい雑誌に重荷となっていたはずであり、場合によ っては、雑誌の受容や継続に不利な結果をもたらしたかもしれない、とミュラーは指 摘する(Müller, a.a.O., S.)。

25   ペルツについては、佐藤真一「ランケとペルツ」、『国立音楽大学研究紀要』第46集、

2012年、1-10頁、参照。

26   Müller, a.a.O., S.57. HZ の発行部数は1861年に571部、1865年に520部、1892年には786 部、1895年は818部であった(A.a.O., S.57)。

27   A.a.O., S.57.

28   Ranke an Hofrat Pfistermeister vom 6. September 1857, in: Nachträge zu den Brie- fen, S.20.

29   A.a.O., S.20 Anm.

30   A.a.O., S.20.

31   A.a.O., S.20 f. フィスターマイスターは、1857年9月23日付のジーベル宛の書簡で、

国王が歴史学の雑誌の創刊に同意していることを伝え、雑誌の方針についての国王の 要望を紹介している。その内容は、9月6日付のランケの書簡で記されていることが ほぼ字句どおりに繰り返されている。すなわち、「啓発的で魅力的であること」、古代、

中世、近世の歴史についての重点の置き方、時代の重要問題が非党派的に論じられる こと、歴史的観点が雑誌において主要事であることが強調されている(Hofrat v. 

Pfistermeister an Sybel vom 23. September 1857, in: Schieder, a.a.O., S.74 f.)。

32   Müller, A.a.O., S.59.

33   Ranke an Sybel vom 3. Februar 1858, in: Ranke, Neue Briefe, Hamburg 1949, S.392.

34   Sybel, Die Gründung. Die ersten Unternehmungen, in: Die historische Commission bei der kgl. Bayerischen Akademie der Wissenschaften 1858-1883, München 1883,  S.13.

35   ジーベルは、『歴史学雑誌』の創刊にあたっての編集業務と並んで、とりわけ文献解

(21)

題論説の執筆におけるクルックホーンの多大な貢献に、感謝の言葉を述べている

(Sybel, Vorwort, in: HZ, Bd.1 (1859), S.V.)。その後さらに、ファレントラップ、マウ レンブレッヒャー、レーマンという有能な研究者が編集協力者となった(Oldenbourg,  a.a.O., S.386)。

36   Müller, a.a.O., S.60.

37   A.a.O. オルデンブルクは1836年以来ミュンヒェンのコッタ書店の支店の支配人であ り、1858年、みずからの出版社を創設した。オルデンブルクとジーベルは1852年以来 ミュンヒェン大学で教えていた化学者ユストゥス・リービッヒ(Justus von Liebig  1803-1873)の家で知り合った。それ以来ジーベルはオルデンブルクと交友を深め、

一時期は同じ家に住んだ。『歴史学雑誌』の第75巻(1895)──そこにオルデンブル クのジーベル追悼文が載っている──に至るまで本誌出版に関する不和は生じなかっ たという(Oldenbourg, a.a.O., S.386)。

38   Müller, a.a.O., S.61.

39   A.a.O.

40   Sybel, Vorwort, in: HZ, Bd.1 (1859), S.III f. この基本方針で第一に重視されているの は、「歴史研究の真の方法」の擁護であった。これはジーベルがランケから学んだ批 判的方法であった。この批判的方法は、ジーベルによれば、「まずニーブーアによっ てローマ史に、ついでランケによって近代史に、最近ではバウルによって教会史に適 用された」(Sybel, Über de Stand der neueren Geschichtschreibung, Marburg 1856,  S.5)。一方、ランケ追悼演説でジーベルは、「単に批判的学者であるだけで創造的な 芸術家でなかったような偉大な歴史家はいなかった。方法的研究、哲学的把握、芸術 的な再現、これらの結合からだけ、真正の歴史叙述が生ずる」と述べる。ランケの演 習における主要な課題は批判的な史料研究であったが、批判的方法は歴史学の自己目 的ではなく、より高い目的のための手段に過ぎないことを、ランケは繰り返し思い起 こさせたとジーベルは回顧している(Sybel, Gedächtnisrede auf Leopold v. Ranke,  gehalten in der  Akademie  der  Wissenschaften  zu  Berlin  1886,  in:  Sybel,  Vorträge und Abhandlungen, München und Leipzig 1897, S.303.)。

41   Sybel, Vorwort, S.IV f.

42   Wilhelm Giesebrecht, Die Entwicklung der modernen deutschen Geschichtswissen- schaft. in: HZ, Bd.1 (1859), S.1 Anm.

43   A.a.O., S.3.

44   A.a.O., S.4 f.

45   A.a.O., S.5 f.

46   A.a.O., S.6.

47   A.a.O., S.7.

48   A.a.O.

49   A.a.O., S.8 f.

50   A.a.O., S.9.

51   A.a.O., S.12.

52   A.a.O., S.12 f.

(22)

53   A.a.O., S.15. ギーゼブレヒトは『ドイツ皇帝時代史』の第1巻(1855)の献呈の辞で、

「ドイツ歴史研究の巨匠、G. H. ペルツとレーオポルト・ランケに、尊敬と感謝のしる しとして捧ぐ」と記している。

54   A.a.O., S.16.

55   Falsche Richtungen. Schreiben an den Herausgeber von Georg Waitz, in: HZ, Bd.1,  S.17-28.

56   A.a.O., S.20.

57   A.a.O., S.21.

58   HZ, Bd.1, S.28-42. この上申書も含め、歴史委員会の創設に尽力したランケについて は、佐藤真一「ランケとバイエルン科学アカデミー歴史委員会」、早稲田大学政治経 済学部『教養諸学研究』第142号、2017年3月、27-50頁、参照。

59   Varrentrapp, S.89 Anm.; Schieder, a.a.O., S.22. シーダーは、第2巻に掲載された『ド イツ学問史』についてのランケの論稿を見逃している。ランケの著作の書評は誌上で 多く取り上げられた。『フランス史』、『イギリス史』、『ヴァレンシュタイン』、『ドイ ツ諸国と君侯同盟』『七年戦争の起源』、『ハルデンベルク』、『全集』、『世界史』等の 書評である。

60   Meinecke,  Geleitwort  zum  100.  Bande  der  Historischen  Zeitschrift,  in:  HZ,  Bd.100  (1908), S.1.

参照

関連したドキュメント

ている。本論文では、彼らの実践内容と方法を検討することで、これまでの生活指導を重視し

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における

人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒

これまた歴史的要因による︒中国には漢語方言を二分する二つの重要な境界線がある︒

厳密にいえば博物館法に定められた博物館ですらな

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、

 チェンマイとはタイ語で「新しい城壁都市」を意味する。 「都市」の歴史は マンラーイ王がピン川沿いに建設した

しかし , 特性関数 を使った証明には複素解析や Fourier 解析の知識が多少必要となってくるため , ここではより初等的な道 具のみで証明を実行できる Stein の方法