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第 5 章 盛京時報における中国保全論

6.2 本稿の不足と今後の課題

東亜同文会とその中国保全論は非常に大きな課題であり、多くの人や歴史や複雑 な国際関係と関わっているので、学部生の私にとって簡単な研究作業ではなかった。

また、20冊以上の盛京時報から必要な報道を見つけることも大変苦労したが、充実し

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た過程であった。

しかし本研究の不十分なことも多いと考える。東亜同文会の中国保全論は近衛篤 麿と陸羯南二人の解釈だけにとどまらず、大隈重信などの思想も東亜同文会の「中 国保全論」の基礎となっていたが、時間と能力の限界により、さらなる深い研究ができ なかった。また、盛京時報に関する研究資料は主に「論説」というコラムなのだが、ほ かの新聞記事にも中国保全論を体現した箇所が記載されていると思う。だが、能力 不足のため、それら全部に目を通し、総括することができなかった。この点は、本稿の 研究に多少なりとも影響があると思う。盛京時報において研究価値がある報道や記 事は多くあるが、今回の研究はごく一部にすぎないと思っている。

今後の研究はより仔細に行う必要があると考え、日露関係、日中関係、中国立憲、

中国革命に対する中国保全論の体現を分析することで、より有益な研究になると考 える。また、「中国保全論」を取り巻く重要人物やその思想をより詳細に研究すること が今後必要だと思っている。

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参考文献

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[22] 涂鸣华. 日本文化间谍中岛真雄在华的办报生涯评述[J]. 新闻春秋, 2014, (2).

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致 谢

首先,感谢导师陈爱阳副教授在论文各阶段对我的耐心指导和帮助。更感谢 陈老师陪伴我们的每一次长谈。陈老师,大学四年吃了不少您请的饭,然而吃到 的饭却不及您给我人生上的帮助的十分之一。

其次,感谢王燕老师和冯海鹰老师在开题阶段给我提出的完善建议,能与您 二位如此认真的老师同在一组答辩是我在论文上绝不敢大意的重要原因之一,未 来的人生,还望老师们多多指教。

另外,感谢留学生樱井麻美同学,你耐心认真的修改让我的论文脱胎换骨,

重见天日。

此外,感谢清华食堂,在我空虚的内心和脑袋旁边放了一个温暖的胃。

最后,我还要感谢我的父母,他们在我吵着嚷着论文写不完毕不了业的时候 及时对我进行了鞭策,告诉我说你再嚷嚷不许你进家门,成为我完稿的重要动力。

伴随着最后一段字落在键盘上,我才真实地感觉到不仅仅是论文,大学也要 进入尾声了。这篇论文的成稿不是几个月的忙碌,更是大学四年的沉淀。四年当 中,我和日语教研室的各位老师建立了亦师亦友的关系,在此我感谢各位老师对 我有时不正经的玩笑给予的最大包容,感谢老师让我成为更完善的自我。同时也 请允许我向日 1 的各位表达我最真挚的感谢,感谢你们没有让愚笨的我掉队,希 望大家都能够找到属于自己的幸福快乐。

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声 明

本人郑重声明:所呈交的学位论文,是本人在导师指导下,独立进行研究工 作所取得的成果。尽我所知,除文中已经注明引用的内容外,本学位论文的研究 成果不包含任何他人享有著作权的内容。对本论文所涉及的研究工作做出贡献的 其他个人和集体,均已在文中以明确方式标明。

签 名:_____________ 日 期:____________

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附录A 外文资料的调研阅读报告

1.1 近代の中国における日本人の新聞事業の概観

香港浸会大学の周佳栄は『近代日人在華報業活動』によると、近代中国の新聞紙 事業は 19 世紀の初期に始まったが、最初の新聞紙はほとんど来中の外国人が開始 されたものである。1894 年の中日戦争までに、中国は「外報」に統制されていた。中 国で新聞紙の事業を開催した外国人の中で、最も活躍したのはイギリス人だが、日 本人はその次であった。

日本人が新聞事業を開始したのは欧米人に比べ、大幅に遅れていた。19 世紀の 末期以降、日本に有益な世論を作るために、日本人は東アジアの中国に入り、新聞 事業を始まった。この時、治外法権があったため、日本人は中国に多く入り、商業な どの事業を開始したことを伴い、新聞事業の繁栄になることは当然であった。

日本人の中国新聞事業は前後総計60年ぐらいであった。分期方法もいくつがある。

以下の表を通して、三つの方法を分かることができる。

分期方法 划分时期

山本文雄主张的分期

中下正治主张的分期

周佳荣主张的分期法

晚清时期

(1882-1911)

相当于日本的明治时

(1868-1912)

1 第一期:发生期

(1890-1894)

1 草创时期(1894 年 之前)

1 发轫期

(1882-1894)

2 第二期:加强在华 活动时期

(1896-1904)

2 政论时期

(1895-1900)

2 开展期

(1895-1904)

3 经济进侵期

(1900-1904)

3 第三期:以东北为 报刊主要发行地区

(1905-1912)

4 地域占有期

(1905-1911) 3 定型期

(1905-1911)

民国时期

(1912-1945) 相当于日本的大正时 代(1912-1926)级昭 和时代前期

(1926-1945)

4 延续期

(1912-1931)

5 没落期

(1932-1945)

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本論の注目点は山本文雄の第二期と第三期、中下正治の政論時期、経済進侵期 と地域占有期、周佳栄の発展期と定型期となる。『漢報』、『亞東時報』、『同文沪報』、

『順天時報』や『盛京時報』などのはやっていた新聞紙はだいたいこの時期のもので あった。

それからの研究と資料分析もこの時期とこの時期の代表的な新聞紙を中心として 展開したいと思っている。

1.2 分析の指導方法

『順天時報』や『盛京時報』などの新聞紙は中国で出版し、中国語の新聞紙だった が、事業を開催と経営していたのは日本人であった。そのため、こちらの新聞紙は中 国の新聞と同じで研究することができない。外国人が経営した新聞はどうやって研究 すればいいでしょうか。この点について、方漢奇は『中国新聞事業通史』の中でいく つの指導方法がある。

外国の新聞紙は自分の国の侵略活動を奉仕していたのは政治傾向、宣伝報道思 想と宣伝戦略から見えると言われている。

まずは政治傾向である。政治傾向には直接の侵略活動を美化や弁護することがあ った。また、新聞の文化宣伝を通して、中国の人民たちの思想に自分の意志を与え ていた。しかし、商業の新聞紙には違いがある。商売するため、直接に新聞紙で侵略 の政策と意図を検討することがなかった。日常の仕事をされていたのは日本人では なく、中国人であったので、口ぶりは外国人に比べ、少し違いがあるということであっ た。

次は宣伝報道思想について。外報はいつも「公正」ということを標榜していた。人を 侵略は「公正」であったということを信じさせるということを向いていた。

最後は宣伝政策である。外報には外国人は中国人の福祉と中外友好のために侵 略に来ていたという宣伝があった。

こいう三つのことを明らかにしており、これからの研究の指導方法になっておる。

2新聞紙の後ろにあった日本の文化組織と個人

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1.3 東亜同文会

清朝末期の新聞事業を開催した日本人はだいたいある文化侵略組織に所属して いた。本論が注目していた『順天時報』や『盛京時報』を開催した日本人はすべて東 亜同文会に所属していた。そのため、東亜同文会はおろそかにすることができない。

東亜同文会が編集した『対支回顧録』(中国語《对华回忆录》胡锡年译 北京商务 印书馆 1959)の中で、東亜同文会の成立背景や理由と新聞事業を始まることにつ いて詳細に記述した。

1898 年 11 月、東亜会と同文会が合併し、東亜同文会を創立した。当時発表した 綱領は以下:

1中国を保全すること

2中国と朝鮮の改革を手伝うこと

3中国と朝鮮の時事を研究し、実行すること 4日本国内の世論を喚起すること

1899 年会長の近衛篤麿公爵が当時の両江総督の刘坤一に訪問した結果、1901 年4月に上海で同文書院を成立した。1921年幹事の柏原文太郎を派遣し天津で中 日学院を成立し、次年漢口で江漢中学を創立した。その前に、中国からの留学生が 多くなったため、東京にも同文書院を成立した。

1900年1月から、『同文沪報』を発行し、井手三郎が社長を勤めていた。その以外、

東亜同文会に所属している会員たちは発行した新聞には『漢報』、『闽報』、『亞東時 報』、『同文沪報』、『順天時報』、『盛京時報』や『済南報』があった。

新聞以外の発行物も多かった。主は中国の情報に関するものであった。『中国経 済全書』、『中国省別全志』、『特条約彙纂』、『中国年鑑』、『中国名人鑑』、『中国行 会研究』、『中華民国実業名鑑』はすべて東亜同文会が発行物であった。

前述によると、東亜同文会は日本文化戦略の道具の一つだと分かった。中国の文 化教育を支えたことやマスコミ界に進出したことも侵略の世論準備をした。

東亜同文会は本来の民間組織であったが、会長や幹事の中で、政府背景がある 人たちが多かったので、完全な民間組織だったと言えないと思っている。

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