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跪伏礼と口頭政務 (特集 中間的権力の比較史的研 究)

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(1)

跪伏礼と口頭政務 (特集 中間的権力の比較史的研 究)

著者 熊谷 公男

雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学

号 32

ページ 35‑86

発行年 1999‑09‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024192/

(2)

跪 伏 札 と 口 頭 政 務

熊 谷 公 男

(3)

跪伏

は じ め

大宝律令

施行からさほど隔たらない慶雲四年

〇 七

︶に次

ような詔が発布された

詔日︑

政之道︑以礼為

礼言乱

言乱失

往年有詔︑停

跪伏之礼

今聞︑内外庁前︑皆不

厳粛

進退無礼︑陳答失

斯則

所在官司︑不

其次

自忘

礼節

之所致也

-f自後厳加一糺弾

革一

其弊俗

使o靡一淳風

続日本紀同年十二月辛卯条︶

これは︑跪伏礼

停廃を命じた詔と

て周知

であるが

語中に

往年有

停一跪伏之礼

一 ﹂

とあるように︑ 跪伏礼はこれまで何度か禁令が出されていた

天武十

︵六

八二︶には

跪礼

とを禁じ︑かわり に

難波朝庭之

を用いるよう命じているし︵日本書紀同年

辰条︶

直前

慶雲

年︵

七 〇

四︶にも

始停

百官跪伏之礼

一 ﹂

続日本紀同年

月辛亥条︶と︑再度︑跪伏礼を停

している

それにもかかわらず︑跪 伏礼はなくならず︑慶雲四年詔が発布される

である

それでは︑麼雲四年詔で停

を命

られた跪伏礼とはいかなるも

だった

であろうか

ここでは︑とりあえず

詔から知られるいく

ことを確認

てぉこう

詔によれば

跪伏礼は︑

内外庁前

ける

進退

﹂ ﹁

陳答

に 関わるも

であった

︒ ﹁

とは

﹁ 万

豆利古

止 止

和名抄巻十居

部第十三︶と訓み︑中央

宮都でいえば朝 堂

ことで︑

ちには諸司

曹司

建物もこう呼んだ

︒ 地

方では国府や郡家

政庁である国庁

郡庁などを意味し

(4)

ここでは

庁前

とあるから︑こ

ばあ

ぃ の

跪伏礼は政務を執り行うマツリゴトドノ

殿前でおこなわれる礼 法ということになる

また

進退無礼︑陳答失

を︑詔

冒頭に

凡為政之道

礼為

礼言乱

言 乱失

とあることと合わせ考えると︑

進退

﹂ ﹁

陳答

とは

内外

﹂ の ﹁

で行われる口頭政務に関わるも

と みる

が妥当であろう

の ﹁

内外

いては

これまでは朝堂院

内外

意に解されてきたが︑こ

点は後文

で検討する

要するに慶雲四年詔は︑

内外

﹂ の ﹁

を場とした口頭政務において︑庁前

跪伏礼

を命じた

と解される

である

跪伏礼には︑これとは系統を異にするも

があった

それは朝

座 の

礼法

の 一 つ

として

跪伏礼︵跪礼︶である

朝 座

礼法とは

朝座︵=朝堂

上にある官人

座︶に座す官人が親

王 ・

大臣など

高官

朝堂

へ の

出入に際して行

なう拝礼

ことで︑跪伏礼

ほかに下座︑動座︑起

など

別があっ通

たとえば︑

詔日︑凡朝堂座上︑見

一 一

親王

者如

大臣

王︑起

立 一

堂前

二王以上︑下座而跪

日本書紀持統四年七月甲申条︶

詔日︑朝堂座上︑見

一 一

大臣

一 ︑

坐而跪

日本書紀持統四年

月己丑条︶ 和銅六年十

月十六日官宣

親王太政大臣出

一 一

入朝堂

者︑式部告

一 一

知下座之事

右大臣動座

五位以上降

床下

余跪一座下

一 ︒

日本三代実録元慶八年五月二十九日戊子条所引︶

などとあるように︑堂前に起

するばあいもあったが︑基本的に朝堂上

礼容であり

問題

跪伏礼は︑右

史料

からもうかがわれるように︑朝堂上で座から下りて行うも

であ

点で︑庁前

礼容である口頭政務にと

跪伏

(5)

跪伏

もなう跪伏礼とは明確に区

される

そしてこ

朝座

礼法として

跪伏礼は︑日本紀略弘仁十年︵八

九︶六

月庚成条に

制︑諸司於朝堂一見

王 ・

大臣

以一

磐折

跪伏一以一

立 一

一動座

一 ﹂

とあるように

弘仁十年ま

で公的な礼法として存続

︑以後︑磐折に代えられる

である

ように︑慶雲四年詔︑したがってそ

前提となる天武十

年勅︑慶雲元年詔

の 一

法令は

決して跪伏礼

般を廃

しようとしたも

ではなく︑口頭政務に関わる庁前

跪伏礼

停廃を意図したも

と理解される

これ

までは︑こ

認識があいまいであったと思われるが

本稿ではまずこ

ことを確認したうえで︑庁前

跪伏礼

と口頭政務

関わり︑さらには律令制以前から律令制下にかけて

口頭政務をめぐる諸問題を考察してみたい

一 ︑ 跪 伏 礼 と 匍

前述

ように︑天武十

年に

跪礼

匍側礼

とが合わせて禁じられているが︑こ

点からみて両者は

い に関連する礼法であると考えられる

両者

相違を明確に

が新川登亀男 距である

新川氏

見解は︑①

匍側礼と跪伏礼

間には

動作と

て連続性があること

②匍匐礼は

ハラハヒ

礼で︑前にすすむ動作

と不

分であること︑③跪伏礼は特定

場に膝を折つてとどま

て半

ちし︑両手を自由にうごかし得る姿勢で

あったこと︑とまとめることができよう

私は①と②にはまったく異論はないが︑③は検討

があるように 思われる

(6)

新川

氏 の

あげた日本書紀允恭即位前紀

の ﹁

跪上

一天皇之璽

一 ﹂

や︑継体元年二月甲午条

の ﹁

乃跪上

一天子鏡剣璽 符

再拝

などは︑確かに両

を動か

うる姿勢にちがいないが︑これらはいずれもレガリアを手にもって天皇に献

3︶上する際

礼であるから︑跪礼としてはやや特殊な例というべきであろう

井上亘氏が注意しているように︑跪礼

にはも

の の

授受にともなうも

があり︑たとえば聖明王が一順つた仏像を大臣稲目が

跪受

している︵日本書紀

欽明十三年︵五五二︶十月条︶

これらは︑本来

跪伏礼

派生形とみた方がよいように思われる

私見では︑跪伏

礼は

特定

場所で跪いて両手を前に

く姿勢が基本であると考える

それは︑まず何よりもこ

礼容が跪伏礼と

よばれていることである

跪伏という表現は︑字義から考えると

ちというよりは︑やはり跪いて前方

伏し

かがむ格好

ことであろうから︑両手を前に

く姿勢をとる

はごく自然である

記紀にみえる仁徳天皇

大后石 之日売︵磐之媛︶

説話を素材にこ

点をさらに具体的に考えてみよう

古事記仁徳段によると

夫に嫉妬して山代筒木に住む韓人

奴理能美

家にこも

た大后

之日売命を召し返

そうとして︑仁徳が丸

臣口子を遺わしたところ︑口子臣は大后を説得しようと︑大后

いる殿

前後

戸にそれ

ぞれ

f

﹁ ︒

︑︑︑︑て大至に腰時跪に中庭に赴み進ひ匍に伏せきいてえ仕に后たさ

口子臣

妹た

らり

し っ か 薄 飛

s s

口日売が︑これをみて

山代

筒木

宮に物申すあが兄

君は涙ぐま

と詠んだという

仁徳紀

も大同小異であるが︑仁徳が造わした

は的臣

祖口持臣となっている︵ただ

︑異伝として和期 '

祖口子臣も

掲げる︶

口持臣は

沾一

雪雨

︑以経

一日夜

后殿前

而不

という

これを皇后

側に仕えていた口持臣

国依媛がみて悲しんで

山背

筒城宮に物申す我が兄を見れば涙ぐましも

という歌を詠んで︑皇

跪伏

(7)

頭政

〇 后に

今伏庭請謁者

妾兄也

と告げたが︑

怒りは解けなか

た︵

日本書紀

仁徳三十年十月甲申朔条︶

古事記

説話で興味深い

は︑口子臣は大后

いる韓人

奴理能美

邸内を匍

礼で進み︑庭中に跪いたとあり

ここでは︑匍匐礼と跪伏礼が明らかに

動作とな

ていることである

説話

なかで︑

参り伏せ

るという

と︑

匍側ひ進み赴きて

- -

くという

は同じ所作

異なる表現とみる

きであろう

日本書紀

﹂ の

方は匍側

礼はみえないが︑

筒城宮

﹂ の ﹁ 皇

后殿前

に何昼夜も

せていたとある

これらを総合すると︑匍側礼に連続

する跪伏礼とは︑

跪く

とも

伏す

とも表現されうるも

ということになる

そうすると

表現から膝を折つ

て半

ちになった状態を想定することはやはり困難であ

て︑跪伏礼

基本形態は︑特定

場所で跪いて両手を前

き︑体を伏せる姿勢であったと考えられる

石之日売

説話で

ぎに注目される

は︑新川氏も指摘しているように︑記紀いずれ

説話でも

﹁ モ

ノマヲス

﹂ ︑

すなわち音声言語によ

て他者に意志を伝達することが説話全体を貫くモチーフにな

ていることである

説話自

嫉妬して山代

筒木にこも

た大后石之日売を︑仁徳天

皇 の

意を体した使者が連れもどそうとする話

であり

口頭による大后

説得ということが説話

主題となっている

また古事記

口子臣

口日売兄妹︑

本書紀

口持臣

ように︑大后に

モノマヲ

ス ﹂

人物

名に

という字が

いている

さらには

口子臣

口 持臣︶が

庭中

あるいは

殿前

で雨に︑ 濡れながら跪伏

ている

をみて悲しんだ妹が詠んだという歌が︑

山代

筒木

宮に物申すあが兄

君は︵日本書紀﹄は

我が兄を見れば

︶涙ぐましも

となっており︑跪伏礼

をと

ている兄は︑いちずに

物申す

姿勢をとっている人物な

であ

要するに

跪伏礼は自分より身分

(8)

高い人物に対

て︑口頭で言葉を伝えるとき

作法で︑特定

場所に跪いて両手を前に

いて体を伏せる姿勢をと

る礼容であ

ように考えてくると︑改めて注目される

が︑跪伏礼

最古

史料として著名な

魏志倭人伝

﹂ の

記述であ

下戸与

大人

1

逢道路一送巡入草︑伝辞説- 事︑或蹲或跪︑両手拠地︑為

之恭敬

一 ︒

が大人と道で会つたばあいは︑後ずさりして道路わき

草むらに入つて道をあけ︑

辞説

すなわち

ノマヲ

ス ﹂

ときには︑うずくま

たり︑ひざまずいたり

た姿勢で両手を地面について︑恭敬

意をあらわ

た︑と

いう

である

史料は︑三世紀

邪馬台国

時代に︑下

と大人

間で

特定

場所に跪いて両手を前に

て体を伏せる跪伏礼がおこなわれていたことを示すばかりでなく︑それが当時から

モノマヲス

ことと深く結び

いた礼であることを伝えている点でまことに興味深い

新川氏は︑跪伏礼

匍側礼を︑

何よりも天皇に対するそ

ような身ぶり

伝承が記紀に特筆して残されていない

ことを根拠に︑

機構にもとづく政治的な支配

被支

配関係

礼法とはみな

がたい

とする

しか

日本書紀によれば︑改新

クーデター

際に︑中大兄皇 子らが入鹿に斬り

けた

をみて驚いた

極天

は︑中大兄に

知︑所作︑有一何事

と詰問するが

それ に対して中大見は

︑ 地

に伏せて

鞍作

1

滅天宗

日位

豈以天孫

鞍作

と奏したという

同書皇 極四年

六四四︶六月戊申条︶

ここで日本書紀

地奏日

と記しているも

こそ︑天皇に

モノマヲ

ス ﹂

際にとられた跪伏礼にほかならない

雄略天皇が眉輪王をかくまった葛城円大臣宅を包囲したときに︑円大臣が雄

頭政

(9)

口頭政

軍門に進み出て

跪拝

して願罪を請うたという

も︵日本書記雄略即位前紀︶

同様に考えられる

また

4埴輪に跪いて手を前に

くポー

を取つている男子像が少なからずあるが︑これらは跪伏礼

姿勢を表現したも

とみなしてよいであろう

跪伏礼は

支配

1

隷属

社会関係なかで言語による意思

伝達に際してとられる作法と

して︑おそらく弥生時代以来

列島社会で

広汎に行われていた礼であ

たと思われる

では︑跪伏礼と匍旬礼はど

ような関係にあった

であろうか

︒ 石

之日売

説話は

点に関しても重要な手

がかりを与えてくれる

古事記

説話によれば︑口子臣は匍旬

て進み

︑ ﹁

庭中

に跪いたというが︑これは石 之日売に

モノマヲ

ス ﹂

ため

作法であ

たから

口子臣は︑当然

石之日売

いる殿舎にほど近いところで︑殿

舎に向か

て跪伏礼

姿勢をとったと考えられる

またこ

直前には︑

殿戸に参り伏せば︑ 大后は 違ひて

戸に出でまし︑後

殿

に参り伏せば︑違ひて前

戸に出でま

という記述があるが

ばあ

も︑︵匍 側礼をと

て︶進んで行つて跪伏する

は︑大后

いる殿

の 戸 の

前であ

日本書紀

説話では︑口持臣は

皇 后殿前

に何昼夜も伏せていたことにな

ている

これら

ことから考えると

匍側礼は貴人に対して恭順

意を 示す意味があったろうが︑跪伏礼と

関係でいえば︑貴人に跪伏

モノ

ス ﹂

場所まで進んでいく際にとら

れた礼ということができる

貴人が殿舎内にいるばあ

︑通常

︑ ﹁

モノ

ス ﹂

人物は殿前に跪伏して口頭で言葉を

伝えたと思われるが︑そ

場所まで匍匐礼をと

て進んでい

である

そういう意味で匍匐礼は︑跪伏礼に連

続する礼であった

なぉ

唐書倭国伝に

其訴訟者︑匍側而前

とあり︑訴訟

ときに匍旬礼が行われたこと

を伝えるが︑これもぉそらくは︑訴訟を行うも

が︑訴訟を受理する朝庭

官人や国造

いる殿舎

前まで匍旬し

(10)

て進み︑そこでひざまずいて口頭で訴えごとを

であろう

記事は冠位十二階

直後にある

で︑推古朝

前後

ことを伝えたも

と思われる

これまた匍 側礼が言葉

伝達と結び

いていたことを示すが︑そればかりで

なく︑訴訟

場という公的な空間で用いられていたことが知られる点でも重要である

小墾田宮

遷都した翌年

推古十二年︵六

四︶

朝庭

礼法が改

された

改一朝礼

一 ︒

因以詔之日︑

=-入宮門一以

一両手

地︑両脚跪之︑越梱則

日本書紀同年九月条︶

記事に

いては新川氏

論文に詳しいが︑要するに朝参においては︑宮門

出入り

際だけ両手を地面に

て跪いて前に進み︵=匍匐礼︶︑梱を越えたら︵自分

ある庁前まで︶立つて歩くことを規定

たも

である

おそらくそれまでは庁前まで匍匐礼をと

て進むならわしだ

朝庭

入り口である宮門を越えるときだけ に限つて匍旬礼を用いることにして︑それを象徴的な意味にとどめることにし︑あとは中国式に

つて進むことに したも

であろう

ただ

︑天武十

年︵六八二︶に跪礼とともに匍匐礼

停廃が命じられているから︵日本書紀

同年九月

辰条︶︑こ

あとも依然と

て匍匐礼が広くぉこなわれていたことも考えられる

︒ し

かし匍

礼は︑こ

天武十

記事を最後に姿を消す

で︑口頭政務にともなう跪伏礼よりはやく姿を消

た可能性が高い

なお︑続日本紀天平元年︵

︶八月癸亥条

聖武天皇

宣命に

我礼 太上天皇︵元

大前に M

- f

進退ひ匍

倒ひ廻ほり白し賜ひ受け賜らくは

- - ﹂

とある

は︑匍礼が私礼と

ては奈良時代以降も存続し︑目 上

人に

モノマヲ

ス ﹂

際に恭順

意を示す礼と

て行われていたことを示唆する史料である

(11)

口頭政

二 ︑ 跪 伏 礼 と 儀 式 ・ 政 務

前節で跪伏礼と

﹁ モ

ノマヲ

ス ﹂

︑および匍匐礼と

関係を仁徳天

と石之日売

説話を素材に考えてみたが︑

ぎ に跪伏礼が倭

朝庭

政務

儀礼

なかでいかなる役割を果たしたかを検討してみたい

敏達十二年

五八三︶︑天皇は火章北国造阿利斯登

子で百済

朝廷に仕えてた倭系百済人

日羅を召喚した

日羅が難波に着くと︑大夫等を難波館に派遺して迎問するが︑こ

日羅

ようすを日本書紀は次

ように

描写する

甲乗

:

馬︑到

門底下

一 ︒

乃進

庁前

一 ︒

進退跪拝︑歎恨而日

一 一

桧隈宮御宇天

之世

我君大伴金村大連︑奉1-

為国家

使

一於海表

火章北国造刑部較部阿利斯登之子︑臣達率日羅

天皇召

恐長来朝

乃解

其甲

於天皇

r日本書紀敏達十二年是歳条︶ 日羅は︑甲を着て馬に乗つて館

もとに

おそらくそこで馬から下り︑大夫たち

いる

﹂ の

前まで進 み出て︑

進退跪拝

したという

︒ ﹁

進退

とはフル

ヒ︑フル

古訓があるように︑たちいふるまい

ことで あるが

ここは作法に

たが

た所作

意と思われ

庁前に進み出てから

跪拝

すなわち跪伏礼をぉこなうまで

の 一

動作をいう

であろう

とき日羅は︑門から難波館に入つて庭を進んでいき︵本来は匍匐礼

はずで

あるが︑日羅が百済生まれであることを考えると︑

つて歩いた

かも

れない︶︑庁前で大夫たちに跪拝して

で来朝

挨拶をぉこな

である

(12)

記事は

跪伏礼と口頭政務

関わりが具体的に知られる点できわめて重要である

まず︑日羅は大夫ら

迎 問に答礼するため︑

庁前

に進み出ている

難波館は︑難波にあった外国使節

迎接施設であるが

ここに

ツリゴトドノ︶が設けられていた

である

庁は難波館で

外国使や倭国

使節に関わるさまざまな外交儀

礼に

かわれれた

であろうから︑倭王権

使者と外国使

やりとりは マツリ

ト︵政事︶〟であったことになる

日羅

来朝

挨拶も

庁前

でぉこなわれているから︑同様に

ツリゴトであった

そこで跪伏礼が用いられてい

である

すなわちこ

記事から︑六世紀後半

段階には︑跪伏礼は

を場としてぉこなわれる口頭政務に

用いられる公的な礼法とな

ていたことがうかがわれる

もちろん

私的な場でも跪伏礼は広汎にこなわれてい

たであろうが︑それが

という

︑ 王

公的な場で用いられていたことが重要である

︒ ﹁

︑ の

ちに詳述す

るように︑口頭政務

場であり︑そこで用いられる跪伏礼は口頭による意思

伝達にともなう礼であ

記事で

ぎに重要な

は︑日羅が跪伏

庁前

とされていることである

口頭政務における跪伏礼

で︑

ツリ

トを申す︵以下

申政

という︶人物が跪く場所は︑聴政する上位者

いる

﹂ の

前な

である

しておそらく︑こ

の ﹁

庁前

まで匍

礼で進んでくる

が本来

形であろう

記事は︑難波館

の ﹁

でおこなわれた口頭政務

ようすを伝えるも

で︑やや特殊なも

であるが︑朝庭

の ﹁

である朝堂においても同様

礼法がぉこなわれていたとみてさ

し っ

かえないと思われる

ことを示す

が冒頭に引いた慶雲四年詔である

慶雲四年詔

部分である

往年有詔︑停跪伏之礼一

今聞︑内外庁前

不一厳粛

一 ︒

進退無礼︑陳答失

という箇所

意味を︑以上

考察をふまえてここでもう

度考えてみよう

(13)

頭政

今聞

- - ﹂

以下は︑

往年有

一跪伏之礼

一 ﹂

づく文であるから︑跪伏礼を禁

した

にも関わらず︑そ

れが守られていないことを語つていると解さなければならない

すなわち︑

内外庁前

で依然として跪伏礼がおこ

なわれていることを挙示︑糾弾

ている

である

ここでまず注目される

跪伏礼がおこなわれている場所を

内外庁前

と特定

ていることである

慶雲四年段階でも︑跪伏礼はなぉ

内外庁前

でさかんにおこなわれてい

である

5︶さてこ

の ﹁

内外庁前

﹂ の ﹁

内外

いては

岸俊男

朝堂と曹司を併称したも

とみられる

と解

︵ 6

をはじめと

て︑井上氏も同様

解釈を示

︑新日本古典文学大系続日本紀

脚注も

ここでは︑朝堂

内外

をいう

M

とする

しか

し ぃ

ずれ

ばあいも︑なぜそう解釈する

か︑根拠は不明である

続日本紀

内外〇

〇 ﹂

というばあい︑

内外有位六位已下者

﹂ ︵

大宝元年

︵七 〇 一

︶五月

亥条︶︑

f一内外文武官読

習新令

一 ﹂ ︵

大宝

二年︵

七 〇

二︶

亥条︶︑

凡内外諸司考選

︑先進一

弁官

一 ﹂

︵和銅二年︵七〇九︶十月甲申条︶︑

紫微内相

内外諸兵事

一 ﹂

︵天平宝字元年︵七五

︶五月丁卯条︶など

ように︑京

内外

意味に用いる

般的で︑

朝堂

内外

というような用法は見あたらない

また︑後文で取り上げるように︑宮都

の ﹁

とは︑本

来朝堂をさし︑諸司

曹司を

と呼ぶことはなか

である

やがて

曹司庁

ということばができて

8

曹司も

と呼ばれるようになる

は︑九世紀以降であることが明らかにされているから︑八世紀初頭段階

に朝堂院外

曹司を

と呼んだとは考えがたい

︒ 一

方︑地方では︑儀制令

1 8

元日国司条では

凡元日︑国司皆 率

一 一

僚属郡司等

庁朝拝

とあり︑また仮寧令

1 2

外官聞喪条に

凡外官及使人︑ :

-

於国郡庁内挙哀

一 ﹂

(14)

あるように︑国府

郡家

政庁は︑令制当初から

と呼ばれていた

である

したが

て慶雲四年詔

の ﹁

内外 庁前

﹂ の ﹁

内外

︑ ﹁

朝堂

内外

と解する

は無理で︑

内外

︑すなわち内=宮内

朝堂︑外=国庁と郡庁

ほかに︑大宰府や城棚

政庁なども該当しよう︶︑と解さなくてはならないであろう

そうすると慶雲四年詔は︑諸国

国庁

郡庁が︑宮都

朝堂院と同様に口頭政務

行われる場で︑少なくとも八

世紀初頭までは︑それにともなってここで跪伏礼が行われていたことを示す貴重な史料ということになる

中央

朝堂院︵そ

の 正

殿である大殿

大極殿も含めて考える︶も

国庁も︑ともに庭を中

し -

どが

コ の

字型に 並ぶ空間であるが︑こ

ような構造

空間が

頭政務

場であ

たわけで

庁前で跪伏礼がおこなわれていた

である

慶雲四年詔は︵したがって︑おそらくはそれに先

立 つ

天武十

年勅と慶雲元年詔も︶︑京

内外

口頭政

場である庁前で

跪伏礼を禁

した法令と解される

新川氏は跪礼は中国に由来する礼法であるが︑匍側礼は中国に類例を見出すことは容易でなく︑倭国に固有

法である可能性が高いと考えている

それに対して︑西本昌弘

は匍匐礼が中国

喪礼で用いられていた事実を指

摘し︑

哀悼を表す匍側礼が恭順を示す匍側礼に転化することは容易に推測できる

で︑中国に起源する跪礼と匍旬

9礼は朝鮮諸国を介して︑早くから倭国に入つていたと考えられる

ではないか

とする

確かにも

の の

授受にとも

なう跪礼や天子

前で

跪礼は中国にもあり︑日本

へ の

影響が考えられるが︑重要な

は個

々 の

要素

起源よりも︑

日本では匍側礼と跪伏礼が連続

︑しかも

モノ

ス ﹂

礼法と

て広汎にこなわれていたということであ

ると思う

ような意味合いにおいては︑匍側礼も跪伏礼も古くから列島社会

なかで固有

意味をもってぉこ

口頭政

(15)

頭政

なわれていた礼法とみてよいと思われる

固有

意味をもっていたからこそ

︑ 七

世紀末以降

たびかさなる禁

にもかかわらず︑なかなかすたれなかった

であろう

それでは︑

世紀末から八世紀初めにかけて天武十

年勅︑慶雲元年詔︑慶雲四年詔と跪伏礼

停廃が再三にわ

たって命じられている

はなぜであろうか

︒ 一

般には︑わが国固有

習俗を唐風に改める政策

の 一

環として︑跪伏

がおこなわれたと考えられている

ではなかろうか

確かにそ

側面は否定できないにしても︑私は︑そ

れは本質的な理由ではなかったと考える

なぜならば

時期に禁

された

さきにも指摘したように︑跪 伏礼全般ではなく︑口頭政務にともなう跪伏礼だけだ

たからである

そこで

時期

跪伏礼停廃

意義を解

明するためには︑律令制下

政務形態を知つておく

要がある

三 ︑ 口 頭 申 政 か ら 読 申 公 文 へ

︵ l 0

︶奈良時代から平安時代にかけて

朝庭

政務形態に関しては︑吉川真司

氏 の

研究が重要である

職員令

主典

通掌

の 一 っ

読申公文

があるが︑これは唐令にはおそらくなかった日本

職員令独自

規定で︑主典が公文を

口頭で

﹁ -

ート申

ス ﹂

と読申して決裁を仰ぎ︑それに対して上司が

﹁ ョ

と︑やはり口頭で決裁を

える作法で

ある

文書行政を標榜しながら︑文書そ

がやりとりされず

口頭

やりとりで決裁がおこなわれる政務形態

であ

(16)

吉川

によれば︑内裏儀式西宮記﹄など

儀式書で読申公文

作法が見出される

は︑

a

少納言尋常奏︑

b

外記政庁申文儀︑

c

官西庁政︵朝庁事︶申文儀などである

これらから吉川氏は︑官西庁政

弁官︶←外記政

官 政︵

卿︶←少納言尋常奏︵天皇︶という三段階

読申公

による政務体系がか

て存在

たことを想定している

これら

政務は︑八世紀代にはぉおむね朝堂でぉこなわれていたであろうから︑読申公文は八世紀代に朝堂でぉこ

なわれた朝政

基本形態であ

たと推定される

である

読申公文で注目される

は︑読申

際に庁前

版位にたって上申する作法がみられることである

納言奏では

が出御した殿舎

前庭版位に大納言︵大納言奏︶︑あるいは

納言

︵少

納言奏︶が

ち︑

:

-

・ト申

ス ﹂

と口頭で

上申がおこなわれたと考えられる

また朝庁事では

諸司諸国から

案件

処理において︑弁官

史が太政官曹司 庁

西庁前

版位に

つて︑諸司諸国

官人に代わって公文

読申をぉこない︑それに対して西庁

座にいる弁が

﹁ ョ

と口頭で決裁を

える

である︵西宮記

一 〇

︑朝庁事︶

ところが外記政庁申文儀では

公卿が外記庁

いたあと︑上官︵

納言

外記

史︶はいったん庭中

版位に

立 つ

が︑召

を受けて庁座に着き︑そ

史が

つて案件を読申

た︵西宮記巻七

外記政︶

すなわち

ばあ

は座

ある庁上で読申がぉこなわれ

るという点で︑殿前

版位に

いて読申をぉこなう納言奏や朝庁事における読申公文と作法が大きく異な

ている

︵1 1

-これは読申公文

作法がしだいにすたれ︑庁上で文刺を介して文書

やりとりがぉこなわれる申文刺文

作法

響を受けて本来

形が崩れたも

とみて誤りないであろう

そうすると

読申公文における読申

作法は︑本来︑天

皇が出御した殿舎や上司

いる殿舎

前に置かれた版位に

つて

︑ 公

文を読み上げるという形態をとっていたこと

跪伏口頭

(17)

跪伏

〇 になる

朝庁事にはもう

一 っ

︑注目す

き儀がある

それは史による諸司

諸国から

案件

読申に先だっておこなわれ

る民部録による廩院米

出倉儀である

これは西宮記によれば

当日

鶏鳴︑弁

史が西庁

座に着きおわる

民部

録が版に

つて

︑ ﹁

米倉院物下シ給ハラム

と口頭で申請する

弁は

へ ﹂

と答え

民部が称唯して

退出する

である

西宮記

記載によるかぎり︑こ

儀には

書がま

たく介在していないようにみえる

また こ

儀が読申公文による案件処理に先

つて行われていることからみても︑それらとは区別される形式

政務とみ

てよいと思われる

すなわち朝庁事では︑読申公文

作法によ

てぉこなわれる諸司諸国から

案件

処理に先

口頭

みによる諸司

日常的な案件

処理がおこなわれている

である

︒ ﹁

西宮記

に載せられている

は︑民

部省

廩院米

出倉儀だけであるが

これは西宮記

段階にはこ

みが象徴的な意味合いでおこなわれる

ようにな

ていたためであ

本来は諸司

さまざまな日常的な案件

の 処 理

ように口頭による申政

形でぉこなわれていた

であろう

ふるい

頭申政

なごりが

最初

儀に︑まったく形骸化した形で

はあるが︑かろうじて残されていた

である

儀においても︑民部録が

つて口頭で申請する

は庁前

版位

においてであったことは注目される

なぉ

朝庁

とは︑

太政官

分︑舎人親王参

入朝庁

之時︑諸司莫

之下座

一 ﹂

続日本紀天平元年︵七二

︶四月癸亥条︶などとあるように︑本来は

朝庭

すなわち朝堂

意である

太政官曹司庁をこ

ようにも

よんだ

は︑それが朝堂を象徴するも

で︑そ

分身であることを意味すると思われる

に諸国

国庁でぉこ

(18)

なわれる朝拝が

拝朝庭

とも表記され︵天平八年薩麻国

税帳︑天平十年淡路国

税帳など︶︑また大宰府や諸国

国府が

朝庭

ともよばれたように︑国庁が朝庭

シンボルという意味をもっていたことと思い合わせて興

味深い

したが

朝庁事

という呼称からも

政務はか

ては朝堂でおこなわれていた弁官聴政に由来す

るとみられる

である

さて律令制下

政務で︑案件

処理にもっとも

般的な形態であったと考えられる読申公文は︑こ

ように天皇

出御する殿舎︵通常は大極殿か内裏

殿︶

前︑または庁前に置かれた版位に

つて公文を読申し︑それを殿上

座にいる天皇︑または上司が聴き︑口頭で決裁をあたえる政務形態であった

政務形態

最大

特色は︑諸

諸国と太政官と

案件

上申

政令

施行は文書を用いてぉこなわれる

に︑肝

心 の

案件

処理︑いい換

えれば国家意思

立 の

段階では

音声言語による意思

伝達によってことが運び︑文書

やりとりがない︑とい

うことである

これは明らかに律令制以前に主流であ

た口頭による政務処理

影響が色濃く残つている政務形態

といってよいであろう

ことと深く関わ

ている

が︑公文を読申する場所が︑庁前

版位にいてであった

ことである

外記政

申文儀

ように

朝座に

いて読申してもさ

し っ

かえないと思われる

に︑これが本来的で

ない

は︑律令制以前

文書が介在しない口頭政務

時代

作法

影響を受けているためと考える

が自然であろ

1

前節で考察したように︑律令制以前

口頭政務は︑申政するも

が聴政をする大王

上位者

いる殿前または庁 前にまで匍匐礼で進み︑そこで脆伏して口頭でマツリゴトを申す︑という形をとっていたとみられる

すなわちこ

(19)

跪伏

段階

口頭政務では︑下位者が上位者に口頭で案件を上申するばあい︑庁前で跪伏して申政する作法を用いた

である

それが律令制下

読申公文では︑庁前に版位を置き︑そこに

つて読申するように改められる

すなわち

ここで︑庁前で

上申という形は引き継ぎながらも︑跪伏礼から

︑口頭よる申政から公文

読申

︑とい

1 2

う二

つ の

作法

変化がおこる

である

なぉ︑藤原宮

木簡に

ばしば見られる

﹁ -

:・

前に申す

という形式は

口頭申政︑ないしは読申公文における申政

あり方を反映

た書式とみて誤りないであろう

慶雲元年︵七

四︶︑同四年とたて

づけに庁前

跪伏礼

停廃が命じられた

ちょうど大宝律令が施行され

た直後で︑読申公文方式による政務処理が本格的に励行されはじめた時期にあたっているとみられる

ところで読

申公文は

公文を読み上げる作法であるから

文書を両

でも

っ 必

要がある

この点から考えると︑読申公文には

両手を

くことが基本姿勢である跪伏礼は向いておらず︑

ねに両

手 の

自由がきく

方が適合的な礼容で あるといえよう

ようなことから

口頭申政から読申公文方式

へ の

切り替えにともなって混乱が生じたことが 想定される

公文

読申による政務

処理に切り替わりながら︑官人たちにはそれまで永年にわたってこなわれ

てきた跪伏礼

作法がしみ付いていて︑公文を読申する場である

内外

庁前

で跪伏礼をぉこな

たために︑

退無礼︑陳答失

︑すなわち作法に礼が欠け︑受け答えも本来あるべき節度を失うことになる︵文書を携えなが

らあえて跪伏礼をおこなうことによって起こる読申

作法

混乱を︑こう表現した

ではなかろうか︶

という政務

理上

混乱がいたるところで生じた

そこで読申公文をおこなう場で跪伏礼を用いることを禁

し︑読申公文に

適合した

礼をぉこなうことを命じた

が慶雲元年︑同四年

詔であったと解することができると思われる

(20)

さきにも指摘したように︑読申公文

政務形態は

政務体系全体は文書主義

形をとりながら︑もっとも本質的

な点で口頭政務

影響を色濃く残すも

であった

すなわち肝

な案件

処理

場面で文書がやりとりされず︑音

声言語による意思

伝達によ

て決裁がぉこなわれた

である

これは︑本質的に文書主義と相容れない思想といっ

てよく︑読申公文

作法

背後には︑文書主義

外被をまといながらも︑依然として文字で書かれた文書よりも︑生

音声言語をもっともオフィシャルで権威

あるも

とみなす意識がはたらいていたことが看取される

方式

では︑文書は︑もっとも

統な音声言語による決裁を記録し︑布告するという補助的な役割をになうも

と考えら

れていた︑とい

てよいように思われる

かしそうはいっても︑口頭による政務がひとたび文書主義

政務体系のなかに組み込まれると︑音声言語

権 威はしだいに崩れていく

口頭による決裁

内容が

書化され

署名

捺印が加えられて発給されると︑文書自体 に

だいに権威が備わっていく

は当然

なりゆきであろう

︒ ロ

頭による決裁

文書化が反復されるにしたが

音声言語に対する信仰はうすれ︑文書自体をもっともオフィシャルで権威

あるも

とみなすようになり︑

いに

案件

処理

場において︑文刺を用いて文書

やりとりをぉこなう政務形態が読申公文

政務形態にとってかわる

吉川

が申文刺文と名づけた政務形態

段階である

(21)

l

頭政

四 ﹁ 口 頭 の 字 型 の 庁 政 務 コ ﹂ と

前節では︑跪伏礼が口頭申政に適合的な礼容であり︑律令制下にける読申公文

政務形態

の 一

般化にともなっ

て廃絶していくことを指摘した

ここでは︑口頭申政︑さらには読申公文もふくめて︑口頭政務

場とそ

形態

問題を取り上げてみたい

口頭申政

読申公文において案件が口頭で申上

決裁される場は︑これまでみてきたように︑

庁前

︵大

王 ・

するばあいは︑出御する殿

前︶であった

政務形態

顕著な特色は︑

庁前

と庁︵朝堂︶

口頭

によるやりとりで政務処理がぉこなわれる︑ということである

点は中国

朝堂でおこなわれる朝議

あり方

l 3

と大きく異なる

によれば︑

漢から魏晋南北朝にかけては︑数百名におよぶ貴族が朝堂に集結して 朝議が開かれた

会議

要所で賛同者が署名を加えた議

が作られ

国家

最高意志が集団的に形成されてい

朝議は朝堂を場としてぉこなわれ

朝議

内容は議

に集約される

辺 氏

が指摘しているように︑中国古代

家では朝議に限らず

最末端

機構から最上層

国家最高意志形成機構にいたるまで︑文書主義が貫かれていた

点︑口頭による決裁が重要な意味をも

ていた日本古代

政務

あり方とは︑好対照をなしている

である

日本古代

朝堂は︑庭を中

にそ

周囲に配置されていた

そしてこ

空間が

朝庭

と呼ばれた

佐竹昭氏に

1 lよれば︑隋唐では︑

朝廷

﹂ の

語はもっばら中央政府や

帝をさす抽象的な意味で用いられた

に対し︑古代

日本

では︑通常

︑ ﹁

朝庭

と表記され︑右

ごとき抽象的な用法

ほかに︑宮

室 の

具体的な場所

空間をさす語としてし

(22)

ば用いられたが︑やがてそ

用法は廃れて天皇をさす語となり︑

朝廷

と表記されるようになっていった

宮城では︑外朝

中朝

内朝というように︑朝見

場が分化してぉり︑特定

庭だけを朝廷と呼ぶことは不

︑ ﹁

太極殿庭

などというように︑建物

附属物と

て表記した

である

︒ ﹁

朝庭

ということばは︑八世紀以降には︑曹司など

宮内

官衙も含んだり︑宮

全体を意味することも

なく

lなくなるが︑も

とも本来的と考えられる

庭を中

に朝堂︵=庁︶

立ち並ぶ

郭︑すなわちいわゆる朝堂院

の 一

郭をさす用法である

たとえば︑推古十六年︵六

八︶に来朝した隋使

裴世清は︑

使

を奏上するため に

墾田宮

の ﹁

朝庭

に召されるが︑こ

とき隋

信物を

庭中

に置き国書を

大門

﹂ の

上に置いて 推古に奏上したという︵日本書紀同年八月

子条︶

岸俊男氏は

記事と推古十八年

新羅

・ ﹁

任那

使︵日 本書紀同年十月丁酉条︶

外国使節

入朝記事

比較検討をぉこない

︑ ﹁

つ の

記事には相互に関連性があり

たそ

信憑度もかなり高い

と評価し

っ つ

︑小墾田宮

構造を︑

南門を入ると朝庭があり︑そ

左右には庁=朝堂

︵ま

りごとど

︶が並び︑大臣

大夫︑よび皇子や諸

王 ・

諸臣が座位する

これがいわゆる朝堂院で︑そ

北中

1 6

央には大門が開かれて︑奥は天

皇 の

います大殿

ある内裏に通じていた

と復原している

場合

の ﹁

朝庭

は︑庭を中

に朝堂

の 立

ち並ぶ

郭ということになる

また白雜元年︵六五〇︶

祥瑞献上記事では︑

朝庭

﹂ の

仗が

元会儀

﹂ の

ようであったとあり︑

朝庭

﹂ の

奥には

紫門

︵=大門︶があったことが記されている︵日本書

同年二月甲申条︶

これまた︑同様

用法である

また藤原宮

例では︑大宝元年︵

︶に︑それまで赦令

が発布されると罪人を

朝庭

に集めていた

を︑今後は廃

して︑所管

官司で放免する︑という太政官処分が

五 五

(23)

跪伏

五六

発布されているが︵続日本紀大宝元年︵七

〇 一

︶十

酉条︶︑こ

の ﹁

朝庭

も︑朝堂院

の 一

郭をさすと考え

1 7

︶られる

'

それでは

中国でも︑日本

の ﹁

朝庭

﹂ の

ように

庭を中

にまわりを南北棟

朝堂が取り囲むという形態が

l8的だった

であろうか

辺 氏 の

研究によって古代中国

朝堂

あり方を概観

てみると︑中国史上︑史料的に朝 堂

存在が確認できる

は︑後漢

時期からである

時期

朝堂は

皇帝

朝政空間である正殿と隣接

た場 所にあったようであるが︑公卿百官

議政空間として相対的に独

立 し

位を保つていた

魏晋南朝では︑宮城

殿である太極殿

束西堂と朝堂とは

それぞれ皇帝

聴政機構と高級官僚

貴族

集団的議政機構であり︑相対

的な独自性をもっていた

朝堂における議政奏案は独自に作られた

ち︑束堂もしくは西堂で皇帝によって決裁さ

れた

である

時期

朝堂

あった場所がはっきりわかる例は少ないが︑束晋

建康宮

ばあい

台城︵宮城︶

には︑太極殿西側

神虎門内に中書省︑東側に尚書省があり︑尚書省と道を

だてて朝堂があ

︒ 一

方︑北朝で

は朝堂を皇帝権力

下におくことが日常化し

それが隋唐に引き継がれていく

隋唐代には︑朝堂は宮城内からし

めだされて外朝化し︑承天門外に東西二堂

対称構造をとることになった

ように︑後漢

魏晋南朝では朝堂は

聴政空間と相対的に独

した空間を構成し︑貴族

集団的議政機 構と

て存在

たが︑北朝から隋唐にかけて皇帝権力による朝堂支配が強まり︑貴族

議政機構として

性格が失

われていく

である

これを宮城における朝堂

位置からみていくと︑後漢代には宮城

の 正

殿に隣接して存在した

が︑東晋では

殿太極殿

束側

尚書省からさらに道を

だてたところに位置し︑隋唐代になると︑朝堂は尚書省

(24)

とともに宮城内からしめだされて外朝化する︑という推移をたどるという

中国でも朝堂が庭を中

として配置されていたかどうかをさぐることは容易ではないが︑少なくとも唐代

朝堂

は東西二堂で

庭を囲むようには配置されてはいなかった

長安城を例にとると︑太極宮と大明宮

朝堂は外朝に

あたる承天門

含元殿

東西に

堂ず

配されているが︑庭を取り囲むような形態にはな

ていないし︑日本

1 9

ごとく南北棟ではなか

たら

し ぃ ︒

これ以前

朝堂

存在形態は

具体的には不明であるが︑少なくとも多く

朝堂が庭

周囲に配置されているという日本

朝堂院

ような形態は確認しがたい

2 0

方︑太極宮と大明宮で中朝に相当する太極殿

宣政殿

の 正

面には広大な庭が付属するが︵殿庭︶︑そ

周囲に︑

日本

朝庭

ように

南北棟

建物が

右対称に配されるということはない

また︑魏晋南北朝期には︑太極殿

右に束堂

西堂が対置されていたことが知られる

て岸俊男

は︑前期難波宮

大極殿前身建物︵内

一 一 一一

殿︶

両脇前方に配置された束西

長殿

源流をこ

東西両堂に求め酒

ところが︑最近︑この魏晋南北朝期

東西二

性格を詳細に検討した吉田歓

は︑両堂は

居住

朝見

聴政など

場で︑そ

構造も東西棟であった可 能性が高いことを明らかに

︑これは魏晋南北朝

が︑太極殿

東西二堂型式

束西軸

構造をとっていたこ

とを示すも

で︑前期難波宮

長殿と

継承関係は想定しがたいことを論じてい礎

結局︑古代中国

宮城

中枢

部に日本

朝庭

ように南北棟

建物が

右対称に配されるという形態は確認しがたい

である

また地方

州県 府に関しては

古瀬奈津子

大唐開元礼にもとづいてそ

プランを復原している

それによれば︑州府

の 一

郭は

殿である庁事と前庭からなり︑ここで重要な儀式がぉこなわれたが脇殿にあたる建物は存在せず︑そ

五七

参照

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