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79 3 1!?!! 1 1 J 2 J 84

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【 翻 訳 】

王独清著,池澤實芳訳『私のヨーロッパ滞在記』(3)

池 澤 實 芳

五  ――これですっかりけりが付いた。とはいえ,支払った 100 フランは自分の稼いだ金だったが, しかし,残りの 1040 フランは借金して払った金だった……  私の目の前には,大柄なフランス婦人が立っていた。その女は,黒衣を着て,顔はパリ風の狡猾な 表情をしていた。手にした 1 枚の勘定書を,私に見せた。彼女は蒻雲の出産を手助けした産婆だった。  愛国的医者が熱心に紹介してくれたこの産婆は,寄宿舎の商売を兼業していた。彼女は蒻雲を, ヨーロッパ遍歴中の日本の資本家のお嬢さんと思いこんでいた。部屋も,食事も上等の水準のもの を用立てたし,さらに医薬品と看護師のサービスも加えると,毎日平均 60 フランを費やした。蒻 雲は出産の前後合わせて半月余[19 日]も入院した。その結果,驚くべき高額となった。  言うまでもなく,産婆は,あの愛国的医者とグルになっていたのだ。彼らはきっと私と蒻雲の 2 人が世間知らずの外国人だと見抜き,秘密にしなくてはならないという私たちの弱点を利用すれば, 思いのままに金を騙し取れると踏んだにちがいない。そのことを,当然私もはっきりわかっていた。 だが,同時に,私は同じく彼女と張り合うことなどできるわけがないこともわかっていた。だから 私は,私が数ヵ月来あちこちから借りまくった金と,M 市のある週刊紙(これは M 市の大家さん のモレ氏補注が私に紹介してくれたものだ)で得た原稿料を,まるまる全部その産婆に与えた。  蒻雲は女の子を生んだが,その娘はその日のうちに孤児院に抱かれていった。この世に生を享け る以前にすでに悲惨な運命を決定づけられていたこの娘を,私は一瞥もしなかった。蒻雲でさえ, 自分の可哀想な娘を,たぶんはっきりとは見なかったのではなかったろうか。私はただ,蒻雲が手 に握っていた,孤児院が孤児の引渡し人に渡した 1 枚の証明書を見たにすぎなかった。それは,孤 児と関係のある人間が孤児院を訪問する際に必要なものだった。その証明書には,蒻雲が女の子に つけてやった Barrie という名前が書いてあった。これが母が娘にしてやった唯一の義務だった。 疑いもなく,蒻雲は孤児院に訪ねていったことはない。その証明書が,その後も存在しているのか どうかはわからない。もしかしたら彼女自身の何度もの生活の変化の中で不都合を感じて,蒻雲は それを破り捨ててしまったかもしれない。  女の子は当然ながら,その後どうなったのかわからずじまいのままである。想像できるのは,彼 女も他の子と同じく,1 年 1 年この世で展開される春の光に向かって,彼女の年齢,知識,容貌を 増していき,悲惨な運命でも決して彼女の成長を妨げることができないだろうということだ ――  これはまさに「自然」に感謝すべきなのだ ! ―― 彼女は聡明な,勇敢な娘に,あるいは感動的な 娘になっているかもしれない……私がこの文章を書いているいまは,彼女は,すでに 10 歳になっ

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ている。もしも彼女がまだ生きているなら,つまり,悲惨な運命がその権力を濫用しなかったとし たらと仮定してのことだが,あのパリの工場では,奴隷が 1 人増えそうな気配がしているのではな かろうか。彼女はまもなくフランスの資本主義のために奉仕することになるだろうし,同じような 地位の一群の労働者たちの中で,まもなく彼女はその若い体力と若い血と汗を消耗させることにな るだろう ! ―― この女工の将来の前途はどうなるのか ? そんなことは誰も知らない ! あるいは 現社会の圧迫を受けている一部の人たちと同じように,無意識のうちに堕落していくか。あるいは 誰かの導きを得て,別の方面に歩みだしたり,将来フランスの必然的な大事変の中でかなり有意義 な仕事を為し遂げて,ドロップアウトした貧しい大衆の魂の小さな星の光となるだろうか……そん なことは誰もわからない !  蒻雲はその時,リヨンに行く決心をした。その理由は,彼女はパリでは知り合いが少なすぎるし, リヨンには多くの彼女の同郷人がいるから,向こうに行けば,暫時の生活を維持することが可能だ ろうということだった。正直に言えば,彼女のために彼女の出産という大事件を処理した後,私は すでに完璧な貧乏になっていた。私自身の暮らしでさえ焦眉の急だった。たぶん彼女が産婆の優等 ホテルを出た後 1 週間が過ぎた頃だったろうか,彼女は彼女の計画に従って旅立った1。私がパリ 駅で彼女を見送った時,彼女は何度も丁寧に,近いうちに私に,彼女のところに逢いに来てほしいと 言った。しかも女性特有の別れの悲しみの暗澹たる表情をして,声を震わせながら,私にこう言った。  「私の過去だけを覚えていないでね……今後私は,きっと一切の誘惑に打ち克つと思う……あな たが私を棄てないかぎり,私はもう決してあなたを苦しませないわ……」  私と蒻雲の芝居は,長々とここまで演じられてきて,クライマックスに達したと言うことができ る……  蒻雲が去った後まもなく,突然,私は J 市から投函された帯均2の手紙を受け取った。その手紙 には,彼が蒻雲に近づいた後に引き起こされた各方面からの彼に対する攻撃の様子が書かれていた。 彼はそれらの攻撃の声を総合して,逆に何人かの人たちに投げ返した。彼は,その人たちこそ彼を 攻撃した首謀者の一群だったという。彼が挙げた何人かの中には曾曁もいた。さらに,少年中国学 会の会員も何人かいた。一番重要なことは,彼が私に対する懐疑を露わにしたことだった。どうや ら蒻雲が J 市へ行った後,間接的に,他の人たちに対して彼を攻撃する雰囲気を私がこしらえたと いうのだ。彼はとくに,彼の挙げた何人かの人たちと私が知りあいであることを指摘した。続いて こう書いてあった。私が彼の名誉のために弁護をするべきだし,しかも私の地位と,私が初めてパ リに来た時の彼の私に対する友情とが,私が彼のためにその義務を尽くす理由である,と。――こ れは明らかなことだが,帯均は聡明にも,次のような計画を立てていたのだ。つまり,蒻雲がすで に彼と別れたからには,当然できるだけ過去の歴史を,表面上きれいに洗い流すに越したことはな い,と。洗い流すその職務を担当するのは,私以外に最適な人物はいない。なぜなら私が前面に出 て,彼と蒻雲の関係を否定すれば,他の人間を信じさせることができるからだ。と同時に,蒻雲が 生んだ子どもの問題がある。帯均はきっとこのことで悩んでいるにちがいない。彼からみれば,私 のほうからそういう話をすれば,将来彼に対する面倒事から解放されるからだ。だが,私は声明し なくてはならない。私が帯均の手紙を受け取った時に,私は帯均のその下心を即座に見抜けなかっ た,ということを。なぜなら彼の手紙は,あまりにも感動的に書かれていたからだ。帯均はこれま

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で文学が得意ではなかった。しかしこの手紙は,まるでインスピレーションの化身のような作品だっ た。彼は色彩感覚に長けた感傷主義者の扇動の手法を用いて,手紙を読む者を刺激した。(残念な ことに,私はこの手紙を無くしてしまった。無くさなければ,きっとそれをここに公表するのだが。) 私は本当に彼に感動した。彼の芸術に感動した。彼の勝利は,まさにその刹那,彼のすべての過去 の行為を私に忘れさせてしまったこと,と同時に,私の心に,彼のために平らかならざる義憤を抱 かせたことにあった。私にすこしの時間も,思索する余裕を与えることもなかった。私は実に詩的 な理想主義にして,しかもまた,同時に否定できないけれど,散文的な拙劣な形式の事柄を行なっ た。―― つまり,私は,すばやく彼の要求に従って,彼の挙げた何人かの人たち一人ひとりに手 紙を書いてしまったのだ。  それらの手紙の中で,私は大きな気力を振り絞って帯均のために弁護を行なった。しかも私は感 情を衝動にまで高めて,一切の話すべき言葉をすべて感情にぶつけた。私は将来人の恨みの種を蒔 いてしまうことなどまったく気づきもせずに,相手が発狂するほどの怒りを引き起こしたという非 難を,すこしの容赦もなくメンツを大事にする何名かの留学生たちの面前に,公然と投げつけてやっ た。その何通かの手紙の中で,私の非難が最も激しかったのは,曾曁に宛てた手紙と,私が上海で 新聞を発行していた時3の羅餘岑4という同僚に宛てた手紙の 2 通だった。原因は,曾曁がずっと 余計なおせっかいをやいていたことと,常に古い道徳の立場で以て誰彼となく他人を罵っていたか らであり,羅餘岑の場合は曾曁の純粋な擁護者で,曾曁の蓄音機だったからだ。  実は私がそんなふうに憤慨できたのは,今から考えれば,主にはやはり私の意識の中で久しく鬱 屈していた感情が爆発したからだった。私はずっとそういう留学生の虚偽の行動を目に余るものと 感じていた。あの一群の勤工倹学生が無理矢理帰国させられてからの,ヨーロッパの留学生は,ご く少数の思想の進歩的な者たち以外,その他の大半は,まるっきり前世紀の頭を持つ人物たちだっ た。そしてその中で最も反感を買っていたのは,曾曁ら一部の人間と少年中国学会の会員だった。(曾 曁は,少年中国学会と最も密接な関係を有し,しかも,少年中国学会全体に対して隠然たる権力を 振るっていた。周虚成や汪廣季や何人かの少年中国学会の重要人物たちは,みな曾曁を唯一の崇拝 者とみなしていた。)この人たちは当時,留学生の中では小資産階級の地位にあった。一方で名士, 政客,官費生と結託し,またもう一方で勤工倹学生とも交際していた。中間的な地位が養成したか なりの勢力の下で,彼らはまるで裁判官を自任するように,常に極めて厳しく他人の行為を糾弾し た。しかし彼らが糾弾する者は,名士や政客や官費生は含まれなかった。同時に彼ら自身の行為が, 彼らが糾弾する人たちの行為よりも良いというわけではなく,その違いは,彼らの多くの事柄は非 公開で行なわれ,他の人たちの場合は完全に公開されたということ――ただこの一点だけだった。  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5  少年中国学会について,ここですこし書いておこうと思う。この団体は,「五四運動」以後,一 時期センセーションを巻き起こしたといえよう。当時,この学会に対する知識界の憧憬は,ほとん ど最高の程度に達した。しかしいま私たちが,この学会が結局どんな重要な事柄を為し遂げたのか, と回想するなら,その問いに対して私たちはすばやく,次のように回答できる。否,と。こまごま した西洋の資産階級の学説の紹介の他には,その学説自身さえもが正確な紹介ではなかったけれど, 何も為し遂げなかった,と。この純粋な小資産階級の知識分子の集団の欠点は,まさに中心のない

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主張だった。当時のある名士[胡適]が提出した「多く問題を語り,少なく主義を語ろう」という スローガン6の下で,たしかに一種の雰囲気が作られた。少年中国学会は,この雰囲気の中の最も 具体的な産物だった。解釈する必要もなく,このスローガンは資産階級の自由主義者が,大衆を欺 瞞する呼び声にすぎなかった。ここには,現社会の経済制度を打倒することを願わない明らかな態 度が流露していた。当時の中国は,いわゆる「戊戌政変」[1898 年,康有為ら改良主義者が行なっ た政治クーデター]を継承し,さらに一歩進めた資産階級の大規模な文化運動の時期だった。新興 階級の政党7はまだ正式に誕生していなかった。一般の小資産階級は,当然,先行する資産階級の 自由主義者の後ろをついていくだけだった。この集団が独立もできず,すぐに分裂に陥ることは, とうの昔から自明のことだった。最も面白いのは,いわゆる少年中国学会の会則に印刷されていた 何項目かの空虚な,観念論の抽象名詞 ――「純潔」「奮闘」「互助精神」等など ―― が,会員同士 の信条となっていたことだ。しかも,周虚成は,青年が守るべき何条もの道徳を列挙した文章を書 いていたが,とくに「純潔」という名詞を力説していたように思う。汪廣季も誇張して言論を発表 していた。彼は,もしも青年が少年中国学会のような「純潔」な団体を脱退したら,もはや出口は ない,と述べた。……当時にあっては,当然一部の人たちはこういう話を喜んで聞いたし,表だっ た勢力にさえもなったりした。しかし,団体がその社会基礎から得られた必然の結果は,すこしも この影響を受けなかった。一たび新興政党が中国に台頭すると,「純潔」な少年中国学会は敢え無 くも分裂から没落に至った。この時,知識分子たちも,主義を語らず,ただ問題を語ることでは何 の解決も得られないと理解しはじめた。そこで,まず,少年中国学会の指導者の 1 人,その後北京 で悲惨な死を遂げた李 修 昌[李大釗]8は,断固として少年中国学会を放棄し,別の有意義な活動 を行なった。続いて,一群の人々がこの団体を脱退した。その結果,何人かの役立たずのメンバー 以外で,後退したくないメンバーは,みな新興の政党に加入した。前進したくないメンバーは,み な曾曁の指導する国家主義の旗印の下に帰した。  私は,初め,この団体と友好的な関係を有していた。というのは,その何人かの重要なメンバー の半分が,私が上海で『救国日報』を編集していた時の同僚だったからである。しかし,その何人 かの同僚は,早くから私と思想上の隔たりが生じてはいた。最も明らかなのは,私と彼らとがその 単純な愛国という主旨をスローガンとする新聞を共に主宰していたことだった。しかし私はその新 聞に社会思想の言論を発表していた。そのうえ同時に労働組合の活動を行なっていた。―― それ らの言論自身の時代は成熟以前であり,しかもそれらの活動も幼稚で無理解に満ちていたけれど。 しかし私がすでに一種の当時の環境と正反対の意識を持っていたことを,誰もが承認せざるをえな かった。―― それに対して,彼らは完全に「愛国」の斑に剥げた銅像の足を抱いたまま,それを 死ぬまで離そうとしなかった。当初,彼らは私に彼らの団体に入るよう勧誘したのだが,しかし私 がまだ正式に態度を示さない時に,パリに赴いた私と蒻雲とが恋愛したことにより勧誘の話は立ち 消えとなった。これらのことについて,その後,鄭白基[鄭伯奇](彼も少年中国学会の会員で, 私の過去の多くの生活と最も関わりのある一人だった)はかつて,私は郭麥弱[郭沫若]とほとん ど完全に同じ情況であると言ったことがある9。これは間違いない。郭麥弱はもともとその数人の 少年中国学会の重要メンバーと深い関係があった。その後,敵対的となったのは,日本の女性と結 婚したからだった10。これはいまから言えば,おそらく意外に思う方もいるかもしれない。少年中

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国学会が,その訳のわからない会員の信条の下に,その存在を支えていたのは,一種の虚偽の道徳 観念だった。そしてその数人の重要メンバーはその観念を発揮した時には,また男女問題を反道徳 の極致とみなしていた。だからおよそ誰かが女性と結ばれると,幾分これまでの伝統的な形式と ちょっとでも異なれば,即刻彼らの面前で最大の罪人になった。私はまだ覚えている。郭麥弱には 少年中国学会の出版物に載せた手紙があったが11,その時,郭麥弱は文学の事業を始めたばかりの 頃で,少年中国学会に対して十二分の情熱を抱いていたようだった。その手紙の中で極力周虚成や 汪廣季に対して,曾曁に対してでさえ懺悔した。しかも自分を Amoeba[アメーバ。原生動物]に なぞらえた。しかし,それは少年中国の指導者と自任するそれら数人の者たちの心の奥底をすこし も感動させなかった。罪人はやはり罪人だった。いま私は数えてみたが,私と同時代でしかも私と 友人だった多くの,その時の文化運動に参加した人物たちは,もしも終始すこしも転向を良しとし ない人たちについて語るならば,おそらく彼ら数名の先生たちを数に入れなくてはならないだろう。 時間の流れとともに前進する波が彼らの身体をどんなに濾過しようと,彼らの思想と行動の中に, ほんのわずかな社会進化の痕跡を探しだすことはできない。今日に到るも,彼らはやはり国家主義 政党の中の最上層の要人である。  私が M 市にいた時に,ヨーロッパに滞在していた少年中国学会の一部の会員と私は,一度集会 を開いたことがあった。曾曁も出席して(彼は私を銃殺に値すると罵りながら,一方ではもてなし の言葉をかけていた),大いに自説を主張した。その時私は,それらの人たちと協力しあって事に 当たることはできないと,完璧に見抜いた。彼らは私に論争をしかけてきた。私は,一切の問題は みな社会全体の改造から着手しなくてはならないことを,再三にわたって述べた。しかも,愛や死 などのいわゆる人類永遠の問題を挙げて,およそ不正当な愛に陥った者や,罪悪を犯した死者はみ な本人の過ちではなく,社会そのものの不完全さに由来している,と述べた。彼らは,私とは別の 見解を示した。つまり,個人の行為は完全に個人が責任を負わなくてはならないし,社会は決して 個人に背きはしない,と同時に,社会全体を改造することは夢想にすぎず,人は自由な私欲を抑制 すべきであり,極力現社会の秩序を維持すべきである,と。―― その時の集会では,私は滑稽な 思い出があるのみだ。熱烈なる独活の大木の先生がまず断固として,中国には是非にもマッツィー ニ12が現れなくてはならないと述べた。しかし続いてまた,疑問の口調で,マッツィーニの学説が ルソーと同じかどうかを知らないが,もし同じなら,やはりいないほうがましだ,と述べた。曾曁 はずっと消化不良の口臭病を患っていたが,他人への迷惑などすこしも顧みず,彼は辺り一面に唾 を飛ばしながら,終身の願いは同族の曾國藩[1811∼1872。清末の政治家]を学ぼうとすることだ, と説明した。  まさにこの集会で私は,曾曁の指揮に従っていたそれらの未来の国家主義者たちが,国内にいる 1人の会員と重大な闘争を起こしていたことを知ることができた。その国内の会員とは,その後, 大革命の中で最大の声望を有しかつごく最近犠牲になってしまったばかりの惲台耀13である。当時 この革命家は,すでにそれらの先生たちと思想上敵対していた。今も私は覚えているが,台耀があ る論文を発表したためだった14。それは,青年は身体を労農の方面に置くべきだという論文だった。 これは曾曁からみれば,まったく一気に神経の中枢を突き破る斧だった。たぶんまさにその時から 始まって,曾曁は初めて,仇敵に対する眼光で「労農」という 2 つの文字が結合した単語を注意す

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るようになった。その後,彼は発狂したように労農方面の勢力を誹謗中傷した。数年後にまた,国 内で正式に彼が発行した『醒獅週報』15に,彼の恐怖症を書き,新興政党と戦った。  いま,私たちはやはり前述した事件に戻ることにしよう。私は帯均のために曾曁と少年中国学会 の数人に手紙を書いた後,急に身体が軽くなった気がした。それらの手紙は私がそれらの人たちに 宛てた最後通牒だった。以後,両者はすべての関係を絶った。もしも私の記憶に間違いがないなら, この時からずっと最近まで,私はもう 2 度とそれらの人たちの誰とも会ったことがない。だが問題 はここにとどまらず,私はこの時から,帯均ともそれまでの交際を終わりにした。私にとって,今 回帯均のために弁護士を務めたことで,すでに私がパリに初めて来た時に彼が私を援助してくれた 種々の好意に応えることができたのだから,以後,実にもはや継続して彼と友人になる必要はなく なったのではないかと思われた。この時の私の精神は,あたかも突然一種の変化 ―― 突然強くなっ たかのような ―― が起きたようだった。私は私の孤独に思い至ったが,十二分の努力で自分の生 活の中の慰めを作らなくてはならないと決心した。問題は即刻私の頭に迫ってきた。1 人の人間は, この複雑な社会の中で絶えずこのような多くの災難を経験しなくてはならないのだろうか。1 人の 人間は,他の人の気持ちとこんなにもひどく違うものなのか……しかし,それをどのように理解す るのか ? それをどのように解釈するのか ? 苦い疑惑が私を揺り動かしていた。ついに私は,自 分を哲学の領域に引っ張っていった。  ある日,私は新しく引っ越したラテン区のある小さなホテルで,哲学の研究を開始した。私は持っ ていた多くの生物学の書籍を,全部セーヌ河畔の古書店に売り払った。私が日本から上海に持って きて,上海からヨーロッパに持ってきた何冊かの日本語の『解剖学』『遺伝学』なども売り払った 書籍の中に含まれていた。こうして手に入れたわずかな金で,私は何冊かの哲学の古典書籍を新た に購入した。私はそれらの “Paramaecium”[“Paramecium” ゾウリムシの誤植か]“Lehtinotarsa dieemlireata”[“Leptinotarsa decemlineata” コロラドハムシの誤植か]と暫時の別れを告げ,私の 思考をスピノザ,ニーチェ,カントのほうに移した16。私のドイツ語の知識も,この時整理された。  知識の大海が私の眼前に繰り広げられた。私はのどが渇くように,その大海の水滴を吸いこんだ。 1日中,ほとんど食事もとらずに,私は常に図書館にすわり,1 つの名詞か 1 つの熟語のために, それらの古い装丁の古典を紐解いた。古今の人類思想の精華を貯蔵したその聖殿は,私にはとりわ け魅力的だった。私は,そこに足を踏み入れたら,もうどこにも行きたくないと思った。食料を買 う金が無くなってしまい,パンを手に入れるために,私はフランス語の文章を書いて M 市の週報 に送らなければならなかった時にも,まるで図書館にすわらなければ成功裏に書くことができない のではないかと思われたほどだった……  もしも私が,百年来の資産階級学術の体系的な知識をすこしでも有しているとするなら,それは この時期の功労だと言わなくてはならないだろう。まず 18 世紀ドイツの奔放で浪漫的な何人かの 哲学家たちが私を虜にした。しかしほどなく私はフォイエルバッハ17の著作の前に頭を下げた。実 証論者のコントから渉猟していき,私はテーヌ,ギュイヨーやその他の人たちを知った18。当時, 私の念頭には思想の歴史行程の系統表を作る計画があった。そこで私は,近代学術の進展を,次の 3つの時代に区分した。第 1 は精神論と観念論が一切を支配している時代で,形而上学がこの時代 の唯一の根拠だった。第 2 は経験論と進化論が一切を支配している時代で,生物学が主要な科学と

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なった。第 3 は唯物論の時代で,当然経済学が基礎となった。この区分の形式は,いまでも,私は まだ大きな誤りを発見できない。もしも 18 世紀初頭から考えるなら,私のこの系統表の中の第 1 の時代の階級背景は,まさに封建階級から資産階級までである。第 2 の時代の階級背景は,純粋に 資産階級であり,第 3 の時代は当然,新興階級に替わった。これはあるいはすこし機械的かもしれ ないが,しかし私は敢て,当時私がこのような学術上の歴史進展の観念を持てたのだと,つまり私 がその後徹底的な転向ができたことの基礎となったのだと言いたいのである。  そもそもは自己の懐疑的な人生問題を解決したいがためだったが,結局は自分の欲する答案を作 れなかった。ただ,私がいまでも覚えているのは,ニーチェを読み終わってまもない頃,この強者 の哲人の理論は,まさにトルストイとは南北の両極にあるのだ,と思ったことだ。私は,この両者 の中間のどこかの,適切な 1 つの態度を採用し,私の人生哲学としたいと考えた。かつて私はこの 見解をテーマとした長詩を作り,「二大哲人の対話」というタイトルをつけたことがある。その内 容は,私が幻覚の中で,まずニーチェを見て,次いでまたトルストイを見た,そして,多くの冗長 な会話の後,ニーチェが私の左側で消滅し,トルストイが私の右側で消滅し,私は彼ら 2 人の残し た巨大な足跡の中央を前進していく,ということを綴ったものである。この詩は,原稿用紙で 10 数枚か 20 枚ほどもある長大なものだったのではなかったかと思う。しかも観念的でも教訓的でも なかったし,音韻の技術もそれほど悪いものではなかった。そこで,それを当時の上海の『時事新 報』の学芸欄「學燈」に投稿したところ,意に反して編集者に握りつぶされてしまい,残念ながら 世に出ることはなかった。しかし,どんな経緯かはわからないが,2 年後に,作品は突然発表された。 だがこの詩の運命は,やはり不幸だった。それは「學燈」の編集者に 10 分の 9 の血肉を削られて しまい,10 数頁の詩を 1 つの欄にも満たない数行のスケッチに変えられてしまっていた。その上, 作者の名前も印刷されなかったので,読者が読めば,まるで編集者の書いたものと思いこんだに違 いない。私は『時事新報』に手紙を書いて私の原稿を返してくれるように要求したが,返事はなかっ た。私の人生哲学は,このようにして空虚な墓の中に落ちてしまった。  私が正式に文学の創作に従事したのも,この時期だった。―― 実は,私が著作家生活を始めた 時期は早かった。この時から 10 年近くも前のちょうど私が 13 歳の年に,私はすでに陝西省の『秦 風日報』の投稿者の一人だった19。その後,16 歳の時にまた『秦鏡報』20の唯一の編集責任者となっ た。うっとりするような文学の杯が,私の眼前でその愛すべき泡沫を煌めかせ続けていた。私が日 本にいた時に,努力して過去の旧文学中の 1 つの座席を占めたいという欲望を持ったことを,いま も私ははっきりと覚えている。その時,私は地方芸術の観点を用いて,李商隠の詩集の半分の詩に 注釈を施した。上海で新聞発行していた時には,その極端な政治雰囲気の中にどっぷり浸かってい たけれども,それでもやはり文学と絶縁したことはなかった。しかも当時,新文学を試作しようと する欲望が,私の手指を躍動させていた。だが,これらはみな言うに足りないことではある。私が 本当に文学の工作を開始したのはいつかと聞かれれば,それは,パリにいた時からだと答えること になるだろう。  どんな現象でも,すべての現象にはそれなりの因果関係がある。私がこの時に正式に文学創作の 道を歩み始めたのには,当然,容易く解釈できる事情があった。実生活の中を汲々としてきたそれ までの私は,自己の努力の目標を政治に置いていた。しかし,結局どうも自分の希望する影さえも

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得ることができなかった。この失望の苦悶は,自分を別種の活動に導いた。―― これが 1 つの原 因である。当時,私は混乱の東方からいわゆる文明の発達した国に移動して暮らしていた。この生 活は私に環境上の変化を与えた。そしてこの変化の中で,また一種の矛盾の刺激を受けた。これが 私に自己の感情を表現する機会を求めさせた。―― これがもう 1 つの原因である。その次に,私 が蒻雲から貰った多くの苦痛も,私に発散を迫った。言うまでもなく,やはりこのことも私を文学 創作方面に向かう付帯理由になった。しかし,これらはすべて,わずかに私の個人的な巡り合わせ から出発した解釈である。もしも時代全体から述べるとするなら,当時,中国では浪漫運動がまさ に立ち上がろうとしていた。私は,私もこの時代の情況の中にいた 1 人だということを否定できな いし,だから,必然的に,それまでずっと文芸に関心を抱き続けていた私が,この時に,創作の誕 生を迎えようとしていたことを否定できないのである。  中国では,前世紀の 90 年代半ばが 1 つの重要な時期だった。民族覚醒の曙光,資産階級の台頭, 都市文化運動など,すべてこの時期を嚆矢とする。中日戦争に明け暮れた 1894 年から 95 年までの 2年間を除外して,1896 年から数えて大革命前夜の 1925 年までは,ちょうどまるまる 30 年である。 この 30 年間に,政治の活劇は真に千変万化の如く演じられてきた。資産階級の自由運動の「戊戌 変政」21という Prologue を継承した「五四運動」は,確実に「戊戌変政」を発揚する Symphonie だっ た。資産階級はその思想を,この偉大な交響曲の中に,全面的に解放し,全面的に建設したといえ よう。すなわち,旧制度に対する猛攻や,孔孟学説に対する打倒や,「科学とデモクラシー」のスロー ガンの提出などをである。と同時に,文学工具の改革が,高潮の勢力に乗じて行われた。―― こ のように,資産階級の文化基礎が,私たちの目の前で成立した。この文化基礎の上に,必然的に 1 つの文学運動が,すばやく引き続いて生まれた。しかも,当然ながら,それは浪漫運動だった。  1922 年という年は,中国文学の浪漫運動が開始した年である。この使命を担ったのは,創造社22

という文学団体だった。―― そしてこの 1922 年の 1 年前に,Sturm und Drang23の成分は,すでに

各地で醸成されはじめていた。  これは表面上は,まるで不思議な ―― しかし,実際上は偶然ではなく必然的である ―― 事柄の ように思われる。私がパリで私の文学創作を始めた時に,遠く海を隔てた日本で,郭麥弱ら数人が 同様の活動を行なっていた。しかも,同志を連合し,意見を交換し,共同で努力する準備をしてい た。ある日,私は日本人の友人24から,私に郭麥弱を紹介してくれるという手紙を受け取った。そ の手紙には,さらに彼の創作詩 1 篇が同封されていた。その後,また何度かの間接的な通信を経て, 私は郭麥弱と直接的な関係ができた。創造社という名前は,みんなの手紙の中で常に繰り返し言及 されていた。だが,日本とパリで,まだこういう通信を開始する前に,すでに日本やパリから郵送 した作品が,それぞれに国内のさまざまな新聞,雑誌に踊っていた。  この時,私は鄭白基[鄭伯奇を指す]に,次のような手紙を書いた。 [原文は,ここの 1 行が空白になっている。]  「そう。人生は至る所に罪悪があり,至る所に苦痛がある。しかし罪悪や苦痛には,すべて人の 前進を促す意義があることを知らなくてはならない。私は,天下のことは,すべて両面が互いに影 響しあっていると,確信をもって言おう。正反対の方面でもまさに大きな力を与える方面なのだ。 矛盾がなければ,人類が事業を成功させることは,たぶん不可能なのだ。だから,私たちはまさに

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「不完全」を経過した時に,「完全」を求めることを忘れてはいけない。……」  「私はまず他人の芸術を批判してみよう。まず日本の文学について述べよう。たとえば夏目漱石 の「余裕」派の文学は,何の価値もない。なぜなら私たちは人であり,人生の文学を制作するべき であるからだ。彼が高浜虚子の『鶏頭』序の宣言での「触れない小説」25は,作るのが難しかろう けれど,―― まさしく彼自身の小説が,すべて完全に触れない小説というわけではないのではな いか ?  ―― たとえ純粋に完璧に作れたとしても,それは無用の作品にすぎない。言い換えれば, 私はまさに彼が主張する「低徊趣味」も,人生に「触れる」小説でこそはじめて有する資格がある と思う。彼の余裕派の文学は,実際はまさに遊戯派の文学にほかならない。それは文学を堕落させ てしまうだろう。さらに,森鴎外26は,もっと道理がない。彼は公然と,何をするのもみな遊戯だ と表明した。これは,芸術に言及しないでおくとして,そもそもが人としての態度ではない, ……」  「私はいつも,芸術の制作は実際方面に立つべきであると思っている。私たちの実生活は,すで に役に立っているのだ。もしも私たちの身辺の材料を用いないで,身外に芸術を求めるなら,それ は愚かで憐れなことだ。もう一歩進めて言えば,芸術は人の娯楽品などではない。芸術は人生の改 造を促進する工具である。芸術は専ら人の現在を慰めるためのものではなく,人の前途を慰めるた めのものである。……」  「私たちは次のような結論を得ることができる。人生とは希望がないと仮定するなら,文学家も 努力してそれに触れようとしなくてはならない。たとえ人生が真にすでに永井荷風27のいわゆる「冷 笑」のような程度に達していても,私たちは森鴎外のような遊戯で以て対応する方法を学んではい けない。人生は「不完全」だからこそ,まさに私たちに「完全」を求めさせるのである。……」  これらの言葉の中に,私がこの時,私のかなり混乱した哲学観によって芸術を検討していたこと が見いだせる。これらの言葉の中に含まれる理論は,私のその後の一部の創作の中の表現と,矛盾 するようだけれど,しかしここには時代の精神が躍動していた。それはつまり浪漫時代の一種の息 吹きの発露である。人生を尊重すること,これはまさに資産階級が自由運動を始めた時に励行した 信条だった。ディドロ28がかつて脚本家に実際生活を離れてはいけないと忠告したと同時にまた, 芸術の任務が雄大な善行を賛美することと憐れな境遇を敬惜することにある等々と主張したことが あるのを,私たちは知っている。これはまさに私のここでの見解と完全に一致するものだ。  この時,私が最も努力した作品は,長詩「支那」だった。この詩の題名の下に,私は「Paradoxes autobiographiques」[パラドクス オトビオグラフィック。逆説の自叙伝の意]というサブタイト ルを付した。内容は,中国の封建社会の中の多くの悲惨な現象を背景に,幼年から壮年に至る私の 生活を叙述したものだ。この詩の中に流露している情熱は,いまでもそれを思い出せば,ただちに 私の身体に戦慄を覚えさせる。いまも私は,この詩の最後の 1 節に,次のような 2 句があるのを覚 えている。  二万五千尺の天山よ,おまえはなぜまだ倒れこんで,なぜ私の身体を埋もれさせないのか ?  千九百六十里の長江よ,おまえはなぜまだ氾濫して,魂もろとも私のすべてを滅亡させないのか ?

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 もしも浪漫主義の特徴が Individualism の抒情の発露だと言うなら,私のこの詩は確かにその特 徴 を 具 え て い る。 一 面 で, 私 は こ の 詩 の 中 に, 多 く の 科 学 名 詞 を 用 い た。 た と え ば「Flu  rescelzph elomen」「Fak orenkoppelung」29等は,すべてこれまでの慣例を破っていると言えよう。

いま私は,この詩が全部で何行あったかを覚えていない。ただ覚えているのは,私がそれを郵送し た時に,1 冊の小冊子ふうに,一巻きに巻いたことだけだ。この小冊子の運命はパリから日本に移 動し,何度か転々と回覧された後,また日本から上海に移動したが,その後は行方不明になってし まった。  この時,私はパリで,私を大いに援助してくれる友人と知りあった。ここで彼のことを,とくに 記しておかなくてはならないだろう。この人は私たちが通常言っている「奇人」である。彼の姓は ブリーエで,名前はフランス人が一般に常用するロべールである30。彼はもとある地方の図書館で 秘書をしていた。彼が Marxism の社会主張の思想に近かったため,当地の政府に離職するように と強要された。彼の左足は,大戦で奪われてしまった。彼は失った足に義足をつけていた。歩く時 には,いつも杖をついた。しかし彼はその障害をすこしも気にしていないふうで,毎日元気にどこ へでも飛んでいった。彼の動く範囲は非常に広範で,労働組合や政治集団以外に,多くの新聞記者, 文学家,芸術家,教授,学生たちとプライベートな関係を有していた。彼の博学ぶりにも舌を巻い た。彼は一般の科学に相当な素養があったばかりか,特殊な文学上の才能も有していた。そのほか, 彼は音楽や絵画や建築等の専門芸術も理解していた。しかし,これだけにとどまらない。というの は,旅行した場所も多く,彼の言語学の知識もすばらしかったからだ。惜しいのは,彼が著作を好 まないことと,著作があっても発表を好まないという性分だったことだ。彼は 1 日中でも口頭で人 の質問に答えることができたが,それを文字にしようとはしなかった。彼が一生のうち出版した著 作は,薄い 1 冊の地質学調査の小冊子だけだった。彼は戯曲の創作に従事したこともある。しかし 原稿が黄色く変色するに至っても,それを社会のいかなる人にも見せようとはしなかった。彼はほ とんど彼のすべての精力を実際活動に費やした。すべての文学の工作は,まだ改造前の社会では, まったく不必要な地位しか占めていない,と彼は考えているらしかった。彼は私に大きな援助の手 を差し伸べてくれた。私にとって,彼は学問上の宝庫だっただけではない。私がヨーロッパ社会に 対して,一定の認識を持てたのも,彼のおかげだった。彼は私に多くの友人を紹介してくれた。生 活面でも彼からしょっちゅう援助してもらった。時間にして,彼と交際したのは 3 年にも満たなかっ ただろうか。この社会主義者の奇人は,Typhus blominalis31で死んでしまった。彼は一生独身だった。 死んだ時はたぶん 50 歳くらいだったろう。  私がこの友人と初めて知りあったのは,ラテン区32のあるカフェーの中だった。彼は口髭を蓄え ている老人と放談していた。私は無意識のうちに,彼らの歴史に関する議論に加わっていた。私の 論点は,期せずして彼と同一線上に立っていた。しかも話せば話すほど近づいていった。このよう にして,私たちはたちどころに友人になった。その老人は,なんとフランス文学の重鎮のアナトー ル・フランス33だった。議論が終わった時に,この偉人は,議論に負けた腹癒せに,ひたすら肩を 聳やかしてみせた。しかも口の中で,絶えずブツブツと「どうであれ,私はやはり懐疑する,懐疑 する」と言っていた。  私はブリーエの紹介により,海洋作家ロチ34や,その他の何人かの文学作家を知ることができた。

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見る間に,私を取り巻く世界の 10 分の 7,8 を,文学が占めるようになった。私はフランス学院で 聴講していた哲学講座を放棄し,パリの文学家の群れの中で交際しはじめた。  この時,バルビュス35の『光明』週報は,ちょうど小さな新聞から雑誌の形式に改められていた。 バルビュスがロマン・ロラン36を批判した 1 篇の文章が,論戦を引き起こした。ロマン・ロランは, 社会改造を主張した。彼は,ガンジーが採用した手段が,唯一の賛美できる手段だと考えた。双方 の文章から,人道主義の主張と暴力革命の主張とが,明確に,火花を散らせているのがわかった。 ロマン・ロランにもバルビュスにも,どちらにも会ったことはなかったが,私にとってロマン・ロ ランは,ずっと私の尊敬する現代作家の 1 人だった。しかし今回,私はどうやらバルビュスに魅力 を感じた。とはいえ,同時に私は,バルビュスの文章の中に,何だか何かの成分が欠けているよう に感じた。だが私は,その時は,それがどんな成分なのかを,明確に指摘することはできなかった。 これについて,今ならもちろん,私が感じたバルビュスの文章に欠けている成分が,階級闘争の歴 史発展と経済決定論の説明だった,とわかる。―― これはバルビュスという人の一貫した欠点で ある。現在でも,彼の議論の中には常に観念と神秘論の毒気が充満している。バルビュスがこれ以 上前進しないなら,ヨーロッパの偉大な事変が勃発した時,彼は危険である,なぜなら戦闘的唯物 論の歴史の進展は,絶対に人類の解放過程を理解しない伝道者の存在を許さないからだ,と私は敢 えて言おう。そして,革命に関するバルビュスのこれまでのすべての議論は,ある点ではマルクス の批判したバウエル37のそれと似ている,と私は思ってしまう。  だが,当時にあっては,バルビュスとロマン・ロランの論戦は,現代の文壇上の忘れることので きない事実だった。これは少なくとも,知識界の面前で社会思想の 2 流派の存在を示していた。少 なくとも知識界に,空想的世界主義の主張と実際の社会革命の主張に対する思索の機会を与えるこ とができた。当時は問題にもならなかったが,およそ頭脳明晰な人ならきっと,ロマン・ロランの 言論の中から,暴力を信じない人道主義が資本主義と密かに手を組む陰謀を見抜いたはずだ。この 論戦は,確かに一時期センセーションを巻き起こしたといえる。私がパリでつきあっていた何人か の文学家の集団の中でさえ,こういう情況を知ることができた。10 人中 8 人が,いつもこのこと について議論していた。しかしここで表明しておかなくてはならないことは,いわゆる一時期セン セーションを巻き起こしたとは,これまでの伝統社会と隔離していた一般の人に限定されていたこ とだ。アナトール・フランスやロチのような文学者は,違っていた。私がフランスに,このことに 関する意見を聞いた時に,初めてカフェーで私と出会った時の態度と同じで,結局,彼は如何なる 方面に対しても懐疑的だった。ロチは,もっとはっきりしていた。彼は私に言った,従来私は,無 駄に自分を悩ませるような論争になど関心を示したことがなかったよ,と。―― この種の人は, このセンセーショナルな論戦の影響を受けるはずもなかった。  ロチとフランスについてだが,この 2 人はフランス文壇で極めて大きな勢力を占めたことのある 人物である。あるいは読者は,私がここでもっと多くを語ってほしいと願うかもしれない。だがこ れは,私にとってできない相談である。なぜならこの 2 名の巨人は,私の眼前の心境とはあまりに 相容れないものだからであり,彼らを追想せよと言われても,私にはまったく興趣が起きないから だ。ある批評家が,ロチの労苦民衆の生活に対する描写は,まさにゴーリキーと同じだと言ったこ とがあるのを覚えているが,それはとんでもない大間違いだ。ロチの作品に,私は昔一時期,魅了

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されたことがある。詩情に満ちた彼の描写は,確かに魅惑的だった。しかし不思議なことにロチの 作品は,実に自由闊達に,水夫や漁師や水兵や殖民地の兵士等々の生活を描写できているが,ロチ 本人は,終始帝国主義政府のために服務する忠実な官吏だった。彼自身の贅沢な暮らしや貴族的な 性格と,彼が下層人物を描写した一部の作品とは,繋がりがなかったのではないだろうか。つまり, 私たちがそれを解釈するなら,ほかでもなくこの巨人は,ただ彼自身の階級の輪の中に立ち,それ らの貧しい民衆の生活にざっと眼を通したにすぎなかったのではないか。彼が貧しい民衆の生活に 注目したのは,ただ彼が詩を作る材料を探すためだけだった。彼がそれらの人々に同情したのは, ただ上層の地位に立ち,ふと漏らした憐憫の情にすぎなかった。あるいは,こう言うこともできよ うか,彼は彼の著作のためにそれらの材料を採取したいがために,すでに有していた彼自身の憂鬱 な心情に適合させたいと思っただけだった,と。単に彼自身の習慣となった薄暗い筆致に適合させ たいと思っただけだった,と。要するに,彼自身のためであり,そのほかには何もないのだ,と。 私たちは彼が偉大な作家であることを否定しない。だが同時に,彼が徹頭徹尾,資産階級の偉大な 作家であることも忘れてはいない。彼は,貧しい民衆の生活を描写はしたが,しかし理由はともあ れ,ゴーリキーと同列には論じられないのだ。―― さて,以上がロチであるが,次に,フランス について述べよう。彼は言うまでもなく,ロチ以上の世界の巨人である。彼の文学の才能は,確か に得がたいし,彼の機知と雑駁さも確かに群を抜いている。しかしこれら称賛すべき特徴で,彼の 主要なイデオロギーの貧弱さを覆い隠すことはできない。彼はひたすら世界を嘲笑しながら,個人 の享楽的態度で彼の制作に従事していた。彼はすべての事柄を,すべて彼の懐疑の哲学の懐に納め た……私たちはこう言うことができる。つまり,フランスの眼前では,何もかもがその真実性を失っ てしまうのだ ! と。正確な批評家は,彼が資産階級の臨終の智慧を代表していると述べているが, この言葉は,実に正鵠を射たものだ。彼は自らを社会主義者だと自任し,彼の作品は時には社会の 現状を攻撃しているけれど,しかし私たちは,最後にはやはり彼を資産階級の神殿の中に祭りあげ ることができるだけだ ! 忘れもしないが,あるロシアの作家がパリに来てフランスに会った後, こう書いていた。「全身柔軟で……ヘンリー 4 世らの喜悦するところの廷臣の姿をしている……」 ―― この印象は,適切であるばかりか,これ以上ないくらいに,言い得て妙である。  私とこの 2 名の巨人との友情は,当然,親密というには当たらない。ロチはしょっちゅうパリに 来るわけではなかったが,会った時には彼は,アジアとくに中国のことを喜んで話題にした。どう やら彼は,若い時に流浪した場所を忘れてはいなかった。回憶する詩人の風情を気取って,彼はい つも絶えず往事を追懐した。私たちの間には,何の特別な出来事もなかった。彼は私を 1 人の若者 と思っていたし,私は彼に対して過分な望みを抱いたことがなかった。同時に,彼は当時すでに衰 弱気味だった。フランスの家に,私が訪問した回数は比較的多かった。この懐疑派の巨匠から,私 は時々何首かの李太白の詩の訳を聴かせてくれと依頼されたりした。私も彼からフランス文学史に 関する多少の知識を得た。ある時,彼はブリーエと私を,食事に招待してくれたことがあった。食 卓にはもう 1 人,スペインの名士イバニェス38もいた。―― 私にとって,この時が,イバニェス との唯一の出会いだった。この人は,フランスとはまさに正反対の人物だった。彼は自信に満ちた, 意志の強い表情を満面に湛えていた。目元と口元に政客や官僚の気風をちらつかせていた。その時, どんなふうに口火が切られたかはわからないが,フランスが,突然社会主義について,思う存分心

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置きなく語りだした。しかも自分はボルシェビキだ,真正のボルシェビキだと言った。彼の長い弁 舌は,語れば語るほど次第に熱が入ってくるようだった。私はイバニェスに注目していた。この露 骨な民族主義者は,最初まったく一言も発しなかったが,フランスが話し終えるや,突然,憤慨の 叫び声を爆発させはじめた。私は思わず,腰を抜かしてしまった。スペイン訛りのフランス語で, この民族主義者は,こう言ったのだ。  「あんたのボルシェビキを納めやがれってんだ ! あんたは何を根拠にご大層にのほほんとそん な言葉を口にするのかね ! 俺は共和は知っているが,ボルシェビキなどというものは知らねえや ……だがあんたがもしもボルシェビキだと自任するんなら,そん時ゃあんたはまず何度か豚箱に 入った後でしゃべりやがれってんだ……そうでなけりゃあいいかよ,俺はあんたに忠告するが,女 や酒を話題にしたほうがちっとはましというもんだぜ……」  意外だったのは,フランスがその話を聞いてもちっとも怒らずに,ただ一言,彼はもともと何に 対しても懐疑的なのだ,と答えただけだった。その意味するところは,どうやら彼がボルシェビキ のメンバーだと自任しているのも,結局のところ,やはり懐疑しているのであり,だから彼はまっ たく行動しないようにしているのだということらしかった。どんな考えが私の心の中に起伏したの だったろうか,それ以後,私はフランスに対して疎遠になった。  当時,ワシントン会議39がすでに開幕しており,中国は政府の代表以外にも,何人か国民代表が いた。留学生はそれらの国民代表に対して実に興奮した。というのは,彼らが必ずや政府の代表を 監督し,ワシントン会議において中国に大きな勝利をもたらしてくれるにちがいないと思ったから だ。有志が後援会を組織した。留学生と華僑が会の事務を主宰しながら,いたるところで各国の政 府要人と謁見し,請願の文章を発布した……さらに,多くの留学生が互いに連名で文章を書き,ヨー ロッパの幾つかの新聞に発表した。その内容は,ほとんどが一致して,ワシントン会議に参加して いる各強国を擁護する,と同時に,イギリスとアメリカが必ず中国に種々の利便をはかってくれる にちがいない,というものだった。中国の国民代表も絶えずワシントンから米州の公使館及びその 他の団体に打電し,イギリスとアメリカが ―― とくにアメリカが ―― 必ずや全力で中国を援助し てくれるだろう……と報告した。  友人が私を後援会に参加するよう誘ってくれたが,私は拒否した。当時の私はまだ徹底的に世界 情勢を明確にできてはいなかったが,しかし各帝国主義に対する幻想はすこしもなかった。中国か ら派遣された数人の国民代表は,私にとって距離がありすぎた。彼らは国民の代表などにはなれな い,彼らはただの新しい官僚にすぎない,と私は思った。だから私は,自分のエネルギーをこの無 意味な運動に捧げる必要を感じなかった。  英米がワシントン会議で,関税の増加,租借地の返還,治外法権の撤廃等の提案に関して,中国 代表に偽りのメンツを与えた時に,在欧留学生たちはみな,まるで我を忘れたかのように喜んだ。 中国駐米の名士,政客らは慢心して,中国は今後,政治的に独立する,新しい転機が降臨すると宣 伝した ―― 実に憐れむべしだ ! それらの名士,政客は,一時的な受けをねらって,人々が大い に溜飲を下げるようなことを言っただけのことだ。その後の旅順,大連,威海衛等の都市が事実上 返還されず,治外法権も変更はなく,2.5 付加税の実行でさえ困難であるということになれば,彼 らは頭を縮め,一言も発言できなくなってしまった。当時,中国では進歩的政党が成立[1921 年 7

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月]し,ワシントン会議の前途に対して,すでに事前に民衆を覚醒する宣言が出された。しかし一 般の人は,帝国主義に対して,まだその性質を明確に理解できなかった。おまけにまた無知な名士, 政客らの欺瞞が災いして,麻酔剤を服用したかのように頭がぼうっとしてしまった。いまに到るも, ワシントン会議に対してうやうやしく礼拝したそれらの中国の資産階級は,この会議が造りだした 英米と日本の共同の中国侵略という歴史的事実を話題にすることを避けようとしている。これは まったく「理性を失った狂気の沙汰」と言うべきである。今回のワシントン会議は,イギリス帝国 主義とアメリカ帝国主義の対中政策を成功させようとしたものであり,今後,イギリス,アメリカ, 日本 ―― この 3 つの帝国主義者は,さらに一歩進めて中国を占有するために,絶えざる互いの衝 突の武劇の前口上を演じるだろうことを,私たちは必ず承認しなくてはならない。  それらの数人の国民代表の中の 2 人が,ワシントンからヨーロッパにやってきた。パリの留学生 は,大規模な歓迎会を開く準備をした。また友人が,私に参加するよう誘いに来た。今回,腹が立っ たので,私は正直に遠慮なく,むしろ代表たちをもてなすなら,蒻雲の所を訪ねて楽しんだほうが ましだ,と言ってやった。―― この言葉は,当時の何人かの留学生たちが,私を話題にする時の 決まり文句になった。この時から,どうやら私は,一部の愛国者を自負する者たちから憎悪される 敵にされてしまったらしい。  歓迎会は,ついに賑々しく開かれた。代表たちの大ぼら,留学生たちのおべっか……お先は真っ 暗闇だ……  しかし,私は,私の発言を実行に移した。まさにその時,私はリヨンに赴いていた。 六  私はブリーエの紹介により,フランス語の文章 2 篇を売って,かなり満足できる原稿料を手に入 れた。そのおかげで,ようやくリヨンに出発することができた。出発前の 1 週間,私は蒻雲から援 助を乞う手紙を受け取った。その手紙には,金もないし,寂しい,時々自殺したくなる,と書いてあっ た。私がリヨンに赴いたのは,彼女を見舞うためであり,また彼女にお金をあげるためであった。  これは 1922 年 7 月の頃だった。私の受刑の時がやってきた !  私にとって意外だったのは,私を接待した蒻雲がすこしも嬉しそうではなかったことだ。彼女の 同意もなく,突然来訪した私を責めるような節さえあった。彼女の服装やアクセサリーは,以前よ りずっとファッショナブルだった。顔つきも以前より,いきいきとしてあか抜けていた。私は彼女 の行動や振る舞いの状態からみて,私宛ての手紙に書かれてあったような情況などではまったくな いと思った。だがまだ私は,別の事情があるとは気づかなかった。私は彼女が手紙を書いた時に, 大げさに悲観しただけなのではないかと思った。と同時に,彼女が表面的に快適そうにはしている が,あるいは実際は本当に困っているのかもしれないとも思った。このように,私は彼女に対して, すこしも疑いを持たなかった。彼女のために持参したお金を全部渡した。しかし ―― 事実の露見 は真に早く,その日の夜に,私を騙していた彼女の秘密を知った。  その日 ―― 私がリヨンに着いたその日 ―― 彼女は私といっしょに夕食を食べた後,彼女の部屋

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でゆっくり休んでいてほしい,あるフランス人の女友達に会いに行く予定が入っているのだ,と私 に言った。彼女は新しい服装に着替えると,慌しく外出した。彼女が衣裳ダンスに鍵をかけること を忘れてしまったのは,たぶんあまりに慌てていたからだろう。私は何気なく読む本を探そうとし て,誰かが彼女に宛てた何通かの手紙を,衣装ダンスの中から見つけてしまった。それらの手紙は, 全部が私のよく知っている傅翹の筆跡だとわかった。好奇心から私は,その 1 通を,封を開けて読 んだ。即座に,私は憂鬱な気分になった。思わず知らず 1 通また 1 通と読んでいった……私は事情 を理解した。私は頭がくらくらしてきた。まるで私の足下の床がぐらぐら揺れているように感じた。 私は頭から寝椅子に倒れ,まったく知覚を失った。  こんなことはあり得ないことだ。傅翹はこれまでずっと彼女と交際したことがないのに,しかも 彼は,まだ汪廣季の親友だった。蒻雲と廣季が別れてまもない頃,傅翹は廣季のために蒻雲の罪を 宣伝したことがあったし,蒻雲もかつて傅翹を,彼女の敵の 1 人と見なしていたことがあった。彼 と彼女の間に,どうしても恋人関係になるような糸口が見つからなかった。ところが,その何通か の手紙には,彼らの愛情がすでに深くなっており,しかも彼は常に彼女のためにすべての費用を提 供していることが読み取れた。これはまったくどうしたことか,ただただ茫然とするばかりだった。 私は自分の眼が信じられなかった。  これこそが,彼女が私宛ての手紙に書いてきた彼女の「困窮」だったのだ ! これこそが,彼女 が私宛ての手紙に書いてきた彼女の「寂しい」だったのだ !  ―― ああ,詐欺だ ! 恥ずべき詐欺だ !  私は一人,突然叫んだ。寝椅子から飛び起きた。しかし,どういうことなのだろうか ? 事実は 明らかだ。自分はもともと,とっくに彼女と関係を絶っているのに,思わず知らず彼女にまた引き 戻された。明らかに自分は,とっくに彼女の性格を見破っているし,しかも彼女の罠にはもうかか らないぞと,決意していたではないか,しかし思い切ってそれを実行する勇気もなかった。自分は いつも,もう彼女と昔の関係を続けないと言ってきた。しかし絶えず彼女の無責任な要求と態度に 惑わされてきた。自分はいつも言っていた。「大丈夫だ。私はもう彼女の言いなりにはならない」 ―― こんなふうに自分に言い聞かせてきた,自分に言い聞かせてきたんだ ! ―― しかし,実際, 実際は,S 市からパリに来てからも,自分はまた彼女の力に屈服してしまい,やはり彼女のために 感情の奴隷になってしまった……  いま,すべてが明らかになった。しかし,いったい誰を責められようか。  私の胸の中で,突然激怒が渦巻いた。私はこれ以上我慢できないほどに,侮辱されていると思っ た。発狂したかのように,衣裳ダンスの中を捜索し,すべての衣類を,床いっぱいに投げ捨てた。 私は 1 枚の傅翹の写真と,傅翹がフランス語で書いた 1 枚のメモを探しだした。そのメモは,昨夜 書いたものだった。今晩,夕食後にホテルでデートしよう,と書いてあった。――「ああ。彼女は 今日,ここへ出かけたのか ! 彼女は私に,フランス人の女友達とデートだと言った !」私は心の 中で,驚きの叫びを発した。私は,まるで腫れて破裂してしまったかのような頭を,両手で抱え, よろよろと,彼女の家を飛びだした。  私は通りを当てもなく,何時間も歩いた。両足が痛くなり,これ以上歩けなくなった時に,うつ けたように,あるカフェーに入り,柔らかい椅子に,深々と沈みこんだ。

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 「これはいったい,どうしたっていうのだろうか ?」「悪夢だ !」「冗談だ !」「そうだ。冗談,冗談 だ ! 馬鹿野郎の冗談だ !」「しかしあいつは,私を馬鹿野郎以上に,こけにしてくれたじゃないか !  私はまったくあいつから見たら,まるで好きなようにけったり投げたりする球と同じだ !」…私は 心中に,こんな言葉が次々に湧きあがってきた。白ワインを何杯も口の中に流しこんだ。  その夜,私はリヨンの通りを徘徊し続けた。私は 1 本の通りを歩き尽くすと,また別の通りを歩 いた。まるで避難者のごとくに,乞食のごとくに,幽霊のごとくに……言うまでもなく,飲んだ酒 が悪さをして,私の神経を,収拾がつかないほどに興奮させたのだ。  朝の光が私の頭を照らし始めた時,私はようやく,自分が大通りで徹夜したのだとわかった。全 身の力がすでにすっかりぬけてしまった。しかしまだ疲れを感じてはいなかった。ただ寒くて震え, 口の中全部が苦味を感じた。アルコールは次第に消えて,私の頭は冷静な意識が戻ってきた。「こ れではいけない ! 私は正式に,彼女とピリオドを打たなくてはならない。」しかし,続いて自分 に問うていた。「どんなふうにしたら痛快だろうか ?」その問いの答えが,どうにか見つかった。 そこで,傅翹に会いに行く決心がついた。  傅翹も四川人である。これまで彼は,秩序のある生活をしてきたし,事を処するのに筋を通すこ とで知られていた。彼も少年中国学会の会員で,曾曁とも深い友情があると言える。彼のこれまで の性格から見て,彼の浪漫的な行為を信じる者はいないだろう。だが,そういう人間には,1 つの 特徴がある。それは,享受を知っていることだ。計画的に,暮らしを快適にする術を心得ていると いうことだ……この点は,たぶん彼が,女性に好かれる理由なのだろう。と同時に,彼は半官費生 で,しかも家が裕福だと聞いているから,相当贅沢な留学生の部類に入るのだろう。彼の境遇から みて,彼に浪漫的行為があっても,すこしも不思議なことではない。  私は傅翹の住まいに行った。家主の話では,昨夜から,彼は帰宅していないという……言うまで もなく,私はそれを承知していた……そこで私は,家主に彼の部屋の鍵を開けてもらい,彼の部屋 で彼を待つことにした。  10 時頃,傅翹は帰ってきた。疲労の色をにじませていた彼の眉間に,突然,驚きの表情が現わ れた。彼にとって,私のこの訪問は,意外なことだったろう。紛れもなく,これは,私と彼との間 で,重大な交渉が始まったことを意味した。  私たちは,話しはじめた。私は誠実に,私と蒻雲との過去の経緯を,仔細に彼に語った。そして 私は,彼と彼女の関係を破壊しようという考えはなく,逆に彼らが祝福されて結ばれることを望ん でいると話した。それは皆が平穏になれるためだ,と私は話した。最後に,私は彼に,彼女が心を 入れ替えて,人として新たに出発できるように導いてほしいと述べた。  傅翹は冷静な人間だが,まるで私の話に情熱をかきたてられたかのようになった。彼は私の手を ぎゅっと握り締め,私の考えに感激したと言った。そして,すぐに私を連れて,蒻雲に会いに行こ うとした。彼は,彼女の目の前で彼女の態度を聞いてみなくてはならないと言った。  「私は蒻雲を愛している」,と彼は言った。「しかし私も,彼女のことをよく理解していない…… 昨夜,彼女は私に誓って,あなたに対する彼女の感情は,友人としての感情にすぎないと言った。」  私は思わず,苦笑した。  彼は続けて言った。

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 「だが,彼女が正式に私と結ばれたならば,私は当然彼女と永遠に,こんなつまらない関係を維 持しない。私はすぐに,彼女と結婚してもいい。私たち 3 人で今日,このことをはっきりさせなく てはいけない……是非にも 3 人が,面と向かって話し合わなくてはならない……」  私は,もう蒻雲と会いたくなかった。しかし彼は,彼の提案を固執したので,やむなく私は,彼 の考えに従った。  「これは,いったいどんな芝居を演じているのだろうか ?」私は傅翹と肩を並べ,蒻雲の住まい に向かって歩いている時,心の中で,そんなことを考えていた。私の熱狂は,すでにかなり醒めて しまった。まるでナイフで抉られた胸の傷が次第に深くなっていくかのように,私は胸に痛みを感 じていた。同時に,形容しがたいうら悲しさが,私の周囲を包みこんだ。私という人間が,まるで 眼前の一切と完全に連絡を絶ってしまったかのように,私は感じた。私にとって,命はまったく苦 汁の猛毒のように思われた。突然,厭世の観念が私の意識に浮上してきた……」  蒻雲は,私と傅翹がいっしょに訪れたのに,すこしも困ったような表情を見せなかった。私が話 の口火を切った。彼女は素直に,私の話を聞いていた。しかし,穏やかではない局面が,突然現わ れた。―― それは,本当に私の予想を超えるものだった。私は,蒻雲を激怒させるようなことを言っ たのだろうか。彼女は,傅翹に向かってこう言った。「私と度浸とは,ただの友達にすぎないのよ ……」それを聞いた私は,熱い血が頭の先まで衝きあがっていった。私は,我を忘れて叫んだ。  「またきみの十八番か ! この期に及んでも,きみは目の前で嘘をつくのか ! 私はもう私たちの 過去を,傅さんに全部話したから……きみがいくらとりつくろっても,ばればれなんだぞ !……」  当然,彼女は,私が傅翹に何もかもすべて話していることを,予想もしていなかった。彼女の前 で反抗できなかった弱者の私が,彼女の虚栄の姿を暴きだすことができるとは,思ってもいなかっ たろう ! 彼女は羞恥から道理のない恨みに変わり,しばし優しさを失った声が,泣き声混じりの 喉の中から迸りでた。  「え。どうして ?……あなたは私をダメにしたいの ? 私をダメにしたいの ? 私は傅さんを愛し ているのよ……あなたは,こんなふうに私と彼の仲を引き裂きたいの ?……」  「私はそんなつもりはまったくない ! ただ私は,きみがこんなふうに堕落してほしくないだけ なんだ,このままずっと,誰かを騙し続けてほしくないんだ ! きみのその悪癖が直らないなら, きみが,きみ自身をダメにしてしまうんじゃないかい……」  しかし彼女は,私の話を最後まで聞かずに,くるりと身を翻して,傅翹の身体に飛びこんでいき, 両手で彼を抱くと,すばやく顔をこちらに向けて私に叫んだ。  「私は傅さんを愛しているわ……あなたはどうするの ? きっとあなたは彼に,私のことでは沢 山犠牲になったって言ってるんでしょうね。そうよ,それは私も認めるわ ! でも,すべてはみな, あなた自身が望んだことでしょう。だから,責任は私にはないわ ! たとえ,あなたが,いまここ で死んでも,私どうすることもできないわ……」  私は,完全に話をする気力を失った。当然,私はもう,ここに留まってはいられない。私は,全 身がぶるぶる震えてきて,立ちあがって外へ飛びだした。  「行くな ! 度浸 ! 度浸 !」  傅翹は,私を阻もうとした。しかし私は,それを押しのけた……

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