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Title Author(s) フランス社会党 (PSF) の誕生と発展 (2) : 極右同盟から議会政党へ 竹岡, 敬温 Citation 大阪大学経済学. 60(3) P.28-P.49 Issue Date Text Version publisher URL

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Title

盟から議会政党へ

Author(s)

竹岡, 敬温

Citation

大阪大学経済学. 60(3) P.28-P.49

Issue Date 2010-12

Text Version publisher

URL

https://doi.org/10.18910/51034

DOI

10.18910/51034

rights

Osaka University Knowledge Archive : OUKA

Osaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

(2)

フランス社会党(PSF)の誕生と発展(2)

―極右同盟から議会政党へ―

竹 岡 敬 温

4.人民戦線の崩壊とその後 1938 年 3 月 ,ショータン内閣(第 4 次)が 総辞職し ,ふたたび組閣を依頼されたレオン・ ブルムは,国際的危機の高まりに対処するため に挙国一致内閣の組閣を呼びかけ,まず共産党 に入閣を要請して,その原則的受諾の保証をえ たあと,右翼を含む各政党の代表を自宅に招い て,かれの呼びかけに同意できるか否かを尋ね た。フランス社会党(PSF)も招かれ ,同党か らはジャン・イバルネギャレーに代わってフェ ルナン・ロッブが出席した。 各政党の代表を自宅に招く数時間まえ,レオ ン・ブルムは,国際情勢の深刻化のため,社会 党主導下の「国民連合」内閣をつくらねばなら ないことを説得しようとして集めた社会党全国 評議会で ,「ひとつの例外を除いて ,すなわち 共和制の諸制度を倒そうと共謀している人物た ちを除いて ,万人に呼びかけるべきときがき た」と発言している。ブルムがフランス社会党 (PSF)をかれの構想する挙国一致内閣の一員 として招いたことは,すくなくとも,かれが同 党を共和制の擁護者とみなし,共和制打倒をも くろむ勢力と考えてはいなかったことを示すも のであろう111)。 ド・ラ・ロックは ,1938 年 3 月 11 日付の大 統領宛て公開書簡のなかで ,「国家の安全のた め挙国一致の行動」を要請し ,「そのような内 † 大阪大学名誉教授

111) J. Nobécourt, op. cit., p.650; 竹岡前掲書 , p.892.

閣からは,外国勢力の支配下にある内乱の扇動 者たちだけは排除しなければならないと訴えて いる112)が ,かれのいう外国勢力に従属する内 乱の扇動者とは,共産党のことだったのであろ う。また,イバルネギャレーは,レオン・ブル ムの挙国一致内閣のイニシャティヴにたいし て,そのような内閣は,ポワンカレやドゥメル グのような ,「真のフランス人で愛国者」の , 右翼傾向の政治家のみによって構成されなけれ ばならないと批判している113) 。 挙国一致内閣の構想が野党議員たちの反対に 遭って失敗したので ,やむなくブルムは 1936 年と同じく社会党主導の人民戦線内閣を組閣し た。この第 2 次レオン・ブルム内閣はわずか 数週間しか続かなかったが ,この期間をつう じて ,フランス社会党(PSF)はレオン・ブル ムを痛罵しつづけた。アルジェリア支部では , 同党の演説家が新しい「ユダヤ人の社会党政府 はフランスを破滅に導くであろう」と予言し た114)。 しかし,まもなく人民戦線が,内部不和の結 果,頻死の苦しみのなかにあることがあきらか となった。社会党と共産党は多くの問題をめ ぐって意見が対立し,急進党はしだいにはっき

112) Archives Nationales, 451 fonds privés, correspondance

no.302bis; Le Petit Journal, 12 mars 1938; 竹岡上掲書 , p.850.

113) Archives départementales de la Loire-Atlantique, 1M 470,

préfet, 25 mai 1938.

114) Centre des Archives d’Outre-Mer, 1K75, police spéciale

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りと反共産党的態度をとるようになった。1938 年 4 月 6 日 ,レオン・ブルムは「国防の必要に 対処し,国の財政と経済を立て直すために,不 可欠と政府が判断する措置を政令によってとる ことができる」権限の政府への委任を要求する 法案を下院に提出したが,この財政金融・経済 再建法案の国会への上程はレオン・ブルム内閣 の果てしない断末魔の苦悶を終わらせた。急進 党議員グループは,社会党が 3 月にショータン に拒否した全権をブルムに認めないことを決定 し,政府への特別権限の委任を前提としたいか なる財政金融法案にも反対するとの態度をあき らかにしていた115)。下院の急進党議員の半数近 くが拒否した同法案は小差で可決されて下院を 通過したが ,上院では大差で否決され ,4 月 8 日 ,レオン・ブルム内閣は総辞職した116)。4 月 12 日には ,主要閣僚ポストを急進党の人民戦 線反対派が占め,ポール・レノーなど穏健右翼 の政治家が入閣した第 3 次ダラディエ内閣が成 立した。 この間 ,フランス社会党(PSF)では ,いく つかの地方支部で人民戦線との対決に走ろうと する動きがみられ ,たとえば ,1938 年 1 月に は,ニーム支部が左翼の平和集会を粉砕しよう とし ,機動憲兵隊の介入によってようやく激 しい衝突を避けることができた117)。他の支部で も ,フランス社会党(PSF)は人民戦線の砦で 同党の集会を組織しようとする戦術を続け,ソ ム県では ,1938 年 7 月 ,同党は共産党の支配 的な地域(コルビー)でバザーを開催しようと し,当局は,それを禁止したあとも,警官隊を 動員して,現場を見張り,集まってきた人びと を追い返さねばならなかった118)。人民戦線の内 115) L’Ere nouvelle, 30 mars 1938.

116) 竹岡前掲書 , pp.315-327.

117) Archives départementales du Gard, 1M 715, préfet, 27

jan-vier 1938.

118) Archives départementales de la Somme, 99M 165,

com-missaire spécial (Amiens), 29 juin 1938, rapport du capi-taine Holleville, 5 juillet 1938; Journal d’Amiens, 2 juillet 1938. 部分裂が深まるにつれて,しだいにフランス社 会党(PSF)と左翼支持者との衝突は減じていっ たが ,それに代えて ,フランス社会党(PSF) は人民戦線派を反駁するためと称して「討論集 会」を開催し,同党の演説家との討論に社会党 や共産党の演説家を招こうとした119)。 このような状況変化は,総辞職に追い込まれ た第 2 次レオン・ブルム内閣の後を継いで成立 したダラディエ内閣下での政府の政策の変化と 関連していた。とくに,他国への厳格な非介入 政策の一方で,フランスとイタリアとの関係強 化の意図をはっきりと表明したジョルジュ・ボ ネの外相就任の結果,フランス社会党(PSF)は, 「政府の政策全般に生じた変化を評価120)」して, 最初,ダラディエ内閣にたいする信任投票では 不信任票を投じず棄権することに決めていた。 しかし,イバルネギャレーとボネとの会談の結 果,同党の議員はダラディエ内閣に信任票を投 じた。ド・ラ・ロックはダラディエ内閣を「妥 協の内閣」と呼び ,「ダラディエ内閣はフラン スが奈落の底に落ちる速度を遅らせるにちがい ない。同内閣は立ち直りの序幕をつとめる良識 者になりえよう…この猶予期間を利用して,わ れわれは国民的和解のための建設的使命を追 求しなければならない121)」と主張した。こうし て,ダラディエ内閣は,共産党,社会党,急進 党など人民戦線派の支持だけでなく,ルイ・マ ランの共和派連盟,フランダンの民主同盟,フ ランス社会党(PSF)など ,右翼諸政党の支持 を受けて信任された。さらに,フランス社会党 (PSF)の議員は ,1938 年 6 月までの政令公布 権(全権)の新内閣への委任に賛成票を投じた。 このダラディエ内閣信任は ,フランス社会 党(PSF)の歴史にとって重要な瞬間であった。 1934 年 2 月 6 日 ,反ダラディエ内閣のデモを 119) Le Flambeau d’Indochine, 1 février 1939; PSF, Bulletin

d’informations, nos.68, 77-79, 100, 21 février, 29 juin, 7, 14 juillet 1938, 29 juin 1939.

120) Le Petit Journal, 13 avril 1938. 121) Le Petit Journal, 14 avril 1938.

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おこなった人びとが,いまや,ダラディエの率 いる新内閣を支持したのであり,火の十字架団 が街頭運動によってその意志を表明したのにた いして,その後継組織のフランス社会党(PSF) は議会ロビーの会話によって行動したのであ る122)。このような態度の変化を釈明して,ド・ ラ・ロックは「死に瀕している“人民戦線”に 死をもたらさねばならないと同時に,その生み の親であったもう一方の死者を支えるよう努力 しなければならない123)」とのべている。 1938 年 5 月 4 日 ,ダラディエ内閣が 3 度目 の平価切下げをしなければならなかった124)と き ,フランス社会党(PSF)は ,「ダラディエ 氏は痛ましい遺産を引き継いだのである。この 3 度目の平価切下げはブルム氏の仕業にほかな らないといえよう125)」と主張した。 ダラディエ内閣は,公共事業計画,商工業に たいする金融緩和措置,本国と植民地との関係 を強化する「帝国主義的」政策を定めた一連の 政令を公布し,また,社会政策では,残業の実 施を容易にして ,週 40 時間労働法の適用を緩 和した。ド・ラ・ロックは ,これらの政策を 「無数の傷口に巻かれた多数の包帯」と表現し た。かれにとっては ,根本的な治療法は「労働 の尊重と労働のさまざまな構成員のあいだの協 力126)」でなければならなかった。 フランス社会党(PSF)は ,こうして政府与 党の一員となったが,しかし,その議員数は下 院議員総数 618 人のうちわずか 8 人にすぎず , 議会における投票ではほんの補助的な役割しか 演じることができなかった。フランス社会党 (PSF)は ,その弱小な議会勢力のため ,強い 姿勢で政府や急進党と交渉することはできず , それができるには,同党が議会のなかで重要な 存在になることが必要であり ,そのためには , 122) Ph. Machefer, Le Parti social français, op. cit., p.312. 123) Le Petit Journal, 16 avril 1938.

124) 竹岡前掲書 , pp.199-239. 125) Le Petit Journal, 30 mai 1938. 126) Ibid. 国内におけるフランス社会党(PSF)の勢力の 大きさに比例した数の議員を同党にあたえるで あろう ,新しい選挙の実施を待たねばならず , 同党の関心は国会の解散問題に向けられた。 1938 年 4 月にドイツがオーストリアを併合 し,さらに同年 9 月には,チェコスロヴァキア 領ズデーテン地方の割譲を要求して,ナチスの 領土拡張政策が明白になったとき,フランス国 内では,ナチス・ドイツにいかに対処するかを めぐって議論がしだいに過熱していった。左翼 では,教義において反ファシズムであった共産 党は,ナチス・ドイツにたいして一貫して頑強 な敵意をもちつづけ,ドイツにたいする譲歩を 激しく非難して ,ソ連との協力を呼びかけた。 社会党は,書記長ポール・フォールに率いられ た ,平和維持の必要を強調する「平和主義」の グループと,党首レオン・ブルムによって代表 される ,ファシズムへの抵抗の必要を力説す る「反平和主義」のグループとに分裂していっ た127)。急進党内でも,右派の対独宥和派と左派 の対独強硬派とのあいだに明確な分裂がみられ た128)。右翼ナショナリストの陣営でも分裂はあ きらかであり,アンリ・ド・ケリリスのように, たとえソ連と協力してでも,対独強硬政策をと るべきだと主張する少数の人物がいた一方で , フランスの弱体な軍事力についての懸念から , また,戦争がマルクス主義の革命を助長するの ではないかとの恐れから ,「平和主義」の感情 が右翼全体に広がっていた。 オーストリアにたいするドイツの圧力が強 まった 1938 年初め ,とくにポール・クレセー ルなどフランス社会党(PSF)のメンバーのな かには ,ドイツ第 3 帝国の「領土拡張はある程 127) この時期の対独政策をめぐる社会党内のレオン・ブ ルム派とポール・フォール派との対立については , 加藤克夫「1930 年代後半のフランスの平和主義」『立 命 館 文 学 』 第 496・497・498 号 ,1986 年 , pp. 871 -908 ; 竹岡前掲書 , pp. 460 - 468 .

128) 竹岡上掲書 , pp.451-460, 470-507; Olivier Dard, Les

An-nées 30, Librairie Générale Française, Paris, 1999, pp.184-192.

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度はやむをえない129)」と主張する「宿命論者」 もいたが,しかし,同党の大部分の幹部たちは もっと強硬な意見を表明した。同年 2 月 25 日 には,ジャン・イバルネギャレーが,下院での 演説で対独強硬策を主張しながらも ,しかし , 最後は懐柔的な語調でスピーチを締めくくり , 「わたしはドイツにたいしては監視と強硬政策, オーストリアにたいしては支持政策 ,中欧に おいては現状維持政策 ,イタリアにたいして は,イギリス側にとどまりつつも,友好政策を とることに賛成し ,2 つの列強グループ間の対 立を緩和し,平和を救うための政策に賛成しま す130)」とのべた。イバルネギャレーは,このよ うにのべることによって,ソ連との協力の可能 性を排除し,たとえ,いまではムッソリーニが ヒトラーと緊密な協力関係にあるとしても,ド イツを牽制するために 1935 年 4 月にイギリス, フランス ,イタリアによって形成されたスト レーザ戦線が復活されることを願ったのであっ た。 ド・ラ・ロックは ,『ル・プティ・ジュルナ ル』紙上で,このイバルネギャレーの演説を支 持し,フランスの国力が回復するまでは,ドイ ツとのいかなる永続的な協定も可能ではないと 主張した131)。さらに,ドイツのオーストリア併 合後には,ド・ラ・ロックはレオン・ブルムを 1919 年以来のフランスの外交をやりそこなっ た多くの政治家たちの「立派な後継者」と呼ん で叱責し ,フランス共産党に支持され ,ヨー ロッパ諸国を破壊して共産主義化に追いやる戦 争を促進しようとしている,スターリン統治下 のソ連との同盟に反対し,イタリアとの関係を 改善すべきであると主張した132)。そして,かれ は,ソ連との協力とドイツにたいする抵抗を呼 びかけるフランス共産党を,革命の前提条件を 129) Archives Nationales, 3W 198, dossier sur Paul Creyssel,

29 juin 1946.

130) Cit. by Ch. Micaud, op. cit., p.139. 131) Le Petit Journal, 27 février 1938. 132) Le Petit Journal, 20 mars 1938.

つくり出すために戦争を望んでいるのだと非難 しつづけた133)。 1938 年 7 月 24 日 ,フランシュ・コンテで開 催されたフランス社会党(PSF)大会では,ド・ ラ・ロックは,ズデーテン問題に関連して,「い かなる代価を払ってでも戦争することを望んで いる連中がいる。それはモスクワのやからであ り,インターナショナルの徒党である。チェコ スロヴァキアのズデーテンでは,スターリンの 子分たちが戦争を急がせるためにナチスに投票 したのである」と主張した。しかし,国内には, まだ戦争は避けられるという楽天的ムードが続 いていたのであり ,8 月中頃には ,フランス社 会党(PSF)はダラディエ ,ヒトラー ,ムッソ リーニにたいして塹壕精神,在郷軍人の連帯精 神を失わないよう呼びかけたのである134)。 ドイツがチェコスロヴァキアにズデーテン地 方を割譲させようと圧力を強めたのにたいし て,イギリスもフランスも,ドイツのズデーテ ン地方強奪を防ぐためには戦争も辞さないとい う気はなかった。この 1938 年夏から初秋の時 期をつうじて ,フランス社会党(PSF)はダラ ディエ内閣の宥和政策を支持し,ド・ラ・ロッ クは,フランスがドイツと対抗するには,その 軍事力と精神的なまとまりを築き上げることが 必要であり,人民戦線によってフランスが受け た深い傷がまだ癒えていないと強調した135) 。 首相ダラディエは最初は対独強硬政策の支持 者であったが ,1936 年以来 ,陸相 ,国防相の 任にあってフランスの弱体な軍事力をよく自覚 していたため,首相就任後は,対独宥和を図る と同時に国防の強化を決意した。かれは,急進 党の反人民戦線派が支配的なかれの内閣に社会 主義共和派連合の 2 人の議員フロサール(公共 事業相)とラマディエ(労相)を入閣させて , 首相就任時はなお,人民戦線派の議員たちの支

133) Le Petit Journal, 26 mai, 8 juillet 1938.

134) Ph. Machefer, Le Parti social français, op. cit., p.314. 135) S. Kennedy, op. cit., p.184.

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持を期待していた。しかし,あいかわらず冶金 業,自動車工業では工場占拠のストライキが頻 発し,レオン・ブルム内閣によって導入された 週 40 時間労働法の例外措置を国防産業におい て認めさせようとしたにもかかわらず,金属労 組がこれを拒否し,各地における超過勤務への 労働者の抵抗によって経済回復が阻害されつづ けるという状況のなかで ,1938 年 8 月 ,超過 勤務手当ての額をめぐって雇い主と対立したマ ルセイユの港湾労働者がストライキにはいり , 生鮮食料品の荷揚げを拒否し,さらに争議は地 中海の他の港に拡大して事態が深刻化した。ダ ラディエが新しい政治的選択をおこなったの は,このような緊迫した社会的雰囲気のなかに おいてであった。 1938 年 8 月 21 日 ,ダラディエはラジオ演説 をおこない,そのなかで,かれは,差し迫った 国際的危機を考えれば,フランス経済がきわめ て深刻な状態にあり,ナチス・ドイツの脅威に たいしては,軍事的手段で対応するだけでは十 分ではなく ,フランスの独立と自由は工場で の日々の努力にかかっているのであり ,「ヨー ロッパの一般情勢と国家的緊急事のために」週 40 時間労働法の修正が必要であると訴え ,と りわけ兵器生産のために ,「フランスを労働に 戻さなくてはなりません」と締めくくった。生 産活動にたいする障害となっていた労働組合の 圧力を取り除き,軍需産業と経済の活性化措置 の負担を労働者にだけ負わせようとしたこの演 説は,人民戦線与党を構成していた左翼諸党と の同盟の破棄をもたらし,社会主義共和派連合 に属する 2 人の閣僚の辞職を引き起こした136)。 さらに ,1938 年 11 月 1 日には ,法相として入 閣していた保守派のポール・レノーが ,ポー ル・マルシャンドー(急進党)と交代して財務 相のポストを引き継ぎ,新しい経済政策へ舵を 切り ,週 40 時間労働法の事実上の廃止にも等 136) 竹岡前掲書 , pp.333-337, 417-427. しい修正に踏み切ることになるのであり,1938 年夏以降,ダラディエ内閣は,フランスの安全 を願って ,はっきりと右へ移動したのであっ た。 ダラディエのラジオ演説にたいして,フラン ス社会党(PSF)は,『ル・プティ・ジュルナル』 紙上で,同党の考えが首相のそれと一致したこ とを喜び ,とくに ,「フランスを労働に戻さな くてはなりません」というダラディエが使用し た表現を賞賛し ,ド・ラ・ロックは ,「国民的 必要の名においても,また,ヨーロッパの一般 的情勢という理由からも ,なによりもまず週 40 時間労働法を修正しなければならない」と 主張し ,「首相が話したことはすべて ,1936 年 末に公表したフランス社会党(PSF)の政策綱 領のなかに含まれている137)」とのべた。さらに, ラジオ演説のなかの週 40 時間労働法にかんす るダラディエの発言に抗議して ,2 人の閣僚 , 社会主義共和派連合のラマディエとフロサール が辞任したとき,ド・ラ・ロックはかれらを「民 衆の意識の変化を無視した,時代錯誤の保守主 義者138)」と呼んだ。 これにたいして,ダラディエは,急進党執行 部にかれの演説の意義を説明するなかで ,フ ランス社会党(PSF)から寄せられた賛辞にた いして苦情を呈した。ド・ラ・ロックは ,「わ れわれはダラディエに祝意を表したのではな い。われわれ自身を祝ったのである。なぜな ら ,1930 年以来,まず火の十字架団,ついで , その思想を受け継いだフランス社会党(PSF) は,つねに人間の進歩を求めてきたからである …われわれ以前に,フランス国民に和解とそれ と緊密に結びついた社会進歩を説いてきたもの があろうか139)」と,これに応酬した。和解と国 民的再生のための団結,それがフランス社会党 (PSF)の綱領であった。

137) Le Petit Journal, 23 août 1938. 138) Le Petit Journal, 25 août 1938. 139) Le Petit Journal, 30 août 1938.

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1938 年 9 月 ,チェコスロヴァキア危機が深 刻化して国際情勢が一気に緊迫化したとき , ド・ラ・ロックは ,9 月 11 日の『ル・プティ・ ジュルナル』紙上で「大ドイツの勇敢な兵士た ち」に話しかけ,先の大戦でフランス軍がマル ヌの戦いでかれらの前進を停止させたことを忘 れないように勧告した。同じ号の論説では,か れはまたもや共産主義の幽霊を呼び出し,ムッ ソリーニとヒトラーに,もし戦争が起こったな らば,利益をえるのはスターリンだけだろうと のべ ,「それでも ,あなたたちは ,われわれの 古い大陸を戦争で荒廃させ ,それをボルシェ ヴィキの暴動に蹂躙させるつもりなのだろう か140)」と警告した。また ,政府にたいしては , ド・ラ・ロックは,ダラディエ内閣成立時,下 院でフランス社会党(PSF)の議員が信任票を 投じて同内閣を支持したのは,ダラディエが「2 つの有害分子,ブルムと共産党のヘゲモニーを 取り除いてくれたからである。同様にして,今 日,われわれはダラディエ内閣の外交政策を支 持する。それが一部のずる賢い策略家たちの好 戦論と同時に少数の成り上がり者たちの敗北主 義にも反対している,とわたしにはおもわれる からである141)」とのべている。 1938 年 9 月 30 日 ,ズデーテン地方のドイツ への割譲問題を協議するために ,英仏独伊の 4 国首脳がミュンヘンに集まっておこなわれた会 談では,ダラディエは,イギリス首相チェンバ レンに追随して,事実上,チェコスロヴァキア を見捨て,ドイツへのズデーテン地方割譲を認 める協定に調印した。その前日の 9 月 29 日に, ド・ラ・ロックは ,ダラディエの「明晰な愛国 心」への信頼を表明していたが,9 月 30 日には, 「わが国民とその軍隊の尊厳 ,冷静沈着 ,忍耐 力こそが満足すべき協定に必要不可欠な保証の ひとつである」とのべている142)。

140) Le Petit Journal, 11 septembre 1938. 141) Le Petit Journal, 18 septembre 1938. 142) Le Petit Journal, 29, 30 septembre 1938.

ミュンヘン協定は,共産党と社会党の一部や 保守派の対独強硬論の議員を除く下院多数派に よって承認された。フランス社会党(PSF)も, フランス国内の分裂状態を考えれば,チェコス ロヴァキアに屈服を強いたのは「現実主義的な」 政策であると主張し ,ミュンヘン協定に反対 する一部の右翼政治家たちを「戦争挑発人」と 呼んで非難した143)。フランス社会党(PSF)は, ミュンヘンから帰国するダラディエを ,パリ 9 区ラフィット街の『ル・プティ・ジュルナル』 紙発行所の建物を満艦飾の旗で飾って歓迎し た。10 月 2 日,ド・ラ・ロックは,ヒトラーの 「後退」の原因をダラディエの「精力的な態度」 に帰し144),フランス社会党(PSF)の下院議員 たちはこぞってミュンヘン協定を承認した。10 月 4 日,ダラディエ内閣にたいする全権委任更 新の投票にさいしては,フランス社会党(PSF) は賛成票を投じたが,それは同党の方向転換を 追認するものであった。 しかし,それは条件つきの行動であった。フ ランス社会党(PSF)下院議員のペベリエは「わ れわれは政府への全権委任に賛成した。そうす ることがわれわれの責務だとおもわれたからで ある。しかし,われわれはいやいやそうしたの である。われわれフランス社会党(PSF)議員 は,その任務を自分自身で果たしたいと願って いる。だれにたいしてであれ,権力を委任する などということは,われわれの良識に反してい る…ダラディエが労働を奨励し,階級闘争を非 難したので,われわれは条件つきでそうしたの である145) 」とのべている。 ミュンヘン会談をめぐる以上のようなド・ ラ・ロックの言動から ,世論はかれをミュン ヘン協定に賛成する「ミュンヘン派」で「平和 主義者」として分類したが ,しかし ,ド・ラ・

143) Archives Nationales, 451AP 107, documentation des

pro-pagandistes-le problème tchéchoslovaque, 1 octobre 1938.

144) Le Petit Journal, 2 octobre 1938. 145) Le Petit Journal, 14 octobre 1938.

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ロックはいかなる代価を払っても平和を擁護し ようとする絶対的な平和主義者ではなかった。 1938 年 10 月 19 日,パリのスポーツ・センター で開かれたフランス社会党(PSF)の夏休み明 けの大会で,ド・ラ・ロックは,ミュンヘン協 定承認の理由を説明して ,「戦争は一時延期さ れました。ダラディエ氏は…わが国の師団の装 備の欠陥のために,わが国の空軍の危機的状況 のために,わが国の生産が不十分なために,そ して ,わが国の産業動員が遅れているために , 差し迫った緊急の努力が必要であることをよく 知っているのです146)」とのべ,ミュンヘン協定 によって一時的な猶予がえられたにすぎないの だという主張を展開した。また,右翼や中道派 の平和主義が ,反共産主義は反ナチズムに勝 り ,ヒトラーは反スターリンの砦であるとい う共通の確信にもとづいていたのにたいして , ド・ラ・ロックはこのような主張をおこなった ことはなかった147) 。 このように,戦争が避けられたことで,フラ ンス社会党(PSF)は ,フランスの多くの政党 と同様に安堵はしたが,しかし,ド・ラ・ロッ クは「このまま眠ったままでいることは許せな い」として,フランスは軍備増強を続け,政治 的な一致団結を実現しなければならず ,また , 頼りにできる同盟国をもたなければならない と主張した148) 。1938 年の経過中,フランス社会 党(PSF)は ,イギリスとの協力の必要をしだ いに強く主張するようになった。同党内にはイ ギリス嫌いの強い傾向が存在していたが ,ド・ ラ・ロックは仏英連帯の重要性を強調した149) 。 これとは対照的に,ファシスト・イタリアと同 盟するという考えに熱中していた大多数のフラ ンス社会党(PSF)のメンバーは ,ムッソリー ニがヒトラーと緊密な提携を続けていることに 146) Cit. par Ph. Machefer, Le Parti social français, op. cit.,

p.315.

147) 竹岡前掲書 , pp.853-854.

148) Le Petit Journal, 30 septembre 1938.

149) Samedi, 12 février 1938; Le Petit Journal, 19 juillet 1938.

落胆した。さらに ,1939 年 3 月 ,ムッソリー ニがフランスの植民地領土の一部を獲得しよう と騒ぎ立てたあとでは,イタリアは,すくなく とも短期的には,フランスの潜在的な友好国と はみなしえないことが明白になった。ド・ラ・ ロックも,イタリアがフランスの敵になるとい う予想に心を痛めた150) 。 一方,ミュンヘン協定は人民戦線の分裂を早 める触媒となった。共産党は,ミュンヘン協定 に調印したダラディエを激しく攻撃し,10 月 4 日のダラディエ内閣にたいする全権委任更新の 投票では,反対票を投じて与党を見捨てた。最 初 ,反対することに決めていた社会党は結局 , 投票を棄権した。ミュンヘン会談以後明白に なった急進党と共産党との対立が,人民戦線解 消のプレリュードであった。10 月 12 日 ,急進 党執行部は共産党との関係断絶を公式に認める コミュニケを発表した151)。 1938 年 10 月末にマルセイユで開催された急 進党大会の主要な議題は,ミュンヘン協定の承 認と人民連合解消の確認であったが,多数の代 議員が共産党を激しく攻撃するスピーチをおこ ない,それ以前の大会とはちがって,イニシャ ティヴを握り,勝利したのは右派であった。そ の数日後の 11 月 10 日に招集された人民連合全 国委員会で,急進党代表は,マルセイユ大会の 決定に従い,今後,急進党員は共産党員と同じ テーブルにつくことを拒否し,したがって,人 民連合の討議にも参加しないと正式に宣言し た152)。さらに 11 月 13 日,政府は,ポール・レ ノーを中心に作成された ,週 40 時間労働法を 根本的に修正する一連の政令を公布し,それに 抗議して 11 月 30 日に決行された労働総同盟

150) Le Petit Journal, 25 mars 1939. 151) L’Ere nouvelle, 13 octobre 1938.

152) G. Lefranc, op. cit., pp.278-279; Serge Berstein, Histoire

du parti radical, II Crise du radicalisme, 1926-1939, Presses de la Fondation Nationale des Sciences Politiques, Paris, 1982, p.558.

(9)

(CGT)のゼネストに苛酷な弾圧を加えた153)。 1938 年 12 月 ,フランスはドイツとのあいだ で,両国の「平和で良好な善隣関係」をめざし, 両国間の現行の国境を固定的で最終的なものと 認めた仏独協定を締結した154)。しかしながら , ファシスト・イタリアが地中海地域のフランス の領土にたいする権利を主張して,その返還を 要求し,ナチス・ドイツが,ミュンヘン協定締 結後まもなく,ポーランドにたいしてダンツィ ヒの返還を要求し,1939 年 3 月 15 日には,ミュ ンヘン協定を破って,軍隊をチェコスロヴァキ アの首都プラハに侵攻させ ,ボヘミアとモラ ヴィアを保護領としたので,ダラディエは態度 を硬化させねばならなかった。かれは,3 月 29 日,ラジオをつうじ,ムッソリーニに向かって, フランスの領土の 1 アルパンたりとも譲るつも りはないと宣言し ,5 月 19 日 ,イギリスにな らって,ポーランドとのあいだで軍事議定書に 調印した。 ドイツ軍がミュンヘン協定を破ってボヘミア とモラヴィアを占領したとき ,フランス社会 党(PSF)も ,ナチス・ドイツにたいする態度 を硬化させた。このような同党の態度の変化 は,いまや議論の余地なく明白になった人民戦 線の崩壊によっても促進されたとおもわれる。 というのは ,フランスの左翼がその勢力を失 い,戦争が革命を誘発するという右翼の抱いて いた恐れが遠のいていくにつれて,フランス社 会党(PSF)のメンバーはこれまでより「好戦 的」になることができたからである155)。ドイツ がポーランドにたいしてダンツィヒ返還を迫っ たとき,ド・ラ・ロックは,ドイツの圧力に抵 抗するために,ポーランドを支援する必要を強 調し156),1939 年の夏中,フランスは戦争勃発に そなえるべきだと繰り返し主張した。7 月 15 日 153) 竹岡前掲書 , pp.349-358. 154) 竹岡上掲書 , pp.528-529, 573. 155) S. Kennedy, op. cit., p.185. 156) La Flamme, 31 mars 1939. には ,かれは『ル・プティ・ジュルナル』紙の 読者に向かって ,「わが国民は…いつでも武器 をとる用意ができている。どこかの人びと,ど こかの国の狂気がわれわれにそれを強いるなら ば157)」とのべ ,8 月 2 日には ,フランスは「そ の土壌と肉体に先の戦争の深い傷跡を残しては いるが,殺戮の潜在的な現実性についてなんら の幻想もいだいてはいない158)」と主張した。 ド・ラ・ロックは,ムッソリーニとヒトラー の国家主義的独裁を批判する一方で,ソ連にた いしても強い懸念を抱きつづけ ,1939 年 1 月 には ,「ベルリンとモスクワは一緒になって世 界の秩序とフランスの威信を破壊しようとする かもしれない159)」と警告した。同年春には,イ ギリスとフランスの両国政府は,ヒトラーの野 望を阻止するため,ソ連と軍事同盟を結ぼうと して交渉を始めたが,ド・ラ・ロックはその意 見を変えようとはしなかった。英仏とソ連との 交渉はなかなか進展をみなかったが,フランス の主要な政治家たちは,最後の瞬間まで,ナチ ズムの潜在的な敵国である英仏ソ 3 国のあいだ の同盟が近いと信じていた。しかし,結局,対 ソ交渉は失敗に終わり ,8 月 23 日 ,突如 ,独 ソ不可侵条約の締結が発表された。このニュー スは世界の耳目を驚かせたが,ド・ラ・ロック はむしろ安堵した。かれは「キリスト教的伝統 の公然たる敵の手中にあるアジアの帝国,ロシ アは文明とは正反対のものである160)」とのべ , この独ソ条約をずっとまえから予知していたと 主張して ,キリスト教文明と野蛮 ,異教信奉 , 唯物論とのあいだの戦いがついに始まったのだ と断定した161)。 このように ,ドイツにたいする態度を 1938 年の宥和的姿勢から 1939 年には挑戦的姿勢へ と変えたのは,フランスの右翼のなかではフラ 157) Le Petit Journal, 15 juillet 1939.

158) Le Petit Journal, 2 août 1939. 159) Le Petit Journal, 5 janvier 1939. 160) Le Petit Journal, 30 juillet 1939. 161) Le Petit Journal, 28 août 1939.

(10)

ンス社会党(PSF)だけであった。同党は ,ド イツの中欧支配をしだいに黙認するようになっ ていたフランスの他の右翼政党よりドイツにた いしてもっと断固としたスタンスをとったので あり,ド・ラ・ロックは,ミュンヘン会談後ヒ トラーを含む 4 国首脳に宛てて平和が守られた ことに感謝する祝電を打った ,元首相ピエー ル・エティエンヌ・フランダン(民主同盟委員 長)ときっぱり関係を絶った162)。 さらに ,国際情勢が悪化していくなかで , ド・ラ・ロックは,フランスの政治と社会の根 本的変化を要求しつづけ ,「不可能な国の再生 を企てることなく,また,いかなる馬鹿げた冒 険にも着手することなく,新しいエリートをた ゆみなく養成し,国民への奉仕の観点から既存 のエリートをたえず評価することをつうじて , 国家の改革を準備しようではないか163)」と国民 に呼びかけた。ド・ラ・ロックのこれらの言 葉は ,「不可能な国の再生」や「馬鹿げた冒険」 を否定することによって,王政の復活や政治的 クーデターを排除していたのであったが,しか し,それは新しい方向に向かってのフランス社 会の改革を主張するものであった。それでは , かれがめざしていたのは,どのようなフランス であったろうか。カトリック精神に導かれた , 権威主張を拒まないフランスなのであろうか。 たしかに ,フランス社会党(PSF)の指導者 やその機関紙の執筆者たちは,さまざまな,し かし,いずれも権威主義と称される同類の体制 をとっていたいくつかの国に興味を引かれてい た。たとえば,ポール・クレセールは,ナチス・ ドイツによって併合される以前のオーストリ アを訪問し ,その聖職的権威主義の「きわめて 柔軟な規律」を賞賛している164)。『ル・プティ・ ジュルナル』紙の寄稿家であったオクターヴ・

162) Centre des Archives d’Outre-Mer, Oran 70, commissaire

divisionnaire (Oran), 4 novembre 1938.

163) Le Petit Journal, 5 février 1939. 164) Le Petit Journal, 31 août 1939.

オーブリーはポルトガルのアントニオ・サラ ザール政権下の体制の賞賛者であり ,かれは , サラザールを,キリスト教的で人道的な協調の 伝統を守り,ムッソリーニやヒトラー支配下に みられるような民衆扇動,偶像崇拝,個人的非 道行為を避けつつ,国民的刷新の過程を進行さ せている人物として描いている。ド・ラ・ロッ クもまた,サラザールの事業に関心を寄せてい た165)。 スペイン内戦中,フランシスコ・フランコが 率いる反乱軍を支持していたフランス社会党 (PSF)が ,フランコによって確立された新し い体制を歓迎したのは意外ではない。フランコ の勝利後まもないスペインへの旅行から帰国し たフランス社会党(PSF)下院議員スタニスラ ス・ドヴォーは ,「カトリックの信仰によって あらたな生命を吹き込まれたナショナリスト・ スペインの急速な環況改善」への希望をつよく 表明し,ド・ラ・ロックも,ダラディエ内閣に, できるだけ速くフランコ政権との政治的,経済 的友好関係を実現するよう促している166)。 しかし,同時に,フランス社会党(PSF)は, 立法議会の選挙を 1942 年まで延期したダラ ディエ内閣を攻撃し ,同内閣が「フランス精神 とは相容れない独裁的方法」を使用し,民主主 義を裏切ったとつよく非難した167)。 戦争の危機が高まるなか,権威確立の必要が 緊急の課題となっていた 1939 年のフランスの 政治・社会構造に対応してであったが ,共和 主義的独裁を体現する役目を引き受けたのは , ダラディエであった168) 。大戦勃発前夜のこの時 期,ダラディエは,頻繁に議会に可決させた(法 律並みの効力をもつ)政令公布権 ― 全権 ―  165) Le Petit Journal, 10 février, 13 août 1939; Philippe

Bu-deau, Le Croix de Feu et le P.S.F., Editions France-Empire, Paris, 1967, p.113.

166) Centre des Archives d’Outre-Mer, B3 635, commissaire de

police (Saint-Arnaud), 19 avril 1939; Le Petit Journal, 18 juin 1939.

167) Le Petit Journal, 22 juillet 1939.

(11)

を使用することによって,しだいに独裁的傾向 を強めていった。こうして,第 2 次世界大戦勃 発に先立つ 1 か年半のあいだ,フランスの国会 はその立法権のほとんどを政府に引き渡したの であった。 その状況をフランス社会党(PSF)政治局長 エドモン・バラシャンが ,1939 年 5 月 17 日の 『ル・プティ・ジュルナル』紙で ,つぎのよう に書いて批判している。「フランスの国会の現 在の危機に疑義を差し挟むものはいないであろ う。議会機構が錆びつき,是が非でも修繕が必 要なことは ,だれでも知っている事実である。 けれども,政府もどの党も事態を改善しようと するつもりはまったくない。後世に編まれる歴 史には,現代は,わが国の民主主義体制がヴァ カンスで議員が不在のときしか機能しない時代 であったと語られることだろう。実際,国会に はもはや今日たったひとつの使用価値しかない ようである ,国会から取り上げられた全権を 内閣に委任するという使用価値しか。ド・ラ・ ロック中佐とその党がファシズムに似たこのよ うな方法に断固抗議しているにもかかわらず , 急進党の委員長で,共和制の諸制度の擁護者を 自任しているダラディエ氏が紛れもない独裁的 権力を行使しているのは,まったく奇妙なこと ではないだろうか。フランス社会党(PSF)は 政府への全権委任に反対である169) 。」 このように ,フランス社会党(PSF)は ,フ ランスには受け入れがたい「独裁的方法」170)を 使用して立法議会の選挙を 1942 年まで延期し, 民主主義を裏切ったダラディエ内閣を反独裁 , 共和制,民主主義の名において攻撃したのであ る171)。

169) Le Petit Journal, 17 mai 1939; 竹岡前掲書 , p.861. 170) Le Petit Journal, 22 juillet 1939, 注 167)参照 .

171) ショーン・ケネディは ,フランス社会党(PSF)の 指導者たちが外国の権威主義体制に寄せた強い関心 を考えるならば ,このダラディエへの抗議が心底か らの民主主義的信念にもとづいておこなわれたと 考えるのはむずかしく ,むしろ民主主義の理念を 戦術的に使用したものであろうと主張している(S. フランス社会党(PSF)は,1938 年 4 月,ダ ラディエ内閣の成立にさいして信任票を投じた が,しかし,それは新内閣にたいする全面的支 持を意味していたわけではなかった。ド・ラ・ ロックは同月の『ル・プティ・ジュルナル』紙 上で新内閣の政策にたいする期待を表明して いるが ,しかし ,同時に ,かれは ,長期的に は,ダラディエ内閣が国民的再生のための一貫 した政策を展開することはできないであろうと のべ ,「国の再生はまだはるかに遠く ,精神的 風土が国民的和解という社会深部の発展によっ て変化させられてはじめて可能になるものであ り,その道を示すことがフランス社会党(PSF) に課せられた仕事である172)」と書いている。 1938 年秋まで,フランス社会党(PSF)は政 府の新しい経済政策や外交政策を支持したが , 同時に,同党にそれが値するだけの議席数をあ たえるであろう新しい選挙の実施を要求しつづ けた。ド・ラ・ロックは,国内の選挙区におけ るフランス社会党(PSF)の勢力の大きさに「比 例する」正当な場所を立法議会と県議会のなか で同党にあたえられることを要求し173),エドモ ン・バラシャンは ,1938 年 10 月 21 日の『ル・ プティ・ジュルナル』紙上で ,「議会制の断固 とした支持者であるわれわれは,国会解散の可 能性にたいする大多数の議員たちの現在の態度 に吐き気を覚えている」と書き,早期の国会解 散と比例代表制選挙制度の採用を要求した174)。 そして,比例代表制を採用した選挙では,フラ ンス社会党(PSF)は下院で 130 から 140 の議 席を獲得するであろうとの見通しが党の集会等 で語られ ,党員たちの希望をふくらませた175)。 『ル・プティ・ジュルナル』紙は ,10 月 23 日

Kennedy, op. cit., pp.187-188)が,その解釈は「民主主 義」の定義如何によるであろう。

172) Le Petit Journal, 11, 13, 17 avril 1938; Ph. Machefer, Le

Parti social français, op. cit., pp.310-313.

173) Ph. Machefer, ibid., p.313. 174) Le Petit Journal, 21 octobre 1938.

175) Archives départementales de la Loire-Atlantique, 1M 470,

(12)

号の一面の告示欄で国会解散問題をふたたびと りあげ,人民戦線に政権をあたえた現在の国会 はもはや世論を反映せず,国民が意見を変えた 以上 ,議員も変えるべきであり ,「1936 年の国 会でもって 1940 年の国会の政策をおこなうの は,反民主主義的である176)」と主張した。 しかし ,1938 年 10 月末にマルセイユで開か れた急進党大会が国会解散問題を回避したた め ,フランス社会党(PSF)と急進党との関係 は緊張した。マンシュ県キャランタンの支部集 会で,ド・ラ・ロックは,「現行の体制のもと, 人民戦線内閣として組閣された現内閣は,長期 の困難な計画を立てるのに不可欠なまとまりに 欠けています177)」とのべ,ダラディエ内閣の閣 僚たちのあいだでフランス再建に必要な結束が みられないため,同内閣が公布しようとしてい る大量の政令を ― たとえ,それらがこれまで よりすぐれたものであったとしても ― 拒否し なければならないと言明した。ダラディエはさ んざん罵倒され ,「ミュンヘンから帰国したと きには熱烈に歓迎され ,マルセイユでは 3 , 000 人の崇拝者に迎えられたが,いまや固定観念に とらわれた哀れな男になりさがった178) 」と『ル・ プティ・ジュルナル』紙はかれをこきおろした。 フランス社会党(PSF)のこのような強硬な 態度を可能にしたのは ,1938 年 10 − 11 月の パリ 9 区の下院議員補欠選挙 ― それは,1936 年以来,首都でおこなわれた最初の国会議員選 挙であった ― に立候補した同党宣伝部長シャ ルル・ヴァランが対立候補である共産党,社会 党,他の右翼の候補者,とりわけ共和派連盟の 候補者をおさえて勝利を収めたという事実で あったろう。1938 年 12 月 4 日のパリ市会議員 選挙で ,フランス社会党(PSF)のレオポル・ マルシャンが急進党の候補者に勝って当選した ことも,同党の躍進を裏づけるものであった。

176) Le Petit Journal, 23 octobre 1938. 177) Le Petit Journal, 24 novembre 1938. 178) Le Petit Journal, 20 novembre 1938.

したがって ,1938 年 11 月初めの国会での演 説のなかで,ダラディエとポール・レノーが下 院議員の任期延長と予定通り選挙がおこなわれ ない可能性をほのめかしたとき,フランス社会 党(PSF)は激しく反発した179)。同党常任運営 委員会は ,「現在の立法議会任期を 2 年間延長 するという欺瞞的行為と,国を救うための社会 的愛国心の奮起の表明を遅らせ押さえ込もうと する正真正銘の犯罪行為にたいして,全国民に 警戒180)」を促し,バラシャンは,ダラディエの 行動は議会制にたいする「決定的な不信任」で あり ,「議会主義はいまや存亡の危機に瀕して いる。人民戦線の失敗は全面的である。その結 果がミュンヘン会談と一連の政令である。ミュ ンヘン会談直後に,ダラディエは国会を解散す べきであったろう181)」と主張した。 11 月 19 日には,フランス社会党(PSF)は, 広範な増税措置を決定し,公共事業予算を削減 し,物価統制を緩和して,自由主義的な経済政 策に戻ろうとしたポール・レノーの一連の政 令を攻撃し ,それらは貧困層の家族や小企業 の必要に答えていないと主張した182)。このよう に 1938 年秋の終わりごろには ,フランス社会 党(PSF)とダラディエ内閣との対立が強まっ たようにおもわれる一方で ,フランス社会党 (PSF)は ,週 40 時間労働法の修正に抗議して 労働総同盟(CGT)が呼びかけた 11 月 30 日の ゼネストの拒否を労働者に訴えた。そして,12 月 8 日と 9 日におこなわれた政府の政策全般に かんする国会審議では,フランス社会党(PSF) の議員たちは政府を支持した。フェルナン・ ロッブは ,戦争を遠ざけ ,11 月 30 日の政治ス トに毅然と対応した政府の態度を賞賛するため に政府を支持するのであると説明し,イバルネ ギャレーは,社会党と共産党がダラディエ内閣

179) Le Petit Journal, 12 novembre 1938. 180) Le Petit Journal, 15 novembre 1938. 181) Le Petit Journal, 16 novembre 1938. 182) Le Petit Journal, 19 novembre 1938.

(13)

を攻撃するのは ,「その政策がよいからだ」と いい ,「この 9 月には ,共産党は ,あらゆる手 段を使い,わが国を戦争に引きずり込んで農民 を虐殺しようとし,革命を引き起こして政権を 強奪しようとした」とのべて,「共産党の陰謀」 を激しく非難した183)。12 月 11 日から 18 日にか けて ,フランス社会党(PSF)は ,パリを除く フランスの北半分の地域で ,反マルクス主義 の大キャンペーンを起こし,集会を何度も開い て,共産党指導者たちを逮捕し,即刻,容赦な く罰するよう要求した。 12 月 22 日 ,フランス社会党(PSF)の下院 議員は ,11 月に公布された一連の政令の改定 の認否を問う投票では棄権し,ダラディエ内閣 はわずか 7 票差の過半数でようやく信任され た。このとき ,もしフランス社会党(PSF)が 反対にまわっていれば,ダラディエ内閣は信任 されなかったのである。その意味で同党の棄権 は政府を救ったのであり ,ダラディエ内閣に たいするフランス社会党(PSF)の態度は ,こ の時点では ,まだ曖昧さを残していたのであ る184)。 しかし,1939 年 1 月には,『ル・プティ・ジュ ルナル』紙の論調は硬化した。1 月 2 日には , 同紙は「ダラディエ内閣が続くか消滅するか , 議会が解散されるか否か,あるいは,ふたたび レオン・ブルム氏の化身が急進党内の共和主義 の多数派〔すなわち人民戦線派〕に支持された 内閣を出現させるかどうかは,もはや重要な問 題ではない。選挙制度の改革がおこなわれるの か ,どのように選挙制度が改革されるのかも , もはや重要な問題ではない。はたして,この民 主主義のまがい物がまだ長く民主主義として通 るのか,それがすべてである185)」と主張した。1 月 12 日には ,ド・ラ・ロックは ,ダラディエ

183) Le Petit Journal, 12 décembre 1938.

184) Ph. Machefer, Le Parti social français, op. cit., pp.318-319;

PSF, Bulletin d’informations, no.92, 16 janvier 1939.

185) Le Petit Journal, 2 janvier 1939.

内閣には一貫性がなく,同内閣を救国内閣と考 えることはもはやできないとのべ186),3 月 9 日 の『ル・プティ・ジュルナル』紙の論説では,「わ れわれがダラディエ氏を支持し,慎重な態度を とり,投票では反対にまわらず棄権をしたのは …もっと悪い事態が到来するのを恐れたからで あり,やむをえず」かれを支持したのであると 書き,その支持をいつまでも続けるわけにはい かないことをあきらかにした187)。 フランス社会党(PSF)執行委員会は ,1939 年 1 月 15 日 ,「人民戦線」という名の「マルク ス主義者の陰謀」から生まれ ,「愛国的政府に 安定した健全な与党を提供することのできな い」国会の構成に反対するよう国民に呼びかけ, すでに 1937 年のリヨンの大会で決定された選 挙政策にもとづいて ,同党は「きわめて少数の 例外を除いて」全選挙区に候補者を立てるつも りであると発表した188)。いまや,国会内の「カー ド」を配り直すことが,フランス社会党(PSF) の最大の関心事であった。 早期の選挙実施を望んで ,フランス社会党 (PSF)は国会の任期延長にことごとく反対し た。この問題にかんする政府への全権委任の可 否が審議されたとき ,1938 年秋のパリ 9 区の 下院議員補欠選挙で当選したシャルル・ヴァラ ンは ,「立法議会の任期延長が ,そのために利 益を受ける人びとによって決定され承認される ならば,それは正真正銘のスキャンダルになる であろう189)」と反対した。さらに,かれは,国 会の任期延長を「権力の恐るべき濫用だ」とい い ,「民主主義的自由をいままさに踏みつけよ うとしている人間が,民主主義的自由の強情で 思い上がった擁護者のように振る舞うべきでは ない。独裁者とは,あえてその名を口にしない 人間だ190) 」とのべて,ダラディエを批判した。 186) Le Petit Journal, 12 janvier 1939.

187) Le Petit Journal, 9 mars 1939. 188) Le Petit Journal, 15 janvier 1939. 189) Le Petit Journal, 11 mars 1939. 190) Le Petit Journal, 13 mai 1939.

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5.急進党との関係 フランス社会党(PSF)とダラディエ内閣と のさまざまに変化する関係と並行して,フラン ス社会党(PSF)の指導者たちと急進党保守派 とのあいだで多くの場合ひそかな接触がおこな われていた。その全容ははっきりしないが,エ ドモン・バラシャンの配下のひとりピエール・ ド・レオタールが,リュシアン・ラムールーそ の他の急進党の反人民戦線派と接触していたこ とが知られている191) 。また,既述のように,ダ ラディエ内閣成立時 ,フランス社会党(PSF) が新内閣の支持を決定したのも,議会ロビーで のイバルネギャレーと対独宥和派の外相ジョル ジュ・ボネとの会談後のことであった。 フランス社会党(PSF)は ,これらの急進党 との接触を,急進党の内部分裂を促進してその 土台を掘り崩し,その支持基盤のすくなくとも 一部を味方に引き入れようとする長期の戦術の ひとつとして意図していたのであろう。しか し,一方で,急進党との交渉開始はフランス社 会党(PSF)内で大きな関心を引くと同時に緊 張も引き起こした。 フランス社会党(PSF)が急進党との友好 関係を求めていることについてフランス社会 党(PSF)の支持者たちがどう考えているかを 尋ねた ,極右の週刊紙『ジュ・シュイ・パル トゥー』 ― 同紙はかならずしもフランス社会 党(PSF)に敵対的ではなかったが ,おそらく フランス社会党(PSF)が急進党と協力しよう とするのを思いとどまらせたかったのであろう  ― の調査の結果が ,その事実をあきらかに している192)。すなわち,フランス社会党(PSF) 191) J. Nobécourt, op. cit., p.648; G. Howlett, op. cit.,

pp.307-308.

192) Je suis partout, 15, 22, 29 juillet, 5, 12, 19, 26 août, 2

septembre 1938. 『ジュ・シュイ・パルトゥー』紙につい ては,Pierre-Marie Dioudonnat, Je suis partout 1930-1944. Les maurrassiens devant la tentation fasciste, Editions de La Table Ronde, Paris, 1973; 南祐三「ピエール・ガクソッ

トと極右週刊紙『ジュ・スイ・パルトゥ』の分岐点」『早 の党員たちのあるものが,急進党との協力に強 い熱意を表明して ,フランス社会党(PSF)は 選挙で比例代表制が採用されるまでは同盟する 政党が必要であり,同盟政党を探すことはフラ ンス社会党(PSF)がマルクス主義を打倒しよ うとするその希望を失うことを意味しないと強 調したのにたいして,あるものたちは,これと は反対に ,急進党をフランス社会党(PSF)の 最大の敵とみなして,急進党との協調に強力に 反対しているのである。また,たとえば,ラン ス支部のいくにんかのメンバーがダラディエ内 閣の政令改定承認を求める投票(1938 年 12 月 22 日)でフランス社会党(PSF)の下院議員た ちが棄権したのを非難したのにたいして,他の メンバーはフランス社会党(PSF)がダラディ エにたいして協調的すぎると考えていると,ラ ンス市の警察報告があきらかにしている193)。 1938 年末 ,ダラディエがイタリアの領土返 還要求をはっきりと拒否する強硬な調子の演説 キャンペーンを始め,北アフリカの領土におけ るフランスの「存在」を示すためにチュニジア を訪問したとき,かれは歓呼して迎えられ,フ ランス社会党(PSF)のチュニジア支部はその メンバーにたいしてダラディエ一行に合流する よう勧告した。ド・ラ・ロック自身もチュニジ ア訪問を決意し,首相によって喚起された愛国 心がチュニジアのフランス社会党(PSF)支部 のメンバーたちにいっそうの愛国的熱情を呼 び起こすよう希望した194)。しかしながら,その 稲田大学大学院文学研究科紀要』第 52 輯,2006 年度 , pp.41-48; 南祐三「国際情報紙から対独協力主義メディ アへ−パリの極右週刊紙『ジュ・スイ・パルトゥ』の誕 生とその展開−」『立正西洋史』第 25 号 , 2008 年 10 月, pp.37-58; 南祐三「ナショナリズム・ファシズム・コラ ボラシオン−フランス極右週刊紙『ジュ・スイ・パル トゥ』(1930 - 1944) のドイツ観−」『現代史研究』第 54 号 , pp.19 - 34 ; 南祐三「極右週刊紙『ジュ・スイ・パル トゥ』(1930 - 1944 年)の反ユダヤ主義」『ユダヤ・イ スラエル研究』第 23 号,2009 年,pp. 35 - 45 .

193) Archives départementales de la Marne, commissaire

divi-sionnaire (Reims), 20 janvier 1939; S. Kennedy, op. cit., p.162.

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2 か月後には ,ド・ラ・ロックはダラディエが かつて人民戦線を支持し,いまなお左翼にたい するその態度が曖昧なままであることを攻撃し た。それを受けて ,エドモン・バラシャンが , ダラディエ内閣はいま人気があるとはいえ,急 進党は衰退しつつあり ,やがて同党は分裂し , フランス社会党(PSF)に移ってくる反マルク ス主義の急進党員と社会党(SFIO)に走る左 派とに分解するであろうと予言した195)。このよ うにして,フランス社会党(PSF)は,ダラディ エをあるときは賞賛し,あるときは攻撃すると いう複雑な行動によって急進党との距離のバラ ンスをとりつづけたのである196)。 このような行動をとるかたわら,フランス社 会党(PSF)は急進党の指導的人物たちに両党 間の協力を提案しつづけた。1939 年 4 月には , ド・ラ・ロックはダラディエに 2 通の手紙を送 り ,「国内外の一般情勢が ,政府の長と愛国的 な大衆政党で合法的な共和派の政党であるフラ ンス社会党(PSF)の主たる指導者との会見を 必要としている」として,戦争になった場合の 空爆の脅威やその他一般的な問題について話し 合うための会談の実施を要求した。また,かれ は,公に,両党間の協力拡大の可能性を示唆し た。ド・ラ・ロックは,アミアン市のフランス 社会党(PSF)の党員たちに ,同党が「党派を 越えた国民的団結」を求めていることを教え , 1939 年 4 月 ,同市で開かれたフランス社会党 (PSF)の集会では ,ダラディエの愛国心を賞 賛した197)。 しかし,これらの努力も結局は徒労に終わっ た。ダラディエがド・ラ・ロックの手紙を無視 したのは明白であり,反人民戦線派の急進党員

de Tunisie, n.d., opinion des musulmans tunisiens sur le PSF, 12 janvier 1939.

195) Le Petit Journal, 16 février, 28 mars 1939. 196) S. Kennedy, op. cit., pp.162-163.

197) Archives départementales de la Somme, 99M 165,

com-missaire spécial, 17 avril 1939; François de La Rocque, Paix ou guerre? SEDA, Paris, 1939, p.3; S. Berstein, His-toire du parti radical, op. cit., II, p.584.

と緊密に連携しようとする努力も希望どおりの 結果をもたらさなかった。保守主義で知られた ヴァール県の急進党員ですら ,フランス社会 党(PSF)の代表を含む右翼政治家たちからの 選挙協力の申し出を拒否し ,フランス社会党 (PSF)と急進党右派の青年部メンバーとの接 触もほとんど実を結ばなかった198) 。 こうして ,1939 年夏までには ,フランス社 会党(PSF)と急進党との関係は急速に悪化し た。1939 年 6 月初め ,フランス社会党(PSF) 下院議員団は ,議員の任期を政令によって延 長しないよう政府に要請する決議案を提出し た199)。それにもかかわらず,7 月,政府が,国 際的緊張を理由に,国会(下院および上院)議 員の任期を延長し ,1940 年に予定されていた 選挙を 1942 年まで延期したとき,激怒したド・ ラ・ロックは ,国会の任期延長を「独裁的背 信行為」と呼び ,それによってダラディエが , 「フランス社会党(PSF)の成功を遅らせ」,左 翼連合への復帰を画策しているのだと非難し , 「国会を延長することによって ,ダラディエ氏 は,マルクス主義の影響下にある人民戦線政府 のリーダーになるつもりなのではないか」と抗 議した200)。 フランス社会党(PSF)の地方機関紙『モン セラン』は,このド・ラ・ロックの辛辣なダラ ディエ批判を支持し,同党のメンバーのなかで 急進党を寛大視しようとする者たちの「ひとり よがりな態度」を批判して ,「人民戦線は死ん だと君たちはいうのか。もしかすると,そうか もしれない。しかし ,それは生き返るだろう。 その灰のなかから生まれ変わるにちがいない。 それは ,モンソー・レ・ミーヌ〔ソーヌ・エ・ ロワール県の石炭業,冶金業,繊維産業の中心 地〕の共産党員のひとりがわれわれに語ったよ 198) S. Berstein, ibid., II, pp.472, 583-584; Ph. Machefer, Le

Parti social français, op. cit., pp.308-309; G. Howlett, op. cit., pp.307-308.

199) Le Petit Journal, 1er juin 1939. 200) Le Petit Journal, 28 juillet 1939.

(16)

うに,スターリンの意志である。君たちが眠っ ているあいだに,急進党が共犯者となって,人 民戦線は生き返るにちがいない201) 」と警告し た。ポール・レノーとともに,人民戦線に弔鐘 を鳴らし,その墓掘人をつとめたのはほかなら ぬダラディエであったが,人民戦線のトラウマ は容易に消え去ることはなかったのである。 このように ,フランス社会党(PSF)の戦略 家たちが急進党の支持者の一部を味方に引き入 れることができると信じたにもかかわらず,結 局は,急進党の支持基盤を侵食しようというか れらの努力は目にみえる成果をあげたようには おもわれない。しかしながら,フランス社会党 (PSF)が 1936 − 1937 年に他の右翼ナショナ リスト政党から疎外されたという事実を考えれ ば,同党の指導者たちが反人民戦線派の急進党 員の心を掴もうと努力したことは,戦術的には 一定の意味をもっていたと考えることができよ う。 6.選挙に向かって このように急進党への接近は思い通りの成果 を上げなかったが,他方で,他の極右団体や右 翼政党との関係をうまく調整することもまた容 易な仕事ではなかった。『アクシヨン・フラン セーズ』紙はフランス社会党(PSF)を倦むこ となく攻撃しつづけ,同党が政府と共謀し,ナ ショナリストのあいだの協力を破壊しようとし ていると非難した。共和派連盟,ピエール・テ タンジェの国民社会共和党,フランス人民党が 自由戦線の結成を通して活動を協調させたのに たいして,ド・ラ・ロックはなおもフランス社 会党(PSF)の独立性を主張し,1938 年 3 月には, あらためてジャック・ドリオから協力への提案 があったにもかかわらず,それを拒否した。フ ランス社会党(PSF)はフランス人民党よりは 201) Le PSF montcellin, juin 1939. るかに大きな政党となっていたが,アルジェリ アのオラン県やアルプ・マリティム県などの少 数の県では,ドリオの信奉者たちが強固に根を 張り,両党間の競争と葛藤が続いていて,フラ ンス人民党はフランス社会党(PSF)のセクト 主義を繰り返し非難した202)。 議会政党となったフランス社会党(PSF)に とって最大のライヴァルは下院で 60 近くの議 席をもっていた共和派連盟であり,当然,両党 間にはしばしば緊張した関係が生まれた。選挙 にさいしては ,フランス社会党(PSF)指導部 が共和派連盟と協調して右翼の候補者をひとり にしぼることで一致したときでさえも,かなら ずしも地方の党員たちはそれに従わなかった。 1938 年のヴァンデ県ラ・ロシュ・シュル・イ オンにおける下院議員補欠選挙では,フランス 社会党(PSF)支部の幹部たちは ,たぶん指導 部にたいして事前にかれらが具申した意見が無 視されたからであったろう,共和派連盟の選定 した候補者に不満を表明し,支部メンバーに無 効票を投じるよう指示し ,2 , 250 人の党員がそ れに従った。それを知ったエドモン・バラシャ ンは狼狽し,ヴァンデ県支部の行動については 自分はまったく関知していないと釈明した203)。 けれども,たとえそれが不承不承であったと しても,両党間の協力がまったく不可能であっ たというわけではなかった。既述の,フランス 社会党(PSF)宣伝部長シャルル・ヴァランが 立候補して勝利を収めた ,1938 年 10 − 11 月 のパリ 9 区の下院議員補欠選挙がそれを証明し ている。それまで議席は共和派連盟のメンバー

202) J.-P. Brunet, op. cit., pp.289-290; PSF, Bulletin

d’infor-mations, no.71, 23 mars 1938; L’Emancipation nationale, 16 juillet 1938; Le Petit Journal, 17 mai 1938; Centre des Archives d’Outre-Mer, Oran 70, commissaire divisionnaire (Oran), 11 mai 1938; Archives départementales des Alpes -Maritimes, 4M 543, commissaire divisionnaire (Nice), commissaire central (Cannes), 8 mai 1938, 5M 542, direc-teur de la police d’état, 29 mars 1938.

203) W.D. Irvine, op. cit., pp.150-151, 154-155; Archives

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