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疾風

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Academic year: 2021

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1 疾風 大東亜決戦機と呼ばれ「第二次大戦最優秀日本戦闘機」と米軍に評価された戦闘機で 制式名称:4式戦闘機、機体番号:キ-84、名称:疾風 という。簡単にポイントを説明 する。 制式名称:4式とは皇紀 2604 年(昭和 19 年)に陸軍が制式採用したことを意味する。 中島1式戦キ-43 隼、中島2式戦キ-44 鍾馗、川崎3式戦キ-61 飛燕、中島4式戦キ-84 疾 風、川崎5式戦キ-100 と順番になっているようだが順番ではない。毎年制式機があった ということである。同年に複数機が制式採用される場合は1式2型というようになる。 1式戦以前の機体の例では中島 97 式戦(皇紀 2597 年)で、皇紀 2600 年に制式採用さ れた機種は三菱百司令部偵察機キ-46 のようになる。 海軍では百式でなくこれを零式としたので三菱零式艦上戦闘機 A6M1 になる。 機体番号:キ-は機体のキで、昭和8年以降の陸軍の航空機には戦闘機、爆撃機、輸送 機はもちろんそれらの計画機まで含め一貫して付与された。キ-1は昭和 8 年に三菱 93 式重爆撃機に与えられ、疾風はこうした順番で 84 番目の機体である。 量産機はもちろん試作機や実際に製造されなかった計画機にも付番されている。 海軍には試作番号があり制式採用すると制式番号が付番された、例えば 17 試艦上偵 察機は制式採用で C6N1 彩雲となった。制式番号は機種毎機体会社毎であり、彩雲の場 合 C6N が中島製 6 番目の艦上偵察機で 1 はその最初の型を示している。 名称:陸軍は特に決まりはなく公募で決めたこともある。海軍には戦闘機には風、局 地戦闘機には雷、偵察機には雲など一応あったようだがキチンとはされていなかった。 設計陣:疾風の設計は小山悌さんを主務として当時は若かった新進気鋭の飯野優さん (車両工場長、専務を歴任)、近藤芳夫さん(T-1 ジェット練習機試作当時の生産部長、本 社人事部長、群馬製作所所長、取締役、FA300 の富士飛行機社長を歴任)たちが担当した。 当時、中島の小山さんには「戦闘機は安定した銃座でなければならない」という一貫 した思想があったが、三菱の堀越さんにはそれがなく海軍の零戦、雷電、烈風はそれぞ れが全く異なった形態の戦闘機だった。とくに「雷電」はバカでかい爆撃機用のエンジ ンを搭載したので空気抵抗を減らすために機首を細くするので延長軸を付けたことに より振動が発生しその対策で時間を浪費して殆ど活躍できなかった。 三菱には誉(ハー 45)のような小型高出力のエンジンがなかったからともいえる。 中島は2式戦キ-44 鍾馗のような重戦闘機(高速を利用した一撃離脱の戦闘法)の制式 採用を得て量産するとともに、さらに研究開発していた。 欧州戦線では高速一撃離脱の重戦闘機の時代なのに日本の陸海軍のベテラン操縦員 は巴戦(宙返りなどの戦闘)に固執した守旧派が多く理解を得るのに苦労したという。 生産準備:昭和 17 年 4 月に設計開始し、完了したのが 11 月で初号機が完成したのが 翌年 3 月で、信じられないような短期間だが実際はキ-44 のⅢ型として開発が進められて

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2 いた。旧型となったキ-43 隼の部品もできるだけ共用するなど工夫して無駄な開発をしな くて済んだ。 工数低減:キ-43 の 25,000 工数、キ-44 の 24,000 工数に比べ基準孔集成方式を採用し て 14,000 工数という大幅な低減を見た。現場作業者からは最中(モナカ)方式と呼ば れていたそうだが、生産効率を上げるため未熟練工が枚数を重ねて穿孔するのでドリル がズレてしまい逆に多くのスクラップを生み出す結果になってしまった逸話も聞く。 生産機数:どういう訳かマチマチである。()内はデータの出所。 3,355 機(中島知久平伝:豊田穣著) 3,413 機(丸:昭和 32 年8月発刊、Famous Fighters 誌) 3,470 機(陸軍) 3,482 機(日本航空学術史 注:同一文献に 3,499 と2種の数値あり) 3,499 機(キ番号カタログ:文林堂、日本航空学術史) 3,511 機(中島製 3,499 機に満州飛行機 6 機、立川飛行機 6 機の生産分を加えた) 3,577 機(軍需省、富士重工 10 年史)

注記:Famous Fighters 誌は Famous Fighters of The Second World War で MacDonald 社版(英国) 各年毎の生産機数 1943 年 1944 年 1945 年 宇都宮 軍需省 72 機 2,116 機 1,389 機 内数 748 機 Σ=3,577 Famous Fighter 誌 24 機 1,670 機 992 機 外数 727 機 Σ=3,413 宇都宮製作所での生産は昭和 19 年(1944)5 月~昭和 20(1945)年 7 月まで。生産目標 は日産 10 機だが実際にはせいぜい 5~6 機だったという。 これらの数字のどれが正しいか判らない。機数把握の定義が違うのかも知れない。い ずれにせよこれらのデータを提供した方々は其々が正しいと信じているのだと思うの で詮索はしない。なお、疾風は我が国において海軍の三菱 A6M 零戦 10,425 機、中島キ-43 隼 5,751 機に次いで3番目の大量生産機である。もっとも零戦は生産機数のうち 6,545 機を中島飛行機で製造した。 発動機:疾風と切り離せないエンジンが“芸術品”といわれたハ-45 である。ハ-は発動 機のハである。このエンジンは海軍では“誉”と名付けられた。 このエンジンは東京神田にあった交通博物館に展示されていた。三鷹製作所の本館に も展示されていたのでご覧になった方も少なくないと思うが B-29 の絶え間ない空襲の 中でよくもこれほどの精密なエンジンをしかも大量に作れたものだと感心する。 ただ、小型で高出力なので特に冷却に問題を抱え、試作時は鋳込フィンといってアル ミ板を鋳込む方式だったが生産性が悪く今日でいうダイキャスト方式に変更した。 その結果 1mm 厚のアルミ板は 2.5mm 厚の鋳物となり冷却効率は下がった。これに燃料 の質の低下と整備調整不良が重なり第一線では額面通りの出力は出せなかったという。 一般的には疾風の稼働の悪さは「発動機ハ-45 の粗製乱造による」と言われているが、 陸軍第一線の整備担当者は「それは自らの整備能力の不足を隠そうとしたものである」

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3 と言い切っている。 最前線のフィリピンのクラーク基地で使われていた疾風を米軍が鹵獲し米本土に送 り米陸軍のテストを受けたが、その評価が「第二次大戦最優秀日本戦闘機」である。 決して量産機が粗製乱造ではなかったことを証明している。 ハ-45 は疾風だけでなく海軍の彩雲、銀河、紫電改の誉と合わせ 8,747 台生産された。 不具合 疾風を悪く言う者もいるが間違っている。発動機の項でも述べているが部品 供給と整備が行き届いていれば最高の性能を誇っていた。不具合が多発した原因は燃料 の質の低下、不良部品と未熟な整備員にある。すぐに汚れるスパークプラグ、絶縁の悪 いイグニッションケーブル、すぐに油漏れするパッキング、動きの不安定なガバナー(調 速機)等、ラチエ電気式可変ピッチ機構の不具合等々枚挙にいとまない。またタイヤの 空気を入れ過ぎ着陸時に脚の折損事故を起こすバカげた整備不良もあったという。 無線機についてはフィリピンでは地上員の士気を高めるため機上送信機のスイッチ をオンにしたまま空中戦を実況したこともあるというが、これはむしろ例外で多くの操 縦員は「重いだけで使えない」と無線機を外したという。疾風ではないが立川基地上空 で地上と交信していると雑音ばかりなのにシンガポール局の放送はきれいに受信でき たという。真空管製造会社が社検で不合格だと言っても軍の駐在官が「出荷せよ」と無 線機製造会社に送ってしまうという。これではまともな無線機が出来る訳がない。 また開戦が近くなったころ某社がプロペラの可変ピッチ機構を米国ハミルトン社か ら技術導入した際に設計図とサンプルが到着したので「もう、こっちのもの」と喜んだ が、図面があっても部品をどうやって作るのか判らない。特殊な工作機械が必要なのだ がそれが何だか判らない。日本のプロペラの機構技術はものすごく遅れていた。 基本的には産業基盤が粗末であること、つまり国力の差だが、それに拍車をかけたの が軍である。「軍の命令には絶対服従」と生産を上げるために合理性を欠いた無理な命 令を連発し民間企業の技術改善を妨げ生産性向上を妨げてきたことが粗製乱造の主因 であろう。このことは戦前戦中の我が国のすべてについて言えることでもある。 各型:試作機と増加試作機で 127 機も作ったということが未曾有だが、これは並行し て各種試験を行えるので開発期間が短縮できる。 キ-84 甲:12.7mm×2、20mm×2。量産機。 キ-84 乙:20mm×4。3,000 号機以降の量産機 キ-84 丙:20mm×2、30mm×2。試作のみ。 キ-84 丁:座席後方に斜銃 20mm×1 を取り付け夜戦用とした。改造試作のみ。 この他、一部木製化、酸素噴射、排気タービン装着、エンジン換装、高々度用に主翼 面積を増大したもの等が開発された。 発展型: キ-106:キ-84 の木製化で立川飛行機はじめ数社で計 10 機作られた。 キ-113:キ-84 の鋼製化で中島飛行機にて 1 機のみ完成。 キ-116:キ-84 のエンジンを換装したもので満州飛行機で 1 機完成。

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4 キ-117:当初キ-84N といわれた性能向上型で計画のみ。 戦歴 試作時から疾風を担当し熟成に尽くし昭和 19 年 3 月に中国漢口に進出した岩橋 少佐が率いる第 22 戦隊は米軍の P-51 や P-47 と対戦した。これが疾風の初陣といえる。 飛行戦隊は転戦、再編があり個々にフォローすると膨大な量になってしまう。疾風を 装備した戦隊はビルマ、フィリピン、台湾、沖縄、本土で活躍した。以下に示す。 飛行戦隊 1,11,13,20,22,23,24,25,29,47,50,51,52,70,71,72,73,85,101,102,103, 104,111,112,200,246、独立飛行 24 中隊、錬成飛行隊 1,9,10,13 1 箇戦隊は概ね 36 機で編成、上欄では 25 個戦隊あり単純計算では 900 機余だが各戦 隊とも編成にはバラつきがあった。特にフィリッピンでは「比島の華」と言われ戦った が現地では激しい損耗と補充の繰り返しであり消耗に対し補給が追い付かなかった。 疾風は外征戦闘用だったが昭和 19 年末頃から本土防空部隊にも配備された。 1万mを越す高々度を飛来して来る B-29 の本土空襲に対して、日本の戦闘機は疾風 を含め陸海軍戦闘機は過給機がついておらず高空性能が悪かった。B-29 の巡航高度にた どりつくのが精いっぱいで戦闘にならなかった。それでも迎え撃つ我が陸海軍戦闘機は 弾薬の量を減らしたり無線機などを取り外し身軽にしたが、それでもなお充分な迎撃は できなかった。 特別攻撃隊 カミカゼ(神風)が有名だが、これは海軍であって陸軍ではない、陸軍 は陸軍特攻○○隊という名前が付けられたものもあるが、台湾の基地から発進したもの は誠第○飛行隊として特に名前はなかった。 疾風の特攻出撃は以下のとおり。日付、機数、出撃基地の順、出撃基地は西(都城西)、 東(都城東)、知(知覧)、台(台中)、桃(桃園)、八(八塊)。 昭和 20/4/6-8 西、4/12-2 西、4/16-1 桃、4/27-5 桃、4/28-7 東、4/28-4 台、5/3-5 台、 5/4-6 東、5/4-6 台、5/4-6 東、5/4-6 台、5/4-3 八、5/9-1 台、5/9-1 台、5/9-1 台、5/11-2 知、5/11-3 東、5/11-3 東、5/12-2 八、5/21-1 台、5/21-3 台、5/25-11 東、5/25-10 東、 5/25-1 東、5/25-1 東、5/25-2 知、5/28-1 東、5/28-3 東、6/6-1 台、6/6-1 台、6/8-6 東、6/21-4 東、6/22-6 東、6/22-5 東、7/1-1 東、計 129 機 上欄には同日、同機数、同基地からの複数出撃があるが間違いではない。なお本稿は 疾風についての記録のみである。特攻全体としては海軍特攻は昭和 19/10/21 に、陸軍 特攻は同年 11/5 にフィリピンではじまった。海軍 2,367 機 2,535 名、陸軍 1,094 機 1,844 名で計 4,379 名である。但し特攻関係資料は多くどの数字が正確なのかは判らない。日 本側には出撃記録がないのに米軍側では攻撃を受けた記録があるなど公式でない特攻 もあった。 空襲:中島飛行機に対する B-29 の爆撃は武蔵野 13 回、荻窪 2 回、太田、小泉、半田、 宇都宮、大宮各 1 回。但しこれは B-29 による爆撃のみであって硫黄島からの米陸軍戦 闘機や遊弋する米英海軍の空母艦載機による機銃掃射や小型爆弾による攻撃は含まれ ていない。 なお昭和 20 年 7 月 12 日の B-29 による宇都宮空襲では中島飛行機工場は被弾せず市

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5 街地に投弾された。が、別な日に幾度も戦闘機等の機銃掃射や小型爆弾の攻撃を受け 43 名が亡くなっている。 宇都宮空襲は 115 機の B-29 が襲い市街地の約6割 9,173 戸焼失、死者 620 名、負傷 者 1,128 名。当初の爆撃目標は中島飛行機だった。米陸軍第 20 爆撃兵団の目標地図で は本工場食堂の北東角の十字路が爆撃目標地点としてマークされている。 B-29 の爆撃記録を見ると如何に発動機工場が狙われたか判ると思う。米軍の目標は合 理的で「機体が完成してもエンジンがなければ飛べない」ということで発動機工場を徹 底的に爆撃しエンジンの供給を断つ。欧州に於ける対独爆撃も同じ思想で航空機工場を 爆撃したのは勿論だが、特にボールベアリング工場を集中的に爆撃したことは有名。 同じような思想は日米海軍にも言え日本海軍が戦艦対戦艦の主砲による砲撃戦を決 戦と考えていたのに対し米海軍は潜水艦による日本の輸送船攻撃に力を置いた、それに より日本軍は物資の供給を絶たれジワジワとボデイブローのように国力が疲弊してい ったのである。 保存機:米陸軍でテストされた機体はその後航空機収集家のマロニー氏が保有し昭和 48(1973)年に日本に還ってきた。入間基地から宇都宮基地まで飛行して来た。 基地祭で展示され地上滑走と称し飛び上がったこともある。しばらく南工場に野ざら しで置いてあったが持ち主の後閑氏の事情により京都嵐山美術館に移送された。このと き搬送のためズダズダに切断され飛行できなくなってしまった。 さらに鹿児島の知覧特攻平和会館へ移され現在はキ-43 隼とともに翼を休めている。 参考文献 秀峰「創立 20 周年記念号」 富士重工業 昭和 48 年 7 月 戦闘機「疾風」碇 義朗著 廣済堂 昭和 52 年 6 月 丸メカニック 「疾風」潮書房 昭和 53 年 1 月 飛翔の詩 宇都宮中島会 平成 1 年 10 月 世界の傑作機 陸軍4式戦闘機「疾風」文林堂 平成 1 年 11 月 決戦機「疾風」航空技術の戦い 碇 義朗著 光人社 NF 文庫 平成 8 年 5 月 うつのみやの空襲 宇都宮市教育委員会 平成 13 年 3 月 「特攻」伝説 原 勝洋著 KKベストセラーズ 平成 18 年 11 月 そのほか、太平洋戦争「日本陸軍機」酣燈社はじめ膨大な文献があるが単行本は少な い。航空雑誌の月刊や増刊号で案内されているものが多い。 なお、文献に限らずインターネットでもかなりの情報が得られるが、インターネット には正確なものと、いい加減なものや悪ふざけのものが同居しているので注意したほう が良い。内容を信頼するかどうかの取捨選択は閲覧者の知識にかかっている。 インターネット百科事典の Wikipedia は「情報の出所を表記しないアップロードは信 用できない」旨を記述してある。

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