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关 于 学 位 论 文 使 用 授 权 的 说 明 本 人 完 全 了 解 清 华 大 学 有 关 保 留 使 用 学 位 论 文 的 规 定, 即 : 学 校 有 权 保 留 学 位 论 文 的 复 印 件, 允 许 该 论 文 被 查 阅 和 借 阅 ; 学 校 可 以 公 布 该 论 文 的

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清 华 大 学

综 合 论 文 训 练

题目

清朝末期における「中国保

全論」

―「盛京時報」を中心に

系 别:外国语言文学系

专 业:日本语言文学

姓 名:任可欣

指导教师:陈爱阳 副教授

2015 年 6 月 4 日

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关于学位论文使用授权的说明

本人完全了解清华大学有关保留、使用学位论文的规定,即:学校有 权保留学位论文的复印件,允许该论文被查阅和借阅;学校可以公布该论 文的全部或部分内容,可以采用影印、缩印或其他复制手段保存该论文。 (涉密的学位论文在解密后应遵守此规定) 签 名: 导师签名: 日 期:

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I

摘 要

中日甲午战争后到清朝统治结束这一时期的中日关系复杂多变。而这一时期 的日本对于中日关系也十分重视,为此提出了许多对中政策。“中国保全论”就 是若干对中政策中非常有代表性的一个理论。东亚同文会作为日本近代史上重要 的文化团体在建设初期将“中国保全”写入其纲领。此后,东亚同文会在中国开 展了包括办学办报多种多样的文化活动,《盛京时报》即是东亚同文会新闻事业 的重要一环。本论文对《盛京时报》当中透露出东亚同文会“中国保全论”的立 场进行分析,找出两者间的关系。同时也对东亚同文会的文化活动进行了总结并 对其组织性质进行了再探讨。 第一章,介绍了本文的研究背景和目的。近代中国,日本人在华展开了报业 活动,同时也提出了以“中国保全论”为代表的几种对中政策。 第二章,对既往研究和研究方法进行了阐述。重点放在已有的《盛京时报》 宣传研究以及东亚同文会的“中国保全论”的总结上,取其精华发现不足。 第三章,针对东亚同文会展开论述。综述了其成立和文化活动,并通过各种 史料证据对其性质进行再探讨。 第四章,本章中心为东亚同文会提出的“中国保全论”。主要对近卫笃麿以 及陆羯南的“保全”思想进行描述,并对他们提出“保全论”的原因进行分析。 第五章,结合1906-1911 年的《盛京时报》的报道内容,找出其中可以代表 “中国保全论”的部分,在内容上进行分析。 第六章,总结全文内容,提出本文不足之处和今后的改进方向。 关键词:中国保全论;东亚同文会;盛京时报

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II

要 旨

日清戦争後から清帝退位にかけての中日関係は複雑である。日本もこの時期の 中日関係を非常に重視していたため、多くの対中策を打ち出した。これらの対中策 の中で、「中国保全論」は代表的な理念の一つである。東亜同文会は日本近代史に おいて重要な文化団体として「中国保全」を成立の綱領に記した。その後、東亜同文 会は中国での学校開設や新聞発行を含め、様々な文化活動を展開していた。「盛京 時報」は東亜同文会の新聞事業の重要な役割を務めた。本稿は盛京時報における 「中国保全」の立場を分析し、両者の関係を探ろうと考える。また、東亜同文会の文化 活動を整理し、東亜同文会の組織の性質を再検討した。 第一章、本稿の研究背景と目的を紹介した。日本人は近代中国で新聞活動を行う と同時に、「中国保全論」を代表とするいくつかの対中策を打ち出した 第二章、先行研究と研究方法について述べた。今までの盛京時報の宣伝に関す る研究と東亜同文会の「中国保全論」に関する研究のまとめを中心とする内容となっ た。 第三章、東亜同文会に関して論述した。東亜同文会の成立と文化活動を整理し、 様々な資料を根拠としてその性質を再検討した。 第四章、本章は東亜同文会が主張した「中国保全論」を主な内容にしている。近 衛篤麿及び陸羯南の「中国保全論」思想について叙述した。また、「中国保全論」が 打ち出された理由を分析した。 第五章、1906 年から 1911 年にかけての盛京時報の報道内容を参考にしながら、 その中の「中国保全論」を体現している部分を抽出し、内容の分析を行った。 第六章、全文の内容を総括し、本稿の不足を指摘するとともに今後の課題を提起 した。 キーワード:中国保全論;東亜同文会;盛京時報

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III

目 录

第 1 章 研究背景と研究対象 ... 1 1.1 問題意識 ... 1 1.2 研究対象 ... 1 1.3 研究目的 ... 1 1.4 研究意義 ... 2 第 2 章 先行研究及び研究方法 ... 3 2.1 先行研究からの示唆 ... 3 2.1.1 清朝末期における日本人の新聞活動に関する先行研究 ... 3 2.1.2 中国保全論に関する先行研究 ... 4 2.1.3 『盛京時報』に関する先行研究 ... 5 2.2 問題点 ... 6 2.3 研究方法 ... 6 第 3 章 東亜同文会 ... 7 3.1 成立背景 ... 7 3.2 成立過程 ... 8 3.3 文化活動 ... 9 3.3.1 学校創設 ... 9 3.3.2 新聞事業 ... 11 3.4 性質 ... 14 第 4 章 東亜同文会の中国保全論 ... 17 4.1 背景 ... 17 4.2 内容 ... 18

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IV 4.2.1 近衛篤麿の中国保全論 ... 18 4.2.2 陸羯南の中国保全論 ... 19 4.2.3 提出理由 ... 20 第 5 章 盛京時報における中国保全論 ... 22 5.1 近衛篤麿の観点体現 ... 22 5.1.1 同人種同盟 ... 22 5.1.2 列強協調と安定秩序 ... 24 5.2 陸羯南の観点体現 ... 24 5.2.1 文明立場 ... 24 5.2.2 現状維持 ... 26 5.3 中国保全の体現 ... 28 第 6 終わりに ... 30 6.1 結論 ... 30 6.1.1 東亜同文会について ... 30 6.1.2 中国保全論について ... 31 6.1.3 盛京時報における中国保全論について ... 31 6.2 本稿の不足と今後の課題 ... 31 参考文献 ... 33 致 谢 ... 35 声 明 ... 36 附录 A 外文资料的调研阅读报告 ... 37 附录 B 《盛京时报》相关报道整理 ... 46

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第1章 研究背景と研究対象

1.1 問題意識

19世紀後半から、中国では外国人が出版機関を創設し、その機関が発行する新 聞が普及し始めた。その中で、日本人が創刊し、編集した新聞も多数あり、それらの 特徴を分析することは、とても意義深く、また、その内容を正確に理解することは必要 不可欠であると思われる。 東亜同文会は文化侵略の組織だという評価は、中国現代史に於いて、ほぼ定説と なった。その理論の一環として、東亜同文会は「中国保全論」を打ち出した。20世紀 前半に、この「中国保全論」を宣伝することは、日本の中国における新聞活動の重要 な目的になった。 日露戦争での勝利は、日本の中国に対する独占意欲を高めた。その後、如何にロ シア勢力を中国から追い出すかという問題が、次第に日本の大陸政策の中核の一つ となった。清と連携し、ロシアを排除するため、日本政府と日本の民間機関が多様な 手段を採用したが、宣伝政策の面に於いて、「中国保全論」の果たした役割は特に 注目すべきものである。

1.2 研究対象

本研究は東亜同文会、東亜同文会の文化活動、「中国保全論」と「盛京時報」を 研究対象とする。

1.3 研究目的

中国における東亜同文会の新聞活動をはじめとする文化活動を簡単にまとめ、評 価する。 中国保全論の提起と東亜同文会による中国保全論の発展と継承の過程を明らか にする。

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2 清朝末期の盛京時報における「中国保全論」に関する記述を分析すること。

1.4 研究意義

近代中国における日本人の新聞活動を整理研究し、近代中国の新聞発展の様子 を再現する。 「中国保全論」の起源と伝播について、より詳細に討論し、その経緯を明晰化す る。 盛京時報の研究を通し、清朝末期における日本人の発行する新聞の宣伝法を検 討することで、これからの研究者に参考資料を提供する。

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第2章 先行研究及び研究方法

2.1 先行研究からの示唆

2.1.1 清朝末期における日本人の新聞活動に関する先行研究 2.1.1.1 周佳栄 周佳栄氏は「近代日人在华报业活动」①において、近代中国の新聞事業は 19 世 紀の初期に始まったが、最初の新聞のほとんどは中国に滞在する外国人の手によっ て始まったものであると述べている。1894 年の日中戦争まで、中国は「外報」に統制 されていた。中国において外国人が営む新聞事業の活動実績を国別にみると、イギ リスの次に日本が挙げられる。 日本人が新聞事業を開始したのは諸外国に比べ、大幅に遅れていた。19 世紀の 末期になると、日本の国益に有利な世論を作るために、日本人は中国に入り、新聞 事業を始めた。清朝末期では、治外法権があったため、数多くの日本人が中国に渡 来し、商業をはじめとする一連の事業を行っており、新聞事業が盛んになるのもごく 普通のことであった。 2.1.1.2 方漢奇 方漢奇氏の「中国新闻传播史」②は外国の新聞紙は侵略活動の一環であると主張 する。 まず、日本人の発行する新聞は、政治性色濃い内容となっており、侵略行為に直 結する機能、つまり侵略行為を美化するといった、侵略行為を正当化する機能しかな い。しかし、一部の新聞はそれとは異なり、純粋な商業利益ために、中国人を刺激す る記事や社説を控えている。 また、外国人が発行する新聞はいつも内容の「公正性」を掲げている。 ① 周佳荣. 近代日人在华报业活动[M]. 湖南:岳麓书社,2012 ② 方汉奇. 中国新闻传播史[M]. 北京:中国人民大学出版社,2004

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4 2.1.2 中国保全論に関する先行研究 2.1.2.1 東亜同文会 中島真雄が編纂した「対支回顧録」①は以下のように記述した。東亜会と同文会が 合併してから、「支那保全論」は新組織である東亜同文会の最初の政治的主張とな った。東亜同文会によると、日本は朝鮮と中国と連携すべきであって、その連携によ って、初めて東アジアの共同繁栄を実現できる。 2.1.2.2 松本三之介 松本三之介氏の著書「近代日本の中国認識」②によると、「中国保全論」は時代の 移り変わりに従い、変化するものである。最初は中国を独占する可能性を探り、日本 による安定した統制を目指していたが、その後日本政府と日本の民間機関の中国に 対する認識が変化したことによって、次第にこの理論が明確化したのである。 2.1.2.3 翟新 翟新氏は「近代日本民间团体的对华政策理念——以东亚同文会的“中国保全 为中心」③において、日本の対外政策に大きな影響を与えたのは東亜同文会の中国 保全論であり、この中国保全論には二つの特徴がある、と論じている。一つ目は、日 本が欧米との関係を重視している点である。二つ目は、保全の目的は、日中両国の 連携ではなく、中国領土の現状維持が日本の利益に資するという戦略に基づいてい たということである。 2.1.2.4 西田毅 西田毅氏は著書「近代日本政治思想史」④で、中国保全論を提唱した東亜同文会 の会長である近衛篤麿の最終目的はアジア主義を実現するということであると述べて いた。これもアジアモンロー主義だと言える。 2.1.2.5 山田良介 ① 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981 ② 松本三之介 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011 ③ 翟新. 近代日本民间团体的对华政策理念——以东亚同文会的“中国保全”为中心[J]. 上海大学学报:社会 科学版, 2006, 13(2):34-38. DOI:10.3969/j.issn.1007-6522.2006.02.006. ④ 西田毅. 概説日本政治思想史[M]. 京都: ミネルヴァ書房,2009

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5 山田良介氏は自著論文「東亜同文会の中国保全論に関する一考察—— 『東亜時 論』における議論を中心に——」①にて、「保全論」は東亜同文会だけが主張したので はなく、大隈重信や犬養毅をはじめとする「対外硬派」も中国の「保全」を主張したと 述べている。この「保全」に相対するのは、山県有朋や伊藤博文などが主張した中国 を「分割」すべきという理論である。また、東亜同文会が主張する「保全論」を誰が実 行すべきか、という主体について、英露協商以前は日本と英国としていたが、英露協 商以後は勢力圏拡張に伴い変化するものだ、と述べている。その後、「分割」論者は 「保全」論者に接近した。 2.1.2.6 朴信羊 朴信羊氏の「陸羯南の政治認識と対外論(3)」②には、東亜同文会の重要人物陸 羯南の思想に関する論述がある。東亜会の中心人物で、東亜同文会の初代幹事を 務めた陸羯南は、日本は「正義自由均等平和博愛」精神を体現する国だと主張して いたので、対清策において「支那保全」を第一義的な外交政策と据えていた。 2.1.3 『盛京時報』に関する先行研究 2.1.3.1 東亜同文会 「対支回顧録」によると、日本政府や中国在住の日本の民間人は、清朝末期の中 国東北地域において対ロシア宣伝を展開する必要があると認識しており、ロシア勢力 と全面的に対抗するため、東北での新聞事業を始めた。中島真雄は北京の『順天時 報』から満州に移り、『盛京時報』を創刊した。 2.1.3.2 劉愛君 劉愛君氏の「日本侵华新闻史研究——以创刊初期的『盛京时报』为中心」③ 菊池貞二の文章を引用し、『盛京時報』を創刊した主要な目的は中国東北地域の植 民地において国論宣伝を行うことだったと説明した。日本人が「盛京時報」を舞台に ① 山田,良介. 東亜同文会の中国「保全」論に関する一考察 : 『東亜時論』における議論を中心に[J]. 九 大法学, 2003, 85. ② 朴羊信. 陸羯南の政治認識と対外論(3) -公益と経済的膨張 [J]. 北大法学論集, 1999, 49. ③ 刘爱君. 日本侵华新闻史研究——以创刊初期的《盛京时报》为中心[J]. 大连大学学报, 2012, (4):41-45.

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6 して、ロシアに対抗する「抱負」と中国東北を植民化する「理想」が窺える。 2.1.3.3 趙建明 趙建明氏は「近代辽宁报业研究(1899-1949)」①で「盛京時報」を次のように評価し た。『盛京時報』は現地の中国人を対象とした新聞で、その内容は非常に豊富である。 そのため、一日の販売数が一万部に達した。

2.2 問題点

盛京時報の宣伝方法やその特徴に関する研究は比較的少なく、盛京時報を創刊 した東亜同文会が提唱した「中国保全論」に関する研究は更に稀少である。したがっ て、盛京時報における「中国保全論」の宣伝方法の研究は事実上なされていない。

2.3 研究方法

A 新聞の内容の分析と比較 B 歴史背景での日中関係の分析 C マスコミ伝播 ① 赵建明. 近代辽宁报业研究(1899-1949)[D]. 吉林大学, 2010.

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第3章 東亜同文会

3.1 成立背景

1897 年、「ドイツが膠州湾を占領し、日本が東亜の形勢が益々危急を告げ、欧州 列強が虎視眈々と呑噬の機会を覗く」①と言われていた。しかし、日本は「由来、我国 の国是とする所のものは、東洋永遠の平和確保てる崇高なる使命を達成せんとする」 ②「蓋し我国が東洋平和確保の使命に則つて東亜の経綸に当たらんとするには、先 づ以て亜細亜に存する諸国の独立を確保し、其文明を進めその実力を増さしめ、相 倚り相輔け互ひに結合せる力を擧げて欧州の侵略的進出の大勢に抗することが必 要なのであつて、是れは」③この背景を踏み、中国が列強に分割されるという運命を 避けるために、日本の政治家及び有志学生たちが様々な団体を結成し、団体を中心 として、文化や経済などの活動を展開した。 これらの団体の中には東亜会と同文会という二つの団体があった。東亜会は、日 清戦後中国問題に関心を持った帝国大学や早稲田専門学校の学生たちが参謀本 部の人を招請し講演を行ってもらうといった活動に基づき成立した団体である。1898 年、日本橋偕楽園に陸羯南、三宅雄二郎、犬養毅など計九名が会合を開き、東亜会 が成立した。その際、以下の四項目が定められた 機関雑誌を発行し江藤新作之を担当す 時事問題を研究し所見を時々発表す 横浜、神戸居留清国中篤志家を入会せしむ 光緒帝と補佐して変法自彊の局に当れる康有為、梁啓超等の入会を許すこと 東亜会は日中関係を中心として活動を展開しており、中国への外交野望が窺え る。 同文会は 1898 年、井手三郎が中国在住の日本人有志を代表し、近衛篤麿と話し ① 黒竜会. 東亜先覚志士記伝[M]. 東京:原書房,1977:396 ② 黒竜会. 東亜先覚志士記伝[M]. 東京:原書房,1977:606 ③ 黒竜会. 東亜先覚志士記伝[M]. 東京:原書房,1977:606

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8 合い、中国人を啓発し、当時の東アジアの時局を変革する組織の成立を提唱して作 った公益団体である。 この同文会の加入者は前述した井手三郎をはじめとする中国在住の日本人有志 たち(岸田吟香、宗方小太郎、中西正樹、中島真雄など)以外に、東亜会に属する陸 羯南と犬養毅も含まれていた。 東亜同文会もこの背景の中で成立した団体の一つである。

3.2 成立過程

東亜会または同文会の成立目的は、当時の中国の時局を鑑み、日中関係を重視 しながら、民間活動を行うというものであった。したがって、東亜会と同文会の合併は ある程度必然的なことだと言えるかもしれない。 1899年、東亜会及び同文会の合併条件が一致し、神田萬世倶楽部に近衛篤麿を 座長とする会議が開かれ、東亜同文会という合併後の名称が決められた。その後、 東亜同文会の成立記念式典を行い、綱領書及び主意書を決定した。東亜会系は孫 文の革命を支持したのに対し、同文会は清朝滅亡後も依然として清帝を擁護した。 綱領書の主な内容は以下の通りである。 支那を保全す 支那及び朝鮮の改善を助成す 支那及び朝鮮の時事を討究し実行を期す 国論を喚起す 主意書も日、文化相通、風教相同の清、韓三国の連携を強調し、三国の政府並び に三国の役人たちの力を合わせ、当時の時局の対応をすることを主張した。① なお当日、東亜同文会の役員も決められた。会長は近衛篤麿、副会長は長岡子、 幹事長は陸羯南であった。幹事の中で、その後の中国での日本新聞業に多きく貢献 した中西正樹がいた。そのほか、東亜同文会の創立に最も尽力した評議員の一人と して、前述の犬養毅もいた。 ① 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:679ー681

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9 中国の時局を救うために創立した団体の東亜同文会は、日本のみならず、中国の 各地区に支部を設置した。中西正樹を北京支部長に、宗方小太郎を漢口支部長に、 井手三郎を上海支部長に、中島真雄を福州支部長に、高橋謙を広東支部長とし、そ の配下に補助員がつけられた。 1901 年、亜細亜協会とも合併し、亜細亜協会から恩賜金の提供を受け、及び子爵 榎本武揚等が入会した。 東亜同文会は二つの団体が合併して成立した団体なので、団体間になんの隔た りがないわけではない。新聞に見る日中関係史によると、「東亜会は青・壮年知識が 多く、溌剌、新鮮な知識を持って集い、同文会はすでに一家をなした壮年行動派が 多く、中国に対しては多年の経験と地盤を持って集まっているので先記の対改革派 問題にしても、東亜会が先進的になり、同文会が現状維持的になるのは当然だとの ことであろう。」①と述べている。また、具体的な主張については、東亜会も同文会も 「時局匡救」を提唱したが、東亜会の重点は「支那問題研究」にある一方、同文会は 「支那人の啓発」であった。例をあげると、辛亥革命の際、「東亜会」系は孫文の革命 を支持していた一方、「同文会」系は清の皇帝を擁護した。②

3.3 文化活動

東亜同文会は文化団体として、文化活動を基礎として、様々な活動を展開した。 最も重要な活動が二つある。一つ目は中国における日本人留学生及び中国人学生 を対象とした学校の創設である。二つ目は中国の各地域で新聞事業を展開すること である。 3.3.1 学校創設 3.3.1.1 南京同文書院 1900 年、東亜同文会の会長の近衛篤麿が欧米歴訪の帰途、南京在住の総督劉 坤一を訪ねた。劉坤一は、東亜同文会が南京に教育施設を設ける際、多大な支援を ① 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:128 ② 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:129

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10 行った。、1901 年、年経費に関してとりまとめ、中国における各支部を説得した後、南 京に同文書院を開設した。南京同文書院は前身と称すべき日清貿易研究所閉鎖後 から八年後に、対清教育機関が設置されたという点において最も意義深いことであっ た。日清貿易研究所は、義和団の擾乱が次第に南方に波及し、南京も危険だと考え られたことから一度閉鎖され、根津一院長の意見に基づき、上海に移転して東亜同 文書院に改称した。 3.3.1.2 東亜同文書院 南京同文書院は 1901 年四月新たに上海に移転して、その陣容を一新した。1901 年東亜同文書院が設立された。授業の内容は中国語、中国の経済、歴史などが含 まれていた。中国における人材育成が目標に掲げられた。学生は日本全国から募集 した。第一期は私費生十八人、公費生五十一人、全部六十九人になった。第一期生 が卒業したころ、日露戦争が勃発し、卒業生の中で従軍した者も多かった。 東亜同文書院は創立以来1923年に至る二十三年間で、二千五百名の卒業生は 大概中国に関係ある各方面の仕事において活躍した。この二十三年間、校舎も戦争 により全焼したが、新築の校舎ができた後、また長崎から上海の新校舎に移った。院 長の根津一も二十三年間その職に従事し、大きな成果を残したということであった。 東亜同文書院は大正十二年に正規の専門学校に昇格し、昭和二十年日本の敗 戦により、東亜同文書院は閉鎖になった。昭和二十一年、東亜同文書院の旧学生・ 教職員たちを収容し、愛知大学を開設した。そのため、東亜同文書院も愛知大学の 前身と言える。 東亜同文書院は今の中国では日本の文化侵略組織と思われているが、東亜同文 書院が中国通の人材を多く育成し、中日関係に貢献した。また、東亜同文書院の学 生たちが中国に対する多くの研究は今の重要な研究資料となった。 3.3.1.3 中日学院 中日学院は東亜同文会の事業の一つとして天津に設立された教育施設である。 中国人に対して中等並びに高等普通教育を施し、同時に日本語を通じ、日本に通じ た人材養成ことを目的にして、1921年天津で同文書院が創立された。1926年、中

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11 国側も在日留学生のために予備校の教育機関の設置が必要だという議論があった。 この目的は同文書院の目的に一致したため、中国側と東亜同文会側の合意のもとで、 同文書院は中日学院と称した。 中日学院は百名以上の学生を育成し、当時の中国北方における模範校と推奨さ れていた。 東亜同文会と精神を継承したのは、日本の一般財団法人霞山会である。霞山会 は今現在中国に関する文化交流を行う文化組織で、今でも中国語と日本語の学校 の東亜学院を経営している。 3.3.2 新聞事業 3.3.2.1 漢報 1897年、宗方小太郎が経営を始め、日本人が発行した最初の漢字新聞である。 宗方小太郎は1890年以来新聞発行は中国の指導機関と認識し、様々な遊説を行 った。日清戦争により、これらの活動を一時停止したが、戦後海軍面からの助けによ り、中国人が経営していた「漢報」を買収し、名称はそのまま使い、漢報を発行した。 漢報は江漢地域において堂々と中国の官民の覚醒を鼓吹したので、その言論は 守旧派に抵触した。従って、時の湖広総督張之洞は漢報禁買令を布告した。そのた め、漢報は経営困難に陥り、1901 年銀三千両にて張之洞に売り渡すに至った。 3.3.2.2 閩報 1897 年乃木希典は新たに台湾総督に務め、積極的に対岸工作を行ったので、翌 年宗方小太郎を招致し、対岸政策について諮問した。宗方小太郎の日記により、宗 方はいくつの提案をあげたが、採用されたのは「閩報」の創刊一つだけであった。閩 報の創刊は日本の対中政策の一部だと言えるだろう。中島真雄も次のことを述べて いた。「閩報は南支那に対する施設の一部であった。」①閩報の創刊意図がもっと明 らかになる。 その後、宗方の同行の井手三郎が福州に渡り、同地在住の前田彪と協力し、中国 ① 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:102

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12 における排日を考え、1898 年在来福建人の「福報」を買収し、名称を「閩報」に変え、 「閩報」を創刊した。後の経営は前田に一任したのである。1899年、児玉源太郎は台 湾総督に赴任し、積極的に対岸政策を実行したので、閩報の経営も拡張した。 閩報は日本の言論機関になり、四十八年続き、日本敗戦により廃刊になったという ことである。 3.3.2.3 同文滬報 1900 年、東亜同文会は姚文藻が経営している「字林滬報」を買収し、「同文滬報」 に改名し、東亜同文会の事業の一つとなった。井手三郎を社長として事業を展開し ていたが、その後、同文滬報は井手三郎の個人事業になった。 同文滬報の発刊の時、義和団事件により中国における対日感情が強かった。この ことに対して、対支回顧録は次のように述べていた。「我日本の行動につき誤解する もの多く、国交上不利の形勢にあつたが、本報善く其真相の報道に勉め、国是を擁 護した功績は多大であった。」そのほか、同文滬報も日露戦争の間、戦争報道に大き な役を立っていた。同文滬報は新聞としても、日本の言論機関としても、重要な存在 だと言っても過言ではない。 同文滬報は中国の維新志士と深い関係があった。東亜同文会の「時局匡救」の趣 旨はここから窺える。 1908 年同文滬報は買収され、廃刊になった。 3.3.2.4 順天時報 順天時報は 1901 年に北京で発行された中国語の日本新聞であり、北京近代新聞 の発端であった。創業者は東亜同文会の中島真雄であった。対支回顧録によると、 「本報は義和団事変後の、1901 年、中島真雄の個人経営として、創立したものである。 元来清国政府は、内外人を問はず北京に、新聞雑誌其他政事上に係る刊行物を絶 体に禁止して許さなかった。」①しかし、中島真雄は当時の清廷が西安に避難したこと を機に北京で新聞を発行することにした。 ① 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:717

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13 日露戦争の際、ロシアは言論機関を作るため、露清銀行の資金を借り、北京で燕 都報を発行したが、順天時報が四年間の西力東漸の「実相」を鼓吹したため、ロシア の言論上の努力はほとんど効果がなかった。日露戦争における順天時報のロシアに 関する宣伝は以下のようになった。「且つ明治三十六年頃より対露主戦論を主張し、 露国の内部を暴露して、其畏るにたらざるを政府及び民衆の間に植附けたのと、開 戦以来日々の新聞及び号外を各城門に人を派して無代散布した。」①そのため、ロシ アの燕都報は廃刊に至った。 順天時報を創業した当初、中国改革を呼びかけ、東亜同文会の支那保全論を中 心として日本の近代化制度を紹介し、明治維新の代表人物の伝記を掲載し、中国が 日本の先進的な経験を学び日本の近代化道路を選ぶべきだと主張した。このような 言論は中国の官僚知識階層のなかで大きく受け入れられた。 昭和五年廃刊になった。 3.3.2.5 盛京時報 盛京時報は 1906 年、日露戦争後、中島真雄が創業した中国語新聞であった。盛 京時報は帝国の南北満州の利益のため、満鉄の事業と帝国の対支政策を支援する 点において、唯一の中国語新聞として創刊して以来、多くの貢献をしてきた。 対支回顧録によると、盛京時報が創刊した時は厳しい状況に直面していた。「当時 露国の機関新聞である遠東報が本社をハルピンに置き、其豊富なる資源を抱いて新 民屯、奉天以北及び東部蒙古を其販売領域となし、尚ほ此等地方は、戦後尚露国 領区内に圧迫したのは、尋常の努力ではなかった。」② 盛京時報の経営陣はほとんど東亜同文書院の卒業生であった。主筆の菊池貞二 は 1906 年に東亜同文書院より卒業し、盛京時報に入り、新聞生涯を始めた。漢文が 堪能で、数年間主筆から主編まで盛京時報及び中国東方地域における日本の宣伝 に多大な貢献をした。中島真雄は対支回顧録で次のように菊池貞二を評価した。 「而して主筆菊池貞二は、創業以来独り本社の誇りとするのみならず、満州新聞の明 ① 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:718 ② 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:719

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14 星で、其光輝は今猶ほ満州の山河を照らして居る。」① 宣伝内容は中国が日本のおかげで、「保全」ができ、日本と協力し、ロシアを退治 すべきだということを強調しながら、国民教育を通した中国の繁栄をを主張していた。 これも盛京時報の創刊目的の効果であるだろう。 1906 年から敗戦までの昭和二十年三十九年間続いた盛京時報の内容は多様で、 評論・中国時勢・民国要聞・欧米時事・日本近状・各国ニュース・東三省要聞・経済コ ラム・物価などのニュースや時事に関するコラムを含めていたと同時に、小説・詩歌・ 筆記などの文芸作品もよく記載していた。②そのため、盛京時報は当時の中国を研究 する重要な資料になる。盛京時報は東北、順天時報は華北において日本最も重要 な言論機関だと言える。③ 盛京時報は日本の勢力が中国東三省に進出したとともに創刊し、日本の敗戦と同 時に廃刊したことは偶然ではないだろう。

3.4 性質

今現在の中国の学界には、東亜同文会の性質に対してすでに「東亜同文会は文 化侵略組織であり、対華侵略の特務機関である」④のような定説がある。また、東亜同 文会は民間団体か、または政府側団体かということにはまだ疑問がある。確かに、東 亜同文会は学校開設や新聞創刊などの文化活動により、日本の侵略政策を宣伝し、 中国に関する情報を収集した。この視点から見ると、文化侵略組織または特務機関 の定説は間違いないようだが、構成員が複雑な東亜同文会に関しては、この説がた りないだろう。 文化組織であると思われている一方、東亜同文会の公益性を無視すべきではない と思う。会長の貴族の近衛篤麿は五年間ヨーロッパ留学し、1897 年に三十三歳で貴 族院議長に就任した。「近衛は、資産と名誉を有している華族は国家と国民のために ① 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:720 ② 周佳荣. 近代日人在华报业活动[M]. 湖南:岳麓书社,2012:85 ③ 周佳荣. 近代日人在华报业活动[M]. 湖南:岳麓书社,2012:85 ④ 东亚同文会编,胡锡年译. 对华回忆录[M]. 北京:商务印书馆,1959:5

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15 奉仕すること、言い換えれば『公益』のために働くことにその存在意義があると考えて いたのだろう。」①東亜会の重要人物の陸羯南もその理由で同文会を組織した近衛 篤麿に接近した。陸羯南の自著によると「貴族なる貴き所以は、啻に其の地位の貴き と其の爵禄なるとも以て貴きにはあらず、其の職分の重くして報国の義務を尽すことと 遠く庶民の上に秀づるが故にあらずや。」②というのは陸羯南が貴族としての存在理 由が公共性にあると認識していた。そのため、陸羯南は公益性を体現した近衛篤麿 に傾倒していた。近衛篤麿の思想の中にはこの公益性もあると思い、このことについ ては後に述べる。 また、一般的に東亜同文会は民間組織または半政府側だと認識されている。しか し、東亜同文会の資金の出所から分析すれば、また別の答えが出るだろう。 東亜同文会の基本年金の四万円は外務省が出資し、対外活動の方針は外務省 の承認を得なければならない。学校や新聞事業を維持する主な資金はこの四万円か らであろう。同文滬報の買収金は年金からもらったと思われる。③漢報を買収するため の資金を出したのは海軍省軍令部を含め、海軍大将西郷従道と台湾総督の樺山資 紀であった。④また、閩報の初期資金も宗方小太郎が台湾総督からもらったという記 述がある。⑤ そのため、東亜同文会の資金はほとんど政府側が出資したのである。 1901 年、外務省は新聞の内容をどう操作するかという基本的な方針を決定した。⑥ つまり、中国で発刊された日本人の新聞はすべて、外務省の統一的な方針の下で出 版することになったのである。したがって、その後日本人が発刊する新聞すべて、あ る程度日本外務省の意向を体現している。中島真雄も順天時報を 1905 年に日本公 使館に任せ、東北に赴き、盛京時報を創刊した。新聞以外の学校事業に関しては、 政府側の力も散見される。南京同文書院を開設する前に、駐上海総領事の小田切 小田切万寿之助は外務相の青木周蔵から許可を得た。⑦南京同文書院も政府の意 ① 朴羊信. 陸羯南の政治認識と対外論(3) -公益と経済的膨張 [J]. 北大法学論集, 1999, 49. ② 朴羊信. 陸羯南の政治認識と対外論(3) -公益と経済的膨張 [J]. 北大法学論集, 1999, 49. ③ 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:134 ④ 周佳荣. 近代日人在华报业活动[M]. 湖南:岳麓书社,2012:35 ⑤ 周佳荣. 近代日人在华报业活动[M]. 湖南:岳麓书社,2012:38 ⑥ 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:153 ⑦ 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:707

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16 を受けてから開設された施設であった。その他、東亜同文書院の公費留学生も各都 道府県から選抜されたので、政府側から多大な協力を得たということである。① 東亜同文会は民間団体と認識されたが、実際は政府の意向を常に反映させなが ら、活動を展開していたと言える。 以上のように、東亜同文会の性質は、公益性と政治性両者を帯びていたことを無 視することができないと思う。 ① 東亜同文会. 対支回顧録[M]. 東京:原書房,1981:708

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第4章 東亜同文会の中国保全論

日清戦争後の日本では、中国に対する対外政策が主に二つあった。山県有朋や 伊藤博文などの藩閥主流や、彼らと提携関係にあった星亨らの自由党(および後の 憲政党)系に属する者達は、中国の「分割」が開始されたという認識なら、日本も分割 を防ぐことは不可能であると主張する一方、大隈重信や犬養毅らの進歩党(および後 の憲政本党)などのいわゆる対外硬派に属する者達は、この「分割」論を反対し、中 国の「保全」を主張した。① 中国保全論は中国を欧州列強から保全すべきだという理論であるが、この保全に は様々な意味が含まれている。文字どおりに中国の自立を狙う説もあるが、この自立 は中国の革命を支援するかまたは清朝を援助するかといった、解釈も様々である。ま た、対露強硬派が提唱する中国保全論は、中国の保全を通してロシアの南下を阻も うというものである。さらに、中国保全の名を借り、欧州列強と対抗して日本の中国進 出を確保しようという理解もあった。②中国保全論には様々な解釈や思惑があるため、 実に複雑な対中策である。本稿は東亜同文会の中国保全論を中心に展開したいと 思う。

4.1 背景

日清戦争で中国が敗戦した後、帝国は中国進出を拡大していった。1899年、ドイ ツは膠州湾租借、ロシアは旅順・大連租借をはじめとする中国の対外危機によって、 日本の安全保障及び今後の中国進出に影響を及ぼすことになった。その一方、中国 国内では西欧思想の影響を受けた改革派の維新運動は保守派の抵抗により失敗し た。梁啓超・康有為は日本に逃亡し、改革運動を継続した。そのような中国内外状況 を背景として、日本は対中政策を提起しなければならなくなった。東亜同文会もこの 時期に成立した団体である。成立した際、綱領の一つは「支那を保全す」ということに ① 山田,良介. 東亜同文会の中国「保全」論に関する一考察 : 『東亜時論』における議論を中心に[J]. 九 大法学, 2003, 85. ② 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:136

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18 なった。

4.2 内容

東亜同文会は東亜会と同文会が合併して成立した団体であるため、東亜会と同文 会の主導人物、あるいは近衛篤麿と陸羯南の中国保全論の思想を中心に論述を展 開したいと思う。 4.2.1 近衛篤麿の中国保全論 近衛篤麿は東亜同文会の会長であり、中国保全論の提唱者の一人でもある。近 衛篤麿は自分なりの中国認識を持っていた。近衛篤麿の日記により、次のような論述 があった。 「近時日本人は戦勝の余威によりて漸く驕慢の心を長じ、支那人を軽侮すること 益々太甚しく、特に支那の各地に在る日本人は恰も欧州人の支那人に対する如き態 度を以て支那人を遇し、以為らく、日本は東洋に於ける唯一の文明国なり、支那の先 進国なりと。……独り其先進国たるを以て悻々自ら喜び自ら負ひ、支那人を軽侮し戮 辱して反つて其悪感を賈ふは、啻に先進国の襟度に戻るのみならず、対清政略の運 為を妨げること極めて大、其禍を後来に遺こす、豈尠少ならむや。」① この日記によると、近衛の中国認識には二つの特徴がある。一つ目は当時中国蔑 視を批判したことであり、二つ目は中国国民の潜在能力を評価する態度を持ってい るということである。 近衛はこのような中国認識に基づき、「東洋は東洋のなり。東洋人独り東洋問題を 決するの権利なかるべからず。」② という「亜細亜のモンロー主義」を主張していたこと がわかる。 「同人種同盟」という思想を持っている近衛は欧州列強の中国分割を黄白人種の 対立問題と認識した上で、中国との連携を提唱した。しかし、貴族としての近衛篤麿 はこの言論が不適当と評価されたため、その後の近衛中国保全論を日本の安全保 ① 中下正治. 新聞にみる日中関係史[M]. 東京:研文出版,1996:138 ② 松本三之介 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:139

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19 障と結びつけると同時に、列強との協調を重視していた。近衛篤麿の国民同盟の発 起会の演説では以下のように述べている: 「何故に支那保全を唱ふるかと云ふに、是単に支那を利するのみにあらず、実に 東洋位する我日本の利益なるが故なり。尚啻に日清両国の利益のみにあらず、又実 に東洋に関係を有する各国の利益なり」① 近衛篤麿の中国保全論の中心は安定的秩序を求めることにあると考えられてい る。 4.2.2 陸羯南の中国保全論 前述した通り、近衛篤麿の中国保全論の中心は同人種同盟にあるに対し、陸羯南 が提唱する理論の基礎は「文明」の概念に存在すると言える。 当時のドイツは膠州湾、ロシアは旅順・大連を租借した状況であった。文明の立場 に立っていた陸羯南は次のように述べていた。 「今や彼等の崇拝する文明国は、正義自由博愛及び平和の大道を無視して、敢て 獣力を我が東亜に逞うす。真正の文明思想を有する国民は之れに抗敵せずして可 ならんや」② これは、陸羯南が当時の列強が中国を占領している「弱肉強食」の現状を批判し、 本当の文明と思われた「正義自由均等平和博愛」を崇拝したという記述であった。③ 陸羯南の中国保全思想の中心は中国の独立を維持することのあると言える。彼は東 亜問題の究極的原因は「清国の未だ今世紀にたして『国』たるを得ざる」④と考えてい た。 そのため、中国の独立を維持することが東亜の平和の前提条件だと主張する陸羯 南は事実と合わせて保全論の具体的な内容を考えなければならなくなった。陸羯南 は以下のように中国の国情を指摘した。 「支那国を破滅して其の疆土を分割するなどということは、道理に於て已に其の是 ① 松本三之介 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:140 ② 松本三之介 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:141 ③ 朴羊信. 陸羯南の政治認識と対外論(3) -公益と経済的膨張 [J]. 北大法学論集, 1999, 49. ④ 朴羊信. 陸羯南の政治認識と対外論(3) -公益と経済的膨張 [J]. 北大法学論集, 1999, 49.

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20 なるを見ず、事実に於ても亦た其の能くすべきを見ず、世界列国の平和及利益に於 ても、亦其の当然なるを見ざるなり」① 列強による中国進出によって中国の独立は不可能になったことを認識した陸羯南 は「蓋し疆域の消長は天下に免るげからざるもの」②と考えながら、「ある程度までの支 那保全」③、「支那保全といふは現状維持を謂ふのみ」という結論を出した。 ここから見ると、陸羯南がたどり着いた「現状維持」は近衛篤麿が求めた「安定秩 序」という理念に合致し、このことも東亜会と同文会が合併した理由の一つかもしれな い。 4.2.3 提出理由 日本の対中策には中国を保全するという理念があるのは日本の中国侵略のイメー ジと相反すると思われるかもしれない。しかし、東亜同文会がこの中国保全論を提出 して発展したのは偶然なことではないと思う。 「保全論」は山県有朋や伊藤博文の「中国分割論」の反対理論として提唱された対 中策の一つであった。⑤というのは東亜同文会の中国保全論は最初から提唱された 理論ではなかった。東亜同文会はこの理念を継承し、成立した時にも綱領の一つと して掲げていた。前述した近衛篤麿も陸羯南もこの理念を発展させたのであった。 近衛篤麿はヨーロッパで留学した経験があり、視野が広い貴族であり、また貴族院 議長として、「亜細亜モンロー主義」と言える「同人種同盟」の理論を提唱した。これは 貴族なりの思想である。「現状維持」という思想を出す前に近衛篤麿の人種競争の考 え方は「不穏当と批判され」、「近衛自身の立場をいちじるしく困難にすることとならな いかという忠告もあって」という理由で日本の利益を強調しながら中国の現状維持を 提唱した。近衛篤麿により、「公共の事業を助けて間接に社会の発達を助くる」、東亜 同文会会長も、対中策の提唱も近衛篤麿にとって華族本来の義務意識の一部だと ① 松本三之介 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:143 ② 松本三之介 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:144 ③ 松本三之介. 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:144 ④ 松本三之介. 近代日本の中国認識[M]. 東京:以文社,2011:144―145 ⑤ 山田,良介. 東亜同文会の中国「保全」論に関する一考察 : 『東亜時論』における議論を中心に[J]. 九 大法学, 2003, 85.

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21 考えられる。 陸羯南が持っていた文明観も近代日本における広く受けられていた思想の一つで あった。「近代日本の歴史は、中国認識失敗の歴史であった。」①なぜなら、日清戦争 を例としてあげると、内村鑑三はこれを「新文明を代表する小国」と「旧文明を代表す る大国」を比喩し、「義戦」だと主張し、政治家の睦奥宗光によると、この戦争は「西欧 的新文明と東亜的旧文明との衝突」として認識したからである。福沢諭吉にも「脱亜 論」、岡倉天心にも「アジアは一つだ」という理論があった② 「中国保全論」の提唱も当時日本の宣伝戦略と関わりがある。日清戦争を「義戦」と 世に信じさせるために、日清戦争の際、対外面には日本は列強の干渉を排除する必 要があり、対内面には国民を動員する必要がある③。この思想に基づいた宣伝思想 の下で、「中国保全論」が提唱されたのも当然なことであろう。 当時、日本では「大陸問題」という言葉も出現し、中国は日本帝国の膨張の物理 的・自然的な対象になった④。陸羯南には多くの影響が見られるのは当然なことだと 考えられるだろう。 ① 野村浩一. 近代日本の中国意識 アジアへの航跡[M]. 東京:研文出版,1981:47 ② 野村浩一. 近代日本の中国意識 アジアへの航跡[M]. 東京:研文出版,1981:49 ③ 大谷正. 近代日本の対外宣伝[M]. 東京:研文出版,1994:119 ④ 野村浩一. 近代日本の中国意識 アジアへの航跡[M]. 東京:研文出版,1981:49

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第5章 盛京時報における中国保全論

盛京時報を創刊したのは中島真雄である。中島真雄は東亜同文会重要な成員と して、中国で多様な文化活動を展開していた。この文化活動の中で、彼が一番重視 していたのは新聞事業であった。この理念の実践と言えるのは北京の順天時報と当 時奉天と呼ばれ、現在の瀋陽の盛京時報であった。順天時報と盛京時報は当時日 本の対中策の言論機関と言っても過言ではない。長く続いたこの二つの新聞は今現 在重要な研究資料だと認められる。 中島真雄は 1906 年自分が創刊して非常に人気があった順天時報を離れ、東北に 赴き、盛京時報の新聞事業を開始した。当時のロシアは東三省の言論統制する姿勢 を見せていたが、盛京時報は短い間ロシアを東北の新聞界から追い出した。これが もちろん中島真雄や菊池貞二などの新聞事業関係者の努力によっての成果なのだ が、盛京時報における反ロシアの観点と離れて考えてはならない。 東亜同文会の成員としての中島真雄は東亜同文会の対中策の強い影響を受け、 この点も新聞から窺える。本稿は盛京時報の内容を中心に東亜同文会の中国保全 論が中国でどうやって実践されたかということを明らかにしたいと思う。 盛京時報の研究範囲は、創刊した 1906 年から 1911 年にかけて発行された計六年 間分の新聞であり、その中でロシアと対抗して中国を救うという立場を表したのは 1906 年と 1907 年の新聞である。また、新聞の立場や観点を最も体現しているのは新 聞の「論説」というコラムである。そのため、本稿が研究対象とする百編程の文章の大 半はこの二年間の「論説」コラムである。

5.1 近衛篤麿の観点体現

5.1.1 同人種同盟 前述したどおり、東亜同文会の会長の近衛篤麿は華族の視点から、同人種同盟と いうアジア民族主義の理念を持ち、中国に対し外交活動をしていた。盛京時報にお

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23 いて人種についての論述も少なくない。次にいくつかの例をあげる 「俄国民与亚细亚民族之关系亚细亚」:大陆上下四千年之全历史亦属南北两民 族之争斗矣①。(大陸総計四千年の歴史はすべて南北両民族の戦いである―筆者 訳) 「论俄政专制之流毒」②:彼俄国所称为文明法家,乃斥东亚黄种为劣性。岂有文 明国,而有此野蛮政府,出此残暴行为焉。(ロシアは文明法家と自称し、東亜の黄 種は劣れる民族と批判したが、そのような野蛮の政府があろうことかあり、残忍な行為 をした―筆者訳) 「论白种排斥黄种之风潮」③:而黄种则为无文明国民之资格也。(黄種人は文明 国民失格だ―筆者訳) 「论日本归还新奉长吉两铁路」④:且环球诸国,唯日本与我最亲,既已同洲,又 为同种,且只隔一带水之遥,即使不有还路之事,我亦当爱如同体,亲如同胞, 导我民合族合群之思想,为一心一德之友邦,理宜然也。(世界中、我が国と最も 親しいのは日本である。同洲にあると同時に同種であり、一衣帯水の関係である。路 権を返すことがなくても、兄弟みたいにお互いに愛し合うべきだ。民衆に合族合群の 思想を導入し、同心の友になるのは当然である。―筆者訳) これらの文章によると、ロシアを代表する白種人は日本人や中国人のような東洋黄 種人に強い敵意を持っているようである。中国人の民族意識を喚起する意図が窺え る。また、日本人と中国人はもともと連携し、ロシアと対抗しようという宣伝の意味もあ る。さらに、日本人と中国人は同じ人種のため、日本人が中国人に対して悪意がない という意味も含められる。 盛京時報は同人種同盟をロシアと対抗する根拠にして、日本人が中国を救うため に中国に進出することを読者に示することで、今後の東三省における日本による侵略 や植民地化を正当化にした。観点は斬新で、内容も読みやすいものとなっていた。 ① 盛京时报[N],1907-5-2 ② 盛京时报[N],1907-4-13 ③ 盛京时报[N],1907-9-18 ④ 盛京时报[N],1907-5-1

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24 5.1.2 列強協調と安定秩序 近衛篤麿が提唱する中国保全論を具体的に述べると、中国における列強との協 調と安定秩序にある。 1907 年に盛京時報は「论各国对付中国政策之将见变更」①という題名の論説を掲 載した。「且夫利权之失,原非列国之夺于我,实我自弃之,而列国乃拾取之也」(国 家の利権を失ったのは、列強から奪われたからではなく、(中国)自分自身が捨て、 列強が拾ったからである)そのあと、中国を次のように勧告する:「苟收回利权之说, 稍失激厉,各国必群相疑议,行且联合组织,预防中国排外之风潮」(利権を回収す るという説はやや過激ではないか。各国は必ず相互に話し合い協調し、中国の排外 運動を予防すべきである。―筆者訳) この文章では、中国の排外運動への批判があった。中国が各国から自国の利権を 回収しようとするなら、必ず状況が悪化するという警告をした。近衛篤麿がこのように 述べるのは、中国の安定秩序を追求している証拠である。また、日本だけではなく、 各国の利権を守ることを強調したのも近衛篤麿が列強との協調を重視したからだと考 える。

5.2 陸羯南の観点体現

5.2.1 文明立場 陸羯南は西洋の文明観から中国保全論を提唱した。この文明観も日本近代史に おける重要な思想である。盛京時報にはこの文明観の跡が見える。自分が文明国と 認識していた日本はこの視点から日本を誇り、ロシアを批判した。 5.2.1.1 文明国の理念宣伝 世界各国は文明を崇拝し、中国も自国の文明化を掲げていた。 「论国家弭变之良法」②:况今世界各国,均以文明相竞争(今現在世界各国はす べて文明を通して競争をしている―筆者訳) ① 盛京时报[N],1907-6-5 ② 盛京时报[N],1907-6-19

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25 「论排外之误国」①:变其野蛮之行为,进为文明之手续(野蛮の行為を変えるのは 文明化に必要な段階である。―筆者訳) この文明概念の宣伝を通して非文明国の中国が文明国と対抗しないように勧め た。 5.2.1.2 ロシアの文明性を否定 ロシアとの言論上の対抗を一つの目的として創刊された盛京時報において、ロシ アを批評する内容は重要な一部である。中国に対して文明の重要さを強調した上で、 ロシアは信用できない国であるという宣伝をしていた。 「论俄国背约举动」②:俄国倘以文明先进之国自居,则遵照章约,可以昭公允也, 而今则如此,其陋不亦甚哉。且其专横之手段,各国皆知之,独中国不知。(もし ロシアが文明先進国と自称するなら、公約を遵守すべきであるにも関わらず、ロシア は公約違反を誰に知られても構わないという態度をとっている。しかし、このようなロシ アの態度は非常に醜いものである。ロシアが専横な手段を取っているのはどの国も知 っている事実だが、中国だけ知らないでいる。―筆者訳) 「论俄国民党要求政府允许之两大要件」③:独怪夫素号文明,以国民自期待者, 乃亦缤缤纷纷,若喜若狂,若脱縲紲,出黑暗地狱中者。而与一身天赋人权,被 践踏至极地,而不知合死力以经营之((ロシア)は常に文明国と自称している。国民 もこの文明を期待するあまり、地獄から救われたように喜んでいる。しかし、天賦人権 をロシアは必死に守るどことか、足で踏んでいるような状態にある。―筆者訳) 「论俄政专制之流毒」④:彼俄国所称为文明法家,乃斥东亚黄种为劣性。岂有文 明国,而有此野蛮政府,出此残暴行为焉。(ロシアは文明法制国と自称し、黄種人 は劣れる民族と批判している。文明国にはそんな野蛮な政府や残忍な行為があるわ けがないだろう。―筆者訳) 「论俄官焚死华人之惨毒」⑤:文明如俄国,乃出此灭贼新法,推是法也。贼在哈 ① 盛京时报[N],1907-5-1 ② 盛京时报[N],1907-3-5 ③ 盛京时报[N],1907-5-7 ④ 盛京时报[N],1907-4-13 ⑤ 盛京时报[N],1907-4-14

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26 尔滨,则举哈尔滨而悉焚之可也;贼在俄国,则举俄国而悉焚之可也;贼在地球, 则举地球而悉焚之可也。然而有是理哉,今文明各国法律,最重生命财产之自由。 而俄员乃轻蔑人之生命,践踏人之财产,视等儿戏不少顾惜,以野蛮之行为作俄 国之代表。(文明国としてのロシアは新た敵を滅ぼす方法を出した。この方法から推 測すると、敵はハルピンにいれば、ハルピンを全部焼けばいい。敵はロシアにいれば、 ロシアを全部焼けばいい。敵は地球にいれば、地球を全部焼けばいい。しかし、これ は道理に合わないだろう。今現在の文明国の法律によれば、命と財産の自由が最も 大事だと思われている。ロシアの人は命を軽視し、人の財産を踏みつけることを児戯 と見なし、野蛮の行為はロシアの代表だと言えるだろう。―筆者訳) これらの文章によって、ロシアは決して文明国ではないと主張し、中国がロシアを 警戒すべきだと強調もした。ロシアに関する様々な報道や論述を通して、ロシアの野 蛮のイメージを作りだした。 5.2.2 現状維持 陸羯南の中国保全論は現状維持にたどり着いた。盛京時報を覗くと、現状維持を 表現する内容はだいたい二種類がある。一つ目は清廷擁護と革命阻止であり、二つ 目は立憲主張という点である。清廷擁護、革命阻止と立憲主張は日本が清朝統制の 維持を望み、中国の時局の大きな変化を望まない意を表した。 5.2.2.1 清廷擁護と革命阻止 1906 年から 1911 年の間、共和制が成立されるまで、盛京時報は一貫して清廷を 擁護して革命に反対した。中国の君主制をそのまま維持してほしいという立場に立っ ていた。 「恭祝皇上万寿颂词」①・「大行太皇太后哀章」・「恭祝皇上万寿赋」をはじめと する多くの皇室を擁護する意を表した文章は少なくなかった。誕生日や元旦などの 重要な日には必ず上述のような皇室を賛美する文章が出ていた。 ① 盛京时报[N],1906-10-18 ② 盛京时报[N],1908-10-19 ③ 盛京时报[N],1907-8-5

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27 辛亥革命の前後、革命党にいち早く革命を断念するよう勧告する内容の記事も多 く記載された。 「中国革命党宣言」①:其中词旨缪戾,殊属不法((宣言)の内容は荒唐で、道理に 合わない―筆者訳) 「敬告革命团」②:甘以人命为儿戏,以赌少数人之荣利也(人の命を児戯と見なし、 少人数の利益を追求した―筆者訳) 「论对待革命党之方法」③:杀人流血无量数(殺人と流血事件は無数にある―筆者 訳) 「论孙文不足危中国」④:亦不过借革命之名,以沾沾自喜耳(ただ革命という名を 借り、自惚れている―筆者訳) これらの文章では盛京時報の立場がはっきり見えた。革命の宣言は虚偽であり、 革命は殺人行為、多くの人の利益が必ず損なわれるものだと見なした。 清廷擁護または革命阻止は中国の変局を避け、できるだけ現状維持をしようという 努力である。 5.2.2.2 立憲主張 革命を反対すると同時に立憲を促進した文章もある。 「论对待革命党之方法」⑤という同じ題名の文章で立憲の内容を含め、また「日本 浮田博士评论中国之时局」には中国は共和制に向かず、立憲君主制が唯一の進路 にほかならないという観点がある。 立憲のみ主張した文章のほうが多い。 「一千号之纪念词」⑥:盖本报唯一之宗旨,始则为企画宪政之成立,比明诏既颁, 则促宪政之进行(本紙の唯一の目的は憲政の成立を図ることである。現在憲法はす でに公布されたので、後は憲法にならってその実践を促すだけである。) ① 盛京时报[N],1908-5-29 ② 盛京时报[N],1910-10-19 ③ 盛京时报[N],1907-6-5 ④ 盛京时报[N],1908-3-25 ⑤ 盛京时报[N],1907-8-14 ⑥ 盛京时报[N],1910-3-13

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28 その他、「论现今时代之恐慌」①には中国が自国の利益にのみとらわれては変法 はできないという意見が記載された。「泰晤士报之中国革命论」②はイギリスの新聞を 引用し、北京政府は憲政の成立をできるだけ早く行うべきとせき立てた。立憲を提案 するばかりではなく、盛京時報も具体的な指導方針を出した。「论中国宪法应如何 定」③という文章は立憲の具体案を提案した。 盛京時報は立憲に関する多くの記事を掲載し、立憲の提唱は共和国が成立する まで続いた。それはなぜなのか。やはり日本自身の政治制度を導入し、できるだけ清 朝の統制を守り、現状を維持するよう望むからである。

5.3 中国保全の体現

「论日本归还新奉长吉两铁路」④:而经年鏖战,始将东陲保障,夺回于虎口之 中。于是新民至奉天,长春至吉林,两地路权,乃不在俄而在日。夫日之筑此两 路,而得此权也。得之于俄人,非得之于中国也,得于俄非得于中,即不归还中 国,我中国亦鸟乎由此。然而日人乃不甘自握其权也,现在议定,情甘将两路之 权,交还中国。是何情之深,而爱我中国之挚而切乎。(長年の戦争によって、危 険な状況から東辺地を保護した。長春から吉林にかけ、両地の路権はロシアにあら ず日本にあった。日本がこの両路を建設し、路権を取っている。路権を取るのは中国 ではなく、ロシアである。これは中国に返すことではない。しかし日本人は自分がこの 路権を握ることに甘んじない。現在両路の路権を中国に返すという約束をした。中国 に深い感情を持っているから。) 「论中日两国于东三省之关系」⑤ :俄国包藏祸心,窥伺三省,藉端进兵,要 挟多端,将囊括东三省,而归其版图。此时中国进不能战,退不能守,进退维谷 之秋。日本仗义崛起,驱逐强俄,收回东三省,拱手而归之中国。(ロシアは禍心 を持ち、三省をのぞき、機会を待っていた。口実によって兵隊を派遣し、中国を脅迫 ① 盛京时报[N],1907- 8-22 ② 盛京时报[N],1911-12-23 ③ 盛京时报[N],1906-10-18——1906-10-31 ④ 盛京时报[N],1907-5-1 ⑤ 盛京时报[N],1908-6-6

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29 し、東三省をすべて含め、ロシアの領土に入れた。当時の中国は戦いも防ぎ守りもで きず、非常に危険な時であった。日本は義を重んじて兵隊を派遣し、強いロシアを追 い払い、東三省を回収して中国に返した。) 「中日满洲关系」① :查日本经百战而后始与俄国讲和,中国今日收回满洲得 以保持主权,实日本之力甚多,将来欲定满洲之事必与日本协定庶几无误大局 東亜同文会のその他の理念体現。(日本は百戦を経ち、ロシアと平和交渉を始め た。中国現在が満州を回収して主権が守れるのは日本のおかげである。将来満州の 未来については日本と協力すれば万事うまくいく。) 「论日本陆军纪念日」② :中国尚望有今日完全之东三省乎,日本则仗义而起, 牺牲数十万之性命,消费数十万之金钱,战而大捷,驱逐强俄于北满,讲和罢战 举东三省之全域,拱手而归还于中国。中国得有今日完全之东三省者,日人之力 也(中国が完全な東三省を望むため、日本は義を重んじて兵隊を派遣した。数万の 命を失い、数万のお金がかかり、大きな勝利を得、北満からロシアを追い出し、平和 交渉を通じて停戦になった。東三省全域を中国に返還した。今の中国が完全な東三 省を手に入れたのは日本人のおかげである) 「论排外之误国」③ :吾恐中国瓜分之祸(わたくしは中国が分割されることが怖い) 当時の中国は実際に東三省を掌握しているかどうかはともかく、日本が見せている 姿勢は中国をロシアから守り、できるかぎり中国の利権を保障するという姿である。中 国の主権を常に強調している。これが新聞として民意を得る戦略でもあるが、この背 景にあった中国保全論の影響を無視するわけにはいかない。 ① 盛京时报[N],1906-10-28 ② 盛京时报[N],1908-2-10 ③ 盛京时报[N],1907-5-1

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第6 終わりに

6.1 結論

本稿は東亜同文会、東亜同文会の中国保全論と盛京時報を中心に、東亜同文会 の文化活動を再現し、東亜同文会の性質を再検討した上で、盛京時報における中 国保全論に関する報道を整理し、清朝末期にかけて日本の対中策をより深く了解す ることを目的としている。 6.1.1 東亜同文会について 東亜同文会は成立以来、中国で様々な文化活動を行った。この中で代表的なの は学校成立と新聞事業である。日本人も中国人も東亜同文会が創設した学校の対 象であった。新聞事業は日本が中国に進出する時の重要なツールと認識されていた。 そのため、盛京時報の報道には東亜同文会の思想が見える。 今の中国の学術界では、東亜同文会を純粋な民間団体と見なしているが、この考 え方は短絡的だと思う。というのも、東亜同文会の文化活動を支持していた資金はほ とんど政府が出資したものだからである。政府から4万円の年金をもらい、これも新聞 買収などの重要な初期資金となっていた。年金のみならず、海軍などの軍事方面か らの資金も少なくなかった。 東亜同文会の成員たちも軍や政府機関で働いた者も多かった。東亜同文会が創 設した東亜同文書院をはじめとする学校の卒業生たちも従軍し、日本政府の政策に 多くの貢献をした。 東亜同文会の成立する前に、会長の近衛篤麿は「公益」を目指した。華族としての 近衛篤麿は華族は社会に奉仕すべきだと主張した。自分の地位と能力を利用し、東 亜同文会を成立した。東亜同文会はそもそも公益団体として成立したということであ る。 以上三つのことより、東亜同文会の政府性と公益性を無視することができない。

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31 6.1.2 中国保全論について 中国保全論は本来日本の外交政策として提唱された。だが、東亜同文会はこの理 念を発展し、アジア民族主義と文明の視点から新たな解釈を加えた。 近衛篤麿は華族なりの観点を持ち、五年間ヨーロッパ在住の経験があるので、ア ジアモンロー主義と言える同人種同盟という思想に基づき、当時の中国国民を軽視 することを批判した。しかし、この理念は不適当と評価された。近衛は譲歩し、中国に おいて列強と協調し、安定的な秩序を求めることにたどり着いた。 陸羯南は当時の文明観から大きな影響を受け、「文明」という立場に立ち、日本を 文明国と主張した。中国の独立も文明の一つの条件だと考えていた陸羯南は中国の 「保全」を求めた。 しかし、中国の独立は不可能と判断した陸羯南は中国の「現状維持」を自身の中 国保全論の具体案に位置づけた。 6.1.3 盛京時報における中国保全論について 1906 年から 1911 年における盛京時報の報道には民族主義、文明と保全の観点を すべて含めていることを本稿で明らかにした。盛京時報は確かに東亜同文会の思想 から大きな影響を受けた。 盛京時報の使命は、これらの観点を中国に宣伝することだけではなく、言論上でロ シアと対抗することでもであった。そのため、民族主義を利用してロシアとの対抗感を 強め、文明観を利用してロシアの「野蛮の行為」を批判し、保全の観点を利用してロ シアの侵略を非難した。 外交思想を宣伝し、中国国民を啓発しながら自国の意見を表すことは盛京時報に おける宣伝方法の特徴の一つである。

6.2 本稿の不足と今後の課題

東亜同文会とその中国保全論は非常に大きな課題であり、多くの人や歴史や複雑 な国際関係と関わっているので、学部生の私にとって簡単な研究作業ではなかった。 また、20 冊以上の盛京時報から必要な報道を見つけることも大変苦労したが、充実し

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