跪伏礼と口頭政務 (特集 中間的権力の比較史的研 究)
著者 熊谷 公男
雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学
号 32
ページ 35‑86
発行年 1999‑09‑30
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024192/
跪 伏 札 と 口 頭 政 務
熊 谷 公 男
跪伏礼と口頭政務
六
は じ め
に大宝律令
の
施行からさほど隔たらない慶雲四年︵
七〇 七
︶に次の
ような詔が発布された︒
詔日︑
凡
為レ政之道︑以レ礼為レ先︒
無レ礼言乱︒
言乱失レ旨︒
往年有レ詔︑停一
跪伏之礼一
今聞︑内外庁前︑皆不二厳粛
一
進退無レ礼︑陳答失レ度︒
斯則︑
所在官司︑不レ恪一
其次一
自忘一
礼節一
之所レ致也︒
宜一-f自後厳加一糺弾一
革一一
其弊俗
一
使o靡一淳風一
︵﹃続日本紀﹄同年十二月辛卯条︶これは︑跪伏礼
の
停廃を命じた詔とし
て周知の
もの
であるが︑
語中に﹁
往年有レ詔︑
停一跪伏之礼一 ﹂
とあるように︑ 跪伏礼はこれまで何度か禁令が出されていた︒
天武十一
年︵六
八二︶には﹁
跪礼﹂
と﹁
匍﹂側礼﹂
とを禁じ︑かわり に﹁
難波朝庭之立
礼﹂
を用いるよう命じているし︵﹃日本書紀﹄同年九
月壬
辰条︶︑
直前の
慶雲一
兀年︵七 〇
四︶にも﹁
始停一
百官跪伏之礼一 ﹂
︵﹃続日本紀﹄同年正
月辛亥条︶と︑再度︑跪伏礼を停止
している︒
それにもかかわらず︑跪 伏礼はなくならず︑慶雲四年詔が発布されるの
である︒
それでは︑麼雲四年詔で停
止
を命じ
られた跪伏礼とはいかなるもの
だったの
であろうか︒
ここでは︑とりあえず詔から知られるいく
っ
かの
ことを確認し
てぉこう︒
詔によれば︑
跪伏礼は︑﹁
内外庁前﹂
における﹁
進退﹂ ﹁
陳答﹂
に 関わるもの
であった︒ ﹁
庁﹂
とは﹁ 万
豆利古止 止
乃﹂
︵﹃和名抄﹄巻十居処
部第十三︶と訓み︑中央の
宮都でいえば朝 堂の
ことで︑の
ちには諸司の
曹司の
建物もこう呼んだ︒ 地
方では国府や郡家の
政庁である国庁・
郡庁などを意味した
︒
ここでは﹁
庁前﹂
とあるから︑この
ばあぃ の
跪伏礼は政務を執り行うマツリゴトドノの
殿前でおこなわれる礼 法ということになる︒
また﹁
進退無レ礼︑陳答失レ度﹂
を︑詔の
冒頭に﹁
凡為レ政之道︑
以レ礼為レ先︒
無レ礼言乱︒
言 乱失レ旨﹂
とあることと合わせ考えると︑﹁
進退﹂ ﹁
陳答﹂
とは﹁
内外﹂ の ﹁
庁﹂
で行われる口頭政務に関わるもの
と みるの
が妥当であろう︒
この ﹁
内外﹂
につ
いては︑
これまでは朝堂院の
内外の
意に解されてきたが︑この
点は後文で検討する
︒
要するに慶雲四年詔は︑﹁
内外﹂ の ﹁
庁﹂
を場とした口頭政務において︑庁前の
跪伏礼の
停止
を命じたも
の
と解されるの
である︒
跪伏礼には︑これとは系統を異にするも
の
があった︒
それは朝座 の
礼法の 一 つ
としての
跪伏礼︵跪礼︶である︒
朝 座の
礼法とは︑
朝座︵=朝堂の
上にある官人の
座︶に座す官人が親王 ・
大臣などの
高官の
朝堂へ の
出入に際して行なう拝礼
の
ことで︑跪伏礼の
ほかに下座︑動座︑起立
などの
別があっ通︒
たとえば︑詔日︑凡朝堂座上︑見
一 一
親王一
者如レ常︒
大臣与
レ王︑起立 一
堂前一
二王以上︑下レ座而跪︒
︵﹃日本書紀﹄持統四年七月甲申条︶
詔日︑朝堂座上︑見
一 一
大臣一 ︑
動レ坐而跪︒
︵﹃日本書紀﹄持統四年七
月己丑条︶ 和銅六年十一
月十六日官宣︑
親王太政大臣出一 一
入朝堂一
者︑式部告一 一
知下座之事一
其左
右大臣動座︑
五位以上降立
二床下
一
余跪一座下一 ︒
︵﹃日本三代実録﹄元慶八年五月二十九日戊子条所引︶などとあるように︑堂前に起
立
するばあいもあったが︑基本的に朝堂上の
礼容であり︑
問題の
跪伏礼は︑右の
史料からもうかがわれるように︑朝堂上で座から下りて行うも
の
であっ
た︒
この
点で︑庁前の
礼容である口頭政務にと跪伏礼と口頭政務
三 七
跪伏礼と
ロ
頭政務三 八
もなう跪伏礼とは明確に区
別
される︒
そしてこの
朝座の
礼法としての
跪伏礼は︑﹃日本紀略﹄弘仁十年︵八一
九︶六月庚成条に
﹁
制︑諸司於二朝堂一見一
親王 ・
大臣一
以一一
磐折一
代二跪伏一以一一
起立 一
代一
一動座一 ﹂
とあるように・︑
弘仁十年まで公的な礼法として存続
し
︑以後︑磐折に代えられるの
である︒
こ
の
ように︑慶雲四年詔︑したがってその
前提となる天武十一
年勅︑慶雲元年詔の 一
連の
法令は︑
決して跪伏礼一
般を廃止
しようとしたもの
ではなく︑口頭政務に関わる庁前の
跪伏礼の
停廃を意図したもの
と理解される︒
これまでは︑こ
の
点の
認識があいまいであったと思われるが︑
本稿ではまずこの
ことを確認したうえで︑庁前の
跪伏礼と口頭政務
の
関わり︑さらには律令制以前から律令制下にかけての
口頭政務をめぐる諸問題を考察してみたい︒
一 ︑ 跪 伏 礼 と 匍
匐礼
前述の
ように︑天武十一
年に﹁
跪礼﹂
と﹁
匍側礼﹂
とが合わせて禁じられているが︑この
点からみて両者は互
い に関連する礼法であると考えられる︒
この
両者の
相違を明確にし
たの
が新川登亀男 ︵距である︒
新川氏の
見解は︑①匍側礼と跪伏礼
の
間には一
連の
動作とし
て連続性があること︑
②匍匐礼は﹁
ハラハヒュ
ク﹂
礼で︑前にすすむ動作と不
可
分であること︑③跪伏礼は特定の
場に膝を折つてとどまっ
て半立
ちし︑両手を自由にうごかし得る姿勢であったこと︑とまとめることができよう
︒
私は①と②にはまったく異論はないが︑③は検討の
余地
があるように 思われる︒
新川
氏 の
あげた﹃日本書紀﹄允恭即位前紀の ﹁
跪上一
一天皇之璽一 ﹂
や︑継体元年二月甲午条の ﹁
乃跪上一
一天子鏡剣璽 符一
再拝﹂
などは︑確かに両手
を動かし
うる姿勢にちがいないが︑これらはいずれもレガリアを手にもって天皇に献︵3︶上する際
の
礼であるから︑跪礼としてはやや特殊な例というべきであろう︒
井上亘氏が注意しているように︑跪礼にはも
の の
授受にともなうもの
があり︑たとえば聖明王が一順つた仏像を大臣稲目が﹁
跪受﹂
している︵﹃日本書紀﹂
欽明十三年︵五五二︶十月条︶
︒
これらは︑本来の
跪伏礼の
派生形とみた方がよいように思われる︒
私見では︑跪伏礼は
︑
特定の
場所で跪いて両手を前につ
く姿勢が基本であると考える︒
それは︑まず何よりもこの
礼容が跪伏礼とよばれていることである
︒
跪伏という表現は︑字義から考えると︑
半立
ちというよりは︑やはり跪いて前方へ
伏しかがむ格好
の
ことであろうから︑両手を前にっ
く姿勢をとるの
はごく自然である︒
記紀にみえる仁徳天皇の
大后石 之日売︵磐之媛︶の
説話を素材にこの
点をさらに具体的に考えてみよう︒
﹃古事記﹄仁徳段によると
︑
夫に嫉妬して山代筒木に住む韓人の
奴理能美の
家にこもっ
た大后石
之日売命を召し返そうとして︑仁徳が丸
通
臣口子を遺わしたところ︑口子臣は大后を説得しようと︑大后の
いる殿の
前後の
戸にそれぞれ
﹁
f﹁ ︒
︑︑︑︑て大至に腰時跪に中庭に赴み進ひ匍に伏せきいてえ仕に后たさ﹂
口子臣の
妹た﹂
らりし っ か 薄 飛
s sた口日売が︑これをみて
﹁
山代の
筒木の
宮に物申すあが兄の
君は涙ぐまし
も﹂
と詠んだという︒
仁徳紀の
話も大同小異であるが︑仁徳が造わした
の
は的臣の
祖口持臣となっている︵ただし
︑異伝として和期 '臣の
祖口子臣も掲げる︶
︒
口持臣は﹁
沾一一
雪雨一
︑以経一
一日夜一
伏一
于皇
后殿前一
而不レ避﹂
という︒
これを皇后の
側に仕えていた口持臣の
妹の
国依媛がみて悲しんで﹁
山背の
筒城宮に物申す我が兄を見れば涙ぐましも﹂
という歌を詠んで︑皇跪伏礼と
ロ
頭政務三 九
脆伏礼と
ロ
頭政務四
〇 后に
﹁
今伏レ庭請謁者︑
妾兄也﹂
と告げたが︑皇
后の
怒りは解けなかっ
た︵﹁
日本書紀﹂
仁徳三十年十月甲申朔条︶︒
﹃古事記﹄
の
説話で興味深いの
は︑口子臣は大后の
いる韓人の
奴理能美の
邸内を匍一
倒礼で進み︑庭中に跪いたとあり︑
ここでは︑匍匐礼と跪伏礼が明らかに
一
連の
動作となっ
ていることである︒
説話の
なかで︑﹁
参り伏せ﹂
るというの
と︑
﹁
匍側ひ進み赴きて- -
跪﹂
くというの
は同じ所作の
異なる表現とみるべ
きであろう︒
﹃日本書紀﹂ の
方は匍側礼はみえないが︑
﹁
筒城宮﹂ の ﹁ 皇
后殿前﹂
に何昼夜も﹁
伏﹂
せていたとある︒
これらを総合すると︑匍側礼に連続する跪伏礼とは︑
﹁
跪く﹂
とも﹁
伏す﹂
とも表現されうるもの
ということになる︒
そうすると︑
この
表現から膝を折つて半
立
ちになった状態を想定することはやはり困難であっ
て︑跪伏礼の
基本形態は︑特定の
場所で跪いて両手を前に
つ
き︑体を伏せる姿勢であったと考えられる︒
石之日売の
説話でっ
ぎに注目されるの
は︑新川氏も指摘しているように︑記紀いずれの
説話でも﹁ モ
ノマヲス﹂ ︑
すなわち音声言語によ
っ
て他者に意志を伝達することが説話全体を貫くモチーフになっ
ていることである︒
説話自体
︑
嫉妬して山代の
筒木にこもっ
てし
まっ
た大后石之日売を︑仁徳天皇 の
意を体した使者が連れもどそうとする話であり
︑
口頭による大后の
説得ということが説話の
主題となっている︒
また﹃古事記﹄の
口子臣・
口日売兄妹︑﹃日本書紀﹄
の
口持臣の
ように︑大后に﹁
モノマヲス ﹂
人物の
名に﹁
口﹂
という字がつ
いている︒
さらには︑
口子臣︵
口 持臣︶が﹁
庭中﹂
あるいは﹁
殿前﹂
で雨に︑ 濡れながら跪伏し
ているの
をみて悲しんだ妹が詠んだという歌が︑﹁
山代の
筒木の
宮に物申すあが兄の
君は︵﹃日本書紀﹄は﹁
我が兄を見れば﹂
︶涙ぐましも﹂
となっており︑跪伏礼をと
っ
ている兄は︑いちずに﹁
物申す﹂
姿勢をとっている人物なの
であっ
た︒
要するに︑
跪伏礼は自分より身分の
高い人物に対
し
て︑口頭で言葉を伝えるときの
作法で︑特定の
場所に跪いて両手を前につ
いて体を伏せる姿勢をとる礼容であ
っ
た︒
こ
の
ように考えてくると︑改めて注目されるの
が︑跪伏礼の
最古の
史料として著名な﹁
魏志倭人伝﹂ の
記述である
︒
下戸与
一
大人一
相1一
逢道路一送巡入レ草︑伝レ辞説-︐ 事︑或蹲或跪︑両手拠レ地︑為一
之恭敬一 ︒
下
戸
が大人と道で会つたばあいは︑後ずさりして道路わきの
草むらに入つて道をあけ︑﹁
伝レ辞説レ事﹂
すなわち﹁
モノマヲ
ス ﹂
ときには︑うずくまっ
たり︑ひざまずいたりし
た姿勢で両手を地面について︑恭敬の
意をあらわし
た︑という
の
である︒
この
史料は︑三世紀の
邪馬台国の
時代に︑下戸
と大人の
間で︑
特定の
場所に跪いて両手を前にっ
いて体を伏せる跪伏礼がおこなわれていたことを示すばかりでなく︑それが当時から
﹁
モノマヲス﹂
ことと深く結びつ
いた礼であることを伝えている点でまことに興味深い︒
新川氏は︑跪伏礼・
匍側礼を︑﹁
何よりも天皇に対するその
ような身ぶりの
伝承が記紀に特筆して残されていない﹂
ことを根拠に︑﹁
権カ
機構にもとづく政治的な支配・
被支配関係
の
みの
礼法とはみなし
がたい﹂
とする︒
しかし
﹃日本書紀﹄によれば︑改新の
クーデターの
際に︑中大兄皇 子らが入鹿に斬りっ
けたの
をみて驚いた皇
極天皇
は︑中大兄に﹁
不レ知︑所レ作︑有一何事一
耶﹂
と詰問するが︑
それ に対して中大見は︑ 地
に伏せて﹁
鞍作尽
1一
滅天宗一
将レ傾一
日位一
豈以二天孫一
代一
鞍作一
乎﹂
と奏したという︵
同書皇 極四年︵
六四四︶六月戊申条︶︒
ここで﹃日本書紀﹄が﹁
伏レ地奏日﹂
と記しているもの
こそ︑天皇に﹁
モノマヲス ﹂
際にとられた跪伏礼にほかならない
︒
雄略天皇が眉輪王をかくまった葛城円大臣宅を包囲したときに︑円大臣が雄跪伏礼と
ロ
頭政務四
跪伏礼と口頭政務
四
略
の
軍門に進み出て﹁
跪拝﹂
して願罪を請うたというの
も︵﹃日本書記﹄雄略即位前紀︶︑
同様に考えられる︒
また︵4︶埴輪に跪いて手を前に
つ
くポーズ
を取つている男子像が少なからずあるが︑これらは跪伏礼の
姿勢を表現したもの
とみなしてよいであろう
︒
跪伏礼は︑
支配1
隷属の
社会関係なかで言語による意思の
伝達に際してとられる作法として︑おそらく弥生時代以来
の
列島社会で︑
広汎に行われていた礼であっ
たと思われる︒
では︑跪伏礼と匍旬礼はど
の
ような関係にあったの
であろうか︒ 石
之日売の
説話は︑
この
点に関しても重要な手がかりを与えてくれる
︒
﹃古事記﹄の
説話によれば︑口子臣は匍旬し
て進み︑ ﹁
庭中﹂
に跪いたというが︑これは石 之日売に﹁
モノマヲス ﹂
ための
作法であっ
たから︑
口子臣は︑当然︑
石之日売の
いる殿舎にほど近いところで︑殿舎に向か
っ
て跪伏礼の
姿勢をとったと考えられる︒
またこの
直前には︑﹁
前つ
殿戸に参り伏せば︑ ︹大后は ︺違ひて後
つ
戸に出でまし︑後つ
殿戸
に参り伏せば︑違ひて前つ
戸に出でまし
き﹂
という記述があるが︑
この
ばあぃ
も︑︵匍 側礼をとっ
て︶進んで行つて跪伏するの
は︑大后の
いる殿の 戸 の
前であっ
た︒
﹃日本書紀﹄の
説話では︑口持臣は﹁
皇 后殿前﹂
に何昼夜も伏せていたことになっ
ている︒
これらの
ことから考えると︑
匍側礼は貴人に対して恭順の
意を 示す意味があったろうが︑跪伏礼との
関係でいえば︑貴人に跪伏し
て﹁
モノマ
ヲス ﹂
場所まで進んでいく際にとられた礼ということができる
︒
貴人が殿舎内にいるばあぃ
︑通常︑ ﹁
モノマ
ヲス ﹂
人物は殿前に跪伏して口頭で言葉を伝えたと思われるが︑そ
の
場所まで匍匐礼をとっ
て進んでいっ
たの
である︒
そういう意味で匍匐礼は︑跪伏礼に連続する礼であった
︒
なぉ﹃旧
唐書﹄倭国伝に﹁
其訴訟者︑匍側而前﹂
とあり︑訴訟の
ときに匍旬礼が行われたことを伝えるが︑これもぉそらくは︑訴訟を行うも
の
が︑訴訟を受理する朝庭の
官人や国造の
いる殿舎の
前まで匍旬して進み︑そこでひざまずいて口頭で訴えごとを
し
たの
であろう︒
この
記事は冠位十二階の
直後にあるの
で︑推古朝前後
の
ことを伝えたもの
と思われる︒
これまた匍. 側礼が言葉の
伝達と結びっ
いていたことを示すが︑そればかりでなく︑訴訟
の
場という公的な空間で用いられていたことが知られる点でも重要である︒
小墾田宮
へ
遷都した翌年の
推古十二年︵六〇
四︶︑
朝庭の
礼法が改正
された︒
改一朝礼
一 ︒
因以詔之日︑凡
出=-入宮門一以一
一両手一
押レ地︑両脚跪之︑越レ梱則立
行︒
︵﹃日本書紀﹄同年九月条︶こ
の
記事につ
いては新川氏の
論文に詳しいが︑要するに朝参においては︑宮門の
出入りの
際だけ両手を地面につ
けて跪いて前に進み︵=匍匐礼︶︑梱を越えたら︵自分
の
座の
ある庁前まで︶立つて歩くことを規定し
たもの
である︒
おそらくそれまでは庁前まで匍匐礼をと
っ
て進むならわしだっ
たの
を︑
朝庭の
入り口である宮門を越えるときだけ に限つて匍旬礼を用いることにして︑それを象徴的な意味にとどめることにし︑あとは中国式に立
つて進むことに したもの
であろう︒
ただし
︑天武十一
年︵六八二︶に跪礼とともに匍匐礼の
停廃が命じられているから︵﹃日本書紀﹄同年九月
壬
辰条︶︑この
あとも依然とし
て匍匐礼が広くぉこなわれていたことも考えられる︒ し
かし匍一
倒礼は︑この
天武十一
年の
記事を最後に姿を消すの
で︑口頭政務にともなう跪伏礼よりはやく姿を消し
た可能性が高い︒
なお︑﹃続日本紀﹄天平元年︵
七
二九
︶八月癸亥条の
聖武天皇の
宣命に﹁
我礼 ほ製 み太上天皇︵元正
︶の
大前に かM心じししまはら- fもとも
の
進退ひ匍. 倒ひ廻ほり白し賜ひ受け賜らくは
- - ﹂
とあるの
は︑匍﹂倒礼が私礼とし
ては奈良時代以降も存続し︑目 上の
人に﹁
モノマヲス ﹂
際に恭順の
意を示す礼とし
て行われていたことを示唆する史料である︒
跪伏礼と口頭政務
四 三
跪伏礼と口頭政務
二 ︑ 跪 伏 礼 と 儀 式 ・ 政 務
前節で跪伏礼と
﹁ モ
ノマヲス ﹂
︑および匍匐礼との
関係を仁徳天皇
と石之日売の
説話を素材に考えてみたが︑っ
ぎ に跪伏礼が倭王
権の
朝庭の
政務・
儀礼の
なかでいかなる役割を果たしたかを検討してみたい︒
敏達十二年︵
五八三︶︑天皇は火章北国造阿利斯登の
子で百済の
朝廷に仕えていた倭系百済人の
日羅を召喚した︒
日羅が難波に着くと︑大夫等を難波館に派遺して迎問するが︑こ
の
時の
日羅の
ようすを﹃日本書紀﹄は次の
ように描写する
︒
被レ甲乗
. :一
︐ 馬︑到
一
門底下一 ︒
乃進一
庁前一 ︒
進退跪拝︑歎恨而日︑
於一 一
桧隈宮御宇天皇
之世一
我君大伴金村大連︑奉1-為国家
一
使一
一於海表一
火章北国造刑部較部阿利斯登之子︑臣達率日羅︑
聞一
天皇召一
恐長来朝︒
乃解一
其甲一
奉一
於天皇
一
︵一
r日本書紀﹄敏達十二年是歳条︶ 日羅は︑甲を着て馬に乗つて館の
門の
もとにつ
く︒
おそらくそこで馬から下り︑大夫たちの
いる﹁
庁﹂ の
前まで進 み出て︑﹁
進退跪拝﹂
したという︒ ﹁
進退﹂
とはフルマ
ヒ︑フルマ
フの
古訓があるように︑たちいふるまいの
ことで あるが︑
ここは作法にし
たがっ
た所作の
意と思われ︑
庁前に進み出てから﹁
跪拝﹂
すなわち跪伏礼をぉこなうまでの 一
連の
動作をいうの
であろう︒
この
とき日羅は︑門から難波館に入つて庭を進んでいき︵本来は匍匐礼の
はずであるが︑日羅が百済生まれであることを考えると︑
立
つて歩いたの
かもし
れない︶︑庁前で大夫たちに跪拝してロ
頭で来朝
の
挨拶をぉこなっ
たの
である︒
こ
の
記事は︑
跪伏礼と口頭政務の
関わりが具体的に知られる点できわめて重要である︒
まず︑日羅は大夫らの
迎 問に答礼するため︑﹁
庁前﹂
に進み出ている︒
難波館は︑難波にあった外国使節の
迎接施設であるが︑
ここに﹁
庁﹂
︵
マ
ツリゴトドノ︶が設けられていたの
である︒
この
庁は難波館での
外国使や倭国の
使節に関わるさまざまな外交儀礼に
つ
かわれれたの
であろうから︑倭王権の
使者と外国使の
やりとりは 〟マツリゴ
ト︵政事︶〟であったことになる︒
日羅の
来朝の
挨拶も﹁
庁前﹂
でぉこなわれているから︑同様にマ
ツリゴトであった︒
そこで跪伏礼が用いられている
の
である︒
すなわちこの
記事から︑六世紀後半の
段階には︑跪伏礼は﹁
庁﹂
を場としてぉこなわれる口頭政務に用いられる公的な礼法とな
っ
ていたことがうかがわれる︒
もちろん︑
私的な場でも跪伏礼は広汎におこなわれていたであろうが︑それが
﹁
庁﹂
という︑ 王
権の
公的な場で用いられていたことが重要である︒ ﹁
庁﹂
は︑ の
ちに詳述するように︑口頭政務
の
場であり︑そこで用いられる跪伏礼は口頭による意思の
伝達にともなう礼であっ
た︒
こ
の
記事でっ
ぎに重要なの
は︑日羅が跪伏し
たの
が﹁
庁前﹂
とされていることである︒
口頭政務における跪伏礼で︑
マ
ツリゴ
トを申す︵以下﹁
申政﹂
という︶人物が跪く場所は︑聴政する上位者の
いる﹁
庁﹂ の
前なの
である︒
そしておそらく︑こ
の ﹁
庁前﹂
まで匍一
倒礼で進んでくるの
が本来の
形であろう︒
こ
の
記事は︑難波館の ﹁
庁﹂
でおこなわれた口頭政務の
ようすを伝えるもの
で︑やや特殊なもの
であるが︑朝庭の ﹁
庁﹂
である朝堂においても同様の
礼法がぉこなわれていたとみてさし っ
かえないと思われる︒
その
ことを示すの
が冒頭に引いた慶雲四年詔である︒
慶雲四年詔の
核心
部分である﹁
往年有レ詔︑停二跪伏之礼一︒
今聞︑内外庁前︑
皆不一厳粛
一 ︒
進退無レ礼︑陳答失レ度﹂
という箇所の
意味を︑以上の
考察をふまえてここでもう一
度考えてみよう︒
ま跪伏礼と口頭政務
四 五
跪伏礼と
ロ
頭政務四六
ず
﹁
今聞- - ﹂
以下は︑﹁
往年有レ詔︑
停一
一跪伏之礼一 ﹂
にっ
づく文であるから︑跪伏礼を禁止
したの
にも関わらず︑それが守られていないことを語つていると解さなければならない
︒
すなわち︑﹁
内外庁前﹂
で依然として跪伏礼がおこなわれていることを挙示︑糾弾
し
ているの
である︒
ここでまず注目されるの
は︑
跪伏礼がおこなわれている場所を﹁
内外庁前﹂
と特定し
ていることである︒
慶雲四年段階でも︑跪伏礼はなぉ﹁
内外庁前﹂
でさかんにおこなわれていた
の
である︒
︵5︶さてこ
の ﹁
内外庁前﹂ の ﹁
内外﹂
につ
いては︑
岸俊男氏
が﹁
朝堂と曹司を併称したもの
とみられる﹂
と解し
たの
︵ 6
︶をはじめと
し
て︑井上氏も同様の
解釈を示し
︑新日本古典文学大系﹃続日本紀﹄の
脚注も﹁
ここでは︑朝堂の
内外をいう
M
︶﹂
とする︒
しかし ぃ
ずれの
ばあいも︑なぜそう解釈するの
か︑根拠は不明である︒
﹃続日本紀﹄で﹁
内外〇〇 ﹂
というばあい︑﹁
内外有位六位已下者﹂ ︵
大宝元年︵七 〇 一
︶五月己
亥条︶︑﹁
令f一内外文武官読︐
一
習新令一 ﹂ ︵
大宝二年︵
七 〇
二︶七
月乙
亥条︶︑﹁
凡内外諸司考選文
︑先進一一
弁官一 ﹂
︵和銅二年︵七〇九︶十月甲申条︶︑﹁
置一
紫微内相一
人一
令レ掌一
内外諸兵事一 ﹂
︵天平宝字元年︵七五七
︶五月丁卯条︶などの
ように︑京の
内外の
意味に用いるの
が一
般的で︑
﹁
朝堂の
内外﹂
というような用法は見あたらない︒
また︑後文で取り上げるように︑宮都の ﹁
庁﹂
とは︑本来朝堂をさし︑諸司
の
曹司を﹁
庁﹂
と呼ぶことはなかっ
たの
である︒
やがて﹁
曹司庁﹂
ということばができて︑
諸︵8︶司
の
曹司も﹁
庁﹂
と呼ばれるようになるの
は︑九世紀以降であることが明らかにされているから︑八世紀初頭段階に朝堂院外
の
曹司を﹁
庁﹂
と呼んだとは考えがたい︒ 一
方︑地方では︑儀制令1 8
元日国司条では﹁
凡元日︑国司皆 率一 一
僚属郡司等一
向レ庁朝拝﹂
とあり︑また仮寧令1 2
外官聞喪条に﹁
凡外官及使人︑ :-
・不レ得一
於国郡庁内挙哀一 ﹂
とあるように︑国府
・
郡家の
政庁は︑令制当初から﹁
庁﹂
と呼ばれていたの
である︒
したがっ
て慶雲四年詔の ﹁
内外 庁前﹂ の ﹁
内外﹂
を︑ ﹁
朝堂の
内外﹂
と解するの
は無理で︑﹁
京の
内外﹂
︑すなわち内=宮内の
朝堂︑外=国庁と郡庁︵
その
ほかに︑大宰府や城棚の
政庁なども該当しよう︶︑と解さなくてはならないであろう︒
そうすると慶雲四年詔は︑諸国
の
国庁・
郡庁が︑宮都の
朝堂院と同様に口頭政務の
行われる場で︑少なくとも八世紀初頭までは︑それにともなってここで跪伏礼が行われていたことを示す貴重な史料ということになる
︒
中央の
朝堂院︵そ
の 正
殿である大殿・
大極殿も含めて考える︶も地
方の
国庁も︑ともに庭を中心
とし -
っり購 とどがコ の
字型に 並ぶ空間であるが︑この
ような構造の
空間がロ
頭政務の
場であっ
たわけで︑その
庁前で跪伏礼がおこなわれていたの
である︒
慶雲四年詔は︵したがって︑おそらくはそれに先立 つ
天武十一
年勅と慶雲元年詔も︶︑京の
内外の
口頭政務
の
場である庁前での
跪伏礼を禁止
した法令と解される︒
新川氏は跪礼は中国に由来する礼法であるが︑匍側礼は中国に類例を見出すことは容易でなく︑倭国に固有
の
礼法である可能性が高いと考えている
︒
それに対して︑西本昌弘氏
は匍匐礼が中国の
喪礼で用いられていた事実を指摘し︑
﹁
哀悼を表す匍側礼が恭順を示す匍側礼に転化することは容易に推測できるの
で︑中国に起源する跪礼と匍旬︵9︶礼は朝鮮諸国を介して︑早くから倭国に入つていたと考えられる
の
ではないか﹂
とする︒
確かにもの の
授受にともなう跪礼や天子
の
前での
跪礼は中国にもあり︑日本へ の
影響が考えられるが︑重要なの
は個々 の
要素の
起源よりも︑日本では匍側礼と跪伏礼が連続
し
︑しかも﹁
モノマ
ヲス ﹂
際の
礼法とし
て広汎におこなわれていたということであると思う
︒
この
ような意味合いにおいては︑匍側礼も跪伏礼も古くから列島社会の
なかで固有の
意味をもってぉこ一
随伏礼と口頭政務四 七
跪伏礼と
ロ
頭政務四 八
なわれていた礼法とみてよいと思われる
︒
固有の
意味をもっていたからこそ︑ 七
世紀末以降の
たびかさなる禁止
令にもかかわらず︑なかなかすたれなかった
の
であろう︒
それでは︑
七
世紀末から八世紀初めにかけて天武十一
年勅︑慶雲元年詔︑慶雲四年詔と跪伏礼の
停廃が再三にわたって命じられている
の
はなぜであろうか︒ 一
般には︑わが国固有の
習俗を唐風に改める政策の 一
環として︑跪伏礼
の
禁止
がおこなわれたと考えられているの
ではなかろうか︒
確かにその
側面は否定できないにしても︑私は︑それは本質的な理由ではなかったと考える
︒
なぜならば︑
この
時期に禁止
されたの
は︑
さきにも指摘したように︑跪 伏礼全般ではなく︑口頭政務にともなう跪伏礼だけだっ
たからである︒
そこで︑
この
時期の
跪伏礼停廃の
意義を解明するためには︑律令制下
の
政務形態を知つておく必
要がある︒
三 ︑ 口 頭 申 政 か ら 読 申 公 文 へ
︵ l 0
︶奈良時代から平安時代にかけて
の
朝庭の
政務形態に関しては︑吉川真司氏 の
研究が重要である︒
職員令の
主典の
通掌の 一 っ
に﹁
読申公文﹂
があるが︑これは唐令にはおそらくなかった日本の
職員令独自の
規定で︑主典が公文を口頭で
﹁ -
ート申ス ﹂
と読申して決裁を仰ぎ︑それに対して上司が﹁ ョ
シ﹂
と︑やはり口頭で決裁を与
える作法である
︒
文書行政を標榜しながら︑文書その
もの
がやりとりされず︑
口頭の
やりとりで決裁がおこなわれる政務形態であ
っ
た︒
吉川
氏
によれば︑﹃内裏儀式﹄﹃西宮記﹄などの
儀式書で読申公文の
作法が見出されるの
は︑a
少納言尋常奏︑b
外記政庁申文儀︑c
官西庁政︵朝庁事︶申文儀などである︒
これらから吉川氏は︑官西庁政︵
弁官︶←外記政・
官 政︵公
卿︶←少納言尋常奏︵天皇︶という三段階の
読申公文
による政務体系がかっ
て存在し
たことを想定している︒
これら
の
政務は︑八世紀代にはぉおむね朝堂でぉこなわれていたであろうから︑読申公文は八世紀代に朝堂でぉこなわれた朝政
の
基本形態であっ
たと推定されるの
である︒
読申公文で注目される
の
は︑読申の
際に庁前の
版位にたって上申する作法がみられることである︒
納言奏では︑
天皇
が出御した殿舎の
前庭版位に大納言︵大納言奏︶︑あるいは少
納言︵少
納言奏︶が立
ち︑﹁
:-
・ト申ス ﹂
と口頭で上申がおこなわれたと考えられる
︒
また朝庁事では︑
諸司諸国からの
案件の
処理において︑弁官の
史が太政官曹司 庁の
西庁前の
版位に立
つて︑諸司諸国の
官人に代わって公文の
読申をぉこない︑それに対して西庁の
座にいる弁が﹁ ョ
シ﹂
と口頭で決裁を与
えるの
である︵﹃西宮記﹄巻一 〇
︑朝庁事︶︒
ところが外記政庁申文儀では︑
公卿が外記庁に
っ
いたあと︑上官︵少
納言・
弁・
外記・
史︶はいったん庭中の
版位に立 つ
が︑召し
を受けて庁座に着き︑その
後︑
史が立
つて案件を読申し
た︵﹃西宮記﹄巻七︑
外記政︶︒
すなわち︑
この
ばあぃ
は座の
ある庁上で読申がぉこなわれるという点で︑殿前
の
版位にっ
いて読申をぉこなう納言奏や朝庁事における読申公文と作法が大きく異なっ
ている︒
︵1 1
-これは読申公文
の
作法がしだいにすたれ︑庁上で文刺を介して文書の
やりとりがぉこなわれる申文刺文の
作法の
影響を受けて本来
の
形が崩れたもの
とみて誤りないであろう︒
そうすると︑
読申公文における読申の
作法は︑本来︑天皇が出御した殿舎や上司
の
いる殿舎の
前に置かれた版位に立
つて︑ 公
文を読み上げるという形態をとっていたこと跪伏礼と口頭政務
四九
跪伏礼と口頭政務
五
〇 になる
︒
朝庁事にはもう一 っ
︑注目すべ
き儀がある︒
それは史による諸司・
諸国からの
案件の
読申に先だっておこなわれる民部録による廩院米
の
出倉儀である︒
これは﹃西宮記﹄によれば︑
当日の
鶏鳴︑弁・
史が西庁の
座に着きおわると
︑
民部の
録が版に立
つて︑ ﹁
米倉院二物下シ給ハラム﹂
と口頭で申請する︒
弁は﹁
候へ ﹂
と答え︑
民部が称唯して退出する
の
である︒
﹃西宮記﹄の
記載によるかぎり︑この
儀には文
書がまっ
たく介在していないようにみえる︒
また この
儀が読申公文による案件処理に先立
つて行われていることからみても︑それらとは区別される形式の
政務とみてよいと思われる
︒
すなわち朝庁事では︑読申公文の
作法によっ
てぉこなわれる諸司諸国からの
案件の
処理に先立
つて
︑
口頭の
みによる諸司の
日常的な案件の
処理がおこなわれているの
である︒ ﹁
西宮記﹂
に載せられているの
は︑民部省
の
廩院米の
出倉儀だけであるが︑
これは﹃西宮記﹄の
段階にはこの
儀の
みが象徴的な意味合いでおこなわれるようにな
っ
ていたためであっ
て︑
本来は諸司の
さまざまな日常的な案件の 処 理
が︑
この
儀の
ように口頭による申政の
形でぉこなわれていたの
であろう︒
ふるいロ
頭申政の
なごりが︑
朝庁
事の
最初の
儀に︑まったく形骸化した形ではあるが︑かろうじて残されていた
の
である︒
この
儀においても︑民部録が立
つて口頭で申請するの
は庁前の
版位においてであったことは注目される
︒
なぉ
﹁
朝庁﹂
とは︑﹁
太政官処
分︑舎人親王参︐
一
入朝庁一
之時︑諸司莫一
為レ之下座一 ﹂
︵﹃続日本紀﹄天平元年︵七二九
︶四月癸亥条︶などとあるように︑本来は﹁
朝庭の
庁﹂
すなわち朝堂の
意である︒
太政官曹司庁をこの
ようにもよんだ
の
は︑それが朝堂を象徴するもの
で︑その
分身であることを意味すると思われる︒
元旦
に諸国の
国庁でぉこなわれる朝拝が
﹁
拝朝庭﹂
とも表記され︵天平八年薩麻国正
税帳︑天平十年淡路国正
税帳など︶︑また大宰府や諸国の
国府が﹁
遠の
朝庭﹂
ともよばれたように︑国庁が朝庭の
シンボルという意味をもっていたことと思い合わせて興味深い
︒
したがっ
て﹁
朝庁事﹂
という呼称からも︑
この
政務はかっ
ては朝堂でおこなわれていた弁官聴政に由来するとみられる
の
である︒
さて律令制下
の
政務で︑案件の
処理にもっとも一
般的な形態であったと考えられる読申公文は︑この
ように天皇の
出御する殿舎︵通常は大極殿か内裏正
殿︶の
前︑または庁前に置かれた版位に立
つて公文を読申し︑それを殿上の
座にいる天皇︑または上司が聴き︑口頭で決裁をあたえる政務形態であった︒
この
政務形態の
最大の
特色は︑諸司
・
諸国と太政官との
間の
案件の
上申︑
政令の
施行は文書を用いてぉこなわれるの
に︑肝心 の
案件の
処理︑いい換えれば国家意思
の
定立 の
段階では︑
音声言語による意思の
伝達によってことが運び︑文書の
やりとりがない︑ということである
︒
これは明らかに律令制以前に主流であっ
た口頭による政務処理の
影響が色濃く残つている政務形態といってよいであろう
︒
この
ことと深く関わっ
ているの
が︑公文を読申する場所が︑庁前の
版位においてであったことである
︒
外記政の
申文儀の
ように︑
朝座につ
いて読申してもさし っ
かえないと思われるの
に︑これが本来的でない
の
は︑律令制以前の
文書が介在しない口頭政務の
時代の
作法の
影響を受けているためと考えるの
が自然であろ1
つ
〇前節で考察したように︑律令制以前
の
口頭政務は︑申政するもの
が聴政をする大王・
上位者の
いる殿前または庁 前にまで匍匐礼で進み︑そこで脆伏して口頭でマツリゴトを申す︑という形をとっていたとみられる︒
すなわちこ跪伏礼と口頭政務
五
跪伏礼と口頭政務
五
の
段階の
口頭政務では︑下位者が上位者に口頭で案件を上申するばあい︑庁前で跪伏して申政する作法を用いたの
である
︒
それが律令制下の
読申公文では︑庁前に版位を置き︑そこに立
つて読申するように改められる︒
すなわちここで︑庁前で
の
上申という形は引き継ぎながらも︑跪伏礼から立
礼へ
︑口頭による申政から公文の
読申へ
︑とい︵1 2
︶う二
つ の
作法の
変化がおこるの
である︒
なぉ︑藤原宮の
木簡にし
ばしば見られる﹁ -
:・の
前に申す﹂
という形式は︑
口頭申政︑ないしは読申公文における申政
の
あり方を反映し
た書式とみて誤りないであろう︒
慶雲元年︵七〇
四︶︑同四年とたてつ
づけに庁前の
跪伏礼の
停廃が命じられたの
は︑ちょうど大宝律令が施行された直後で︑読申公文方式による政務処理が本格的に励行されはじめた時期にあたっているとみられる
︒
ところで読申公文は
︑
公文を読み上げる作法であるから︑
文書を両手
でもっ 必
要がある︒
この点から考えると︑読申公文には︑
両手を地
にっ
くことが基本姿勢である跪伏礼は向いておらず︑っ
ねに両手 の
自由がきく立
礼の
方が適合的な礼容で あるといえよう︒
この
ようなことから︑
口頭申政から読申公文方式へ の
切り替えにともなって混乱が生じたことが 想定される︒
公文の
読申による政務の
処理に切り替わりながら︑官人たちにはそれまで永年にわたっておこなわれてきた跪伏礼
の
作法がしみ付いていて︑公文を読申する場である﹁
内外の
庁前﹂
で跪伏礼をぉこなっ
たために︑﹁
進退無レ礼︑陳答失レ度
﹂
︑すなわち作法に礼が欠け︑受け答えも本来あるべき節度を失うことになる︵文書を携えながらあえて跪伏礼をおこなうことによって起こる読申
の
作法の
混乱を︑こう表現したの
ではなかろうか︶︑
という政務処
理上の
混乱がいたるところで生じた︒
そこで読申公文をおこなう場で跪伏礼を用いることを禁止
し︑読申公文に適合した
立
礼をぉこなうことを命じたの
が慶雲元年︑同四年の
詔であったと解することができると思われる︒
さきにも指摘したように︑読申公文
の
政務形態は︑
政務体系全体は文書主義の
形をとりながら︑もっとも本質的な点で口頭政務
の
影響を色濃く残すもの
であった︒
すなわち肝心
な案件の
処理の
場面で文書がやりとりされず︑音声言語による意思
の
伝達によっ
て決裁がぉこなわれたの
である︒
これは︑本質的に文書主義と相容れない思想といってよく︑読申公文
の
作法の
背後には︑文書主義の
外被をまといながらも︑依然として文字で書かれた文書よりも︑生の
音声言語をもっともオフィシャルで権威の
あるもの
とみなす意識がはたらいていたことが看取される︒
この
方式では︑文書は︑もっとも
正
統な音声言語による決裁を記録し︑布告するという補助的な役割をになうもの
と考えられていた︑とい
っ
てよいように思われる︒
し
かしそうはいっても︑口頭による政務がひとたび文書主義の
政務体系のなかに組み込まれると︑音声言語の
権 威はしだいに崩れていく︒
口頭による決裁の
内容が文
書化され︑
署名・
捺印が加えられて発給されると︑文書自体 にし
だいに権威が備わっていくの
は当然の
なりゆきであろう︒ ロ
頭による決裁の
文書化が反復されるにしたがっ
て︑
音声言語に対する信仰はうすれ︑文書自体をもっともオフィシャルで権威
の
あるもの
とみなすようになり︑っ
いに案件
の
処理の
場において︑文刺を用いて文書の
やりとりをぉこなう政務形態が読申公文の
政務形態にとってかわる︒
吉川
氏
が申文刺文と名づけた政務形態の
段階である︒
跪伏礼と口頭政務
五 三
l随伏礼と
ロ
頭政務五 四
四 ﹁ 口 頭 の 字 型 の 庁 政 務 コ ﹂ と
前節では︑跪伏礼が口頭申政に適合的な礼容であり︑律令制下における読申公文
の
政務形態の 一
般化にともなって廃絶していくことを指摘した
︒
ここでは︑口頭申政︑さらには読申公文もふくめて︑口頭政務の
場とその
形態の
問題を取り上げてみたい
︒
口頭申政・
読申公文において案件が口頭で申上・
決裁される場は︑これまでみてきたように︑﹁
庁前﹂
︵大王 ・
天皇
に対
するばあいは︑出御する殿の
前︶であった︒
この
政務形態の
顕著な特色は︑﹁
庁前﹂
と庁︵朝堂︶の
間の
口頭によるやりとりで政務処理がぉこなわれる︑ということである
︒
この
点は中国の
朝堂でおこなわれる朝議の
あり方︵l 3
︶と大きく異なる
︒
渡辺
信一
郎氏
によれば︑後
漢から魏晋南北朝にかけては︑数百名におよぶ貴族が朝堂に集結して 朝議が開かれた︒
会議の
要所で賛同者が署名を加えた議文
が作られ︑
国家の
最高意志が集団的に形成されていっ
た︒
朝議は朝堂を場としてぉこなわれ
︑
朝議の
内容は議文
に集約される︒
渡辺 氏
が指摘しているように︑中国古代の
国家では朝議に限らず
︑
最末端の
機構から最上層の
国家最高意志形成機構にいたるまで︑文書主義が貫かれていた︒
この
点︑口頭による決裁が重要な意味をもっ
ていた日本古代の
政務の
あり方とは︑好対照をなしているの
である︒
日本古代
の
朝堂は︑庭を中心
にその
周囲に配置されていた︒
そしてこの
空間が﹁
朝庭﹂
と呼ばれた︒
佐竹昭氏に︵1 l︶よれば︑隋唐では︑
﹁
朝廷﹂ の
語はもっばら中央政府や皇
帝をさす抽象的な意味で用いられたの
に対し︑古代の
日本では︑通常
︑ ﹁
朝庭﹂
と表記され︑右の
ごとき抽象的な用法の
ほかに︑宮室 の
具体的な場所・
空間をさす語としてしば
し
ば用いられたが︑やがてその
用法は廃れて天皇をさす語となり︑﹁
朝廷﹂
と表記されるようになっていった︒
唐の
宮城では︑外朝・
中朝・
内朝というように︑朝見の
場が分化してぉり︑特定の
庭だけを朝廷と呼ぶことは不可
能で
︑ ﹁
太極殿庭﹂
などというように︑建物の
附属物とし
て表記したの
である︒ ﹁
朝庭﹂
ということばは︑八世紀以降には︑曹司などの
宮内の
官衙も含んだり︑宮室
全体を意味することも少
なく︵l︶なくなるが︑も
っ
とも本来的と考えられるの
は︑
庭を中心
に朝堂︵=庁︶の
立ち並ぶ一
郭︑すなわちいわゆる朝堂院の 一
郭をさす用法である︒
たとえば︑推古十六年︵六〇
八︶に来朝した隋使の
裴世清は︑﹁
使の
旨﹂
を奏上するため に小
墾田宮の ﹁
朝庭﹂
に召されるが︑この
とき隋の
信物を﹁
庭中﹂
に置き︑国書を﹁
大門﹂ の
前の
机の
上に置いて 推古に奏上したという︵﹃日本書紀﹄同年八月壬
子条︶︒
岸俊男氏は︑
この
記事と推古十八年の
新羅・ ﹁
任那﹂
使︵﹃日 本書紀﹄同年十月丁酉条︶の
外国使節の
入朝記事の
比較検討をぉこない︑ ﹁
二つ の
記事には相互に関連性があり︑
またそ
の
信憑度もかなり高い﹂
と評価しっ つ
︑小墾田宮の
構造を︑﹁
南門を入ると朝庭があり︑その
左右には庁=朝堂︵ま
っ
りごとどの
︶が並び︑大臣・
大夫︑および皇子や諸王 ・
諸臣が座位する︒
これがいわゆる朝堂院で︑その
北中︵1 6
︶央には大門が開かれて︑奥は天
皇 の
います大殿の
ある内裏に通じていた﹂
と復原している︒
この
場合の ﹁
朝庭﹂
とは︑庭を中
心
に朝堂の 立
ち並ぶ一
郭ということになる︒
また白雜元年︵六五〇︶の
祥瑞献上記事では︑﹁
朝庭﹂ の
隊仗が
﹁
元会儀﹂ の
ようであったとあり︑﹁
朝庭﹂ の
奥には﹁
紫門﹂
︵=大門︶があったことが記されている︵﹃日本書紀﹄同年二月甲申条︶
︒
これまた︑同様の
用法である︒
また藤原宮の
例では︑大宝元年︵七
〇一
︶に︑それまで赦令が発布されると罪人を
﹁
朝庭﹂
に集めていたの
を︑今後は廃止
して︑所管の
官司で放免する︑という太政官処分が跪伏礼と口頭政務
五 五
跪伏礼と口頭政務
五六
発布されているが︵﹃続日本紀﹄大宝元年︵七
〇 一
︶十一
月乙
酉条︶︑この ﹁
朝庭﹂
も︑朝堂院の 一
郭をさすと考え︵1 7
︶られる
︒
'それでは
︑
中国でも︑日本の ﹁
朝庭﹂ の
ように︑
庭を中心
にまわりを南北棟の
朝堂が取り囲むという形態が一
般︵l8︶的だった
の
であろうか︒
渡辺 氏 の
研究によって古代中国の
朝堂の
あり方を概観し
てみると︑中国史上︑史料的に朝 堂の
存在が確認できるの
は︑後漢の
時期からである︒
この
時期の
朝堂は︑
皇帝の
朝政空間である正殿と隣接し
た場 所にあったようであるが︑公卿百官の
議政空間として相対的に独立 し
た地
位を保つていた︒
魏晋南朝では︑宮城の
正
殿である太極殿・
束西堂と朝堂とは︑
それぞれ皇帝の
聴政機構と高級官僚・
貴族の
集団的議政機構であり︑相対的な独自性をもっていた
︒
朝堂における議政奏案は独自に作られたの
ち︑束堂もしくは西堂で皇帝によって決裁された
の
である︒
この
時期︑
朝堂の
あった場所がはっきりわかる例は少ないが︑束晋の
建康宮の
ばあい︑
台城︵宮城︶には︑太極殿西側
の
神虎門内に中書省︑東側に尚書省があり︑尚書省と道をへ
だてて朝堂があっ
た︒ 一
方︑北朝では朝堂を皇帝権力
の
下におくことが日常化し︑
それが隋唐に引き継がれていく︒
隋唐代には︑朝堂は宮城内からしめだされて外朝化し︑承天門外に東西二堂
の
対称構造をとることになった︒
こ
の
ように︑後漢・
魏晋南朝では朝堂は皇
帝の
聴政空間と相対的に独立
した空間を構成し︑貴族の
集団的議政機 構とし
て存在し
たが︑北朝から隋唐にかけて皇帝権力による朝堂支配が強まり︑貴族の
議政機構としての
性格が失われていく
の
である︒
これを宮城における朝堂の
位置からみていくと︑後漢代には宮城の 正
殿に隣接して存在したが︑東晋では
正
殿太極殿の
束側の
尚書省からさらに道をへ
だてたところに位置し︑隋唐代になると︑朝堂は尚書省とともに宮城内からしめだされて外朝化する︑という推移をたどるという
︒
中国でも朝堂が庭を中心
として配置されていたかどうかをさぐることは容易ではないが︑少なくとも唐代の
朝堂は東西二堂で
︑
庭を囲むようには配置されてはいなかった︒
長安城を例にとると︑太極宮と大明宮の
朝堂は外朝にあたる承天門
・
含元殿の
東西に一
堂ずっ
配されているが︑庭を取り囲むような形態にはなっ
ていないし︑日本の
朝︵1 9
︶堂
の
ごとく南北棟ではなかっ
たらし ぃ ︒
これ以前の
朝堂の
存在形態は︑
具体的には不明であるが︑少なくとも多くの
朝堂が庭の
周囲に配置されているという日本の
朝堂院の
ような形態は確認しがたい︒
︵2 0
︶
一
方︑太極宮と大明宮で中朝に相当する太極殿・
宣政殿の 正
面には広大な庭が付属するが︵殿庭︶︑その
周囲に︑日本
の
朝庭の
ように︑
南北棟の
建物が左
右対称に配されるということはない︒
また︑魏晋南北朝期には︑太極殿の
左
右に束堂・
西堂が対置されていたことが知られる︒
かっ
て岸俊男氏
は︑前期難波宮の
大極殿前身建物︵内一 一 一一
登別殿︶の
両脇前方に配置された束西の
長殿の
源流をこの
東西両堂に求め酒︒
ところが︑最近︑この魏晋南北朝期の
東西二堂
の
性格を詳細に検討した吉田歓氏
は︑両堂は皇
帝の
居住・
朝見・
聴政などの
場で︑その
構造も東西棟であった可 能性が高いことを明らかにし
︑これは魏晋南北朝の
宮室
が︑太極殿・
東西二堂型式の
束西軸の
構造をとっていたことを示すも
の
で︑前期難波宮の
長殿との
継承関係は想定しがたいことを論じてい礎︒
結局︑古代中国の
宮城の
中枢部に日本
の
朝庭の
ように南北棟の
建物が左
右対称に配されるという形態は確認しがたいの
である︒
また地方の
州県 府に関しては︑
古瀬奈津子氏
が﹃大唐開元礼﹄にもとづいてその
プランを復原している︒
それによれば︑州府の 一
郭は
正
殿である庁事と前庭からなり︑ここで重要な儀式がぉこなわれたが︑脇殿にあたる建物は存在せず︑その
点跪伏礼と
ロ
頭政務五七