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Title < 論文 > ハリー ハラーの痛む足 : ヘルマン ヘッセの 荒野のおおかみ における身体について ( 第 20 号記念特集 ) Author(s) 廣川, 香織 Citation 研究報告 (2006), 20: Issue Date URL

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(1)

Title

<論文>ハリー・ハラーの痛む足 : ヘルマン・ヘッセの『

荒野のおおかみ』における身体について(第20号記念特集

)

Author(s)

廣川, 香織

Citation

研究報告 (2006), 20: 55-71

Issue Date

2006-11

URL

http://hdl.handle.net/2433/134472

Right

Type

Departmental Bulletin Paper

Textversion

publisher

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ハ リー ・ハ ラー の痛 む 足 ― ヘル マ ン ・ヘ ッセ の 『荒 野 のお おかみ 』 にお ける身体 につ い て ―

廣 川 香 織

0.は じ め に 1927年 に出版 され たヘル マ ン ・ヘ ッセの長編小説 『荒野のおおかみ』1は 彼 の作 品の中で最 も現実 に近づいた作 品であ る と言 え る。そ こには 「黄金の二十 年代」 と呼ばれ た1920年 代 、ア メ リカニ ズムの花開 くワイマール共 和国期の都市の姿が、当時流行のダンスのステ ップやジ ャズ の曲な どとともに描 き出 されて いる。ヘ ッセ の作品の ほとん どは舞台や 時代設 定について明確 に 示 され ないだ けで な く、前作 『シ ッダール タ』が、全編が釈尊在 世のイ ン ドで繰 り広げ られ るあ る種 の 「メル ヒェ ン」であ つた ことを考慮すれ ば、彼 の手による この現f―臓1に、 当時多 くのヘ ッ セ愛好家が違和感 を抱 いた こ とは想像 に難 くない。2 また舞台設定のみ な らず、他 の作品 と並べ た時 に 『荒野のおお かみ』 とい う作 品を特 異に して いるの は、主人公 の 「身 体」が リア リティを もって描 かれ ている点ではないだろ うか。 この作品 を対象 と した もの だけでな く、 これ までのヘ ッセ研 究全般において、身体 の描 かれ方 に着 目した 論 とい うものは、私 の知 る限 りでは皆無で ある。その原 因 として、ヘ ッセ の作 品の特 徴がその純 粋 な内面 性にあるこ とのみな らず 、そ もそ も小説の中 に身体描写を見出す ことそ のものが難 しい とい う点が挙げ られ る。た しかに初期 の叙情的 な作品の 中には 『ゲル トルー ト』のよ うに不具 の 主人公 が登蝪 す る もの も見 られ たが 、『デ ミア ン』か ら始ま る中期以 降、 よ り人間の内面へ とテ ーマ が移行す るにつれ て、この作 家が登場人物、と りわけ主人公 に身体 的特徴 を持 たせ るこ とは i『 荒野 の お お か み 』 か ら の 引 用 はHesse

, Hermann:Der Steppenwolf Iri Ders―:Gesarnrnelte Werke in 12

B舅den Frarikfiirt a.1VL 1987似 下 、 GWと 記 す)Bd.7に 依 つた。 以 下 、 本 文 中の 括 弧 内の 数 字 は頁 数 を赦

2具 体 的 な反 応 に つ い て はSchwarz , Egon(Hrsg.):Hezmann魚 鰯5鞠 脚 η砿1(bnigstein/r困.1980 S,12―15参 照。 ま た 、ヘ ッセ は も と も と 『荒 野 の お お か み』 の 一 部 と して発 表す るつ も りで あ つた が 、結 果 的 に は 翌 年 の 出 版 とな っ た詩 篇 『樹 幾』 の あ とが き に 「私 の友 も多 く の者 が は っ き りと 、私 の 新 しい 企 て が 無 責 任 な 逸 脱 で あ り、 私 は 『シ ッダ ール タ 』 の 作 者 と してふ さ わ しい 態渡 を 取 る こ と を 自 ら に負 っ て い る の だ と言 っ た 。」 と 『荒 野 の お お かみ 』へ の反 響 に つ い てふ れ て い る。(Hesse Krise. Ein St k Tagebuch von

Hermann Hesse. In:Michels, Volker(Hrsg.):緬 曲 伽z召 猛 ㎜ 細 艶 懸"伽5吻 脚 耐l

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ほ とん どなくな り、主 人公 を官 能の世界へ誘 う女 性の肉体だ けがその役 割にそ って しば しば描写 され るのみ となってゆく。その最た るものがすでに挙 げた 『シ ッダール タ』で あ り、そ こで は娼 婦 カマー ラ以外 の登場人物 につ いて は一切 の身体 的特徴 が欠如 してい る。その ために読者は彼 ら につ いて外面 的な1青報 を作品 内か らほ とん ど得 るこ とがで きない。3ま た 、 「顔 はヘ ッセ作品 において重要な場 面で頻繁 に登揚す るモテ ィー フで あるが、これ もまた 、シ ッダール タの 「生命 の川」 を浮かべ る 「顔 」4に 代 表 され るように、身 体の―器 官 であ りな がら、人 間の身体 と して の リア リテ ィを欠 いた超越的 な物 と して描かれ る。 このよ うなヘ ッセの作 品群 にあって、『荒野のおお かみ』 では主 人公 にいわば生身 の肉体が付 与 され、他 には見 られ ない存在 感 を呈 している。主 人公ハ リー ・ハ ラーは トレー ドマー クの よ う に足 を引 きず りながら登場 し、様 々な病の苦痛で もつて 自らの身体 を さかんにア ピールす る。 さ らに物語 の中 には都市 を行 く彼の身体 の所在や移動 が一分 の隙 もな く描 き込 まれ てい るのであ る。本稿では、ヘ ッセの小説 にお ける 「身体」か ら 「身体Jに 対す るヘ ッセの態度 を探 る試 みの 第一歩 と して、まずは痛 み とい うリア リティを具えた 「身体」に着 目し、それ が 『荒 野の おおか み』で時 代への接近に ともな って描かれてい るこ との意 味を明 らかにす る。 1.病 め る身 体 まず 初 めに 、作 品の 構 造 につ い て説 明 してお く こ とに す る。 この 小 説 は 「編 者 に よ る序 文 」 「ハ リー ・ハ ラー の 手 記」 「荒 野 の おお か み に 関す る論 文 」(以 下 、 各 々 「序 文」 「手 記 」 「論 文 」 と記 す)の 三 っ の 部 分 か ら構 成 され て い る。 「荒 野 の お お か み 」 と称 す る男(ハ リー ・ハ ラー)の 残 して いつ た 「手記 」を そ の 家主 の 甥 が 見 つ け編 者 と して 発 表 す る とい う体 裁 を 取 り、 さ らに そ の 「手 記 」 の 中 に 「論 文 」 が 挿 入 され る。 主 人公 ハ リー ・ハ ラー の 身体 は 、 まず この 「序 文 」 で 、 編 者つ ま りハ ラー が 間 借 りす る 家 主 の 甥 で 隣 人 で も あ る男 の 目 を通 して 描 か れ る。編 者は まず ハ ラー の 身 な りや 背丈 、頭 髪 な どに っ い て 語 つた 後 、 そ の 歩 き 方 につ い て ふ れ て い る。 (l――)それ(彼 の 歩 き 方)は 苦 しそ うで お ぼつ か な い と こ ろ(Unentschlossenes)が あ り、彼 の 気 性の激 しい 鋭 い 横 顔 に も、彼 の 話 し方 の 調 子 や 気 質 に も合 っ て い な か った 。 3拙 論 「ヘルマ ン ・ヘ ッセの 『シ ッダール タ』 につ いてl葛 藤 の不在 が もた らす問題 をめ ぐって」1『研究報 告』第15号(2001)聯 大騨 翔 蚊 研i魑 、71-93酬 又、78頁 参照d n「 顔 は とりわ け中期の作品 で(『シ ッダール タ』『デ ミア ン』『クライ ンと ワー グナ「』『クリングゾルの最 後の刻 などや、本稿 で扱 う 『荒 野のおお かみ』 も含 む)肖 像 画や 鏡 と関連 して頻繁 に登場 す る。その リア リテ ィの有無 にかかわ らず作者の身体 に対す る態渡 を考 える上で要 となるモテ ィー フである と考え られ、今 後(購 裸題 と したい。 一56一

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後 に な つ て よ うや く気 が つ き 、わか った の だ が 、彼 は病 気 で 歩 くの に骨 が折 れ る の だ つ た 。(184£) この初対面 の場 面の後 、ハ ラー は引っ越 してきて9ヶ 月か10ヶAこ の編者 と同 じ屋 根の下で暮 らす こ とにな るの だが、や がて編 音はその病気 が痛風5で ある ことを知 る。 「序 文」は小説全体 のほんの20ペ ージ を占め るにす ぎないが、そ の中で は、茗観 的な視sか ら捉 え られたハ ラーの 体 の特 徴 として、幾度 に もわた って この痛風 のために 引きず る足が強調 され る。編者はハ ラー の 「しば しば本 当につ らそ うに階 段をのぼる足の障害」(194)に 気 づき、彼 が 唾 い、悲 しげな足 取 りで階段 を苦 しそ うにのぼ る」(200)の を 目にす る。 これ らの記述 か らわか るよ うに、また後 に続 く 「手記」で もこの階段 はハ ラーの 目線か ら 「のぼ るのに骨が折 れ る異郷の階 段」(208)と 形 容 されて いるよ うに、 ハラーの足 の障害 は常に この家の階段に関連 して語 られ る。 ヘ ッセの小説 に共通す る象徴的空 間 として 「家」の存在 に着 目するReso Karalaschwiliは そ の垂直構造 にっ いて、父の世界 、精 神の領域は上の方の階に位置 づけ られ てお り、それ に対 して 地 下貯蔵 庫や 地下室 は母 の世界 、感覚や 原初的 な自然の領域 を示す こ とを指摘 した上で、間借 り した二階建 ての家 でハ ラーは屋根裏 に住み 、「その垂直構造の両端 一 く屋根裏〉と 〈地下室>l の間の空 間は、 こ こで は と りわ けハ ラーの女家主に代 表 され る市民 性に割 りあて られてい る」6 こ とをその具体例 と して挙 げ る。つ ま りハラー が苦 しそ うに昇 る階段 は市民的生か ら精神的生へ 続 く階段な ので あ る。また、この家 の二階には物語に は登場 しない未 亡人 の住居が ある とされて いるが、ハ ラー は しば しば二階 と屋根 裏をつ なぐ階段 の途 中に腰掛け、このイ据 の玄関の素晴 ら しさを褒 めそや 義 それ は常に ワックスのよ くかけられた寄せ木 細工 の床 、そ して手入れの行 き 届 いたナ ン ヨウス卸 の置 かれた 玄関な どに象徴 され る、秩序に満ちた小市民的生への賛辞で も ある。 そ もそ もハ ラーは野生 的で悪魔 駒な 「おおかみ」の部分 と高尚で賢者の よ うな 「人間」の部分 がその内面 につ ねに共 存 してい る存在 であ り、それに対 して市民的生 とは あくまで もそ の中間 を 生 き る生で ある。極 端 を生 きる こと しかできない、また欲 さない彼に とつて、すべて に折 り合い をつけて生活 を営む小 市民の存在 は唾 棄すべ きものであ ると同時に憧れ で もあ る。つま り、痛み 5ハ ラーの部屋 には ワイ ンの空き瓶が並べ られ 、彼 の飲 酒癖は痛風の原 因として この編者 にも指摘 され る。「酒 飲 み」 とい うア ウ トサイ ダー としての存在 を糊 敷づける一 要素 が、その身体 を特徴づ ける病 と密接 に関わ り 合 つてお り、こ こで もハ ラー の存在 と身体 が切 り離せない もの として描 かれ てい ることがわか る。 sKaralaschwili

,・- Haus und(zarten. Zur Typologie des Raumes. In=Ders.:Hermann Hesse. Charakter und Weltbild. Frankfurt a.M.1993,5!89-220, hier 5.208.

7こ の玄関 にっ いてはナ ン ヨウスギ と ともに何度 も語 られ ることになるが、ナン ヨウスギは観 藥植 物の一種 で、 いわば人 間の手 の入 った 自然 であ り市民的生 の象徴 となってい ると考え られ る。

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のた め に引 きず る彼 の 足 は 、 「小 市 民 的世 界 へ の 孤 独 な 憎 悪 者 」(208)で あ りな が らいつ も市 民 の家 に住 み た が る ア ウ トサ イ ダー のア ン ビバ レン トな 心 の葛 藤 を 、階段 にっ な が れ た二 つ の 世 界 の移 動 の 困難 さ、rお ぼつ か な さ(Unentschlossenes)」 に よ つ て 象 徴 的 に表 現 して い る と考 え られ る ので あ る。 ハ ラーの身体 は この足以外 にも様々 な痛み を訴 える 「病 める肉体」である。家主 の甥 に とって も 「彼 の健 康状態は良い ように見 えなかった」 し、足の不 自由 さ以外 に 「他の障害 に も苦 しめ ら れて いるよ うだった」(194)。 あ る平凡な一 日の報告 か ら始 ま る 「手記 」では、その 日が格別 な 苦痛 に悩 ま され ることのない満 足な 日であ った とい うもの の、 「中年 につき ものの苦痛 を二時間 受 け、粉薬 を飲 んでその苦痛 をごまかせた と喜ぶ」(205)ほ どに、痛み はハ ラー の生活 に深 く入 り込 んでいるこ とがわか る。 また さらに、 「痛風 の発作 を ともな うか、 あるいは眼球 の裏 に しつ か りと根 を生や し、目と耳の いかなる活動 をも喜 びか ら苦痛へ と悪 魔の よ うに変 えてゆ く例 のひ どい頭痛 をともな う日」(206)も あるのだ と明か して いる。そ して、こ うしたハ ラー の身体 全体 を特 徴づける苦痛 もまた、彼の 引きず る足 が示す よ うな内面的苦 痛 と密接な 関係 を見せ る。例 え ば、この 「手記」の中に街で偶然 出 くわ した既 知 の若 い教 授の家 にハ ラーが招待 され る場面があ るが、これは 「荒 野のおおかみ」 として の市民的 生に対す る葛藤 が もっ とも具体 的に示 され るエ ピソー ドである。 この教 授の偽渤 な存 在はハ ラー に とつて嬬悪 倣 橡 であ るが、同時に市脚 勺 なそのあたた かい社交 の場 に瞳れ る彼 はこの招待 を受 け入れ、その こ とでひ どい 自己嫌悪に陥 る。 と同時に、ハ ラーは痛風 の発作 に襲 われて いる。 私 の内面では戦いが激 しく荒 れ狂 つてお り、私 は こわ ばつた指 を機 械的 に曲げた り伸 ば した りして、ぴそかに うず く痛風 と戦 いっつ 、あの時 自分 は 口車 に乗せ られ て、7時 半 に夕食に招待 され るとい う、礼儀正 しく振 る舞 い、学 問的 なお しゃべ りを し、 よその家 庭の幸せ を観察す る義務を ともな うや っかいご とを背負 い込んだ のだ と認 め ざるを得 な 力斗ったゐ (261) この よ うに主人公 に与 えられた生身の肉体 は、その持 ち主 の苦 悩を色{く 映 し出 していた。 これ を精神 による身体 の支配であ るととらえ、ヘ ッセの他 の作 品で もみ られ るよ うな、純粋 な内面劇 を強調 してい るに過ぎ ないと考 えることもできるだ ろ う。 しか し、リア リテ ィを具 えた身体 が描 かれ るこ とが この時期の作品において例外的であ る点 を考慮す れ ば、作 者が内面の 引き立 て役 以 上 の役 剖をこのハ ラーの身体に課 している ことが予想 され て しか るべ きであろ う。 ところが、そ れ に もかかわ らず、否、まさにそれゆえに、物 語が展 開 し始 めるや いなや主 人公ハ ラーはその身 体 を失つてゆ くのである。 一58一

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2.消 え て い く体 こ の ノ」税 の ス トー リー は 、魔 術 劇 場 とい うハ ラー の 夢 と も空 想 ともっ か な い 異 次 元 で の 体 験 を 目指 して 直 線 的 に 展 開 して ゆ く。 前 作 『シ ッダー ル タ』 に感 動 し 『荒 野 のお お か み 』 に 失 望 した あ る若 い読 者 か らの 手紙 の 返 事 に 、作 者 は 若 者 の課 題 はWerden(成 長)で あ る が 、50歳 の 人 間 に とっ て はEntwerden(解 体)な の だ と説 明 して い る。8ハ ラー は 魔 術劇 場 で 完 全 な 自己解 体 を体 験 す る こ とに な るの だ が 、 そ こに い た るま で の 道 の り自体 す で に このEntwerdenの 試 み に 他 な らな い 。 そ して そ の試 み の 最 初 に ハ ラー は ジ ャズ の 鳴 り響 く居酒 屋 「黒 鷲 屋 」 に飛 び こみ 、 娼 婦 ヘル ミー ネ と出 会 い 、 ダ ン ス を 習 う。 や が て ダ ンス そ の もの のみ な らず 、 そ こに付 随 して 、 ハ ラー が これ ま で経 験 した こ と もな い 様 々 な もの が 、彼 の 生 活 に もた ら され る よ うに な る。 ハ ラ ー の 高 い精 神 性の 象 徴 で あ っ た屋 根 裏 の 書 斎 で、蓄 音 機 か らア メ リカ の ダ ンス 音 楽 が 流 れ る よ う に な っ た よ うに 、彼 が これ ま で嫌 悪 し軽 蔑 して い た 、伝統 的 で な い もの 、 ア メ リカ的 な もの 、精 神 性や 深 み の な い もの が ダ ン ス と と も に ど つ と入 り込 ん で くる の 規 そ れ は 例 え ば カ フ エや ダ ン ス ホ ール で の 狂 騒 や 、そ こ で用 い られ る アヘ ンや コカ イ ンや 催 淫 剤 で あ り、流 行 の ジ ャ ズや バ ン ド音 楽 で あ るが 、 ハ ラー は逡 巡 しな が らも しだ い に これ ら にひ た つて い く。 この過程 が描かれてい るのがハ ラー の手 による 「手記」であるが、その報告では彼が魔徐欄 場 に近 づ くにつれて現実 と非現 実が入 り交 じるよ うにな り、9さ らには彼の時間の感覚が薄れてい く10な ど、正気の 中に倒 錯 が入 り込み外面的 リア リテ ィが失われてい く様 子が読み取れる。そ し て、それ に ともないハ ラー の身 体 もまたその存在が揺 らいでい くのであ る。 「あ なた は こ の とこ ろ 本 当に 元 気 そ の もの ね」彼 女(ヘ ル ミー ネ)は 言 つ た。 「ダ ンス が あ な た の体 に合 つ た の ね 。 あ な た に 四週 間会 っ て な か つ た人 な ら、 ほ とん どあ な た だ っ て わ か らな いで し ょ う よ。」(338) 8Hesse=Briefe an M .K(1933)In=Mat., S―148-150― 9Esselborn-Kruxnbiegelは 、 狼 と 人 間 の 対 立 を 止 揚 す る 方 法 に ハ ラ ー が 近 づ く に し た が つ て 、 ア ス フ ァ ル ト に映 し出 され た 奇 妙 な 文 字や 、石 塀 に 浮 か び 上 が つ た 門 の幻 覚 な どの 介 入に よ り、物 語 は 外 面 世 界 と内 面 世 界 の 境 が ぼや け て い く と 主 張 す る。Esselborn―Kruxnbiegel, Helga:Hermann Hesse. IJer Steppenwolf M chen 1988, S―39参 照e

KG Karalaschwiliは 時 間 と い う視 点か らヘ ッセ は 「時 間 の 存 在 しな い、魔 齢 勺な現 実」 を 表 現 する こ と を志 向 して お り、 作品 の ス トー リー 展 開 に つ い て 、 初 め は 「時 計 の針 の 厳 格 な動 き に支 配 され て い るが 、 次 第 に 針 の歩 みlJ緩 や 調 こな り、 最 後 に は時 計 は 止 ま り、 時 間 は 存 在す る こ とを止 め 、永 遠 に 続 く現 在 とい うもの が 登 場 す る 」(Karalaschwili:Die Verwandlung von Zeit in Raum―In:Dem―, a.a.0.,5.221-248, hier 5228) と指 摘 して い る。 この こ とはハ ラ ー の 「手 記 」 に も具体 的 に 当 て は め る ことが で き る。 本 文 で も詳 しく見 て

ゆ くが 、 そ こ で は時 の 経 過 が 初 め は 具 体 的 な 数 字を と もな っ て 書 き込 ま れて い る の に対 して 、 し温 ・に そ れ が 「あ る 日」 とか1数 時 間 」 とい った 漠 然 と した表 現 にか わ っ て ゆ くの が見 て とれ る。

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ダンスを習 い始 め、フォ ックス トロ ッ トやボ ス トン といった ステ ップ をマ スター した頃、ハ ラー の身体 は上 に引用 したヘル ミーネの言葉が示す よ うに、もはや かつての苦痛 に型 押 しされた身体 で はな くなって いた。と りわけその痛み のた めに引きずつてい た足はす つか り影 をひそ め、いま や 流行 のダンスのステ ップを踏 んで いるのだ ―見 、ダンス とい う身体活動 に よって痛みか ら解 放 され たハ ラー の身体 は健 全 な身体 としてその存在 を一層力 強 くア ピール す るか のよ うであ る。 しか し、この痛み の消失 は逆 に身体そ のものの消失 であ る といえ る。ヘ ッセ の作 品に生身の 肉体 が ほ とん ど登場 しない こ とはす でに述べた。 しか しこの 『荒野のおお かみ』 では主 人公 ハ ラーの 身体が痛みや病 に よつてそ の存在 を主張 していた ゆえに、その痛 みが失 われ るこ とに よって、彼 の身体 はもはや存 在感 を失 ってゆくのであ る。 さ らに、ハラー が飲 んでいた 「薬」は、痛み を鎮 め るとい う目的の ためにかえつて彼の身体の 苦痛 を強調す る小道具 となつていたが 、それ もサ キソフォ ン吹 きのパブ ロが差 し出す コカイ ンや その他のrtしげ な 「麻 薬」へ と しだいに取ってかわ られ 、身体 を強調す るどころかハ ラー を陶酔 へ と陥 らせ 、彼の身体から現実的な感覚を奪ってゆく。 この 「麻 薬」のモテ ィー フは60年 代に ア メ リカの ヒ ッピーの間で この作 品が爆発 的な ブーム を巻 き起 こ した際に最 も大 きな誤解 をも た らした もので あつた。彼 らは とりわけ麟 諺 ―」場 を ドラッグが見せ る幻覚の世界 であ ると解釈 し た。11しか し勿論 ドラッグが 引き起 こす幻想 を表現す る ことがこの作品の 目的 ではな く、「麻 薬」 の存在 は陶 酔によ る自我 か らの解放 を うながすだ けでな く、 この よ うに 「麹 か らその立場 を引 き受 け、身体 の消失を手助 けす る役割 を担 ってい るのであ る。 次 に、ハラーの外面 的な動 き、す なわち身体の所在 に関す る描 写が どのよ うに変化 して ゆ くか、 仮 面舞踏 会までの 「手記 」に残 された十 連の報告 を概観 して ゆ くことにす る。まず 初 めに平 凡な 一 日と称 され るハ ラーの 一 日 、次 に初 めてヘ ル ミー ネ と出会 う一 日の描写 を追つてみ る。 「手記」の初 めの一 日の報告は屋根 裏部屋 か ら始ま る。数時 間の仕事 の後 、二時間苦痛 に耐 え る。そ の後 、入浴 、三度郵便 を受 け取 り、一時間散歩。 日暮れ になつてか ら町 へ出 かけ、古 い地 区で石塀 に見慣れ ぬ門12が できてい るの を見つ け、ア スファル トに映 し出 された奇妙 な文字 を 目 llこ の き っ か け とな るの が 艶alyが1963年 に発 表 した エ ッセ イ で、 こ の 中 で 『荒野 の お お かみ 』 は 「ヘ ッセ が 幻 覚 体 験 を、薬 物 に よ って も た らされ る 自 己喪 失 を 、内 面 世 界へ の 旅 を描 い て い る こ とは 明 らか で あ る よ うに 思わ れ る」と述べ られ て い る。(C.eary, Timohy:Meisterf rer zum psychedelischen Erlebnis―In:lvrat., 5.344-353,hier 5.346£)

12GWB己7 ,5.211-213参 この 門 は魔 術劇 場へ の 入 り口 と考 え られ 、 病 院 と教 会 の 共通 の庭 を 覆 う塀 に現

わ れ た もの で あ る と され る。 撫 ㎞ は 「病 院は この 小 市 民約 世 界 で ハ ラー が 経 験 し、感 じて い る苦痛 で あ り、教 会 は 彼 が そ の向 こ うに あ る と気 腐 ・て い る神 聖 な 世 界 を 象 徴 して い る 」と主 張 す るが(Tus㎞, Lew給 Wl伽 ㎞ 舳 曲 幽 ㎜a㎜ 艶 説. TheMan, HisMyth. HrsMetaphor.(",olumbia 1998, p.113)、 魔 術 廉暢 で ハ ラー が体 験 す る欲 望 の 数 々 を考 慮 す れ ば 必 ず しも そ れ は 神 聖 な 世 界 と は言 え な い。む しろ 、病 院 が

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にす る。そ の後小 さな料理店で食事 を し、ダンスホール の横 を通 り過 ぎ、再 び石塀 の所に来る と、 プ ラカー ドを持 った男 か ら 慌 野の狼 に関す る論文」 とい う小冊 子を手渡 され、それ を持つて家 へた どり着 く。 こ こで 「論 文ユの全 文力挿 入 され、読み終 えたハラー は明け方に床 に入 り、昼 頃 に 目を覚ます。 次 に報告 され るのはヘル ミーネ と初 めて 出会 う一 日で あるが 、この 日は、プラカー ドの男を捜 すた めに出かけた街 か ら始 まってい る。ハ ラー は広場や例の石塀 のそば を通 り、町外れのマル チ ン地 区まで歩き、出 くわ した葬tの 列 に加 わ り火葬 場までつ いて行 く。プラカー ドの男 をそ こで 見つ けるが人違い とわか り、その場 を立ち去 り、図書館のそばで知 り合 いの教授 に出会 い、夕食 に招待 され る。その後い ったん家 に もど り晩の7時 半 に教授 の家 に赴 き、食事 を ともにするがゲ ーテ の肖像 画にまつ わる トラブルに よ り早 々に教授宅 を後 にす る。往 来 に走 り出、一件 の居酒屋 で水 とコニャ ック を飲 み、旧市街 、並木道 、駅前広場 を駆 け抜け、あち こちの居酒屋に立 ち寄 り、 夜 遅 くに町外れ の ダンス場 を備 えた居酒屋 「黒鷲屋 」に行き着 きヘル ミーネ と知 り合 う。彼女が 踊 っている間テーブル で一時間 ほど眠 りゲーテに謁 見す る夢 を見る。ヘル ミーネ に うなが され店 の三 階で さらに4、5時 間眠 り、朝 の10時 過 ぎに起 き出 し家 に帰 った後 、女家主 に招かれ一時間 ほ ど一緒 にお茶を飲む。 この二 日間の描写 を追 うと、まるで彼 の足跡 を逐 一た どるかの ように報 告 され てい ることに気 がつ く。また 、時間 において も具体 的な数字 とともにその経 過が示 され ている。 しか も、その一 連の動 きは、最初 の 日は昼過 ぎの屋根裏部屋 か ら出発 し再びそ こに戻 ってお り、二 日目もまた、 ほぼ完 全な形で家 を出て再び家 に帰 って くるまでのハ ラーの身 体の所 在が明 らかに されてい る。 つ ま り場所 において も時間にお いて も抜け落ちている ところ、不明な ところがほ とん どないのだ。 物語 の始 ま りの段階 では、ハ ラー の身 体の所在 と移 動は時間 とともに完全 な円を描 くよ うに欠 け るこ とな く我々の前 に提 示 され ているのであ る。 と ころ が 、 この 日以 降 の 「手 記 」 で は 、例 え ば、 レ ス トラ ンで のヘ ル ミーネ との食 事 のひ と と き とか 、待 ち合 わ せ の カ フ ェ か ら楽 器 屋 、そ して ハ ラー の 屋 根裏 部屋 で の ダ ンス の レ ッス ンま で 、 とか 、 あ る 日の 「黒 鷲 屋 」 で の 数 時 間 、 あ る 日のホ テ ル で の ダ ン スパ ー テ ィの 一 場 面 、波 止場 で パ ブ ロ と話 した ひ と とき とい つ た よ うに場 所 も時 間 も断 片 で しか 語 られ な くな る。つ ま り、ハ ラ ー の 身 体 は 時 間 と場 所 を とも な う明確 な所 在 を示 さな くな つ て い くの で あ る さらに興味1い ことに は、現 実か ら幻想 の世界で ある魔術劇場 への橋 渡 しの役 目を担 う仮 面舞 踏会 の夜には、ここに至 るまでの消 えて ゆ く身体の描写の変化が凝縮 され再び繰 り返 され るよ う 病んだ 肉体 を治 療 し、教会が病 んだ精神 を癒 す場 である ことに着 目す れば、ち ょ うどその間に魔 術潔陽 の門 が置かれ ている ことは、ハ ラー が向か って いるのがまさに身体 と精神の両方の重な り合 うdh の解 決である ことを象徴 してい ると解 釈で きる。

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な形 で描 かれ る の だ。 舞 踏 会の 時 間 ま で 、ハ ラ ー は 居 酒 屋 や 往 来 、 映 画 館 を さま よ う。 そ の 後 、 会 の催 され る グ ロー ブホ ー ル に着 く と、彼 は た く さん の ダ ン ス ホ ール を抱 え る この 建 物 の 中 を あ ち らこ ち らへ と駆 け め ぐ り、13魔 術 劇 場 の入 り 口 とヘ ル ミー ネ を探 す うち に 、ダ ン ス の熱 狂 に 取 り込 まれ 、次 か ら次 へ と相 手 をか え な が ら踊 り続 け る。 や が て ハ ラー は そ の 中 で 「祝 祭 の体 験 、 祝 祭 の集 団 の陶 酔 、 個 人 が 群 衆 へ と沈 み込 む 秘 密 、 喜 び の 神 秘 的 合 一 」 を初 め て 味 わ い 、 「私 は も はや 私 で は な く、 私 の人 格(Pers nlichkeit)は 祝 祭 の 陶 酔 の 中 で塩 が水 に 溶 け る よ うに溶 け て い つた 」(359£)と 報 告 す る。この 場 面 で は 、ハ ラ ー だ け で な く彼 の周 囲 、彼 と と も に踊 る 人 々 の 身 体 も描 写 され る が、 こ の 「祝 祭 の体 験 」 の も と で は も はや そ れ は 特 定 の 個 人 を規 定す る身 体 で は な く、大 き な うね りの 一 部 とな っ て持 ち主 か ら切 り離 され て い る 。 身体 を再 び浮かび上が らせ、そ して消 し去 って ゆ くこの仮 面舞 踏会は、魔術劇場 に至るまでの ハ ラー のたどってきた行程の しめ くくりを、最 後に きわめて象徴 的なかたちで示 して いる。それ はダンスの熱狂 が夜 の明 けるの とともに冷 めてい つた 時であ った。 私 は一瞬酔 いが覚 めた よ うにな り、背 中か ら強烈 な疲労感 が襲 いかか り汗び っしょ りの 衣服 が不 快にも生暖か くべたべた と体 にま とわ りつ くの を感 じ鳥 そ して、 自分の 両手 が赤 く太 い血 管を浮 き上 がらせ なが らしわ くちゃで汗まみ れにな った袖 口か ら突 き出て いるのを見 た。 しかしそれ はす ぐに再 び消えた 、ヘ ル ミー ネの眼差 しがそれ を消 し去 っ たの芯(364) この よ うに仮 面舞踏 会 は不快感 によって リアル に存 在 をア ピールす る身体 を今 一度 くつき りと 浮かび上が らせ 、それか ら完全に消去す るこ とで、そ の幕 を閉 じ、舞 台は魔 術劇場 へ と移 るので あ る。 3.「 荒 野 の お お かみ に 関 す る論 文 」 魔術豫暢 へ と向か う中で こうしてハ ラーの身体 が消去 され てい くそ の理 由、その必然 性 とは ど こにあ るのだ ろ うか。その答 えは 「荒 野のおお かみ に関す る論文」 に求 め られ る。 この 「論 文」は、展淋豫暢 の宣伝 文句 が書 かれ たプ ラカー ドを持 った男か らハ ラーが偶然 に手 に入れた もの とされ 、 「手記」の 中に挿入 され るかた ちで示 され る。 それが誰 の手 に よって書 か れたのか は明 らかには されないが、全 知的 な存在 、高L領 域に いる存 在に よって荒野のおお かみ 13こ の時、か つて感 じていたダンスや お祭 り騒 ぎに対す る不決感 に再 び襲われ たハラー は、同時 にエナ メル の 靴 が足を締 め付 けるのを感 じてい る。つま り、荒野 のお おか みと しての内面的苦痛 を表す 足の痛みが再び ここで蘇 つてきたと考えられ る。 一62一

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で あ るハ ラー の 内 実 が 明 らか に され る と と もに 、そ の 進 む べ き 方 向の 提 示 して お り、 い わ ば道 し るべ の役割 を担 つて い る。 前 章 で 見 たハ ラ ー のEntwerdenの 道 の りは こ の 「論 文 」 を受 けて 始 ま つ た もの だ っ た の で あ る。 「論文」はまず 、自分 が内面で はっ ね に 「人間」と 「おおかみ 」の二つがせめぎ合 つてい る 「荒 野のおおかみ」であ る とす るハ ラー の認識 その ものが虚 構である こと、なぜな ら人間は無数の魂 か ら成 り立つか らであ るとい う真 実 を突 きつける。さらに、それにもかかわ らず この 自己の多様 性 を理解せず単純化 し、 「滑 稽な二元性 」に悩むハ ラーの姿 を白 日の もとにさらすのであ る。つ ま り、ハ ラーの身体 は実,Tに は存在 しない 自己の二元 性による苦脳を痛み として表現 してい るこ とに なる0 ところでHaus Mayerは 、 この作 品では 「荒野のおおかみであるハ ラーの時代 に対 する保守 的な偏見 と正当な社会批判 が非常 に厳 格に分 けられ てい る。」14と 指摘す る。 ダンス とともに一 連の時代の流行にの め り込 んでい くハ ラーの姿は、本稿 の冒頭 に述べた よ うに、当時のヘ ッセ愛 読者 に最 も失望 を与 えた もので あったが、 このMayerの 指 摘のまさに前者に あた るもの を克服 す るた めに不可欠 のステ ップ であつた。偏 見の文橡 を 自身に取 り込み超越す ることは、 「論文」 に指摘 され る認 識の欺隔 を克 服す る試み に他 な らない。 し か し、 そ の一 方 で 「論 文 」 は 「混 沌 を ひ とっ の統 一 と して と らえ よ うと」(242)す る錯 覚 を 「す べ て の 人 間 の 持 つ 生 まれ つ きの 、抗 い が た い要 求」(241)で ある と譲 歩 し、そ の 原 因 を 文 学 を 引 き合 い に 出 して 以 下 の よ うに説 明す る。 この錯 覚は単純 な置 き換 えにも とついて いる。人間は誰 しも身体 と してはひ とつで あ り、 魂 としてはそ うではな い とい うこ とだ。文学に関 して も、 もつとも洗練 された ものにお いて さえ、慣習 的にいつ も、外 見上整 っていて統一の とれている人物 が用 い られて いる。 これ までの文学 にお いて、専門家や 識者が戯曲を もっ とも評 価す るのは、それが多元的 なもの として の 自我 を表現 す るのに最 大の可能 性を示すがゆ えに(あ るいは示す可能 性 が あるがゆえに)正 当な ことな のであ る。 ― 戯 曲に登場す る個 々の登蝪 人物 は、各 々 いやお うなく唯 一の、一貫 した 、また完成 した身体 をま とつ てい るので、おお ざつぱ に 見れば 、我々 はそのそれ ぞれ を統 一体 として見誤つて しま うのだ が、そ うした見方がた とえ戯 曲に矛盾 してない として もであ る。(242f) つ ま り、精 神は本来多元 的な もので あ るに もかかわ らず 、それ を覆 う身体 が一元的で あるがた め 14Mayer

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に、その認識 を阻 んでい る とい うのt 「肉体 の一元 性生には魂の統一 は内在 していない」(246) のである。ここに、ハ ラー の身体 が消 し去 られ なければ な らなか った理 由が ある と考え られ ない だろ うか。 「論 文」が 自己の多元 性に 目を開 く とい う課題 をハ ラー に突 きつけた今 、彼 の身体 は それ を阻む もの として位 置づ けられ るので ある。また、これ に よって作者 自身 もまた表現kの 課 題 を手 にす るこ とにな った。 とい うの も、統一 的な生身 の身体 を主 人公 に付与 した に もかかわ ら ず 、主人公の 目指 すゴール にお いて は、その身体 の一元 性を越 えて生の 多様 性を表 現す るこ とを 求 め られ るか らである。そ して作 者は、ハ ラー のEntwerdenの 過程 を描 くにあた って、その身 体 を消 し去 るこ とを選択 した わけだが 、これ はハ ラーの道 の り同様、魔術潔腸 にお いて完 全 に結 実す る試 みの第一段階に過 ぎないので ある。 4.身 体 か ら像 へl魔 術劇 場 パ ブ ロ に よ つて 導か れ た 展淋稼1場 は 、数 え切 れ な い ほ どた く さん の 仕 切 り席 に通 じる ドア の 集 ま りで あ った 。そ して そ のひ とつ ひ とつ の ドア の 向 こ うで ハ ラ ー は 自 らの内 に潜 む 欲 望 を 様 々 な か た ち で体 験 を し、 「フモ ー ル(Humor)」 に よ っ て す べ て を 「笑 い 飛 ば す 」 こ と を学 ぶ。 そ の 前 提 と してハ ラー に求 め られ る のが 、す べ て を 客 観 視 す る とい うこ とで あ っ た。 パ ブ ロ が 「こ こ に は 絵(Bilder)が あ る ば か りで 、現 実 な ん か は な い 」(370)と 言 う よ うに 、そ こ に 存 在 す る も のす べ て は幻 想 で あ り幻 覚 に過 ぎ な い とされ る。そ の た め 、生 身 の 身 体 は勿 論 存 在 しえ な い だ が 、 ハ ラ ー の身 体 は こ の幻 覚 の 中 で鏡 に映 る像 とチ ェ ス の 駒 とい う身 体 の 「像(Bild)」 に よ つ て 、 そ の 存在 を取 つ て 代わ られ る の で あ る。 魔術劇場 昏入 る準備 として、パ ブロはハ ラー に手鏡 を渡 し、そ こに映 る 自分の姿 を笑い飛 ばす よ うに勧 める。それは、 これ までハ ラーが 自分 で認 識 していた 「荒野のおおかみ」 と して の人格 を捨てる ことを意 味す る。それをや り遂げたハ ラー は、魔 術劇場 の壁面 にあ る、天 井まで続 く巨 大な鏡 の中に以 下のよ うな 自分 の姿 を 目にす る。 (…)巨 大 な 鏡 全 体 はハ リー で 、 あ る い は ハ リー の 断 片 で 、 無 数 のハ リー で い つ ぽ い に な った。(…)こ の た く さん の ハ リー の 中に は 、私 と同 じ く らい の年 の者 も いれ ば 、年 上 の 者 、 ず つ と高齢 の 者 も いれ ば 、 そ の他 の 者 は 非 常 に若 く、 青 年 で あ っ た り少 年 で あ つ た り、 ま た 学 童 で あ った りわ ん ぱ くノj僧で あ っ た り幼 児 で あ っ た りした 。50歳 と20歳 のハ リー た ち が入 り乱 れ て 走 った り、飛 び 跳 ね た りす れ ば 、30歳 の や5歳 の者 、真 剣 な のや 陽 気 な の 、威 厳 の あ る のや 滑稽 な の 、 身 な りの よ い の や ぼ ろ を着 た の 、 真 つ裸 の も いた し、 禿 げ てい る のや 巻 き毛 の もい た 。(371) 一64一

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この よ うに鏡 が 映 し出 す 無 数 の ハ ラー の 「像 」 は、次 は チ ェス の駒 と な っ て表 され る。 ハ ラー が ひ とつ の ドア を 開 け る とそ こ に は パ ブ ロ と思 われ る男 が座 つ て チ ェス を 打 っ て い た。彼 は 鏡 が 映 し出 した た く さん の ハ ラー の 姿 をチ ェ ス の駒 に して 取 り出す0 落 ち着 いた巧妙 な指 で彼 は私の像 を、年寄 り、若 者、子供 、女 、快 活なのや悲 しげなの、 強い の弱い の、すば しこいの不器用 なの、あ らゆる像 をっかんで、素早 くゲー ムのかた ちに盤 に並べ 、ま もな くそ の像た ちは小 さな世 界を作 つて グループや家族 、戯 れや戦 闘、 敵や 味方 になつた。(386) この部 屋 に は 「人 格 の構 成 の 手 引 き ― 効 果 は 保証 っ き」 とい う札が 掲 げ られ て い る よ うに 、男 は チ エ ス の盤 の 上 で 分 裂 した ハ ラー の 人格 を再 構成 し 「処 世 術(Leberkunst)」 と して 示 す0こ うして ハ ラ ー は 魔 術 劇 場 に お い て 、 「論 文 」 で突 きつ け られ た課 題 、 す な わ ち 自 己の 多 元 性 を理 解 す る こ とを 、 自 らの 分 裂 した 人 格 を あ らわす 「像 」 を 目にす る こ とに よ って 体 験 ナる。 一 方 、 作 者 の試 み と し て は ど うで あ った だ ろ うか。 作 者 が 上 記 の よ うに 描 き だ した ハ ラー の 「像 」は 『シ ッダ ール タ』 の最 後 の 場 面 で ゴー ヴ ィ ン ダが シ ッダー ル タ の顔 に 見 る川 の 姿15を 想 起 させ るが 、そ こで は あ りと あ らゆ る存 在 が 映 し出 され て い る の に比 べ て 、こ こ で は あ くま で も ハ ラ ー 自身 の 身 体 の 形 を と って 彼 の無 数 の魂 を 表現 す る こ とに成 功 して い る。『荒 野 の おお かみ 』 に お け る鏡 の 重 要 性 を強 調 す るRalph Freedmanの 言葉 を借 りるな ら 、 ま さに 「―般 に考 え ら れ て い る統 一 の とれ た存 在 と して の 人 間 も実襟 の 多様 さや 多層 性 も、鏡 を使 うこ とで 、一度 に表 現 す る こ とが で きた 。」16の で あ る。 ところで、こ うして身体 の 橡 」を用 いることに よつて もた らされ た表 現 ヒの成 功の裏にひ と つ取 り残 された ものがあ る。それ は、あの消 し去 られ た身体で ある。作者 は この作品において主 人公 に病め る身体 を付 与す る ことに よって、生身の人間を作 品に登揚 させ る ことになった。 しか 15以 下の拙訳 を参照 のこ と。 「彼は友 シ ッダール タの顔 をもはや見てい なかった。 そのかわ り彼 は別の顔 を見 ていた。 た くさんの顔 を、長い列 を、何百 もの、伺千 もの顔の流 れる川 を見 ていた(中 略)彼 は魚の顔 を見 た。終 わ りのない苦 しみ に満ちて 口を開ける鯉 の顔 を、は ち切 れんばか りに 目を見開いて死にかけている魚 の顔を見た。l彼 は生まれた ばか りの赤ん坊の顔を見た。赤 く、しわだらけの泣き出 しそ うにゆがんだ顔 を。 ― 彼 は殺 人者 の顔 を見た。彼が 人間の体に刀 を突 き立 てるのを見 た。 一 同 じ瞬間、その罪人が捕 ら えられて脆 き、刑吏 によつてその頭 を刀 で切 り落 とされ るのを見 た。 ― 彼 は裸の男女の肉体が荒れ狂 う恋 の攻防 を して いるのを見た。 ― 彼 は死体が横た えられ ているのを見 た。静か に、冷 た く、虚 しく。l彼 は動物の頭 を見た。 猪の、 ワニ の、象の、雄 牛の、鳥の頭 を。 一 彼は 神々を見た、 ク リシュナ神 を、ア グ ニ神 を見た。」GW Bd5, S―46a 1Gラ ル フ ・フ リー ドマ ン 『評 伝 ヘ ル マ ン ・ヘ ッセl危 機 の巡 礼者』(繭1―芳 朗 訳)上 下 草 思社2004年 下 巻164頁 。

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し、その身体 に 自己の二元性へ 寄せ る苦 悩を痛み として表 現 させ る一方 で、その解 決に向か って は消 し去 る とい う手段 を取つた。 この手法 に よつて生身 の身体 は、そ こに負わ され た 「荒 野 のお お かみ」 の苦悩 もろとも、その存在 を完全 に否定 されて いるかの よ うにも見 える。 とこ ろ で 、実 は この 物 語 は魔 術劇 場 に よ っ てハ ラ ー の 救 済 を描 い て は い な い。ハ ラー は 魔 術 劇 場 で決 定 的 な失 敗 を犯 す 。す べ て幻 覚 で あ る こ とを 忘 れ 、パ ブ ロ と寝 るヘ ル ミーネ の 姿 に 嫉 妬 し 彼 女 を刺 し殺 し、 「現 実 の シ ミで美 しい絵 の世 界 を 汚 」(412)す の だ 。 ハ ラー の最 後 の 「い つ か あ の駒 の遊 び を も っ と うま くや れ る よ うに な る だ ろ う。」(413)と い う言 葉 は 、彼 自身 が 「地 獄 巡 り」と呼 ぶ 自己 解 体 へ の道 の りを これ か ら も延 々 と繰 り返 して ゆ く こ とを予 感 させ て この 小 説 の幕 を 下 ろす 。 つ ま りす べ て が 振 り出 しに戻 る の で あ る。 す で に述 べ た よ うに、小 説 そ の もの の 体 裁 と して 、ハ ラー が 失 踪 した 後 に残 され た 「手 記 」 を 家 主 の甥 が 編 者 とな つ て発 表 す る とい う 形 を とっ て い る た め に 、 こ う した オー プ ンエ ンデ ィ ン グ は 予想 され て い た も の で は あ っ た 。そ れ に加 え て 、作 者 は この 「序 文 」の 中 で 、そ の後 のハ ラ ー につ い て 編 者 に推 測 させ て い る。つ ま り、 彼 が今 も ま た 「ど こか で よそ の 家 の階 段 を疲 れ た 足 で あ が つ た り降 りた り してい る 」(202)の だ ろ う と。 ハ ラ ー の 身体 もま た 、や は りあの 病 め る 肉 体 に 、 振 り出 しに 戻 るのt この物 語の終わ り方 が示す ものは何 であろ うか。 そもそ も 「論文」に よって身体 は、普通 の人 間に とっては無意識の うちにその生 を一元 として規 定す るもの、ハ ラー に とっては分裂の解決 で ある多元 性の理解 を妨 げ るもの として位置づ け られ 、この命題 に基づ いて物謡 まハ ラーの身体 を 消去 したのだつた。しか しそれ で もなお、再 びこの肉体へ と舞 い戻 って こな くては ならなかつた のは、単 に多元 性を謎職 す ることの困難 さを読者 に知 らしめ るためではない。む しろ、ハ ラー の 痛 む足がなお も訴 えるのは、統一 としての身体 を持つ人 間の常で あるよ うに 自らを一元的 に とら え ることも、あるいは 「論文」が主張す るよ うな精神 の多元 性を認識 す るこ ともできない、ただ おおかみ と人間の狭間を さま よう 「荒 野のおおかみ」と しての苦h ェ動 か しがたい事実で ある こ と、で はないだろ うか。死によつて し力逃 れ られ ない この痛 む肉体の リア リテ ィは、ハ ラー の二 元 性を生 きる生 が錯覚 ではな く、解決不可能な現実 なのだ とい うこ とを、我 々に突 きっ ける こと にな るのであ る。 5.も うひ とつ の現 実 い った ん奪 い去 られ た後 なお も戻 って こな くてはな らなか つた、ハ ラーの苦痛 に満 ちた身 体, それは、身体の 「像」 とす りかえ られ る とい う過程 を経 るこ とによつて、い つそ うその リア リテ ィをは っき りと浮 かび上 が らせ る結果 となった。この強調 され た身体の リア リテ ィが果 たす役割 は 、け して主 人公 ハラー との 関わ りの 中だ けにと どまる もので はない。本論 の冒頭 に述 べた よ う に、この作品はヘ ッセ の作品の中で最 も 「時代」 とい う現 実に近づ いた小説 で ある。以下で は こ ..

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の 「時 代」が 「荒 野のおおかみ」の 内的分裂 に投影 され ているこ とに注 目し、その答 えを探 るこ とにす る。 次 に挙 げるのは 「序文」の中で編者 がハ ラーの 「手 記」 を発 表す るにいた った理 由を述べ た箇 所で ある。 も し私がその(手 記 の)中 に、あ る一個 人の 、ある哀れ な感 庸疾 患患者の病的 な妄 想の み を見出すの であれ ば、それ を他 の人 々に伝 えるの をため らうで しょ う。 しか し、私 は そ こに何 か それ以上 の もの、時代の記録 を見出すので洗 とい うの も、ハ ラーの精神病17 は ― 今 になつて私 もわかつたの です が ― 個人 の妄 想ではな く時代その もの の病 、ハ ラーの属す る世代 の ノイ ローゼだ か らで す0(203) P荒 野 の お お か み 』 の 大 部 分 を成 す の は 「手 記 」 で あ り、そ の 内 容 は あ くまで もハ ラー の 自己解 体 に い た るま で の 告 白 で あ る に もか か わ らず 、 この 「序 文 」 に よ つて 読 者 は物 語 が始 ま る前 か ら 彼 の 「手 記 」 を 「時代 の記 録 」 と して 読 む とい う態度 を 求 め られ る。 そ も そ も こ こで 述 べ られ る 「時 代 そ の もの の 病 、 ハ ラー の属 す る 世 代 の ノイ ローゼ 」 とは 一 体何 を 指 して い るの か 。作 品 の 舞 台 で あ る ワイ マ ー ル 共 和 国 時 代 、そ れ は 「あ るひ とっ の世 代 が ま る ご と二つ の 時 代 と二つ の 生 活 様 式 の 間 に は ま り込 み 、 あ らゆ る 自明 の こ と、 あ らゆ る習 慣 、そ して あ らゆ る安 心 も無 邪気 も 彼 らか ら失 わ れ て い く曙 匂(204)と 作 品 中 で は表 現 され て い る。具 体 的 には 「ヴ ィル ヘル ム 主 義(Wilhelminismus)と 西 欧 民 主 主 義 、伝 統 主 義 とア メ リカ ニ ズ ム 、 ナ シ ョナ リズ ム と社 会 主 義 とい う ワイ マ ー ル 共 和 国 に お け る相 反 す る政 治 的極 端 」18の 狭 間 に あ っ た時 代 と言 うこ とが で き る で あ ろ う。 ヘ ッセは この 「二っ の時代 に挟 まれ た時代1を 都 市の姿で描 いて見せ た。 しか し、 ここまで見 てきた よ うに、20年 代の都市 文化 を代表す るダンスや ジャズの ようにハ ラー が嫌 悪す る もので

17こ の 作品 に は ハ ラー の 身 体 を特 徴 づ け る あ の 苦 痛 や病 の他 に、感1青痴 患(Gem skrank)、 精神 病(Seelen一 krank)、 ノイ ロー ゼ患 者(Neurotiker)、 精 神分 裂 病 者(Schizophrene)と い っ た 精 神 に 関 す る 病 の 名 前 が頻 繁 に 登場 す る。 ま た 、 「手 記 」 と 「論 文 」 の タイ トル に は どち らに も小 さな 文 字 で 「狂 人 の た め だ けに

(Nur f Verr kte)」 とい う但 し書 きが付 され ている。 これ らの精神 病の名前 や 「狂人」 とい う言葉 は、 引きず る足同様 ハラー とい う存在の キー ワー ドである。知 り合いの教授の家を訪 問 したハ ラーは、その教授 の国粋主義的 な言動 へ のい らだ ちを、彼 の妻 が大切 にす るゲーテの 肖像画への批判 としてぶ ちまけた後、教 授 に詫び、 「奥 さん には私は精 神分 裂病者 である と伝えて下 さい。」(GWB(17,5.267)と 言って立ち去って いるが、この こ とが立纈勺に示 すよ うに、ハ ラーが しば しば自嘲気味 に口にす る 「精神病者」 とい う言 葉は こ 僻 撚 時 代に順応す る ことので きない、あるいは受け入れ られ ない 「荒野の おおかみ 」とい う存在の別称 とな つてい る。 18Huber

, Peter:Der Steppenwolf. Psychische Kur童m deutschen Maskenball. In:Intezpretationen Hermann Hesse. Romane. Stuttgart 1994,5.76-112, hier 5.84.

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あって も、そ の嫌 悪こそ がフモール によつて打 ち破 るべ き偏見 として扱 われ るもの もある。一方 で、古 い町並みに氾濫 す る広告 群、合理化 された埋葬 場、撮影技術 を売 り物にす る宗教 映画 とい つた、い わば精神 の消失 に対す る批判 が、この都 市の中に はあ ちこちに散 りばめ られ描 かれてい る。19ま た、魔 術劇場の 「自動車狩 り」の部屋で は 自動 車に代表 され る機 械 文明 と人 間の殺人欲 が手を結 んで 、現代社会 が可能 に した大量殺鐵 のイメー ジを映 し出 していた。 この よ うに、作者 は確 か に時代や社 会に対す る批半llを作品の 中では っき りと表明 してい る。 しか し、それ らの批判 は ― この時代 を作 者自 ら 「狭 間の時代 と定義 しなが らも ― 二つ の時代 、二つ の文化 の どち らかの立場か ら行 われ た ものではない ことがわか る。 どち らか、あるいは何 かたつたひ とつの論理が全 てを解 決す るか のよ うな錯覚 、そ こに生まれ る極端な思考 、それは作者 に とつて最 も憎 んでいた もので あつた。 こ こに彼 が 「狭 間の時 代」に 感 じてい た病 理を見るこ とができ る。 「論文」で は 「市民 は、今 日異 端者 として焼 き殺 した り、 犯罪者 と して絞 首刑に処 した りした人のた めに、明後 日には記 念碑 を建 てる」(245)と して人間 の認 識の欺隔 が痛 烈に非難 され てい る。 またヘ ッセ 自身 、 「何 をや ってで も古 固 云統 を救 わん と し、反動的で極 度に国粋主義的 な政治的主張 を持っ一部 の学生達」20か らの 「憎 悪 の手細 に対 す る反論 をあえて若者 向けの雑誌 『ヴィー ヴォー ス ・ヴォー コー(Vivos鞭o)』 に発 表 し、そ の 中で 「この一面的で頑固な ドイ ツ精神 は(…)も し ドイ ツに世界 の諸 民族の 中で永遠 に孤独で、 苛立 ち、泣きべそ をか きつづけてほ しくな いと思 うのな ら、 もっ ともっ と器 の大 きい、柔 軟な ド イ ツ精神 とい うものにそ の座 を譲 らねば な らない。」21と つづ って いる。彼 が日割ざに求 めていた もの もま た、 自らがハ ラー に課 した極端化や単純化の克 服であ つた のではないだ ろ うか。 ハ ラー が そ れ を克服 す る こ とが で きな か った こ の物 語 は 、 「時 代 の 病 」 に 対 す る救 い もま た 描 く こ とは な い。 た だ、 「時代 」 の接 近 に ともな つ て主 人 公 に 与 え られ た 「身 体 」 の リア リテ ィ ― そ れ は 、 「論 文 」 で は 錯覚 に過 ぎな い と位 置 づ け られ た に もか か わ らず 、 な お もハ ラー が 生 き続 け な けれ ば な らな い 「狭 間 の生 」 の 表 象 と して 、1920年 代 ワイ マ ー ル 共 和 国 期 とい う 「狭 間 の 時代1へ の 作 者 の ジ レ ンマ を的 確 に、ま た リアル に 表 現 す る もの で あ っ た に ち が い な い 。そ して 、 作 者 に よ つ て 強 調 され た この身 体 の リア リテ ィ は 「像 」=イ メー ジ で は ない 時代 の 「現 実 」 を読 者 に体 験 させ る ので あ る。 6 結 び に 前作 『シ ッダ ール タ』 の美 しい メル ヒ ェ ン の世 界 に お い て 、ヘ ッセ は 唐 りや 救 い とい っ た抽 象 19各 々GW Bd7 , S―212, S.257£, S―3518参 照n

mHesse Hassbriefe .11921)In:Mat.,5.224-228, hier 5.224. z,Ebd .,5.228.

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的概念 をイメージの力 を借 りて描 きだす ことに よって、自らの文学的使命 に寄 せる理想を明 らか に した。 一方、『荒 野のおおかみ』 では救 い を示す ことは 目的 にす らされず 、そ こにあるのは解 決不 可能 な現実のみで ある。ヘ ッセの内面へ と傾いて ゆく創作 の流れの 中で、また表現に よつて 導 き手 とな らん とす る理想 の深 ま りの中にあって、この作品は一見矛盾 した位置 を占めてい るか の よ うに思われ る。 『荒 野のおお かみ』 とい う作 品の 目的 とは何であ ろ うか。 「序文」 では編者の視sか らハ ラー の 「手記Jが 「大きな時代 の病 を回避 やX化 に よって克 服す るのではな く、病その もの を表現の 文橡 とす る試 み」(203)で あ ると述べ られ ている。この議 はそのまま作 品その ものに 当て}まめ るこ とがで きよ う。 「表現の対 象 とす る」 ことlそ れ はすなわち魔 術劇場 でハ ラーが求 められ た よ うに、まず客 観視 す るこ とを求 める ものである。 しか し、それは単 に 自己 との関連 性を排除 して蚊帳 の外か ら4 :する ことで はな い。む しろ 自己 との結 びっ きの 中に置 きなが ら冷静 に真実 を見極 め る 「正視 」とい うべ きであ ろ う。 この ことを実現 させ るのがハ ラーの病 める肉体 の リア リテ ィであ った のではないだ ろ うか。 この作品 の執 筆当時 を含 めた生涯 を通 じて、ヘ ッセは痛風、座骨神 経痛、頭痛、歯痛、眼痛 、 消化 不良な ど多 くの健 康上の問題 に苦 しめ られ ていた。そんな彼 に とってなによ り身体 とは 自ら と深 く結びつ きなが らも思い通 りにな らない現実その ものであつたのか も しれ ない。身体 、とり わけ病め る身体 を付 与 され るこ とによってハ ラーは作者の等 身大の姿 とな り、その身体 を描 くこ とはヘ ッセ に とって 自己 と現実 を客観視 す ることを可能に した。 さらに、ハ ラーの 自身 に対す る 絶 望は時代 に対 する絶望なのだ と説 明す るヘ ッセは、この時代の病 の最 も強い症 状 としてr無 関 心の うちに戦争 が経 験 され 、す ぐにまた無 関心 に忘れ られた、この無関心(Wurstigkeit)」22を 挙 げてい る。ハ ラー 同様 「戦争 が繰 り返 され る準備」をこの無 関心の うちに敏感 に察知 していた 彼 に、 もはや メル ヒェンを描 くこ とは許 され なか つた。彼 が必 要 としたのはイメージではな く、 無関心 を正視へ と導 く確 かな リア リテ ィの力で あつた。そ してヘ ッセは、病 める身体 とい うリア ル によつて、読者 の眼差 しを時代 とい うも うひ とつの現実へ と向け、この新 しい試み によって 『荒 野のおお かみ』 の創作 にお いて もまた導 き手 であろ うとす るので ある。

詑Hesse:Brief an Erhard Bruder .(1928)In:Michels, Ursula und Volker(Hrsg.);Hermann薦 鯉. Cesamrrlelte Bzzefe Frankfiart a. M 1973, Bd2,5.198.

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Hally Hallers schmerzende

Beine

— Über die Darstellung des Körpers in Hermann Hesses

„Der Steppenwolf"

HIROKAWA Kaori

In seinem Roman „Der Steppenwolf", dessen Schauplatz eine große europäische Stadt in den zwanziger Jahren ist, stellt Hermann Hesse den Körper seines Protagonisten Hally Haller auf eine so realistische Weise dar, wie sie sich in seinen mittleren und späteren Werken nur selten finden lässt. Das Ziel meiner Abhandlung besteht darin, diese Körperdarstellung sorgfältig zu analysieren und ihre Funktion im Romanganzen zu verdeutlichen.

Hallers Körper und nicht zuletzt seine Beine sind von Schmerzen gezeichnet, die sein innerliches Leiden als Steppenwolf symbolisieren, eines Menschen also, der Abneigung gegen das bürgerlichen Leben und doch gleichzeitig Sehnsucht danach hat. Aber während Haller sich den Genüssen der Stadt, wie Tanz, Jazzmusik und Drogen hingibt, verschwindet der Schmerz nach und nach. In gleicher Weise verfolgt die Handlung die Fortbewegungen seines Körpers zunächst ganz genau, aber im Verlauf der Handlung werden diese Bewegungen fragmentarisch und verschwimmen zeitlich und räumlich. Damit verliert Hallers Körper das anfängliche Reale.

Die Ursache dafür liegt im „Traktat vom Steppenwolf`. In ihm wird die „Täuschung" Hallers, in der Dualität von Wolf und Menschen zu leben, enthüllt und konstatiert, dass die Blindheit der Vielfältigkeit des Geistes gegenüber auf der Einheit des menschlichen Körpers beruht. Der Protagonist liest den Traktat und fängt an, den Weg des „Entwerdens" seiner „vorgetäuschten" Persönlichkeit zu gehen. Gleichzeitig stellt sich der Erzähler der Aufgabe, trotz der körperlichen Einheit Hallers, dessen innerliche Vielfältigkeit auszudrücken. Als erste Stufe zur Erfüllung dieser Aufgabe muss Hallers realer Körper verschwinden. Im magischen Theater, wo Haller das „Entwerden" vollbringt und seine innerliche Vielfältigkeit erkennt, erfüllt der Autor sie durch die Umstellung des realistischen Körpers zu „Bildern" des Körpers im Spiegel.

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Dennoch endet dieser Roman mit der Ahnung, dass Haller irgendwo immer noch auf seinen schmerzenden Beinen die Treppen auf und ab geht und weiterhin das Leben in der Dualität fortsetzt. Dieser Schluss lehnt die Untrennbarkeit des realistischen Körpers als Hindernis fiir die Erkenntnis der Vielfältigkeit nicht ab, sondern betont durch sie, dass Hallers gespaltenes Leben selbst, das im Traktat als „Täuschung" definiert wurde, in der Tat nichts anderes ist als ein unlösbares Reales.

Hallers Leben in der Dualität spiegelt die Krise der „Zeit zwischen zwei Zeiten" in den zwanziger Jahren wider. Der Autor läßt die Krankheit der Zeit auf der einfachen Polarisation des Gedankens beruhen. Hier hat das Reale des schmerzenden Körpers die Funktion, den Leser die Wirklichkeit der Zeit selbst erfahren und aus der „Wurstigkeit" erwachen zu lassen, in der Hesse damals „die Vorbereitung für den nächsten Krieg" sah.

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